天地創造、それは主の愛のみわざ

聖書箇所;創世記1:1~31 メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ 私たちの教会は創立以来、創造主の御手によりこの天地万物が形づくられたという、その事実をとても大事にしてきました。その事実を堂々と宣言するもの、それは聖書のみことばです。私たちは聖書のみことばから、神さまについて、この世界について、そして私たち人間について、何を学ぶことができますでしょうか。 今日の本文はおそらく、これまで50年以上にわたる当教会の歴史において、おそらく相当な回数、日曜礼拝の聖書本文になったことと思います。しかし私はといえば、この教会に赴任して5年になりますが、このように日曜礼拝において創世記を1章から学ぶのは、はじめてのことです。 私はこの教会の伝統にしたがって、といいますよりも私が生涯信じ受け入れてきた神学の立場にしたがって、創造の事実を大切にいたしますが、私自身は創造科学の学者ではありません。聖書、特に創世記を創造科学の観点から観察するのは専門の先生方にお任せして、私はみなさまのことを、みことばによって整える働きが委ねられた牧師としての立場から、創造という事実を基礎に、この創世記をはじめからみなさまとともに学んでまいりたいと思います。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべてを創造されたお方だということです。 聖書は、始まりからすごいことが書いてあります。「はじめに神が天と地を創造された」。この世界は偶然にできたとか、進化してできたとか、そんなことはどこにも書いてありません。天と地、水、光、大空、地、海、植物、天体、海洋生物、水生動物、鳥類、家畜、小動物、哺乳類……これらが日を追うごとに、そう、神さまの手によって創造されたわけです。そしてその創造のわざの完成として、人が、男と女が創造されました。 神さまが万物を創造されたということは、何を意味しているのでしょうか? それは、神さまがこの天地万物の主権者であられるということです。 私たちが神さまの御前で被造物であるという事実が突きつけられるとき、私たちの取る道は2つに1つです。謙遜に創造主を認める道と、創造主を認めずに自分勝手に振る舞う道です。 人がもし創造主を認めるならば、その人は謙遜な歩みをすることになります。あらゆる無駄な浪費を慎むことになるでしょう。なぜならばこの世界にあふれるものは、全能なる神さまが持っておられるものであり、人間はそれらの資源を一時的に預けられ、管理する存在にすぎないからです。また、神さまの前にへりくだり、神さまがお定めになった秩序の中で身を低くして生きていくことを選ぶようになるでしょう。しかし、そうではなくて、創造主を認めないならば、その人の歩みはとても驕ったものになります。聖書のみことば、創造主がおられ、その創造主が天地万物をお造りになったと語ることは、そのようなあらゆる罪人に対する大いなる戒めとなります。 全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 この夏、教会学校は、岩手県のキャンプ場、シオン錦秋湖に行ってまいりました。そこで私たちは素晴らしい体験をいたしました。自然の中で遊ぶという経験です。中でも忘れられないのが、星空を観察するという経験です。キャンプ場から数百メートル歩き、なんと、道路の上に一斉に寝そべります。真下から星空を見るわけです。あのようなものを見てしまうと、夜でも煌々と明かりが照らされている住宅街など、なにほどのことがあろうか、ほんとうに、人間は小さいなあ、しかし神さまは何と大きなお方なんだろう、と考えてしまいます。みなさまも機会があれば、ぜひ、晴れ渡る夜空の星たちを眺めていただければと思います。神さまを感じていただく絶好の機会です。 しかし人間はなんと、この世界の主権者である神さまに逆らって生きていることでしょうか。その果てに考え出したものが、進化とか偶然という概念です。これで人間は、万物のあらゆる原理を説明できる気になっています。教育も、マスメディアも、あらゆるものは進化ということを真理また真実として受け入れることが前提となっています。それはしかし、聖書に啓示された創造主、神さまを否定することからすべては始まります。その結果人間はどうなったでしょうか? 自分が何者かということを見失ってしまいました。 ローマ人への手紙1章を読むと、この世界にあふれる被造物を見ると、人は創造主なる神さまを認めざるを得なくなる、しかし、それでも人は、神さまを認めようとしない、その神さまを礼拝する代わりに、被造物や偶像を礼拝するようになった……そのような人間に、神さまは怒りを下され、人がその罪深い性質のまま生きるように放っておかれた……という意味のことが書かれています。この世界はなぜこんなにも、破壊、争い、怒り、憎しみ、淫乱に満ちているのでしょうか? すべては、創造主なる神さまを認めないで、人間がその罪の性質のままに歩むことにあります。 しかし、忘れないでいただきたいことがあります。第二のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべての創造のみわざを「良しと見られた」お方です。創造の記述の、それぞれの締めくくりをご覧ください。「神はそれを良しと見られた」とあります。最後の創造の日、第六日目に至っては、何と書いてありますか?「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」すべての創造のみわざは、神さまの御目から見て、完全だったのです。 完全な世界。神さまがお喜びになっておられる世界。どれほどのものでしょうか。私たちもこの世界を生きていて、そこかしこに創造主なる神さまのみわざを見ることができます。それがどれほど緻密で、すばらしいものであるか。私たち人間も素晴らしい叡智を働かせてあらゆるものをつくり出しますが、究極的なことを言ってしまうと、所詮それは、神さまのみわざの真似をしているだけです。いわんや大自然に目を留めるならば、そのようなわざは逆立ちしても人間にできないことを、ただ認めるだけです。 このみことばはまた、神さまがお認めになることとは、ことごとく、神さまが「良しと見られる」ことであることであるとわかります。神さまは正義をもってこの世界を統べ治めるお方です。というより、神さまがすべての基準なのですから、神さまが良しと見られないことは、すべてが不義、義ではないことと言うほかありません。 だから、私たち人間が生きる基準は、この世界の創造主であり、また持ち主である神さまが「良しと見られる」ことであります。私たちはこの基準を、神さまのみことばである、聖書から知ることができます。この聖書が、「はじめに神が天と地を創造された」と冒頭に記しているとおり、創造主なる神さまを認めるところから、神さまが「良しと見られる」ふさわしい生き方を始めることができるわけです。それこそ聖書が、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と語るとおりです。若いときから神さまの「良しと見られる」歩みをしていくことができるならば、その人はどれほど神さまに用いられ、また、喜びに満ちた生涯を送ることができるでしょうか! 罪ということばの原語が「ハマルティア」といって、それが「的はずれ」という意味だということは、お聞きになった方も多いと思います。神さまが「良しと見られる」正しい基準を守り行わなければならなかったのに、それを守り行わない、つまり「良しと見られる」基準の的から外れている、これが「罪」です。 法律に反すること、それもたしかに「罪」です。盗みとか、殺人とか。しかし、この場合の「罪」は、神さまが「良しと見られる」基準から外れた、その結果ともいうべきもので、やはりほんとうに問題にすべきは、神さまが「良しと見られる」、そのみこころから外れて生きようとすることです。 神さまが「良しと見られる」かどうかなど、まるで関係ない生き方をする、それもやはり罪です。創造主が「良しと見られている」この世界のあらゆる環境から搾取し、環境を破壊する、そういうことができてしまうのは、神さまのこの「良しと見られた」という視点が、人間から決定的に欠けているためということができるでしょう。しかし神さまは、最後に創造された被造物、人間に対し、どのようなみこころを持っていらっしゃいますでしょうか。 第三のポイントです。私たちの信じる神さまは、最高の被造物として人間を愛してくださるお方です。 第一日目から第六日目までの創造のわざ、その最後に、神さまは人間を創造されました。人間は最高の被造物です。人間だけが、神さまとの交わり、コミュニケーションを持てる存在として創造されました。 すると、それまでの第一日目から第六日目までのあらゆる創造のわざは、何のために行われたのでしょうか? それは、人間が住むのに最高の環境が整えられるためでした。 この整えられた環境の中で、人は創造主なる神さまを喜び、神さまの栄光を現すのです。では、人はどのようにして神さまの栄光を現すのでしょうか? その答えは、28節に書かれているとおりです。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 地上のあらゆるものを従え、支配する。神さまはその役割をわれわれ人間にお与えになりました。これは、人間が環境を勝手気ままに用いていいということではありません。神さまのみこころがこの地上に行われるように、管理するのです。そのために、生めよ、増えよ、と、神さまは人間に命じられました。まことに、人がこの地に増え広がるのは、大きな祝福のしるしです。みなさん、赤ちゃんが生まれるということは、とてもうれしいことですよね? そうです、それは生めよ、増えよという、主のみこころがまたひとつ実現し、神さまのご栄光がこの地に現れたためです。 愛しているから用いたい! 愛しているからわたしのつくった完全なこの世界に広がってほしい! これが私たち人間に対する、神さまのみこころです。私たちがこの神さまのみこころに忠実に生きるとき、神さまはそのような私たちのことを「良しと見られる」のです。 しかし人間は、神さまが「良しと見られる」歩みをしない道を選びました。それが最初の人、アダムとエバから始まり、すべての人は罪を犯したので、神さまからの栄誉を受けることができない状態となりました。そう、神さまは、このように神さまを認めない歩みをするようになった人間の罪を「良しと見られる」ことはとてもおできにならず、罪をおさばきになるしかありません。 それでも私たち人間は最高の被造物です。神さまが愛してやまない存在です。なによりも「良しと見られる」最高の存在です。神さまはそんな愛する存在をさばきたくはありません。 それで神さまがお選びになった道は、自分勝手な道を歩んでご自身から離れた人間の罪を赦す、究極の「良しと見られる」ことです。イザヤ書53章、4節から11節をお読みします。 これは、十字架の上で死なれた、神の御子イエス・キリストを預言したみことばです。イエスさまはなぜ十字架で死なれたのでしょうか? それは、私たちを神のさばきから救うという、神さまのみこころを成し遂げるためでした。11節のみことばをご覧ください。「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する」……そう、満足する、とあります。御父と御子が切り離されるという、このあまりにも激しく苦しいみわざは、神さまがご覧になって「良しと見られた」ことだったのです。このイエスさまの十字架によって罪が赦されたと信じるならば、人は神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。そう、十字架こそ、究極の「良しと見られた」ことです。神さまはそれほど、私たち人間のことを愛してくださったのです。 私たちが生きている世界は、あらゆる罪がはびこっています。環境も破壊されています。私たちはそのような世界を生きることに、時に大きな苦しみを覚えます。しかし神さまは、それでもこのあらゆる被造物を「良しと見ておられる」のです。なぜでしょうか? 最高の被造物、最高の「良しと見ておられる」存在である私たちが、現実に生きている世界だからです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。私たちは愛されています。イエスさまを信じる信仰によって罪赦された私たちの生きるこの世界、そしてこの世界に住む人々を、神さまは愛してくださっています。 私たちは何をすべきでしょうか? この世界に、生めよ、増えよ、地を満たせ……主のみこころ、良しと見られることを守り行う、そのわざを広めることで、この地を主の栄光に満たすことです。私たちクリスチャンは、そして私たち教会は、そのために存在します。 私たちは、主の主権を思いましょう。そして、この主権者なる主が、私たちのことを「良しと見られた」、愛しておられる、喜んでおられることをしっかり心に留め、主に用いられる歩みに踏み出してまいりましょう。