試みを受けし主 その2

聖書箇所:マタイの福音書4章5節~7節 メッセージ題目:試みを受けし主 その2  先週から、イエスさまが試みをお受けになったそのお姿から、やはり試みに合う存在である私たちは何を模範とすべきか学びました。なんといっても、霊の糧であるみことばをいただくことなしには、四方八方から攻撃を仕掛けてくる悪魔に打ち勝つことはできません。  そこで、イエスさまがお用いになった方法は、ご自身のおことばで撃退するということではありませんでした。聖書のことばをそのまま引用し、神の口から出ることばはこう言っている、サタンよ、おまえが指し示す神の姿は間違っている、と立ち向かわれました。  しかし、敵もさるものです。相手が神のイエスさまであろうとも、誘惑の手を緩めません。いや、むしろ、相手が神の子イエスさまだからこそ、よりいっそう誘惑しにかかるとも言えます。 5節をご覧ください。悪魔はイエスさまを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせたとあります。これは、荒野から実際に外に連れ出し、エルサレムに入って、神殿の上までイエスさまのことを連れていったのでしょうか。そうでないならば、旧約聖書のエゼキエル書の終盤のあたりに、バビロンにいたエゼキエルが幻のうちにエルサレム神殿に導かれたとあるくらいなので、悪魔はイエスさまに、エルサレム神殿の幻を見せ、その幻の中で、神殿の上まで連れて行ったのでしょうか。 それがどちらなのか、幻かうつつなのかは、それほど重要なことではありません。大事なのは、イエスさまはあえて、大胆不敵にも聖なる神殿さえも利用して誘惑しにかかる、悪魔の誘いと対決された、ということです。 悪魔はイエスさまのことを、神殿のてっぺんに立たせました。神殿の上に立つとは、まるで、神殿にまつられている神さまよりも偉い存在のようではないでしょうか。さらに悪魔は、ここから飛び降りてみよ、と畳みかけます。 こんな高いところから飛び降りたらいのちがないのは、だれにでもわかることです。しかし、考えてみたら、神殿から地上に飛び降りるとは、天の御国から地上に来られたイエスさまを象徴するようではないでしょうか。もし、この光景を人々が見ていたならば、おお! この方こそメシア! と、拍手喝采しそうなものです。 しかし、イエスさまはそのようにして、ご自身がメシアであることをお示しになりませんでした。なぜならば、そのようにご自身を顕すことは、御父のみこころにかなうことではなかったからです。イエスさまは馬小屋でひっそりとお生まれになりました。人としてあるべき道を実践されるため、あえてヨハネからバプテスマをお受けになるほどへりくだっておられました。 そんなイエスさまが、神の座から人の世界に降臨したスーパースターのように振る舞うだなんて、これ以上似合わないことはありません。ところが、悪魔はこのことをするのは、聖書のみことばにかなっている、さあ、おやんなさい、とばかりに、詩篇91篇のみことばを示してみせます。 しかし、イエスさまには悪魔の魂胆がわかっておられました。すかさずイエスさまは、申命記のみことばを引用されます。「あなたの神である主を試みてはならない。」そう、イエスさまがもし、ここで飛び降りるようなことをなさったならば、それは、果たして父なる神さまは、その御子を守るかどうか、試すことになるわけです。さらに言えば、このような誘惑をすること自体が、神の御子を試すこと、すなわち、神を試すことであり、まさしく、この律法のことばによってさばかれるべき罪深いことです。 でも、悪魔の行動パターンをよくご覧ください。神を試みさせる、という罪を犯させるためならば、みことばを利用することもいとわないわけです。ほらみろ、みことばはこう言っているぞ、おまえはみことばに従順なんじゃないのか、みことばに従順ならば、神殿から飛び降りるべきじゃないのか! この悪魔の理屈のからくりがわかりますか。そう、悪魔は確かにみことばを用いています。みことばが出てくると、みことばこそが真理と告白する私たちのような存在は、つい、目がくらまされます。一種の思考停止に陥りかねません。しかし、ここで私たちが問うべきは、みことばを用いているかどうかということではありません。「なぜ」みことばを用いているのか、そして「どのように」みことばを用いているのか、ということ、さらに言えば、「だれが」みことばを用いているのか、ということです。 今日の本文の場合、「なぜ」、これは、イエスさまに、神を疑わせ、神を試みる罪を犯させようとする目的があったから、です。「どのように」、これは悪魔が自分の主張をもっともらしくするために、それらしい箇所を引用するという方法を用いてです。そして「だれが」、もちろん悪魔であって、御父でも御霊でもなく、御使いでさえありません。 みなさまに面白いことをお伝えしましょう。面白い、と言うには、あまりにぞっとしないことではありますが。それは、人を変な風に惹きつける宗教は、ほかならぬ、聖書のみことばを巧みに引用し、または利用して、もっともらしい教えを作り上げていることがとても多い、ということです。このたび解散命令が確定した統一協会などその最たるものですし、いろんなタイプの「異端」と呼ばれる宗教団体もそのとおりです。 彼らは聖書を使います。特に、普通の教会ではあまり扱われていない聖書箇所にもっともらしい解釈を施し、これが真理です、こういうことをあなたの教会では教えてくれないでしょう? さあ、うちにいらっしゃい、と誘惑し、気がつけばその誘惑にあった人は、イエスさまに対するほんらいの信仰を捨て去ることさえしてしまいます。 これは言うまでもなく、聖書に問題があるのではありません。教祖が、自分の王国を築き上げるため、そのために人々を洗脳し、自分の奴隷に仕立て上げるため、その目的を達成するために、自分勝手なもっともらしい教えを作り上げて、真理のみことばである聖書を、大胆不敵にも解釈し、「これがほんとうの聖書的な教えだ!」と、善男善女をだますからです。 聖書は、こういうことをする者たちに、こんな警告を発しています。ヨハネの黙示録、22章18節と19節です。エホバの証人は新世界訳聖書などという、自分の教理を正当化するために訳そのものに手を加えた代物を用いていますが、それは明らかに、このみことばによってさばかれる行為です。しかしそれだけではありません。聖書と教祖の教えが矛盾するとき、教祖の教えのほうを優先させ、聖書はあくまで、教祖の教えを補強する存在以上のものではないような用い方をするならば、やはりそれは、このヨハネの黙示録のみことばによってさばかれることです。 異端というものは、そういうわけで、一切許してはなりません。いわんや、私たちが興味本位で彼らと交わりを持とうとするのは言語道断です。絶対にやめてください。さもなくば、滅びます。 しかし、事は異端だけではありません。異端はもちろん論外ですが、私たちクリスチャンもつい、自分の勝手な目的達成のためにはみことばを用いることもいとわない、そんな誘惑にあうことがあるものです。 私はかつて、大学卒業が見えてきた頃、就職活動をしておりました。しかし、私はほんらい、一般の大学ではなくて、神学校に入学して、牧師になるための勉強をしたいと思っていた者でした。それは、高校生の時、バイブルキャンプを通じて献身に導かれたからでした。しかし、家業を継ぐために理系に進むこともせず、ただでさえ親の期待を裏切っていた私は、勉強を通じて親を説得しなければと祈らされ、一般の大学にまいりました。 しかし、大学という環境は、きわめて誘惑の多いものでした。信仰を持っていない多種多様な友達と付き合っているうちに、みんながしているように、就職活動をして会社に行かなければ、と思うようになっていました。何のことはない、いちど献身を決意した身ですから、大学を出たら神学校に行くべきだったのに、その勇気が出ないで、逃げ回っていたわけでした。 ところが私はなんと、だれも何も言っていないのに、わざわざ自分で教会の牧師のところに出向き、自分は就職活動をするにあたり、みことばが示されました、と言ってのけたのでした。それは第一テサロニケ4章11節のみことばで、たまたまその時期に通読していたみことばで、目についたものでした。 しかし、私の心の中にほんとうにあったものは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」でしかなかったのでした。 その欲望を達成するために、就職してお金を稼ぎたい、と思っていただけで、それを、もっともらしいみことばを掲げて、いかにもこれがみこころです、というポーズを取っていたことでしかありませんでした。そんな私を受け入れる会社がなかったことは、今思えば主のあわれみ、ご恩寵と言うべきことでした。 その結果私はその年のうちに、韓国の神学校に行く道が開かれました。そして、神学校の入試のために韓国に行ったとき、宿泊していた部屋でひとり聖書を読んでいたら、たまたま、エペソ人への手紙2章に行き当たりました。 このみことばは、自分の欲望を達成するために引っ張ってきたみことばではないと、あれから30年経った現在、はっきり申し上げることができます。このみことばに忠実に歩むことを心がけ、ここまでまいりました。これは間違いなく、神さまが私にくださったみことばでした。 みことばが与えられたと思う、という体験は、クリスチャンであればだれしもあります。しかし、それがほんとうに主からのものかどうかは、よく考え、判断する必要があります。具体的にはこうするとよいです。そのみことばが「なぜ」自分に与えられたのか、「だれが」そのみことばを語ってくれたか、「どのように」そのみことばが語られたか、「いつ」「どこで」語られたか、ということも考え合わせるとよいでしょう。 それが、時を経て、やはりみこころにかなっていたのだ、と受け取れるならよいです。しかし、みことばを実践しようとして、少しやってみてもそれがかなわないで、ああ、このみことばのとおりにならなかった、ということは、神さまは私にみことばの導きなんてくださることはないんだ、などと考えないでいただきたいのです。 どんなみことばが与えられていると思うか、分かち合ってみてください。そして、祈ってもらってください。そうしているうちに、みことばがほんとうにみこころにかなっているか、あるいは、惑わしの道具にすぎないものなのか、主は判断させてくださいます。 ともかくも、みこころから見てふさわしくないみことばをつかんで、主を試みるようなことから、私たちが守られますように。お互いのために祈りましょう。

試みを受けし主 その1

聖書箇所:マタイの福音書4章1節~4節 メッセージ題目:試みを受けし主 その1  よく私たちは「キリストに似たものとなる」といいます。聖書をお読みしますと、新約聖書に登場するイエスさまはもちろんのこと、旧約聖書にも、「メシア(キリスト)」とはどのような存在かが、あちこちに書かれていますので、私たちがキリストに似たものとなる上で、モデルとなるその姿は、聖書の至るところに示されている、ということになります。  しかし、いかに『キリストに似たもの』といいましても、私たちは水の上を歩けますか? 5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹にできますか? いや、もっと言えば、十字架にかかって人の罪を赦すことができますか? できるわけありません。これは、イエスさまだけがなさったことです。イエスさまがこのみわざを行われたのは、イエスさまが神の子だから、つまり、神さまだから、ということです。  ならば私たちは、イエスさまのみことばやみわざの記事を読むとき、いや、これは神の子キリストだから言えること、できることで、私たちにはそんな力なんてない、ということは、私たちはキリストの似姿になんてなれない、と言いきっていいのでしょうか? もしそうならば、私たちがキリストの弟子として歩むこの歩みには、何の意味もないことになってしまいます。  しかし、私たちはそんなことを考えません。だから、こうして主の御前にともに礼拝をおささげしているわけです。私たちはたしかに、5つのパンと2匹の魚を増やせません。しかし、おなかがぺこぺこな人を見てかわいそうに思い、この人のためになにかをしてあげたい、と思うことができます。それで、自分の手のうちにあるわずかなものを、増やしてください、と、神さまに祈ることができます。水の上は歩けません。しかし、水の上を歩いてもそれとわからないほど、イエスさま、神さまだけを見つめて生きていく、そういう生き方は目指せるはずです。十字架にかかって人の罪を赦すなど、とんでもないことです。しかし、普通ならば人を憎み、さばくところを、人を赦す歩みができるようになります。  それは、イエスさまが神であられながら、完全な人間として歩まれた、ということです。私たちはイエスさまの御業に秘められた歩みをすることで、キリストの弟子として歩み、キリストに似た者となれるのです。  さて、今日から棕櫚の聖日まで、レントの期間の主日に、特にひとつの主題のもとに、みことばを学んでまいりたいと思います。それは「サタンの誘惑を退けるには」ということです。  4つの福音書を読んでみますと、イエスさまに対してところどころで、サタンが攻撃を仕掛けていることがわかります。  顕著なのが今日の箇所、マタイの福音書4章の前半の部分ですが、イエスさまは公の生涯に入られるに先立ち、荒野にて、四十日四十夜断食されました。それは、1節のみことばにあるとおり、御霊の導きによるものに、その目的は、悪魔の試みを受けるためでした。  人としてバプテスマをお受けになり、御父の御力と御霊のご臨在をいただいたイエスさまは、しかし、いきなり救い主メシアとして、人々の前にデビューなさったわけではありませんでした。その前に、壮絶な試みを体験されることが必要だったというわけです。  その試みとは、何も食べない、それも四十日四十夜にわたって、というものです。みなさん、できますか? 耐えられますか? 私は韓国の教会にいましたが、牧師も信徒もよく断食をなさっている韓国の教会でも、40日間も断食をつづけた、という話は、あまり聞きません。それだけに、40日断食された、という方が現れたら、その人は、すごい人、と見なしてもらえます。でも、40日間断食をしたことのない私が、負け惜しみのように言うようで気が引けますが、おそらくそういう方は、お水くらいは口にしていますから、水も何もない荒野でイエスさまが断食なさっていたのとはちがいます。  百歩譲って、彼らもちゃんと40日間断食をしていたとしましょう。しかしそれは、40日にわたって断食をなさったイエスさまにならって、それだけのあいだ断食をした、以上のことではありません。大事なのはイエスさまであって、断食にチャレンジした方ではないことを、私たちはよく覚え、そういう断食に成功した人を、ことさらにヒーローのように見なさないことが大事です。  さて、イエスさまの断食は40日にわたるものでしたが、この期間が40日だったということは、かつて、40日間断食をした人物の、その断食を受け継いだことを意味しています。それは、モーセです。モーセは、神さまがイスラエルの民と契約を結ばれ、そのしるしとして、神さまがお授けになるみことばを受け取るため、四十日四十夜断食して、シナイ山にとどまりました。  そのモーセですが、彼の120年にわたる生涯は、きれいに40年ずつに分けられます。最初の40年は、エジプトの王室にありながら、ヘブル人つまりイスラエル人として生きつづけました。次の40年は、人間的な動機でイスラエル民族のために立ち上がった、その人格が、荒野の羊飼いとなることにより、徹底的に砕かれ、それによって、イスラエルのまことのリーダーとして整えられる時期となりました。そしていよいよ、出エジプトを果たしますが、そこからの40年は、荒野でイスラエル民族とともに神の導きを受ける歩みとなりました。  こうして見ると、40年という時間は、イスラエルを率いるモーセ自身にとっても、モーセに率いられるイスラエルにとっても、とても大事な時間だったことがわかります。その、40年という時間が凝縮したのが、40日という、神の前に出る時間でした。  モーセはその40日のあいだに、契約のしるしとしてのみことばを授かり、以後、イスラエルはこのみことばに従って歩むことになります。それが40年にわたる歩みとなりました。しかし、イスラエルはこの荒野の歩みの中で、食べ物がないことや、飲み水がないことで、モーセと神さまに対して不平を鳴らしました。神さまはそのたびに、マナを降らせ、岩から湧き水を湧き上がらせましたが、のちに民は、この神さまからの恵みであるマナを嫌がり、エジプトの地獄のような日々に奴隷の食事としてあてがわれていた食べ物を恋しがります。そういうイスラエルは神の怒りに触れ、容赦なく滅ぼされていきました。ついには飲み水を求める民に対して怒りを発したモーセ自身さえも、瞬間、我を忘れて神の栄光を無視したため、神の怒りに触れ、約束の地であるカナンに足を踏み入れることはかないませんでした。つまり、イスラエルのこの40年の荒野の歩みは、モーセに至るまで、全員が誘惑にあって失敗したのでした。  このことを念頭に置いて、悪魔がまず、イエスさまに対して、口にするものをもって誘惑してきたことを考えましょう。2節のみことばです。イエスさまは四十日四十夜の断食をしたあとで、空腹を覚えられたとあります。  なんだ、あたりまえじゃないか、と思いますか? あるいは、この「空腹」ということばをきいて、ああ、おなかすいたな、なんてレベル程度にしか連想しませんか? いやいや、そんな生やさしいものじゃなかったと考えるべきでしょう。  食べる、ということは、人間がほんらい、本能のようにして身に着けている欲求です。神さまが人をそうお造りになった以上、そうなのです。エデンの園をご覧ください。神さまの祝福は、園に生えているどんな木の実も思いのままに食べてよい、というところに現れているとおりです。食べることが祝福であり、食べることで人は神さまからの力をいただき、神さまの栄光を顕す働きができるのです。  だから、食べないということは、よほどのことです。人が食べないでいい理由があるとしたら、病気で胃腸の具合がよくなくて、とか、手術前だから、とかいうことで、食べたらいけない、ということがあるでしょうが、これは、仕方なく食べることができない、ということであって、食べるということそのものを否定する根拠にはなりません。  イエスさまやモーセの場合、食べ物を口にすることよりも、神さまに向けて意識を集中させる、という、大きな目的がありました。断食することによって、神さまだけに拠り頼むようになり、結果として、神さまとの交わりが深まり、御声をしっかり聴けるようになります。  問題は、その定まった期間が終わったときです。私はかつて、若者のクリスチャンたちが数日間の断食祈祷会を終えて、みんなして、うどんを食べている写真を見たことがあります。いや、実に幸せそうな表情を浮かべて食べているんです。彼らは一様に、もうこれで断食しないでいいんだ、食べていいんだ、という、安堵に満ちた態度だったわけです。 イエスさまも、40日という断食の期間が終わりました。それは、食いしん坊の大酒飲み、と揶揄された、人間イエスの、食欲が首をもたげてくるべきときです。そのときに食べていけないわけではない。  しかし、サタンはここを狙いました。腹ぺこで死にそうになっているなら、ここがチャンスだ。創世記を見てみましょう。腹ぺこで家に帰ってきたエサウは、たまたまそこでスープを料理していたヤコブに、とにかくそれを食べさせてくれ、じゃなきゃ死にそうだ、と訴え、その結果、ヤコブとの取引に乗せられて、調子の権利を売り渡してしまいました。たった1杯のスープで!  そのように、空腹が人の判断を狂わせることを熟知していたサタンは、イエスさまの人としてのご性質を狙いました。3節です。イエスさまよお、ここは神の子として、権威を行使なさってもいいんじゃございませんか・・・・・・? あなた、世の中に出ていく前に、死んでもいいんですかあ?  もしかしたら、イエスさまの目の前に転がっている大小の石ころが、ほんとうにパンのように見えてきたかもしれません。イエスさまは神の子です。創造主です。これをパンにすることなど、当然おできになります。  しかし、もしそうなさるならば、それはいろいろな意味で問題になります。まずそれは、父なる神さまを離れて、単独で奇跡を行う、ということです。イエスさまは、御父がなさるとおりをそのまま行われるからこそ、この地上にて神の子として生きたお方でした。御父を離れた神の子という存在は、それそのものが矛盾です。  そして、その前提で考えると、もっと大きな問題になるのは、もしイエスさまがこのとき、神の子の権威によって石がパンになるように命じたとしたら、それは父なる神さまのみことばよりも、サタンのことばの方を尊重した、ということになるわけです。絶対にあってはならないことです。  さらに言えば、イエスさまはご自身を満足させるためにこの地上に生きた方ではありませんでした。イエスさまが食事をなさる場面は福音書のあちこちに登場しますが、ご覧ください、すべて、だれかと一緒に食事をしています。弟子たちとですとか、だれかに招かれてですとか、お友達のマルタ、マリア姉妹とですとか。おひとりでご飯を食べるシーンなんて、聖書のどこにも登場しません。これは、イエスさまが自分のために生きたのではなく、どこまでも、人のために、人ともに生きたお方であることをほのめかしています。イエスさまというお方は、自分を満足させるためにものを食べる、という動機を、そもそもお持ちでなかったと考えるべきです。  もちろん、イエスさまは、人間のことを、食べ物を口にすることで生きて、神の栄光を顕す存在として創造されたのですから、食べることそのものまで否定されてはなりません。  でも、主は、人間が食べ物を食べるだけで生きてはいけないように創造されました。神さまのみことばをいただき、神さまと交わる、これこそが、食べて生きることと同じくらい、人としてもっとも大事なことです。  みことばをいただかないで生きるのでは、クリスチャンとして、というより、人として、本質的に欠けた生き方をしていても構わないと考えていることになります。それは、神との交わりを、ほかのもので代用し、ごまかして生きている、ということです。  この、「人はパンのみにて生くるにあらず」というイエスさまのおことばは、まるで格言のように、この日本の社会で用いられてきました。もちろん、この「パン」というものが食べ物全般を指すことは、いかにキリスト教社会ではない日本の人々とて、ちゃんと理解しています。問題は、「パンのみにて生くるにあらず」ということを理解しているのに、それなら何によって生きなさいと聖書が語っているか、わからないか、わかっていてもわざと無視している、ということです。音楽だったり、文学だったり、哲学だったり、そういうものを指して、「人はパンのみにて生くるにあらず」と言ってみせていて、肝心の「神の口から出る一つ一つのことば」にたどり着けないようにしています。  これも、サタンの策略だと言うことを見抜きましょう。それには私たちは、「神の口から出るひとつひとつのことば」なる、聖書のみことばをいつもいただくことです。だから私たちは聖書を毎日読むのです。聖書を毎日読むから偉いのでも、聖書を毎日読めないからダメなのでもありません。生きるために、聖書を毎日読むのです。そして、聖書のみことばを読めば、私たちは生きます。  なお、今日は、主の晩餐の時間を持ちます。これは、肉の糧なる「パン」をいただくことで、神の口から出ることばをいただくという、驚くべき時間でもあります。なぜならば、このようにパンと杯にあずかりなさいということは、イエスさまがみことばをもって命じられたことだからです。主の晩餐、大切な時間として、ともに過ごしましょう。

御父の約束が叶えられる祈り

聖書箇所:使徒の働き1章1節~14節 メッセージ題目:御父の約束が叶えられる祈り  本日から毎月第1主日を基準に、「使徒の働き」の学びをいたします。使徒の働きはもともとの聖書では「使徒行伝」と呼んでいました。聖書の訳によっては「使徒言行録」という題名もついています。イエスさまに任命された使徒たちは、イエスさまが語られたように神の国を宣べ伝え、イエスさまが行われたようにしるしを行なって、神が私たち人間のうちに生きて働いておられることを証ししました。その記録がこの「使徒の働き」という書、使徒行伝、使徒言行録というわけです。  まず、今日の聖書箇所、1節から14節までをじっくり見てまいりましょう。1節と2節、これは、使徒の働きの著者が「テオフィロ」という人物にこの書をささげている、いわゆる「献呈辞」にあたるものです。実は、旧新約聖書66巻の中で、献呈辞の形式を取ったことばで始まっている書は、「ルカの福音書」と「使徒の働き」だけです。そしてその献呈先は、どちらも「テオフィロ」です。ルカの福音書がルカという名前の医師によって書かれたように、使徒の働きも同じルカが書いています。この献呈辞に出てくる「前の書」とは、ルカの福音書のことです。この「テオフィロ」はどういう人物だったか、諸説あります。実在の人物だったともいわれていますが、詳しいことはわかっていません。 しかし、こういう学説もあり、それは無視できないと考えます。「テオ」とは「神」、「フィロ」とは「愛」という意味です。「フィロ」の動詞形である「フィレオー」は、神の愛で愛する「アガパオー」には及ばないものの、愛する、という意味で、復活されたイエスさまに対してペテロが告白したことば「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」の「愛する」が、この「フィレオー」です。そのように見ると、この「テオフィロ」という人が、実在した特定の人物であったにせよ、そうでなかったにせよ、この「使徒の働き」という書は、「神を愛する人」に献呈された書である、と言えるわけです。 私たちは、イエスさまが私たちになさったように、神さまのために実際にいのちを捨てて神さまを愛するなど、とてもできないかもしれません。しかしそれでも、私たちが神さまを愛していることは、神さまがご存じで、神さまは私たちのその愛を認めてくださっています。その信仰をいただいているから、私たちは恐れないで、神の御前に徹底して生きることができるのです。神さまを愛させてくださる、神さまの愛と恵みに感謝しましょう。 その、神を愛する私たち神の民にこのみことばをささげたのは、確かにルカではあります。しかし、聖書のほんとうの著者は、神さまです。神さまが私たちに、わたしのいのちを得よ、まことのいのちを得よ、永遠のいのちを得よと、私たちを大事に思って「献呈」してくださったのだとするならば、なんともったいないことでしょうか。神であるイエスさまがしもべとなって仕えてくださった、それはみことばを語って、私たちを生かしてくださることによってでした。私たちが神さまのためにすることは、もったいなくも私たちを大事に思って、神さまが私たちにささげてくださった、このみことばを読むこと、読んで、永遠のいのちに生きることです。それが、神さまに仕えることです。 3節、神のみことばがささげられたといえば、神のみことばが人となったイエスさまは、そのいのちをささげてくださいました。そういう意味でも私たちはもったいない恵みをいただいています。しかし、イエスさまは復活されました。いま私たちがお読みしているみことばは、イエスさまが復活されたことを体験した証人たちの証言です。 しかし、そのことを伝えさえすれば、人は「証人」になれるわけではありません。イエスさまが父なる神さまとその御国を宣べ伝えるお働きをするにあたっては、どうしても必要なお方がいらっしゃいました。そのお方が、人がみことばを宣べ伝える人になるために、つまり、キリストの証人となるために必要なのです。 4節と5節。イエスさまは聖霊によって、父なる神さまとその御国を宣べ伝えられました。そのように、宣べ伝える人になるには、聖霊なる神さまが注がれ、満たされ、遣わされる必要があります。聖霊の注ぎ、満たし、派遣を体験し、確信していないならば、その人はどんなに聖書の知識があっても、どんなに善行に富んでいても、キリストの証人になることはできないのです。 父なる神さまは人に、聖霊のバプテスマを約束してくださいました。イエスさまの証人になるには、罪深い肉がキリストとともに十字架にくぎづけになり、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているという、その生きた告白が内側から湧き出るほどの信仰をいただく必要があります。その信仰をもつことを可能にするのは、私たちの努力や修練ではありません。聖霊さまを求めることです。 イエスさまがこのとき、あなたがたはそこを離れてはいけません、とお語りになった場所、エルサレムとはどんな場所でしょうか? イエスさまが十字架にくぎづけにされて死なれ、そしてよみがえられた場所です。およそ人にとって信仰というものは、十字架につけられ、復活されたイエスさまに始まります。まずそこにおいて、父の約束を待ちなさい、とおっしゃるのです。その約束とは、間もなく、聖霊のバプテスマを受ける、ということです。 主が命じられた場所にともにとどまり、御父の約束を信じ、その約束の成る時を待ち望む。そのために彼らが取る行動はひとつ、ともに集まって祈り、その約束を成し遂げてくださいと祈ることでした。 しかし、使徒たちにはすぐには、イエスさまのおっしゃることが理解できていませんでした。6節。彼らはなお、イスラエルがローマの圧政から独立し、目に見える独立国家となることに関心がありました。それはその当時のユダヤ人ならみなそう考えていたと言えることでしょう。 しかし、7節です。イエスさまは使徒たちのそのことばを、頭ごなしに否定はなさいません。イエスさまは、イスラエルがやがて国として再興されることは、御父のご計画のうちにあることを明らかにされました。しかし、その時がいつなのかということは、御父がご主権をもってお決めになることであって、あなたがた人のあずかり知るところではない、とおっしゃいます。 人は時に、神さまのみこころと関係なく、自分なりの解釈で物事を理解しようとしたり、予測したりします。だから、私たちはいついかなる時も、先入観や思い込み、人間的な願望も含め、自分の考えを下に降ろし、神さまとそのみことばに自分を明け渡し、みことばに示されたみこころに合わせていく必要があります。それでこそ、私たちは主のご主権がその人生に顕される、ふさわしい歩みをすることができます。 8節のみことばです。父なる神さまの権威は、目に見えるイスラエルが、それこそこのときの使徒たちが期待したように、人間的な主権国家として立てられること以上に、まことのイスラエルなる神の国が、働き人に聖霊が注がれ、聖霊が満たされ、そして彼らが遣わされ、神の子イエスさまが十字架につけられ、ゆえにそれが指導者から大衆に至るまでに目撃された、エルサレムに始まり、そこからユダヤ、サマリア、ひいては世界の果てまで、イエスさまが神の御子、救い主、王の王であると証言する証人となる、そのことにおいてあらわされます。 父なる神さまは権威をもって、イエスさまを王としてお立てになりました。イエスさまが王として、主として統べ治められ、宣教のわざによって救われた者たちも、イエスさまとともに統べ治める王となる。このことにこそ、父なる神さまの権威があらわされます。いかなる意味であれイスラエルが再興されることは、権威をもってすべての上に臨まれる御父のみこころにかなっていることです。しかし、それ以上に御父の権威があらわされることは、私たちが宣教のわざによって救われ、御国の民となり、救われたすべての民が御父の権威のもとにひれ伏すことです。 そのわざは、繰り返しになりますが、聖霊なる神さまが御父と御子から送られ、主導されることによって成し遂げられます。宣教の主人公は、有名だったり、話術が巧みだったり、知識が豊富だったり、何やらオーラが漂っていたりする働き人ではありません。聖霊なる神さまです。私たちは聖霊なる神さまに用いていただく器にすぎません。 ちょっと注意すべきことを付け加えますが、私たちはよく、有名な牧師のような働き人を指して、「主に大きく用いられている聖霊の器」などという言い方をします。いい呼び方ですし、働きの主人公が聖霊なる神さまであるということからすれば、それは確かにそうなのですが、注意が必要です。この言い方は下手をすると、「聖霊に強く臨んでいただく資格のある偉大な人物」というニュアンスを帯びかねません。それでは、その人物の栄光が現れるのであって、三位一体なる神の栄光が現れていることにはなりません。崇高なことばも、単に人をほめる動機で濫用していないか、気をつける必要があります。 ともかく、宣教の主人公である聖霊に用いられることは、すなわちそれは、神との交わりの中で神さまご自身とそのご栄光を人々の前に顕すことであり、およそ人間にとって最高の生き方です。ただしこの生き方は、ひとりでするものではなく、聖霊によってイエスさまを主と告白し、その告白をもってキリストのひとつからだとされた、教会という共同体のなすわざです。 イエスさまはこの、最後の約束をお語りになるや、たちまち天の雲の中に引き上げられ、見えなくなりました。天への栄光の凱旋です。しかし、使徒たちはそのイエスさまの挙げられた天を見つめてばかりはいられませんでした。彼らが心に留めるべきは、この地上にて栄光をもって生きられたイエスさまが、同じ姿でまた、この地上に戻ってくる、再臨です。再びイエスさまが来られるまで、彼らは、イエスさまがこの地上においてせよと命じられた、宣教の働き、言い換えれば、主のご栄光を表す働きを、最後の最後まで、いのちのバトンをつなぎながら、世界中にて展開する必要がありました。 もちろん、ここにいます私たちも、信仰の先輩たちからその、宣教というバトン、神の栄光を顕すというバトンを引き継ぎ、次の人にバトンを渡す役割をいただいています。宣教は、聖書に示された救いの原理を論理的に説明する「福音提示」をすることにかぎりません。もちろん、それは大事ですし、それを教わっていなければ、人はイエスさまを信じることはできません。しかし、福音を伝えようという私たちが、聖霊の交わりに生きていない、ということは、往々にしてあることです。そういう人にとっての伝道というものは、人から立派なクリスチャンとして認められたい、という、実は肉的、宗教的な野心から出ていたりしないでしょうか。表では立派なことを口にしていても、心の中、人の目につかないところでは、不従順、不信仰をやめないでいる、それは、聖霊の交わりに生きていないということです。 しかし、聖霊の交わりに生きるならば、私たちは喜んでみこころに従いますし、従えないでいるために葛藤する悩みをもし持っているならば、主に切に祈り、その弱い領域にご介在いただいて、みわざが現わされます。そこから私たちは、たとえ宣教師のように上手に福音提示ができなかったとしても、その、聖霊が主人公として生きてくださる人生を通して、キリストの証人として立派に用いていただけるのです。 彼らはその、聖霊に生きていただく、働いていただく、その生き方に献身することがみこころと知るとすぐ、ともに集まり、心を一つにして、御父の約束である聖霊のバプテスマを切望して、祈りはじめました。場所は「泊まっていた屋上の部屋」です。ここはもしかしたら、ほどなくして聖霊のバプテスマを体験することになる、マルコの実家の部屋かもしれませんし、イエスさまが使徒たちと最後の晩餐の時間を持たれた、二階の大広間かもしれません。いずれにしましても、あるいはそうでなかったとしても、彼らがいたところは「奥まった部屋」でした。祈るならば偽善者の真似をしないで、人目につかないところで祈りなさい、という、イエスさまのみことばに従順になったためともいえるでしょうが、彼らにはまだ聖霊が注がれていなかったので、大胆に人前に出る力がありませんでした。ともかく、祈りは人目につかないひそかなものでしたが、しかし、聖霊に飢え渇いての熱い祈りとなり、そう祈るように、主は彼らをお導きになりました。 私たちが求めるべきは、聖霊です。私たちの信仰生活が、どこかで頑張りすぎていなかったか? どこかで疲れていなかったか? どこかで退屈になっていなかったか? どこかで形だけのものになっていなかったか? どこかで神さまよりも人を意識していなかったか? どこかで神さまに対して間違ったとらえ方をしていなかったか? それは、聖霊の交わりを充分に求めないまま、というより、聖霊に明け渡す生き方をしないまま、宗教的な生活をすることに汲々としていたからではないでしょうか? この時間は、一緒に集まって聖霊さまを求める、聖霊さまに私たちを明け渡す、またとないチャンスです。今こそ祈りましょう。共同体全体がキリストの似姿に変えられ、私たちの行く先々で主の栄光を顕す、キリストの証人として用いられるものとなりますように。

万軍の主の御名によって

聖書箇所:サムエル記第一17章41節~58節 メッセージ題目:万軍の主の御名によって  今日は今年最後の礼拝となりました。みなさまにとりまして、今年はどんな年になりましたでしょうか? 私はこの年の終盤になって、ダビデのデビューにまつわる箇所からみことばをお取り次ぎしながら、主によって備えられた主の器はいかにあるべきかを教えられました。  私たちもいろいろな戦いを体験しています。家庭であれ、職場であれ、学校であれ、地域社会であれ、自分の思いどおりにするにはあまりに難しい課題にぶち当たったりすることがしばしばあるものです。人間関係かもしれません。新しい技術を取得することかもしれません。あるいは、自分自身の健康という問題であったりするかもしれません。  しかし、私たちは、自分にとっての戦いというものの本質を見失ってはなりません。みことばは語ります。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペ6:12)してみますと、私たちの闘う相手は、人でもなく、ましてや自分でもなく、悪魔、また悪霊であることがわかります。  私たちはときに、例えば職場などで、面倒くさい人、やたら威張る人、いやな気分にさせる人を「敵」と見なしたりはしないでしょうか? しかし、みことばによれば、そういう人たちはどんなに、私たちにしてみれば、不敬虔、不従順、不信仰なように見えたり、感じられたりしたとしても、「敵」ではないのです。「敵」は、その背後に働いて、私たちを攻撃するサタン、そしてその手下である悪霊どもです。  そういうことからも、だれかのことをさばいたり、悪口を言ったりするということは、私たちクリスチャンには似合いません。その人が悪いのではなく、その人を操るサタンならびに悪霊どもこそが悪いと見なし、そういう、悪い感情を抱かせてしまう人々に対する、そのマイナスの感情は、手放してまいりたいものです。  そこで、私たちの敵がサタンであるということはわかりましたが、それではどのように戦うものなのか・・・・・・今日の箇所は、そのことを私たちに教えてくれています。これを、5W1Hで解いて考えてみましょう。  まずはhowです。大前提として、ダビデは「万軍の主の御名によって」ゴリヤテに立ち向かっています。ダビデはたしかに戦場にいましたが、もとはといえばそれは、戦うためではありません。お父さんのお使いで、兵隊に食べ物の差し入れをして、従軍しているお兄さんたちの安否を知って、お父さんのもとに便りを持ち帰るためでした。だから、着ているものにしても、簡素な服装でしかありません。  しかし、ダビデはいざ戦うとなったら、それで充分でした。彼は羊飼いの服装、それこそ、労働のための簡素な服装でも、クマやライオンのような猛獣が羊の群れに襲いかかろうものなら、それに飛びかかり、やっつけていました。素手で打ち殺せたというから大したものです。要するに、私たちが想像するような、よろいかぶとに盾と剣を帯びた古代の兵士のような格好などしなくても、充分に戦えたのです。彼にとって武器などは、羊飼いとして持ち歩いていた石投げで充分でした。  しかし、彼は丸腰ではありませんでした。彼には、何よりもすごいものがありました。それは「万軍の主の御名」です。これはどういうことでしょうか? 人間の大軍団など到底太刀打ちできない、全知全能なる、父なる神さま、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神さまの三位一体の神さまが、天の大軍勢を率いて、ダビデをとおしてゴリヤテとその背後にある神に敵対する勢力に立ち向かい、戦ってくださる、ということなのです。これほどの力、無限の力をいただいているわけですから、ただ見栄を飾る以上のものではないサウルの武具など、全く必要ありません。  では、who、だれが戦うかを見てみましょう。昨日、新たな宣教の場所に旅立ってゆかれた金先生が繰り返しおっしゃっていたことを、思い出していただきたいのです。私たちクリスチャンは、実はすごい存在であるのだと。私たちのうちにイエスさまがおられるということは、第三の天にいますイエスさまが、ご自身天に至るはしごとして私たちとつながり、天におられると同時に、私たちのうちにおられるのだと。だから私たちは絶えず、天の御力と祝福をいただいているのだと。 そして、イエスさまがうちにおられる以上、聖霊なる神さまがうちにともにおられ、父なる神さまがうちにともにおられるのだと。三位一体の神さまがうちにおられるのです。いやはや、私たちはどれほどすごい存在なのですか! このお方が、ダビデをとおして戦われ、勝利してくださったように、私たちをとおして戦ってくださるのです。当然、私たちは勝ちます。「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。」(黙17:14)ときに、負けた、と思えるようなときでも、主が戦ってくださるかぎり、私たちは勝利しているのです。 しかし、万軍の主の御名によって戦うと、私たちが口にするとき、問われるのはその動機です。私たちはもしかして、どこかで、自分のために、名誉ですとか高い地位ですとか、豊かで安定した暮らしですとか、そういったことのために、主の力を「動員」するかのような態度でいたりはしないでしょうか? それは大間違いです。そういうことに「霊的」な力を借りようとする生き方は、「宗教」にすぎません。私たちキリスト者の生き方はそういうものでは決してありません。主が主体であり、私たちは主に用いていただくのです。 神さまがサムエルを遣わされ、ダビデに油が注がれて以来、主の霊がダビデに激しく下るようになりました。それは、ダビデの主人がか弱い少年である自分自身ではなく、世界の何よりもお強いお方、主が生きてくださるという生き方です。パウロのことばのとおりです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラ2:20)しかしそれは、自分の古い人がキリストとともに十字架につけられて、もう死んでいる、生きているのは復活のキリストのいのちである、ということです。 ゆえに、私たちの戦いは目に見えるものが相手ではありません。目に見えるものの背後にうごめく悪しき存在、目に見えるものを操る悪しき存在、そういう邪悪な存在と戦うべく召されています。この戦いは主の戦いです。主が戦ってくださいます。主の戦いに、私たちは用いていただくのです。 その戦うダビデ、彼は神の霊の臨む、神の人です。そのダビデはなぜ戦うのでしょうか? Whyを問います。それは、ゴリヤテによってイスラエルに浴びせられた、その恥辱をイスラエルから取り除くためです(17:26)。 ダビデが問題にしたのは、イスラエルがゴリヤテを前にして、情けなくも震え上がっているからではありません。ゴリヤテがそのようなイスラエルのことを、ペリシテの神々の名により呪い、馬鹿にすること、それによってイスラエルの神が、あたかもペリシテの神々よりずっと弱く、また情けないもののように扱われていること、それを問題にしたのでした。 感情というものは、たしかに聖書のみことばという事実、そしてそれが事実にして真理であるという信仰に伴って生じるものであり、感情に振り回されることは信仰生活とは言えません。しかし、聖霊の臨む人、ゆえに神との交わりをつねに喜ぶ人には、ひとつの感情が伴います。それは、神さまが無視されること、神さまが馬鹿にされることには、耐えがたい怒りの感情を抱く、ということです。 ヤコブの手紙1章20節で戒められているとおり、「人の怒りは神の義を実現」しません。私たちにとっての怒りというものは多くの場合、みこころにかなわない肉的な感情の現れに過ぎないものです。しかし、それは、私たちの中から湧き上がる怒りの感情を何でもかんでも否定すべきだ、ということではありません。パウロにしても、アテネの町が偶像でいっぱいなことに怒りを覚え、その感情はパウロを福音宣教へと促しました。これは、持つべき怒りでした。  私たちが怒るとき、その怒りが正当か不当かは、聖霊なる神さまが教えてくださいます。アテネにおけるパウロの怒りは正当でしたが、神さまがニネベに悔い改めのみわざを起こされたことに対する預言者ヨナの怒りは不当でした。私たちの抱く怒りが主にあって正当か不当か、それは、聖書を読めば客観的にわかることです。 普段から祈りつつ聖書をまんべんなく読むことを心がけていれば、私たちは聖霊に導かれ、いざ、心に怒りを覚えるとき、それが主にある聖なる怒りであるならば、感情は高ぶっていても、心の奥底には不思議と平安があるものです。  そしてダビデは、神の御名をそしるゴリヤテに激しい怒りを燃やしましたが、その怒りはみこころにかなった正当なものであったゆえ、ダビデの心には不思議な平安、落ち着きがありました。普段、猛獣を狙って石を撃つように、ゴリヤテの急所という的を外さずに石を撃ち込みました。  私たちは怒ることも多いものです。何かあると、かっとなって、声を荒らげたくなったり、暴言を吐いたりしたくなる誘惑にさらされるものです。しかし、その怒りは果たして主から来る、正当なものなのでしょうか? 怒る私たちの心に、ほんとうに平安はあるのでしょうか?  逆に、明らかに主の御名が無視されるような状況を見聞きするとき、私たちの心はどうなっているでしょうか? 先週、私たち教会は、クリスマス礼拝をおささげする、素晴らしい時間となりましたが、そんな教会のことなど見向きもしないで、人々はクリスマスセールに行ったり、パーティーをしたり、デートをしたりします。昨今はクリスマスマーケットなんてものもブームになっています。でも、教会には行きません。そんなふうに、てこでもイエスさまに目を向けさせまいと日本人を操るサタンの存在とその働きに私たちはもっと怒り、この霊的な妨げをとどめてくださいと、もっと祈るべきではなかったでしょうか?  こういうことには怒っていいですし、怒るべきです。切なる祈りはそこから出てきます。何が起ころうとも平然としているならばそもそも、いっしょうけんめい祈る理由がありません。怒るべきときに怒ってこそ私たちはキリスト者です。主の御名がけがされることに対する怒りから主に叫び求める、その祈りをもって、私たちは悪しき霊的存在と戦うのです。そしてもちろん、主が十字架と復活をもってすでに勝利してくださったゆえ、私たちはこの戦いに勝利します。アーメン!  あとの3つにまいりましょう。「where」、彼はいきなり、戦場に放り込まれました。しかし、主の戦いをすることにおいては、羊の牧場だろうと、戦場だろうと、彼には同じことでした。任された羊のために猛獣と戦うことと、神の民なるイスラエル、ひいてはその主なる神の御名のためにゴリヤテと戦うことは、ダビデには同じことでした。いずれも、「神の栄光を現す場」という点で同じでした。  私たちの人生も、いろんな場面を経験しています。自宅、職場、行き帰りの車、買い物先、その他諸々、しかし、どこにおいても言えることは、私たちはどこにいても、「神の栄光を現す」戦いに置かれている、ということです。  そんな、無茶な、と思いますか? しかし、ほんとうのプロフェッショナルは、つねにどんなときも、自分がその立場に置かれていることを前提にあらゆる振る舞いをします。テレビや映画に出演するようなスターのプライベートがさらされてスキャンダルになることがやたら人の関心を引くのは、スターたるもの、いつ、どんなときも、スターとして振る舞ってほしいという人々の要求に応えることそのものが仕事であり、生き方であるからです。だから、スキャンダルがなくて高い人気を誇るスターはほんとうにすごいプロ意識を持っていることになります。  私たちはテレビに出ないかもしれませんが、スターです。神の栄光を輝かせる世の光であり、暗い世界を明るく照らす星だから、文字どおりスターです。そんな私たちが、世の光として主の光を輝かせないで済ませていい場所など、世界のどこにもありません。そもそも私たちの生活は、神さまの前に丸裸です。つねに神さまを恐れる前提で生きているならば、人前でつねに神の栄光を現すよい振る舞いをすることなど、まったく難しくないことになります。  ただ、こんなことを言っている私も、実はついこの間まで、そんなの理想論だ、と、心のどこかで思って、言いたくてもなかなか口に出せないでいました。しかし、このたび、金先生ご夫妻がいらっしゃり、ひと月にわたってお交わりをしたことをとおして、私の考えは完全に変わりました。どこを取っても主の光を輝かせる、そういう生き方はほんとうにできるのか! 驚きはやがて、確信に変わりました。私もまだまだですが、少しでも、つねに世の光として輝く生き方を実践していけるように祈っていこうと願うゆえんです。  サタンは、私たちの光を輝かないように妨げます。世的な生き方を諦めるな、肉的な生き方はいいぞ、霊的な生き方はダサいぞ、ささやきつづけて洗脳しにかかります。しかし「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハ1:5)サタンはイエスさまにすでに、完全に敗北しているのです。だが、まだ負けていないかのように私たちをだます力はまだ残っています。いや、それどころか、サタンの方がイエスさまより強いという、偽りをまだまだ私たちに吹き込み、そのとおりだとばかりに私たちに振る舞わせる力さえまだ持っています。サタンを侮ってはなりません。イエスさまが完全に勝利してくださったことを、つねに宣言する必要があります。  「when」それは、神の時です。エッサイにとっては、ダビデをおつかいにやった時でしかありませんでした。しかし神の霊はダビデを奮い立たせ、おつかいの時を、戦いの時に変えられました。ダビデはこのとき、「いや、私は単に届け物をして、兄たちの安否を父に伝えるために来ただけですから・・・・・・」とは言いませんでした。ゴリヤテに戦って勝利したらどうなるかを兵士たちに聞いて回り、ついにはサウルに、闘わせてくださいと直訴しました。  神との交わりに生きる人は、神の導きを自分の事情や感情よりも優先させます。ヨハネの黙示録21章8節に、「臆病な人は、火と硫黄の燃える池」に投げ込まれる、つまり、地獄で永遠に滅びる、という意味のことが語られていて、ああ、私はクリスチャンのくせに、臆病だから、地獄に落ちるのかしら、と思ったりしていないでしょうか?  もしそうならば、今日この瞬間から考えを変えましょう。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊とを与えてくださいました。」(Ⅱテモテ1:7)聖霊に満たされるとは、イエスさまに満たされ、父なる神さまに満たされることです。ものすごい力に満たされ、かぎりない愛に満たされ、それでいて品性に満ちた慎みが伴います。何かを怖がっているならば、それは古い人です。それはイエスさまとともに十字架につけられました。いまや力と愛と慎みの霊なるイエス・キリストの御霊なる聖霊さまが、私のうちに生きています。このことをつねに、確信をもって宣言するならば、恐れは逃げ去ります。大いなる力をもって人を愛せるようになり、しかしそれでいて、暑苦しいような押しつけがましさとは無縁の、魅力的な人になれます。それでこそ神の人です。  こういう人は大胆です。神の導きとあらば、自分のこだわりや常識にとらわれないで動けるようになります。しかしそれは傍若無人ということではなく、つねに周りの徳を立てながらの言動として実を結びます。まさに離れ業、それこそ「神業」です。ともかく、私たちは聖霊が臨む時、力を受けて、必ずその証し人となり(使1:8)、あらゆる戦いに勝利を体験します。その「時」に従って生きるために、つねに御霊の満たしの中で生きるものとしていただきましょう。  最後に結論、「what」、それは「主の戦い」です(47)。私たちは主の栄光を現す生き方をするために、あらゆる努力を傾けるのです。ただし、それは、私たちが自分自身をキリストに明け渡すところからすべては始まります。主の戦いは自分の頑張りでできるものではありません。自分の頑張りに主の御力の助けをいただこうとしてもいけません。主に明け渡し、主が私を用いて戦ってくださる、この境地に至れるように、祈っていただきたいのです。  私たちは何において戦っていますでしょうか? 私たちの目の前に立ち塞がっているものはなんでしょうか? その背後にあるサタンの存在を、私たちは見極め、主がそのサタンと戦い、勝利してくださるにおいて、私たちは自分を明け渡しているでしょうか? ダビデにできていたように、それこそ、ダビデが主とひとつになっていたように、私たちも主とひとつにしていただくならば、主が私たちを用いて、その悪しき存在に勝利してくださいます。

信仰の成長

聖書箇所:ヨハネの福音書4章43節~54節 メッセージ題目:信仰の成長  私たちはクリスチャンです。そんな私たちは、あなたたちクリスチャンとはどういう人ですか? と聞かれたら、イエスさまを信じる人です、と答えるでしょう。しかし、だとすると、私たちは「イエスさまを信じる」とはどういうことなのか、ちゃんとわかったうえで「信じている」のでしょうか?  たとえば、むかし開催されたような、大きな会場を借り切っての伝道集会、あのような集会では最後になると、「イエスさまを信じたい方は前に出てきてください!」と招かれ、前に出ていって、イエスさまを主と信じ受け入れる祈りを導いていただくわけです。 しかし、あれだけたくさんの人が信仰を持ったはずなのに、その後、日本の教会は何か大きな変化が起こったでしょうか? いや、それ以前に、そのような集会を境に、その信じ受け入れたはずの人の生活は根本から変わったでしょうか? もちろん、お救いになったかどうかは神さまの領域であって、人がとやかく言うべきことではありません。しかし、そのときイエスさまを信じ受け入れたという人々が、それ以降、キリストを主と信じ従う生き方ができていたならば、その後日本の教会はどれほどよい方向に変化していただろうか、と考えると、少し残念な思いがします。 私たちは、イエスさまを信じていることが、その生き方、その存在の旗印と言えるでしょう。しかし、それならば、その「信じている」ことの中身が問われていくことになります。来週はクリスマスです。私たちの礼拝にも、まだイエスさまとともに歩む歩みをしていると言えない方々がいらっしゃることを考えましょう。そのような方々も、イエスさまを主と信じ従う生き方をしていただきたいと、私たちは願いませんでしょうか? その備えという意味でも、今日、みことばに耳を傾けてまいりましょう。 今日の本文のテーマを要約いたしますと、それは「信仰の成長」です。イエスさまにすがった王室の役人が、イエスさまと対話を交わしている間の、そのわずかな時間に、どのように信仰が成長していったか、私たちは見ることができます。ともに見てまいります。 43節、イエスさまはサマリアのスカルを去って、ガリラヤに行かれました。イエスさまの故郷です。そのガリラヤはどういう場所かというと、続く43節にあるとおりです。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」。イエスさまご自身がそうおっしゃいました。 それは、彼らが不信仰であったからです。彼らは、幼い日からのイエスさまを知っていました。そんなイエスさまが神の国をお語りになることに、いまひとつぴんときていませんでした。あいつは大工の息子じゃないか。あいつの家族も知ってるぞ。そんなのが、あんなことが言えるのかい。 要するに、故郷の人たちはイエスさまのことを神の子と信じることができなかったのでした。しかし、それでもガリラヤの人たちはイエスさまを歓迎しました。それは45節にあるとおりです。エルサレムで祭りがあり、彼らもその祭りに参加していたとき、イエスさまが祭りの間にエルサレムで行われたことを見ていたからです。 イエスさまがお語りになったことでは、イエスさまを神の子、主と信じず、しかし、しるしには関心がある。これは、イエスさまに対する信仰の初歩の段階です。論より証拠、ということばがありますが、多くの人はどうも、何か奇跡を見ることによってはじめて、そこに神さまが働いていることをようやく信じるのではないでしょうか。そういう人にとっては、福音書の多くの紙幅を割いて書かれているイエスさまのメッセージは、ありがたい教え、難しい教え、くらいのものにしかなりません。 イエスさまのもとには多くの群衆がついていきました。驚くべきみわざを見て、体験することができるからです。こんにちのあらゆるテーマパークのアトラクション、映像コンテンツも真っ青の体験です。しかし、それを体験するだけして、普段の生活に戻ったらまたもとどおりになってしまうならば、それはイエスさまのみわざを、単なる「ショー」のレベルでしか消化していないことになります。 イエスさまに対する信仰を働かせるということは、そういう幼稚なレベルでとどまることではありません。もし、そんなレベルのものが信仰と言うに値するならば、もし仮に、イエスさまの行なっておられるみわざが、私たち人間の目に、それが神のみわざだと認められないならば、別にイエスさまのことを信じなくてもいいことになります。しかし、そういうレベルのものを、果たして信仰と呼んでいいのでしょうか?  そのような中で、イエスさまのもとを訪ねてきた王室の役人を見てみると、イエスさまに対する信仰を働かせるとはどういうことかを学ぶことができます。王室の役人はイエスさまがいらしたと聞いて、イエスさまのもとにやってまいりました。  シチュエーションがよく似たお話が、マタイの福音書の8章や、ルカの福音書の7章に登場します。すると、このヨハネの福音書に登場する王室の役人は、実はその百人隊長のことだったのか、と思えてきます。しかし、その両者は、イエスさまに対する信仰の働かせ方をイエスさまがどう評価したかという点において、決定的な違いがあります。そのお話までこのメッセージに引用するとかなり複雑になるので、今日はそうしません。興味のある方はマタイ8章、ルカ7章をあとでお読みいただきたいですが、今日はそれらと対照させず、このヨハネ4章の本文のみでまいります。  王室の役人は、イエスさまのもとにやってきました。彼の息子が重い病気にかかっていました。イエスさま、下ってきて息子をいやしてください。  まず彼は、イエスさまのところに行きました。そして、イエスさまに直接、自分のところにいらしてくださいとお願いしました。イエスさまを癒やし主と信じての大胆な行動です。ヘブル人への手紙4章16節に、「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。いやいや、神さまに近づくなど畏れ多い、と思うのではなく、神さま、イエスさま、助けてください、と、大胆に御座に近づく、この信仰をイエスさまは喜んでくださいます。  王室の役人もその信仰でイエスさまに近づきました。しかし、それでもイエスさまは、その信仰の「質(しつ)」を問題にされました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」イエスさまのお返事は、切実な願いをしてくる彼の前に、なんとも素っ気ないと思われるでしょうか? しかし、考えていただきたいのです。もし仮に、イエスさまが彼の信仰の質を取り扱われることなく、そのまま、わかりました、と、行ってお癒しになった、子どもは治った、めでたしめでたし、それで終わってしまったならば、この役人はその程度にしかイエスさまを信じていなかったことになり、彼の信仰はそれ以上成長が見込めないものになりかねなかったわけです。  ですからイエスさまは、祈り求める者の信仰の質を問題にされます。あなたは、わたしがわざを行えば信じるのですか? わざを行わないことが父のみこころゆえ、わざを行わなかったとしたら、あなたは信じないのですか? それは、わたしがすべての主権者なる神であることを、ほんとうに信じていることになるのですか?  そうです。イエスさまは私たちの願うようにみわざを行われようと行われまいと、主です。主権者です。癒し主です。私たちはまず、イエスさまとはそういうお方なのだと認めなければなりません。  役人はこのイエスさまのおことばを聞きました。すると役人は、49節のように言いました。「子どもが死なないうちに」と言っています。この子どもはすぐにも死ぬかもしれない病にかかっていました。そんな人を前にして、いや、あなたは死ぬことを受け入れて死になさい、とおっしゃるようなお方では決してない、イエスさま、あなたはいのちの主です、役人の信仰はここではっきりしました。 イエスさまはいのちの主であると認める、しるしと不思議を行われるから信じるのではない、ゆえに、私の愛する息子のいのちもあなたの御手のうちにあるから、子どもを癒やすのはあなたのご主権による、そして、あなたの御心にかなっている・・・・・・役人の信仰は、イエスさまへの理解が伴っていました。見たら信じるという、幼稚なレベルではもはやありません。  その、彼の信仰をお確かめになったイエスさまは、彼にチャレンジを与えられます。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」これは、イエスさまは下っていかない、と宣言されたということ、しかし、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、と宣言されたということです。これは、彼の願った方法にはよらなくても、彼の願いどおりに、いのちの主なる主権者として、そして愛なるお方として、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、ということです。  私たちは、イエスさまは癒やし主です、と信じ告白します。しかし、その信仰の中身というものが、問題にされはしないでしょうか? あの、アラムのナアマン将軍は、自分のツァラアトはエリシャに出てきてもらって、患部の上で何やら手を動かしてもらえば治る、と思っていたのに、ヨルダン川に7回からだを浸せ、とは、と、おかんむりになりましたが、それにナアマンがこだわったら、神さまは確実にナアマンを癒やされる方法を示しておられるのに、ナアマンは治らないことになってしまいます。  同じことで、神さまのみこころが示されているならば、それを信じることです。信じているならば、ああ、神さま、おっしゃるとおりです、と、そのとおりにからだが動いてしかるべきです。この役人の場合も、イエスさまがおっしゃるとおりにここでイエスさまと別れ、家に向かいました。イエスさまは神として、そのおことばをもって息子をいやしてくださった、その信仰は、せっかくのイエスさまと別れて家に帰るという行動に結びついたのです。「いやです! どうしても家に来てほしいんです!」とすがりつくことが、彼のすべきこと、イエスさまのお喜びになる信仰ではなかったのです。イエスさまのおっしゃるとおりに行動する、その結果、彼の息子は癒やされました。  私たちはしばしば、イエスさまに対する信仰というものを誤解しています。目の前に何か問題があったらそれを解決してくださいとか、必要があったらそれをくださいとか、求めるものは何でもくださる、それが信仰だと思っているでしょう。 たしかに「求めなさい、そうすれば与えられます」とか、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と、イエスさまはおっしゃっています。しかし、結構私たちは、そのみことばを表面的にしか理解していないのではないでしょうか? どうせ求めても与えられないかも、と、どこかで投げやりになり、真剣に求めるということができていないのではないでしょうか? それでは与えられるものも与えられません。それにその姿勢は、イエスさまが「与えられます」と約束してくださっている、そのみことばに対する信仰を充分に働かせていないことになります。  私たちはたしかに、イエスさまがご覧になったら,不信仰としか言えなかったり、信仰はあっても幼稚なレベルにとどまっているようなものだったりする、そういうときもあります。 しかしイエスさまは、そんな私たちの姿そのままに、私たちを受け入れ、私たちと語り合ってくださいます。役人はイエスさまと語り合っているうちに、イエスさまを信じることとはイエスさまの主権を受け入れること、イエスさまのみことばのとおりに行動することという理解が伴いました。 でも、役人は律法主義的に、無理やり信じたのではありません。イエスさまの優しいおことば、決然としたおことばを語られるその姿に、そうだ、信じて一歩踏み出そう、イエスさまは絶対、みわざを行なってくださる、と、力強く歩み出したのでした。その信仰の成長は、イエスさまとの対話をとおしてなされたものです。 イエスさまはおっしゃいます。あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる人たちは幸いです。もちろん私たちは、この肉眼でイエスさまのお姿を見ることはできません。しかし、それだけではなく、イエスさまが目に見えるように御業を行なってくだされば信じる、というレベルにとどまらず、いつ、どんなときでも、イエスさまを主として生きる生き方ができるようにしていただきたいと願うものです。それでも私たちは、いざというときには目に見えるしるしのようなものに頼りたくなり、そうでなければイエスさまなど知らないような生き方をしてしまいがちな、そんなものかもしれません。 それでもイエスさまは、私たちにつきあってくださいます。私たちと語り合いたい、信仰を育ててあげたいと、私たちがみもとに近づくのを待っていてくださいます。いま、イエスさまのもとに、祈りをもって進み出てまいりましょう。イエスさまが私たちと語り合ってくださるならば、私たちは成長します。その成長する喜びを、体験させていただきましょう。

賛美の祝福

聖書箇所:サムエル記第一16章14節~23節 メッセージ題目:賛美の祝福  前にも申しました。私が学生時代、キャンパス・クルセードという宣教団体の学生メンバーとして活動していたとき、早稲田大学を借りて行われた木曜集会で、スタッフの佐藤さんという方がおっしゃいました。「みんな、なんで僕たちは、神さまのことを賛美するんだと思う?」学生たちからいろいろ答えが返ってきます。「神さまは素晴らしいお方だから」「神さまは素晴らしいみわざをなさったから」「神さまは僕たちのことを愛してくださっているから」ひとしきり学生たちの答えを聞いて、佐藤さんはおっしゃいます。「うん、そうだね。みんな、そのとおりだよね。でもね・・・・・・僕たちが神さまを賛美するのは・・・・・・それは、神さまだからです。」  私は佐藤さんのこのことばに衝撃を受けました。そうです、私たちは気分がよければ賛美し、気分が乗らなかったら賛美しない、そんなものではないでしょうか。しかし、神さまがほめたたえられるべき神さまであることは、本来、人間の感情と一切関係のないことです。人がどうあれ、神さまは神さまですし、ほめたたえられるべきお方です。  だから、賛美というものは、神を神とするところにすべてははじまります。自分が気持ちいいからとか、誤解を恐れず言えば「恵まれるから」とか、そういう理由で神さまを賛美するのではないのです。神が私の神だから、だから、神を賛美する、そういうことなのです。  思えば、佐藤さんからあのメッセージを聞いた頃、都会に住むクリスチャンの若者たちは、やたらと「リバイバル」ということばを口にしていました。有明コロシアムに行ったり、甲子園球場に行ったりして、大きな声で手を振り上げて賛美をしていると、これだけ大声で、いっしょうけんめい賛美しているならば、今にも神さまは、この日本にリバイバルを起こしてくださるにちがいない・・・・・・私はそう確信して、声を枯らして歌いました。たぶん、周りの若者たちも、同じ気持ちだったと思います。  しかし、その後30年近く経って、およそリバイバルと呼べそうなものを、神さまは日本に起こされることはなさらなかったのでした。そうこうしているうちにリバイバルを求める機運は冷え切り、教会もクリスチャンの数も縮小する一方・・・・・・クリスチャンたちはなおも、なぜ日本は教会が成長しないのか、と、自らに問いつづけています。  しかし、私は自分自身がリバイバルを求め、大声で賛美を歌っていた者として、言わせていただきますと、日本のクリスチャンは果たして、神を神とする生き方を歩んできていたのだろうか、と、自らに問い直し、悔い改める必要があるはずと思います。自分が気持ちいいからリバイバルを求めていただけではなかったか? いじけたマイノリティが一発逆転を狙ってリバイバルを求めていただけ、要するに、霊的とはとても言えない、肉に属する欲望でリバイバルを求めていただけではなかったのか?  これは日本の教会に限らず言うべきこと、およそクリスチャンたるもの、すべからく、神を神とする生き方をすべきです。単なる感情の高まりで神を礼拝し、賛美するだけならば、それは、自分のイメージという偶像に仕えているだけなのかもしれません。  そこで私たちは、いざ賛美するにあたり、聖書に登場するモデルから学びたいと思います。 聖書における賛美のモデルと言えば、だれがなんと言おうとダビデでしょう。なんといっても、聖書における賛美といえば詩篇ですが、その全部で150篇ある詩篇の、実に73篇、ほぼ半分は、ダビデによるものとそれぞれの題名に書かれています。まさにダビデは、賛美の歌い手の中の歌い手であり、私たちはこのダビデをモデルにすることで、神の前によりふさわしい賛美をおささげできるようになると信じます。  さあ、そこで今日学びますみことばは、賛美のささげ手としてのダビデが公式デビューを果たすという箇所です。ともに見てみましょう。先週のメッセージ中にした予告では、ダビデとゴリヤテの対決から今日は学ぶ予定であったと申しましたが、ダビデの油注ぎについての学びと、その対決との間にこの箇所は位置しているので、まずは順番として、今日はこの箇所から学びたいと思います。  まず、ダビデに油が注がれたのは、すでに油注がれて王として立てられていたサウルが、およそ神の民たるイスラエルの王としてふさわしくない、不信仰の振る舞い、不従順の振る舞いを繰り返し、サムエルはもとより、神さまのみこころまでも損なうという結果となったからです。サウルが王として合格していれば、ダビデに油注ぎが回される必要もなかったわけです。しかし実際は、サウルが油注ぎによって受けていた王としての聖別は、ダビデが受けることとなりました。すると結果として、サウルが神から受けていた聖別は、もはや臨まないことになるわけです。  その結果、サウルには何が起こったのでしょうか? 悪霊が臨む、という、およそ神の民の王としてこれ以上なくふさわしくないこと、呪いとしか言えないことが起こるようになったのでした。サウルは狂い、恐れに取り憑かれるようになりました。  しかし、これはサウルひとりの問題ではありません。サウルの家来たちも、このように悪霊に取り憑かれた王に仕えるなど、たいへんなことです。そして、サウルがこのような霊的状態にあるということは、ひいては、イスラエルの国と民族全体の霊的環境に関わることになってしまいます。  家来は一計を案じました。サウルのもとに、音楽をもって癒やしをもたらす人を侍らせよう、竪琴を弾いて、その楽の音(がくのね)にて王を落ち着かせよう、というわけです。果たして、それは王の心にかない、王は家来たちを遣わそうとしました。  琴、という楽器は、実に不思議です。この楽器の奏でる音楽に私たちは癒やされます。弦を1本1本弾いても、複数の弦をいっぺんにストロークしても、とにかく気持ちのいいものです。ハープ、お琴、クラシックギター・・・・・・サウルの当時の楽器といえば、タンバリンのような打楽器だったり、角笛のような吹き鳴らす楽器もあったりしますが、それらは音が大きすぎて、「癒やす」のにはあんまり向きません。やはり、荒ぶる心を癒やすのは、繊細な音を紡ぐ、ハープのような弦楽器です。  さて、家来の心に、これはふさわしいという人物が思い浮かびました。それは18節にあるとおりです。ダビデはこの頃、まだ年端もいかない羊飼いの少年で、実際にサウルの軍隊に従軍して戦士として戦っていたわけではありませんが、上3人の兄はサウルの兵隊であり、ダビデは戦士の家門としても、サウルの前に出るに恥じるところはありません。 それにダビデは、のちにサウルの前にはっきり言いますが、ライオンや熊を素手で相手にして打ち殺すほどの、恐るべき戦闘能力を持っていて、それは隠そうにも隠せなかったはずです。 ここ数ヶ月、連日のように、日本のあちこちに熊が出た、熊が人を襲った、という、ぞっとしないニュースが報道されていますが、人は何か武器を持っていても、熊を相手に闘うなど容易なことではありません。いわんや、熊を素手で打ち殺すなど、とんでもない戦闘能力です。現代の日本は、のどから手が出るほど、こんな人がほしくありませんか? しかし、普通に考えて、いかに昔の人が現代人より屈強だったとしても、熊に素手で勝つなどまずあり得ません。いったい、ダビデはなぜ、こんなに強かったのでしょうか? それは、ダビデには神の霊が臨んでいたからでした。羊を守るために猛獣に立ち向かい、いのちを賭けて闘い、しかもこれをやっつける、イスラエルの王たる者は、イスラエルの民のことを偶像礼拝の敵国の侵略から守るために、軍隊に立ち向かい、やっつける。まさに、イスラエルの王としてふさわしくあるための聖霊の油注ぎは、すでにこのときに臨んでいたのでした。 この、聖霊のきよい御力によって、ダビデは竪琴を奏でたのでした。彼は羊を飼うべく野にあるとき、その広々とした空の下、竪琴を手にして、この大自然を創造したもう神さまをほめたたえる歌を吟じたことでしょう。実際、詩篇23篇、神を羊飼い、自らをその牧場の羊になぞらえたあの美しい詩は、ダビデが羊飼いであったゆえに生まれた歌です。 その、聖霊の油注ぎに満ちた音楽は、サウルのもとにて仕える者の耳にとまりました。折しもサウルは、悪霊につかれてどうにもならなくなり、霊的な助けをとても必要としていたことは、家来たちの目にも明らかでした。そこに現れたのがダビデだったわけですが、これは、ダビデが王宮に入り、サウルに顔を、そしてそれ以上に、その持てる霊的能力を覚えてもらうために、必要なプロセスでした。 そしてダビデは、おびえるサウルの前で琴を弾きました。聖霊の油注ぎに満ちた音楽です。言うなれば、創造主なる神の麗しさを、音楽をもってほめたたえる、賛美です。この音楽を耳にすることによって、サウルから悪霊は離れ去りました。 ダビデのこの演奏は、いくつもの意味を持っています。その中で今日は、3つの側面からダビデの音楽の意味を見て、私たちにとってふさわしい賛美のあり方を考えてみます。 第一に、ふさわしい賛美とは、仕えることです。 ダビデは、サウルの前に出て行きました。なんと、あのしがない羊飼いの八男坊が、ついにサウルの前に出たのです。しかし、ダビデのしたことは、まずこのときにおいては、熊やライオンを素手で打ち殺した、その勇猛さをもって、サウルの兵隊になることではありませんでした。サウルはダビデが勇士であり、戦士の出であることを家来から聞いていましたが、サウルはそういう理由でダビデを召したのではありません。ただ、音楽を奏でてもらうためでした。 しかし、このように、サウルに竪琴の演奏者として引き立てられたダビデのことを考えてみましょう。ダビデは、いや、私は戦えます、ぜひ私を演奏者ではなく、兵隊にしてください、とは言いませんでした。  またダビデは、王の前に自分の演奏技術を見せてやる、とばかりに、派手な演奏をしたわけでもありません。王の前に仕える姿勢で、慎ましく、竪琴を弾いたのみです。  ここに、私たちが礼拝に臨むにあたって、賛美をいかにささげるかを知るヒントが隠されています。そう、私たちにとっての賛美とは、「仕える」ことです。使徒ペテロをして「王である祭司」と言わしめているとおり、私たちクリスチャンは「王」なのです。ということは、私たちひとりひとりはほかの兄弟姉妹に対し、「王」として遇する必要があります。「王」が礼拝という形で神の前に出ているならば、私たちはその「王」の礼拝をアシストするのです。そのアシストする働きを、私たちは賛美を持って行うのです。  私は礼拝の司会に立つことが多く、その分、讃美歌や聖歌の導きをする機会も多くなるわけですが、そのとき心がけるべきことは、この賛美の主たるささげ手は、どこまでも会衆のみなさまである、ということです。だから、まるで歌手がその技術を誇るように朗々と歌い、会衆を置いてけぼりにしてしまう、ということは、してはならないことです。むしろ、会衆のみなさまがいかに、もっともふさわしい形で賛美ができるか、よく準備します。その準備はすでに選曲の段階から始まっていて、伴奏者にとっての演奏の得手、不得手も考慮した上で選びます。特に、メッセージのあとの聖歌は、メッセージの内容を大きく外さないもの、それでいて、みんなにとって歌いにくくないものを選ぶように心がけます。  こういう努力を、会衆のみなさまも、お互いを自分より勝った存在、言うなれば「王」と遇する姿勢で実践していただきたいのです。だとすると、ことさらに小さな声で賛美するのも徳を立てませんし、自分ばかりが目立つように大声で賛美するのも、仕える姿勢とは言えません。互いを神の前に立て上げること、そのことを、賛美をともにおささげすることによって、実践していただきたいのです。 二番目に、ふさわしい賛美とは、癒やすことです。  詩篇22篇3節のみことばは、以前の訳の聖書では、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とあります。そうです。私たちが賛美をおささげするところに、主がともに住まってくださるのです。  賛美のうちに住まわれる主は、癒やし主です。だから、主の御名をほめたたえるとき、そこに癒やしが起こされるのは当然のことなのです。賛美のうちに住まわれる主が、賛美の歌をもって主をほめたたえる私たちのことを、癒やしてくださるのです。  私たちは、自分が賛美を歌うことによって癒やしを体験するものです。しかし、忘れてはいけないこと、それは、私たちが賛美の歌を人の耳に聴かせることにより、主がその聴く人に癒やしのみわざを起こしてくださる、ということです。  私たちが、礼拝というものをこうして、会衆がともに集うということをもっておささげすることに意味があるのは、私たちひとり人が歌うその賛美の歌が、ほかの兄弟姉妹の耳に届き、その兄弟姉妹が主の癒やしを体験する、というみわざが起こされることにあります。そうです、この点においても、私たちは「仕える」者となります。賛美の歌をもって兄弟姉妹を癒やす、そのことで私たちは「仕える」のです。私たちが身を低くして、謙遜な態度と姿勢でお仕えするとき、そこに主は働いてくださり、私たちの歌声をとおして、心傷つく方々を癒やしてくださるのです。 そして第三に、ふさわしい賛美とは、霊的に闘うことです。賛美、それは、自分が気持ちよくて歌うものではないことは、さきほども申し上げました。自分が気持ちいいということは、厳しいことを言えば、自分に酔っている、ということ、それは、一見すると神をほめたたえているようで、実は、自分の肉を満足させることにしかなりません。 ダビデは、自分の音楽の気持ちよさに酔いしれるために、サウルの前で竪琴を弾いたのではありません。サウルに取り憑いた悪霊を去らせるために、祈りを込めて、真剣に奏でました。それは文字どおり、戦いです。ダビデは神の霊の臨む神の人として、サウルに取り憑いた悪霊どもに負けるわけにはいきませんでした。しかし、その戦いは武力、または暴力にはよりません。賛美という、静かにして美しい音楽、これで戦ったのです。 みなさま、賛美とは戦いであると、意識して歌ったことはありますでしょうか? もちろん、「ひかりの高地に」ですとか「たちあがれいざ」ですとか「すすめ主イエスの兵士らよ」ですとか、そういう、いかにも霊的戦いの歌を歌うのは、霊的な「戦意高揚」には役に立ちます。しかし、およそ賛美というものはみな、悪魔および悪霊どもとの戦いの武器といえるものです。私たちは御霊に満たされて神をほめたたえる歌を歌うとき、悪魔、悪霊は、私たちから逃げ去ります。 物騒な物言いとなるのは承知の上で申しますが、礼拝という場は戦場です。悪霊どもは、私たちが神さまとそのみことばに心を向かわせないようにするためには、手段を選びません。室温が暑すぎる、寒すぎる、なんて気になるかもしれません。あっ、また武井牧師が変なことを言った、なんて、いつまでも気になって、それ以上、ことばが耳に入ってこなくなるかもしれません。ハエやカメムシが飛んでくるかもしれません。眠くてたまらなくなるかもしれません。スマホのスイッチを切り忘れて、鳴ってしまい、つい、そっちに気を取られるかもしれません。私が申し上げたいことは、悪魔はどんな方法を用いてでも、神さまに私たちの意識が集中しないように働いている、ということです。 そんな私たちが、どんな妨げに会おうとも、心から神さまに意識を向けて礼拝するようになるために、賛美という現場において悪魔、悪霊どもと戦い、勝利を体験する必要があります。だからみなさま、真剣に歌ってください。祈りを込めて歌ってください。よりよい歌の声をおささげするために、普段から声を鍛えることだってしていただきたいのです。すべては、戦いに勝利するためです。 今日はこうして、サウルの前に竪琴を弾いたダビデをモデルに、私たちにとっての賛美の祝福とは何かを学びました。賛美とは仕えること、人を癒やすこと、戦うことであると学びました。これからはそう意識して、ダビデにならった、素晴らしい賛美のささげ手として用いられていく、そのような私たちとなることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

ともに生きる私たち

聖書箇所:詩篇133篇1節~3節 メッセージ題目:ともに生きる私たち  私は2014年7月に当教会に牧師として就任して以来、一貫して「ともに」ということを語ってまいりました。教会は牧師とか役員とか、だれか特定の人の頑張りで保たせるべきものではない。みんながイエスさまの弟子に召されている以上、みんなでともに立て上げる、教会とは、そういうものではないか・・・・・・。  私は学生時代から聖書を読み、そして、キャンプですとか、学生時代に経験した宣教団体ですとか、韓国の教会や神学校の生活、そういったことをとおして、聖書に書かれているこの「ともに」という麗しい姿は、決して理想論、絵に描いた餅などではない、ここに実際にあるではないか、そうだ、こういう麗しい教会を、やがて自分は日本に立てる働きをしていかなくては・・・・・・私はずっと、そう願って、そしてここまでまいりました。  うちは小さな群れ、そう、イエスさまの十二弟子とどっこいどっこいの数ですが、イエスさまがあの12人、ユダを除いたら11人から、世界の福音化という壮大な御業を行われたように、主は私たちという共同体から、必ず大きな御業を起こしてくださると、信じて祈ってまいりましょう。アーメンでしょうか?  さあ、そこで私たちは、では、生い立ちも性格もみんなちがう私たちが、イエスさまを信じ、バプテスマを受けた、という、ただそのことにゆえに、この水戸第一聖書バプテスト教会という群れに集められているというならば、私たちはどのようにして、私たちが「ひとつ」であること、「ともに」生きる存在とされていることを味わい、感謝しようか? となるべきでしょう。 今日は、主の晩餐をともに囲む、麗しい主の日です。あらためて、私たちを一つにしてくださり、ともに生きる喜びに生かしてくださっている神さまをほめたたえつつ、主の晩餐に臨むにあたり、ひとつのみことばから学んでみたいと思います。 まず、表題からまいりましょう。都上りの歌、です。都とはエルサレムであり、神の御名の置かれた大いなる都です。神の民はこの都にて、大いなる礼拝を神さまにおささげします。その大いなる礼拝をささげるために、高い山の上にある町、エルサレムへと、文字どおり「上る」のです。 礼拝をささげるために「上る」、その先には、神の民がともに礼拝をささげている現場があります。そこに行くならば、神のすべての民が平等に、同じ喜びをもって御前に進み出ます。そして、この詩を詠んでいるのはダビデ、偉大な王さまです。ダビデは、民の中でも自分だけは王だから特別だ、という、傲慢な態度で御前に進み出るようなことはしませんでした。逆にダビデは、神の民イスラエルを代表する王として、率先して御前に出て礼拝をささげ、民もその姿に倣うように、模範を示しています。 この時点では、壮麗なエルサレム神殿は建てられていませんでした。それは、ダビデがその神殿建造の働きをすることを、神さまがお許しにならなかったからです。しかしダビデの心には、やがてエルサレムに神殿が建造され、いよいよ大いなる礼拝がささげられるようにという、壮大なビジョンが常にありました。彼はその働きを息子ソロモンに託し、神殿はエルサレムに建つというビジョンを胸に、天国に旅立ちました。 都上りは今日でいえば、私たちがこうして、遠近各地よりこの、茨城町長岡の礼拝堂に集まるようではないでしょうか。みなさん、わくわくしていますか? ともに礼拝をおささげできること、ともにお交わりできることに、喜びと期待を抱きつつ、今日、ここまでいらっしゃいましたか? いやが上にも盛り上がるために、いいことをお教えします。運転しながら、お祈りするのです。また、賛美をするのです。聖句を暗唱するのです。それは、私たちがキリストを主とし、神の霊に満たされるという歩みを実践することでもあります。マナーのひどいドライバーに遭遇して、つい、口から「ナントカカントカ!」と、悪口のひとつも飛び出しそうになるでしょうか? それは、礼拝に向かう姿として、いかにもふさわしくなりません。御霊に満たされましょう。その上で、車でいらっしゃるときに、お祈りする、賛美する、聖句を暗唱するといったことは、極めて有効な手段です。複数でいらっしゃるときは、もちろん、主にある交わりをしっかり持ちましょう。 さあ、そのように期待しつつ、ともに御前に行けるのは、なぜなのでしょうか? 1節です。そう、兄弟たちがひとつになってともに生きることは、最高に幸せなこと、そして、最高に楽しいことだからです。 この詩を詠んだダビデにとって、兄弟という存在は、もともと楽しいとか、幸せとか言える対象ではありませんでした。前に学びましたサムエル記第一16章、サムエルが、サウルに代わる王を立てるために、神さまによってエッサイの家に導かれたときのこと。エッサイには子どもが8人いましたが、サムエルに面会させたのは最初、上の7人でした。末っ子のダビデはあのサムエルさまに会わせてもらえるという大事な晴れの場に、最初は同席させてもらうことも許されなかったわけです。これでは、兄弟のうちでどんな扱いを受けていたかも、推して知るべきです。実際、詳しくは来週学びますが、ペリシテとの戦争に従軍していた上3人の兄たちから、ダビデは邪険に扱われています。 しかし、そんなダビデは後に、勲功を挙げつづけることに嫉妬したサウルにいのちを狙われ、放浪の旅の末、アドラムの洞穴に避難しました。すると、そこに彼の兄弟たち、父の家の者たちが集まってきたのでした。このとき、聖書の表現をそのまま引用すると、「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来た」のでした。この群れは400人の大部隊になりました。 兄たちはもはや、ダビデのことを邪険に扱ったり、いたずらに恐れたり、などしませんでした。ともに生きることに活路を見いだしたのです。ダビデもこうして始まった兄たちとの生活に、ようやく、ほんとうの意味で兄弟がひとつになってともに生きることの実際を、実感しつつ体験できたわけです。 アドラムのこの生活は、ダビデが肉の兄弟にはじまり、弱さを抱えている人たち、しかし、だからこそ神に拠り頼むことを目指す人たちと、主にある兄弟として共同体を形づくる、そういう、イスラエルの国家形成、民族形成の原点となったのでした。 私たちのことを考えましょう。いったい私たちのだれが、神と人の前に「しみじみしている」でしょうか? どこもかしこも病んでいて、傷だらけ、いいところなんてぜんぜんない、それが私たちではないでしょうか? しかし、神さまはそんな私たちのことを選んでくださり、私たちが神さまを愛することを、このようにここに集め、兄弟姉妹としてくださった、お互いを愛することによって、守り行えるようにしてくださったのでした。目に見える兄弟を愛してこそ、私たちは目に見えない神を愛するのです。 私たちは病んでいるから、傷ついているから、時にお互いの愛しにくさが感じられて、受け入れにくくなることもあります。そんなとき、私たちのすることは、この私こそ病んでいる、しかし神さまは、こんな私を愛し、受け入れてくださった、だから私も、少しでも、周りのだれかのことを愛せるようにしてください、愛しにくいあの人のことを愛せるようにしてください、そのように心からお祈りすることです。また、お互いがその、主の弟子としてふさわしい生き方ができるように、お互いのために祈ることです。 さあ、その、兄弟がともに生きる祝福を、ダビデはどのように表現していますでしょうか? 2節です。貴い油。これは、聖霊さまを象徴しています。この油が注がれた人は、祭司として、また、王として、聖別されている人ということです。 ダビデもかつて、油注がれた経験があります。先ほども申しました、エッサイの家にサムエルが訪問したとき、サムエルは野に出て羊を飼っていたダビデを呼びにやらせ、彼の頭に油を注ぎました。そんな、油注ぎという体験をしたダビデは、ひげにしたたるまで、服にしたたるまで、たっぷり聖霊の油注がれた、祭司の中の祭司、アロンの祝福を連想しています。この油注ぎとは、兄弟がともに生きる幸せ、また楽しさだというのです。 実は、先ほどのアドラムの洞穴の話に戻りますと、ダビデはアドラムの洞穴に身を隠す前、サウルの一味から逃れて、ガテの王アキシュのもとに身を避けました。しかし、ガテといえば、あのゴリヤテの出身地です。よりにもよってそんなところに身を避けてしまったダビデは、なお具合の悪いことに、こいつはイスラエルのあの有名なダビデですよ、と、家来たちの手によって、アキシュ王の前に引き出されてしまいました。 すると、ダビデはここで、大芝居を打ちました。頭がおかしいふりをして、柱に傷をつけたり、自分のひげによだれを垂らしたりしました。そう、このときダビデは、ひげという男の象徴、人間の尊厳を示すものを、あろうことか、そんなプライドもかなぐり捨ててでも自分の身を守るために、よだれでべとべとにして汚したのです。ダビデはこのとき、どれほどの絶望に陥っていたことでしょうか。彼は孤独でした。神からも見捨てられたと思ったことでしょう。 そんな彼を癒やしたものが、アドラムにはじまる、まことのイスラエルの共同体、神の民であったわけです。アロンを聖別してまことの祭司に立てた聖霊の油は、主の民という共同体の中に、豊かに流れ、民を潤すのです。 私たちは何者でしょうか? 第一ペテロ2章9節の語るとおりです。私たちは聖霊により聖別され、聖霊の満たしと導きをつねにいただいて、みことばを守り行うべく召されている存在です。私たちはその生き方、語ることばと行いをもって、周りにいるどんな人々に対しても、私たちを召してくださった神さまの素晴らしさを人々に伝えるのです。私たち共同体が聖霊の油注ぎを受けるだけではありません。その油注ぎを、私たちは人々へと流す使命が与えられています。 もうひとつ、この「兄弟たちが一つになってともに生きる幸せ、楽しさ」は、「ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ」とあります。これは、少し解説します。 ヘルモンというのは山の名前で、ダビデが統治した時代において、イスラエル領の最北端に聳えていました。ヘルモン山は、現在でいえばレバノンとシリアの国境にあります。標高は海抜2800メートルを超え、イスラエルから北の方を見ると、その山は一年中雪に覆われていて、イスラエルを見下ろすかのようです。私はインターネットで検索し、イスラエルからのその景色を見てみましたが、白く巨大なその峰々、その雄壮さはものすごいものがあります。言ってみれば、国と民族に伸べられた主の祝福を象徴する山と言えるでしょう。日本にとっての富士、茨城にとっての筑波、いや、それ以上の、民族に対する祝福の象徴。 この雪解けが結ぶ露、そして湧き水が、最終的にはヨルダン川になり、神の民を潤します。ついでに言えば、あのイエスさまの「変貌山」のできごとは、その前におけるイエスさまのご一行の旅程から考えて、「変貌山」はこの「ヘルモン山」であっただろうと考えられています。イスラエルの最高峰、もっとも天に近い場所ですから、天から降りてきたモーセとエリヤにイエスさまが会われるには、たしかにふさわしい場所です。 そうだとすると、このヘルモン山ほど、神の祝福を民に流す象徴としてふさわしい場所はありません。この麗しいヘルモン、天に由来するいのちの真清水を受けて、民の共同体を潤す。その祝福、真清水に潤される祝福は、兄弟がともに住むことにはじまります。 さて、それがなぜヘルモンの露のようか。それは、主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからだ、ということです。 面白い表現だと思いませんか? とこしえのいのちの祝福を、「命じる」なんですよ? これは、「とこしえのいのちの祝福を人々に分け与えるように命じる」という意味もさることながら、「とこしえのいのちを受ける祝福を命じる」、そして「とこしえのいのちを生きる祝福を命じる」ということになります。 とこしえのいのち、永遠のいのちというものを、イエスさまはヨハネの福音書17章3節で定義していらっしゃいます。これはどういうことか、説明します。人間はみな、もともとが、神から離れた罪人です。しかし人間には、生まれつき「宗教心」とでもいうべきものが備わっています。神を求める心です。問題は、その宗教心すらも、自己中心の罪に汚染されていて、私たちはいかに神を求めても、そこには自己中心の願望が投影されてしまっていて、正しい形で神さまを知り、神さまと交わることができなくなってしまっています。 だから私たちは、聖書のみことばをお読みすることによって、イエスさまというお方を通じて、正しい形で神さまを知り、神さまと交わる必要があります。実に聖書のみことばは、父なる神さまがご自身を証しされた、誤りなき不変の真理です。私たち人間はいかに求めても、まことの神さまに到達することはできません。ただ、神さまの側からご自身を啓示してくださっている、そのみことばを知り、そして学ぶことによって、私たちは初めて神さまに出会い、永遠のいのちを生きつづけることができます。 永遠のいのちって何でしょうか? 永遠に、まことのいのちである神さまとともに生きる、ということです。その生き方は、そのまことの神さまを神として生きる、主にある兄弟姉妹との交わりを持ちつづけること、ここからはじまりますし、またそのことによって、その生き方を体験しつづけることができます。私たちのこの存在、そして、主とともに生きる、主にあって交わる、この生き方をもって、人々にまことのいのち、とこしえのいのちを指し示してまいりましょう。

サマリアの女とは私たちのこと

聖書箇所:ヨハネの福音書4章1節~26節 メッセージ題目:サマリアの女とは私たちのこと  イエスさまのおことばやみわざを記録した四つの福音書には、おもに5種類の人間が登場します。まず、イエスさまのご家族。ヨセフやマリア、弟たち。次に、十二弟子をはじめとした弟子たち。また、イエスさまに群れなしてついてきたり、かと思うとイエスを十字架につけろなんて叫んでみたりする、群衆。また、イエスさまに敵対する宗教指導者や権力者。そして忘れてはならないのは、イエスさまが直接、目を留めてくださる存在です。多くの場合それは一人で、しかも弱い立場にある人です。女性であったり、異邦人であったり、障害を持っていたり、悪霊に取りつかれていたり。  今日の箇所に登場するのも、女性、「サマリアの女」として知られている、ひとりの女性です。彼女はとても不幸な人でした。それについては、のちほど詳しくお話しします。  イエスさまとその弟子の共同体は、バプテスマのヨハネにもまさって、人々にバプテスマを授けるようになりました。それは、自分が衰えてもイエスさまが盛んになることを願った、ヨハネの願いどおりでしたから、その点で問題はありませんでした。しかし、それにパリサイ人が目をつけました。気に入らないやつの芽は早く摘んでしまおう、といったところです。イエスさまはいかに迫害を受けるさだめといっても、犬死にをすべきだったわけではありません。別の場所に逃れてでも、神の国の福音をお語りになるのが、イエスさまのなさるべきことでした。  それでイエスさまは、ユダヤから見てはるか北の、ガリラヤに身を避けることにされました。しかし、ユダヤからガリラヤに行くには、その途中にあるサマリアを通らなければなりませんでした。  前にも「善きサマリア人のたとえ」についてのメッセージでお話ししましたが、サマリアはもともと、歴史的な理由により、人種的にも、宗教的にも、イスラエル人と異邦人が混じり合ってしまった地域です。そんな彼らのことを、宗教的純粋さを保つことに努めてきたユダヤ人は見下げ、毛嫌いしました。サマリア人も、自分たちが彼らからそのように見られていることはよくわかっていて、ユダヤ人とつき合おうとはしませんでした。要するに、ユダヤ人とサマリア人は対立していたのです。  そんなサマリアをユダヤ人が通るのは、本来ならば嫌なことです。避けたいことです。しかし、イエスさまは弟子たちとともに、サマリアの道を進んでいかれました。  イエスさまとその一行は、スカルという町に着きました。そこには、イスラエルの元締めなる先祖ヤコブゆかりの、由緒正しい井戸、「ヤコブの井戸」があり、イエスさまはその井戸端に腰を下ろされました。時は第六時、今の時刻でいえば午後12時、日も高く、暑いさなかでした。  そこに、ひとりの女の人が、水を汲みにやってきました。もちろん彼女はサマリア人です。この女性が「サマリアの女」です。  午後12時のような日の高い、暑い時間には、水汲みになど行ったりしないものです。行くなら、もっと涼しい時間です。そういう時間に水を汲む女たちは集まり、井戸端会議に花を咲かせます。しかし、この女性はどうも、その井戸端会議に加われない事情があった模様です。スカルの町の女たちの、仲間外れになっていた模様です。  イエスさまはこの女性をご覧になり、声をおかけになりました。「わたしに水を飲ませてください。」弟子たちは食べ物を買いに町中へ行っていたので、そこにはイエスさまと、この女性がいるだけでした。この男性、イエスさまがユダヤ人であることは、女性にはわかりました。  女性は驚きました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人がサマリア人とつき合いをしなかった事情については、さきほどお話ししたとおりです。そして、この地域も含め、2000年前の世界では、男尊女卑は当たり前でした。だから、サマリア人なのに、女なのに、親しく語りかけてくれる、しかもこの手から水がほしいと言ってくれる、いったい、このユダヤ人の男の人は、どんな人なのだろう……。彼女は不思議に思いました。  イエスさまはおっしゃいます。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」  イエスさまはいきなり、かなり難解なことをおっしゃいます。なぞかけ、とでもいうようなおことばです。しかし、イエスさまのおっしゃりたかったことは、こういうことです。あなたこそが、水を必要としているのです。その生ける水を、わたしがあなたに与えます。  しかし、彼女はきょとんとしてしまいます。イエスさまにお答えします。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」  一応申しますと、この「主よ」は、「私の主なる神さま」と呼びかけているわけではありません。この時点では彼女には、イエスさまのことを「主なる神さま」と信じるだけの信仰はありません。深い霊的な真理を教えてくれているようなこのユダヤ人男性に対し、彼女なりに一定の尊敬を込めて「主よ」と呼びかけていると理解してください。  彼女はもちろん、イエスさまがこの井戸から汲んでくれて、私にその水をくれるもの、と理解するわけです。しかしイエスさまは、汲むための桶も何も持っていらっしゃらないから、あれ? となります。  そして彼女は、それともあなたは、自分のことを、この深くて由緒ある井戸をイスラエルにくれた、ヤコブよりも偉いとでもいうのか? と尋ねます。それは、彼女が自分のことを、私はこの井戸から飲むイスラエルのひとりだ、ヤコブの子孫だ、いったいあなたは何者ですか、と主張することです。  しかし、イエスさまははっきりおっしゃいます。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」  イエスさまのこのみことば「この水を飲む人はみな、また渇きます」というみことばは、2つの意味があります。ひとつは、私たちが目で見て、手でさわれる、あの、水、これはいったん飲めばもう渇かない、なんてことはなく、飲んでも飲んでも渇くから飲まなければならない。そのように、この世の目に見えるもの、物質的なものは、私たちにとってのほんとうの渇きというものを、潤し、満たすことはできない、ということです。  もうひとつは、自分の血筋や民族がイスラエルだというアイデンティティ、あるいはプライドが、自動的にその人の飢え渇きを潤し、満たしてくれるわけではない、ということです。ユダヤから何と見られようと、イスラエルの一員であることにそれでも誇りを見出していたサマリアの女は、その誇りだけでは満たされず、飢え渇いていたのでした。  イエスさまはおっしゃいます。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてくださいます。  私たちは飢え渇きを満たすために、言い換えれば、心のむなしさや不安をごまかすために、いろいろなものに手を出してきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。あるいは、私たちの生まれ、家族、育ってきた、あるいは住んでいる町や地域、職場、どこの学校を出たか、そういうことで自分を支えようとしてきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。……ただ、イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてあげようと、私たちに近づいてきてくださるのです。  サマリアの女性は、イエスさまとの対話のうちに、このお方こそ、ほんとうの水、生ける水をくださる方だと気づきはじめました。彼女は訴えます。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」  もしかするとこの女性は、まだこの時点で、イエスさまのおっしゃることのほんとうの意味が分からず、目に見える井戸から汲み出すような目に見えて手でさわれる、口から飲む水を欲しがっていたのかもしれません。しかし、このときの彼女のことばの端々(はしばし)には、すでに彼女の凄まじい飢え渇きが見て取れます。  「私が渇くことのないように」と言っています。彼女は、渇いていては苦しい、渇いていてはいけない、ということをよくわかっていました。単なる本能的以上のものとして、彼女は心底渇いていたのでした。  「ここに汲みに来なくてもよいように」とも言っています。彼女はたしかに、このヤコブの井戸から水を汲んで飲むことで、イスラエルの一員としてのアイデンティティ、またプライドを保ってはいました。しかし実際のところ、彼女はどうだったか。女たちの井戸端会議にさえ混ぜてもらえず、さびしく一人で暑いさなか、水汲みをするような身でした。民族全体が神の共同体であるべきイスラエルの一員でいるようで、共同体の生活をしているとはとてもいえない、さびしいわが身を、とてもみじめに思っていたのでした。そんなみじめな思いをしてまでして、水汲みになんて来る必要がなくなったなら、どんなにか素晴らしいだろうか。  彼女はイエスさまに水を求めました。しかし、イエスさまは彼女の中にその生ける水が湧き上がるために、ひとつ、取り扱わなければならない問題を示されます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」女性は答えます。「私には夫はいません。」  するとなんと、イエスさまはこんなことをお告げになりました。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」  イエスさまは全知全能の神さまです。彼女は目の前にいる人が、単なるユダヤ人の男性ではなく、天地万物を創造された全知全能の神さまであること、したがって、この方の語ることばを神のことば、真理のみことばとして受け取る必要がありました。そのことを彼女が知るうえで、イエスさまのこのおことばは充分に強烈です。だれもが隠しておきたいような問題を、あまりにも堂々と明らかにしたわけです。  イエスさまは、単に彼女の隠しておきたい状況を言い当てただけではありません。彼女が、神の民として神によって満たすべき飢え渇きを、男をとっかえひっかえすることによって満たそうとした、その間違った満たし方では決して満たされません、と、明らかになさったのでした。  そうです。彼女が、女たちの井戸端会議に交じれなかった事情が、これでわかります。彼女はきっと、ふしだらとか、あばずれとか、陰口をたたかれたことでしょう。だれにも相手にされません。相手にするのは、彼女のことを利用して欲望を満たそうとする、男の風上にも置けないやつらぐらいでしょう。もちろん、そんな男どもが、彼女の心の奥底の飢え渇きを満たせるはずなど、金輪際ありません。  果たして、サマリアの女はイエスさまのおことばに、恐れを抱きました。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」  まず彼女は、自分の秘密を言い当てたこのユダヤ人男性は、預言の力があることを認めました。この人は少なくとも、預言者にちがいない。彼女が言う、先祖たちが礼拝した「この山」とは、ゲリジム山という山で、聖書には申命記に最初に出てきます。ゲリジム山は神を礼拝する場所として、サマリア人の聖地として、大切にされてきました。しかし、この驚くべき預言者につながるユダヤにとっての礼拝すべき場所は、エルサレムであることは常識である。ならば、われわれサマリア人が大切にするゲリジム山と、この神の霊の宿る人が大切にするエルサレム、いったいどちらが、神さまを礼拝すべき場所としてふさわしいのだろうか? こうして彼女の関心は、神ご自身と、神さまを礼拝するということ、言い換えれば、まことの神さまに出会い、お交わりすることへと移っていきました。  イエスさまはおっしゃいます。「女の人よ、わたしを信じなさい。」福音書における「女の人よ」ということばは、高貴な立場にある婦人への呼びかけのことばです。日本語では何と訳すべきでしょうか?「貴婦人よ」もなんか変ですし、ふさわしい訳語がないのでわかりにくいところですが、とにかくこれは、高貴な立場の婦人への呼びかけのことばです。  ですからイエスさまはこのサマリアの女に対し、最高の呼びかけをなさっていることになります。ひとからふしだらとか、あばずれとか呼ばれて当たり前のような彼女は、神の御子、王の王、主の主なるイエス・キリストの御目には、どこまでも高貴な婦人なのです。あなたはわたしにとって大事な人なのです、だから、神であるわたしのことばを信じてください。  イエスさまのおことばは続きます。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」イスラエルの血を引く彼らは、神の民であることを誇りとし、そのアイデンティティを、聖なる場所と定めたところにて礼拝することに求めていました。しかし、ほんらい神にあってひとつであるべきイスラエルは、ゲリジム山で礼拝すべきだ、いや、エルサレムこそが本来の礼拝すべき場所だ、と、分裂し、対立しました。それをイエスさまは、どちらが正しい礼拝の場所であると主張する時代は、神であるわたしが終わらせる、と宣言なさったわけです。  ただし、イエスさまはこうもおっしゃいます。「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」つまり、このみことばにおいてイエスさまは、エルサレムにて礼拝するユダヤ人のことを、サマリア人に優先させていらっしゃいます。しかしそれは、サマリア人がユダヤ人に劣っている、という意味では決してありません。そうではなく、救い主は必ず、世界の歴史においてただひとり、この世界に送り込まれるが、それはユダヤ人である、だからユダヤ人はそのことを知って、神の御名の置かれるエルサレムを大切にして礼拝しているのだ、ということを、イエスさまはお語りになっているのです。  イエスさまのおことばは続きます。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」  御霊と真理によって父を礼拝する。御霊は聖霊ともいい、神の霊、もっといえば、神ご自身です。神ご自身なる御霊が、私たち人間をそのご主権によってとらえ、私たちをきよめ、礼拝者につくり変えてくださいます。そして、真理とは、神のみことばによってわれわれ人間に明らかにされた、誤りなき神のみこころ、変わることのない神のみこころ、絶対の神のみこころです。私たちはこの真理を、聖書のみことばによって知ることができます。言い換えれば、聖書のみことばが真理そのものです。  神さまがその霊により私たちにそのみこころを示し、私たちは神の偉大さを知り、その偉大さに近づかせなくしている私たちの罪を悟り、それを悔い改めることをもって、私たちは父なる神を礼拝します。いまおささげしているプログラムとしての礼拝の時間はもちろんのこと、御霊の導きによって真理のみことばを神と人の前に守り行うことで、神と神とする生き方、イエスを主とする生き方をもって、霊的な礼拝を、日常生活において、いついかなるときもおささげするのです。  神さまは、そのようにまことに礼拝する人、みこころにかなう礼拝をする人を、何よりも求めていらっしゃいます。だから、私たちクリスチャン、神の民の本分は、なによりも「礼拝」なのであると理解すべきです。  彼女のことばは続きます。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」ここで、彼女がほんとうに飢え渇いていたものとは、実は、メシアなるキリストだったことが明らかになります。イエスさまとの対話は、彼女の飢え渇きを何によって満たすべきか、正確な方向に導いていきました。  そして、イエスさまは決定的なひとことをおっしゃいます。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」  おわかりでしょうか? イエスさまがサマリアの女に向かって「わたしに水を飲ませてください」とおっしゃったのは、単に旅の疲れで水がほしかったからではなかったのです。わたしは、メシアとしてあなたを救うことに飢え渇いているのです。さあ、わたしの救いを受け取って、わたしの渇きを癒やしてください。イエスさまがおっしゃりたかったのは、そういうことです。  イエスさまは十字架におかかりになることで、私たちが罪人であるがゆえに私たちに注がれるべき神の怒りを身代わりに受ける、宥めの供え物としてご自身をささげてくださいました。イエスさまはそのようにして十字架の上で刻一刻と死んでゆかれるとき、「わたしは渇く」とおっしゃいました。イエスさまが十字架の上で、みからだがからからに渇くほど、その尊い血潮を流されたのは、私たちが神の御霊という生ける水に潤され、罪と死から救われた者として、永遠に神とともに生きるためでした。私たちが救われ、生きることに、かくもイエスさまは飢え渇いておられたのです。  私たちはサマリアの女のように、ふしだらなあばずれではない、と思っているうちは、私たちにとってイエスさまの十字架はまだリアルなものとなっていません。もっといえば、そう思っているうちは、イエスさまの十字架などまだ必要ではないと思っているのです。しかしそれは、イエスさまを主とする生き方をしていることにはなりません。そんなクリスチャン生活は、主権者なる神を不遜にも、この罪人のために利用しているにすぎないのです。  私たちに必要なのは、私こそサマリアの女だ、と認めることです。男どもに依存しなかろうと、何かに依存してしまっている私たち。スマホでしょうか、夜ふかしでしょうか、お酒でしょうか、ジャンクフードでしょうか。しかし、イエスさまはそんな私たち、イエスさまというお方というものがありながら、イエスさまのことなどほったらかしにしてしまい、その結果飢え渇きをいつまでたっても満たせないで苦しみつづける私たちに、近づいてくださり、「わたしに水を飲ませてくれ!」と言ってくださいます。私たちがその御声に応え、イエスさまと交わりはじめるとき、イエスさまも私もともに潤され、満たされるという、驚くべきことが起こりはじめます。  そして教会とは、イエスさまの与える水に自分たちが潤される、また、イエスさまの与える水に人々を潤す、そんな生き方をともに目指すために、ともにみことばを学び、愛し合い、励まし合い、祈り合う共同体です。この交わりを大切にするとき、私たちはこの世の何者も与えることのできない喜びに満たされます。そのような私たちになりますように祈りましょう。