私たちの目標

聖書箇所:ピリピ人への手紙3章1節~16節 メッセージ題目:私たちの目標  今年9月、東京で実に34年ぶりに、世界最大の陸上競技の祭典、世界陸上が開催されます。やはり気になるのは日本人の選手ですか、マスコミでは名前を挙げてその動向に注目しています。力強く走る、跳ぶ、投げる……この姿は、見ているだけで人々をわくわくさせます。  今回のメッセージのタイトルは「私たちの目標」とつけさせていただきました。本文13節と14節のみことばからつけました。このピリピ人への手紙の書かれた時点でもローマ帝国には体育大会がありました。古代オリンピックです。オリンピックの花形といえばマラソンや短距離走のような走る競技ですが、古代のオリンピックにも、短距離走、中距離走、長距離走が種目として存在していました。そのように、競技として、走る、ということは、このピリピ人への手紙の時代からローマ帝国において広く普及していたというわけです。  選手は走ります。当たり前です。しかし、彼ら選手はただいっしょうけんめいに走っているわけではありません。どんな選手もゴールを目指して、コースを外れないで走ります。どんなに速く走れたとしても、コースを外れてあさっての方向に行く人は失格となります。同じように私たちも、明確なゴールに向かっていっしょうけんめい走るように生きるから、人生は美しいし、意味があるのです。さあ、それでは、私たちが走るように生きるとはどのようなことでしょうか? 今日の本文、ピリピ人への手紙3章1節から16節までをテキストに、ともに学びたいと思います。  まずは1節からまいります。……パウロはここでも「喜びなさい」と語っています。しかし、こうして何度も「喜びなさい」と語るのは煩わしいことではない、むしろあなたがたの安全のためになることであると語っています。  喜ぶことが教会の安全のためになるとは、どういうことでしょうか? 2節以下をお読みしますと、何に対して安全になるのかを語っています。まずは2節です。……。  ここでパウロは、3種類の人間から身を避けるようにと警告しています。  まず、犬、と言っています。みなさんの中で、ワンちゃんをペットにしていらっしゃる方には申し訳ないのですが、聖書は、しばしばこの「犬」という動物を、否定的な存在の象徴としています。「野犬」とでも言えばわかりやすいでしょうか。狂暴な野犬はとても手なずけられるようなものではありません。獰猛すぎたり、悪い病気など持っていたりしら、噛まれたらいのちがありません。そういうものはひたすらに避ける必要があります。あるいは、野犬でなかったとしても、組長さんの番犬みたいに、恐い人間の飼っている大型犬などからも身を避ける必要があるでしょう。  要するにこの「犬」とは、善良な兄弟姉妹を食い荒らすような存在のことを指します。以前から「新使徒運動」というものが問題になっていますが、これは一種の形を変えたシャーマニズムで、特定の働き人を使徒クラスの特別な「主の器」に祭り上げます。このムーブメントは教団教派を横断して、組織すらもつくらないで教会に入り込んで食い荒らす分、こんにち社会問題になっている「トクリュウ」の教会版と言えるかもしれません。私たちはこのような攻撃に対して、丸腰であってはなりません。  悪い働き人にも気をつけなさい、とあります。これは、内部から起こる問題です。教会で働く働き人は本来、主の素晴らしさを現すために自分自身を差し出、教会にてへりくだって奉仕すべきです。しかし悪い働き人は、自分が偉くなるために教会を利用します。教会の中でひたすらに威張りたがり、みんなから先生と呼ばれたがります。あるいは、タラントを土の中に埋めたしもべのように、なまけて何もしません。教会の人たちはみんなやさしいと、そういう悪い働き人を許容してしまうことにもなりかねないわけです。  肉体だけの割礼の者。これも気をつけるべき対象です。割礼は、ユダヤ人の男性が受けるものであり、割礼を受けているということは、自分は主の民であるという自負心の強い人であるわけです。  しかしそのことは、実際に救っていただいて主の民に加えていただいているかどうかとは、何の関係もありません。だが、名目上、主の民のように振る舞っているならば、うかうかしているとそういう人を、教会は同じ主の民として受け入れてしまいます。するとこれまたうかうかしていると、イエスさまの十字架によってのみ救われるという正しい福音が、そういう者たちによっていつの間にかゆがめられてしまう、ということが起こってくるわけです。やはり気をつける必要があります。  肉体だけの割礼の者、それはこんにちで言えば、洗礼を受けたという事実だけにすがっている凡庸なクリスチャン、と言えるでしょう。そういう存在は長期的に、教会という共同体を病ませることになっていきます。  では、そういう者たちに気をつけることと「喜ぶ」ことが、どうつながるのでしょうか? 3節です。……ここに、パウロやピリピ教会のメンバーのようなクリスチャンの特徴が3つ書かれています。  まず、御霊によって礼拝する人たちです。私たちは、御霊に満たされ、御霊に導かれてこそ、ほんとうの礼拝をささげることができます。私たちは、聖書をお読みし、また、聖書にのっとった信仰告白を賛美という形でおささげしますが、そのとき、心からそのみことば、また信仰告白に同意することです。そのように、私たちが謙遜に自分自身をみことばに合わせ、へりくだるように、御霊は働き、私たちをまことの礼拝者へとつくり変えてくださいます。そのようにして御霊によって礼拝するならば、私たちは自己中心を捨て、主中心の生き方へと導かれてまいります。ゆえに私たちは、御霊の満たしと導きをつねに求めるものです。  第二に、キリスト・イエスを誇り、とあります。肉体だけの割礼の者は主の民であるように見えても、キリスト・イエスとつながってはいません。イエスさまこそが道であり、真理であり、いのちです。イエスさまを通らなければ御父のもとに行くことはありません。人間的な割礼などでは、御父に認めていただくことなどできないのです。私たちの誇りとすべきはイエスさまのみです。私たちはもはや自分が生きているのではなく、キリストがうちに生きている存在です。そのような者である以上、キリストを誇りとして生きるのは自然なことであり、また当然のことであります。  そして第三に、肉を頼みとしません。人はだれしも、自分の自慢したいものを持っているものです。そういうものが自分の人生を支えていると人は思ってしまいがちなものですが、しかし、イエスさまに比べれば、学歴も、頭のよさも、豊富な知識も、地位も、名誉も、財産も、みな取るに足りないものです。  そのように、御霊によって礼拝をし、キリストを誇りとし、肉を頼みとしないならば、そのような人はどうなるでしょうか? 「喜ぶ」者へと変えられてまいります。御霊に満たされた礼拝は私たちに喜びをもたらします。  キリストを誇りとすることは私たちに喜びをもたらします。肉を誇りとするならばその誇りは一時的ですが、その誇りを捨てる、主にある喜びを身につけさせていただくならば、私たちの喜びはいつまでも続きます。そのような喜びが私たちにあるならば、私たち教会は悪い者に隙をつかれておかしくなることはありません。いや、むしろ、彼らのほうから私たちに近づいてこなくなります。  さてパウロは、肉を頼みとしないと言いましたが、それでも人である以上、肉においても頼みにしようと思えばできることを述べています。4節から6節までをお読みします。……ユダヤ人として、実に完璧です。しかも、キリストの教会を迫害するほどの熱心を示したとは、宗教的には実に優れた人でした。  しかし、宗教的にすぐれた人と見なされることと、主から認めていただけることとは全く異なることです。7節のみことばです。  私たちも誇りとする地位や名誉、家柄があるでしょう。しかし、それらの、人から見れば大事に見えるものが、イエスさまを信じ従う上で邪魔になるならば、それらはどんなにすばらしいように見えても、損なのです。  私の友人のつくった賛美の一節に、このようなことばがあります。「あなたの力求めていたのに いつの間にか小さな自分を誇っていた」自分なんて、主の偉大さから見れば小さなものでしかありません。だが私たちは、そのような存在とされていると知っていながら、なんとこの小さな自分のことを誇ってしまうものでしょうか。自分のことばかりが大きく見えて、もっと大きな存在である主のことがまったく見えなくなってしまいます。そんな私たちですから、神の前には自分など小さいと認め、自分に関するものなどみなキリストに比べれば損であると心から認める必要があるわけです。  しかし、パウロの語る、人の持つべきキリストの誇りはそれにとどまりません。8節と9節です。自分にとってよいと思えることどころではありません。すべてのものをちりあくた、早い話が、ごみ、と思うということです。  では、大事なものは何でしょうか? それは、ここでは3つの望みを持つことであると語っています。まずは、キリストを得る望みです。私たちはすでにキリストを心に受け入れているという点では、キリストを得ています。しかし、私たちはなおも、自分に心の中心からキリストを降ろし、そのかわりに自我が居座り、罪を犯してしまうものです。このような生き方から、キリスト中心の生き方へと私たちはより変えられ、やがて天に召されたならば、私たちはもはや何にも妨げられることなく、キリストと全くひとつになります。キリストをすでに得ている私たちは、終わりの日に、キリストを完全に得ることになる、私たちはその望みをいただいているのです。  次に、キリストにある者と認められる、という望みです。私たちがキリストを持つのと同時に、キリストが私たちを持ってくださるのです。キリスト・イエスさまがそのうちに、私たちを保ってくださるのです。しかし、私たちがキリストの中にあるということは、だれが認めるのでしょうか? 教会の人たちが認めてくれればそれでいいのでしょうか?   そうではないのです。イエス・キリストを信じる信仰により、主が認めてくださるのです。イエスさまはおっしゃいました。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。私たちはひとたびイエスさまを信じ受け入れたならば、イエスさまは決して離れ去ることはありません。  しかし私たちはまだ肉が生きていて、キリストにある者でありながらも、時にキリストから離れて罪を犯します。しかし、だからといって、キリストはそんな私たちのことをお見捨てになることはありません。私たちは終わりの日に、もはや完全にキリストから離れ去ることのない、天国における永遠のいのちを味わいます。このことをほかでもない、主が認めてくださっている、私たちはそう信じ受け入れて歩むのです。  第三に、律法による自分の義ではない、つまり、自分が律法を守り行うことで主に正しい者、罪なき者と認めていただくのではなく、信仰に基づいて神から与えられる義、つまり、神さまが私たちのことを一方的に、正しい、罪がないと認めてくださる、という望みです。パウロは、律法を守り行うことで認められようとすることを、ここで「自分の義」という表現をしていますが、そういう人は正しさの基準が「自分」になっているわけです。  しかし、主の御目から見れば、自分がどんなに正しい行いをしていると思っていても、人は罪人です。そのような罪人が「自分の義」を誇ってみたところで、それは罪人の基準で誇っているにすぎません。要するにそれは罪でしかありません。私たちが義である、すなわち正しいとされることは、主があわれんで正しいと認めてくださる以外にありません。そして、そのように憐れんでいただく道は、イエスさまが自分の罪の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じ受け入れること、これしかありません。  しかし、キリストを信じ受け入れるということは、ただ単に口で唱えるように「信じます」と言いさえすれば、自動的に永遠のいのちが与えられるなどと考えてはなりません。10節、11節のみことばをお読みします。……イエスさまをほんとうに信じ受け入れたならば、その先には、キリストの苦難と十字架、そして復活にあずかる生き方が待っています。しかしそれは単に苦しんで終わるものではなく、神さまのみこころに従いゆく、この上なく喜ばしいものです。  さて、私たちがイエスさまを信じ受け入れているならば、救われていることは確かなことですが、それで充分なのでしょうか? もはやそれで信仰生活は卒業なのでしょうか? そうではありません。まずは12節です。……これが、私たちの今の状態です。例えるならば、ダイヤモンドのような宝石を、原石で掘り出したままのような状態です。たしかにその原石は、それそのものでもものすごい価値があるのはたしかですが、精錬していないと、見た目にはただの石ころです。宝石としての用をなすには、精錬されなければなりません。同じように私たちも、たしかにキリストという素晴らしい宝を受け入れた器ですが、キリストの輝く生き方を目指していかないと、私たちはただの人たちと見分けのつかない人になってしまいます。  私たちはどう生きる必要があるでしょうか? 13節と14節です。……私たちがみな終わりの日にともにキリストの似姿として完成され、再び来られるキリストの御前に恥ずかしくなく立つ、よくやった、よい忠実なしもべだ、と主にほめていただく、そのことを私たちは目標として、日々走りおおせるものとなる必要があるでしょう。この目標を目指して、一心に走るのです。  もしこの歩みを人間的に捉えたならば、果てしなく厳しい歩みに思えるかもしれません。だれがそんな歩みができるものか! そう言いたくなるでしょう。しかし、私たちにとっては、決してしんどい歩みではありません。イザヤ書40章28節から31節までをお読みしましょう。……ちゃんと、走ってもたゆまず、歩いても疲れない、とあります。それは、神さまが恵みによってそうさせてくださるのです。  そして、このように目標を目指して一心に走る歩みは、喜びの歩みです。さきほど申しましたことの繰り返しのようになりますが、このように、まことの根拠に根差して喜んで歩んでいるならば、教会を破壊する者たちである、犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者に象徴される名前だけのクリスチャンを見分け、そのような者たちから教会を守ることができるようになります。いや、私たちが救いを心から喜んでいるならば、彼らのほうから教会を敬遠するようになるでしょう。彼らに似合うのは暗闇であって、光ではないからです。  ですから私たち教会は、もし、イエスさまの救いを得ているという喜び以外のものでお互いがつながっているならば、悪い者たちに付け入るすきを与えてしまうことになります。私たちはただ一緒にいたら楽しいからつながっているのでしょうか? 私たちのつどいは人間的なものであってはならないはずです。私たちは主を喜び、主によってつながらせていただく共同体である必要があります。  私たちはほんとうの意味で喜んでいますでしょうか? 心を点検していただきましょう。また、私たちはこの日々の歩みを、あたかも賞を得る喜びを心に描いて節制に節制を重ねるランナーのように、自分の肉を十字架につけつつ、まことの喜びを目指して御霊に導かれて歩んでいますでしょうか? この喜びの歩みは、ひとりでできるものではなく、教会がともに取り組むべきものです。互いに励まし合って、この喜びの歩みを終わりの日に至るまで全うする私たちとなることができますようにお祈りいたします。

死んではいけない

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章25節~30 メッセージ題目:死んではいけない  先週はテモテのことを学びました。本日、25節以下、エパフロディトのことに話は移っていきます。  いちおう、先取りして申し上げますと、エパフロディトは本日の本文によれば「死ぬほどの病にかかりました」。主にあって素晴らしい働きをする人、そういう人が重い病にかかるということは、往々にしてあるものです。ときには、いのちを落とす人がいます。もちろん私たちは、そのような悲しむべき状況にも主のみこころを認めるべきなのですが、しかし一方で、そのような病に陥ってしまった働き人がいるならば、その人のために熱心に、とりなして祈る必要があります。  もし仮に、私たちの群れに、そのような、病に陥った人が現れたとしたら……考えるだけでも悲しいことですが、ここは想像力をたくましくして、そのようなみこころが示されたらと考えつつ、エパフロディトのことを学んでまいりたいと思います。  まずは25節をお読みします。……エパフロディトは何としても早くピリピ教会に送らなければならない、という、パウロの強い決意がにじみ出ていますが、この25節では、パウロはエパフロディトのことをいろいろなふうに紹介しています。兄弟、つまり他人ではない、あたかも血を分けた兄弟のような存在、身内のような存在であると言っています。  教会では同じ信仰を持つ信徒のことを、兄弟姉妹と呼びます。これはただ単なることばの綾ではありません。兄弟、というのは、「血を分けた兄弟」という言い方があるように、同じ親に由来する血が流れていて、ゆえにどんなに「兄弟は他人の始まり」ということわざがあろうとも、絶対に他人になどなれない存在です。  信仰による兄弟姉妹はというと、同じ御霊が流れている人です。「血を分けた兄弟」ならぬ、「御霊をともにする兄弟」。ある意味、こちらの方がよほど「兄弟」としての絆が深く、また強いのではないでしょうか。  同労者、とは何でしょうか。読んで字のごとく、同じ働きをする人、というより、同じ働きに使命を共有して献身している人、という意味になるでしょう。ここで、パウロがエパフロディトのことを同労者と呼ぶのは、主のからだなる教会を立て上げるという同じ目標を掲げてともにチームを組んで労する仲間、ということです。  戦友、戦いをともにした友。私は国民皆兵の韓国で長いこと生活しましたが、韓国の男どもが寄り合うと、出てくる話題はきまって、軍隊のことです。私の世代より上の男たちは、3年は家から離れて軍隊の生活をするものと決まっていました。もちろんそれは、いつ北から攻めてくるかわからない中で、南の韓国を守る使命があるからですが、その絆はやはり、強力なものがあるようで、どの部隊にどの時期に属していたかを問わず、軍隊の話題は、韓国の男たちの間では鉄板の話題です。このときばかりは、みな、戦友という気持ちになるのでしょう。  パウロもまた、その使徒としての歩みは戦いの連続でしたし、今はというと、獄中にあってやはり戦いを体験しています。エパフロディトは、パウロがいま体験しているその戦いに、同じ心になって臨んでいる、パウロにとって友と呼ぶべき人、というわけです。  あなたがたの使者……そう、エパフロディトは、ピリピ教会からパウロのもとに送られた人でした。パウロが窮乏していたときにピリピ教会を代表して、パウロのもとに赴いて仕えてくれた、ピリピ教会の心とも呼ぶべき存在です。このエパフロディトのことを、早く、ピリピ教会に送らなければというわけです。  それでは、エパフロディトはピリピ教会とどのような関係を持っているのでしょうか? 26節です。……まず、エパフロディトは、ピリピ教会のすべての兄弟姉妹のことを慕い求めていました。とても会いたい、そして交わりを持ちたいと願っていたのです。しかし、それがかなわなかった問題が彼にはありました。それは、病気にかかったということでした。エパフロディトは病気ゆえに、ピリピ教会を訪問することができなくなったばかりか、自分のいのちさえ生死の境をさまよったほどでした。また一方で、この病気のことがピリピ教会の兄弟姉妹に伝わったことを、気にかけてもいました。 しかし、エパフロディトはどうなったでしょうか? 27節です。……ここで、主はだれのことをあわれんでくださったと書かれているでしょうか? まずはもちろんエパフロディトです。主は、彼のことをあわれんで、いやしてくださいました。  私たちの肉体は不完全なものであるゆえに、病気にもなります。しかし、病んでいる状態は主のみこころにかなうものではありません。主は、私たちが健やかであることを願っていらっしゃいます。私たちが病んだならば、私たちは病のいやしを切に祈り求める必要があります。また、遠慮なくお医者さんにかかる必要があります。  私たちは肉体が病気になるとき、とかく、気落ちして、このまま死んでしまえば楽になるのに、などと思ったりしないでしょうか? しかし、それは神さまのみこころではありません。私たちは生きてこそ、神さまの恵みをこの地上でともに味わえますし、生きてこそ、神さまのご栄光を顕すという、最高の生き方をさせていただけるというものです。  しかし、サタンはそのような神さまの大きな恵み、大きな愛を感じることも、感謝することもできないように、いま置かれている厳しい状況の方がよほど大きいかのように、私たちを間違った考えへと導こうとします。私たちはそんなサタンの誘惑に屈してはなりません。しかし、私たちはとても弱く、その誘惑に屈したほうがよほど楽だ、などとだまされてしまいます。だからこそ、そのような地獄の沙汰から守られ、救い出されるように、お互いのために祈ることが大事になるのです。  エパフロディトはといいますと、死ぬほどの病という試練の中にありました。しかし、エパフロディトにまだこの地上での使命を与えておられた主は、彼のことをいやしてくださいました。そしてこのいやしによって、パウロもまたあわれみをかけられました。兄弟、同労者、戦友と、はばかることなく呼ぶことのできるエパフロディトが死にそうになるなんて、パウロはどれほど悲しかったことでしょうか。苦しかったことでしょうか。  しかし、エパフロディトがいやされたことは、パウロがこの悲しみに沈んでしまうことがないように、パウロのことも主があわれんでくださったということでした。  このことは何を教えていますでしょうか? 私たちの間で兄弟姉妹がいやされることは、私たちもまたあわれみを受けることである、ということです。もし、私たちの間で病を持つ人がいるならば、その兄弟姉妹のために心からお祈りすることが大事です。主がその祈りを聴いてくださり、いやしてくださるならば、私たちもまたとない慰めをいただくことになります。  だから、私たちもともにあわれみをいただくために、弱さや痛みを抱えている兄弟姉妹をおぼえてお祈りすることが何よりも大切です。私たちにはお互いの痛みが見えていますでしょうか? その痛みが、わが痛みとして伝わっていますでしょうか? 苦しくてたまらないでしょうか? そのときこそ、私たちは祈るべき時です。   28節をお読みします。……エパフロディトはいやされました。このエパフロディトに会ってほしい、パウロはピリピ教会の信徒たちに対して、心からそう願っています。パウロもまた、かつてピリピ教会がその教会の心を送るように、パウロにエパフロディトを送ったように、今度はパウロも自分の心のようにエパフロディトをピリピ教会に送るのです。  28節、29節、この両方を合わせ、「喜び」ということばが2回登場します。主の働き人と再会すること、交わりを持つこと、主のいやしを実際に目にして主をほめたたえること、いずれも、「喜び」です。これほど喜ばしいことはありません。これは主にあって喜ぶことであり、この世の求めるような、一時的で長続きしない喜びとは根本的に異なります、私たちの求めるべき喜びが、主にある喜び、いつまでも続く喜びであることは、申し上げるまでもありません。  29節の後半から30節までをお読みします。……エパフロディトを尊敬しなさい、と、パウロはピリピ教会に奨めています。それはなぜか、キリストの仕事に献身して、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからだというのです。ここで、エパフロディトの病気が、実は主に献身した結果引き起こされたものだったことがはっきりします。そしてそれはまた同時に、本来ならばパウロがピリピ教会に対してなすべき働きを、エパフロディトがパウロの肩代わりをした結果もたらされた病気でした。 これで、パウロが心を痛めたほんとうの理由がわかってまいります。教会を牧する働き、宣教の働きは、リーダーひとりの頑張りでなんとかなるものではありません。リーダーがひとりで働けなくなるならばその分、リーダーの意を汲んで働きを肩代わりする働き人が必要となってきます。しかし彼らが主に熱心に献身するあまり、健康を害したとしたらどうでしょうか? そのような働きに遣わしたリーダー、またその働きの対象である共同体は大きな悲しみを背負うことになります。ここでは、エパフロディトの重い病に対し、パウロとピリピ教会が重い責任を担うことになるわけです。  実はパウロは、この手紙を書く以前、宣教の働きを展開していたとき、その働きの中で、ひとりの人が肉体の弱さのゆえにいのちを落としてしまった、そのようなことを経験しています。使徒の働き20章7節から12節です。……この最後、「ひとかたならず慰められた」という表現に注目しましょう。主のみことばに夜を徹して耳を傾ける素晴らしい時間に人が死ぬなんて、トロアスの共同体に訪れたショックと悲しみはどれほどのものだったことでしょうか。パウロも、ユテコを抱き起したときに感じたものは、おそらく重い責任だったにちがいありません。いったいなんということだ、夜を徹して長く語った結果、人が生きるどころか、死ぬなんて!  しかし、ここにも主はあわれみを成してくださり、ユテコを生き返らせてくださるとともに、トロアスの共同体に豊かな慰めを与えてくださいました。夜を徹してみことばに耳を傾けようと努力した末に死んだユテコが生き返ったように、パウロに代わって宣教の働きに献身して重病にかかったエパフロディトは、死の淵から生還しました。このような働き人は、宣教に献身するあまり投獄されたパウロ同様、尊敬をもって教会に迎えるべき人であるというわけです。私たちはお互いが、宣教に献身している兄弟姉妹です。お互いを尊敬しつつ歩んでまいりましょう。  主との強い結びつきの中で、人は主からのかけがえのない使命を与えられ、信仰の友とともにその使命を果たす……エパフロディトもそうでした。これが、私たちのあるべき姿です。主との交わりを求めましょう。主からの使命を求めましょう。そして、その使命をともに果たす友を求めましょう。主は必ず私たちの働きを通して、ご栄光を現してくださいます。  私たちはその使命を見失ってしまうならば、生きているようでも死んでしまうことになります。私たちはけっして死んではいけません。しかし、私たちが主との交わりを保ち、主にある交わりをお互いが保つならば、私たちは主からの使命をわがうちに保つことになり、私たちは生きるのです。生きる喜びに燃えるのです。そのようにして、決して死んではならない私たちが生きるものとされるとき、主は私たちをとおして、ご栄光を顕してくださいます。

働き手の模範テモテ

聖書箇所;ピリピ人への手紙2:19~24  メッセージ題目;働き手の模範テモテ  私の神学校時代、いちばん仲のよかった友だち、それは、フィリップという韓国系アメリカ人でした。背が低くて小太りの、ブルドッグのようにずんぐりむっくりした体形で、女の子の神学生に人気がありましたが、その人気は言ってみれば、「『男はつらいよ』の寅さんが女の人に好意を持たれる」というレベル……あ、これ以上何か言うと悪口になりそうでやめときますが、まあ、そういう、いい奴でした。  そのフィリップは、アメリカ育ちだけあって、とかく名前を覚えにくい神学生たちに、アメリカ式の名前をつけることをよくしていました。日本人にとっても、よほどの韓流ファンじゃなければ、韓国人の名前は覚えにくいと思いますが、アメリカ育ちにとってはなおさらそのようです。「ヒョンジュ」さんという女子学生には「パール」、同じく女子学生の「ユンジン」さんは「ユニス」、いつも2人で一緒にいた若い神学生「ソンウン」と「ヨンファン」は、「トム」と「ジェリー」……。それで私はフィリップに尋ねました。なら、俺はなんて名前になるんだい? するとフィリップは言いました。「ん-、トシは『ティモシー』だと思うねえ。」  なるほど、と思いました。ティモシーとは「テモテ」ですが、テモテの信仰は、父親譲りというよりも、ユダヤ人の婦人であった母親のユニケ、そして母方の祖母であったロイス譲りだったことを、パウロは書簡の中で明かしています。私はといいますと、もともと母が先に信仰を持って私のことを教会に連れていったわけですし、私がクリスチャンになる前に、祖母の若谷はるがクリスチャンになっています。ロイスとユニケの信仰がテモテに引き継がれた、という構図と同じです。私はフィリップに、自分は母方の祖母もクリスチャンだとか言ってはいなかったはずなので、フィリップ、なかなか鋭いな、と思ったものでした。  まあ、私は、ほかのルームメートの教会の牧師先生が「テモテ」と名乗っておられたので、畏れ多くて、というより、その神学性に遠慮して、テモテなどとは名乗りませんでしたが、しかし、聖書に登場するテモテがわが牧会人生における一つのモデルではなかろうか、このテモテから積極的に学ぼう、とは、ずっと思ってきたことでした。  今日学びますみことばは、テモテの存在にスポットが当てられています。私たちはパウロと弟子のテモテの関係から、どのようなことを学ぶことができますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  19節です。……パウロは、ピリピ教会の様子をとても知りたいと願っています。使徒パウロとピリピ教会の絆は、パウロがともにいて牧会していたときにとどまりませんでした。こうして離れていても、パウロはピリピ教会とつながりたいと願っていました。それは、先週までも見てきたとおりです。  現代のように、スマホを見ればだれとでもつながっているように思えてくる時代とはわけがちがいます。ましてやパウロは獄中におりました。パウロのことを想像してみてください。パウロは、支えてくれる存在を必要としていました。それなら、獄中で宣教の働きから切り離された状況にあるパウロを支えていたものは、いったい何だったのでしょうか?  それはやはり、自分が手塩にかけて牧会した信徒たちが、主にあって歩んでいる姿にふれること、これではなかったでしょうか? ほんとうに健全な教会は、強い指導力を持った指導者が何らかの理由でいなくなったとしても、教会を構成するひとりひとりが主との深い交わりを持ち、しっかりと教会を建て上げている教会です。パウロがもし、ピリピ教会がしっかりと主にあって歩んでいることを確かめることができたならば、それは彼にとってどんなに心強いことでしょうか。そしてそのことを、どれほど主に感謝したことでしょうか。  パウロはそのために、やはり手塩にかけて育てた牧会者、テモテをピリピ教会に送ることにしました。テモテはパウロにとって、わが子も同然の働き人でした。新約聖書のテモテへの手紙第一と第二を読んでみると、パウロがどんなにテモテのことを可愛がり、またしっかりするようにと励ましていたか、よくわかります。このテモテが、パウロにとっての全権大使のような使命を帯びて教会に遣わされるという記述は、このほかにもコリント人への手紙第一に出てまいります。パウロという牧会者の心を伝える人として、とても信頼されていたことがわかります。  私は、この夏で、この教会に招聘していただいて12年目になりました。逆に言うと、教会はそれだけ、牧会者である私とともに歩んできたということでもあるのですが、ということは、みなさまのうちに、足かけ12年分の「私の心」が育っていてしかるべきだった、ということになるわけです。  私はこれまで51年の人生で、入院と名のつく経験を合わせて12回にわたってしてまいりました。病室の天井を見つめながら身動きも取れないで、看護師さんにおしもの世話をしていただかなければならなかった、そんなことも昨日のように思い出します。そんな私は、今こうして生きているだけでも奇蹟だと思いますし、このいのちを粗末にしないで、からだを大切にしたい、と、ますます思うようになりました。お年寄りになると話題は健康のことばかり、という気持ちが、このところ、身にしみてわかるようになりました。そんな私ではありますが、どんなに気をつけていても、いつ、神さまに呼ばれてこの地上を去ることになるかかわからないな、そんな思いになることがよくあります。  天国に行けるならば、それはすばらしいことにはちがいありません。しかしそれでも、私には一抹の不安があります。果たして、私が何らかの形でいなくなったあとも、この、水戸第一聖書バプテスト教会という群れは、主日ごとの礼拝を欠かすことなく、神さまのみことばを求め、祈りつつ進んでいけるだろうか? 私は何も、教会が韓国に特に重荷を持ってほしいとか、弟子訓練のモデル教会になってほしいとか、そんなことを思ってなどいません。ただ、日々こつこつとみことばに聴き、祈りつつ、遣わされたそれぞれの場で主のご栄光を顕す働きをなすべく、励まし合い、祈り合う群れとして、イエスさまの来られるその日まで保たれてほしい……そう願ってやみません。  一方で私たちは、パウロがテモテを育てたその模範が、いまやだれの目にも触れる書物である聖書に記録されていることの意味を、もう少し真剣に考えてみたいと思います。  私たちはみな、主の働き人として用いられることができます。私たちは教会という場で信仰の訓練を受けるにあたって、時間というものの持つ大切さを認める必要があります。ヘブル人への手紙の著者は読者に対し、かなりきついことを言っています。「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。」  実は、教師、といいますか、主のみことばを伝える働き人、というのは、あんがい早く育つものです。私の母教会では、バプテスマを受けて2年もしないうちに日曜学校の教師になる人などざらでしたし、あの福音歌手の岩渕まことさんに至っては、クリスチャンになってわずか1年で、福音歌手としてアルバムデビューしています。そのたった1年後、つまり、クリスチャンになってわずか2年で、岩渕さんはオリジナルの作詞作曲のアルバムも発売しています。  そういうわけで、人がいざ神の人として育とうという意志を持つならば、神さまは早く育ててくださるのです。それなのに、私たちが与えられた時間を有効に活用してみことばを学ぶことを怠っているならば、いつまでたっても用いられる働き人になることはできません。  しかし、それなら私たちを、時間を有効に用いて学ばせるその動機は、何であるべきでしょうか? やはりそれは「ビジョン」です。テモテはその点で、明確なビジョンをもって主の立てられた指導者パウロについていった人でした。教会形成こそ、主のみこころ、主のご栄光を顕す道である……そのビジョン。  初代教会は多くの働き人を必要としていました。なにしろ、使徒ペテロの最初の説教だけで、3000人もの人が弟子に加えられるほどの大リバイバルが起こっていました。働き人がいくらいても足りない状態でした。その一方で、主の教会を牧するにはそれなりの資質を備えている必要がありました。このような増殖する一方の初代教会で指導者になるには、短い時間で濃密な厳しい訓練に耐えるしかなかったわけです。テモテはその訓練に合格し、こうしてパウロのもとで忠実に働きを成しているというわけです。  では、そのテモテがピリピ教会に遣わされるのにふさわしかったのはなぜでしょうか? 20節にその理由が書かれています。……ピリピ教会を手塩にかけて育てたパウロと同じ心になって、テモテもピリピ教会のことを心配している、そして、そのように心配する者はテモテをおいてほかにいない、ピリピ教会を愛してやまないパウロはそのことをよくわかっている、というわけです。  テモテがこのように、ピリピ教会を特別に気にかけていたのはなぜでしょうか? それは、主が特別に、ピリピ教会に対する思いをテモテに与えておられたからでした。特定の教会に対する思い。みなさん、この思いは大切にしてください。私たちならば、この水戸第一聖書バプテスト教会に対して特別の思いをいだくように召されています。  まことに、教会を愛する愛は賜物です。この愛があってこそ、私たちは教会がよりよくなるために、祈りつつ励むことができるというものです。  しかし、私たち人間の実際の姿はどのようなものでしょうか? 21節です。……これが、私たちなのです。私たちは主の恵みがなければ、いかにクリスチャンといえども、イエスさま中心の生き方をすることなどかなわないものです。  21節。よく、キリストの福音とはご利益信仰ではない、と強調されますが、しかし私たちはなんと、この世のあらゆる宗教が祈り求めるような、ご利益信仰に神や教会を利用したがるものでしょうか。どうかいい学校に合格できますように。どうかいい会社に入れますように。いや、悪いと言うべきではないのでしょうが、しかし、そんなことを求める私たちの心の動機はどうなのでしょうか。私たちは神の栄光が顕されることを第一に求めているのでしょうか?  そのうえでなお、そのようなこの世的な祝福を求めることがみこころにかなっているという強い御霊の促しを受けているというなら、まあいいでしょう。しかし、そんな神さまからの確信もなく、ただ、人に認められたい、自分が気持ちいい思いをしたい、という、まことに肉的な思い、御霊に逆らう思いで祈り求めるだけならば、それは「自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めて」はいない「みな」、一般ピープルに含まれるだけの、ただの人にすぎないわけです。そんな祈りしかささげないならば、そんな動機でしか行動できないならば、それはクリスチャンとして恥ずべきことです。悔い改めるべきことです。  そんな私たちがならうべき模範、それは、テモテの生き方です。22節です。……テモテがどんなに牧会の働きに献身していたかは、ピリピ教会の認めるところでありました。それは、「子が父に仕えるように」という表現に集約されているように、自分にとって師匠であるパウロの教えを充分に吸収し、実践し、あたかもパウロの分身のように働いて、このよき知らせ、福音をピリピ教会に解き明かすことに従事しました。そして23節にあるとおり、パウロはこのテモテを、今度はピリピ教会に遣わそうとしているというわけです。  福音というものは、創造主なるイエスさまが十字架と復活をもって公に示されたものであり、それは聖書の記録をもって、働き手のその宣教の働きをもって、人々に宣べ伝えられました。ゆえに私たちはまず、みことばにとどまることが大事です。具体的には、聖書全体を誤りなき真理なる神のみことばを信じ告白し、それゆえにみことばを大切にすること、毎日じっくりとみことばを黙想し、また、みことばを通読すること、みことばの解き明かされる場である礼拝を大事にすること、聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うこと、そのようなことをもって、みことばにともにとどまるべく、努め、励まし合うのです。  そこから私たちは、そのみことばを毎日守り行うのです。単なる人生修養、お勤めのようなことではなく、人々にイエスさまの愛が伝わるように励んでいくことです。しかし、その実践をするには、私たちは知恵も力もあるわけではありません。その弱さを神と人の前に謙遜に認め、しかし、それでも神を愛するゆえ、人を愛する行動ができるように、知恵と力を求め、示されたことを勇気をもって実践していくのです。  そうすることで私たちは、人々を導けるだけの人を育てられるほどの人になれます。嘘ではありません。テモテへの手紙第二2章2節、最後にこのみことばをお読みして、私たちもそのようになれるように、祈りをもって力を求めてまいりましょう。

世の光として輝く

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章12節~18節 メッセージ題目;世の光として輝く  パウロ先生はおっしゃいました。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。では、みなさまに問わせていただきたいと思います。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。そう言えますでしょうか?  ひとくちに「福音を宣べ伝える」と申しましても、それはただ単に、「神さまは愛です、しかし神さまは正義です、神さまの愛と正義をともに実現するために、イエスさまは十字架にかかられました……」といったことをだれかに語ってあげることにとどまりません。もちろん、そういうことはとても大事なことであり、そういうようにイエスさまをご紹介しなければ、人々は私たちが何を信じているか、どのようにすれば神さまを信じることができるか、知りようもありません。絶対必要です。  しかし、私たちが福音を宣べ伝えるということは、なによりも、生き方を人々に見せることをもってなされるべきです。私たちがいかに、「私はクリスチャンです、福音を信じ受け入れましょう」と人々に言ってみたところで、そのことばにかなっていない生き方しかできていないならば、話にならないわけです。そのような人はかえって、神さまのご栄光が現れるということにおいて、妨げにしかなりかねません。そういう人はできれば、自分はクリスチャンだなどと名乗らないでいただきたいくらいです。  もちろん、うちの兄弟姉妹がそんな失格者ではないことは、私はよく存じ上げています。そんな私たちですけれども、世の光として輝き、主の栄光を顕し、私たちを救ってくださった救い主キリストをこの世に示す生き方をしていきたい、そのようにして福音を宣べ伝える、幸いな人になりたい、そう願いませんか。それにはなによりも、みことばを学ぶ必要があります。ともに見てまいりましょう。  まずは12節です。……この短い節には、実にいろいろな要素が含まれています。第一に、いつも従順であったように、というみことばからわかるように、ピリピ教会の聖徒を特徴づけていたことは、「従順であった」ということです。  従順である、ということは、キリスト者として身に着けるべき特性ではありますが、これを身に着けることは実に難しいことです。なぜならば、私たちはとかく、自分の生きたいように生き、やりたいようにやる存在だからです。  そういう、自己中心で生きていた私たちが、神さま中心で生きるようになるとき、私たちは従順という特性を身に着けることができるようになります。しかしそのためにはどうすればいいでしょうか? 砕かれている必要があります。自我に死んでいる必要があります。自分の自我を、十字架につけている必要があります。そうじゃないから、私たちは自分の好きなように生きたくなるのです。砕かれなければなりません。  では、そのためにはどうしなければならないでしょうか? あえてきついことばを使いますが、自分に絶望する必要があります。しかしこれは、自暴自棄になりなさい、という意味ではまったくありません。そうではなく、自分は何者でもない、と、とことんまでも思うことです。  自分はイエスさまを十字架につけてしまったほどの罪人ではないか、自分はなんとひどい罪人なのだろうか……そのように私たちは、日々十字架の前に自分を差し出し、ひたすらにあわれみを求めることが必要です。そのとき私たちは、よみがえってくださったイエスさまが優しく私たちの手を引いて、いのちの道へと導いてくださるのを知ることができるようになります。私たちはただ、その手を引いて歩き出すのみです。そのとき私たちは、従順の歩みに喜んで自分自身を差し出すことができるようになります。  ピリピ教会の人はそれができていました。それができたのは、パウロがピリピ教会を牧会していたとき、そのように彼らのことを導いたからです。しかし今は、そのように導いた群れからパウロは遠く離れていました。そこで、パウロは改めてピリピ教会に、従順ということを強調する必要がありました。そうです、教会の群れが主に従順であるためには、そのように導く指導者を必要としています。  とは申しましても、聖書のこの箇所を読みさえすれば従順な生き方がいつでも、だれにでもできるわけではありません。この箇所がピリピ教会にとって意味があったのは、これを書いたパウロが、心血注いでピリピ教会を育ててくれた人であったからです。私たちは、牧会者の導く教会から離れて、従順の歩みをなしていくことはできません。もし私たちが従順でありたいと願うならば、とにかく教会から離れないことです。私も、愛するみなさんが従順の歩みをなすために召されていると考えると、身震いするような思いですが、主の恵みによってこの任に謙遜にあたらせていただくのみです。  では、従順であることはどのような奨めへとつながるでしょうか? パウロがともにいたときはもちろんのこと、パウロのいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい、ということです。  従順であるためには教会という場において牧会のもとに身を置くべきことは、今申し上げたとおりです。しかし、牧師は四六時中、みなさんの霊的生活を見張ることも管理することもできません。いまはLINEのようなお互いがつながるための便利なツールがありますが、それとて、みなさんの生活を四六時中、まるで監視するように管理することなどできません。  あの大使徒パウロにしても、ピリピ教会に手紙を送ることが、彼にとって精いっぱいできることでした。みなさんにしても、牧師の面前ではない、教会の人たちの面前ではないときが、ほんとうの自分であると考えるべきです。それでもそのときには変わらず、神さまの御前に私たちはいます。目に見えない神さまを、私たちは意識できていますでしょうか? そのときも私たちが、主の御前で徹底して生きることができるか、これが従順の生活における鍵です。  そのように、牧会者がともにいないような状況において、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」とあります。この手紙全体を読んでみますと、ピリピ教会は実に模範的な素晴らしい教会だったことがわかります。しかし、そんな教会でも、このようなパウロの奨めを必要としておりました。いわんや私たち、使徒パウロに直接教えを受けていないような者たちは、どれほどこのみことばを必要としていることでしょうか!  私たちは砕かれても砕かれても、なお自我の生きているようなどうしようもない存在です。牧会者がともにいなかろうとも、救いを達成しなければなりません  救いというものは、一生かけて達成するものです。イエスさまを受け入れ、バプテスマを受けてから、そのいのちが地上から取られるまで、私たちはひたすら、主の御前に徹底して生きていくべき存在です。その従順の歩みをさせまいとする自我を絶えず十字架につけ、みことばをつねに開き、つねに祈りつつ歩む存在です。  さて、この奨めは個人に対してではなく、ピリピ教会全体に対してなされていることも心に留めましょう。救いの達成は、教会全体で取り組むことです。私たちがみなそろって救いを達成できるように、私たちの中から落後する者が出ないように、互いのために祈ることです。互いのために祈るためには、互いに対して関心を持つことです。  むかし、ある伝道者の先生が、教会の中ではあまり世俗的な話をしないで、もっと聖なる話をしてほしい、なんてことをおっしゃっていましたが、私は基本的には同意するものの、一方で、俗っぽい話も大歓迎だ、と思っています。そのようにざっくばらんに話すことで、お互いに対してオープンになるほうが、しゃちほこばって聖なる話をしようと努めるよりもよほど自然ですし、お互いのことをイメージしやすくなり、とりなして祈りやすくなれます。そして普段の生活の中で、ふとその兄弟姉妹のことを思い出したならば、その兄弟姉妹をおぼえて祈りましょう。祈ることは、ともに救いを達成する歩みを続けていけますように、ということです。  13節にまいります。有名な箇所です。これはちょっと、みなさんで声に出してお読みしてみましょう。……このみことばは、学生時代、好んで暗唱する若者によく出会ったものでした。しかしこのみことばは、単なる可能性思考、積極性思考を主が後押ししてくださるみことばだと解釈してはなりません。その「志」や「事」が、主が導いてくださったことだと確信するあまり、後に引けなくなってしまい、頑張りすぎたり、周りの人たちを巻き込んで迷惑をかけたりといったことが起こるならば、目も当てられません。  この13節は、その前の節の12節のつづきとしてとらえるべきです。ここでいう志とは何でしょうか? 救いを達成する従順の歩みをしたいという志です。事とは何でしょうか? 救いを達成するための従順の歩みそのものです。そういう前提で読むべきですから、自分の野心は神から来たものだ、文句あるか、とばかりに振る舞う根拠として、このみことばを用いることは、まったく間違っています。  ですから、救いを達成するための従順の歩みも、主がその思いを与えてくださり、主がその歩みを一歩一歩導いてくださると考えるべきです。そうです。この歩みは、自分の意志、自分の頑張りでできるものではありません。私たちが従順などということばを聞くと、いかにも自分が頑張らなければとイメージしてしまいがちではないでしょうか? しかし、聖霊の導きというものは、そんな苦しいものではありません。  でも、もしかして、従順でありたいと願うあまり、苦しくなったりしてはいないでしょうか? そういう場合はちょっと静まって、主との交わりを回復する必要があります。もし、うちの教会に、疲れているメンバーがいらっしゃるならば、その人がきちんと休んで主のとの交わりの中で回復できるように、いたわってあげましょう。  その流れで14節をお読みします。……これだって、言われたことはつべこべ言わずに何でもやれ、という意味にとってはなりません。  このみことばは、はっきり間違っているものに対する疑問や不満、不安に蓋をして、思考停止をしてロボットのように行動しなさい、などという意味ではありません。このみことばをここだけ切り取って守り行おうとするならば、教会が目も当てられないカルトになってしまいます。  やはりこれも流れの中で読みましょう。ここで言うすべてのこととは、救いの達成のための従順の歩み、ということです。みことばをお読みするとしばしば、従いにくい箇所、わかりにくい箇所に出会います。時には、受け入れがたい箇所に出会うこともあるでしょう。そういうとき、私たちは自分の感情を優先すべきでしょうか、それともみことばを優先すべきでしょうか? そう、もちろん、みことばです。もちろん、聖書に対する疑問を持つことは健全なことです。しかしその疑問を持ったとき、だから聖書は間違っている、と考えるならば大きな問題です。疑問は疑問として、主がそれでもよいように導いてくださるという信頼を抱いて、御手に引かれてまいりたいものです。  15節と16節は、なぜ不平を言わずに、疑わずに行うべきかということの理由を記しています。それは、結論から言えば、私たちが曲がった邪悪な人たちに満ちているこの世の中で、傷のない神の子どもとして生きるため、そして、世の光として輝くためです。  不平を言わず、疑わない従順の歩みにより、世の光として輝くことは、このみことばによれば3つの要素を含んでいます。第一に、非難されるところのない純真な者となる、ということです。うちの教会にも小さなお子さんがいますが、子どもというものは、大それた罪を犯すことなどそもそもありえない存在です。その、純粋な子どものように純真な、非難されることのない者になる、ということです。ここで要求されていることは、悪いことははっきり悪いと判断でき、その悪いことからきっぱり手を引くことのできる勇気と実践を備えた人になる、ということです。そのようにして、私たちの中から非難されるべき悪いことを取り除ける人になる必要があります。  しかし、私たちは簡単にその歩みができるわけではありません。私たちは自分の努力で純真な者になどなれません。私たちは日々、御霊の交わりを体験する必要があります。御霊なる神さまに、私たちの心の中の罪をひとつひとつ照らし出していただき、ことごとく悔い改める歩みをなしていく必要があります。  第二の要素は、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもになる、ということです。私たちの生きている世界は、天国ではありません。イエスさまに従おうとしない人たちに囲まれて生きています。私たちはそのような世界に生きていると、ともすればこの世に調子を合わせて生きるほうがよほど楽だ、などとならないでしょうか。  しかし、そのように世に流されて生きるならば、私たちの従順の生き方は傷つけられてしまいます。主ではないものに従い、気がつくと私たちの人生は、主の恵みをまるで感じられなくなってしまいます。私たちはそのようなものに囲まれて生きようとも、決してそれに溺れることなく、自分を保つ必要があります。自分を保つためには、何がみこころにかなっていることであり、何がかなっていないことであるかを、つねにみことばから学ぶ必要があります。みことばを読むことも大事ですし、みことばを解き明かす信仰書籍を読むことも大事ですし、みことばを実践した証しに耳を傾けることも大事です。そのようにして、みことばの基準を自分の中に確立し、みこころにかなうものを採り入れ、みこころにかなわないものから身を避けてまいりたいものです。  第三の要素は、いのちのことばをしっかり握る、ということです。そう、みことばを読むことが大事です。それも読み流すようにただ読めばいいのではなくて、みことばを握ることです。  握る、ということがイメージできますでしょうか? 握ったら離さない。ひたすら握る。崖を登るとき、目の前のロープをしっかり握って登るはずです。そういうふうに、ひたすらにみことばにしがみつくことです。読み流すのではない、しっかり頭に刻み込む、折にふれて思い出し、そのみことばを唱えながら祈る。 これらすべてのことを通して、私たちは世の光として輝きます。ことばを変えれば、主のご栄光を現します。そのためにも、私たちは純真な者とされるように、御霊の満たしと導きを絶えずいただきましょう。みことばの基準を自分の中に確立しましょう。そして、みことばそのものを自分の中にしっかり蓄えてまいりましょう。 16節の後半以降、18節まで、パウロのメッセージはにわかに終末的な様相を帯びてきます。それはこの世の終末でもあり、パウロ個人の終末でもあります。「そうすれば」以降、18節の終わりまでお読みします。……16節をお読みしますと、パウロは終わりの日、キリストが再臨される日に、ピリピ教会の聖徒たちが主の栄光を現す者となるように仕えることができたことを、御前で誇ることができる、と語っているわけです。 パウロがそのように教会に献身してきた姿勢は、17節の表現で明らかになります。ピリピ教会が心から主の御前にささげている礼拝とともに、パウロはいずれ、自分のいのちを主にささげることを語っています。注ぎのささげ物というのは、子羊のいけにえとともにささげる強いぶどう酒のことを意味しています。子羊イエスさまの十字架の犠牲とともに、殉教の血を流すことをパウロは予見しています。パウロは主の御国に献身したゆえに、この地上では迫害を受け、殺されます。しかし、私は喜びます、と語っています。そればかりではなく、あなたがたも一緒に喜んでください、と、このわずか2節のうちに四度も「喜ぶ」ということばを用いて、ピリピ教会の聖徒たちに「喜ぶ」ことを強く勧めています。 普通に考えれば、パウロが殉教することは、パウロが愛情込めて育ててきた教会にとって、喜べることなどではありません。悲しむべきことです。しかしパウロは、どうか人間的なことを考えず、主の視点に立って物事を見てほしい、と勧めているのです。自分の死によって福音の正しさが証しされるならば、これ以上のあかしがあるだろうか、これ以上主のご栄光が現れるだろうか、ピリピ教会の兄弟姉妹、どうか、われわれが主のご栄光をいかに現すかということを何にもまして考えてほしい……。 主の栄光が顕されるならば、それは喜ぶべきことです。しかし、その喜びを究極的に体験できるのはいつでしょうか? この地上で救いを達成する歩みを成し遂げたあかつきに、キリストの日、終わりの日に、主の御前で心からの礼拝をおささげする日です。その日、主のご栄光は、今まで見たこともないような輝きで輝きます。私たちが主のご栄光を仰ぎ、主のご栄光を現すのです。私たちの地上の歩みは、その最後の日の究極の礼拝に向けての練習、予行演習です。 もう一度12節をお読みしましょう。お祈りします。

「生きることはキリスト」の意味

聖書箇所;ピリピ人への手紙2章1節~11節   メッセージ題目;「生きることはキリスト」の意味  先週の主日礼拝の聖書本文に、パウロのことばとして、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」というみことばが登場します。「死ぬことは益です」、なかなか衝撃的なことばではありますが、最終的に苦しみも悲しみもない天の御国に入れられるパウロの思いを考えれば、それは理解できます。では、「生きることはキリスト」の方はどう考えるべきでしょうか?  私がこのみことばをはじめてお読みしたのは、高校2年生のときで、当時の聖書の訳だった「新改訳聖書第二版」も、同じ訳し方をしています。「生きることはキリスト」。なかなか衝撃的な表現で、また、チャレンジを与えてくれるみことばだと思いました。  しかしそれなら、私たちは「生きることはキリストです」と言い切れるような生き方をしているでしょうか? いや、もし現実にできていなかったとして、それならどのような方向性で生きる必要があるでしょうか?  それを語っているのが、今日の箇所です。前半は、「生きることはキリスト」をいかに実践すべきか、ということを語り、後半は、そのキリスト・イエスなるお方はどのように生きられたか、を語っています。   まず、今日の本文の1節をお読みします。……あなたがたピリピ教会がもしこれこれこのような教会だったら、と、理想的なキリストの教会のあり方について4つないしは5つの特徴を挙げて述べています。ひとつひとつ見てまいります。第一に理想的な教会は、キリストにあって励ましがある教会です。  私たちはこのきびしい世に生きている以上、傷つきますし、倒れそうにもなります。いったい、励ましを必要となんてしていない人が、教会に来るものなのでしょうか? 私たちはみな、周りの兄弟姉妹から励ましをいただいてよいのです。どうぞ、遠慮なく弱い自分をさらけ出し、みんなに励ましてもらってください。その代わり、こちらも同じくらい人を励ましていく必要があります。私たちは、励ましを必要としている兄弟姉妹の存在に気づいていますでしょうか? どんなことで励ましを必要としているか、単に察したりとか、噂で聞いたりとかというレベルではなく、きちんと親身になって聞いてあげて、祈ってあげているでしょうか?  第二に「愛の慰め」のある教会です。慰めとは何でしょうか? 傷ついている人、さびしい人、落ち込んでいる人のいたみをいやすべく、やさしいことばをかけることです。あるいはことばでなくても、同性同士だったらハグしてあげるなど、触れてあげることでやさしさを伝え、いたみをいやす取り組みをすること、それが慰めることです。  「癒やし系」ってことばがありますね。一緒にいるだけで心安らぐような。そういう、いるだけで傷だらけの心が慰められ、いやされるような人になれたらな、などと思います。むかしいた教会で、まだ信者さんになったばかりの年上の男性から言われたものです。「武井先生はときどき、すごくおっかない顔をしています。」うんうんとうなずいた方がいらっしゃらないか不安です。私もそのおことばを聞いて以来、気をつけるようにしていますし、今回メッセージをつくるにあたって、そんな自分の失敗をあらためて考え、もっといい雰囲気をつくらなければ、と思わされました。  第三に「御霊の交わり」のある教会です。私たちの群れが単なる「聖書研究サークル」のたぐいではなく、「教会」と呼ぶべきものなのは、そこに御霊の交わりがあるからです。私たちは御霊によって、イエスさまを主と告白します。私たちは御霊によって、主なるイエスさまを信じ従う群れを形づくります。だから私たちはみな、水戸第一聖書バプテスト教会というこの共同体に、御霊なる神さまをつねに歓迎するお祈りをささげる必要があります。御霊を送ってくださり、私たちを一致させてくださり、絶えず主の恵みを分かち合う共同体として成長させてくださるように、私たちはお祈りする必要があります。  そして第四に「愛情とあわれみ」のある教会です。これは、「愛情とあわれみ」とセットになっていますので、「愛情のあるあわれみ」と解釈してもいいですし、「愛情」そして「あわれみ」と解釈してもよいでしょう。  愛情ですが、これはなんといっても、神さまの愛情、アガペーの愛。それがどのようなものかを知るためには、やはり、神さまがどのような愛情を私たちに注いでおられるか、日々みことばから学ぶ必要があります。  みことばを読まなければ、ああ、神さまはこんな私のことを愛してくださっているんだなあ、ということは、実感しようにもできません。そして、神さまの愛は自分ひとりだけが受けてそれで終わりでは、すぐになくなってしまいます。聖書全体を繰り返し読むことで身に着けた愛情を、家族、そして兄弟姉妹に注ぐこと、実際の行動に移してその愛を実践すること、これによって、神さまの愛情は群れのただ中に育ち、いつまでも保たれます。  そしてあわれみですが、これも主の御思いを持ってこそ、兄弟姉妹に注ぐことのできるものです。兄弟姉妹が苦しんでいるとき、私たちの心が動かされるならば、それでこそ私たちはキリスト者としてふさわしい者です。ヤコブの手紙2章13節に、あわれみを示したことのない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです、とあります。  正義を振りかざして人をさばくこと、これは、身もふたもない言い方をすると、とても気持ちよいものです。いかにも自分は正義の味方だ、神の義をこの世に成し遂げことをした、と、自分に酔っていい気持ちになります。しかし、それは神さまのほんとうのみこころである、愛、あわれみを、少しも実現してなどいません。  分かりやすい例として、創世記9章のノアの子どもたちのことを挙げることができるでしょう。家族とともに方舟に乗って大洪水を乗り切ったノアは、ブドウを栽培する人になりました。ある日、ノアは、そのブドウで造ったぶどう酒を飲んで、不覚にも酔っぱらって裸になって寝てしまいました。その姿を見た息子のハムは、かりにも父親のそんなあられもない姿はそっと何かかけてあげて隠してあげたらよかったものを、わざわざ、天幕の外に出て、兄弟のセムとヤフェテに、お父さんが裸で寝ていることをわざわざ告げ口しました。  それを聞いた二人はどうしたでしょうか? 二人して一枚の毛布を背中にしたまま、並んで後ろ向きに歩き、父ノアの上に毛布をかけてあげ、最後まで父の恥ずかしい姿を見ませんでした。  これがさばかないこと、あわれむことです。聖書のみことばは、セムとヤフェテのこの行いをほめ、ハムの言動を悪いものと評価しています。  私たちは聖書を読むと、どうしても、罪とは何か、とか、悪い言動とはどういうものか、ということが、見えてきます。しかしそれなら、そのみことばにネガティブに映し出された自分のことを悔い改めるという実が結ばれなければなりません。いけないのは、そのみことばを見て、ああ、○○さんもこうだ、このみことばを読んでほしいな、悔い改めてほしいな、と、人様に適用することです。これは、さばくことです。そういう読み方をしているなら、自分の目の梁も取り除けずに、人様の目のちりを取らせてもらおうとする態度であるわけです。  あわれみは、それとはちがいます。みことばを守り行いたくても守り行えない、その人はきっと、神さまの御前にとても申し訳ない気持ちでいるにちがいない……私たちのすることは、そんな人をさばくことではありません。その人に主のかぎりない愛とあわれみが注がれるように、祈ることです。そのようにあわれみを実践する人が、それこそイエスさまがおっしゃるとおり、あわれみを受けます。神さまから直接あわれみを受けることもありますし、神さまがだれか人をとおしてあわれんでくださることもあります。  ともかく、私たちキリスト教会は、キリストを主と告白し、御霊によって結び合わされている共同体です。日々キリストの似姿に変えられている集いです。今あげたような、キリストのある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを日々増し加えられている存在です。  パウロも、ピリピ教会がそのように成長していることを期待していました。そこで2節以下のように勧めています。まずは2節です。4つの奨めをしています。同じ思いとなりなさい。同じ愛の心を持ちなさい。心を合わせなさい。思いを一つにしなさい……なんと、同じことを、表現を変えながら、4度も繰り返し語っています。要するに、教会の兄弟姉妹はひとつになりなさい、ということです。  そうです、ひとつになること、ひとつであることは、教会にとってとても大事なことです。私たちはなにによって一致するのでしょうか。キリストにあって一致するのです。同じキリストを信じ、ともにキリストに従うことで、私たちには一致が与えられます。  パウロは、教会がそのようにして一致を保つことにより、自分の喜びが満たされると語っています。そう、ここでも「喜び」が出てまいります。あなたがたが一致を保つことが、私にはうれしいのですよ……パウロは、キリストにあってピリピ教会を産んだ牧会者として、心から奨めています。私たちも一致を保つならば、その姿を主は喜んでくださいます。  3節にまいります。……利己的な思いや虚栄によって行動してはならない、と戒めています。利己的な思い、そう、私たちは、自分さえよければ、という、罪深い思いにいつも捕らわれるものです。また、虚栄ですが、私たちは自分がほめられたい、自分を大きく見せたいという名誉欲に、いつも支配されそうになります。あの、主に反逆する人間の行動であった、バベルの塔を建てることも、「名を上げる」ことがその大きな動機としてありました。そういう「名を上げたい」思いが、キリスト教会の交わりの中に持ち込まれる危険がつねにあります。私たちは絶えずそれを警戒しなければなりません。  あえてこの場で申し上げますが、日本の教会は長らく、小さいこと、信徒も教会も少ないこと、要するに弱小なことに、コンプレックスをもってきました。私も長らく、そのひとりでした。  そんな日本の教会ならびにクリスチャンが、「強い」アメリカや韓国の教会と比較し、いずれは彼らのようになりたい、彼らのようになろう、という思いを、日本の牧師たちは信徒たちに吹き込んできたのではないかと思います。私も、アメリカや韓国の教会のようになれればいいな、と思ったのは事実ですし、何よりも私が韓国の巨大な神学校で学んだのは、そんな動機があったからでした。  しかし、その動機の中に、「利己的な思い」や「虚栄心」という名の偶像、すなわち、神さまのみこころと関係なく、そういう「大きくて強い」教会につながること、そういう教会の牧師となることへの願いがあったならば、それは神さまのみこころを成し遂げる動機であってはならなかったことになります。どうでしょう? これまで日本の教会は、アメリカや韓国の教会の中で質、量ともに大きくなった教会があると聞いたら、その秘訣を知ろうと、遠路はるばるセミナーに行って、学びに精を出したものでした。  しかし、そのような大きくて堅実な教会は、主との関係の中で建て上げてそのような強い群れになったわけで、それを、真似さえすれば教会を大きく、強くできる、という動機で牧会に採り入れようとするのは、実は利己的な虚栄心のたぐいではなかったか、私はとても悔い改めさせられています。だからこそ、私があのサラン教会で弟子訓練の牧会を体験しながらも、そのほんとうの目指していることを私が身をもって理解できるようになるまで、神さまは18年の長きにわたって、私にその牧会を実践することをお許しにならなかったのだ、と理解しています。  これは教会形成という点における利己心や虚栄心の問題です。教会形成という「きよい」みこころを祈り求める場にしてそうならば、いわんや私たち、この世と伍して生きていく身には、どれほど、利己心や虚栄心は、主のみこころを守り行う上で大きな妨げになるか、と、考えずにはいられません。  どうすればいいのでしょうか? へりくだることです。具体的には、ほかの人を自分よりもすぐれた人と思うことです。これがだれに対しても、心からできるならば、それは教会としてふさわしい姿です。そう、だれに対してもです。ちょっと癖があって受け入れがたい人のことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。小さな子どものことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。子どもや若者のことも、自分よりすぐれた人だと心から思うのです。  できますか? しかし、イエスさまはそのように振る舞われたお方です。イエスさまは子どもたちを邪魔者扱いする弟子たちを情け容赦なくお叱りになり、子どもたちひとりひとりに手を置いて祝福してくださいました。そしてイエスさまは、ひどい接し方をしてくる宗教指導者たちにも、最後まで忍耐してお相手してくださいました。イエスさまにとって、ご自身よりすぐれた人など一人としてこの世にいないのに、イエスさまはとにかくへりくだって人に接されました。このイエスさまのお姿にならうとき、私たちはだれのことも、自分よりすぐれた存在と見ることができるようになります。  4節にまいります。……前提として、私たちは自分のことを顧みる必要があります。私たちひとりひとりは、主につくられて愛されている、かけがえのない存在です。私たち人間は与えられたいのちを粗末にしてはなりませんし、主から自分に託された領域を、できる限り拡大していく必要があります。しかし、それをしたうえで、私たちは他の人たちのことを顧みる必要があります。  教会の交わりの中には、いろいろな事情によって、自分のことを顧みることもままならない人がいるものです。私は日本と韓国を何度か往復し、それぞれの教会のいろいろな面を見てまいりましたが、全体に日本の教会は、さきほど申し上げたことの繰り返しのようになりますが、弱い人が教会全体に占める割合の多い傾向があります。まさしく、この世の弱い者たちを主がお選びになったという、その摂理を見る思いがいたします。 しかし、この弱い人たちが弱いままでいて、いつまでも強くならないならばどうでしょうか。それがみこころにかなった教会形成と言えるでしょうか。私たちのうちにいろいろな面で弱さを抱えている兄弟姉妹がいるならば、その弱さをケアすべく、教会の兄弟姉妹は関心を持ち、関わっていく必要があります。 もっとも、ほかの兄弟姉妹を顧みる前提は、自分のことを顧みることができているということです。自分のことも顧みることもできないで、人の問題に関わってばかりいる兄弟姉妹というのはいるものですが、そういう者たちに対して、日本にはことわざがあります。「己の頭の蠅を追え」。このことは第二テサロニケのみことばでも、パウロははっきり語っています。自分のことを顧みてこそ、人の問題にはじめて関われるのですから、私たちは、自分を顧みることを優先的に行なってまいりましょう。その上で、弱い兄弟姉妹に関わってまいりましょう。 5節をお読みします。……以上、パウロがピリピ教会に求めている姿勢は、イエスさまにならうことであると語っています。そう、これこそ、「生きることはキリスト」ということです。 ここから先、6節から11節は、「生きることはキリスト」の実際、すなわち、「キリストはどう生きられたか」を、簡潔に、しかし必要なことはすべて押さえて述べています。この箇所は大きく2つに分かれますが、まずは前半、6節から8節までをお読みします。 まずは6節です。キリストは神の御姿であられました。全知全能なるお方、完全な愛、完全な義、完全な聖、完全な美、完全な善なるお方です。そして、この世界を創造され、私たちひとりひとりを創造されたお方でいらっしゃいます。このお方こそ、賛美を受けるにふさわしい方です。 だがこのお方は、神としての在り方をお捨てになりました。本来、そうしなければならない理由など何ひとつとしてないのに、このような被造物、すなわち創造主に劣る存在のために、神としての在り方を捨てられる選択をされたのでした。 7節にまいります。イエスさまはご自分を無にされました。全知全能なる神が人として母の胎から赤ちゃんの姿で生まれるなど、これほどまでにご自分を無にすることはありません。そして、支配される神、すべての上に君臨される神が、仕える人間の姿となられました。 8節にまいります。イエスさまは自分を卑しくされました。本来、すべての人がイエスさまをほめたたえるべきでしたが、イエスさまは賛美どころか、ののしることばを一身に浴び、殴られ、むち打たれ、つばをかけられました。何の罪もなかったにもかかわらず、あたかもさばかれる罪人のように、イエスさまはご自身を宗教指導者たちの手にお委ねになりました。そしてイエスさまは死なれました。それも、十字架にかかって死なれました。この上なく残酷な方法で、本来罪ののろいを受けて滅ぼされるしかなかった私たちの身代わりに、のろわれた者となってくださったのでした。しかし、この十字架にかかって死なれたのは、「従われました」とあるとおり、御父のみこころに最後まで従順に従うことでした。 9節以下、大きな逆転が起こります。御父はイエスさまを復活させてくださり、天に挙げてくださり、すべての名にまさる名を与えてくださいました。10節と11節、すべての名にまさる名は、信じお従いする人がみなほめたたえるべき御名です。そして、イエスさまが主であると告白することは、御父の御名がほめたたえられることです。 この、すべての人が集められて御座におられるイエスさまを賛美するのは、終わりの日に実現することです。そして私たちも、主とともに治めるものとなります。 その日に至るまで、私たちはひたすら、へりくだった生き方をするのみです。私たちはともすれば、威張りたい、人の上に立ちたい、と願うものです。しかしイエスさまが私たちにお示しになった生き方は、へりくだった生き方、仕える生き方です。実に十字架の死をもって、御父に従い、人々に仕える生き方を実践された、このイエスさまにならい、日々の歩みに取り組んでまいりましょう。 どうすることがそのへりくだった歩みをすることなのか、最後にもう一度、1節から5節を振り返りましょう。……キリストにならったこの歩みを地上の生涯で全うし、終わりの日に、「よくやった。よい忠実なしもべだ」とほめていただける私たちになることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

私たちの戦い

聖書箇所;ピリピ人への手紙1章12節~30節 メッセージ題目;私たちの戦い  先週も申しましたが、いま学んでいますピリピ人への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。今日学びます箇所にも「喜ぶ」ということばが含まれています。今日の箇所においては、どのようなことを「喜ぶ」ことが奨められていますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  まずパウロは、ピリピ教会の聖徒たちに、自分の投獄が福音を前進させることになったということを知らせています。  13節、14節をお読みします。……彼らは、使徒パウロが投獄されてもひるまなかったのです。むしろ彼らは、いまこそ自分たちは堂々と福音を宣べ伝えるべきだ、という確信を与えられました。そしてその確信に基づいて、大胆にみことばを語るようになりました。  このことは何を意味するのでしょうか? パウロが、パウロを中心に教会を形成しなかったことを意味します。言い換えれば、パウロなしには信仰生活が送れないような教会を育てなかったことを意味します。  パウロはむしろ、キリスト教会のあるべき姿、キリストを中心とした教会形成に心血を注ぎました。その結果、パウロがいなくても、ますます熱心に福音を宣べ伝える教会が成り立っていったのでした。  私も、たまに思うのです。「変なこと言わないでください!」とお叱りを受けるのは承知の上ですが、もし私の身に何か起こって、来週から私がこの教会に来られなくなったとして、それでみなさまが教会に集まれなくなったり、さらには、イエスさまへの信仰があやふやになってしまったとしたら、私の教会形成は失敗だった、と言えます。それは、みなさまがイエスさまではなく、この武井牧師という一人物(いちじんぶつ)につながるように導いてしまっていた、ということだからです。それはキリストのからだとしてとてもふさわしくない姿です。ですから、みなさまにはどうか、普段からイエスさまと一対一の関係を持つこと、また、イエスさまを中心にみなさまで交わりを持つことをしっかり、実践していっていただきたいと願います。  パウロの話に戻ります。では、ピリピ教会の形成と宣教において、パウロが投獄されたことはどのような役割を果たしたのでしょうか? それは、「自分の十字架を負ってキリストに従う」ことを実践する姿を、パウロが直接、諸教会に見せた、ということです。このパウロの姿に、初代教会の兄弟姉妹は奮い立って、私もパウロのように、イエスさまのあとを自分の十字架を背負って、自分を否定してついていこう! との思いを新たにされ、恐れずにみことばを語りはじめたのでした。  しかし、キリストを宣べ伝えるということは、その動機を問うてみると、純粋にパウロを慕う思いからだけではないこともわかります。15節をお読みします。  ……ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える。そういうこともあるのです。うちのグループのほうがより熱心だ、とか、より純粋だ、とか、より神学的に深い、とか、ほかのグループと比較しながら宣教するわけでしょう。この場合は、パウロの影響のもとにある教会よりも勢力を拡大し、名を上げようとする者たちの動きであったようです。  もちろん、パウロが主によって立てられた福音伝道者であることを、ピリピ教会はじめ、諸教会は認めていました。そのような教会はますます、パウロに与えられたのと同じ確信をもってキリストを宣べ伝えました。  しかしその一方で、パウロに対するねたみからキリストを宣べ伝えた一派が存在しました。そのことは17節にありますとおり、ただでさえ投獄されて苦しみの中にあるパウロをさらに苦しめることである、とパウロは語っています。宣教活動を拡大することでパウロ一派を負かしてやろう、などと考えているならば、たしかにそれはパウロを苦しめることです。  だが、パウロは苦しんでばかりはいませんでした。何と告白していますでしょうか? 18節です。……どのような動機でであれ、伝えられるのはキリスト、それは自分にとって喜びである、というわけです。  私たちならばこのようなことが言えるでしょうか? パウロはしかし、喜んだのです。自分に敵対する勢力であろうと、彼らの活動によりキリストが伝わるのだから、と、喜んだわけです。  このようなことは、パウロが単に度量が広いから言っているわけではありません。パウロはこのことについて何と言っているでしょうか? 19節です。……宣教の働きが成し遂げられることは、パウロの救いとなると語っています。そうだとすると、うちの教会の隣の群れに人が多く集まることは、われらにとっても「救い」につながる、喜ぶべきことであると言える、とならないでしょうか?  では、この場合の「救い」とは、どのようなことでしょうか? 福音を宣べ伝えることは、本来ならばパウロが直接すべきことでした。しかし、当のパウロはといえば、投獄されて福音を宣教して回れる状態にはありませんでした。しかしパウロは、使徒として召された自分はどのような存在であると語っているでしょうか? コリント人への手紙第一、9章16節をお読みします。……自分をこれほどまでの福音伝道者であると自覚しているパウロにとって、投獄されて福音を宣べ伝えることができないことが、どれほど苦しいことか、お分かりいただけるでしょう。  しかし、パウロは、キリストの福音をあらゆるしかたで宣べ伝えている人たちの存在、またその活動により、もはや自分のことを「わざわいだ」などと思う必要がなくなりました。「わざわい」の悲惨さから救われたのです。  福音を宣べ伝えるべく召された人は、そのうちに途方もない「内的衝動」を抱えています。エレミヤ書20章9節にこのようなみことばがあります。……いかなる迫害に遭おうとも、語らずにはいられない。でも獄中にいるかぎり語れない。そこに、その宣教の働きを担ってくれる人が続々と現れたことは、パウロにとって、どれほど喜びとなったことでしょうか。  パウロはしかし、自分の目的が達成され、自己実現されることを目標としていたのではありません。20節と21節をお読みします。……自分が生きるにしても死ぬにしても、自分を通してキリストがあがめられること、これが生きる目的であったわけです。生きることを通してキリストがあがめられる、死ぬことを通してキリストがあがめられる、これ以上素晴らしいあり方はありません。  実際私たちは、聖書に描かれているパウロの姿、また聖書に収録されているパウロの書簡を読んでみましても、そこから読み取るべきことは、パウロ個人の素晴らしさというよりも、パウロを召され、パウロを宣教の働きに遣わされた主の素晴らしさではないでしょうか。まさしく、パウロの生き死にを通して、主のご栄光が豊かに顕されているのです。  22節から26節は、一刻も早く主のもとに行って御顔を仰ぎ見たいという思いと、ピリピ教会を牧会するために生き続けたいという思いの中で葛藤するパウロの姿が描かれています。お読みします。……ベストなのは、主の御許に行くことです。そこにはもはや罪も病も苦しみもありません。いつまでも主とともにいます。しかし、働き人はそれでも地上に生きつづける必要があります。それは、地上に教会を形成するため。みことばのとおりの表現を使えば、教会のひとりひとりの、「信仰の前進と喜びのため」にです。そうです、ここでも、キリスト者は喜ぶことが求められています。信仰が前進していったならば、私たちはその結ぶ実として、喜びを味わうことができるようになるのです。  25節、26節を見てみますと、パウロはやがて釈放されて、ピリピ教会に赴くことができると確信していました。しかし、パウロが捕らえられていたのが多くの聖書学者の定説どおり、ローマの監獄だったとするならば、もはやパウロはその願いがかなわず、ピリピ教会の聖徒たちへの再会を果たせなかったことになります。  しかし私たちは、パウロがそれほどまでにピリピの聖徒たち、いや、この書簡を読むすべての主にある聖徒たちを思う情熱にあふれていたことを知るだけでも、もはや充分ではないでしょうか? 私たちの教会はパウロが牧会しているわけではありません。しかし私たちは、パウロがピリピ教会をはじめ数々の主の教会と聖徒たちを慕う思いのこめられた書簡を読み、学ぶことによって、まことの牧者のあり方を、そしてその牧者を召され導かれた、主のみこころを学ぶことができます。ピリピの聖徒たちも、この手紙を手にしたとき、もちろんパウロに再会できることを望んだでしょうが、それ以上に、それほどまでに自分たちのことを慕うパウロの思いに心から感動したのではないでしょうか。  さて、27節以降において、パウロはひとつの奨めをピリピ教会に対してしています。27節、28節のみことばをお読みします。……キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そう奨められれば、「そうだ、キリストの福音にふさわしく生活しなければ!」と決心することでしょう。しかし、「では、どうやって?」という問題があります。ちょっと考えてみましょう。  具体的には、聖書を読めばキリストの福音にふさわしい生活が何かということが見えてまいります。その聖書の中から、ちょっと一例を挙げてみます。  先週のリビングライフのQTの箇所で、テモテへの手紙第一1章3節から5節のみことば。まず、なぜ、テモテがこのような命令を受けているのか。それは、テモテがエペソという町の教会を委ねられた牧会者であったからです。エペソは、アルテミスという「女神」の町であるというわけで、もともとがきわめて異教的な風土です。そういう町に形成される教会の弱さは、人々が「違った教え」や「果てしない作り話と系図」のようなものに心を寄せ、不毛な議論に陥ってしまう、ということ。結局それは、神に委ねられた信仰の務め、すなわち「愛」の実を結ぶことがない、わけです。  このみことばは、とかく「ためにする」議論に陥りがちな私たち、わけても日本の教会のクリスチャンに、深い示唆を与えてはいないでしょうか? 日本のクリスチャンは聖書の知識もありますし、神学もよく身につけています。しかし、みことばがほんとうに目指している「愛」という形で実を結ばないことが、なんと多いことでしょうか? そんな学びに、果たして意味があるでしょうか? 愛の実を結ぶように、みことばというものは学び、また実践していく必要があるわけです。  このほかにも、福音書のイエスさまのお姿を見れば、キリストの福音を生きるとはどういうことかが見えてまいります。パウロをはじめ使徒たちによる手紙類をお読みすれば、具体的には何をすればよいかがかなりわかってまいります。あとは、教会全体が聖書をともによく読むことによって、ともに福音にふさわしい生き方を目標としていけばよいわけです。私たちにとって、キリストの福音にふさわしく生活するための基準は、聖書のみ、そして聖書全体です。みなさん、1月に始められた聖書通読は続いていますか? 中断された方は今からでも始めましょう。通読表は週報に毎週載っていますので、いつでも通読を始めることができます。聖書のみを基準とし、聖書全体を基準として、キリストの福音にふさわしく生活するために、みことばを読んでいただきたいのです。  27節、28節のつづきを見てまいります。……そのようにして、キリストの福音にふさわしく生活することができるようになるならば、ピリピ教会は霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っており、どんなことがあっても反対者に驚かされることはないと、人々がピリピ教会について評価することばをパウロが聞くことができるというわけです。  ここでは3つのことが述べられています。健全な教会は第一に、霊を一つにして堅く立っています。健全な教会には、御霊の一致があります。みなが同じ主の霊に導かれることを求め、みなが主の霊に自分自身を委ねることを実践する教会には、主が必ず、御霊による一致を与えてくださいます。仲間割れしないで一つになれているならば、その教会はどんなにか素晴らしいことでしょうか。一致した教会は、安定した信仰生活をそれぞれの聖徒に保証してくれます。その御霊の一致を、私たちはともに祈りつつ求めてまいりましょう。  第二に、健全な教会は心を一つにして福音の信仰のためにともに戦います。戦うとはどうすることでしょうか? 内向きには、福音の信仰が教会のお互いのうちに根づくように、一生懸命みことばを学ぶことです。これは意識しないとできないことです。私たちの会話は、ともすればこの世的な話に流れてしまうものです。そういう話よりも、意識してみことばの恵みの分かち合いをするのです。また、みことばをこつこつと学ぶことを、個人で、家族で、またグループで行なっていくことです。そのように、この世的な趣味のように自分のやりたいことよりもみことばを学ぶことを優先することを、教会全体がともに目指していくとき、教会は健全になります。  もうひとつ、外向きの奮闘があります。それは、福音を宣べ伝えることです。ピリピ教会ももともと、イエスさまを信じている人がまるでいなかった中に宣教し、教会形成をしていった群れです。そこには多くの反対や迫害があったことでしょう。それでも彼らは、福音を証しする戦いに飛び込んでいったのでした。私たちもまた、周りにいる愛する人たちに福音を証しするために、戦いを経験するかもしれません。私たちの言うことに多くの人は耳を傾けたがらないでしょう。もし仮に語れるような機会があったとして、職場はそういうタイプの会話を交わすことを禁止されていたりしたら、話すにも話せません。  しかし、この戦いはひとりですることではありません。教会全体が、伝道に取り組むそのひと枝のことをおぼえて、とりなしてお祈りする必要があります。教会全体が、福音宣教という名の外向きの戦いをするのです。その戦いは実際に福音を語る、前線で戦う人たちと、とりなしの祈りや励ましをもって後方で支援する人たちとの、一致した戦いであるわけです。  そして第三に、健全な教会は反対者たちに驚かされることはありません。福音に反対する者たちは、時にものすごく意表をついた方法で、教会やクリスチャンに攻撃を仕掛けてきます。たとえば侵略戦争を行なったですとか、歴史上の教会や有名なクリスチャンが犯した罪をあげつらったり、聖書に書かれているちょっと見にはわかりにくい箇所を曲解して、これは矛盾だなどと指摘したりですとか、しかし、これは序の口で、善良なクリスチャンを装って教会に入りこみ、教会や指導者の批判を吹き込んで分裂に追い込んだりするようなあくどいことをする輩さえおります。そういう連中が現れても、驚かないできちんと対処できる教会は、健全な教会です。どうすればそのような教会になれるのでしょうか? それは何よりも、自分の属する教会こそが主が召してくださった素晴らしい教会であるという、主との関係の中で見出す確信を持つ必要があります。 教会を愛するならば、どうすれば教会を悪の手から守ることができるか、知恵を尽くすようになります。そして、あらゆるパターンの攻撃を想定するようになるでしょう。すでに大きな攻撃を受けてダメージを与えられた他の教会のケースからも学ぶことができます。自分たちがそうならないために、自分にできることは何と何か? そういうことを考え、今からでもできることは実践に移していくのです。 反対者は、キリストのからだなる教会に反対することによって、自らを滅びに定めています。一方で、ピリピ教会のように福音のために奮闘する教会は、救いに定められています。主がそのようにお定めになったわけです。私たちも福音のために奮闘してまいりましょう。 最後に、29節、30節をお読みします。……私たちの歩みはたしかに苦しいものです。戦いの連続です。しかしその歩みは、イエスさまが苦しまれた苦しみにあずかることです。何と光栄なことでしょうか! そして私たちが教会形成において体験するあらゆる戦いは、使徒パウロが体験したのと同じ戦いです。何と光栄なことでしょうか! 私たちもピリピ教会のように、苦しい戦いを経験しているかもしれません。しかし、苦しいならば、イエスさまを見上げましょう。戦いに疲れたならば、イエスさまを見上げましょう。イエスさまの苦しみを喜んで担う私たち、イエスさまの戦いを戦う私たち、イエスさまはそんな私たちの味方でいてくださいます。

喜びの手紙

聖書箇所:ピリピ人への手紙1章1節~11節 メッセージ題目;喜びの手紙  本日よりしばらく「ピリピ人への手紙」を学びます。「ピリピ人への手紙」は、別名、「喜びの手紙」と呼ばれています。この短い手紙の中に、「喜び」ですとか「喜ぶ」という単語が、なんと16回にもわたって用いられています。この手紙の著者である使徒パウロが、いかに「喜ぶ」ことを強調していたことか、わかろうというものです。  私たちにとって「喜ぶ」ことがなぜそんなに大事なことなのでしょうか? それは、主が私たちに「喜ぶ」ようにと命じていらっしゃるからです。私たちの主イエスさまは、十字架に死なれました。これは悲しむべきことです。しかし、イエスさまは死を打ち破り、復活されました。そして、復活されたイエスさまはいつまでも、私たちとともに生きておられます。これが喜ばずにいられましょうか!  「喜ぶ」ということは、とても奥の深いものです。私たちがもし成熟しているならば、世の人たちから見ればとても喜べないような状況に置かれていても、それでもなお喜ぶことができます。その境地に達することができたならば、なんと幸いなことでしょうか。もちろん、それは痛みに鈍感でありなさい、というのではありません。むしろその反対で、あらゆる辛酸をなめ尽くし、悲しむだけ悲しみ、苦しむだけ苦しんだ末、キリストの十字架の苦しみにあずかる喜びを身に帯びていることがわかるゆえに喜ぶことができるのでしょう……。  なんて、私も高い所から偉そうなことを申していますが、なかなかこの喜びの境地には達していません。私もまた、みなさんと一緒に、ピリピ人への手紙をじっくり学びながら、あらゆる境遇においても喜ぶ者となるように、ともに変えられてまいりたいと思います。  ピリピ人への手紙……この手紙を受け取ったピリピ教会は、パウロの第二次伝道旅行の際に形成された教会で、マケドニアの大きな都市ピリピに所在していました。パウロがマケドニアに宣教したのは、その宣教旅行の途中、パウロが幻を見たことがきっかけでした。幻の中で、ひとりのマケドニア人がパウロの前に立って、言うのです。「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」この幻に心を動かされたパウロが渡った先がマケドニアのピリピでした。  このピリピに、紫布商人リディアのような婦人が集まって教会が形成されていく様子が、使徒の働き16章12節以下に記されています。このピリピ教会はしかし、やはりほかの群れと同じように、迫害の中を通らされることになります。そのような、苦しみの中にあるピリピ教会に対し、やはり宣教の働きゆえに迫害を受けて獄中にあったパウロが書き送ったのが、この「ピリピ人への手紙」です。  1節から見てまいりましょう。……まず、パウロの自己紹介から始まっています。いわく「キリスト・イエスのしもべ」。この自己紹介は何気ないようですが、圧倒されます。私たちはできれば、偉い人になりたがるものです。仕える人よりもリーダーになりたがるものです。しかし、パウロは自分が「しもべ」であると言っているのです。喜んで、低い人間であることに甘んじているのです。ただ、パウロは人のしもべになってはいません。なっているのは「キリスト・イエスのしもべ」です。キリスト・イエスのおっしゃることならば、なんでも喜んで従います、私はそういう人間です……。  パウロは大胆に、堂々と宣言しています。私たちも、イエスさまのおっしゃることなら従いたいと願うでしょう。しかし、四六時中従います、と願えているでしょうか? 難しいですか? しもべならば、どんな時間にも、どんな状況にも、主人に従い、主人に仕えるものです。私たちもそのように、四六時中、イエスさまにお仕えし、イエスさまに聴き従う準備はできていますでしょうか? いつでもイエスさまのしもべとして振る舞える私たちになりますようにお祈りいたします。  さて、この手紙は、差出人がパウロとテモテの連名になっています。テモテは、パウロの第二次伝道旅行に同行した人物で、使徒の働き16章1節では「弟子」と表現しています。「パウロの弟子」であったわけです。テモテは、ピリピ宣教においても大きな役割を果たした牧会者でした。キリストのしもべという立場で一致してピリピ教会をケアしようとする、彼らの情熱をここに見ることができます。  その2人から、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督と執事たちへ、この手紙を送ったとあります。キーワードは「キリスト・イエスにある」。教会とは、「キリスト・イエスにある」存在であり、言い換えればキリストのからだです。私たちはキリストを目に見ることができなくても、教会の交わりの中にキリストのご存在を体験するのです。一方で、手紙を発信したパウロとテモテは、自分たちのことを「キリスト・イエスのしもべ」と名乗っています。キリスト・イエスのしもべゆえに、キリスト・イエスにある聖徒たちに仕えるのは正しいことであり、すべきことなのです。  さて、このキリスト・イエスのしもべは、ピリピ教会のために何を祈っていますでしょうか? 2節です。……恵みと平安があるように。この「恵みと平安」は、ローマ人への手紙からピレモンへの手紙に至る、パウロによる手紙13通すべてに祈りの課題として登場するものです。初代教会は、外には迫害、内には人間関係の問題、まことに保つのが困難な集まりである。だから、主の恵みがたえず注がれ、主の平安がたえず包んでいなければなりませんでした。  いえ、初代教会だけでしょうか? およそ、この不完全な地上に存在するすべての教会は、主の恵みと主の平安を祈らなければならない、そんな存在ではないでしょうか? 私たちの教会も例外ではありません。恵みと平安のうちに守られ、保たれなければ崩れてしまう存在です。私たちは内も外も問題がいっぱいではないでしょうか。私たちは主なしにはとても弱い存在であることをたえず心に留め、教会に恵みと平安が臨みつづけるように求めて祈ってまいりましょう。  さて、3節から11節までは、ピリピ教会を思うパウロの心が具体的に表現されています。第一に、パウロはピリピ教会をおぼえて感謝しています。  3節から5節をお読みします。……まず3節、パウロは、ピリピ教会の聖徒たちのことを思うたびに、主に感謝していると言っています。 ピリピ教会の存在が、ありがたいのです。そしてその感謝の告白は、ピリピ教会を存在させてくださっている主への感謝の告白となって現れています。主の福音を携えて世界を巡回し、今は獄中に捕らえられているパウロと、ピリピの地に根を下ろして教会形成にいそしむピリピ教会の聖徒たちの絆は、遠く離れていても、なんと強いことでしょう! その絆の強さは、パウロがいつもピリピ教会の聖徒たちのことをおぼえて祈っていたことからも明らかです。 私たちはだれかのために、いつも祈ることができますでしょうか? 具体的にだれだれのために祈りなさいと、心に強く迫られているのでもないかぎり、人のためにはなかなか祈れないものです。 その点、パウロは彼らピリピ教会のことを祈っていました。それも、祈るたびに喜びをおぼえて祈っていたというのです。ピリピ教会のために祈ることが喜ばしくて仕方がない、ピリピ教会のために祈りたくて祈りたくて仕方がない、という感じです。 パウロが、ピリピ教会の聖徒たちのことを主に感謝し、ピリピ教会のために喜びをもって祈る理由が、5節で明らかになります。ピリピ教会が形成された初めからこの手紙を書いている今に至るまで、ピリピ教会が、福音を広めることにあずかってきたことに感謝している、というわけです。 福音を広める、具体的には、福音を広める働きをするパウロを物心両面で支援してきた、ということです。ユダヤのエリート宗教指導者として、パウロは安定した生活の中にいました。それが一転して、パウロは、明日をも知れぬ働き人となり、それでもどこまでも、福音を携えて旅行しなければなりませんでした。しかし、旅行というものはたいへんにお金のかかるものです。ましてそれが、各地に教会を形成しながらの旅行となるとなおさらです。そんなパウロの宣教の働き、教会形成の働きに、惜しみなく物心両面の協力をしたのが、このピリピ教会でした。 宣教のために献げるということは、どれほど難しいことでしょうか? ピリピ教会は、何しろ川べりに集まって礼拝をしていたような開拓教会です。いろんな面でお金が必要でした。普通なら、外部の宣教や教会形成にお金を使っても自分たちの教会の拡大には何の利益にもならない、と考えるものではないでしょうか。しかしピリピ教会は、自分たちの群れを形成するために骨折ってくれたパウロをおぼえて、その宣教の働きのために惜しみなくささげたわけです。ピリピ教会はもはや、自分たちの群れさえよければなどと考えてはいませんでした。ピリピ教会の視点は、自分たちの群れをはるかに超えて、世界宣教というイエスさまのみこころに釘づけになっていました。これぞ、教会のあるべき姿ではないでしょうか。 6節をお読みします。……そうです、ピリピ教会は、もっと広い範囲、津々浦々に福音が宣べ伝えられ、キリスト・イエスの再臨が早く来るようにということを、切に願って、宣教のわざに参与していたのでした。私たちが宣教師の先生方を支援する理由は何でしょうか? それはそれぞれの場所で福音が宣べ伝えられ、宣教のわざがイエスさまの再臨をもって完成するためです。 私たちはイエスさまに早く来てほしいですか? ならば私たちは、宣教の働きに参与してまいりましょう。私たちが行けるならば、主の召しに応えて遣わされてまいりましょう。現に私たちの群れから、5月にはひとりの姉妹を東京での教会形成の働きに送り出したではないですか。行くことができるならば、その召しに応えて、行く、その歩みを主は喜んでくださいます。しかし、もし行くことができなければ、主に遣わされて世界各地にて福音を宣べ伝えている先生方の働きを、お祈りと物的な支援をもって支えてまいりましょう。 7節をお読みします。……パウロは、「あなたがたすべてについて、私がこのように考える」と語っています。この、宣教に参与することは、ピリピ教会の「全員のわざ」であったのでした。ピリピ教会にはリディアのようなお金持ちもいましたが、宣教活動を支援することは、そのような一部の人の献げ物に帰することではありませんでした。 そうです。喜んでお金を出してくれる篤志家のクリスチャンの存在は、たしかにありがたく、素晴らしいものです。しかし、そういう人は特別に教会の中で「偉い」のではありません。篤志家も貧しい人も、ともに形成する教会の、その全員がもれなく、主のみわざ、宣教の働きにあずかるのです。人がどう思おうと、主の御目にはそうなのです。 ピリピ教会は、パウロが獄中にあるときも、裁判の席上で福音を弁明し立証しているときも、とにかくパウロを支援しました。そのことをパウロは、「ともに恵みにあずかった」と表現しています。ともに。そう、パウロはひとり孤独に、主のために苦しんだのではないというわけです。そして、ひとり孤独に裁判の被告席に立っていたのではないというわけです。神さまはピリピ教会の聖徒たちに対しても、パウロとともに恵みを与えてくださったというのです。 私たちは、宣教地に行くことはできないかもしれません。いわんや、いのちを危険にさらすような迫害を受けることはないかもしれません。しかし、現地で宣教する働き人と一つ心になって祈り、実際に犠牲を払って献げ物をするとき、主は、彼ら働き人に与えてくださるのと同じ恵みをもって、私たちのことを恵んでくださるのです。 このあいだの復活祭の礼拝の日、私たちは宣教師の先生をお迎えして、みことばの恵みをいただきました。あのような働きをしなさい、と言われても、私たちはなかなかできないでしょう。それに見合うだけの技術も語学力も持っていませんし、第一、その国で主に献身しますという、召しをいただいているわけでもありません。しかし、私たちはそのように、宣教報告をお聞きし、先生の祈りの課題を覚えて祈ることによって、また、献金をおささげすることによって、その困難な働きに、少しでもともにあずかることができるのです。これはすばらしい恵みです。 8節をお読みします。……パウロはここまで言い切りました。あなたがたへの愛は、主が証ししてくださる。つまり、主が認めてくださっている。これだけのことを自信をもって断言できるのはなぜでしょうか? それはパウロが、主とたえず交わり、主からの確信をつねにいただいているからです。私の信じ従う主が、ピリピ教会への愛を与えつづけておられる。恐らくパウロは、日々の主との交わりの中で、ピリピ教会のことが思い浮かんでしかたがなかったことでしょう。慕うとは、そういうことです。 お互いの顔を見合わせながら、この8節のみことばを語ってみましょう。……言えましたか? 私もこのように言ってみて、水戸第一聖書バプテスト教会のみなさんを心からお慕いしていることを主が認めてくださっていると、改めて確信させるものです。 では、パウロは何に感謝していたのでしょうか? 宣教の働きを孤独にさせなかった、ピリピ教会の存在、またその祈りと、献げ物という形で犠牲を伴った愛に対してでした。私たちクリスチャンが真っ先に愛すべき存在、それは自分の属する教会の兄弟姉妹です。この兄弟姉妹の存在に支えられて、私たちは生きています。この兄弟姉妹のお祈りに支えられて、私たちは生きています。この兄弟姉妹の愛に支えられて、私たちは生きています。そのように、ともに生きる存在として、主は私たちのことを同じキリストのからだとして召してくださったのでした。 私たちの存在は互いにとって、感謝すべき存在です。主が私たちをひとつにしてくださったと信じるならば、私たちは互いのことを慕い、互いのために喜んで祈れるようになるのではないでしょうか?  お互いのことを見れば欠けだらけ、整えられていないところだらけですが、「主が」私たちをひとつにしてくださったという、この事実に立ちましょう。そこから、互いを慕い、愛する思いを与えていただきましょう。そのようにして愛に満たされ、愛を実践し、この世に生けるキリストを証しする共同体として私たちが用いられますようにお祈りいたします。 第二にパウロは、ピリピ教会の聖徒たちのために祈りました。 4節でパウロは、喜びをもってピリピ教会のために祈っていることを述べていますが、それではパウロは何を祈ったのでしょうか? 9節から11節に語られていますので、お読みします。 まずパウロは、ピリピ教会の聖徒たちの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになることを祈っています。もちろん、ピリピ教会の愛は、これまでもパウロを支えてきたものという点でも素晴らしいものでしたが、その愛がそれにとどまらず「いよいよ」豊かになるようにとパウロは祈っています。 愛の成長には終わりがありません。私たちは生きているかぎり、そのいのちが尽きるまで、愛することにおいて成長する必要があります。 その愛はどのようにして豊かになるのでしょうか? そうです、「知識とあらゆる識別力によって」です。まず、知識とは、何に関する知識でしょうか? それは、主のみことば、わけてもキリストについての知識です。とはいっても、聖書クイズで満点を目指すように、聖書のこまごましたことを何でも知るということではありません。それは、知識ではなくて「情報」を仕入れることで、「情報」は別に私たちをキリストに似た者には変えません。 しかし、私たちが聖書を読み、キリストのご性質が何かを学び、そのご性質、その愛、その義を身に着けるように、学んだことをひとつずつ生活に適用し、実践していくならば、それは「情報」ではなくて「知識」になります。言い方を変えれば、キリストの教えが頭だけの「情報」に終わらず、「身になる」のです。 もうひとつが「識別力」ですが、私たちはみことばに通じることによって、主の愛とそうでないものとの識別をする必要があります。たとえば、聖書は人を受け入れるべきことを語っていると、私たちはみことばを読んで確信するところです。しかし、だからといって、人の性的な不道徳に目をつぶり、それさえも受け入れていいと語っているわけではありません。 また、クリスチャンが特定の宗教を信仰している人を愛し受け入れることは、私たちのすべきことではありますが、しかしそれは、決して彼らの信じている信仰の対象に迎合することではありません。これらはほんの一例ですが、私たちの愛がまことに主のみこころにかなう愛となるためには、普段から聖書をしっかり読み、分かち合い、良質の信仰書をよく読んで教えられることによって、真の識別力の伴ったものとして磨かれていく必要があるわけです。 そのように私たちの愛が、みことばに対する真の知識、またあらゆる識別力を備えるならば、10節にあるように、真にすぐれたものを見分けることができるようになります。私たちの交わりには、くだらないもの、無益なコミュニケーションなど必要ありません。また、悪口や陰口もふさわしくありません。 しかし、私たちは不完全な存在ですから、つねにそのような無益な存在、有害な存在が交わりに入りこむ危険があります。だから私たちはつねに目を覚まし、真にすぐれたものだけを、このキリストのからだなる教会の交わりに取り込んでいくように努める必要があるわけです。 もうひとつパウロが祈っていますことが、10節の後半から11節に書かれています。キリストの日には、すなわち、主がこの世の終わりに再臨され、すべての人をおさばきになる、その時です。その終わりのとき、再臨とさばきのときに、純真で非難されるところがないように、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされるように。 私たちが罪を後生大事に抱えているならば、主のさばきを恐れて、直ちに罪を手離さなくてはなりません。私たちはさばきの日に、罪を認められない人になりたくはないでしょうか? 非難されない人になりたくはないでしょうか? 私たちは、イエスさまの十字架の光に照らしていただくならば、私たちの罪が明らかになります。罪を抱えたままでいるのは、イエスさまの十字架の前に充分に出ていないからです。光に照らされたくないからです。そしてそうなるのは、できれば、罪の喜びに浸っていたいからです。 終わりの日に、純真で非難されるところがなく、イエスさまの与えてくださる義の実に満たされることを目指したいならば、日々自分をイエスさまの十字架の前に差し出すことです。そうすると、私たちには悔い改めるべきこと、赦していただかなければならないことが、あまりにもたくさんあることに気づかされます。とにかく、十字架の前に罪の荷を下ろすことです。主は、悔い改める私たちの罪を赦してくださいます。 そのようにして、純真で非難されるところがなく、義の実に満たされた聖徒たちの集うところには、何が起こるでしょうか? 神の栄光と誉れとが現されるのです! 主は、そのように、罪ある者をイエスさまの十字架の血潮により洗いきよめてくださることにより、罪のない聖徒として御前に立たせてくださいます。罪のない人は、どこまでも主のご栄光を現します。そして、誉れ、とありますが、誉れとは文字どおり、誉めたたえられること、です。罪なく主の御座の前に召された者たちは、永遠に主をほめたたえるのです。主が私たちに主のご栄光を輝かせ、私たちがすべての栄光を主にお帰しする、終わりの日には、こんなにも素晴らしい礼拝、主と聖徒との交わりが実現するのです。 愛するみなさん、この終わりの日に向かって日々愛を実践してまいりましょう。パウロが、ピリピ教会に愛が増し加わり、終わりの日に聖徒として主に受け入れられ、主のご栄光が顕されることを祈ったように、私たちも互いの間に愛が増し加わり、ともに終わりの日に備えて日々悔い改めつつきよめをいただいて歩んでいきますように、励まし合ってまいりましょう。 最後に、私は牧会者として今日のメッセージを取り次がせていただきましたが、何よりも私は、7節の使徒パウロのことばを引用すれば、水戸第一聖書バプテスト教会の聖徒のみなさんと「ともに恵みにあずかった」存在です。私は牧会者である以前に、このキリストのからだなる家族の一員、ともに恵みにあずかっている存在です。世の終わり、イエスさまが再び来られる日まで、ともに救いを完成してまいりましょう。終わりの日の素晴らしい礼拝をビジョンに描きつつ、その日を目指して日々励まし合ってまいりましょう。

神の怒りから救われる恵み

聖書箇所;ヨハネの福音書3章31節~36節 メッセージ題目;神の怒りから救われる恵み  私たちはよく「救い」とか「救われる」とかいうことばを口にします。「イエスさまは救い主、ハレルヤ!」まことに結構なことです。しかし、それなら私たちは、「何から救っていただいたか」を、ちゃんと理解していますでしょうか? それがわかっているのといないのとでは、信仰生活に根本的なちがいが生じてきます。  「罪から救われた」とか「サタンから救われた」という言い方をするかもしれません。それはそのとおりでしょう。しかし、根本的な「救い」ということを考慮するならば、その言い方で充分なのか、よく考える必要があります。  私の携帯電話には『新改訳聖書2017』のアプリが入れてあり、このアプリは、ちょっとキーワードを入れれば、そのキーワードが聖書のどの箇所に出てきて、しかもそれは聖書全体に何件登場するか、みな表示してくれます。そこで私は今回、まず、このメッセージを書くにあたって、「~から」の「から」の二文字、そして、「救い」の、送り仮名を送っていない「救(キュウ)」の一文字、合わせて3文字を入力し、検索してみました。すると、109件ヒットしました。109件です。旧約新約通して、結構出てくるのです。  ほとんどの場合、「苦しみから苦しみのない状態へと、痛みから痛みのない状態へと、破滅からいのちへと」救われる、ということを語ります。ペテロは「この曲った時代から救われなさい」と人々に呼びかけていますが、それは、曲がった時代は人々を痛みと破滅に導くからです。  私たちがもし、「罪から救われた」とか「サタンから救われた」という言い方をするならば、それは、その結果、痛みを伴って破滅することがわかっているからです。そんな目には絶対に会いたくないから、ということでしょう。私たちはふつう、救いというものを、そのように理解しているのではないでしょうか。  しかし、こうして聖書の箇所を片っ端から見ると、その中で異彩を放つ箇所があることに気がつきます。ヨシュア記22章31節と、ホセア2章10節です。ヨシュア記の方は、ルベン族、ガド族、マナセ族が、ほかのイスラエルの部族とともに敵と戦った結果を、「あなたがたは今、イスラエルの子らを主の手から救い出した」とあります。なんと、主の手から救い出された、というのです。そしてホセアのほうは、恥の暴かれたイスラエルのことを、主の手から救い出せるものはいない、という、これまた怖ろしい宣言です。  そうだとすると、なんと、私たちが救われなければならないのは、「主の御手」からであることがわかります。しかし、私たちは普段、「神は愛です」とか「神はあなたの人生に素晴らしい計画をお持ちです」とか、神の愛を教え、学び、分かち合っているゆえ、よもや神から救われなければならない、とは考えないのではないでしょうか。しかし、このみことばは厳然と、その事実を語ります。  もう少し具体的に言うと、神の「怒り」から救われるべきである、ということです。神のその怒りを免れる人は、ひとりとしていません。まさに、「義人はいない。ひとりもいない」と聖書は語っており、義ではない、神を神としない、不従順の罪の中にいるゆえに、神さまはそういう人間に、怒りをもって臨まれるのです。  それでも私たちは、「いやいや、神は愛ですから!」と言うのでしょうか? しかしそれなら、私たちは神の愛をちゃんと受け取っているのでしょうか? つまり、愛されているにふさわしい生き方ができているのでしょうか? 愛する者に対して神さまが求めておられることに、ことごとく誠実にお答えしているでしょうか? 答えは、「ノー」です。私たちは神さまの求めておられる基準に、合格しているには程遠い状態です。  なぜでしょうか? まず、私たちの側から、神さまを拒絶してしまっているからです。それなのに、「神は愛です」などと主張し、いかにも自分は愛されて当然の態度を取るのですから、厚かましいにもほどがあります。  長い前置きになりましたが、今日の本文はいたって簡単なことを語っています。31節。上から来られる方、言い換えれば、天から来られる方は、すべてのものの上におられる、と語ります。上におられる方、天におられる方、というならば、すべてのものの上におられる、というのはわかるでしょう。しかし、上から、天から来られる方が、すべてのものの上におられる、これが、聖書の語ることです。  このお方はどなたでしょうか? ヨハネの福音書3章13節の語るとおり、それは人の子、イエスさまです。イエスさまは地上に人としておられても、変わらずに、天におられる神さまなのです。しかし、同じ31節、イエスさまとはどのようなお方かを語るみことばに挟まれた一文は、「地から出る者は地に属し、地のことを話す」と語ります。この「地」とは、神さまのおられる天と隔絶された、罪に満ちた世界です。人間とはだれであれ例外なく、この「地」から取られ、「地」に還る存在です(創世記3:17~19)。人は「地」から取られたゆえに、「地」のことばを話す、すなわち、本来、神のことばをもって創造されたゆえに神と交わるべき存在なのに、天におられる神を拒絶したゆえに「地」のことばしか話せなくなったわけです。  人間にとってすべきこと、してはならないことは、モーセをとおして神さまが民に授けてくださった律法、ことに「十戒」に明示されていますが、そのことばに示されたことに反するならば、罪であるわけです。それでも人間はその戒めを破り、神さまに対して罪を犯します。それは、神さまの求めておられることよりも、自分の中の論理のほうを正しいとしているからです。地に属するゆえに、みことばをわかったつもりになっていても、それよりも自分の欲望の論理のほうを優先させる、取っている行動は神のみこころを顕すことには程遠い、罪の欲望の実践、それが「地のことばを話す」ということです。  32節。天におられたイエスさまは、父、御子、御霊の交わりの中で、つねに神ご自身とそのみわざを「見て」、神ご自身とそのみことばに「聴く」ことを体験されました。そのとおりに、イエスさまは人の世界、地にお下りになり、みわざをもって神を「お見せになり」、みことばをもって神を「お聴かせになり」ました。  しかし、人間は地に属しているから、つまり、人間にとっては、天と隔絶されたこの世界が自分のすべてだから、イエスさまのそのみわざも、みことばも、自分とは次元が違いすぎて、受け入れられない、ゆえに、イエスさまを主と信じて従うことができないのです。もっといえば、神のみことばが受肉したイエスさまのことを、そうと受け入れない、ただの人、せいぜいが、ローマを成敗するユダヤの王さま、くらいにしか受け入れられなかったのです。間違っても、主なる神さまではなかった。  しかし、33節をご覧ください。そのような中でも、イエスさまの天からの証しを受け入れる人がいたのです。そういう人は、このみことばによれば、神さまが真実であると印を押している、つまり、そう信じていることを、自分でもはっきりさせているということです。この印鑑はだれとの契約で押すのでしょうか? そうです、神さまです。  私たちはこのことを、イエスさまを信じ受け入れるお祈りをすることによって行います。そして、そのように神さまとの間に契約の印を押し、神の御国、神の家族、神さまの与えてくださる永遠のいのちに入れられていることを、私たちは、父・御子・御霊の名によるバプテスマを受けることをもって、公にするのです。  では、地に住む人間であるゆえに、証しを受け入れることなどできないはずだったのに、その人がそのようにできたのはなぜでしょうか? それは、そのように神さまがその人のことを、恵みのゆえに選んで、召してくださったからです。人間から出たことではありません。なぜなら、人間の側からはどんなに頑張っても、けっして神さまのもとには行けないからです。  それでも神さまは、人が神さまを「信じる」、そして「お従いする」決断を、人の側が主体的にするようにお導きになります。信仰を持つことは人間の側で何ひとつしなくてもいい、オートマチックで成り立つことではありません。人間の側にも、お従いすることにおいて、責任が伴います。  34節は、天から遣わされたイエスさまは、なぜ、人として地に住む人の前に現れながら、なお、天のことば、すなわち、神のことばをお語りになるかを説明しています。御父から御霊なる神さまが、かぎりなく、イエスさまへと送られているからです。ゆえに、イエスさまは地の肉体を取られ、地の人とともに生活されているから、一見すると地の人と同じことばを語っておられるようでも、実際は神のことばを語っておられるのです。  このように、地に送られた神の御子、イエスさまは、御父とどのような関係にあるのでしょうか? 35節です。そうです、御父はイエスさまを愛していらっしゃいます。そして、世界のすべてをイエスさまにお与えになりました。御父がすべての主でいらっしゃるように、イエスさまもすべての主でいらっしゃいます。  だから、悪魔が荒野にてイエスさまを誘惑したとき、「俺様を拝めば世界のすべてをくれてやる」と言ったことは、根本からおかしいことになるわけです。イエスさまがその気になれば、なにも悪魔にひれ伏さなくても、悪魔の手から世界を奪還することなど朝飯前、イエスさまはそういうお方です。ただし、このときイエスさまがサタンに向かっておっしゃったことは、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」という、申命記のみことばでした。これが、サタンの手からこの世のすべてを奪還するイエスさまが、人に命じられた道であったのです。わたしがサタンにひれ伏さないように、人よ、サタンにひれ伏してはいけない。それでこそ、この世界はイエスさまのものとなる。  36節。このみことばは、「御子を信じる」という、永遠のいのちを持つことの反対は、「御子に聞き従わない」ということであると語ります。すると、御子を信じることは、御子に聞き従うことであり、逆に、御子に聞き従わないことは、つまり御子を信じていない、ということだと語ります。そういう人は、イエスさまを信じているから永遠のいのちを持つ、と信じているようで、実は信じていない。信じているならば、その永遠のいのちを与えてくださったイエスさまに聞き従っているはずだ、そういう、実際には信じていない者には、神の怒りがその人の上に臨んでいる、というわけです。  人は、生まれながらに御怒りを受けるべき存在です。しかし、神さまの恵みによって救っていただきました。それでも、私たちはうかうかしていると、神さまのみことばに聴き従うよりも、自分の法則のほうを優先します。早い話が、罪を犯すことを選択します。しかし、それはとりもなおさず、神さまに不従順になることを選択しているということであり、そういう選択をしたら神の怒りが自分の上にとどまると知っていながら、いやいや、神さまは愛だから、神さまはみな赦してくださっているから、と、開き直って罪を犯すわけです。  これはたいへんなことです。私たちは引き返せるうちに、罪を悔い改めなければなりません。救いというものはたしかに、世界の創造以前に定められているもので、そして、それゆえに、イエスさまを信じ受け入れる信仰を与えていただきました。しかし、それで終わりならば、私たちはかつて日本の一部の教会でブームになったように、イエスさまを信じ受け入れるお祈りに導いたら、その場で洗礼をその人に授けるだけ授けたらそれでよし、となってしまいます。そのやり方がふさわしくないといえるのは、もしそうだったら、そもそも教会など必要ないことになってしまうからです。  私たちの救いは一生かけて完成していくものです。その営みを励まし合う共同体、それが教会です。私たちのうち、ひとりとして、この営みから零れ落ちてしまう人が出てしまわないように、お互いのために祈り、励ます、そうして、みんなでともに救いを完成していく、それが私たち教会のすることです。  私たちは何も、隠しておきたい罪を赤裸々に告白し合う必要はありません。具体的な罪の告白は、神さまの御前にひそかに行うだけで充分です。しかし、罪を避けるためにどんな取り組みをすべきかを、互いに語り合えるほどの関係をつくれるならば、それはすばらしいことではないでしょうか。そのようにして、ともに救いを完成するのです。  まず、私たちの罪を告白しましょう。それから、罪赦されたどうし、ともに救いを完成する歩みをしていけるように祈りましょう。

花婿の友人の心得

聖書箇所:ヨハネの福音書3章22節~30節 メッセージ題目;花婿の友人の心得  私はこれまで、いろいろな方の結婚式に出させていただきましたが、式ごとに楽しいアトラクションがあり、それは今も想い出に残っています。ある方は、大学時代の「グライダー」のサークルの仲間たちが、ハンドベルを演奏して祝ってくれました。またある方は、お友だちがフラメンコギターで「亜麻色の髪の乙女」を弾いて祝ってくれました。いわく、「奥さんのことを思う旦那さんの気持ちを歌いました」だそうで、思わず笑ってしまいました。  さて、このアトラクションを演じられたのは、どちらも新郎のご友人でしたが、こういう、ゲストが何かアトラクションをする場合には、マナーというものがあります。それは、「新郎より目立ってしまわない」ということです。よくあることかもしれませんが、新郎の会社の上司がスピーチをする、そのとき、その会社の歴史を長々と述べて、いつまでたってもご飯が食べられない、これは困ります。  今日のメッセージのタイトルは「花婿の友人の心得」とおつけしました。花婿とはだれでしょうか? 花婿の友人とはだれでしょうか? 花婿の友人はどんな態度を取るべきでしょうか? 以下、見てまいりましょう。  22節です。イエスさまはヨハネがしていたように、人々にバプテスマを授けていらっしゃいました。このことからわかることは、バプテスマというものは人がイエスさまのものとして公に歩み出すうえで、主のみこころにかなった必須のものである、ということです。私たちバプテストは、イエスさまへの信仰は水に沈めるバプテスマをもって公にするものである、という立場を堅持して、イエスさまを信じた人にバプテスマを受けることを奨励します。  23節をご覧ください。バプテスマのヨハネも一方で、人々にバプテスマを授けていました。ヨハネが当時のユダヤの社会に大きな影響を及ぼしていたことは、福音書を読み合わせてみても確かにわかることですが、ヨハネのもとにバプテスマを受けにやってくる人たちがなお存在したことが、このみことばからわかります。24節を見ますと、ヨハネはまだ投獄されていなかった、とあり、ヨハネは、ヘロデ王の不法を糾弾することで王の逆鱗に触れ、逮捕、投獄されるまで、公の活動を続けていたことがうかがい知れます。  25節。あるユダヤ人、とありますが、ヨハネの福音書で「ユダヤ人」というと、「ユダヤ人を宗教的に統率する宗教指導者」という意味合いで使われていることが散見されます。   2章13節以下の、イエスさまの「宮きよめ」のみわざを責めた宗教指導者たちのことを、使徒ヨハネは「ユダヤ人たち」と言っています。ですから、バプテスマのヨハネの弟子たちが論争になった相手もまた、ユダヤの宗教指導者、もっといえば、バプテスマのヨハネのこともイエスさまのことも、自分たちの既得権益を脅かす存在として一緒くたに敵視する宗教家ということがほのめかされています。  その論争の内容は、「きよめについて」というものでした。イエスさまとヨハネの共通点は、「バプテスマを執り行う」ということです。バプテスマは人のからだを水に浸すことですが、これは「洗う」ということもまた象徴しています。そのことから一般に「バプテスマ」には「洗礼」という訳語が当てられています。「水に浸す」ということはまた、「罪のけがれを洗いきよめる」という意味もあるわけです。  バプテスマという形でその「きよめ」を人々に施していた、という点で、宗教指導者から見れば、ヨハネもイエスさまも、同じグループにあると見なされていたと言えます。  しかし、ヨハネの弟子は納得しませんでした。それは、26節の事情があったからです。……人々はもう、ヨハネからバプテスマを受けるのではなく、イエスさまの弟子共同体からバプテスマを受けるように、変わっていってしまったのでした。ヨハネの弟子たちは、それが我慢できませんでした。  しかし、このように不満を言う弟子たちに対して、ヨハネは言いました。まず、27節です。ことに主の働きをするのであるならば、天から受けているかどうか、これに尽きるのである、と。イエスさまにしてもヨハネにしても、天から受けた分で働く、ということです。  ほんらい、人々にバプテスマを施すという、いわば神の働きを地上で代行するような働きは、天から与えられた霊的権威をもってするものです。その、天に由来する霊的権威がヨハネから、イエスさまの弟子の群れへと引き移っていく、そのことをあなたがたは認めるべきだ、ということを、ヨハネは弟子たちに説いて聞かせているわけです。  28節のみことばは、ヨハネ自身の告白を、あなたがたは聞いて、証言できる立場にあるだろう、ということです。弟子たちは下手をすると、多くの人が考えていたように、ヨハネこそキリストだ、イエスはヨハネからバプテスマを受けた存在にすぎないから、バプテスマを授けてキリストのように振る舞う権限などないはずだ、と考えかねなかったわけです。ヨハネは、それは絶対にちがう、私がそうではない、と言ったことを、あなたがたははっきり聞いて、証言できるはずだ、と、釘を刺しています。  さて、そこで29節のみことばが意味を持ってきます。ヨハネはここで、イエスさまのことを、花嫁を迎える花婿でいらっしゃる、と語っています。一方でヨハネは自分自身のことを、「そばに立って花婿の声を聞いて大いに喜びに満ちあふれている友人」です。花婿の友人の心得、それは第一に、自分はあくまでも花婿の友人であって、花婿ではない、ということです。メッセージの冒頭でもお話ししたとおり、花婿を立てるために自分のすべきことを粛々と行う、そういう友人です。  花婿の友人の心得、第二にそれは、花婿の言うことに耳を傾ける、ということです。実は、バプテスマのヨハネがイエスさまのおっしゃることばに耳を傾けているという記述は、聖書の中にはそんなに登場しません。イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになる、その理由をヨハネに語り聞かせていらっしゃる、マタイの福音書の一節くらいです。  しかし、ヨハネの弟子までカテゴリーを広げたらどうでしょうか。ヨハネは弟子のアンデレの前でイエスさまを指し示し、「見よ、神の子羊」と言って、アンデレがイエスさまのもとに行くようにさせました。アンデレはこうして、ずっとイエスさまからみことばを聴くことになったのでした。アンデレはこの御声を聞いてもらうべく、彼の兄弟シモンをイエスさまのもとに連れていきました。  弟子の共同体は、師匠から伝授された同じ価値観を持ってしかるべきです。そのためには何といっても、弟子は師匠の声を介して教えを聴く必要があります。しかしバプテスマのヨハネは、アンデレのような弟子に対し、神の子羊なるイエスさまの御声を聴きなさい、と、声を聴く主体を自分から、イエスさまへと振り向けました。これは、ヨハネが、弟子のアンデレにもやはり、花婿の友人であるという自覚を持たせたことになります。  花婿の友人の心得、第三にそれは、「声を聞いて大いに喜ぶ、喜びに満たされる」ということです。つまり、喜ぶ理由は、「自分が有名になった」とか、「自分が偉くなった」といったことにあるのではない、イエスさまがキリスト、救い主、終わりの日の花婿として、みことばを語ってくださる、その御声が聴けることこそ、最高の喜び、究極の喜び、ということです。  イエスさまは、私たちのことを「友」と呼んでくださいました。それは、終わりの日の究極の花婿の「友」にしていただいた、ということです。私たち教会は「花嫁」で、私たちにとって地上の歩みはすべからく「キリストの花嫁修業」であるべきですが、同時に私たちは、花婿なる主イエスのみことばを聴くことに至上の喜びを覚える「友」です。  イエスさまは私たちのことを、しもべとして扱うことはなさいません。秘密のこともちゃんと伝えてくださる「友」です。イエスさまはそれだけ、私たちのことを信頼してくださっているのです。  聖書をご覧ください。ご自身の弟子をご自身の友と見込んで、秘密を明らかにして伝えてくださっている箇所ばかりではないですか。そして、聖書を手にしてお読みする私たちには、イエスさまの弟子になる道はもちろんのこと、イエスさまの「友」になる道が開かれているわけです。  そうです。私たちがみことばをお読みして「大いに喜ぶ」理由、それは、イエスさまが私たちひとりひとりを「友」と見込んで信頼して、秘密の話をしてくださるから、でもあるわけです。  今日の箇所に隠された真理、それは、イエスさまが花婿として、終わりの日に花嫁なる私たち教会を迎えてくださる、ということです。この事実を知っている人が、果たして世界の中にどれほどいるというのでしょうか。ですから、この秘密を聴かせていただいた私たちは、イエスさまが「友」と見込んでくださった、イエスさまの「友」なのです。  しめくくりのみことば、30節をお読みします。こうしてヨハネは、世界の表舞台から消えていきます。これは、謙遜ということ以上の意味があります。およそ神の働きをする者であるならば、だれもがこの態度で生きるべきなのです。これもまた、花婿の友人の心得です。  第一コリント13章10節に、「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」とあります。預言や異言、知識といった、たしかに神の領域に属しているゆえに素晴しいものであっても、完全なもの、すなわち、愛が現れたならば、すべてすたれる、ということです。  みことばは、神は愛です、と語ります。愛が完全なのは、その愛とは神の愛であるからです。そしてイエスさまこそは、神の愛そのものでいらっしゃいます。友のためにいのちを捨てる愛、しかし友のためによみがえってくださった愛、そんな愛を生きたお方は、古今東西ただひとり、神の御子なるイエスさまだけです。  思えば、バプテスマのヨハネは神の道を説く人であり、それはすばらしいことではあったのですが、神の愛を説くということにおいては、愛なるイエスさまを指し示し、イエスさまのもとに人を送るということ以上のことはしませんでした。そんなヨハネについて、イエスさまは2つの評価をなさっています。これまで世界の歴史上存在したすべての人の中で、バプテスマのヨハネがいちばん偉大な人物だった、ということ、しかしそれと同時に、その偉大さは、天の御国のいちばん小さい者の偉大さにも及ばない、ということです。  それでも私たちは、自分の罪深さや、自分の小ささが見えてならなかったりするでしょうか? 自分は取るに足りない、と思うでしょうか? そんな時は思い起こしましょう。私たちひとりひとりは、バプテスマのヨハネよりも偉大であると、ほかならぬイエスさまが言ってくださっているくらい、偉大な存在にしていただいているということをです。これもまた、花婿の友人の心得です。  また、私たちの人生は、イエスさまが盛んになり、自分は衰える一方という生き方をしてこそ意味があります。私たちがほんとうに、もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分のうちに生きておられると心から告白しているならば、それにふさわしい生き方の実を結んでこそしかるべきです。  その生き方を私たちが続ける目的は、そういう生き方をする私たちのことを見て人がどう思おうとも、ひたすらに神の栄光を顕すこと、天に宝を積むことにあります。その生き方を続けていくならば、私たちに主が任せてくださっている人生の領域に、主はすばらしい実を結んでくださいます。そう、主の栄光をです。このように、主の栄光を顕す歩みをみことばから学び、ひとつひとつ守り行うこと、それが花婿の友人の心得であり、同時に、キリストの花嫁として整えられる道です。

主イエスはこの世を愛された

聖書箇所:ヨハネの福音書3章16節~21節 メッセージ題目;主イエスはこの世を愛された  聖書全体をただ1節のみことばに要約すると、それはどの箇所になるだろうか、多くの人は、今日の箇所に含まれている、ヨハネの福音書3章16節とおっしゃいます。これに異論のある方はあまりおられないと思います。私たちと同じ保守バプテスト同盟の牧師で、佐藤彰先生という方をご存じの方も多いと思いますが、佐藤先生のお車のナンバーは、「316」番です。意味は、このヨハネの福音書の3章16節ということです。そんな信仰で車に「316」というナンバーをつけているクリスチャンも多いのではないかと思います。  今日の箇所、16節から21節は、イエスさまとニコデモの対話を受ける形になっています。律法学者、パリサイ人の発想から抜けられないで、救いが行いによらないで上から来る、神さまのみこころによって、ということが理解できなかったニコデモに、イエスさまが懇切丁寧にみことばを教えていらっしゃいます。イエスさまは、ユダヤ人にとって、そして、モーセとその教えをとても大切にする律法学者にとって、とても親しいみことばである、モーセが荒野で青銅の蛇を上げた箇所を引用され、その蛇を仰ぎ見た者が生きたように、人の子であるご自身、イエスさまもまた、上げられなければならない、それは、信じる者がみな、イエスさまにあって永遠のいのちを得るためである、とおっしゃいました。  それを受けての16節以下のみことばであり、英語のものですとか、聖書の翻訳によっては、この16節から21節までのみことばを、イエスさまがニコデモに語り聴かせられたおことばのつづきのように訳し、かぎかっこを21節の後ろで閉じています。それも解釈としてはありなのでしょう。ともかく、これがイエスさまご自身のみことばであれ、ヨハネによる解説であれ、とても大事なみことばであるということに、異論をさしはさむ余地はないと思います。  では、ひとつひとつ見ていきましょう。16節の有名なみことば。このみことばの含んでいる情報は膨大です。まず、主語は「神」です。聖書のみことばは徹頭徹尾「神」のことばであり、「神」についてのことばです。創造主なる唯一の、絶対的な主権者が、という主語。  このお方が何をされたのでしょうか。そう、「愛された」のです。何をでしょうか? 「世を」です。どれほどでしょうか?「そのひとり子をおあたえになったほどに」です。ここからわかることは、創造主にはひとり子がおられるということ、そして、そのひとり子を世にお与えになって、世を愛してくださった、ということです。  その理由も語られています。ひとり子は「御子」であるとあります。絶対者にして聖なるお方のひとり子ですから、「御子」という呼び方が適切でしょう。神が御子を与えてくださったほどだという、その愛にお応えする方法は、「御子を信じる」ことです。  御子を信じたらどうなるでしょうか? 信じる人はひとりとして例外なく、滅びることはありません。永遠のいのちを持ちます。ひとりの例外もありません。そう、神さまの愛は、人を滅ぼさない愛、滅びの代わりに、永遠のいのちを与えてくださるほどの愛、それ以上に、天におられるべきお方、ひとり子イエスさまをこの世に与えてくださるほどの愛です。  「世」というものは、人間社会を指すいわゆる「世間」というレベルではありません。「世」は原語では「コスモス」、宇宙万物、森羅万象を指すもので、途方もないスケールの愛です。しかし、ローマ人への手紙8章19節以下のみことばによると、被造世界の堕落と滅びは神のかたちに造られた神の子ども、人間の堕落に由来することがほのめかされていて、まず、人間の救いがあらゆる被造物の回復に益してしかるべきであるわけです。したがって、神さまの万物に対する愛情は、まず、万物を管理する責任を神さまから託された存在である、人間こそ受けるべきものです。  しかし、神さまが世を愛する一方で、人間は世をも、世にあるものをも愛してはならないこともまた、みことばは語ります。ヨハネの手紙第一2章15節です。  うっかりすると、私たちはこの、人間に戒められた「愛してはならない」という命令を、兄弟愛を意味する「フィレオーの愛」で愛してはならないということか、と誤解しかねません。しかし、原語では、なんとこれは「アガペーの愛」、したがって人間は、神の愛で世を愛してはならない、ということです。  そんな莫迦な、とお思いでしょうか? 私たちは天地万物を統べ治める神ではない、そんな愛で愛することなど初めからできない、と思いますか? ならば、このヨハネ伝3章16節のみことばに示された神の愛とはどういうものかをヒントに考えましょう。  神さまはどのようにして「世」を愛されましたか? ご自身の大事なひとり子のいのちを差し出されるほどに愛してくださいました。このように愛していいのは神さまだけです。なぜならば、それによって失ったいのちを、神さまはよみがえらせてくださるお方だからです。現に、イエスさまは十字架にかかって死なれましたが、復活されました。  しかし、人間はそうはいきません。「いのちをかける」とか「骨をうずめる」などという大層なことばがありますが、学問ですとか、会社ですとか、趣味のような生きがいですとか、そんなものは果たして、それに没頭するあまりいのちを失っても構わないというようなものなのでしょうか? それに没頭するあまり家庭を顧みなくて、子どもが非行に走ったりして家庭が没落する、なんてことになったら、その人にとっての「愛」など何になるのでしょうか?「会社愛」で過労死したら?「愛車」で事故を起こして亡くなったら?「愛人」をつくって双方の家庭を破滅させたら?  だから、いのちをかけて世を愛する資格があるのは、神さまおひとりだけなのです。人は、どんなにだれかのことを愛したとしても、神さまほどの愛を注ぐことなど金輪際できません。そして神さまは、そんなふうにいのちをかけて、世を愛したり、世にあるものを愛してはいけない、と、人に警告されました。  もっとも、キリスト教会の歴史に名を残した働き人の中には、殉教したり、たいへんな迫害をくぐりぬけたり、宣教や教会形成のために塗炭の苦しみを味わったりした人もいました。彼らはいけないことをしたのでしょうか? そういうことではありません。彼らはイエスさまを心の中に受け入れ、肉的な動機、自分の名を上げたい動機の代わりに、イエスさまの栄光を第一の動機として、主への献身を果たした人たちです。言うなれば、主ご自身が彼らのことを、いのちをささげたいと思えるほどの献身へとお導きになったのでした。このような生き方へとひとたび導かれたならば、人間的な思惑でそれを止めることなど、だれにもできません。  17節をお読みしましょう。神さまが御子を世に遣わされたのは、御子によって世をお救いになるためでした。私たちは、宮きよめを行われる荒々しいイエスさまのお姿を目にするとき、いや、イエスさまは救い主であるだけではなく、さばくべき人にはさばきを行なっておられるのではないだろうか、と思いますでしょうか? ところが、イエスさまはそれでも、さばくお方ではないのです。イエスさまはどこまでも、「救う」お方です。だから、一見すると暴力的なイエスさまの宮きよめの振る舞いも、「愛するユダヤ人よ、こんなことをしていては神さまに近づけないだろう! こんなことはやめなさい!」という、救われてほしいゆえの愛情の表れといえます。  その17節を前提にして18節をお読みしましょう。これは時制がいろいろになっていて、少し難しい印象を受けませんでしょうか? 信じればさばかれない、信じない人はすでにさばかれている、どういう時制で解釈すればいいのでしょうか?  これは、こういうことです。ローマ人への手紙3章23節は、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない、と宣言しています。神からの栄誉とは何でしょうか? 神の子どもと認めていただけるほどの栄光、栄誉です。しかし、人間は罪を犯した罪人であり、罪人ゆえに罪を犯す以上、聖い神さまに聖い、罪がないと認めていただけるほどの栄誉など、一切持ち合わせていません。神さまに認めていただけない以上、そんな人間を待っているものは滅びしかありません。  ということは、人間としてこの世に生まれ落ちたならば、だれもが罪を犯す罪人であり、ゆえに、神からの栄誉を受けられずに滅びるしかないわけです。私たちは「滅びる」というと、どんなイメージを持ちますでしょうか?「罪滅ぼし」ということばがありますが、あれは、「よい行いをすることで罪を消す」という意味で、ぜんぜん聖書的なではない、いかにも一般的な日本人が好きそうなことばです。聖書の語る「滅びる」は、「存在が消える」ではありません。むしろ「破滅する」という方がニュアンスが近いでしょう。存在が消えるどころか、地獄に落とされて永遠に苦しむ。これが、罪人が滅びるということなのです。  しかし人間が罪人であるということは、聖い神さまとそのみこころを認めないということであり、それは、神の御子イエス・キリストの御名を信じない、受け入れない、という形で現れます。言い換えれば、私たちが救われるように神さまがイエスさまを私たちのもとに送ってくださったという、その神さまのみこころを否定するわけです。  そうです、人間は全員が、すでにさばかれた存在です。全員が地獄に落ちるべき存在です。しかし、神さまはそんな私たちのことを憐れんでくださり、ひとり子イエスさま救い主と信じ受け入れれば、さばきと滅びから救ってくださるようにしてくださいました。こうして、イエスさまを信じるように神さまが導いてくださり、すでに定まっていた滅びとさばきから救われた人が、私たちも含めて、神の民であるというわけです。  19節、20節のみことばは、さばきというものについて語っています。光なる神さま、イエスさまよりも、闇、罪とサタンに属する勢力を愛すること、それそのものがさばきです。それらのものを愛している以上、滅びのさばきからは一切免れさせてはもらえないからです。そのさばきへと導くものは何かというと、この節のみことばによれば、「行いが悪いこと」、つまり、「悪い行い」です。  悪い行いは何か、ということは、第一コリント6章9節と10節、エペソ人への手紙5章3節から5節、ヨハネの黙示録21章27節など、かなり具体的な形でも聖書のあちこちに書かれていて、私たちはそれが何かを知ることができます。  こういうことが罪であると普段からしっかり押さえておかないと、私たちは日本人的倫理、この世的倫理が、私たちの本来持つべき倫理にとって代わる危険につねにさらされています。なぜならば、私たちクリスチャンはふつう、この日本において善良な市民として振る舞うことをつねに意識しているものだからです。「証しにならない」なんて表現を日本のクリスチャンはよく口にしますが、それは裏を返せば、「未信者からどう見られるか、周りの目を気にして生きよう」という意識がなくもないのでは、と思えます。だからこそ私たちは、「日本社会が罪と規定するもの」ではなく、「聖書が罪と規定するもの」が何かをしっかり押さえ、そこから身を避けて生活するように、語り合い、励まし合い、祈り合っていく必要があるわけです。  ともかく、悪い行いをする者は光の方に来ません。光の方に来たら、罪を行なっているゆえの自分の醜さ、きたなさ、いやさしさが、白日の下に明らかになり、それはきわめて受け入れがたいからです。だからといって彼らは悔い改め、その罪を雪よりも白くしていただこうという発想にはなりません。ますます罪を犯すことに執着します。こうして、彼らは悔い改める機会、罪を赦していただき、きよめていただく機会をますます失い、滅びへとまっしぐらになります。  確かに主は、私たちの心の中を探られる方です。私たちの心の中に罪があるならば、それを見過ごしにはなさいません。しかし、私たちを滅びのさばきに定めるのは、このみことばによれば、「罪の思い」、言い換えれば、「心の中の罪」ではありません。「罪の行い」です。神さまが問題にされるのは「行い」なのです。  ですから、私たちは21節のみことばをあらためて心に留めて生きるべきです。心の中でよい動機、崇高な動機があれば、よい行いができる、とお考えでしょうか? もしそうならば、心の中にその動機が満ちるまで、納得いくまで成長しつづけなければならない、ということになるでしょう。しかし、それを待っていては、私たちはいつまでたってもよい行いなどできません。  だから、真理を行うことが光の方に来る、ということ、大事なのは「行い」です。真理とは何でしょうか。イエスさまご自身が真理です。ですから、心のうちにおられるイエスさまに働いていただくこと、具体的には、真理なるイエスさまに真理のみことばを教えていただき、そのとおりに行動すること、また、真理の霊なる聖霊さまに恥じることのない行動を、聖霊なる神さまに導かれて実践することです。  こうなってくると、単なる善行とレベルが違うことがお分かりだと思います。イエスさまがそれを真理と認めていらっしゃるかどうか、これにつきます。だから、真理をいつも教えていただくのです。  そして、その教えていただいた真理を「時を移さず」実践する、それがともにできるように、お互いが教え合う、それでこそ教会という共同体、キリストのからだなる共同体です。一緒に光の中に入っていき、光の中を歩む、光の中をさらに歩みたくて、光を学び、光をこの世に照らすために、具体的に何をすべきか、日々みことばに教えていただいて、学び、実践する、こうしてますます、光の方に来る、そう、ここでも、「行い」が大事だということがわかります。  繰り返しになりますが、この世を愛する資格があるのは、神さま、イエスさまだけです。主イエスさまは、十字架におかかりになって、私たちを罪と死から贖い出してくださることによって、私たちのことを愛してくださいました。私たちがもし、そのように自分自身を差し出したいほどに愛する、その愛の対象である「世」とは一体何なのでしょうか?「世」と調子を合わせ、「世」に愛されるために自分を犠牲にするならば、それはとても愚かな生き方というべきです。  しかし、私たちがもし、この世を愛していいとしたら、「この世を神さまへと、イエスさまへと導くために愛することをする」、それが私たちの毎日すべきことです。私たちはその、イエスさまのみこころを守り行うために、今日捨てるべき罪の行いはないでしょうか? 今日から守り行うべき真理の行いは何でしょうか? 祈って示していただき、新たな出発をしましょう。