従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように

聖書箇所;エペソ人への手紙6:5~9 メッセージ題目;従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように    本日のメッセージのタイトルは、「従順と支配の相似形」とつけさせていただきました。  「従順」というと、韓国から日本に来られる宣教師の方が好んでお用いになることばです。この「従順」ということばは、「従順な」という表現があるように、形容詞ですが、韓国の先生は、「従順する」と、動詞形で表現される方が多くいらっしゃいます。それはもちろん、神さまに対する従順であるわけですが、時にそれは、神さまが立てた権威ということで、牧会者のようなリーダーに対する絶対服従という意味合いが込められたりします。  「支配」はどうでしょうか? ワーシップソングに、「われらは歌う あなたの偉大なみわざを 天はその御手の中 治められて 支配されています」という歌詞の歌があります。しかし、この「支配」ということばの持つイメージは、プロ野球の「支配下選手登録」だったり、ホテルの「支配人」だったり、上から絶対的な権威を行使する存在という感じではないでしょうか。 私などは、この「従順」ですとか、「支配」ということばを聞いたり、口にしたりすると、何といいますか、居心地の悪さを感じてしまいます。「いいか、黒いカラスでも、私が白といったら白だ!」というような、不条理な従順と支配、といったようなものです。それは私が、不幸にも、この教会に導かれるまでの道のりで、あまり健全ではない主従関係を体験したことが、いまに至るまで人生に若干暗い影を落としているせいかもしれません。  もしかするとみなさんは、そこまでの不幸な体験をせず、つねに健全な人間関係の中で、従順と支配というものを体験してこられたかもしれません。しかし、そのようなみなさんにも、今日の本文から考えていただきたいのです。私たちは、神さまがこの地上に住む人間にとって、上に立たれるお方であることを認めるとき、どうしてもこの地上における従順と支配というものの相似形としての、自分と神さまとの関係ということを考えずにはいられないはずです。 私もまた、以前体験した不幸な主従関係は、神さまと自分との健全であるべき関係にも、確実に暗い影を落としたと思います。それゆえに、神さまとの交わりの中で時間をかけて、この暗い影が取り払われるように、解決へと歩みを進めていきました。そのようにして、どこまでも健全な主従関係である神さまと自分との関係から、この世におけるあらゆる主従関係というものをとらえ直す知恵を得ることができるようになりました。  そこで、今日の本文です。奴隷という存在が当たり前のようにあった時代において、パウロが勧めをしたことにはどのような意味があったか、ともに見ていくことによって、私たちを支配していらっしゃる主に従順に従うことについて学びたいと思います。 まず、奴隷と主人という関係は、クリスチャンと神さまの関係の相似形と言えます。と言いますのも、この「主人」ということばは、原語では「キュリオス」といって、まさしく、神さまを意味する「主」を意味することばです。5節のみことばを読んでみますと、「キリストに従うように」「地上の主人に従いなさい」と命じられていますが、この「地上の主人」とは、原語においては「肉による」主人です。まさしく、肉体を取られてこの世に来られた主イエスさまを彷彿とさせます。このように、神さまを主とするクリスチャンは、地上の主人のもとにある奴隷と相似形を成していると言えます。 そこで、奴隷という存在について考えてみましょう。 同じ箇所の6節には、「キリストのしもべ」と出てきます。しかし、「奴隷」と「しもべ」は、見てみるとちょっとニュアンスが異なりますが、原語では同じ「ドゥーロス」です。「奴隷」も「しもべ」も、まったく同じです。そこで、主人に従う奴隷の立場を考えることで、私たちにとっての従順のあり方を深めることができると信じます。 もともと、主の民にイスラエルにおいては、奴隷というものに対する扱いが、他の民族に比べて際立っていました。みことばを読んでみればわかりますが、奴隷というものの人権をきわめて大事にしていたことがわかります。出エジプト記21章、1節から6節をお読みください。…… イスラエルはもともと、人間的な隷属状態で激しい苦しみの中にありました。主はそれを憐れんで、彼らをその奴隷状態から救い出してくださいました。エジプトにそのような目に遭わされた彼らは、こうして主に救っていただいた以上、またとそのような非人権的な扱いを人にしないようにと、主に導かれたのでした。 そのような背景で、このような奴隷に対して手厚い制度が定められたわけですが、生涯隷属させるわけでもない、だからといって一定期間が来たら放り出してあとは知らん顔、ということでもない、そのような中で、7年目になって年季が明けるときに、主人を気に入って、主人に生涯仕えることを選べるように定められたわけです。このようにして、主人に仕えることを選ぶことは、主の主権の中で与えられた自由意志において主にお従いすることを選ぶ、クリスチャンの歩みに似たものがあります。 そういうわけで、奴隷という、かぎりなく弱い立場の存在に寄り添うということは、律法の精神であり、みことばの精神です。 この精神は、新約聖書に入り、イスラエルの共同体の枠を超えた宣教地にて教会が形成されていく際にも発揮されていくことになります。今日の箇所のエペソ6章もその文脈で理解できます。 それだけではありません。ピレモンへの手紙は、オネシモという奴隷が主人ピレモンのもとから逃亡したのちに、獄中のパウロの教えを受けて回心し、やはり信仰者として応分の成長を遂げたピレモンのもとに送り返されるという内容ですが、この中でパウロはピレモンとオネシモの関係について、このような表現を用いています。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟……」 「あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか」 そうです。主にあるということならば、人間関係は主従関係で終わるのではありません。主にあって兄弟という、新たな関係に入るのです。 主人も奴隷も兄弟。これはとてもすばらしいことです。というよりも、主がそのように人をお造りになった以上、これは受け入れるべき真理です。しかし、これは権力者にとっては、恐るべき危険思想に映るものです。小中学生の時、秀吉の時代に日本がキリスト教を受け入れなかった理由は、まさにこの平等思想にあったと教えられました。しかしそれを危険思想どころか、進んで受け入れる主人があるならば、そこから社会は改革されていくはずです。近年とみに「ブラック企業」というものがクローズアップされていますが、マネジメントをする人たちにみことばの教えが伝わり、多くの苦しんでいる人たちが解放されるように願ってやみません。 しかし、兄弟だからといって、それなら奴隷が主人を兄弟扱いしてもいい、ということではないわけです。テモテへの手紙第一、6章1節と2節をお読みください。 兄弟という関係は、主にあって確かめるべき立場です。しかしそれ以前に、私たちはこの地上に生かされているものであることを忘れてはなりません。この地上に一定の上下関係という秩序の中で生かされているゆえに、むしろますます、勤勉になり、ああ、さすがクリスチャンだ、すばらしい働きをしているではないか、と、人々の称賛を得られるようにする責任があります。 私にとっても、クリスチャンの「上司」と呼ぶべき存在はいました。この教会にやって来てから2年半の間は、宇佐神先生がそうでしたし、それ以前にもいろいろな教会で、主任牧師、また、さらに下積みのときには、副教職者に仕えてまいりました。 しかし、その先生方のことを、もし「兄弟」などと思って軽く見たならば、私は何一つ学ぶことはできなかったはずです。組織の秩序もあったものではなく、ただ生意気な存在として遠ざけられ、周りのクリスチャンにも、証しにも何にもならなかったはずです。上下関係をきちんとさせることは、主を証しする生活において、とても大事なことです。 さて、エペソ書に戻りましょう。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。すばらしいことばです。私たちはどれほど、キリストを恐れ尊んで従っているでしょうか? この世の権威に従順になることは、日々の交わりの中で形作られるキリストへの従順の度合いに比例すると言えます。 6節のみことばを見てみましょう。「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく……」このように警告されているということは、主が人の心の中をご覧になる、ということを意味します。 普通に考えるならば、奴隷にとっての労働の目的は、主人の気持ちを満足させることであったとしてもいいはずです。実際、気まぐれな主人というものはいるもので、かわいそうに、その主人の顔色に左右されながら仕えざるを得なかった労働者は、古今東西どこにでもいたことでしょう。 もちろん、形さえこなしていれば、あるいは主人は満足してくれるかもしれません。それで充分かもしれません。しかし、みことばが主にある奴隷に求めている労働の態度は、それをはるかに上回るものです。心の中でどう考えているか、これが大事です。 表面的に取り繕いさえすればそれでいい、それは、ほんとうの意味では、主の栄光を現していることにはなりません。神に従っているのではなく、人に従っていることにすぎなくなります。神の御顔を見ているのではなく、人の顔色を見ているのにすぎません。 私たちの信仰生活も、これと同じことが言えます。私はDコースを始めて、ディボーション、聖書通読を毎日したか、また、お祈りを一日どれくらいしたかということをチェックするシートをメンバーに渡していますが、それは、ある人はできた、ある人はできなかった、ということを比較してもらうためではありません。それをしてしまうと、神さまとの関係で成長すべきなのに、人を意識してしまうことになるからです。弟子訓練牧会の落とし穴はいろいろありますが、最大の落とし穴といえるものは、神さまにある訓練が、いつの間にか、人を意識した訓練に取って代わられる危険と隣り合わせ、ということです。 いえ、これは弟子訓練にかぎりません。およそ人のいるところでは、神さまよりも兄弟姉妹を意識した教会生活を送りがちなのは、みな注意しなければなりません。もちろん、よい信仰生活を送る兄弟姉妹はモデルにはなりえますが、その兄弟姉妹に認めてもらおうとして信仰を成長させるわけではありません。いわんや、教会の中で、あの人は素晴らしい信仰者だという噂を立ててもらおうと、人を意識した教会生活を送ることなどは論外です。 私たちのあらゆる信仰生活、あらゆる奉仕に打ち込むことは、即、主にお仕えすることという意識を持つことが、どうしても必要です。と申しますより、私たちが日々愛をもって交わりを保っている主に対し、その愛を表現する場は、奉仕の場、労働の場です。心の中でだけ主を愛している、とはならないはずです。ほんとうに愛しているならば、兄弟姉妹と共有する場において、心からの働きを実践してこそ意味があります。 8節のみことばです。……このみことばをお読みすると、よい行いには主からの報いがあることが示されています。私たちは、人からの評価に左右されず、いまもなおよい行いに打ち込んでいらっしゃる方々が多くいらっしゃることでしょう。そのようなみなさんは、人生に何か特別なプラスアルファを期待することよりも、そのようにして主のご栄光を現すことそのもので、主からの祝福、報いを受け取っていらっしゃるわけです。 しかし、間違えてはなりませんが、私たちはよい行いをすることで「救い」をいただくわけではありません。私たちはイエスさまを信じる信仰によって、すでに救われています。救いを受けて天国に行くために、これ以上努力をする必要はありません。しかし、救われたゆえに、救ってくださったお方のために喜んで働きたい、となってしかるべきではないでしょうか? 考えてみてください。神さまがこの天地を創造され、人を創造されたとき、最初の人アダムに与えられたことは、労働でした。その労働は、もちろん祝福でした。労働することそのものが喜びに満ちた祝福であることを、私たちはこの身をもって、この世界に復活させる必要があるはずです。 さて、ここまで学んでくると、今度は「主人」に立てられた人はどうか、という問題になります。9節のみことばをお読みしましょう。 このみことばを見ると、奴隷に対しての主人は、天におられる主、また地上の主人と、2人いて、同時に天におられる主は地上の主人にとっても主である、という構造が見えてきます。 この、地上の主人である者もまた、奴隷同様、エペソ教会を形づくるメンバーであるわけです。したがってクリスチャンです。しかし彼らは、奴隷に対して一定の権限を持つことが認められている存在です。 このような上下関係の、上に立つ者が主にある人の場合、その責任は重くなります。聖書をご覧ください。名もなき奴隷や庶民のことがクローズアップされる箇所に比べ、王や教会指導者のようなリーダーがクローズアップされる箇所のほうが、それこそけた違いに多くあります。そう考えると、聖書はリーダーの物語といえます。 では、なぜこれほどリーダーの物語が聖書に登場するのでしょうか? それは、アダム以来、「地を従えよ」と神さまから命じられている私たち主の民が、それこそ「地を従える」リーダーとしてふさわしく振る舞うべく、時にモデル、時に反面教師として、神さまが聖書を通して、それぞれの時代のリーダーを提示しておられるからと考えられます。 そういう前提で聖書を読むと、この箇所その他に登場する「奴隷」もまた、「地を従える」リーダーと読み取れなくもないのですが、それはともかくとして、「主人」は、この地上において主の権威と支配を「代行」する立場として、私たちにとっての主にあるリーダーシップを確認する上で、とても大事なモデルです。 「脅すことはやめなさい」とあります。このところ、芸能事務所の社長が、その看板タレントを、仲間たちの解雇を盾に脅したことが話題になりましたが、あれが批判されるのはもちろん、パワハラという、非人道的な支配を行うことだからです。パワハラとは「パワー・ハラスメント」で、上下関係、力関係を用いた嫌がらせ、という意味です。あのタレントはそれこそ、記者会見を開くことで風穴を開けることができましたが、奴隷にはいったい、そのような力などどこにあるというのでしょうか。だから、奴隷が主の民として保障されるためには、主人が主を恐れることが、どうしても前提として必要になります。 主にあるリーダーシップを行使することは、その組織を維持させるうえで、時には必要になります。それもなくだらしなく振る舞うならば、組織がどうやってふさわしく運営できるというのでしょうか。しかし、だからといって、人間的な厳しさで組織が保たれるわけではありません。主人もまた、主にあって部下に接する必要があります。それが、自分もまた、主のしもべであるという態度を謙遜に持つ者としてふさわしいことです。 私たちはいろいろな形で上下関係に生かされています。時に私たちはしもべのような立場におかれますし、また主人のような立場におかれます。この上下関係の中で、私たちが人を意識するか、それとも神さまを意識するか、その違いはとても大きいものです。私たちは神さまにある振る舞いを選択してまいりたいものです。 大前提として、私たちは人のしもべである以前に、主のしもべです。だれであれ、主のしもべとして振る舞うことが求められています。主のしもべとして歩むのです。その歩みは、この世界の片隅で苦しむ、奴隷状態にある人たちが解放されていく歩みへとつながります。 その歩みを私たちが一歩一歩進めていくことができるように、そのようにして、私たちがこの地にまことの平和を実現する者として用いられる者となりますように、主の御名によってお祈りいたします。