私たちは主にあって何者なのか

聖書箇所;ヨハネの福音書1章24節~28節 メッセージ題目;私たちは主にあって何者なのか  初対面の人には「自己紹介」というものをする。この「自己紹介」というものについて、妻に指摘されてはじめて気づいたことなのだが、日本では多くの場合、自己紹介をするとき、自分の「趣味」は何か、ということを言う。相手に対して「ご趣味は……?」と尋ねるわけである。妻にそう言われてみれば、私も結構、趣味のことを言ってきたし、逆に、韓国にいたとき、自己紹介の際には自分の趣味がどうのこうのとは言わなかったと思う。そう指摘する妻に対し、私は、そうやってもし趣味が共通していると知ったら、そこから話題を広げて、仲良くなろうとしているのかもしれないね、と言ったが、いまひとつ腑に落ちないようだった。  これは国民性のちがいだろう。私は人生の3分の2ちかくを韓国という国に関わってきたから実感することだが、韓国の人はたしかに、相手が自己紹介をする際、自分の趣味のことを言ったりしたなら、だからなんなの? と思うのだろう。韓国人には、相手の趣味が何かなどと知ろうという発想が、そもそもないわけである。それは韓国人にとって、自分にはどうでもいいインフォメーションに長々とつき合わされることなのだろう。初対面でそれはきつい。しかし、趣味にかぎらず、冗長なインフォメーションを初対面の人に聞かされるのが嫌なのは、日本人にとっても同じこと。いや、だれにとっても同じだろう。  そこで今日の箇所である。先週は23節までのみことばから学んだが、ヨハネは自分のことを「預言者イザヤが言った、主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声」であると語った。これ以上ないほど正確な、そして堂々とした自己紹介である。これは、いらないことを長々と述べる自己紹介とは対極にある。  さて、今日の箇所の、24節、25節のみことば。「彼ら」とはだれであろうか? 新改訳聖書にしたがって文脈を追うと「パリサイ人に遣わされた祭司とレビ人」のことだろうか、と思うだろう。しかし、祭司とは、パリサイ人と別個の存在であるサドカイ人に属する人たちであり、レビ人はそんな祭司の配下にあって宮に仕える者たちである。パリサイ人がサドカイ人を派遣するというこの記述は不自然に見える。この箇所は別の訳によれば、「彼らの中にはパリサイ人がいた」となる。となると、ユダヤの宗教界の既得権を握っていたサドカイ人とパリサイ人が一緒になって、ヨハネのもとにやってきた、ということになる。  先週もお話ししたが、なんといってもパリサイ人とサドカイ人は、そろって、バプテスマを受けに来た群衆の前で、ヨハネに恥をかかされた者たちである。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」ヨハネのもとに、あなたは何者なのか、と尋ねにやってきた者たちが、このとき恥をかかされたのと同じ者たちだったかどうかは聖書は語っていないが、パリサイ人やサドカイ人という宗教的権威が恥ずかしい目にあった、ということは確かである。だから、25節のこの問いは、そのような宗教的権威に歯向かうものを懲らしめるための、ことばじりを捕らえようという試みでもあった。  25節のこの問いは何を意味しているのだろうか? 単にその権威の起源が知りたくて質問したのだろうか? わかったら、ヨハネのバプテスマは天から来たものだと信じ告白するのか? もし、相手がパリサイ人やサドカイ人であろうとかまわず、恥をかかせるような存在がヨハネなのだとしたら、そんなナイーブな理由で質問したのではなかろう。キリストでもない、みことばに預言された働き人でもない分際で、バプテスマなどという大それた行為をするおまえは何者だ、というわけである。  これに対してヨハネは、26節、27節のように答えている。……これもまたヨハネの自己紹介である。しかし、ヨハネは、キリストでもなく、エリヤでもなく、「あの預言者」でもない自分が、なぜバプテスマを授けているのか、ということを、神学的な理由づけなどを用いて説明するようなことはしなかった。そうするよりも、もっと手っ取り早いやりかたがあった。それは、「あなたがたの中にいる、あなたがたの知らない方」に目を留めさせることであった。  人は、イエスさまにさえ目が行けば、そこまで導いた人は消え去ってしまっていい。ヨハネはそんな思いで、自分ではなく、イエスさまに目を留めさせようとした。いみじくもヨハネは言っている。「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」  折しもヨルダン川周辺から大勢の群衆が、ヨハネを神の人と認めてその説教に耳を傾け、罪の赦しを求めてバプテスマを受けに、われもわれもと集まっていたときであった。群衆としては、このヨハネこそがキリストだ、と信じたい思いもあったことだろう。しかしヨハネは、とんでもない、私のあとから来られる方のほうがよほど偉大だ、と主張し、どこまでもイエスさまに目を留めるように仕向けたわけである。  履き物のひもを解く値打ちもない。これはどういうことかというと、当時のユダヤの人々が履いていた履き物は、こんにちの私たちがはいているような「紐靴」のようなものではない。もっと、素足が道の埃に触れるような恰好をしていた。足にフィットするサンダルのようなものである。そういう履き物をひもで固定して外出するわけだが、そのひもを解いて履き物を脱がせることは、師匠であっても弟子にはやらせなかったという。あくまでこの働きは、奴隷の働きである。つまり、私ヨハネはイエスさまの弟子にさえなれない、いや、奴隷にさえなれな存在である、という告白をしていることになる。  イエスさまとはそれほど偉大な存在である。私たちは福音書をお読みするとき、イエスさまというお方が民衆ととても距離が近いことを見るが、本来ならイエスさまはそういうお方ではないのである。イエスさまは神さま、創造主である。私たちは人、被造物である。このことだけでも、バプテスマのヨハネが言っていることは正しい。  それだけに、イエスさまが十字架にかかられる前の最後の夜、弟子たちの足を洗うという、まさしく奴隷の働きをなさったことは、弟子たちにとってどれほど衝撃的なことだったか。いや、十二弟子だけではない。これは全人類にとって衝撃的なことだった。神の奴隷になることすら許されていない人間の、その奴隷としてあえてふるまうことをお選びになった、それがイエスさまのご主権であり、イエスさまのご栄光であったのである。  その、奴隷として振る舞われた究極のお姿、それは、十字架であった。ユダヤの宗教指導者たちはナザレのイエスをキリストだと最後まで認めず、かえって、イエスさまがご自身のことをキリストだと神かけておっしゃった、まさにそのことを死に値する罪だと言い放って、イエスさまのことをただの死刑ではない、あまりに残酷、そして究極の呪われた者とする刑罰、十字架送りにしたのであった。  しかし、主はその人間のどす黒い思惑の上を行っておられた。神を十字架刑に処するなど、神を神としない人間の罪のその最たるものだった。しかし、その十字架によって、あらゆる人間のすべての罪をお赦しになるという、究極のみわざを神は行なってくださった。イエスさまは自ら十字架にかかられることによって、道の埃にまみれた足を洗ってあげるように、あらゆる罪の道を歩むゆえにけがれた私たちのことを、その流された血潮によって洗ってくださった。神の奴隷になる資格すらない私たちのために、それほどのことをしてくださったのである。  そんなイエスさまは遺言のように、弟子たちにおっしゃった。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『主』とか『先生』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」  イエスさまが足を洗ってくださったことは、十字架を象徴することだと申し上げた。だとするとこれは大変なご命令である。わたしがあなたのしもべとして十字架につくように、あなたがたもお互いのしもべとして、十字架につくほどの犠牲を伴う愛を実践しなさい。  私たちはなんとこの姿から遠いことだろう。私たちはイエスさまのこのご命令をお聞きして、どう思うだろうか?「ああ、自分はこれほどまでに人を愛せていない」と、自分のことを激しく責めるだろうか?「いや、こんなレベルの高い愛は実践できないよ」と開き直るだろうか?「こんなことを要求するなんて間違っているよ。だってだれにもできないんだから」と、教えのせいにするだろうか?  その反応は間違っていない。むしろ、そう反応せずに「わかりました! 頑張ります!」と答えるほうがよくない。できもしないことをやってみせようとするのは、人に気に入られようとするパフォーマンス、ポーズに過ぎない。  私たちの目の前に差し出される足が道の埃にまみれているということは、犬の粗相がくっついているかもしれないわけである。足そのものだって、水虫にやられていたらおいそれと触れるものではない。人間のきたなさはそんなものではない。相手に関わって嫌な思いをさせられることは一度や二度ではない。そんなとき、自分の愛のなさを棚に上げて、相手のせいにすることがどんなに多いことだろうか。何のことはない、自分の方こそきたないのである。  足を洗い合うということは、足を洗ってあげるだけではない、足を洗って「もらう」ことによって、はじめて「洗い合う」ことになる。そのためには、自分の足が水虫だろうと脂性だろうと、恥ずかしがらずに、相手の手に委ねる決断が必要である。私たちが「仕え合う」ためには、ときには仕えてもらわなければならないほどの自分の弱さを認め、それを人の前で謙遜に分かち合う姿勢が必要になる。  そのようなことを私たちがするのは、それが神であるイエスさまのご命令であり、ご希望だからである。しかし実際には、私たちは人のきたなさに触れるのは嫌だし、自分のきたなさをさらけ出すのも嫌である。しかし、そんな私たちに、イエスさまは「足を洗い合うべきである」とおっしゃった。それは、私たちのために十字架にかかってくださるほど私たちを愛し、私たちに仕えてくださった、イエスさまに拠り頼めば、できるようにしていただける、ということである。イエスさまが私たちに、不可能と思えることでも命令されるのは、私たちがイエスさまの全能の御手に拠り頼むならば、できるようにしていただけるからである。  この、従順によってイエスさまのみこころをまっとうした最初の人は、バプテスマのヨハネであった。マタイの福音書によれば、イエスさまは神であられるのに、ヨハネからバプテスマをお受けになった。それが正しいことであるからとイエスさまはおっしゃった。ヨハネは、イエスさまがそうおっしゃる以上、イエスさまのおっしゃるとおりにした。それは、イエスさまのおことばに従順にお従いした、ということである。  十二弟子がきたない足をイエスさまに差し出して洗っていただいたのも、それがイエスさまのみこころに従順にお従いすることだからである。イエスさまが「わたしのからだ、わたしの血潮」とおっしゃって渡してくださるパンとぶどう汁を、何と畏れ多い、と思おうとも口にすべきなのは、「取りて食らえ」とイエスさまがおっしゃるからである。  イエスさまの履き物のひもを解くことも畏れ多くてできかねる、あの偉大なバプテスマのヨハネにしてそうだったのならば、いわんや私たちなどはどれほど低い存在なのか。だが、私たちは主にあって何者なのか。そのような低くて低い存在なのに、イエスさまが身代わりになって十字架に死んでくださり、その血潮で私たちのあらゆる罪とけがれを洗い清めてくださったほどの、あまりにも尊い存在である。  イエスさまの履き物のひもを解く値打ちもない。ヨハネのこの自己評価はまったく正しい。しかし、それ以上に真実なのは、そのヨハネにご自身へのバプテスマを授ける権限を持たせてくださった、イエスさまのへりくだりである。同じような私たちは、神の御前でとことんまでへりくだるべきである。しかし同時に見上げるべきは、そのような私たちを高めてくださる、イエスさまの十字架の愛である。  私たちは自分自身を正しく見よう。自分という存在はなぜ小さいのか? それは他人と比べてどこか劣っているからでは決してない。偉大な神さまを前にしているから小さいのである。その意識はだれもが、いつも、どこにおいても持つべきものである。  しかし、私たちが同時に持つべき意識は、私たちは「主にあって」何者なのか、ということである。王の王なるイエスさまが仕えてくださるほどの存在、それが私たちである。私たちは自分が汚れていると思い、落ち込むだろうか? 主はおっしゃる。「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない。」神さまが私たちをイエスさまの血潮できよめてくださった以上、だれが何と言おうとも、私たちはきよいのである。私たちは神のものである。ここから、ともに神のものにしていただいているゆえに、私たちはお互いのことを大事に思い、お互いに対して愛することを実践していこう。

主の道をまっすぐにせよ

聖書箇所;ヨハネの福音書1章19節~23節 メッセージ題目;主の道をまっすぐにせよ  私の好きな詩人に、草野心平という人がいる。富士山に関する詩を多く書いているので「富士山の詩人」と呼ばれたり、もっと変わったところではカエルに関する詩を多く書いているので「蛙の詩人」と呼ばれたりしているが、もちろんそれだけではなく、宇宙的な広がりを持つ壮大な詩、そうかと思うと実に人間臭い詩など、その作品はたまらない魅力にあふれている。しかし彼の作品は、実際にはどれほど広く知られているだろうか。私はたまたま実家の蔵書で詩集を手にしたからファンになっただけで、私のようなマニアでもなければそんなにみんな知っているわけでもないだろう。  しかし、そんな彼には、日本の文学の歴史に残る偉業がある。それは、宮沢賢治の作品を世に送り出した、ということである。宮沢賢治は草野心平の創刊した詩の同人誌『銅鑼』の同人で、心平は賢治がいかに天才だったかということをだれよりもよく知る立場にあった。しかし、賢治は世に広くデビューする前に亡くなった。心平は、このまま賢治の作品が埋もれてはなるまいと、作品が世に知られるように奔走し、そしてついに陽の目を見た。それから先、賢治の作品は心平が一生かかって残した諸作品とは比べ物にならないほど有名になった。心平は賢治が亡くなってから60年ちかく作品をつくりつづけたが、賢治より有名になることはついになかった。しかし、心平はそれで満足だったはずである。  賢治を世に送り出すために努力した心平……この話を知ったのは、私がまだクリスチャンになる前のことだったが、のちに教会に通うようになり、聖書を読んでいるうちに、バプテスマのヨハネがイエスさまを知ってほしいと努力する姿は、まるで心平が賢治を世にデビューさせることに努力したようだと思ったものだった。  バプテスマのヨハネ……けっして異端ではないが、らくだの毛衣をまとって荒野に住むような、異形の人。彼はしかし、自分に注目する者たちの目を、イエスさまへと向けさせた。草野心平はたとえ宮沢賢治のデビューに関わっていなくても充分すばらしい詩人だが、ヨハネはそれとちがい、ヨハネの人生が魅力的だったとするならば、それはただひとつ、イエスさまへと人々を向けさせたからであった。  ユダヤの宗教指導者たちは、祭司やレビ人をヨハネのもとに差し向けた。彼らはヨハネに、「あなたはどなたですか」と尋ねた。その質問に対し、ヨハネは「私はキリストではありません」と答えている。ヨハネのこの答えから、彼ら宗教指導者層の質問の意図を読み取ることができる。彼らはヨハネから、「私はキリストである」という回答を引き出し、その言質を取って、ヨハネのことを、神を冒瀆したという罪名でこの社会から葬り去ろうという意図があったようである。何といっても、彼ら宗教指導者は、群衆の見ている前で、ヨハネに「まむしのすえども」と罵倒され、大恥をかかされている。そんな宗教指導者たちはヨハネのことを、自分たちの既得権を脅かす者としてマークしていたようである。  実際民衆は、ヨハネのことを、もしかしたらキリストかもしれないと思いはじめていた。宗教指導者たちにしてみれば、自分たちが独占すべき霊的既得権をすべてヨハネに持っていかれるようで、危機感を覚えるしかなかった。そんなヨハネを罠にかけるには、彼自身に、自分はキリストであると告白させるのが最もよい方法だった。そうすることで彼のことを、神への冒涜だ、と責めることができる。彼らはのちに、イエスさまを十字架にかけるときにも同じ方法を用いた。  しかし、ヨハネの答えはあっけなかった。「私はキリストではありません」。だれが何と言おうと、自分はキリストではない以上、キリストだと名乗ることはありえない。ただそれだけのことである。  しかし、宗教指導者たちの質問はそれで終わらなかった。「それでは、あなたは何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネはこの質問にも「違います」と答えた。  エリヤは、普通の人が死んで墓に葬られるようにしてこの世を去ったわけではない。列王記第二の2章をお読みになればお分かりのとおり、エリヤは神の時に、天から召されて、竜巻に乗って生きたまま肉体ごと天に引き上げられたのであった。そのエリヤがこの地に再来することは、マラキ書の4章にも予告されていて、その予告どおり、あのとき天に引き上げられたエリヤが再び地上に降りてきたのか、ということである。しかし、ヨハネはエリサベツという女性から生まれたのであり、天から降りてきて地上にいるわけではない。だから、「違います」なのである。  ただし、エリヤがこの地に来てすべてを立て直す、ということが、ヨハネが来ることによって実現した、ということは、イエスさまご自身がお認めになっている。イエスさまがヨハネをエリヤだとおっしゃっている、ということである。しかし、ヨハネの告白はイエスさまのおことばと矛盾していると見なすべきではない。ヨハネは主イエスさまがそうおっしゃる以上、エリヤである。しかし、ヨハネ自身は、われこそは再臨のエリヤであると振る舞うべきではない、なぜなら、それこそイエスさまがおっしゃるとおり、「女から生まれた者」としての分際をわきまえるべきだから、と意識していたかと見るべきである。  さて、私はエリヤではない、という答えにも納得しない宗教指導者たちは、「では、あの預言者ですか」と尋ねた。これに対してもヨハネは「違います」と答えている。  あの預言者、というのは、申命記18章15節と18節においてモーセが語る存在を指す。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたはその人に聞き従わなければならない。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」  これは、モーセよりのちの時代にも預言者が起こされることを語ったことばだが、どの時代の預言者も、すべてモーセの語った預言のことばである律法に基礎を置いたものである以上、「私のような一人の預言者」とまで言い切れるわけではない。部分的である。モーセがほんとうの意味で語るとおりのその究極の預言者は、それこそこのことばの預言するとおり、主がお命じになることをすべて民に告げる、みことばの実現そのものの存在である。早い話が、あの預言者とはキリストのことである。その預言者を民は待ち望んでいた。宗教指導者はだから、ヨハネよ、あなたはその究極の預言者なのか、と問うているわけである。  しかしもちろん、ヨハネはそうではなかった。だから、「違います」と答えた。しかし、そうは言っても、ヨハネは主のみことばをあますことなく伝える役割を果たしてはいた。ただ、主ご自身の現れとして語っていなかっただけのことである。ヨハネは最後の最後にイエスさまへと導いたという点で、れっきとした預言者であった。  ヨハネはもちろん、自分が預言者である、すなわち、主のみことばをお預かりして人々に宣べ伝える働きに召されているという自覚を持って働いていた。その働きに誇りやプロ意識を持ってもいただろう。しかしそれでも彼は、ユダヤ人が言うところの「あの預言者」、すなわち、モーセに比肩する究極の預言者、キリストだなどと思い上がっていたわけではない。つまり、ヨハネをヨハネならしめていた神の働きが、彼を支えていたわけではなかったのである。  ヨハネのこの姿勢は、私たちにも適用できる。私たちは神にあって素晴らしい存在である。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43章4節のこのみことばをとおして私たち自身を見つめるとき、私たちは何とセルフイメージが上がることだろう。  しかし、まず忘れてはならないのは、私たちは本来、愛される資格がなかった存在である、ということである。堕落する道、神に背を向ける道を好んで選び、神の怒りがその上にとどまって当然の存在、永遠に呪われて滅ぼされるべき存在だったということである。  私たちがフォーカスを合わせるべきは、そのような者であるにもかかわらず、私たちの受けるべき罰の身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほどに愛してくださる神さまの御名であり、愛されている「私」であってはならないはずである。自分はクリスチャンだからと、ほかの人よりも何かすぐれているように思いこんでふるまったりする、いけ好かない人になってはならない。どこまでも、神さまのお立場から自分を見て、このような者を愛してくださる神さまをほめたたえることを忘れてはならない。  また、私たちは、礼拝をすること、奉仕をすること、そのために遠路はるばる礼拝堂にやってくることがすばらしい一方で、そういうことに労している自分って素晴らしい、などと考えてはならない。ヨハネの人格を支えていたものは、荒野暮らしという奇抜な生活スタイルでも、歯に衣着せぬことばで行う預言の働きでも、バプテスマを大勢の人に授ける働きでもない。主に召され、遣わされているという召命意識が彼を支えていた。私たちもまた、何をしているか、ということを考える前に、神さまは私を何者にしてくださっているか、でとらえるべきである。  ヨハネは何者だろうか? 彼自身が言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ者の声』です。」古代の中東においては、王が道を行くときには、その前に立ちはだかる大きな石をことごとく取り除き、王が通りやすいように道を備えたという。主の道をまっすぐにするとはそういうことであり、人々をしてその働きに献身させる役割をする人の存在は大事になるわけだが、ここでヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫ぶ者です、とは言っていない。あくまで自分は、「声」であると言っている。  うちの子どもの中学校では年に1回、クラス対抗で合唱を競うイベントがある。ほんとうにいろいろな曲が選ばれ、そしてみんな、ほれぼれするような歌声を聴かせてくれる。そんな彼ら中学生の合唱は、彼らの伝えたいメッセージが歌に託されている、とは言えるかもしれない。しかし、歌は100パーセント、彼らのメッセージそのものである、とはいえない。なぜならば、それらの歌は彼らが作詞作曲した、オリジナルの作品ではないからである。だれかがつくった有名な歌を歌うわけで、その歌を歌うことで、歌のすばらしさが一層輝く仕掛けとなっている。この中学生たちに選ばれて、一生懸命歌われるほど素晴らしい作品なんだなあ! と。そして言うまでもなく。合唱というものは、30人なら30人、一人一人の表情や服装にくまなく目を配って感動する芸術ではない。あくまで、聴かせてくれる歌に感動する芸術である。  ヨハネも、神さまのみことばを伝える「声」に徹した。神さまのみこころと関係のない、自分の個性や主義主張を出すようなことはしなかった。しかしそれは、個性を特有の人格を殺さなければ神の働きをしたことにはならない、ということでは決してない。神さまはヨハネに、荒野での生活、らくだの毛衣という服装、いなごと野蜜という食べ物、そんな衣食住という、独特すぎるほどの個性をお与えになり、そのライフスタイルが大勢の人々を惹きつけ、結果として彼らがイエスさまを見られるようになったという側面も確かにある。  私たちも生き方をとおして、神さまのみことばを表現する「声」の役割を果たす。その「声」は何を語るのだろうか。ヨハネはいろいろなことを語り、奇抜なライフスタイルで通し、バプテスマを大勢の人に授けたが、その生活全体が一貫して語っていたことは「主の道をまっすぐにせよ」であった。イエスさまはヨハネの予告どおり人々の前に来られたが、十字架のみわざを成し遂げられ、復活し、天に昇られ、いま天にて父なる神の右の座におられる。私たちは、いまは天におられるイエスさまが、やがてこの地に再び来られ、すべてを統べ治められることを信じ告白している。  いまこの世界は、イエスさまが来られて2000年が経つ今もなお、イエスさまを認めない。この地はなお、罪と暴虐と淫乱と破壊に満ちている。この地は再びイエスさまを迎えるには、あまりにも荒れ果てていて、人の心は冷たく冷え切ってしまっている。神さまはそのような世界にあって、私たちのことを救い、ご自身の民にしてくださったが、それはなぜなのだろうか。  私たちが忘れてはならないのは、私たちとは、この地において「主の道をまっすぐにせよ」と、そのことばと行い、いや、存在のすべてをもってこの地のすべての人に呼びかける「声」とされている者である、ということである。人々の前で神さまのすばらしさを顕す、すなわち神を愛し、隣人を愛するのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。だから、そのことばと行いに必要な知恵と導きを毎日みことばからいただき、祈って御霊の力に満たされるのも「主の道をまっすぐにせよ」のため。すべては「主の道をまっすぐにせよ」、このご命令に私たちがまず従い、このご命令を人々に、ことばと行い、自分の全存在をもって語り伝える、それが私たちなのである。 <祈りの課題> ・私たちは、主の道をまっすぐにしているか? 足りない部分が示されたら悔い改めよう。 ・私たちは、人々が「主の道をまっすぐにする」働きに用いられるために、何をどう祈るべきか? 示していただき、示していただいたら、それに取り組むための力が与えられるように、祈ろう。

恵みの上に恵み

聖書本文;ヨハネの福音書1章9節~18節 メッセージ題目;恵みの上に恵み  最近よく使われることばに「伏線回収」というものがある。小説なりドラマなり、ストーリーのあちこちに伏線となるできごとがちりばめられていて、物語の最後になると、その伏線すべてに意味があったことが判明する。これを「伏線回収」というわけで、そういう、ストーリーの妙味を楽しむ物語のあらすじを、物語をまだ知らないけれども興味や関心を持とうとしている人の前でべらべらしゃべったりする行為は、「ネタバレ」と呼ばれて、とんだマナー違反となる。  牧師の千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていたことだが、聖書を一つの推理小説に見立てると、新約聖書は「解決編」にあたり、「旧約聖書」はその「解決編」に向かう伏線ということができる、と。だから、新約聖書だけを読んでいるようでは、ほんとうに聖書を読んだことにはならない、と。いかにも、旧約学をライフワークとされ、そしてとてもユーモアに富んでおられた千代崎先生ならではのおことばだが、しかし、旧約聖書を充分に読んだうえで新約聖書に行くというのは、ユダヤ人でもないかぎり普通はありえないことである。だいいち、何の予備知識もない中でいきなり最初からずっと聖書を通読するのは難しすぎるし、そのプロセスで旧約の「伏線回収」として新約を味わうなんてことは、まず無理であろう。  だから、どうしたって、聖書を読むとなったら、まず新約聖書に書かれているイエスさまとその福音を充分に学ぶことが先になるし、それから旧約聖書を、イエスさまを鍵に読み解いていくしかない。あんなことをおっしゃった千代崎先生だって、間違いなく、最初はその読み方で聖書をお読みになったはずである。ともかく、新約を鍵に旧約を読んだ結果、その結果、ああ、新約聖書とは旧約聖書の伏線回収なのだなあ! と、しみじみするわけである。  実は、今年に入ってから連続して学んでいる、ヨハネの福音書を読むときにも、読みながらの謎解きではなく、先に答えを知ったうえで、あとになってからこんな謎が書かれていたのか、と気づくような読み方をしないと、とても難しい。いきなり、初めにことばがあった、とあるみことばを解き明かすには、どうしたって、もっとあとにある、そのことばがイエスさまであることを示す箇所をもとに語るしかない。ここまでしばらくの間、そういう前提でヨハネの福音書を読み進めてきたが、今日はついに、イエスさまのことを明らかにするみことばまでやって来た。  では、早速本文にまいりたい。すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた、とある。私たちはこのみことばをお読みして、どう思うだろうか? ああ、ついにまことの光が世を照らすのか、希望がやって来た。これでもう、暗闇に沈むことはない。苦しむことはない。そのように喜ぶだろうか。私たちならば、喜ぶのが普通だと思うだろう。  この光はこの世界をおつくりになり、この世界を所有しておられる、まことの神さま、王の王、主の主である。それなら、人はこの光とはどなたであるのか、わかっていてしかるべきであった。だが、その光によって照らされるべき「すべての人」の住む「この世」は、まず、この「まことの光」を知らなかった。知らなかったのはなぜであろうか? 光であられる神さまについて、正しく教えられていなかったからである。教えるべき人が、教えることをしなかったということである。  本来ならば、この「まことの光」を正しく指し示す役割は、神のみことばをだれよりも学んでいる、宗教指導者たちが担うべきであった。だが、彼らはその役割を果たさなかった。それはなぜであろうか? 彼らからして、自分たちが学んでいるはずのみことばが何を意味しているか、理解できなかったからである。これでは民に正しく教えることができないのは当然である。  それなら、祭司であれ、レビびとであれ、律法学者であれ、この宗教指導者たちは、まことの光が来れば、ああ、この方こそ、神さまだ、キリストだ、これまでわからなかったみことばがほんとうに成就したご存在そのものだ、と、有難く受け入れることをしたのだろうか? 本来ならばそうしてこそしかるべきであった。しかし、彼らは受け入れることをしなかったのである。それは彼ら宗教指導者たちが、自分たちが導く世界が、光に照らされることのない、暗闇のままであってほしい、と願った、ということである。要するに、まことの光に照らされたくなかったのである。  現在、どこかのテレビ局が、闇に葬っていたできごとが明るみに出たということで、そういうテレビ局の放送でコマーシャルを流せないと判断した企業が、次から次へと撤退するという、前代未聞のできごとが起こっている。あの一連のできごとが事実であるという前提で言うが、テレビ局の幹部役員としては、このまま暗闇が続いていてくれたらとどんなに願ったことだろうか。しかし、それが明るみに出ているのは、正義をもって歩む人たちが光に照らし、明るみに出しているからである。  もっと深刻な話をすれば、お隣の国韓国が今たいへんな状況になっていることは、ニュースでもご存じのとおりだろう。先週の礼拝後の報告をお聞きになったように、妻は目下、韓国の動向にくぎづけになっているが、日本人の聖徒のみなさまにおかれては、日本宣教の献身者がなぜ自分の国のことばかり? などとおっしゃらないで、どうかご理解いただきたい。かつて私は韓国にいたときにちょうど東日本大震災が起こり、韓国にいながらにして日本のことが気が気でなかったという体験をしているので、いるべき国にいながら祖国を思う妻のその思いは、痛いほどわかる。また、私にとっても韓国は、人生の3分の2以上の長きにわたって関わってきた国であるから、現在韓国で起きていることは、とても他人事とは思えない。  ともかく、妻はいま、韓国に関して、日本で報道されているのとは比較にならないほど多くの情報を集めているが、現在韓国で起こっている混乱のその背後には、ざっくり話すと、いま国会の多数を占めている野党議員たちは実はかなり大掛かりな不正選挙により選ばれている、だが、その証拠はたくさん挙がっている、それを明るみに出さないとこの国は終わってしまう、という、必死の闘争がいま国民全体に燎原の火のごとく広がっている、という事情がある。もちろん、それを押しとどめようとする勢力の必死の抵抗も一方で存在し、それが現在の韓国社会の混乱につながっている。それでもいまや韓国は、ほんの少し前までの状況が嘘のように、与党の支持率が野党を上回るまでになっている。これも、暗闇を光により明るく照らすための戦いであるといえよう。  聖書の話に戻すと、ユダヤの宗教指導者たちは、民が暗闇にいたままでいてくれたら、自分たちのつくったシステムの中でのうのうと暮らすことができる。権力欲も金銭欲も満たすことができる。そんな世界を照らして正そうとする者は、どんな手段を用いてでも葬り去らなければならなかった。  そして、彼らが選んだ方法は、このまことの光なるお方、イエスさまを、十字架につけるということだった。十字架という手段を彼らが選んだのは、木にかけられた者は呪われる、と定めた律法のみことばがあるからである。どうだ、こいつは木にかけられたぞ、こいつは罪人の中の罪人、呪われた野郎だ、民どもよ、これでもおまえたちは、こいつを救い主キリストと信じるつもりなのか。イエスさまを十字架につけたとき、宗教指導者たちは、ざまあみろ、この呪われた者よ、と、さぞ高笑いしていたことだろう。  しかし、彼らがどんな方法を弄しようとも、神さまは民の中から、イエスさまを信じ受け入れる人たちを起こしてくださった。彼ら民衆は、宗教指導者たちの小難しい説教で信じたのではない。イエスさまの権威に満ちたみことばを直接耳にして、何よりも、神ご自身でいらっしゃるイエスさまを直接目にして、このお方がキリストだと信じる信仰に導かれたのである。それは、イエスさまという御名を持つこの方こそがキリスト、救い主であると信じたということである。そのようにして神さまは、暗闇の中にいた民をまことの光によって照らしてくださった。そして、神さまはこのように信仰へとお導きになった民に、神の子どもとなる特権をお与えになった。  13節を見ると、神の子どもというものは、ただ、神によって生まれた存在であると語る。その一方で、それ以外のものによっては生まれていないことも語っている。このみことばによれば、神の子どもは、血によって生まれるのではない、また、肉の望むところによって生まれるのでもない、あるいは、人の意志によって生まれるのでもない、と語る。  神の子どもは血によって生まれるのではない、つまり、家門、血筋、民族が神の子であることの理由にはならない。このことは、神の民と自認するユダヤ人にとっては痛烈な宣言である。ユダヤ人は自分たちが神の民であるという歴史を誇りとしてきた。  それそのものはすばらしいことであろうが、そんな彼らはつねに堕落の歴史を歩み、そしていま、彼らの指導者たちは救い主キリストが現れてもわからない、認められないほどになっていた。そんな者たちは自分たちのことをどんなに素晴らしい選民、神の民だと思おうとも、到底、神の民と名乗れるような状態にはなかった。そんな中でイエスさまを信じて神の子となれたとするならば、それはもはや人間のわざによることではなく、神のみわざであったというわけである。  また、肉の望むところによっても神の子どもにはなれない。これが聖書の宣言である。私たちは自分が望んでイエスさまを信じたと思っているようで、実はそうではない。なぜならば、私たちを支配しつづけてきた肉の望むことは、神さまに従うよりも、神さまに敵対することを選びたがるからである。私たちは本来、イエスさまなんて信じるものか、となって当然の存在である。  私たちはよく、この日本にはイエスさまを信じる人が少なすぎる、と、嘆くだろう。しかしそれはある意味当然のことである。表現を選ばず申しあげると、日本人にかぎらず、人というものはだれであれ、イエスさまというお方を信じたくないようにできているからである。だから、私たちがせっかく思い立って伝道したというのに、そのために祈るだけ祈ったというのに、相手がイエスさまを信じてくれなかった……こういうことが起きてもがっかりする必要はない。その反応は当然のものだからである。  そして、人の意志によっても神の子にはなれない。よし、信じよう、と願ったところで、それが神さまから由来するものでないならば、ほんとうの意味でイエスさまを信じたことにはならないのである。  要するに、人に由来するものは、血筋であれ、感情であれ、神の子どもとされることの根拠にはなりえない、ということである。もし、人がイエスさまを信じているというならば、それは、神さまがその人を信仰に導いてくださったから、というわけである。  お互いの顔を見ていただきたい。恥ずかしいだろうが、じっと見ていただきたい。目の前にいるこの人はすごいのである。なにせ、この人は、神によって、神の子として生まれた人たちだからである。私たちはいま、天使よりも素晴らしい人のお顔を見ているのである。  さて、イエスさまは神であられるのに、人となってこの世界にお住まいになった。そして、イエスさまは神であられるゆえ、栄光に輝くお方であられたが、残念なことに、みことばを学んではいてもそのほんとうの意味を一向に悟ることのできなかった宗教指導者たちは、イエスさまの栄光を見ることもできなかったほど、暗闇の中に陥っていた。  というよりも、暗闇から抜け出して光の方に行こうという気が、そもそもなかった。しかし、神さまによって神の子どもとなるように選ばれていた人は、イエスさまの栄光を見ることが許され、イエスさまの栄光に照らされて暗闇から光へと移された。  この栄光は、神のひとり子としての栄光である。それが人々の前で栄光として輝くのは、18節のみことばにあるとおり、人の目で見ることの許されていないご存在である御父を、ご自身のご存在とみことばとみわざによって解き明かされるゆえである。イエスさまのご栄光は、御父を離れて独自に存在するものではない。イエスさまの栄光は、御父の栄光を顕す栄光である。  そして、この方は恵みとまことに満ちておられた、とある。このイエスさまについてのバプテスマのヨハネの証言がそれに続く。ヨハネはイエスさまのことを、自分よりまさったお方である、なぜならば、自分よりも先におられたからである、と語っている。イエスさまはこの地に誕生されるはるかむかし、世界が創造されるより前からおられるお方、したがってイエスさまは神さま、それに比べると自分はどんなに人から尊敬を集めようとも、所詮は人間である、ということである。  イエスさまは神の恵み、神のまことをこの世に実現する、ただひとりのお方だった。確かに民には、モーセをとおして神さまご自身から伝授された律法があった。だが彼らは、律法を受け取り、学んではいても、まことのいのちに至ってはいなかった。神の子どもとなってはいなかった。というより、律法は人が罪人であることを明らかにする以上のものではなく、結果として人は、イエスさまのもとに行くしかなかった。  しかし、人はイエスさまを信じることによって、人間的ないかなる努力にもよらず、神の子どもとなるという恵み、すなわち、神さまからの無償のプレゼントをいただけることになった。恵みのうえにさらに恵みを受けたとは、人が罪人であることを悟らせる律法とは、イエスさまに救っていただいて神の子どもとしていただくという恵みを受けたことによって、実は恵みであったことがわかった、その律法という恵みが、イエスさまという恵みによって、ほんとうに恵みとなった、ということを意味する。また、恵みの上に恵みとは、かぎりなく恵みを受けた、イエスさまが来てくださったことによって、究極の恵み、これ以上ありえない恵みを人が受けた、ということも意味する。  私たちがこうして生きているのは、どこまでも、イエスさまの恵みによることであると覚えよう。それでも私たちはつい、悩んでしまうことがあるかもしれない。しかし、もし、悩むようなことがあるなら、このような者をかぎりなく恵んでくださっている、イエスさまの恵みに目を留め、感謝しよう。イエスさまの恵みの最高の現れはもちろん、この死ぬべきものを罪と死の支配から贖い出し、天国、永遠のいのちへと導いてくださった、十字架のみわざである。  また、自分の人生を振り返ってみよう。ここまで導かれてきたことは、相働きて益となす神さまの恵みではなかったか。覚えて感謝しよう。  <お祈り>  ・過去を振り返り、ここまで導かれてきた恵みに感謝しよう。  ・現在いただいている恵みに感謝しよう。  ・未来において、神さまは私たちにさらに大きな恵みをくださると信じて感謝しよう。

光の証し、証しの光

聖書箇所;ヨハネの福音書1章6節~8節 メッセージ題目;光の証し、証しの光  のっけから意地汚い話で恐縮だが、学生時代、大学から徒歩20分ほどの距離にあった、大塚駅前のラーメン屋「ホープ軒」が好きだった。味ももちろん素晴らしかったし、半分オープンになっているような店構えで、カウンター席の後ろを都電荒川線の電車がうなりを上げて走っていくのがたまらなかった。  自分が楽しむだけではない。よく友達を連れて行き、友達の喜ぶ顔を見てはドヤ顔を浮かべていたものだった。お店には宣伝用のチラシが備えつけてあり、それを持ち帰っては友達にあげて、一緒に行こうな、などと誘ったりしていたものだった。  あるとき、そんな自分のしていることは、まるで伝道みたいだな、と気づいた。おいおい、キリストを伝えるべきなのに、自分のやっていることはこれじゃ、ホープ軒の伝道師じゃないか。そして思った。果たして自分は、こうしてホープ軒のラーメンを宣伝するほどに、イエスさまのことを語っているだろうか?  しかし、最高のものがあれば宣伝したくなるのは人の常であろう。セールスマンとしてよい成績を上げるには、その売り物がどんな特徴、どんな効能を持っていて、それが買い手にとってどんな益をもたらすかを知り尽くしているのはもちろんのこと、その売り物を、買ってほしい、どうしても手に入れてほしい、という、情熱が何より大事であろう。しかし、セールスマンが物を売るのはもっと根本的な理由がある。その売り物を売るように、雇われ、派遣されているから。そう、売ることで、雇い主の希望を実現するからである。私もなんだかんだ言って、ラーメンの味を伝えたい情熱があるばかりに、宣伝しまくった結果、ホープ軒の売上アップに「貢献」して、経営者を喜ばせてしまっていたわけであった。  本日のみことばは、ヨハネという人物を短く紹介している。バプテスマのヨハネといわれている人物である。マラキ書の4章ほか、旧約のいろいろなところで預言されていたこの人物は、時至って、この世にあらわれたのであった。  6節のみことばを見ると、このヨハネが「神から遣わされた一人の人」であると書いてある。ヨハネがいかにこの世界に生まれたか、ということについては、ルカの福音書1章に詳しく書いてあり、子を産むはずのなかった女性を神さまがお選びになり、そうして生まれたのがヨハネであった、ということで、生まれからしてヨハネは特別、神さまによって遣わされた人だったことがわかる。  それは、ヨハネの人生はヨハネの持ち物だったのではない、神さまのものだった、ということである。ヨハネはこの世界を生きながらにして、神の人として生き、神の人として振る舞った。神を離れての自分という生き方など、ヨハネはしなかったのである。  神がヨハネを遣わされたということは、ヨハネは神のみこころをこの地に伝える全権大使の役割を果たすのがみこころだった、ということである。福音書を読むと、ヨハネのおもな働きであったバプテスマならびに説教を語る場面が詳しく出てくるが、ヨハネは住む場所は荒野、恰好からして、らくだの毛衣を身にまとっていて、食べ物はというといなごと野蜜だったという。そして語ることばといえば、宗教指導者のような高い地位にある者たちのことをさえ「まむしのすえども」と呼んではばからないような、妥協なき痛烈なことばである。俗世を離れた孤高の預言者、といった感じだが、これはヨハネがそういう演出をわざとしていたわけではない。すべては神さまの導きであった。それが証拠に、イエスさまご自身が、ヨハネからバプテスマを受けることは人としてふさわしい、とおっしゃり、ヨハネからバプテスマをお受けになっている。  そのように、ヨハネが人にバプテスマを授けるということ、逆に言えば、人がヨハネからバプテスマを受けるということは、人としてふさわしいこと、あるべき姿であるのは、神さまがそうお定めになったからである。人がバプテスマを受けることは何を象徴しているだろうか? 水に沈められて古い自分が死に、水から引き上げられて新しい自分へと生かされる。そのように、神の御前に悔い改めることによって古い自分が過ぎ去り、すべてが新しくされることを象徴している。さらには、罪なきお方ゆえに悔い改める必要のないイエスさまに至っても、バプテスマをお受けになっている。それほど、バプテスマは人として受けるべきものである、というわけであり、ヨハネとはこのバプテスマというみこころをこの世に示すために、神さまがお遣わしになった人だった、というわけである。  だから、これははっきり申し上げたいが、神さまを信じた、つまり、イエスさまを信じたというならば、バプテスマを受けよという神さまのみこころに従順になる必要がある。イエスさまを信じているが、バプテスマは受けない、というようではいけない。バプテスマを受けたから救われるとか、天国に行けるとかいうことでは決してなく、イエスさまを信じて救われたから、バプテスマを受けるということをもって神さまのみこころに従順になる、というわけである。  さて、それがヨハネの示したバプテスマというものだが、7節のみことばによると、ヨハネは証しのために来た、光について証しするため、そして、彼によってすべての人が信じるためであった、ということである。ということは、ヨハネがほんとうに伝えたかったのは、かたちとしてバプテスマを施すこと以前に、光なるお方であった。そのお方とはもうお分かりのとおり、イエスさまである。来週詳しくお話しするが、その光なるお方がイエスさまであることは、9節以下において語られている。ヨハネとは、その闇を照らす究極の光なるお方、イエスさまを宣べ伝える存在であった、というわけである。  しかし、8節の評価を見ると、ヨハネはどんな人物だろうか? 彼は光ではなかった、ただ光について証しするために来た存在である、と語っている。これはどういうことかというと、大いなるカリスマ性を帯びて人々を惹きつけていたヨハネのことを、人々は、もしかしたら彼こそが、むかしからみことばにおいて預言されてきたメシア、キリスト、救い主ではないだろうか、と思った、と聖書にあることと関係がある。しかし、彼はそのような自分に対する評価を知って、私はキリストではありません、と公言した。そう、彼はどんなに神的権威をもって働いていたとしても、キリストではなかったのである。それは周りがどう評価しようとも、彼自身がいちばんよくわかっていた。  韓国にはむかしから、われこそは再臨のキリストであると名乗る人間がうじゃうじゃしている。そういう人にとんとお目にかからない日本からしたら信じがたい話だが、これはほんとうのことである。何十人といるらしい。その中の一人が、あるインタビューにこう答えていたそうだ。「あなたはキリストですか?」すると、彼はこう言ったという。  「いや、私にはわかりませんが、周りはそう言っているから、きっとそうなんでしょうね。」なんとも卑怯な語り口だが、ヨハネはまさにこの反対、だれが何と言おうとも、自分はキリストではないという自覚をしっかり持っていた。  しかし、確かにヨハネはイエスさまのような光ではなかったが、それなら彼はどんな意味においても、光ではなかったのだろうか? そうではない。イエスさまはヨハネのことを「彼は燃えて輝くともしびだった」と表現された。ともしびというものは暗いところを明るく照らす存在である以上、言うまでもなく光である。しかし、イエスさまと同等の意味での光ではない。たとえるならば、イエスさまは太陽のような光であろう。太陽ひとつの存在で地球を昼と夜とに分けてしまう、それほどの光、さらには、やがてこの世界が終わって天国が実現したら、イエスさまご自身がその都の明かりとして照らされ、永遠に夜がない。まさしくイエスさまは、究極の光である。  これに対してヨハネはというと、ともしびのように、照らすにしても極めて限定的な場所という意味での「光」である。このところ毎日天気がよく、夜も雲がなくて晴れわたっているが、そんな夜には月がよく見える。その煌々と光る月に夜は照らされ、月明りということばをあらためて実感する。しかし、月の光は太陽の光に遠く及ばない。  さらに言えば、月は太陽の光を反射して輝く存在である。そう、イエスさまという究極の光を映すことで、ヨハネは光としての役割を果たしていた。言い換えれば、イエスさまという光を映してはじめて、ヨハネは光となれたわけである。それはいわば、月が、太陽の光を映さないかぎり、地球から見ればないのも同じにしか見えないのと同じことである。  そういうわけで、ヨハネは光なるイエスさまを証しすることで、はじめて光としての役割を果たし、ヨハネの説教を聴いた人はことごとく、その先におられる救い主イエスさまの福音を知るに至った。  そんなヨハネの姿は、私たちクリスチャンにとっても素晴らしいモデルである。それは、イエスさまという光を映して人々をイエスさまへと導いたという点で、そのように、そのことばと行いをもってイエスさまを証ししたという点で、私たちにとってモデルなのである。  しかし、大前提がある。それは、ヨハネは神さまによって、神さまのみこころをこの地上で守り行うべく遣わされた人であった、ということである。私たちはそれを知っているから、ヨハネのことを極めて特殊な人と見てしまわないだろうか? 荒野の、らくだの衣の、いなごと野蜜の……変人! いや、とてもそのレベルに至れない聖人!  しかし、ここはイエスさまのみことばに耳を傾けていただきたい。イエスさまはヨハネのことを、女から生まれた者のうちでヨハネよりもすぐれた人間はいなかった、とお語りになる。つまり、ヨハネほどすぐれた人間は歴史上いたためしがなかった、最高の人だ、というわけである。しかしイエスさまはおっしゃる。しかし、天の御国のいちばん小さな者でも、ヨハネよりも偉大である。  私たちは自分のことを何者だと思っているだろうか? 私たちはイエスさまを信じているだろうか? ならば、私たちは天の御国にすでに入れていただいている、と信じて感謝すべきである。ということは、私たちは自分が大したことがないように思っているかもしれないが、神さまの御目から見れば、天の御国の人である。もしかしたらその中でもいちばん小さな存在かもしれない。神さまのために対して何もできていないなどと考えるならば、自分なんて小さい、などと思うかもしれない。だが、そんな私たちであろうとも、神さまは私たちのことを天の御国の人にしてくださっている。そういう存在になれるように、神さまは私たちに聖霊さまを送ってくださり、イエスさまを主として、救い主として信じるようにしてくださった。それには働きの代償など一切関係ない。ただ、神さまの恵みによって救っていただき、小さかろうが大きかろうが、天の御国の人にしていただいたのである。  そんな、天の御国の人は、最も小さい人であろうとも、ヨハネよりも偉大なのである、とイエスさまは言ってくださった。このみことばを受け止めていただきたい。あの、すべての人がヨハネの証しによってイエスさまを信じるようになった、とすら聖書が評価するほどのヨハネ、これほどの大人物がいるだろうか? それなのに、そんなヨハネよりも私たちの方が偉大だと、イエスさまは言ってくださるのである。  もったいないなんてものではないおことばだ。しかし、このイエスさまのおことばは、私たちが「何をするか」に目を留めて、その結果、「ヨハネと比べると何もしていないも同然」と落ち込むか、そんなの当然じゃないかと開き直るかするような、そんな比較意識から自由にしてくれる。神さまが私たちに目を留めてくださるのは、「ヨハネのような証しをしたから」ではない。「身代わりにイエスさまを十字架につけてくださるほど、愛してくださっているから」である。  イエスさまは私たちクリスチャンのことを「あなたがたは世の光です」と言ってくださっている。「あなたがたはこれから頑張れば世の光になれます」とはおっしゃっていない。努力しようとすまいと、もうすでに私たちは、世の光にしていただいているのである。そんな私たちとして、神さまはすでに私たちに最高の評価を与えてくださり、私たちのことを用いてくださるのだから、私たちがヨハネと自分を比較したりするのはナンセンスなことである。  私たちに必要なのは、世の光として輝きたいと思えるほどに、主の恵みをいただくことである。世の光として闇の世界に遣わされ、その世界を照らす働きに用いていただくことは、なんともうれしく、また楽しいことである。しかし、それはその「行い」をしたから楽しいわけではない。イエスさまの恵みのあまりのすばらしさを受け取り、その楽しさを抑えきれないから、どうかこの素晴らしいイエスさまを知ってほしいと、暗闇の世界に出ていき、暗闇を私たちの愛のことばと行いで照らし、その働きに用いていただくことを私たちは喜ぶのである。  ヨハネがしたように、私たちがすることは「光の証し」である。また、ヨハネがそうだったように、私たちもまた「証しの光」である。先週に引きつづいて、祈りつつ考えていただきたい。光なるイエスさまによって光としていただいている私たちはことばと行いの証しをもって、どこで、だれを、いつ、どのように照らすべきだろうか?

いのちの光

聖書本文;ヨハネの福音書1章4節~5節 メッセージ題目;いのちの光  元日礼拝、主日礼拝を含め、今年に入って3回目の公式礼拝である。ここまでの2回、私たちは神のかたちであることを前提に、私たち人間が愛のかたちに創造されていること、また、ことばのかたちに創造されていることを学んできた。  今日の本文を見ると、神のことばなる御子イエスさまは、いのちあるお方、また、そのいのちとは人の光であることが語られている。そして、その光は闇の中に輝き、闇は光に打ち勝たなかった、と。  人が神のかたちに創造されていることを前提に語ると、人は神のかたちゆえ、その中にいのちがあるかたちに造られていること、また、その中に光があるかたちに造られていることがわかる。本日は、いのちとは何か、光とは何かを学んでまいりたい。  まず、いのちとは何か。人は土のちりで形づくられたとき、その中にいのちがなかった。それゆえ創造主なる神さまがなさったことは、人の鼻にいのちの息を吹き込まれた、ということだった。そうして人は生きるものとなった、とみことばは語る。  ゆえに人のいのちというものは、神さまによって存在させられてこそ本来の意味がある、ということになる。動物や植物はいのちの息を吹き込まれているわけではない。人間だけがいのちの息を神さまに吹き込んでいただいている、ということは、人間とは、神さまといのちの交わりを持ってしかるべき存在である、ということである。  そんな人間に対して神さまは、エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実に手を伸ばして食べてはならない、とおっしゃった。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ、と警告された。これは、善悪の知識の木の実に食べたら死ぬような毒があるから、ということではない。神さまのご命令に不従順になるとき、それは神さまとの交わりが絶たれるということを意味し、その結果人は死ぬ、というわけである。  人は空気を吸って生きる。神さまとの交わりを断つということは、空気以外のものを吸おうとする行為に等しい。当然、人は死ぬしかなくなる。神への不従順の結果人が死ぬということは、それくらい当たり前のことであった。しかし人は、神への不従順を選択した。そして人は、死ぬものとなった。  しかし人間は、皮肉なことに生きることを渇望するようになった。もしこの世界に不老不死の薬があると知ったら、人はどんな大金を積んでもそれを手に入れようと躍起になるだろう。不老不死とはいかないまでも、新聞を開いたら健康に関する情報や広告があふれている。みんな死にたくなどないのである。  しかし、死の本質とは神への不従順であるかぎり、死ぬことは避けられない。死なないために選ぶべき道はただひとつ、よみがえりであり、いのちであるお方、御父のもとに行くための唯一の道であり、真理であり、いのちであるお方、イエスさまのもとに行き、神さまとの交わりを回復するしかない。その根本的な信仰を回復しようともしないで、人はほかの方法でいのちを得ようとして、結局うまくいっていないのである。よほどイエスさまを信じることがいやと見えるが、神さまはこれしか、救われるための道を備えてはおられない。  一方で、死ぬことを意識してしまって仕方がない人がいる。聖書を読んでも、自らいのちを絶つことはしないまでも、死ぬことを意識してならなかった神の人がいたことがわかる。エリヤがそうだったし、ヨナがそうだった。どちらも、自分が望んだように事が運ばず、死を意識した。しかし神さまは、エリヤにもヨナにも不思議なみわざをお見せになり、そのたましいを回復に導かれた。エリヤが立ち直ったことははっきり聖書に書いてあるとおりで、ヨナに関しては聖書ははっきり語っていないが、ヨナ書というみことばをよく読むと、ヨナが神さまのお取り扱いを受け、神さまに対して不満を並べたことを悔い改めたことがほのめかされている。  神の人にして死を意識する、それは充分あり得ることである。しかし、普通の人と神の人との違いは、神の人には立ち帰るべき場所があるということである。それは、神の御前である。1970年に寺山修司が作詞してカルメン・マキが紅白歌合戦でも歌った、「時には母のない子のように」という歌があるが、この題名の歌は本来、黒人霊歌である。  元歌である黒人霊歌のほうの「時には母のない子のように」という歌は、こういう歌詞である。「時に私は、自分が母のない子のように思えるんだ、家から遠く離れてしまって。時に私は、もう自分は終わってしまったと感じるんだ、家から遠く離れてしまって。」しかし、この歌はこれで終わっていない。「罪人よ、罪人よ、なぜおまえは祈らないのか。」そう、私たちは時に、絶望する。しかしそれは、いのちなる神さまとの交わりがどこかで切れてしまっているからである。そんな私たちに神さまは、「生きよ」とおっしゃる。生きよというご命令にはどのようにお従いするのか? いのちなる神との交わりを持つことによってである。私たちは神との交わりによって、いのちを回復する。  だから、死ぬことを意識するのは、いのちなる神さまからもっとも離れた状態である。映画、小説、テレビドラマ、アニメ、ゲームと、やたらと私たちは「死ぬ」ということが空想の次元で身近になってしまっているが、けっしてそれは手放しで美化されるべきものではないことを、私たちは心に留める必要があろう。神さまのみこころは、どこまでも「生きよ」である。  とはいっても、神さまは私たち人間が「死ぬ」ことを前提に語っておられる箇所も、確かに聖書には存在する。「あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません」という、第一コリント15章36節のみことばなどそうであろう。しかし、死ぬのは死んで終わりになるためではない。生きるため、それも、永遠のいのちをもって生きるためである。本来、死ぬということは、神さまのみこころに不従順になる選択をした人間の受けるべき呪いであった。しかし神さまはこの「死ぬ」ということを、人間が永遠のいのちに生きるために必要なプロセスとしてくださった。  それなら、なぜ「死ぬ」という、悲しむべきことがこの世界に残されているのだろうか? それについては次のポイントについてお語りしたら、最後にまとめて結論としてお話ししたい。  では、光、について学ぼう。光とはいのちである。さらにいえば、光とは人の光である。  私の隣の家は、現在毎日、リフォーム工事をしている。それまでも空き家で、したがって明かりなど点いていなかったのだが、現在は工事のためだろう、明かりを点けている。しかし、どういうわけだか、一晩中明かりをつけっぱなしである。それが次の日の工事をするときに便利だということなのだろうが、だれもいないところに明かりがついているのはもったいないし、だいいち異様である。明かりというものは、人のいるところを照らしてこそ意味がある。  そのように、イエスさまにある光というものは、人を照らす光である。では、なぜ人をその光をもって照らされるのだろうか? その答えは5節のみことばからわかる。光は闇の中に輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。そう、人が闇の中にいてはいけないというのが、神さまのみこころだからである。  光と闇はどちらが良いもので、どちらが悪いものですか、一つにつき一つを選んでください、と言われ、「闇のほうが良いもの、光の方が悪いもの」と答える人は、かなりの偏屈であろう。そう問われたら、闇のほうが悪いに決まっている。それは聖書もそう語っているとおりである。闇の象徴するものは、悪魔であり、死であり、滅びであり、絶望であり、混沌である。  イエスさまの来られた時代のユダヤの指導者たちは、闇の勢力に属する者たちだったとイエスさまは評価しておられる。本来、神を指し示すべき者が闇の勢力だったとは、何ということであろう。しかし、それゆえにイエスさまのことを十字架につけたともいえよう。  この5節のみことばは新共同訳という訳の聖書を読むと、「暗闇は光を理解しなかった」とある。彼ら指導者たちがその立場にふさわしくイエスさまのことを理解していたら、イエスさまのことを十字架につけたどころか、すべての民がイエスさまを信じるように、率先して行動したことだろう。  しかし彼らは暗闇の勢力の者たちだったゆえ、イエスさまが救い主、人々を救いに導く光そのものでいらっしゃったことを理解できなかったし、理解しようともしなかった。  しかし、そのような闇の勢力も、光に照らされるならば変えられる。その典型的な例はパウロである。パウロは何をしただろうか? 神のみことばを堂々と解き明かし、ユダヤの宗教指導者たちに悔い改めを迫ったステパノのことを石打ちにした張本人、それがパウロである。しかし彼は、今にも教会に迫害を加えようとダマスコに向かっていたその途上で、神の光に照らされ、そのときからイエスさまのために生きる人へと変えられた。それまでのパウロは、いわば神のいのちのかたちを喪失していた状態にあった。それゆえに、神の御名を用いてさえも人を殺す、すなわち神につく人のいのちを奪うような、ほんとうのところは神をも恐れぬ所業を平気でしていた者だった。それが神のいのち、神の光に回復させられた。これは神の恵みである。  このように、闇につく者が光につく者とならせていただけるのは、恵みである。使徒ヨハネは、人間が光の方に来ないのは、光よりも闇を愛したから、その行いが悪いからだと喝破している。光よりも闇を愛する行い、すなわち悪い行いとは何であろうか? ローマ人への手紙1章に語られているとおり、神を神としないことである。すべての罪、すべての悪は、人が神を神としないことに始まる。人は神を神としない結果、あらゆるけがれ、あらゆるむさぼりに身を委ねることになってしまった。  しかし、イエスさまという方は、そのあらゆるけがれ、あらゆる罪、あらゆる悪をもたらす闇の勢力を、ご自身の十字架の贖いをもって滅ぼしてくださった。闇を光によって照らしてくださったのである。闇というものは、ひとたび光に照らされたら消えるしかない。  闇を象徴するもの、それは人の死である。しかし、人の死というものはなぜ必要なのだろうか? 人の死が象徴している闇というものが存在を許されているのはなぜだろうか? それは、いのちの光なるイエスさまによって滅ぼされるということをもって、イエスさまの勝利、イエスさまのご栄光が現されるゆえに、存在を許されているということである。  夜が怖い、という人がいるだろう。しかし、夜というものをいつまでも怖がる必要がないのは、やがて朝が来て、夜の闇を吹き払ってくれるからである。同じように、主にある人が死を怖がる必要がないのは、死というのがやがて、永遠のいのちに呑み込まれるからである。同じことで、闇の勢力がまだ存在しているこの世界だが、やがてこの世界は終わり、永遠に夜がない、したがって闇がない御国を、神さまは来たらせてくださる。死というもの、闇というものは、神さま、イエスさまの永遠の勝利、永遠のご栄光が顕されるための、いわば「引き立て役」でしかないのである。  だから、闇というもの、死というものをやたら意識したり、恐がったりしてはならない。ほんものは神の光であり、神のいのちである。私たちクリスチャンの生活は、この闇と死に支配されて絶望的になっているこの世に住む人々に、どうか怖がらないでほしい、あなたは生きる、ということを、確信に満ちて、そのことばと行いによって語るということである。  私たちはどこを照らしたいだろうか? そして、だれに永遠のいのちを受けてほしいだろうか? 神さま、私を遣わしてください、用いてください、ともに祈ろう。

人間はことばのかたちである

聖書箇所;ヨハネの福音書1章1節~3節 メッセージ題目;「人間はことばのかたちである」  まず、本文を見てみよう。「初めにことばがあった」。この「初め」は、聖書の最初のことば、創世記1章1節の、「初めに、神が天と地を創造された」と対応することばである。しかし、このヨハネの福音書1章1節における「初め」は、あらゆる創造のわざよりも優先する「初め」である。  高校時代、仲のよかった友人に聞かれたことがある。彼は創造主を信じられない、その理由は、神が天地万物を創造する前に、何をしていたかがイメージできないから、と。遊んででもいたのか? しかし、それはそういうふうに考えるものではない。時間というものは創造とともに始まっているのだから、その前に何をしていたか、などと、人間的な時間の概念で神のみわざを推し量ることはできない、と考えるのがふさわしい。  ヨハネの福音書1章1節における「初め」は、創世記1章1節以下のあらゆる時間の概念を超越した「初め」である。そしてその、究極の「初め」の存在であった「ことば」は、神とともにあり、神であった、と、このみことばは語る。  神とともにあり、神である。「神」とは、究極の唯一なる絶対者、父なる神さまであり、「ことば」とは、その究極の絶対者なる、父なる神とともにおられた「神」であるというわけである。  2節。この方は、初めに神とともにおられた。1節で語られたことの繰り返しである。ここにおいて、「ともにおられた」という表現が用いられているとおり、この方は父なる神から独立した存在であることが再度明かされている。  そして3節。すべてのものは、この方、すなわちことばによって造られた。あらゆる被造物がことごとく、このことばなる方によって造られた、と語る。このことについてはのちほどあらためて取り上げるが、神とともにあり、神であることばとは創造主であることが明かされている。  もう、このことばなる神とはだれなのか、おわかりであろう。この「神とともにあり、神であることば」とは、イエス・キリストである。それは14節に書かれているとおり。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」、これで、この神とともにある神なることばは、人となってこの世界に来られたイエスさまであることがわかる。  さて、今日も元日礼拝のメッセージに引きつづき、三段論法で、私たち人間とは何者なのか、今日のみことばを鍵にして解いてみたい。  大前提、私たち人間は神のかたちである。小前提、神はことばである。結論、人間はことばのかたちである。  私たちはことばを用いて生活する。現に、こうしてみなさんにメッセージを語る私も、ことばを介してメッセージをお伝えしているわけである。そんなことから私たちは、ことばというものを、人間が生活を営むうえで用いる「道具」のようなものだと考える傾向があるのではないだろうか。しかし、さきほどの三段論法に従えば、人間とはことば、それも、神のことば、言い換えれば神であることばのかたちに創造されているものであり、それが人間の本質だというわけである。そうなると、ことばはもはや「道具」のカテゴリーに収まらない。私たちの本質そのものである。  そこで私たちは、神を知り、また私たちを知るために、神の本質であり、また私たちがそのかたちに創造されているという、ことばとは何か、ほかならぬ神のことばである聖書がことばについて何と語っているかを見ていきたい。    第一に、ことばとは意味があるものである。  「ことば」というものを聖書の原語で「ロゴス」というのはご存知であろう。このことばは「論理」という意味も持つ。世界中にはあらゆることばがあるが、意味のないことばはひとつもない、と聖書は語る(Ⅰコリント14:10)。むかし、娘が幼かったころ、Eテレの「にほんごであそぼ」という番組で、おおたか静流という歌手がつくった何やらわけのわからない歌詞の歌(びっとんへべへべ るってんしゃーらか りーぼーぱなぱな かーわーへー……)が流れていたが、これはおおたか静流の「ロゴス」が紡がせた歌詞であると考えると、あながち意味がないとはいえない。同じように、私が好きな詩人、草野心平は冬眠中のカエル「ごびらっふ」にひとりごとを言わせる詩を書いているが(るてえる びる もれとりり がいく……)、これもまた草野心平の「ロゴス」のなしたわざといえよう。やはり、そうだとすると、およそ人間の発することばで、意味のないことばなどこの世にはないわけである。  そのように、ことばに意味があるのは、神の本質がひとつとして不必要なものがない、すべてが一致している、首尾一貫している、矛盾がない、すべてに意味があるものであり、そのことばなる神のかたちに私たち人間がつくられているゆえである。  神の創造のみわざは、すべてがご自身のうちに論理的なご計画をもってなされ、今もなお矛盾なきみこころをもってこの天地万物は保たれている。それが本来の世界のあり方である。ところがこの世界、天地万物は、人間の罪のために堕落し、神の完全であり善である論理にもとる領域が多く生まれた。天変地異や伝染病により人は大勢死ぬようになった。  そして人は本来、神のみこころにかなうように、神のみこころをもってこの世界を創造的によくする存在であった。ところが人の創造するものといったらどうであろうか。あまりにも悪魔的なものばかりになってしまっている。破壊的なもの、オカルト的なもの、淫乱に満ちたものがどれほど、人間の手によって生まれていることだろうか。戦争や公害のような人のもたらす不幸は言うに及ばない。それらのものを生み出すのは、人間の堕落したロゴス、神の似姿であることを自ら放棄したロゴスである。  ゆえに、私たち人間がこの世界をよくしようと思うならば、私たち人間自身が「神のことば」である神のかたちに回復していただくように、ほかならぬ神のことばなる聖書のみことばを握り、神のあわれみを求めて祈るしかない。ほんとうによいものは神から生まれるのであって、けっして堕落した人間のうちからは生まれない以上、そうするしかない。  だから、私たち自身を知ろう。私たちは「ロゴス」という神のかたちをもって、神のみこころをこの世界に創造して送り出すのが本来の姿である。その姿に、日々みことばと祈りによって回復していただき、この世界をよくする働き、すなわち、神のみこころにかなう者とする働きに用いていただくよう、祈ろう。  第二に、ことばは交わりを生む存在である。  聖書を読むと、唯一なる神さまが実は、三位一体のうちに交わりを持っておられることがわかる。ヨハネの福音書12章を読むと、御子イエスさまが御父に祈っておられるが、その際にイエスさまは、ことばを発して祈っておられる。それに対して御父が御子にお応えになっているが、それもことばで表現されている。ほかにもヨハネの黙示録22章を読むと、御霊なる神さまは御子キリストに向かって、「来てください」と呼びかけておられる。  そもそも、創世記1章に書かれた人間の創造のわざからして、「われわれのかたちに人を造ろう」と、三位一体なる神さまのうちで協議し、ご意志を決定しておられるわけである。そうして創造された人間は、神と交わりを持つ存在として創造された。神は人間にみことばをお語りになり、人間は神に祈ることによって語りかける。これが神と人との交わりであり、その交わりはことばをもってなされる。これはいわば、ことばなるご存在と、ことばのかたちに造られた存在が、ことばをもって交わっている、ということである。そして、人と人が交わるのもことばによる。  問題は、人間が堕落してしまっているため、神との交わりが破壊され、その結果、人どうしの交わりも神不在となり、交わりの名に値しない、単なる「ことばのやり取り」でしかなくなってしまったことにある。そのくせ、そのことばのやり取りでときに人がいたく傷つくのだから始末が悪い。  神との関係においてはどうであろうか。人は神のことばを聞かず、サタンのことばに喜んで耳を傾けるようになった。そのような、サタンに乗っ取られた人間どうしの交わりたるやどうであろうか。神を神としないことば、破壊的なことば、人を馬鹿にすることば、くだらないことば、悪い冗談、人を呪うことば、人を破滅に陥れる甘いささやき、どれをとっても聖い神、よきお方なる神のみこころとは似ても似つかない悪いことばのコミュニケーションと化している。  私たち人間は、神のことばのかたちとして、神のことばという本質を回復する必要がある。神のことばにつねに親しむならば、悪いことばは口にできなくなる。マタイ12:36、エペソ4:29、エペソ5:3~4といったみことばの警告は、きわめてリアルなものと受け取るべきである。このようなことばから逃れたいならば、そういうことばが交わされる人の輪を避け、みことばを日々開いてお聴きすることである。  ほんとうに御霊に満たされるならば、低俗なコミュニティと距離を置き、聖書のみことばに親しむようになって、ことばがきれいになるだろう。そういうことばづかいで人に接するならば、人は私たちのことばにふれて、俗っぽい世界のくだらなさに気づき、そこから聖い神さまを求めるように、神さまが私たちのことを用いてくださると信じよう。そうして、私たちの周りから、イエスさまが支配される御国が広がっていくのである。  今日はまず、悔い改めの時間を持とう。私たちがつくり出し、世に向けて送り出しているものはほんとうにみこころにかなっていただろうか? 私たちが口から発することばはほんとうにみこころにかなっていただろうか? もし、ふさわしくない行いやことばが示されたならば、それを捨てます、捨てられるように、神さま、恵みとあわれみをください、と祈ろう。  そして、みこころにかなうことを創造させてください、みこころにかなうことばを語れる人と意味のある交わり、神さまに喜ばれる交わりを持たせてください、と祈ろう。何をすることが神さまのみこころにかなうか、だれとどんな話をすることが神さまのみこころにかなうか、導きを求めよう。

父母を敬うということ

聖書箇所;出エジプト記20章12節 メッセージ題目;父母を敬うということ  私が幼稚園から小学校にかけての頃、テレビで毎日流していたCMがあった。ある程度の年代以上の方はご記憶だろう。それは、今でいう日本財団、競艇の組織が流すもので、その会長である笹川良一という人が、子どもたちや、当時大人気だったお相撲さんの高見山関、音楽家の山本直純さん、そして動物のチンパンジーとともに、法被(はっぴ)を着て、「戸締まり用心火の用心」と歌いながら練り歩く、というもの。そのフレーズは、「地球は一家、人類はみな兄弟、お父さん、お母さんを大切にしよう」だった。  そんな、親を大切にしなさい、敬いなさい、という教えは、日本人にかぎらず、人類普遍の教えというべきだろう。それは、この十戒でも語られてるように、それがわれわれ人類の創造主である神さまのみこころだから人類はみなその教えを大切にする、と言えよう。  しかし、私たちクリスチャンにとって大切なのは、それが「なぜ」クリスチャンにとって大切なのか、ということを、みことばの語ることから再定義することである。そうしないと、下手をすると父と母をいかに敬っているといっても、その敬い方が聖書的とはいえなくて、かえってみこころを損なってしまいかねない。あるいは、敬うことが必要だとわかっていてもそれがどうしてもできないで、過度に自分のことを責めてしまう。ゆえに私たちは、神さまはなぜ「あなたの父と母を敬え」とおっしゃっているのか、そして父と母を敬う私たちに、神さまはどのような祝福をくださるのか、父と母を敬うにはどうすればいいのか、ともに学ぶ必要がある。そのようにして、私たちはふさわしいかたちで、みこころにかなった親孝行の社会を形づくっていきたいものである。  それでは見ていこう。まず、この「あなたの父と母を敬え」というこの戒めは、十戒のうちの第5の戒めである。この戒めが置かれている位置に注目したい。十戒の戒めの並び方をご覧になれば一目瞭然だが、最初の4つの戒めが神さまに対する「対神関係」の戒めであり、あとの6つが人に対する「対人関係」の戒めである。その「対人関係」の戒めの最初に来るのがこの第5の戒めというわけである。  つまり、この戒めは、十戒において神さまがどのようなお方であるかということを踏まえたうえでとらえるべきものである。すなわち、神さまはイスラエルを奴隷の家から救われたお方である、だから、「神さまのほかに神があってはならない」、「偶像をつくってはならない」、「神の名をみだりに口にしてはならない」、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」、その前提あっての「あなたの父と母を敬え」である。日本社会がそうであるように、テレビのCMも含めた世間一般が、親を敬いなさい、親孝行をしなさい、と言うから、父母を敬うのではない。救い主なる神さま、唯一の神さま、聖なる神さまのご命令だから、父母を敬う、というわけである。  この戒めが置かれた順番に注目すれば、神さまがなぜ人に対する第一のご命令として、父母を敬いなさい、とおっしゃったかが見えてくる。これは、対神関係を扱う前半の戒めと、対人関係を扱う後半の戒めの、いわば「結節点」に位置する戒めである。千代崎秀雄先生という牧師先生はこの事情について、このようにおっしゃっている。  「聖書の思想によると、子が幼い間は親は神の代理として愛の保護・育成・訓戒を与える責任があるとされる。したがって、第5を前半の中にかぞえることも可能。」そう、だから、この「あなたの父と母を敬え」という戒めは、「対神関係」の戒めと「対人関係」の戒めを同時に兼ね備える役割を果たしているといえる。それだけにとても重要である。  とはいっても、この聖書の思想のとおりに、親が神の代理として子どもに対する保護・育成・訓戒の働きを果たしおおせた、という実例は、聖書の中からなかなか探すことは難しい。  もしそういう実例があれば、たとえばミッション系の幼稚園などで保護者を対象にやっている、聖書をもとにした子育てセミナーなどはずいぶんやりやすくなるのだが、あいにくそういう具体的な模範は聖書の中からなかなか見出せるものではない。  一応、見いだせるものといったら、条件が限定されている中でそれでも母親としての役割を果たそうとした、モーセの母ヨケベテ、サムエルの母ハンナのケースといったところだろう。それでもあまり具体的に、微に入り細にわたってどういうことをしたかを書いているわけではない。あるいは、父親のケースでいえば、イサクのケースやヤコブのケースのような、ふさわしい父親というにはどこか問題を抱えたケースだろう。いわば反面教師である。ダビデはいまわの際にソロモンに王権を授ける際、王様として、と同時に、親としてもよい模範を示せたといえなくもないが、一方でダビデは、息子アムノンやアブサロム、アドニヤに対しては親として合格とはいえなかった。  新約聖書の場合は、子どもが亡くなったり、重病に陥ったりして悲嘆にくれる親、というのは出てくるが、神さまの御手に委ねるまで、子どもをふさわしく育てた親、という具体的な実例は見つけにくい。あえて言えば、イエスさまのもとに息子ヤコブとヨハネを送り出すまで、親として子どもたちを監督したゼベダイの存在や、テモテにユダヤ人クリスチャンの母親、また祖母として信仰を継承したユニケやロイスの存在が、それをほのめかしていると言える程度だろう。  ただし、聖書的な「父母」の概念をしっかり語っている箇所ならちゃんと存在する。それは第一テサロニケ2章のみことば、パウロが自分自身の牧会哲学を、母親というもの、また父親というものになぞらえて語っている箇所である。お開きいただきたい。  まず、パウロは母という存在と自分の牧会との関係について語る。7節と8節。……まず、パウロは、母親とは子どもをいとおしく思う存在だと語る。さきほど、サムエルの母であるハンナのことに少し触れたが、ハンナは神さまへの誓いどおり、長い不妊の末にようやく生まれたサムエルを神さまにおささげし、祭司エリのいる神殿に預けた。しかし、ハンナは年ごとの礼拝でシロの地に赴くたびに、自分の手で縫った小さな上着をサムエルに差し入れしている。ハンナは、神さまの御手に子どもを委ねた以上、もう関係ない、とはならなかったのである。幼いサムエルが寒い思いをしないように、と、ひと針ひと針縫う労苦を惜しまなかった。それはやはり、サムエルをいとおしんでいたからだった。そのような、母親が子どもを愛しいつくしむ、その愛情をあなたがた教会のおひとりおひとりに注ぐのです、とパウロは告白しているわけである。  そしてパウロは、自分は母親のごとく、神の福音だけではなく、自分のいのちをもあなたがたに与えたい、とも語っている。パウロが福音を語るのは、その福音を聞いた人がイエスさまを信じ受け入れて、永遠のいのちを得るためである。その人が救われてほしい一心で、また、救いの道を歩んでほしい一心で、パウロは一生懸命に福音を語り、みことばを解き明かす。しかし、それは単なることばだけの伝道ではない。自分のいのちさえも差し出すこともいとわない姿勢、それが教会形成にとって必要であるというわけである。  そのような、いつくしむ愛、子どものためなら自分がどうなってもいいという愛、その究極の愛は神さまの愛で、イエスさまが私たち神の子どもたちをいつくしんでくださり、私たちが永遠の滅びから救われ、生きるために、ご自身のいのちを十字架の上にてお捨てになった愛にあらわされている。聖書全体から受ける神さまのイメージは男性的だが、時に神さまは私たち人間を、母親の子どもを思う愛情の原点ともいえる愛をもって愛してくださる。お開きにならないでいいが、イザヤ書66章13節を見ると、神さまは、神の民が自らの罪に傷ついて沈むのをご自身が慰めてくださるその御姿が、まるで子どもを慰める母親のようだとお語りになっている。神さまはそのように、母親のような愛情を神の民である私たちに注いでくださるお方である。  もしかすると私たちは、地上の母親から充分な愛情、ふさわしい愛情を受けられないで生きてきたかもしれない。神さまはそんな私たちのことを、地上のどんな母親にもまさる愛でいつくしんでくださっている。  一方でパウロは、自身の牧会と教会形成を父親にもなぞらえている。第一テサロニケ2章11節、12節にあるとおりである。パウロは教会のひとりひとりに、神のご存在のリアルとそのみこころを示し、そのみこころにふさわしく歩むように勧め、励まし、また厳かに命じている。これが父親というものだというわけである。神を示し、その道を歩めるように訓戒する。そのためには厳格になることもいとわない。  旧約聖書、また聖書全体の総決算と言えるヨハネの黙示録における神さまは、きわめて厳格な父の姿で私たちに迫ってこられる。私たちは罪を犯した罪人なので、厳格な父の前に出るにはどうしても後ろめたさを覚え、なかなか近づけない。よく、父親とは厳格な近づきがたい存在だと言われるが、それはおよそこの世の父親というものが、聖書に啓示されている父なる神さまのお姿をこの世に示す存在であるからだろう。この世の父親が厳格であるように、いやそれ以上に、父なる神さまは厳格なお方である。  しかし、父は私たちから遠いだけの存在ではない。どうしても近づくことができないでいる私たち子どもたちのために、御子イエスさまを橋渡しをするお方として私たちのもとに送ってくださった。私たち罪人を憐れんでくださる、母親のような愛情である。というより、神さまのこのいつくしむ愛をこの地上で表現するのが、母親という存在だというべきだろう。父なる神さまは、私たちがイエスさまを信じればそれでよしとする、そのいのちの道を備えてくださったのである。私たちはイエスさまによって、父なる神さまのもとに堂々と行けるのである。  というわけで、十戒が神の民に与えられた戒めという前提で見るならば、十戒の第5の戒めは、神のみこころを神の国で実践する、神のかたちとしての父と母だから敬うべき、ということである。すなわち、神の民が父と母を敬うことは、神を恐れ、礼拝することにつながるのである。  しかしそれは、まず、父母が神さまを恐れ、神さまに従順であるということが前提となることに注意が必要である。おそらく、子どもが家族の中で最初にクリスチャンになるケースで、もっとも葛藤することはこのことではないだろうか。  私はかつて、純粋な信仰を持ったクリスチャンの高校生が、夏のバイブルキャンプを通じてバプテスマを受ける決心に導かれたものの、子どもが教会の活動に積極的になりすぎることを嫌った母親の顔色を見るあまり、バイブルキャンプから帰ってきたら、バプテスマはおろか、それきりぱったりと教会に行くことそのものをやめてしまった、という、あまりに心痛むできごとに接したことがある。私としては、父母を敬うとはそういうことではないんだよ、と教えてあげたかったが、何しろ彼女は重い障害を抱えていて、母親なしには何もできない人だったから、手の出しようがなかった。  そういう葛藤を抱えるのは、親が神さまに不従順なケースだろう。「父母を敬え」というみことばがあまりにリアルすぎて、それをまずは守ることで神のみこころに従おうとすると、どうなるか? たとえば親が、もうおまえは教会に行くな、と言ったら、それに従わざるをえなくなる。しかし、これを仕方のないことと片づけていいのだろうか? 神さまはそんな、ご自身に従おうとする者を見捨てるような、冷たいお方なのだろうか?  しかし、信仰を持って歩もうとする子どもに対し、親という存在は時に大きすぎる。そのせいで信仰生活もままならないでいる方にまず申し上げたいことだが、神さまがおっしゃっている「あなたの父と母を敬え」は、大前提として、神の民という共同体の中の家族に語られたことばである。したがって、親がもし神の民に属さず、ゆえに神にお従いすることの何たるかもわからない場合、この戒めを律法的に自分の親子関係にあてはめようとするなら、その人はとても苦しむことになる。  場合によっては、強すぎる親の存在ゆえに、やっぱり教会から離れよう、信仰から離れよう、という決断をしてしまいかねない。それは神さまの望んでおられることではない。  とはいっても、教会から離れざるをえない選択をすることも充分あり得るのは、お互い理解するしかなかろう。ただしそれは、「あなたの父と母を敬え」というみことばを、教会を離れるという行動をもって実践するからでは断じてない。言うなればこれは、やむをえない行動、不本意な行動である。しかし、その迫害をする人がそれでも血を分けた自分の親である以上、葛藤するしかない。そんな苦しみにあう聖徒は、日本にたくさん存在している。ほんとうに、そのような不条理をあえてお許しになる神さまのみこころは理解することはとても難しい。私たち教会はただ一緒に、その兄弟姉妹たちと悩みながら、静かに祈るしかない。  それでも付け加えれば、ことみことばに関しては「あなたの父と母を敬え」ということばを律法的に、守り行わなければ祝福されない、呪われる、罰が当たる、などというような命令として、律法的にとらえるべきではない。というのは、やはりこのみことばは大前提として、神の民の共同体における益について語っているからである。  それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」ということである。しかしこれは、単なる一代限りの長寿のようにとらえるべきではない。神さまが与えられる土地とは、この地上において神さまが王として統べ治められるあらゆる領域であり、それは教会はもちろん、教会のひと枝ひと枝として私たちが遣わされ、形成する働きに用いられるあらゆる領域を指す。それはクリスチャンホームであるかもしれない。また、クリスチャンとしての共同体であるかもしれない。  そういう場所を神さまが私たちに与えてくださるのは、この地上に私たちをとおして、神さまのご支配を実現してくださるためである。つまり、神の国は私たちがこの地上に実現させていただく。言い換えれば、神の国を実現することは、神さまと人との共同作業であり、その働きが長く続く条件は、神の支配の代理者としての父と母を敬う、その態度を保ち、それにふさわしい言動をすることであるわけである。そうすることで、この地上に神のご支配される神の国は保たれ、また、拡大する。それは私たち一代限りではなく、これからも続いていくことである。  私たちが一代目だとしたら、そのあとに続く人たちを生み、養い育てる。それは肉親としての、法律上の家族とはかぎらない。私たちが伝道して「霊的な子ども」を生み、養い育てるならば、神さまのそのご支配はさらに続く。もちろん、そのような方々に敬っていただけるような霊的生活をすることが肝心である。それはその方々にも祝福が臨むためである。  私たちはこの地上では、父と母を敬うべきと知りながらも、その父母が主にある歩みをしていなかったばかりに、とても敬えず、今に至るまで苦しい思いをしてきたかもしれない。しかし、私たちの人生はこれで終わりではない。私たちは、その過去を主の御手にお委ねし、新たに私たちをキリストにある家族として立て上げてくださる主のみこころにお従いしよう。そして私たちは、特に、もし自分たちが不幸な親子関係の中に生きてきたと思うならなおさら、その分、この世界に主にある愛情に満ちた親の愛が満ち、それによって子どもたちが喜んで父母に従える、そのような平安に世界が満たされるように、ともに祈っていこう。

安息を持つ意味

聖書箇所;出エジプト記20章8節~11節 メッセージ題目;安息を持つ意味  韓国の民俗音楽に、4種類の打楽器を用いた「サムルノリ」というものがある。私が卒業した大学には、このサムルノリや韓国の伝統舞踊に取り組む「西ヶ原ノリマダン」というサークルがあり、私はメンバーではなかったが、メンバーに韓国語を専攻する親しい仲間がたくさんいたので、しょっちゅう部室に出入りしていた。  ある日、その打楽器のひとつ、2本の長いばちで両側からたたく、鼓を大きくしたような楽器、チャングの様子を見た友達が、血相を変えた。聞くと、チャングというものは演奏するときに皮をぴんと張った状態にして、演奏し終わったら元に戻し、皮をゆるめるのだとか。彼女はそのとき、ひとこと言った。「チャングを休ませなきゃ……。」なるほど、ゆるませることは「休ませる」ことなのか、と納得したものだった。  今日のみことばは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という、十戒の第四の戒め。これまでの三つの戒めが「ほかに神があってはならない」「偶像をつくってはならない」「神の御名をみだりに口にしてはならない」と、「べからず」の内容だったのに対し、この第四戒は「べし」の戒め。  安息日とは何だろうか? まずその起源は、創世記1章、2章にさかのぼる。創世記1章を読めばわかるが、神さまが6日かけて世界をおつくりになったことを聖書は語っている。その次の日、7日目に神さまがなさったこと、それは、なさっていたすべてのわざを休まれた、ということである。そう、休むということ、休みの日を設けるということは、神さまがまずなさったことであることを、聖書は語っている。  神さまが6日で世界を創造され、7日目に休まれた、それを、こんにちも普通に用いている「週」「曜日」というものに適用すると、安息日は「土曜日」ということになる。ただし、聖書の民であるイスラエルは、一日というものを夕方から次の日の夕方までと定めていたため、こんにちの午前12時から次の午前12時までを一日とするやり方とは一致していない。しかしそれでも、11節に語られているとおり、神さまが安息を取られたゆえ、その被造物である人間も安息を取るべきであるという原則は変わらない。  私たちクリスチャンはこの「安息日」にあたる日を、日曜日とし、これを主の日、「主日」と呼ぶ。それは、イエスさまがお墓の中からよみがえったのが、日曜日の朝であり、それ以来クリスチャンは、この日曜日を特に大切にするしるしとして、日曜日を安息日としてきた。そういう立場からすると、日本中で流通するカレンダーがみな、週の初めの日である日曜日を特別に赤い字で記していることが、聖書的にかなっているということができよう。  今日は十戒の語る「安息」また「安息日」というものについて考えたい。この「安息日」というものは、だれにとって大事なのか? それは、主の民の個人個人にとって、また、主の民という共同体にとってである。  私たちは主の民である。しかし、そのような私たちは、この世においてはひとりひとりで活動する存在である。それは、クリスチャンホームの人であっても変わらない。うちの子どもたちも日中身を置いている場所は、まずクリスチャンを見かけない、一般の公立の学校である。みなさまのいらっしゃる場所も、クリスチャンがいるような環境ではないだろう。  そのような私たちは、9節にあるとおりのご命令に従って生きている。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。」勤労ということは、神さまが人間に命じられたことである。神さまが人間をおつくりになった初め、人間が神さまから与えられたことは「遊び」ではなく「仕事」であった。創世記2章15節、「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」地上の環境を管理する働き、それが人間に与えられた本来の仕事である。  しかし、この仕事というものは、人間が神に背いたことによって、極めて厳しいものとなった。食べてはならないと神さまから厳重に命じられた「善悪の知識の木の実」に手を出した人間に対し、神さまは何とおっしゃっただろうか?「また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。/大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。/あなたは、額に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」  ほんらい、エデンの園を管理することはとても楽しく、やりがいのあることだったはずだ。しかし、いまや人は苦しんで働き、ついには死ぬという、何ともむなしい存在となり果ててしまった。そんな人間が救われる道があるとすればただひとつ、神さまに立ち帰ることだけである。神さまはご自分に立ち帰る者に対し、邪慳にはなさらない。親しく受け入れてくださるお方である。  神の民もそのようにして、神さまに立ち帰るべく選ばれた民である。ゆえに、その民が神の民として生きるうえで必要なことは、神さまの望んでおられる方法で神に立ち帰ることである。それが、安息を持つということ、神さまはその、人が安息を持つ基準として、週7日のうち1日、とお定めになった。それは、創造のわざを6日で行い、7日目に休まれた、神さまご自身にならう者と、人がなるためにである。  しかし、よく考えよう。神さまは7日目には確かに創造のわざをお休みになったが、森羅万象を動かされるというみわざまでお休みになったわけではない。いつも、つねに、働きつづけておられたし、今も休まずに働きつづけておられる、なぜならば、それが創造主だからである。しかるに人には、ご自身に倣って週に6日働き、1日休むことを命じておられる。これはどういうことだろうか? それは、私たち人間が神さまに造られた被造物、土から取られた土の器、極めて壊れやすいもの、という事実を、謙遜に受け入れる必要があるからに他ならない。神さまはお休みにならない全能の創造主であっても、私たち人間はそういうわけにはいかないのである。  というわけで、週に6日働き、1日は休む、というライフスタイルを私たち神の民が実践するとき、私たちはその生き方をもって、自分が被造物、神さまが創造主であるという、謙遜な信仰告白を具体的に実践していることになるのである。その休みの日、安息日は、ガツガツ遊ぶ日ではない。せっかくの休みだからと、元を取ろうとばかりに遊びまくって、かえって疲れて月曜病にでもなったりしたら、何のための安息なのかわからない。しかし、一日かけてじっくり体も心も休めるならば、さらなる働きにリフレッシュして出ていけることになる。  だから、「休む」ということは人間にとって必要なものである。陳腐な言い方かもしれないが、「休むのも仕事のうち」である。また、「休むことができるのがプロ、休まないのはアマチュア」ともいう。たしかに、生産性を上げるために休むことは大切であり、それゆえに社員を働きずくめにさせるような企業は今や「ブラック企業」のレッテルを貼られるような、不名誉な存在となった。そういうことが普通に語られるようになったという点では、いい時代になったといえるのかもしれない。  しかし、そういうことが理想論として語られるからと、現実に社会全体がそれを実践しているわけではない。そういうきつい職場から簡単にもっとよい条件の職場に転職ができないということは、日本の抱える大きな問題であり、私たちもみな、その問題から無縁ではありえない。週に6日働き、1日は休むということは、十戒にもある神さまのご命令だというのに、私たちはなかなか、1日を差し出して休めない。そのことに私たちは後ろめたさを覚えていることだろう。しかし、どうしようもないのが現実ではないだろうか。  そのような中で今日、こうして御前に集まることができた私たちは、いわば神の民の「代表選手」である。  今や社会が、休むことの美徳を説く一方で、休むことも簡単にさせてくれないような厳しさに満ちあふれ、私たちもそんなダブルスタンダードの社会を構成する一員にされているような中、それでもここにいる私たちは、日曜日を主の日として神の御前に出ることが許されている。  このことを当たり前と考えてはならない。世界を見渡してみると、戦争や自然災害のためだったり、キリスト教を認めない政治体制のためだったりという理由で、主日をまともに礼拝の日に充てられない人がいっぱいいる。この日本もいま述べたとおり、仕事のために、あるいは健康上の理由で、また家族の反対に会っていて、日曜日を主日として聖別できないクリスチャンが、それこそいっぱいいる。  そのような中で私たちが、この日を主の日として、礼拝のために御前に出ることができるのは神さまの恵みでなくて何だろうか。この世界に生きている以上、私たちも日曜日に仕事を入れざるをえなかったかもしれないのである。あるいは、もっとほかの事情で礼拝できなかったかもしれないのである。この私も実をいうと昨日、胸が痛みだし、すわ、病気の再発か!? と、病院に行った。結果として何もなかったからよかったが、もし入院なんて事態にでもなったら、礼拝には来られなかったのである。  私たちが日曜日を聖別できていることは、偉いのでも何でもない。日曜日に働かざるを得ない、あるいは、そのほかの諸事情でどうしても来ることのできない兄弟姉妹を代表して招かれている、それゆえに、兄弟姉妹を代表して礼拝をささげる、それくらいの意識が必要ではないだろうか。  そして私たちは、安息を持っているといっても、だらけに来ているのでも、遊びに来ているのではない。神の民として安息を得られるほんとうの場所は、神の御前である。私たちが神の御前ですることは、礼拝である。私たちは神の御前にみことばをいただき、歌い、祈り、聖徒たちと祈りの課題を分かち合い、ともに楽しみ、奉仕する。これらがみな礼拝である。このメッセージの時間からしばらくしたら「祝祷」というものがささげられるが、それでたしかに礼拝が締めくくられはするものの、厳密に言えば礼拝はそれで終わりではない。小学校の校長先生がよく、遠足の帰りの会で「家に帰るまでが遠足です」というのを聞くが、私たちにしても、「家に帰るまでが礼拝です」である。  その「礼拝」というものは、個人、または数人単位の「小さな」ものがあり、それは平日の仕事の合間にささげるものである。QTや聖書通読、お祈りの伴う毎日のディボーション、家庭礼拝、平日の聖書勉強会や祈祷会といったものがこれにあたる。ディボーションなら毎日、小グループなら週1回平日がよい。しかし、教会全体の「大きな」礼拝は、やはり主日なる日曜日にささげてこそである。私たちは主日に、教会という共同体全体として主の御前にリトリートのひとときを持ち、安息を体験する。それだけに、ここに来られない人のためにも覚えて祈ることが大事になる。  最後に、どうしても主日を聖別するのが難しい、なぜならば、日曜日にも普通に働かなければならないからだ、という方のために、ひとことメッセージをお届けしたい。お願いしたいことだが、どうか、私たちのことを主にある共同体と見込んで、祈ってほしいことをシェアしていただきたい。そうすることで、主日に集う共同体の一員として振る舞えていることになる。  また、簡単ではないと思うが、6日間は仕事をし、1日は安息の日として休むようにという、主のみこころにお従いし、どうしても日曜日に仕事をせざるをえなかったならば、平日の1日に休みを取れたら、主の御前に礼拝をささげるようにすることを、心からお勧めする。その日にはぜひ、礼拝をささげていただきたい。そのためにこの教会という環境をしっかり利用していただきたい。私ども夫婦はみなさまの礼拝のために、可能なかぎり動き、ご奉仕する所存である。そうすれば礼拝はひとりきりではなく、少なくとも私ども2人が加わることになり、礼拝は公のものとなる。どうか、ともにそういう共同体となれるように、お互いのために祈っていこう。  では、ともに感謝の祈りをおささげしよう。今日、こうして私たちが御前に出ることができることに、心から感謝しよう。そして、ひとりでも多くの兄弟姉妹が主日を聖別して礼拝をささげることができるようにお祈りしよう。

御名をみだりに口にするとは

聖書箇所;出エジプト記20章7節 メッセージ題目;御名をみだりに口にするとは  アメリカにはいろいろなスラングがあって、日本人などにも、アメリカ人の真似をして、粋がって使いたがる人がいる。あまりいろいろ挙げるのは礼拝メッセージの時間にふさわしくないから詳しくは言わないが、神さまに関するものもいくつかある。そのなかに(ごめんなさい、ここだけはあえて口にします)、「オーマイガー」というものがあるのをご存じだろう。言うまでもなく「なんてこった!」という意味で、略して「OMG」と言ったりする。  しかし、クリスチャンの場合は、同じ「OMG」でも、「オー・マイ・グッドネス」というのが常である。「グッドネス」とは、「よいこと」という意味であるが、究極の「よいお方」である神さまのことを暗に指すことばでもある。こういう言い方をすることによって、「ゴッド」と直接口にすることを避ける。  その背景にあるのは、この出エジプト記20章7節、十戒の第三戒のいましめである。「なんてこった!」という俗っぽいことを口にするのに、畏れ多くも「ゴッド」はないだろう、というわけである。このように、やたらと神さまの御名を口にしないことは、旧約のむかしからイスラエルの間で行われていたことで、子音の文字だけが書かれている聖書を読むとき、「YHWH」という4文字、すなわち「神」を意味する4文字に差し掛かったら、朗読する人は口を閉ざし、次の単語からまた読み直す。  そうしているうちに、「YHWH」の読み方が失われ、この「YHWH」は「神聖四文字」と呼ばれるようになった。しかし、まったく音読しないわけにはいかないので、この四文字に、「主」を意味する「アドナイ」の母音を当て、「ヤホワ」と読むようになった。これは日本式に言えば「エホバ」であり、現在も流通している「文語訳聖書」ではこの「YHWH」の部分、新改訳聖書では太い字で「主」と書いてある部分に「エホバ」の呼び名が当てられている。しかし、これとて正確な呼び名ではなく、研究の結果、これはおそらく「ヤハウェ」と読んだのだろうということになっている。しかし、神さまのことを「ヤハウェさま」とはあまり言わない。私も言わない。  こういうことの根拠になっているのがこの第三戒のみことばだが、第三戒が意味することは、単なる「YHWH」を発音しない、なぜなら、神の御名は聖だからだ、というレベルにとどまるものではない。神の御名がみだりに唱えられるべきではない聖なるものだ、ということには、もっといろいろな意味がある。  そのことについてご説明する前に、「名前」というものについてもう少し見てから、3つのポイントに移って学びたいと思う。「名は体を表す」ということわざがあるが、聖書の世界においては特にそうである。「アブラハム」といえば、「多くの国民の父」という意味があり、その名のとおり、信仰をもって神の子となった、数えきれないほど多くの人の「信仰の父」となった。「モーセ」は「引き出す」、ナイル川の岸辺から引き出され、エジプトからイスラエルを引き出す人となった。「イエス」は「神は救い」、言うまでもなく救い主、救いの神、また、救いを与える父なる神へと導き、救ってくださるお方。そして「YHWH」は、「生成する、○○である」という意味があるといわれ、そうすると、創造主、絶対的に存在する永遠の主権者、ということになる。  そういう「名前」は人格的な存在として扱われるべきものである。日本では、名字だけで呼ぶ、呼び捨てで呼んでいいのは、スポーツ選手や芸能人のような有名人くらいのものだが、それとて本人を前にしたら、呼び捨てで呼ぶわけにはいかない。名前を尊重することは礼儀だというだけではなく、その人そのものを大切にすることだからと言えるだろう。  そのような「名前」を「その人そのもの」として用いる究極の形、それは「お祈り」である。私たちは「イエスさまのお名前によって」お祈りする。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまこそが、父なる神さまに人が至るための唯一の道だからである。  ほかの名前を使ってはいけない。「主の御名によって」ならいいが、「神さまの御名によって」とは言わないし、「天のお父様の御名によって」とか「聖霊さまの御名によって」などと祈ったらアウトである。「イエスさまの御名によって」が正しい。  そういうわけで、「神の御名」とは、「神さまご自身」を象徴するもの、と言えよう。そう考えると、「YHWH」を発音しないうちにほんとうの読み方がわからなくなった、ということは、ナンセンスどころか、一理あるとさえ言えてくるかもしれない。つまり、まるでそれは、神さまが目に見える存在ではないように、口にできる存在ではない、と言えるのかもしれない、ということである。  では、3つのポイントを見てみよう。第一に、神の御名をみだりに口にするとは、「神が聖なる存在であることを引き下げる行動」である。  具体的にいえば、「YHWH」を発音しなくなったいきさつや、アメリカで「オー・マイ・グッドネス」というようになったことなど、罪深くも汚らわしい人間が、聖なる神の御名を口にするなら、それは神への冒瀆だ、ということが含まれるだろう。それも確かにそうである。しかし、神が聖なる存在であることを引き下げることは、それにとどまらない。もっと深刻な問題である。  それは、「神の民」を名乗る人の生き方に現れる問題である。聖書を読むと、きよい神の民であるはずのイスラエルが、どんなにひどいことを考え、ひどいことを口走り、ひどい行いをしていたかが、これでもか、これでもか、と書かれている。そんな彼らイスラエルはしかし、創造主なる神さまの民、きよい神さまの民として生きることが、民としての変わらぬ旗印、究極のアイデンティティではなかったか。しかし、彼らは悪い行いで神を否定して恥じるところがなかった。  そんな彼らはしかし、形式的な宗教生活の中で、相変わらず神の御名を唱えることをしていたのであった。さらには、イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち。彼らは、自分たちこそは純粋に神さまを礼拝し、神さまの御名を呼ばわっていた者たちだという自負心があったことだろう。だが彼らのやったことは、神の御子イエスさまを十字架送りにしたことだった。そんな彼らはいくら熱心に神の御名を唱えてみたところで、神は彼らの呼ぶ声を、ご自身の御名をみだりに唱える声としか見なしてくださらなかった。  現代においても同じことが行われている。異端などまさしくそれで、彼らは自分たちこそが神に対して純粋かつ熱心な群れ、この世に存在するキリスト教会はみな間違いと言わんばかりだが、実は彼らの口にする神の御名は、神とは似ても似つかないものの名前である。彼らについて行くならば、その人には救いは一切ありえない。だから私たちは、異端というものを警戒しなければならないのである。間違っても彼らのことを、キリスト教の一派とか、主にある兄弟とか見なしてはならない。  しかし、異端だけだろうか? 異端とよく似た反社会的な、キリスト教会を標榜する集団がある。いわゆる「カルト」である。詳しくは言わないが、教会を名乗っていても実はとんでもないことをしている団体は日本のいたるところに存在し、そこではパワハラやセクハラが横行し、いくつかの教会の不祥事はマスコミで報道された。こうして世間的に、だからキリスト教は怖い、などという、とんでもないメッセージが送られるに至った。そんな彼らは確かに正統の教義を持ち、少なくとも信仰告白という点では問題がないように見えた。それに、神の御名を呼び求めていたという点では模範的にさえ見えた。だが、彼らの礼拝や伝道や交わりは、ほんとうのところは、神の御名をみだりに口にしていたことにしかならなかったと言えよう。  しかしである。人様を批判する私たちもまた、神の御名をみだりに口にするあやまちを犯すものであることを心に留める必要がある。私たちがもし、「どうせどんな罪を犯していても自分はイエスさまの十字架によって赦されている」とばかりに、自分勝手な考えや態度や言動を悔い改めなかったとしたらどうだろうか? そういう人が神の御前に祈ってみたところで、それは「神の御名をみだりに口にする」ことにしかなっていないのではないだろうか?  だから、「神の御名をみだりに口にする」ということは、「私はクリスチャンとして、『なんてこった!』というときに『オー・マイ・グッドネス!』と言っているから問題ない」とか、そういう次元の問題ではないのである。私たちの生き方で神さまがそしられているのに、何食わぬ顔で神さまを礼拝するようでは、それは「神の御名をみだりに口にする」ことになる。まさしく、テトスが相手をしていた、クレタ人のクリスチャンたちのようである。パウロは彼らに対し、テトスへの手紙1章16節にあるとおり、実に辛辣きわまる評価を下しているが、私たちもこのことばのような評価を神さまから下されることのないように、口先だけの敬虔さではなく、行いにおいて、神さまを証しする生活ができるようになってまいりたい。  第二に、神の御名をみだりに口にするとは、ふさわしい神礼拝のあり方を逸脱した方法で神を礼拝するという行動である。  具体的なことはイエスさまがいくつか語っておられる。それらはおもに、マタイの福音書5章から7章に記された「山上の垂訓」にあらわれているが、その中でも6章、わざわざ人前で、人に褒めてもらえるように敬虔ななりをすることはいけない、と語っておられる。そう言うようにして御名を語るならば、それは神の御名をみだりに唱えることになるだろう。  たとえば断食の祈り。「断食」するやつれた顔を人前にさらして、「さすが、敬虔なクリスチャン!」とほめてもらうようでは、それは、「みだりに御名を口にする」ことである。断食して苦しい中だからより神さまに聞いていただける、とか、そういう問題ではない。それは所詮、肉を満足させる苦行であり、そうして御名を呼び求めたところで、「みだりに御名を口にする」ことにしかならない。神さまがもし人を断食に導かれるとしたら、それは食事ものどを通らない、食べて楽しむどころではない、というくらい祈りに打ちこまなければならないと思うようにされるときであり、そうなったら人はどんなに周りが止めても、断食をするだろう。そういう、神さまとの関係の中で行うものではない、パフォーマンスの断食は、御名をみだりに口にすることに通じる。  またイエスさまは、同じことばをただ繰り返して祈ってはならない、ともおっしゃった。ことば数が多ければ聴かれる、と思うのは、異邦人的な発想、つまり、神の民にふさわしくない発想である、と。そう、日本でもお経や題目を繰り返したり、繰り返し寺社にわざわざ足を運んで参拝したりすることでご利益がある、願いが叶う、ということが常識になっていて、そういう行動をちゃんと続けられている人は「偉い」と評価される。  しかし、まことの神さまはそういうお方ではない。私たちは親を呼ぶとき、「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん……」などと延々呼ぶ必要はないし、また、そう呼んだら何が言いたいか、何を伝えたいか、いよいよわからなくなるから、そう呼んではいけない。お母さんだって怒るだろう。神さまも、私たちの父なるお方である以上、そのように御名を繰り返す呼び方をしてはいけない。それは「みだりに御名を口にする」ことである。  20年ほど前、歴代誌第一4章10節のみことばをもとに、「ヤベツの祈り」というものがキリスト教会に流行した。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください」という、ヤベツが祈ったというこの単純かつ意味の深い祈りは、それを何度も繰り返すように祈ることが奨励されたりもしたが、もしこれを何の考えもなく祈るならば、やはり「みだりに御名を口にすること」にも通じる。  イエスさまはそれで、こう祈りなさいと「主の祈り」をお示しになった。神さまの御名がほめたたえられることを第一に求めるこの祈りからしたら、私たちは何と、欲にまみれた祈りばかりささげていることだろうか。まさしく、私たちの祈りは「神の御名をみだりに口にする」もの、すなわち、「肉を満足させるために神さまのご主権を利用することもいとわない」傲慢なものでしかないか、よく考える必要がある。  いかがだろうか? このようなことを私たちはしていないだろうか? この戒めのみことばは、「御名をみだりに口にする者を主は罰せずにはおかない」と語っている。実に怖ろしい。  だとすると、私たちはみな、すべからく神の罰を受けるべき存在ということになりはしないか? しかし、この罰はイエスさまが十字架の上で受けてくださったことこそ、私たちが第一に思い起こすべきことである。私たち、神以外のものを神としてしまうような者、神を神としないような者、それゆえにむさぼりという偶像をつくり、それに肉の欲を用いてしまうような者、その肉の欲がかなえられるように、神さまの御名さえも用いてしまうようなピントの外れた罪人……そのような者の罪は、イエスさまの十字架の上にくぎづけにされた。  私たちは、神の御名をみだりに口にする、肉的な罪人であることを、ふさわしくない形で礼拝をささげたつもりになっているようなものであることを、今こそ認めて悔い改めよう。主は必ず、私たちの罪を赦し、神さまのみこころにかなう礼拝者として整えてくださる。  しかし、私たちはそうなると、考えてしまうかもしれない。いったい、「神の御名をみだりに口にしない」ものになるにはどうすればいいのだろうか? そこで第三のポイントである。神の御名をみだりに口にするかどうかは、神さまと自分との関係性で決まる。単純に言えば、神さまとの交わりがあるかないかで決まる。  ここまで見てきた、神の御名をみだりに口にするケースは、いずれも「神さまとの交わりがまともに成立していない」から起こっていることである。神さまとの交わりがない状態でも、人は「宗教的」な仮面をかぶり、いかにも自分が敬虔な神の民であるようにごまかすことなど、いくらでもできる。しかし、神さまと自分との関係ができていて、その中で神さまとの交わりを保っているならば、このような、みこころにかなっていない神さまの呼ばわり方など、とてもできないものである。  神さまと交わりを持とうと努める人は、神さまがいちばん大切なこととして私たちにお語りになった教え、聖書のみことばに日々教えられることを大切にする。そして、聖霊の交わりがつねに生活にあるように、お祈りすることを大切にする。しかし、その根底にあるものは、神を神とする、神を恐れる態度である。しかし、同時にこの恐れるべきお方、神さまの前に、大胆に出ていくことができるようにしてくださった、イエスさまの十字架に日々感謝する態度もまた、私たちの大切にすべきことである。  このことを考えるヒントとして、きわめて胸の痛むケースをお語りしたい。もう亡くなられた方だが、私には神学生時代の恩師にあたる牧師がいる。韓国のキリスト教会で、その名前を知らない人はいないほどの先生である。  この先生はとても大きな教会を牧会しておられた関係で、その影響のもとにあった信徒は数知れず、また、その先生から牧会の手ほどきを受けた副牧師はやがて韓国全土や海外に散り、それぞれの地で実に聖書的かつ健康な教会を立てておられ、この先生が生涯大切にされた、主の弟子として整えられつつ歩むことの喜びは、多くの信徒たちの生活の中で実践されている。素晴らしいことである。  しかし、この先生の息子のことにも触れなければならない。彼はとても頭がいい人で、ベストセラー作家でもある。彼は間違いなく、父親であるこの先生に愛されたし、またおそらく、この偉大な先生の息子として、信徒たちや副牧師たちにことのほか愛されただろう。だが、彼は今どんな人になっているか? キリスト教会、そしてその根底にある、聖書の語る福音を否定する人になった。それどころか、そのような反キリスト的な教えを韓国中に広めるインフルエンサーになってしまった。今や韓国でたいへんな影響力を持つ人になり、彼に扇動されて信仰をなくす人も現れ、大勢の韓国人クリスチャンの中に及んでいる悪影響は計り知れないものがある。  しかし、彼がこれだけの有名人になれたのは、あの偉大な牧師が父親であったから、以外の何ものでもない。あの先生の愛息の語ることだから聴かなければ、という動機で彼の言うことを聴いた人はとても多かったはずである。  私も彼の著書を5冊ほど買ったが、その最大の理由は、彼がすばらしい人だからということ以上に、まさに父上が私の恩師だったからである。たしかに、それらの本を読めば、彼は説得力にあふれた語り方をする頭のいい人ということはわかる。しかし彼は、そういう偉大な父親を持たなければ、まともなクリスチャンならば相手にしないような話をしているだけの人である。  不肖の息子、ということばがあるが、彼などまさにそうだろう。彼は、父親のもっとも大切にしている福音、キリストの弟子として歩む生き方を、一切受け継がなかった。しかし、その牧師先生がそんな息子を持ったからだめな人だったと評価するようなクリスチャンは、まともな人ならばいない。それは、ダビデがアムノンやアブサロム、アドニヤのような悪い息子たちがいても、なおみこころにかなっているのと同じことである。実際、この先生を生涯尊敬し、この先生が大切にしておられたように、主の弟子として整えられることに励むクリスチャンは、韓国中に、そして世界のいたるところにおられ、そういう方々が健康な教会を日々形づくっている。私も足りないながら、その先生に少しでもあやかろうという精神で、日々歩み、取り組むものである。とにかく、この先生が今なお及ぼしているよい影響は、この息子の及ぼしている悪い影響とは、比べ物にならないほど大きい。この息子と、韓国と世界にいる、この先生の霊的影響力のもとにあるクリスチャンたちと、どちらがその先生の名前を公に口にすることがふさわしいか、言うまでもないだろう。  私たちにとって、神さまの御名をみだりに口にするかどうかも、これと同じこと。神さまが大切にしておられるみこころを無視して生きる者の礼拝など、神の御名をみだりに口にすること以上のものではない。しかしそうではなく、神さまを心から愛し、そのみこころに喜んで従順に従いたいと切に願う者の礼拝は、神さまが喜んで受け入れてくださる。その、神さまに受け入れられるにふさわしい礼拝をささげることは、人として最高の喜び、そして祝福である。その礼拝をささげることも、恵みによる。恵みを求めて祈ろう。神さまはこの祈りを、みだりに呼ばわる声どころか、ご自身に対する真剣な声として、大いに喜んで受け入れてくださると信じ感謝して、お祈りしよう。