反面教師の親、模範的な親

聖書箇所;サムエル記第一2章12節~21節 メッセージ題目;反面教師の親、模範的な親  昨日私と妻は、「わたしのかあさん」という映画を観に行ってきた。知的障害を持った親を葛藤を抱えながらも受け入れられるようになるにつれ、成長していく少女の物語である。この作品を見ると、人はたとえ知的障害を持っていようとも素晴らしい存在であり、大きく用いられる、という、勇気づけられるメッセージを受け取れる。何といっても、どんなに母親に対して悲しんだり、怒ったり、呆れたりする娘のことを変わらずに愛しつづける母親の姿にとても感動した。ほんとうに、教会のみなさまにご覧いただきたかった。機会があればぜひご覧いただきたい。  そんな映画の余韻に浸りながら、私は母の日を迎えた。ああ、そういえばうちの母にもしばらく電話していなかったなあ。親孝行しなくちゃなあ。そんなことも思う。今日、母の日に、私たちは親というものについて考えていこう。  聖書は親子関係というものについても扱っているが、今日はその中から、サムエル記第一の最初の部分から学びたい。サムエル第一、それは預言者サムエルと、そのサムエルに油注がれて王となったサウル、そしてダビデについて語るみことばだが、サムエル記第一の最初の部分は、サムエルがどのように生まれ、神の人として立てられ、育てられてきたかを語っている。  その、サムエルの生い立ちに対し、対照的な姿で登場するのが、サムエルの母であるハンナを導いた祭司エリの息子、ホフニとピネハスである。今日の箇所は、神の人として立てられ、育てられながら、あまりに対照的だったこの両者を育てた親の様子から、親というものは主の御目にどのようであることがふさわしいか、特に今日が「母の日」であることから、サムエルの母ハンナの立場に注目して見てみたい。  12節。彼らはよこしまな者たち、とあるが、新改訳聖書の欄外脚注にあるとおり、これは直訳すると「ベリヤアルの子ら」となる。ベリヤアル、とは、「無益な、悪い、役に立たない」という意味であり、したがって彼らは、無益な子、悪い子、役に立たない子、というわけであった。祭司としてハンナとサムエルの親子を霊的に導いた父親エリとはまったくちがう、役立たずの子ども、というわけだった。  なぜ彼らはそのように悪く、無益で、役立たずだったのか? それは「主を知らなかった」ということばに集約されている。別の訳の聖書を読めば「主を知ろうとしなかった」とある。彼らはちゃんと祭司という肩書を持っていた。ハンナとサムエルの親子をりっぱに導けるだけの霊的指導者、エリを父親に持っていた。彼らは主を知り、みことばを学ぶ環境においては最高だった。なのに彼らは学ばなかった。学ぼうとしなかった。  いったい、何が彼らを、主を知ることから遠ざけていたのか? それを説明するのが13節以下のみことばだが、早い話が、彼らは民のささげる肉のいけにえを横取りして、いけにえとして焼き尽くして主にささげることをせず、むさぼり食うことをしていたのだった。  そのことを17節では、彼らホフニとピネハスが「主へのささげ物を侮った」と総括している。これがどれほど大きな罪か想像できるだろうか? いけにえとしてささげる家畜は、初子の最良のものでなければならない。ちょっとでも傷があったり、障害があったりするものは、ささげてはならない。  家畜を飼う者たちとしては、初子、はじめて生まれた子どもたちは、とても愛おしい存在ではないだろうか。しかもその中でも、傷のない完璧なもの……しかし、それを惜しげもなくほふり、焼き尽くすということは、最良のいけにえをどうか主に受け入れていただきたいという、切なる献身の現れである。  いけにえを焼き尽くす炎を見るとき、イスラエルの民は、痛みの伴った献身を果たすことができたことに、心からの感謝を主におささげしたことだろう。主よ、あなたさまはこうして、私の献身を受け入れてくださいました! 感謝します!  それが何か。その肉を焼き尽くすことをしないで、勝手に肉を取って食べるわけである。俺は生の肉を食べるぞ、ということは、焦げて食べられなくなった肉ではなく、少し焼いていかにも香ばしい肉を食べるわけである。いけにえになるのは最良の家畜ですから、それを焼いて食べたらおいしくないわけがない。だが、それは焼き尽くしてささげるものであり、みな主のものである。祭司とは、そのようにして民のささげ物を主にささげる役割をする立場にあるのに、その肉を神さまになり代わって食べようというのだろうか。神さまにささげる最高の礼拝を私利私欲のために横取りしようというのだろうか。  祭司の子は祭司、という、世襲は、残念ながら主に対する敬虔さ、また恐れというものまで伝えてはくれなかったようである。だが、ホフニとピネハスの発言に、とても気になる表現がある。15節を見るとこのようにある。 「人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、とあるが、自分たちのことを肩書で「祭司は」と言っていることに、注意が必要である。自分たちのことを肩書で呼ぶなんて、いかにも自分が霊的に特別な存在だとでも言いたいのだろうか。  ホフニとピネハスはエリにとって次世代にあたるが、次世代がしっかり育つ上で、私たち年長の世代の者たちの責任は大きい。反面教師として、ホフニとピネハスの父親であるエリの場合を見てみよう。エリは、ホフニとピネハスがいけにえの肉を横取りしていること、そればかりか、神殿で仕える女性たちに姦淫の罪を働いている、ということを聞いた。だがエリは何と言っているか? 24節。……うわさが悪いから彼らが悪いのか? いや、人のうわさが彼をさばくのではなく、神が彼らをさばく。ホフニとピネハスがそのような罪を犯していることを、神殿の責任者であり、ホフニとピネハスの監督者でありながら普段から見抜けなかったエリにも大きな問題がある。いえ、見抜けなかったどころか、そのようなよこしまな指導者を、エリは親として育ててしまったわけである。  25節のエリのことばを見よう。……確かに、言っていることは正論である。しかしよく見てみよう。何かおかしくはなかろうか? 仲裁に立つ存在はいないわけではない。私たちには仲裁に立つ存在がおられる。それはイエスさまである。イエスさまは十字架にかかってくださり、神と人との仲裁の役割を果たされた。ということは、こんなことを言うエリは、祭司でありながら、キリストが見えていなかったことになる。神に対して人が犯す罪を仲裁される存在であるキリストに出会えなかったならば、祭司である自分自身も罪人ゆえに神の御前にへりくだって出るべきであることがわからなくなってしまう。エリは、子どもたちを救い主に出会わせるという、本来もっともすべきことができていなかったのである。 百歩譲って、この時代はイエスさまが生まれるはるか前の時代だった、だからエリにキリスト理解がなかったのは当然ではないか、と考えてみよう。しかし、それまでの時代にも、救い主キリストを見せた役割をした人はいて、祭司ともあろう者なら、そういう人たちをとおして、救い主キリストが見えていなければならなかったはずである。例えばモーセがそうだった。神を捨てて金の子牛を礼拝した民を滅ぼすとおっしゃった神さまに、いえ、むしろ、私の名前こそいのちの書から消していただきたいと懇願した。それをお聞きになった神さまは、イスラエルを滅ぼし尽くすことをなさらなかった。アブラハムもそうだった。ソドムとゴモラを滅ぼすと告げられた神さまに何度も交渉して、10人の正しい人がいれば滅ぼさないでいただきたい、と条件をつけ、神さまから約束を引き出した。神さまはその祈りに応え、ロトを救われた。 こういうケースを、エリが知らなかったはずがない。しかもモーセやアブラハムの場合は、自分が罪を犯さなかったのに、身代わりとなって神さまに懇願したわけである。エリはどうか。このようにホフニとピネハスを育ててしまったことに対する悔い改めが先立ってしかるべきではないか? その上で、神さまに対して自分自身が、親として、霊的指導者として、仲立ちに立つ祈りをささげるべきではなかったか? みことばがわからなかったという点でも、子どもたちの罪の責任を負おうとしなかったという点でも、エリは親としてふさわしい役割を果たすことができなかった。 ここで、もうひとりの親、サムエルの母、ハンナのケースを見てみよう。 ハンナはエルカナという男性の妻だった。しかし、エルカナにはもうひとり、ペニンナという妻がいて、このペニンナには子どもがいた一方で、ハンナには子どもがいなかった。子どもがいないということはその頃、祝福が臨んでないことと見なされていた。そんなハンナはエルカナに愛されていたが、ハンナのことを、子どもがいないという理由でペニンナはいじめた。 この一家は、毎年1回、主の神殿に参詣することを常としていた。そう、エリの親子が仕えていた神殿である。エルカナの一家は、それほどまでに主に敬虔な家族であったが、ともに主の前にこの家族が出るとき、ハンナは否が応でも、子どものいないわが身の悲しさを思ったことだろう。 ハンナは思いあまって、泣きじゃくって神さまに祈った。まるで酔っ払いのように取り乱して祈った。しかし、その祈りの内容が振るっていた。生まれた子どもを主にささげるというのである。そう、子どもは私のものとしてほしいのではない、あなたのものとして、あなたの必要のために送り出します、というのであった。 そして神さまはハンナの祈りを聴き届けてくださり、子どもを授けてくださった。ハンナは祈って誓願を立てたとおり、サムエルを神さまにささげた。具体的には、祭司エリのもとで、主の献身者、すなわち祭司になるための教育を受けさせた。それも、乳離れしたらすぐにサムエルをエリのもとに住まわせるという徹底ぶりであった。 それでも、ハンナは母親であることをやめたわけではなかった。ハンナは年ごとの神殿における礼拝に赴く際、幼いサムエルのために小さな上着をつくり、持っていってやった。 その小さな上着を縫ってやっているハンナの気持ちを考えてみよう。先週の礼拝で、初穂とは最良のものであると学んだが、サムエルを神殿に送ったということは、ハンナにとって最良の初子のいけにえ、奇蹟をもって応えられたたましいをささげたということである。 その息子とつながれるのは、この母親の祈りをこめて縫い上げた服……それを着ていてくれるならば、母と息子はつながっていられる……どんな気持ちでハンナはこの服をつくったことだろうか。肉親としての息子に対する愛情を注いだという意味もあるが、息子といういけにえをより神さまに受け入れられるにふさわしく整えたという意味もないだろうか? そんなハンナが、じっくりつくり上げた小さな上着を手にして神殿に参詣し、献身者として成長するサムエルを見たら、どんなにうれしかったことだろうか? 私たちの小さなころを思い起こしていただきたい。幼稚園や小学校の名札、体育着には、お母さんがていねいに名前を書いてくれた。そんなお母さんは普段、学校という場所には決して入ることができない。しかし、子どもを人として整えてもらうために、あえて幼稚園なり学校なりに送り出す。子どもの持ち物を親が用意してあげることは、そんな、会えない子どもと親をつなぐ絆のようなものではないか。 そんな親の楽しみにしているもののひとつが、授業参観である。子どもの置かれている現場にまでやってきて、そこで子どもがどのように育てられているか、さらには用いられているかを見ることは、親として大きな喜びというしかない。私は昨日子どもの授業参観に行ってきた。普段、思いを寄せていても決して入れない場所に行ってきたわけである。親として用意してやった制服に身を包んで子どもが授業を受けるさまは、見ていて感動を覚える。先生が生徒たちに課題を出して、それを一斉に解かせるとき、うちの子どもの鉛筆は動いているかな、と見守るのは、なかなかハラハラドキドキの体験である。しかし、こうして学校という現場で育てていただいていることはとても感謝なことだと感じるしかなかった。 幼いサムエルに小さな上着を持っていってやるハンナがその神殿でささげる祈りは、やはりサムエルのことであっただろう。その母の祈りに主はお応えになり、やがてサムエルは全イスラエルをさばくリーダーとなり、果てはダビデ王を立てる神の器となった。 ハンナの熱い祈り、ハンナの献身を主は喜んで受け入れてくださり、サムエルに代わる子どもを授けてくださった。あの、どんなに祈っても子どもが産めず、夫の無理解、もうひとりの妻のいじめに耐えてきたハンナのことを、ついに主は顧みてくださったのだった。 とは言っても、だいじな初子を神さまにささげたという事実に変わりはない。その献身に導かれるのは、実に大きな恵みなしにはできないことである。 サムエルは、エリのような愚鈍な霊的指導者、ホフニとピネハスのようなならず者の先輩に囲まれ、霊的指導者として訓練されるうえで、条件はよくなかった。しかし彼は、すばらしく成長し、神と人とに愛されたとみことばは語る。その背後にはハンナの祈りがあった。  サムエルは、エリが愚鈍な指導者だからとか、父親失格だからといって、霊的な指導を軽んじることをしなかった。語られることばのみを、乳飲み子が乳を慕い求めるように、しっかりいただいて、霊的にすばらしく成長した。彼を神の人にしたのは、母のとりなしの祈り、そして、その祈りの中で育てられた、主ご自身に対する態度だった。  私たちはどうだろうか? エリやホフニやピネハスは、いわば反面教師である。このような霊的な愚鈍さ、むさぼりを、私たちのうちから除き、サムエルのようになりたいものである。そしてハンナのように、私たちキリストにある兄弟姉妹は主にささげられていることを心から認め、お互いが主にささげられている「生きたいけにえ」としてふさわしい生き方ができるように、次世代を育ててまいりたい。母の日、それは次世代の親の役割を果たすべき私たちが、次世代を覚えて祈る日である。  また、母の日は、親という存在をとおして神さまがどんなに私たちひとりひとりに「愛」というものを教えてくださったかを覚える日である。私たちの中には、お母さんは明確な信仰告白をしないままお亡くなりになったという方がおられるかもしれない。いわゆる「毒親」としか思えない母親のもとで不幸な育ち方をしたとしか思えない方もおられるかもしれない。しかし、どんなお母さんであれ、お母さんをとおして神さまがこの世界に生を享けさせてくださり、育ててくださったという事実に変わりはない。それでもお母さんを赦せない人は、その怒りを主の御手に委ねる選択をしていこう。しかし、神さまがお母さんをとおして私たちをここまでにしてくださったという、この恵みに感謝し、世界のお母さんたちが(お父さんたちも!)みこころにかなう人になれるように、次世代を神の子どもとして育てる人になれるように、祈ろう。 https://www.youtube.com/watch?v=0Ay710qiQrc

思い違いをしてはいけません

聖書箇所;ヤコブの手紙1章16節~18節 メッセージ題目;思い違いをしてはいけません  ヤコブの手紙の学びが始まってひと月が過ぎたが、ここまで学んできたみことばの中に、「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」ということばがある。これは、自分に何かが与えられるかどうかは、それをくださる神さまに対する信仰、もっと言えば、信頼にかかっていることを説くみことばだが、これは「神さまから何かをいただくにあたって」ということにかぎらず、信仰全般に共通して言えるみことばである。  私たちが信じるべきことは、「神さまは私たちによいものをくださる」ということである。イエスさまはこのことについて、このように説明していらっしゃる。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」  神さまは必ず、私たちに良いものを与えてくださる。だから、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、と、イエスさまはおっしゃっている。良いものをくださるのは、神さまが私たちのことを愛していらっしゃるからである。私たちは、神さまが愛してくださっているゆえに良いものをくださると知っているから、一生懸命求めるのである。  さて、そこで本日の本文を学んでいこう。まず16節。私たちは「思い違いをしてはいけない」とみことばで注意されている。それは、私たちが「思い違いをしがちな存在である」からである。思い違いをしてしまうならば、私たちは神さまの正しいみこころを受け取れなくなってしまう。そうなると、神さまの愛が正しく受け取れなくなる。  神さまのみこころは、この聖書という書物に過不足なく示されている。この聖書は古今東西、最も読まれてきた書物であり、特に、世界史をリードしてきた欧米における精神的な支柱と言える書物だけに、多くの人に研究されてきた。しかし、聖書をどんなに研究しても、その啓示するイエスさまによる救いに、果たしてどれほどの人がたどり着いただろうか? 特に日本においても、聖書を研究する人は多く、聖書について訳知り顔で解説する書物が数多く発行され、多くの日本人に読まれてきた。しかし、そういう本が普及している割には、肝心の、聖書が伝える福音が日本人に広く伝わっているとは到底言えない状態である。  それはやはり、聖書を解説する人も、その解説をありがたがって読む人たちも、「思い違いをしている」からではないだろうか。自分の考えが中心にあって、それゆえに神さまのみこころを受け入れる余地がない。それで、聖書に啓示されている福音が受け取れないわけである。  いや、それだけではない。このみことばはほんらい、教会に宛てて書かれたものであることを考えるならば、私たちクリスチャンこそ、思い違いのせいでみこころをうけとれなかったことを考える必要がある。考えてみよう。神さまは私たちを愛してくださっているのに、私たちは今まで、どれほど思い違いをしてきて、自分のことを愛してくださっている神さまのみこころを受け取ることができなかったことだろうか? 神さまが変わらずに愛してくださっていることを考えもせずに、ああ、自分なんてだめだ、と考えてみたり、こんな自分に救われる資格なんてない、と自分を責めてみたり。ほんとうに、とんでもない思い違いである。  なぜ、私たちは聖書を読み、聖書を学ぶ必要があるのだろうか? それは、「思い違いをしない」ように、神さまがこの頑なになりがちな私たちを教えてくださる手段、それが、聖書のみことばを通して、神さまが私たちに語りかけてくださることだからである。考えてみよう。学校に来ている子どもたちに、教師たちが一切何も教えなかったら、その子どもたちはどうなってしまうだろうか? 考えなくてもわかることで、子どもたちが教えられてこそなように、私たち神の子どももまた、神さまに教えられてこその存在である。  その点で、私たちの群れを「教会」と呼ぶのは一理がある。「教会」の語源である「エクレシア」は、「呼び出された者」というのが本来の意味で、神さまが私たちのことを世から呼び出されて共同体としてくださったことを意味している。日本語はこの群れに「教会」という訳語を当てた。外から見れば、「せっかくの日曜日に聖書を学んでいる真面目な人たち」というイメージが持たれていることは前にお話ししたが、私たちのしていることは、たとえば定期テストや学校の受験や資格試験に合格するための、いわゆる「勉強」とはちがうと思うだろう。  むしろ、みことばという「糧」をいただく……「糧」というといかにも堅苦しいから言い換えると、みことばという「ごはん」をいただいて成長する、その成長の喜びをともに味わう共同体だから、ごはんをともにいただくことがすなわち「教わる」こと、ゆえに「教会」……いい訳語ではないか。  私たちは教えられることで、思い違いから守られる。思い違いをして、神さまの愛のみこころを間違って受け取り、神さまの愛を受け取れなくしてしまう危険から守られる。今日もこうして、私たちを思い違いから守るべく、神さまがこの共同体においてみことばを伝えてくださることに感謝しよう。  では、何を思い違いしてはならないのだろうか? それは、先週学んだみことば、特に13節を受けていると言えるし、さらに、今日集中して学ぶ17節、18節を指しているといえる。先週の復習のようになるが、13節は、誘惑にあっているとき、神によって誘惑されていると言ってはいけない、と語る。神さまのせいで自分がこんな悪い目にあっている、あなたはそう思うのか、しかしそれはちがう、神さまは悪へと誘惑するようなお方ではない、もしあなたが誘惑にはまっているならば、それはあなたのうちで、誘惑にあって罪を犯したい、欲が存在するからだ、と、みことばは語る。  さて、先週は扱わなかったが、「神によって誘惑されていると『思ってはいけない』」ではない、「言ってはいけない」と語っていることにも注意が必要である。思うのは自分個人の中だけのことで、もちろんそれだけでも、神さまのみこころを誤解しているという点で充分によくないことだが、それを「言う」ということは、教会の中であれ、教会の外であれ、神さまは誘惑する方だ、と「人に伝える」ということである。それは、神さまの愛を疑う不信仰を人々に伝染させることであり、そういう思い違いは教会を病ませるし、また、人々を教会から遠ざけてしまう。私たちは徹底して、神さまは私たちをあえて悪い道に引き込むことをお許しにならない、愛のお方であることを、つねに語りつづける必要がある。  そのように、人を悪の道に誘惑されることのない愛なる神さまだから、という前提で、17節、18節のみことばが続くわけである。17節。このみことばが定義していることは、良いものというのは天におられる父なる神さまがくださるものである、ということである。そのことは2つの側面を持つ。ひとつは、父なる神さまが私たちにくださるものは、良いものしかないということ、もうひとつは、父なる神さま以外のどんな者も、ほんとうに良いものを私たちにもたらすことはない、ということである。もし、私たちが良いものを受け取ることができたならば、その良いものは究極的には、父なる神さまがその人や環境をとおして私たちにくださったものである、ということである。  そのように、神さまが愛のお方だから良いものを私たちにくださる、ということを信じられないのは、そもそも、神さまとはどんなお方かということを勘違いしてしまうからである。  17節を見ると、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」と語っている。このみことばを最初に読んだ十二部族は、イスラエルの民であるという民族的なアイデンティティを保つ一方で、いかんせんユダヤの国外にいる分、その住む土地の宗教的な影響を受けてしまい、変わることのないまことの神さまへの純粋な信仰を保つことに困難を覚えることは避けがたい。  しかし、御父が変わることのないお方だという信仰を保つことに困難を覚えるのが、主の民の末裔たちにして困難だったのならば、いわんや私たち、異邦人から救いをいただいた者は、ますます異教的な神理解らか自分自身をきよく保つことに努める必要がある。神さまが上におられる、天におられるということは、このみことばの説くところだが、その神さまが「移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものは」ないお方だということをまず押さえておかないと、私たちは神さまというお方を見誤り、正しい信仰を持てないことになってしまう。  幼稚園の頃、私は何かいたずらをすると、祖母が決まって私に言ったものだった。「そんなことをすると、お天道様の罰が当たるよ。」祖母がこう言ったとき、家の外では、お天道様ならぬ太陽がぎらぎらしていた記憶がある。この太陽が、目で見ることもできないほどまぶしい太陽が、天から見張っている、という、トラウマのような印象を持ったものだったが、ほどなくして私は、この太陽も数十億年後には寿命を迎えるという、科学の本の解説を読み、とても不安になった。  日本の国旗は「日の丸」、つまり赤く太陽を染め抜いている。たくさんのノーベル賞受賞者を輩出したような、世界的に科学をリードするような国であってもなお、日本は心情的に、というよりも霊的に、お天道様を崇める国と民族である。このヤコブ1章17節のみことばは、そんな私たち日本人が刮目して読むべきみことばである。学校行事の際には日の丸に頭を下げたり、初日の出を拝んだり、星占いを信じたりと、多くの日本人が潜在的に神とあがめる天体というものは、実は創造主なる神さまの御手によるもので、ほんとうに信じるべきは天体という被造物ではなく、天体も含めてすべてを創造された神さまであることを、私たち日本のクリスチャンは徹底して信じる必要がある。私たちはあまりにも、世の霊的な情報に左右されてしまっている。私たちはその分、みことばを学び、日々、神さまはどのようなお方か教えていただく必要がある。そして、みことばの教えるとおりに同意する必要がある。今日のみことばに関して言えば、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」とみことばが語る以上、御父は一切変わることのないお方だと、へりくだって受け入れる必要がある。  18節。この一切変わることのない御父は、私たちに何をしてくださったのだろうか? 私たちを生んでくださった。みこころのままに。真理のことばをもって。私たちがこの世界に生まれたこと、そして、イエスさまを信じるクリスチャンになったことは、神さまのみこころであった。神さまは私たちのことを、真理のみことばによって生んでくださった。私たちは、イエスさまを信じる信仰によって救われると語るみことばが真理であると受け入れている。みことばが真理であることは、変わることのない御父がお定めになったことであり、その真理のみことばを信じ受け入れるように、神さまは私たちのことを導いてくださった。このようにして私たちは救われたのである。  その救いには目的があったとみことばは語る。被造物の初穂にするため。初穂というのは、韓国語の聖書では「最初に結ばれた実」と訳されているが、家畜の初子であれ、最初に結んだ実であれ、それは神さまのものである。だから神さまは、その初物をもってご自身を礼拝するように旧約にお定めになったのである。  しかし、ほんとうの「初穂」とはだれだろうか? コロサイ人への手紙1章15節によれば、それは御子イエスさまである。その、「すべてのものより先に生まれた」まことの初穂、イエス・キリストが、私たちを罪と死から贖い出すまことのいけにえとして御父にささげられたのである。  この、まことの初穂なるイエスさまを信じる信仰を与えられた私たちは、イエスさまを受け入れることにより、私たちもまた初穂、すなわち、神に受け入れられる最高のものにしていただいた。同じ結ぶ実でも、神さまに受け入れられるのと、そうでないのとの違いは天と地の差である。私たちは神さまに受け入れられる、最高のものとされた。それが私たちなのである。  だが、私たちはそういう存在にしていただいたことを教えられてもなお、自分の醜さ、自分の欠け、自分の汚さ、自分の至らなさを覚えて、落ち込んだりしないだろうか?  しかし、そんなとき、私たちは神さまのみことばに目を留めなければならない。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」本来は「けがれている」とされているものでも、ひとたび神さまがきよめられたならば、それは「きよい」のである。きよいかどうかをお決めになるのは神さまであって、私たちのすることではない。自分に足りないところ、至らないところ、汚いところ、醜いところ、弱いところがあるからと、たやすく「きよくない」などと言ってはならないのである。  とはいっても、私たちは実際のところ、まだまだ「きよくなる」ために成長すべきなのは道める必要があるだろう。私たちはただ、神さまがきよいといってくださる基準、イエスさまの十字架を信じる信仰が与えられていることに感謝して、少しでも神さまのみこころにしたがったきよい生き方ができるように、主の恵みに拠り頼んでいくのである。  今日は主の晩餐にあずかる。それは、主が私たちをきよめてくださった、被造物の初穂にしてくださったことを味わい、感謝するひとときである。主のみからだを口にするなどとんでもない罪人だった私たちが、被造物の初穂という大逆転を体験させられた、主の晩餐とは、その大逆転を体験させられることとも言える。主の晩餐は、私たちが「思い違いしない」ために、今日も守るものであり、また、これからも守りつづけるもの。主の晩餐によって、私たちがまことの初穂であるイエスさまとひとつにされていることを味わい、感謝しよう。

いのちの冠を目指す歩み

聖書箇所;ヤコブの手紙1章12節〜15節 メッセージ題目;「いのちの冠を目指す歩み」  先週紹介した黒人霊歌は「私の試練」という題名である。それが何の試練を意味するかに触れなかったので、お話しするが、歌の冒頭はこのとおり。「ねんねんころり、かわいい赤ちゃん、泣かないで。わかるわね、ママはもうすぐ死んじゃうの。主よ、これはみな私の試練、じきに終わる試練。」また、このように続く。「私の兄弟たちよ、もう遅すぎる、遅すぎるけど、心配しないで。これは私の試練、じきに終わる試練。」  何と悲しい歌なのかと思うが、この、死に際に子守唄を歌って幼子をあやすママは、しかし、悲しいばかりではない。先週お話ししたとおり、信仰は金持ちが金で買って永遠のいのちに至らせるものではないと歌っている。また、冷たいヨルダン川は身を凍らしても心を温めると語ったり、パラダイスのいちばん大きな木はいのちの木だと告白したり、見ている先は天国、永遠のいのちである。幼いわが子を置いて病に苦しみながら逝ってしまうなんてあんまりな試練だが、ここで彼女は天国を仰ぎ、素晴らしい希望を手にしている。悲しすぎる歌は、希望と喜びに満ちた歌だった。  私たちもこのママのように、試練によって苦しむことも大いにある。逃げたい、でも、逃げられない、なのに、立ち向かう力もない。もうぼろぼろだ。今日のみことばは、そのような、苦しみと試練の中にいるクリスチャンたちにとって、大いなる慰めの約束を語っている。  12節は約束のみことばである。……このみことばは何を約束しているだろうか? いのちの冠である。  マラソンの勝者に月桂冠がかぶせられて、それが勝利者にとって大いなる栄誉となるように、人生の長い戦いを戦いおおせた勝利者には、いのちの冠が着せられる。つまり、神からの栄光に満ちた永遠のいのちが着せられるという、冠が着せられる。われわれは永遠に御国の王にしていただく恵みにあずかるが、王にふさわしい栄誉を示す冠が、いのち、まことのいのち、永遠のいのちというわけである。  私たちが永遠のいのちをいただくということ、すなわち罪ゆえに永遠の滅びに定められていたのに、イエスさまの十字架の贖いによって、救っていただき、永遠に神とともに生きる存在としていただいたということは、王冠をいただいて王として治めるということである。それも、この地上のどんな国とも比べものにならないほど栄光に満ちた素晴らしい国、御国にて王となるのである。永遠に王となるのである。これがどれほど素晴らしいことか実感できるだろうか?  この、いのちの冠をいただける人は、神を愛する人である。神さまは変わらずに私たち全人類を愛してくださっているが、問題は神さまのその愛に応えて、神さまを愛する人がとても少ない、少なすぎる、ということである。愛してます、ということばは、ほんとうに奥さんを一途に愛している旦那さんにふさわしいが、問題は、浮気者や結婚詐欺師も、愛してます、と平気で口にできることである。しかし、ほんとうに愛しているならば、相手のためにいのちをかけてこそではないだろうか。それでこそ、ことばは本物となる。浮気者や結婚詐欺師には逆立ちしてもできない。  同じことで、神を愛するにはそれ相応の証拠が必要である。神さまを愛しています、というのが口だけだったら、その人の信仰とは果たしてなんだろうか。  その、人が神を愛する証拠はなにかを、このみことばは語る。それは「試練に耐え抜く」ことである。試練とは何だろうか? 試して練る、つまり、不合理、不条理な目にあうことで、自分の中の足りないものが満たされ、不純なものが取り除かれて、ふさわしく整えられることである。  この「試練」というものは、神さまがくださるものである。あとでご覧いただきたいが、ヘブル人への手紙12章4節から12節を見れば、試練が神さまから来るものだということがわかる。聖書を読んでも、アブラハムも、ヤコブも、ヨセフも、ダビデも、みんなたいへんな試練を通らされている。  ときに、試練は悪魔以外の何者から来るのか、と思われることもあろう。旧約聖書ではヨブ記のヨブがそうだったし、新約聖書ならばなんといっても、40日の断食の末に悪魔の試みを受けられたイエスさまである。しかし、この場合も究極的には、神さまがサタンに命じてそのような試練を与えることをお許しになっているのであり、すなわちその試練は神さまに由来するものである。  私たちに試練をお与えになる神さまの愛がおわかりだろうか? 子どもが苦しみ、のたうちまわるのに平気でいられる親がどこにいるだろうか? しかし神さまは、神の愛をこの反抗的、かつ無関心に満ちたこの世で守り行える者となれるように、私たちを力づけ、このよに調子を合わせるようなやわなものから抜け出させ、成長させてくださるために、私たちにあえて厳しい試練を与えられる。  この試練に耐え抜くことができるのはなぜだろうか? それは、神さまを信頼しているからである。信頼するということは難しいが、信頼しきった人は強い。むかし同じ教会で、安先生という名前の宣教師と働いたが、安先生はある日、私にこんなことを言った。  「私が必ず支えますから、脚をそろえたまま後ろにそのまま倒れてください! そのままですよ!」しかし、これはかなり怖い。どうしても足を動かしてしまう。すると安先生が言う。「だめです! 足動かしちゃいけないって言ったのに!」ところが、安先生の小学生の娘さんは、ちゃんと後ろにきれいに倒れる。もちろん、安先生はがっちりと支える。これはすごいと思った。娘はお父さんを心底信頼しきっている。愛の試練を信頼するとは、こういうことなのだろう。  その信頼がないと、13節以下のようになってしまう。自分が誘惑にあうとき、それを神さまのせいにするのである。それが端的に表れている聖書箇所として、創世記3章を挙げることができる。アダムは自分が誘惑されて罪を犯したのを、神さまのせいにし、また、エバのせいにした。エバはエバで、罪を犯したのを蛇のせいにした。しかしいずれにせよ、エバをそばに置いた神さま、園に蛇を置いた神さまが、罪を犯させたと言わんばかりの態度である。ここでアダムとエバは、ごめんなさい、私たちが罪を犯しました、と言うべきだったが、彼らは認めなかった。これが罪のはじまりだった。自分の罪を認めず、神のせいにする、その態度。  神さまはご自身が罪に誘惑されることがないように、人を誘惑されることをなさらない。神さまは試練を与えこそすれ、誘惑はなさらない。試練は人を神に拠り頼ませ、そうすることで神に近づかせ、人をきよくするが、誘惑は人を罪に陥らせる。神さまはあえて人に罪を犯させ、ご自身から遠ざからせるような、意地の悪いお方ではありえない。  人には欲があるとみことばは説く。早い話が、罪を犯したくてたまらない欲である。エバが見た「善悪の知識の木の実」は、食べたくてたまらないもの、しかしそれは、食べることによって罪を犯したくてたまらないものだった。  しかし、欲のとおりに振る舞えばそれは罪であり、その結果人は死ぬ。神のいのちから永遠に引き離される。まさしく、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて死ぬ者となったようにである。  人は試練にあうとき、2つの選択肢の前に立たされる。ひとつは試練に立ち向かう道、もうひとつは試練から逃げる道。しかし、試練が神さまから来るものであるならば、試練に立ち向かうということは、神さまを愛して、神さまに近づくことで、神さまの助けをその弱さを覚える領域にお迎えすることであり、大いなるみわざを体験することになる。  試練から逃げるとどうなるだろうか? それは、神さまが鍛え、きよめてくださろうとする、いわば「親心」を拒絶することである。そういうものが行く先は、「快楽」ではないだろうか。みこころの厳しさから逃げ出して快楽をむさぼりたい。罪を犯したい。  私たちだれもが持っているそういう「欲」が神さまの御手によって取り扱われないかぎり、私たちは罪を犯す喜びに陥り、その結果、神のいのちの喜びをまるで体験できない、生きているとされていても実は死んだ状態に陥ってしまう。そんな生き方をしたいと思うだろうか?  いや、思わないはずだ。だからこそ私たちはせっかくの日曜日に、礼拝をささげるわけである。それでは私たちはどうすれば誘惑に勝てるのだろうか? 先ほど申し上げた、イエスさま。イエスさまこそは誘惑に打ち勝たれたお方だった。神の力が誘惑に勝たせることをお示しになるために、御父はあえて「誘惑」という形でイエスさまに試練を与えられたといえよう。  私たちはこのイエスさまとの交わりによって、死に至らせる罪をはらませる欲に打ち勝てる。礼拝とはイエスさまの御前に大胆に出ることではないか。  私たちがいただくべき折にかなった助け、それは、折に触れて私たちを誘惑しにかかり、罪を犯す選択へと導くサタンに打ち勝てるようにするためのものである。私たちが罪を犯すならば、その責任は私たちが負わなければならない。サタンのせいになどできない。なぜなら、罪を犯したのは「私」だからである。その責任の重さを思うならば、私たちは何としてでも、罪を犯すところから助け出されたいと思うではないか。イエスさまに拠り頼もう。  イエスさまとの交わりを持てば、誘惑から守られ、試練の中で主に拠り頼むことをとおして、私たちの霊性と人格が成熟へと導かれる。そのようにして私たちはキリストに似たものとされるのである。そのような者に、いのちの冠が着せられ、永遠のいのちに生きる御国にて、私たちは永遠に王となる。毎日の生活はひとつひとつが、その日を目指す一歩一歩の歩みである。いのちの冠をいただくその日を思い描き、今日の苦しみの中で主に拠り頼んでいこう。

神の知恵を求めなさい

聖書箇所;ヤコブの手紙1章5節~8節 メッセージ題目;神の知恵を求めなさい  このところ私たちは、リビングライフで列王記第一をとおしてソロモン王のことを学んできた。ソロモン王がどんなに知恵に満ちていたか、あの、赤ん坊を巡っての遊女の争いをさばいたエピソードや、大小さまざまな植物や動物についても知り尽くしていたという記述からもわかるような、一国の王という立場に納まらない見識、また博識ぶりは、神さまがソロモンにそれだけの知恵を与えてくださったからである。  神の知恵、といえば、私はかつて、知恵さん、という名前の教職者とともに同じ教会で働いたことがある。クリスチャンホームに生まれ育った彼女の名前の由来は、「神を知る恵み」ということだった。私は彼女の父上にもお会いしたことがあるが、実に素晴らしい信仰をお持ちの方で、神を知ることは実に神の恵みである、その神を知る恵みをいただくことが人間にとってどんなに大事なことか、という父上の信仰がその名前に込められているようである。  あまりよくないことばの用い方では、知恵をつける、という表現がある。家族や親戚や小さなお店の店員のような人間関係のごく近いどうし、立場の弱い者が法律などの正当な知識を用いて立場の強い者の理不尽さに対して攻撃したり、抗議したり、距離を置いたりするとき、やられた側は、「いったいどこで知恵つけてきたんだろう」とぼやいたりする。本来、愚かであってくれるほうが都合がいいものを、よくも賢くなりやがって、なまいきな、と思うわけである。  そういうわけで、知恵をつける、とは、実に上から目線の嫌味な言い方であるが、そういう言い方を聞くと、知恵を持つことは何かいけないこと、後ろめたいことのように思えてくるかもしれない。しかし、私たちが押さえておくべきことは「何のための知恵か」ということである。  決して自分が人を出し抜くためではなく、神さまの栄光のために神さまの知恵を用いること、これが、私たちが「知恵」というものを肯定的に理解する上での大前提である。同じ日本のキリスト教会の牧師として口にするのも嫌な不祥事だが、一時期、日本のごくごく一部のキリスト教会が、ふさわしくない牧師の独裁によってカルト化して、日本のキリスト教会全体の大問題になった。そのとき、パワハラにあっていたクリスチャンたちは法的手段に訴えたが、そのことは、聖書に基づいてふさわしく「知恵」を用いたからであり、何ら責められることではない。  そういう、知恵。私たちは第一列王記とともに、そのソロモンが大部分を記している「箴言」もこのところ通読してきたが、箴言は何とも知恵に満ちていて、読めば読むほど賢くなれそうである。もとへ、なれる。神さまがソロモンに与えてくださった知恵を、こうして箴言のみことばという形で分かち合っていただけるのだから、私たちは幸せである。  長い前置きになったが、今日の本文は「知恵をもとめること」を語っている。まずは5節。……知恵が欠けているなら知恵を神さまに求めなさい、ということだが、そもそも人は、どうしたら自分が知恵が欠けていることを意識し、それゆえに知恵を求めるべきだと考えるのだろうか?  やはりここは知恵の宝庫、箴言のみことばを見てみよう。まず、箴言3章7節。自分を知恵のある者と思わないことが必要。たとえ、人からリーダーとか先生とか言われて尊敬されている人であっても、自分は知恵がない、愚かだと心から思っていること。それだけ、神と人の前にへりくだることが大事である。同じく箴言の26章12節もご覧いただきたい。愚かなら賢くなろう、成長しようと考える。しかし、自分は充分に知恵を持っている、学ぶ必要はないと考えるなら、もはやその人には成長は望めない。同じく26章の16節は、そのような成長するための努力をまるでしない怠け者は、七人の賢者よりも自分のほうが知恵があると思っていると語る。手の施しようがない。  だから、自分はまだまだ未熟者だ、学ばなければならないと考える人は見込みがある。私もこれまで、自分も子どもだったし、また現に子育てもしているくらいで、数えきれないほどの子どもを見てきたが、親や先生といった大人がいかに「勉強しなさい」とがみがみ言ったところで、自分の知恵の足りなさを痛感して勉強が必要だとならないかぎり、子どもは勉強しない。もちろん、それは大人も同じことで、自分の足りなさを悟って必要に迫られ、はじめて勉強する気になる。しかし、本を読むにも視力も落ち、記憶力も落ち、だいいち忙しすぎるという現実をいやでも悟らされて、愕然とするわけである。ああ、若い頃から勉強しておけばよかった! なんて。  そういうわけで知恵を得ることは難しい。しかし、みことばはここに素晴らしい方法を示している。それは、神さまに求めなさい、ということである。神さまはだれにでも知恵をくださる。神さまはいくらでも知恵をくださる。求めるならば必ず知恵をくださる。何とすばらしいことではないか。  しかし、私たちはそうと知っても賢くなれないことがとても多い。それはなぜなのかもみことばは語る。6節を読もう。……神さまから知恵をいただける条件は、少しも疑わないで、信じて願うことである。まず、信じて願う、のほうから見てみたいが、願うということは、時に時間をかけることも覚悟しなければならない。現代はインスタント、コンビニ、インターネット……何でもあっという間に手にできる時代だけに、「待つ」ことの意味を忘れてしまいがちだが、ほんとうに欲しいものを手にするためには、待つこともできるはずである。  子育てをするとき、幼いその姿についてんてこ舞いしてしまうが、私たちは心のどこかで、その子がやがて大きく立派になる姿をビジョンとして持っているのではないだろうか? だから、それまでに何年かかったとしても、私たちは忍耐できる。それと同じことで、私たちに知恵が必ず与えられると信じるならば、その知恵が手に入るためにどんなに苦しい勉強をしなければならなくても、かならず充分な知恵を授けていただけると信じて、どこまでも祈って求めていけるはずである。  そう、ここで求められるのは、祈りつづけられるだけの信仰を働かせられるか否かである。6節の「疑う人」のたとえを見ていただきたい。どこかで見たことのある表現ではないだろうか? そう、これは、湖の上を歩くイエスさまを見て、ペテロがイエスさまの招きに従ったときの、あのみことば。ペテロはイエスさまの「来なさい」ということばに従って湖の上に足を踏み出し、イエスさまのほうに向かっていったとき、なんと水面を歩けた。しかし、ペテロは湖の波を見たとたん、おぼれてしまった。ペテロが見るべきはイエスさまおひとりであるべきだった。イエスさまを見ないならば、おぼれてしまう。  「どうせ自分なんて頭が悪いから」、「どうせ自分なんて信仰が弱いから」、こんなふうに自分のことを考えてしまっているとき、その人の目に果たしてイエスさまが見えているだろうか? そのような不信仰な人、神さまを信じているといってもそれは口先だけで実際は信じていないような人には、神の知恵はふさわしくない。そういう、中途半端な者には、神さまは知恵をお授けにならない。  「自分は必ずできる」、「やればできる」、「信じる」、そういう人は、簡単にはへこたれない。祈りつづけることができるし、その祈りに裏打ちされた、知恵を得るためのあらゆる努力を惜しまずにすることができる。神の知恵はそういう人にこそふさわしく、必ず与えてくださる。  7節、8節をお読みしよう。疑う人は、主から何かをいただけると思ってはならない。知恵の初めに知恵を買え、あなたが得たものすべてに換えて悟りを買え、と箴言4章7節のみことばは語る。それほど知恵とは何が何でも求めるべきものだということであり、逆に言えば、神の知恵さえ充分に与えられていれば、人間関係であれ、環境であれ、お金を含めた持ち物であれ、神さまが私たちに必要として与えられるものはすべてそろうのである。  しかし、神さまに対して疑いの思いを持っているようでは、知恵も何もいただけはしない。神さまに対して不信仰な者を、神さまはお用いになりようがないからである。その人のことを神さまがお用いになれないのは、その人は自分が用いられたいからと神の知恵を求めようともしない、怠け者だからである。求めない者には神さまは知恵も何もくださらない。  8節は、そういう人が二心の人だと説く。表面的に見るとご立派なことを言っていて、神さまを信じているように見える。しかし、ほんとうに彼が信じているのは、不確かでしかない自分自身である。主を心に迎えてはいるものの、心の王座に座っているのは自分という状態である。お祈りすると申し訳程度に神さまを心の王座にお迎えしたようなポーズは示すものの、ほんとうのところ、その人にとっての人生の主人はイエスさまではない。  そう、所詮は不確かな「自分」という存在が導く人生だから、心が定まっていないのは当たり前である。不信仰ということ、そして、知恵は必ず与えられると信じて求めることをしないことは、これほどまでに不確かな人生しか保証しない、ということである。  ちょっと、これからお読みになるリビングライフの第一列王記の内容を先取りしてしまうが、知恵を用いて国を治め、立派な神殿を建てて国民を礼拝者として整えたという点で、ソロモンは確かに素晴らしい王だった。それにふさわしい栄華も神さまはソロモンに与えてくださり、その栄華は主イエスさまもお認めになるほどだった。しかし、イエスさまはソロモンの栄華をお認めになってはいるが、ソロモンが知恵深かったと評価しておられるわけではない。やがてソロモンは政治において数々のしくじりをするようになった。いちばんいけないのは、政略結婚も含めてとんでもない数の女性と通じ、彼女たちが外国の神々を持ち込むままにさせ、イスラエルの霊的純潔をけがしたことである。神さまはソロモンに、充分な従順を果たせば齢を長くしてあげようと約束されたが、実際には60歳くらいまでしか生きなかった。これは、彼がそれだけ不従順だったことの何よりの証拠であり、神の摂理である。  そんなソロモンは知恵ある生き方をしたと言えただろうか? 晩年は、箴言というみことばを伝えた人物ととても同じには見えない。知恵を求め、知恵を用いたとは到底言えない、肉の思いに満ちた俗物となり下がっていた。まさしく聖書を代表する、晩節を汚した人物。  ソロモンにしてこうなのである。私たちはどうだろうか? ソロモンのこういう姿を私たちは反面教師としたい。ソロモンは父ダビデの従順により恵みを受けた存在にすぎなかったのに、王座に座って何十年も経つうちに、気がつけば勘違いもはなはだしかった。私たちもいまあるのは主の恵みゆえである。神の知恵を求めることは一生もの、いのち果てて御国に行くその日まで、私たちは日々お祈り、日々勉強あるのみである。  お祈りして、お伺いしてみよう。私たちはほんとうに愚かだと悟らされているだろうか? そんな私たちに、神さまはどんな知恵をお授けになろうとしているだろうか? 静まって、みこころを、そして知恵を求めよう。そして、これからも知恵を得るために励みつづける力をいただこう。

聖徒の忍耐

聖書箇所;ヤコブの手紙1章1節~4節 メッセージ題目;聖徒の忍耐  今日から「ヤコブの手紙」より学ぶ。計画では8月いっぱいまで。  この書の強調していることは、信仰とは行いあってこそ、ということ。もちろん、神さまに救っていただくには、イエスさまを信じさえすればよい。救いは行いによるのではない、信じることによる、これは大前提。  しかし、信じるということは果たしてどんなことなのだろうか? 自分が基準の自己中心による信じ方では果たしてどうだろうか?「俺は神さま信じてるよ」と言いながら、その生活が到底、神さまを信じている人とはいえないような自堕落なものだったら、その人はほんとうに神さまを信じているといえるだろうか? そういう態度の人でも救いは保証されているのだろうか? 今日から5か月間の学びにおいては、そういうことを中心に考えてまいりたい。  今日はその冒頭、1節から4節。まず1節の部分はあいさつのことばであり、これを見ると、このヤコブの手紙がどういう人に必要だったかが見えてくる。  その前に著者から見てみよう。「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とある。このヤコブは、十二弟子のリーダー集団、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの、そのヤコブではない。このヤコブは使徒の働き12章にあるとおり、まだ教会が充分に成長する過程にある前に、ヘロデによって殺されて殉教した。そのヤコブではなく、「主の兄弟ヤコブ」、つまり、主イエスさまのお生まれになったあとで、ヨセフとマリアの間に生まれた、イエスさまの肉親としての弟である。このヤコブはイエスさまの公生涯のころには、イエスさまがキリスト、救い主であるという信仰を持っていなかった。むしろ、おかしな人だと見なして連れ帰ろうとしたり、かと思うと、あなた自身を世に現せばいいでしょうが、などと、差し出がましいことをイエスさまに言ってみたりする。要するにイエスさまを信じていなかった。  しかしヤコブは、イエスさまの十字架と復活、そして昇天ののちに教会が成り立つようになってからは、教会の指導者となっていった。もちろん、イエスさまをキリストと信じられるようになった。そしてここにあるとおり、神と主イエス・キリストのしもべ、と自己紹介するまでになっている。イエスさまを主キリストと告白している。ここには、イエスさまが肉親だったという誇りや驕りなどかけらも存在しない。ヤコブにとってイエスさまは兄弟ではなく、主キリストであった。  ゆえに、このヤコブの手紙は、イエスさまの兄弟だったという視点から書かれたのではなく、イエスさまが主キリストであるという告白のもとに書かれている。私ヤコブも読者のあなたがたも、イエス・キリストは主と信じ告白しているのです、これからみなさんがお読みになるこの手紙は主イエス・キリストのみこころです。という前提で書かれている。  では、国外に散っている十二部族とはだれだろうか? 大前提としてこれは、アッシリアによるイスラエル王国滅亡、バビロンによるユダ王国滅亡により、世界中に散らされて久しいイスラエル人のことを指している。ただし、イスラエル人といっても、その中でも教会による宣教活動を通して、イエスさまをキリストと信じ告白する人たちである。  ローマ人への手紙はローマの異邦人に向けて書かれた手紙だが、その中の9章から11章はイスラエル人のイエスさまへの回心について書かれている。そのうち11章23節と24節に注目すると、彼らイスラエルは異邦人よりもよりたやすくイエス・キリストに接ぎ木される、すなわちいざとなるとイエスさまへの信仰を持ちやすいことが語られている。イスラエルとはそういう民族である。  このイスラエルは、世界に散っている。21世紀の今もなおイスラエル人は、イスラエルという本国ができた現在も世界に散った民である。しかし、そのイスラエルがひとつに集められるのはイスラエルの悲願である。エレミヤ書31章7節から9節、エゼキエル書37章21節から28節は、その悲願を主が成し遂げてくださるという預言である。  その預言を主はどのようにかなえてくださるのだろうか? それはヨハネの福音書11章52節に書かれているとおりである。カヤパはローマからユダヤを守る捨て石にイエスさまを差し出せばよいと意見したが、図らずもその意見は、イエスさまの十字架が神の民のためであったことを預言したことばとなった。そう、エレミヤ、エゼキエル以来のイスラエルの悲願は、イエスさまという牧者がひとつの主の民を牧してくださることにおいて成就するのである。  そのイスラエルに、私たち異邦人は接ぎ木されている。養子は血のつながった実の子でなくても、法的に実の子どもと見なしてもらえるのと同じように、私たちの血統がイスラエルでなかろうと、私たちも主イエスさまを信じる信仰により、神の民に加えていただいている。ゆえにこの手紙は、終わりの日にイエスさまによってひとつに集められるべき民に向けて書かれた書簡であり、その対象には私たちも含まれている。私たちは日本の茨城に散っているが、やがてイエスさまが再臨されるとき、私たちは世界中から集められる神の民の一員として、栄光のイエスさまの御前に集う。  その前提で2節以下を読もう。試練がこの上もない喜び、というのは、単に我慢しなさいということではない。さもなくば、試練に合うことにマゾヒスティックな喜びをいだきなさい、ということでも決してない。  3節は、試練を受けることがなぜ喜びと思うべきことなのかを語っている。2節の定義によれば、試練とは信仰が試されることである。その結果、忍耐が生じる、だから喜びなさい、というわけである。  では、忍耐が生まれるとなぜ喜ぶべきことになるのだろうか? それは4節で説明されているとおりである。4節。まず、忍耐とは働かせるべきものである。彼らは何に忍耐しなければならなかったのだろうか? 同胞のユダヤ人からも、異邦人からも受ける迫害に対してである。そのような中で、彼らはつねにイエス・キリストを否む誘惑にさらされていた。第二テモテ2章12節。この箇所からすると、忍耐を働かせるとは、キリストを否まずに最後まで告白しつづけることである。  そのように、あらゆる迫害にも忍耐して、キリストを誇りとする生き方をことばと行いにおいて徹底するならば、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人になることをみことばは約束する。この約束は、私たちの地上のいのちが終わり、御国に移されるときにかなう。地上においては何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人には到底なれない。しかし、私たちが忘れてはならないのは、私たちの信じ受け入れているイエスさまは、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なお方であるということ。このお方との交わりを日々欠かさず持ちつづけることで、私たちはこの完全に成熟したお方、キリストに似た者へと日々変えられる。その歩みが、この地上でのいのちが果てるときに完成するのである。  私たちは生活していると、いやなこと、理不尽なことに出会うことが避けられない。それからいちいち逃げていては切りがないし、成長もしない。しかし、一方で考えなければならないことは、そういう「させられる」我慢は果たしてすべてがすべて主のためにしていることなのか、イエスさまの十字架を忍んでしていることなのか、ということ。この箇所を表面的に読むと「忍耐すること」そのものを称賛していることにしか思えないかもしれないが、ほんとうに考えるべきは「何のために忍耐するのか」「だれのために忍耐するのか」ということ。  忍耐、といえば、ローマ人への手紙5章1節から5節のみことばは外せない。ここでも今日の箇所同様、忍耐が語られているが、忍耐が練られた品性を生むことはなぜ素晴らしいのだろうか? それは、その練られた品性とは、るつぼや炉に金銀が入れられて金(かな)かすが除かれて精錬されるように、私たちが試練に合う中で主にお従いするうえで不必要な肉の性質が取り除かれ、その結果キリストに似た者となった品性、ということ。それゆえに練られた品性を備えることはすばらしい。  そして、練られた品性を備えた人、すなわち練られてキリストに似た者となった人が持つ希望は、失望に終わらない。それは、その希望とは、御国でイエスさまとともに過ごす永遠のいのちにあずかる、不滅の希望だからである。  その希望を保障してくださるのが聖霊なる神さまであり、その希望に私たちのことを満たしてくださるほどに、神さまは私たちのことを愛してくださる。だから私たちは忍耐するのであるが、その忍耐が神の栄光につながることのない、いわば「不本意に苦しまされる」ものであるならば、そこから距離を置くことを祈ってみてはいかがだろうか。不必要な忍耐でせっかくの主のたまものなるいのちを浪費することは賢いとはいえない。  とはいえ、簡単にその苦しみから逃れられないこともあろう。祈っていても果たしてその苦しみが主のゆえのものか判断がつかず、理不尽に耐えなければならないこともあろう。それこそ旧約聖書のヨブ記のヨブのようにである。しかし、私たちはその中でも、可愛い子にあえて旅をさせてくださる御父なる主の親心を思い、忍耐するものでありたい。そこから主との交わりが生まれ、永遠の御国に至る希望を仰ぐことができる。  考えてみよう。古今東西、この世界に存在した最も理不尽な忍耐とは、神の子なるイエスさまがこの世界に人としてお生まれになり、何の罪もないのに人のすべての罪を背負われ、十字架に死なれるほどに忍耐の生涯を送られた、ということでなくて何だろうか。しかし、この忍耐は神の栄光を現すものであった。この忍耐のすえに、ピリピ人への手紙2章にあるとおり、イエスさまは王の王、主の主として、すべての名にまさる名をお受けになった。  そのように、私たちは主の栄光のゆえに忍耐するならば、イエスさまがやがて再臨され、四方から御民を集められる終わりの日に、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受ける。イエスさまを信じているということは、そのように、きわめて終末的な信仰を持つということであり、終わりの日に栄光をもって再臨されるイエスさまの前に恥ずかしくなく立つことを目指す信仰を実践する、ということである。  イエスさまを信じるということは、イエスさまのために生きるということである。もちろん、イエスさまのために生きることは簡単ではない。私たちはできれば自分の欲望を優先させていきたいと願うように、イエスさまにお従いしたいという御霊の願うことは私たちの肉の思いに逆らい、同じように私たちの肉は御霊に逆らう。  しかし、だからといって、肉に従っていきたいと願う私たちの欲望を言い訳にして、不従順な歩みを正当化してはならない。私たちがイエスさまに従順でありたいと願う歩みは苦しみの伴う、忍耐を必要とするものだが、主はその末に私たちを完全な成熟へと導かれる。すなわち、御国にて完全な聖徒として迎え入れてくださる。その日を目指して、今日忍耐すべきことにともに取り組み、ともに主の栄光をあらわしていこう。

復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16章9節~20節 メッセージ題目;復活から派遣へ  今月、2人の娘の卒業式があった。一方は中学校、もう一方は小学校。卒業式というものは、単なる「卒業」を記念してお祝いするだけのものではない。進級先の学校という新たな環境に「派遣」される日でもあった。よその学校の校長先生から祝電が届いたりするのだが、いわく「みなさん、苦しんでください」なんて。保護者達にはその言わんとしたことは分かったと思うが、果たして生徒のみなさんにはちゃんと伝わったか。あまりに厳しすぎると思わなかったか。しかし、派遣されるとはそういうことなのだろう。  今日は喜びの日。イエスさまが復活されたことをお祝いする日。あらためて言おう。「主イエスは!」「よみがえられた!」イエスさまは十字架で死なれて終わりではない。復活されたのである。イエスさまは私たち人間のすべての罪を背負われて十字架に死なれた。しかし、イエスさまは死なれて3日目に復活された。イエスさまによって、私たち人間は永遠に罪と死に勝利した。私たちはイエスさまを信じるならば、永遠に罪と死に勝利し、すべての罪が赦され、永遠のいのちをいただくのである。  さて、冒頭で「派遣」の話をしたが、「派遣」はイエスさまの「復活」とひとつのセットになっている。それは今日のみことばをお読みいただければ一目瞭然である。弟子たちはイエスさまの復活を体験し、それから派遣されている。しかし、復活というものは、イエスさまからずっと聞かされていた一方で、弟子たちがそれとわかるように体験するには、少し時間を必要とした。  弟子たちは、イエスさまがよみがえったという、マグダラのマリアたちからの伝聞によって信じるしかなかった。別の福音書によれば、空っぽになったお墓という状況を証拠として信じ受け入れるしかなかった。それでも、イエスさまがよみがえるというおことばがそのとおりになったと信じられたならば、彼ら弟子たちは喜べたはずだった。ところが彼らは喜べなかったばかりか、悲しんで泣いていた。  そのあたりのことはのちほど詳しく見るとして、今日の箇所、9節のみことばから見てみよう。イエスさまはなぜ、マグダラのマリアにご自身を現されたのか? それは何といっても、ユダヤ人から何をされるかわからないという危険を顧みずにお墓に行った、その信仰にイエスさまが応えてくださったから、と言えよう。  もちろん、「救われる」ことに特別な条件は必要ない。特別な行動をとらなくても救っていただける。しかし、イエスさまに特別に近づいただけの恵みというものは頂けることを覚えておこう。ここでマグダラのマリアは、勇気をもってイエスさまのおられるところに近づいたら、イエスさまにまみえるという恵みをいただいた。私たちもイエスさまに近づいただけの恵みは受け取らせていただけるのである。  こうしてマリアは、弟子たちのいるところに知らせに行った。しかし、弟子たちはどうだっただろうか? 10節。弟子たちは嘆き悲しんで泣いていた。彼らからはイエスさまが3日目に復活するという信仰がすっぽり抜け落ちていた。彼らは、イエスさまが十字架の上でむごたらしい死に方をなさったそのお姿があまりにも鮮烈に目に焼きつき、もはや信仰を働かせるどころではなかった。  そんな彼らのところに、マリアは喜びの知らせを持っていった。しかし、彼らは信じられなかった。イエスさまが死なれた、それも十字架でむごたらしく死なれた、王として立ててくれるはずのユダヤの宗教社会にむごたらしく捨てられた、という現実の前に、彼らは打ちひしがれて悲しみに暮れていた。  現実。それはイエスさまの復活を見せなくするものである。あるミッションスクールの聖書の授業では、イエスさまの復活を信じてもいいし、信じなくてもいいと教えるという。ある教会の牧師夫人がその授業を受けたことがあると証言しているから、それは事実であろう。  彼女はそのことを、霊の先週のメッセージの冒頭でお話しした、主の晩餐のありがたさを説いた先生にお話しした。その先生は血相を変え、吐き捨てた。「あほか!」  キリスト教会が現実におもねって聖書を読むようでは、この時の弟子たちと同じである。もし、そのミッションスクールの学生が何かの理由で悲しみに打ちひしがれるようなことがあったら、いったいだれがその悲しみを解決してくれるのだろうか? キリストに復活がないならばこんなにむなしいことはない(Ⅰコリント15:14)。実にイエスさまの復活とは、キリスト信仰の中心も中心である。悪魔は隙あらば、現実のほうにこそ目を留めさせ、イエスさまの復活を見させなくし、主への信仰を奪い去る。この時の弟子たちも、イエスさまの復活が見えなくて、信仰が奪い去られた状態にあった。そうなると悲しみに圧倒されるしかない。  そこで12節。イエスさまは彼らのうち2人に現れてくださり、ご自身が復活されたことを証しされた。ただし、別の姿で現れてくださったとある。これはルカの福音書のみことばを見ると、彼ら弟子たちとともに行かれた方がイエスさまだとは気づかなかったという記述とも一致する。ルカの福音書を読むと、イエスさまがなさったことは、わたしだ、わたしはよみがえったじゃないか、とご自身をお示しになることではなかった。みことばを解き明かして、落ち込んで暗い顔になっていた彼らの心をイエスさまご自身へと向け、その心を燃やされることにあった。  イエスさまはなぜわざわざ、十字架におかかりになる前の、いわば「生前の」お姿で現れることをなさらなかったのか? 理由として考えられるのは、イエスさまが復活後、弟子のトマスにおっしゃったことば、「見ずに信じる者は幸いです」ということばから考えると、イエスさまの復活を信じるのはまず、イエスさまを見たから信じるのではなく、イエスさまのみことばがそのとおりになっていると、みことばに対する信仰ゆえに信じることが、どんな人にとっても大事であることをお示しになったから、ということが考えられる。  ここでも弟子たちは、はっきりイエスさまに出会ったことを証言する彼らのことばを信じていなかった。前にも言ったが、信仰とは「信じ仰ぎ見る」ということと同時に、「仰せを信じる」ということでもある。ことばが信じられないならば、イエスさまを信じること、すなわちイエスさまの復活を信じることは不可能である。たまに、夢なり幻なりでイエスさまに出会ってイエスさまを信じた、という話を聞くが、そういう人たちにしても、いざ信仰生活を送るとなると聖書のみことばに頼って生活することになるわけで、やはりみことばを聴いて信じることが信仰の大前提になることは変わらない。だれであれみことばを聴くことは必要なのである。  しかし14節。とうとうイエスさまは、そんな不信仰な彼らの前に現れてくださった。そして何をなさったか?「彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」とある。イエスさまの復活も信じられない不信仰、イエスさまの復活を受け入れられない頑なさは、イエスさまの弟子として最もふさわしくない姿勢であり、イエスさまに責められてしかるべきである。  しかし、イエスさまが弟子たちをお責めになるのは、もうお前たちは役立たずだ、わたしの働きなどとても任せられない、と切り捨てるためではない。むしろ、おいおい、おまえたちにはちゃんと教えたじゃないか、思い出せ、しっかりしなさい、と、本来の弟子としての立ち位置に戻してくださるためである。  私たちもイエスさまに用いられたいと願うだろう。しかし、頭ではそう願っていても、心の弱さ、信仰のなさで、イエスさまを信じ切れないことが多くあるのではないだろうか。しかし、そんな私たちだからと、イエスさまは私たちのことを切り捨てられたりはしない。むしろ私たちがちゃんとなれるように、いつでも励ましてくださる。  その励ましを受ける最善の道は、教会という、キリストのからだなる共同体から離れないことである。私たちは教会を離れてしまうと、イエスさまの弟子として歩むことはいかにもきつい。  ヘブル人への手紙3章13節によれば、頑なになるのは罪に惑わされるからだということであるが、そうならないために、日々互いに励まし合うことが命じられている。その励まし合いをする共同体が教会の交わりである。私たちは励まし合うことで、頑なになって罪に陥ることから守られる。  ともかくも、イエスさまはひとたび弟子たちをお責めになったが、それで終わりではない。不信仰と頑なという罪が取り扱われた弟子たちのことを、イエスさまは派遣されたのである。15節。この働きを受けた弟子たちは、自分たちが働いたのはもちろんのこと、バルナバ、そしてパウロと、そのあとに続く聖徒たちを訓練して宣教の働きを担わせ、その命脈は2000年にわたって全世界に広がり、いまここ、2024年の茨城にまで広がっている。  16節。信じる、ということと、バプテスマを受ける、ということはセットになっている。信仰を持つ人はバプテスマを受けることに躊躇してしまう、ということは、特にここ日本では往々にして起こる。しかし、このみことばに従順に従うならば、イエスさまを信じることはバプテスマを受けることとセットである。すなわち、バプテスマを受けることによって、ほんとうの意味でイエスさまを信じたと聖書的に認められることになる。  一方で、信じないならば罪に定められる。それは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とイエスさまがおっしゃっている以上、そうなのである。イエスさまを信じないならば、聖い御父から離れますと宣言していることになり、そういう人にはその選択にしたがって、さばきが下される。この選択の責任は自分が取らなければならないのである。  さて、17節と18節を見ると、信じる人はすごい体験をする。ここに書かれているような人になれるなんて、イエスさまを信じるとはなんとすごいことだろうか。ただし、前提として押さえておくべきことは、「イエスさまを信じる」人は即、「イエスさまを宣べ伝える」人になる、ということである。「イエスさまを信じさえすれば(主の弟子なり働き人にならなくても)このようなスーパーマンになる」ということではないのでご注意を。  具体的にひとつひとつ見てみよう。「わたしの名によって悪霊を追い出し」、私たちは悪霊を追い出す、すなわち、祈りをもってみことばを宣べ伝えることによって、悪霊の支配する領域(個人なり、家庭なり、地域なり)から悪霊を追い出し、主の支配される領域へと変えることができるようになる。  「新しいことばで語り」、ストレートに言うと、いったいどこのことばだろうかと思えるようなことばが口から飛び出してくる「異言」という霊的な働きのようでもある。しかし、本来「使徒の働き」で語られた最初の異言は、神の大きなみわざを、はっきりそれとわかるほうぼうの外国語で語ることばであり、そう考えると、「外国、他民族のことばが語れるように主が道を開かれる」とも言える。実際、大学で外国語を専攻した立場から言わせていただければ、外国語を読み書きするのは、ある意味「賜物」を必要とする領域である。その賜物が与えられて、世界宣教に大いに用いられるようになる、という意味のことをイエスさまがおっしゃったといえよう。  もちろん、私はこの箇所を、いわゆる「異言」のことを指しているという解釈を排除しているわけではない。むしろ、異言を語る人は確かに新しいことばを語っているわけだから、このみことばは当てはまっている。教派的にペンテコステ派やカリスマ派ではないから異言を語るのはふさわしくない、ということはない。私は韓国の教会に長年身を置いたが、早天祈祷ともなると、私の感覚ではほとんどの人が聞き取れる韓国語ではなく、異言を語っている。私がいたのは長老派やバプテストだったので、いわゆる「聖霊派」ではなかったが、異言は堂々と語られていたわけである。  もちろん、秩序は必要だからむやみやたら、のべつ幕なしに異言を語ったりするのは、第一コリント14章のみことばに照らしてふさわしいとはいえないが、同じ第一コリント14章は同時に「異言を語ることを禁じてはいけない」とも語っている。異言が語れる人は大いに語り、霊的な恵みを存分に味わっていただきたい。  「その手で蛇をつかみ」、この箇所は、毒まむしに噛みつかれてもそれを火の中に振り落とし、なんともなかったパウロを連想するが、パウロがそのように蛇を操り、その結果、地元の人から神さま扱いされるほど絶大な尊敬と信頼を得られるようになったように、蛇に象徴される悪魔と悪霊どもを制するだけの霊的権威を授けていただける、ということである。私たちは自分が思っている以上にはるかにすごい霊的権威が与えられている。祈ることによって行使できる。行使しなければもったいないではないか。  「たとえ毒を飲んでも決して害を受けず」、これは、なら、毒を飲んでみなさい、害を受けないから、ということではない。それは神を試みる愚かな行為である。ただし、自分から毒をあおる場合ではなく、毒を盛られた場合はどうか。ある宣教師の先生が、東南アジアのある国の、福音宣教を受け入れない地域で毒を盛られたというお話を、その先生の教え子の方から聞いたことがある。その先生は90歳を超えた今も元気に働きを続けておられるが、もし毒を盛られたという話がほんとうだとすると、このみことばはまことだったことになる。  ただ、聖書が「毒」というものをどう扱っているかを見てみると、単にからだに有害な物質を飲んでも大丈夫、ということに限定されないことがわかってくる。ヤコブの手紙3章8節、ローマ人への手紙3章13節を読むと、人のことばが毒となることがわかる。私たちはゆえなく誹謗中傷、罵詈雑言を浴びる。普通ならばそのようなことばを聞いたら傷つき、容易には立ち直れない。しかし、神さまとの交わりを保つならば、そのようなことばの毒を「解毒」するように、私たちがいちいちそのような激しいことばに傷つかないようにしてくださる。そういう点で「毒を飲んでも害を受けない」者にしていただいていることは、私たち主の弟子たちの強みである。  そして、病人に手を置けば癒される。イエスさまはこの癒しのみわざをもって、神の国を拡大された。同じことを私たちも行えるのである。私たちの教会は医療宣教で始まり、今も多くの信徒の方が医療に携わっている。人をいやす働きに特化した教会であり、また、私たちの教会における祈りによって、実際癒される方がいらっしゃる。みなさま、実際にこの教会はいやしのわざが行われているではないか! 病の絶望が、いのちの喜びに変えられているではないか!  最後に19節、20節。イエスさまは天において栄光をお受けになった。しかし、同時にイエスさまは私たちのために祈ってくださっている。また、イエスさまは、天におられると同時に、私たち主の弟子のいるところどこにおいてもともにおられる。私たちが祈るならば、イエスさまは応えてくださる。私たち主の弟子を、宣教のために用いてくださる。  私たちは不信仰ならば主に叱られる。しかし主は復活の恵みをもって、私たちを遣わし、主の復活を証しする証し人として力づけ、用いてくださる。復活は私たちの、弟子としての歩みと密接な関係を持っている。主のために労する私たちも、やがてこの地上のいのち果てたら、その先には復活、イエスさまとともに過ごす永遠のいのちが待っている。  今日は特に、イエスさまの復活を喜ぼう。イエスさまの復活を信じる信仰が与えられていることに感謝しよう。復活の主が私たちを派遣してくださっていることに感謝しよう。

主の弟子は主にあってひとつ

聖書箇所;ヨハネの福音書17章20節~26節 メッセージ題目;主の弟子は主にあってひとつ  本日は主の晩餐を執り行う。これは私たちが大事にすべき教会のわざである。現在、東京は世田谷にある日本基督教団奥沢教会の牧師をしておられる洛雲海(ナグネ)先生という方、もともと日本人だが韓国が大好きで名前まで韓国式にし、一時期は韓国の神学大学院で教えておられた先生だが、神学生時代、たまたまこの先生とお会いして神学談議におつきあいすることになったとき、洛雲海先生は主の晩餐というものについて、こんなことをおっしゃった。「イエスさまのみからだと血潮を味わうんだよ! これがからだの中に溶けて入るんだよ! すごいことだと思わない!?」  それまで、そんなことを意識することもなかっただけに、洛雲海先生のこのおことばを聞いて以来、主の晩餐の味や香りを意識するようになった。言うまでもなく、主の晩餐は少量とはいえ、食べ物、飲み物である。それが血となり肉となって、私たちのからだを形づくる。その前段階として、私たちは味わう。イエスさまはこのようにして、ことばを聴いたり読んだりするだけでは体験しきれない恵みを味わう道を、私たちに備えてくださった。今日はそのことを意識して主の晩餐に臨もう。  主の晩餐は英語で「コミュニオン」という。これは、主にある交わり、コミュニケーションという意味でもある。したがって、主の晩餐とはキリストのからだなる教会の共同体としてのわざである。私はこの教会に赴任して以来、一貫して、教会の兄弟姉妹が「ひとつ」ということを強調してきた。しかし、ひとつのからだとして交わりを持つことはどんな教会においても簡単なことではない。むかしこの教会では、聖徒の交わりを持つためにどうすべきかという議論が大いに戦わされたと聞いている。みなさまのその祈りを込めた議論が、豊かな交わりを目指す今の教会の祝福につながっているならば感謝である。  主の晩餐は、そのように、主の民が、キリストの弟子たちが、キリストにあってひとつのからだである、共同体であることをともに味わい知り、見つめる、大事な教会のわざである。ということは、私たちが主の晩餐にあずかることにおいては、ともにひとつのお盆からパンと杯を取り、ともに味わうことに意味があるといえよう。  そこで、主にあって私たちがひとつとはどういうことか、今日、受難日を目前にした私たちは考えてみたい。実は、私たちがひとつになることは、イエスさまにとってのもっとも強い願いであった。本日お読みしたヨハネの福音書17章のみことばは、十二弟子を前にしたイエスさまの最後の、御父に向けたお祈りの箇所である。イエスさまは何を切に祈っていらっしゃるのだろうか? それは、ご自身が御父とひとつであられるように、主の弟子たちがひとつになることである。  主の弟子たちはたった今、イエスさまが自ら裂かれたパン、分けられたぶどう酒をともに口にして、イエスさまとひとつであることを体験した。イエスさまは主の晩餐というこの厳かな食卓を、ずっと守りつづけるように弟子たちにお命じになった。それは、弟子たちが主にあってひとつだからである。  今日は特に20節以下に集中してまいりたい。この人々とはもちろん、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子である。しかしイエスさまは、彼らだけではなく、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」御父にお祈りをささげていらっしゃる。  彼らとは弟子、言い換えれば、イエスさまに遣わされた使徒である。人は使徒たちの語ることばを聞いてイエスさまを信じ受け入れる。そのことばは教会を通じ、聖書のみことばによって代々伝えられ、こんにちに至っている。そして、私たちもまた、「彼らのことばによってイエスさまを信じる人々」とならせていただいたのであり、ということは、イエスさまは何と2000年前のユダヤで、2000年後の日本の茨城にいる私たちのために祈ってくださっていたのであった。これは驚くべきことではないだろうか? イエスさまは私たちにとって決して遠いお方ではない。2000年前のあのとき、イエスさまはここにいて、主の晩餐を囲む私たちのことを覚えていてくださったのであった。  では、なぜ、私たちはひとつにならなければならないのだろうか? それは、主イエスさまがそのように切に願われたからだが、では、イエスさまはなぜそのように願われたのだろうか? それは21節のみことばにあるとおりである。……ここでイエスさまは、3つの願いを語っていらっしゃる。まずイエスさまは、御父とご自身がひとつであるように、すべての人がひとつであることを願っていらっしゃる。そう、イエスさまは、人が争わず、対立せず、平和に暮らすことを願っていらっしゃる。主イエスさまがそう願われる以上、主の子どもたち、キリストの弟子たちに対立や分裂はふさわしくない。争いやさばき合いがあってはならないのである。自分の正しさを盾にいともたやすく他者をさばく、さばき合う、そんな姿をイエスさまはどれほど悲しんでいらっしゃるだろうか?  もちろん、ひとつになるのは難しい。私たちはみな、生まれも育ちも性格もちがうからである。しかし、そんな私たちにも主は道を備えてくださった。それが第二の願い、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」である。私たちは同じイエスさま、父なる神さま、聖霊さまにあってひとつになれるのである。考えてみていただきたい。私たちの群れからキリストを取ったら、いったい何が残るだろうか? しかし私たちはキリストという「わたしはある」お方によって、あってあるもの、存在そのものにしていただいた。  そう、それはまた、私たちが三位一体の神さまとの交わりから外されたら、そこには永遠の滅びしかない、ということでもある。神のいのち、永遠のいのちの中に保たれない人を、聖徒とかクリスチャンとか呼んではいけない。だから人は、なんとしてでもイエスさまから離れてはならないのであるが、もしかしたら自分は弱いから離れてしまうかも、と思うような方は、安心していただきたい。イエスさまは、そのような人が神のいのちの交わりから離れてしまうことがないように、御父にとりなして祈ってくださっている。イエスさまの祈りに信頼しよう。  そして、聖徒がひとつであること、聖徒と主がひとつであることは、なぜ必要か? それは、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるため」であるとイエスさまはお語りになる。主とひとつとされた教会という共同体が、唯一なる神さまがお遣わしになった方はイエス・キリストであると語るのである。それ以外の何ものも、イエスさまのことは語れない。  イエスさまがこのように祈られたとき、イエスさまに迫害の魔の手を伸ばしていた者は、なんと、神はおひとりであると、しかも聖書をもとに信じ告白していた宗教指導者たちであった。彼らは御父を認め、信じ従っていることにはだれよりも誇りと確信を持っていた。しかし、ほんとうのところ、御子イエスさまを認めない以上、彼らは御父を信じているとはいえなかった。唯一の神を信じることと御父を信じることはイコールではない。ヤコブの手紙2章19節には、「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」とある。私たちの信じているのは単なる神さまではなく、「神のひとり子イエス・キリストの父なる神さま」である。これを告白しないものはどんなに唯一の神さまを信じていると主張しようとも、異端であり、別の宗教である。  人は、道であり、真理であり、いのちであるイエスさまをとおしてでなければ、御父のもとに行くことはできない。悪魔と悪霊どもはそれを知っているので、唯一神ということに人をこだわらせ、イエス・キリストを決して見せないように誘導する。そのように、イエスさまに対して堅く目が閉ざされている世に対し、まことの神への道、すなわちイエスさまを語るのが、神とひとつ、互いにひとつとされた、教会のわざである。イエスさまが託されたこのわざを担うために、教会と聖徒は神との交わりがおろそかになったり、互いに対立したりさばきあったりしてはならないわけである。  さらにイエスさまは、主の弟子なる教会に何をお与えになるだろうか? 22節。御父がイエスさまに与えてくださった栄光を教会に与えてくださる。イエスさまは十字架にかかられる前に、すでに、十字架の果ての復活、そして天の御国での栄光のお姿、さばき主としての再臨、御国の永遠の王としての栄光を受けておられた。  この、イエスさまのみがお受けになることのできる栄光を、主は教会に与えてくださる。教会とはそれほど栄光ある共同体である。私たちはそのひと枝であり、教会という共同体においてキリストにつながっている以上、私たちも終末にいたる栄光をすでに受け取っているのである。しかし、私たちは自分たちの姿を見るとふさわしくないと思えてならないだろう。こんなにもきたない、こんなにもみすぼらしい。そのくせ、お互いを見ると、自分の目に梁があることも忘れて人の目のちりが見えてならない。  しかし、私たちが見るのは自分自身やお互いの足りなさではない。それを丸ごと赦し、私たちを完全に贖ってくださったイエスさまの十字架である。この栄光に私たちはあずからせていただいている。それは、イエスさまが私たちのために十字架で苦しまれたように、私たちもイエスさまのために、そしてイエスさまのからだなる教会のために苦しむ栄光が与えられている。これが栄光といえるのは、私たちがイエスさまのゆえに苦しむならば、その末にイエスさまの復活と御国の栄光にあずかるからである。  23節。ここでイエスさまは私たちと神さまとの関係において、大事なことを語っておられる。私たちがイエスさまを宣べ伝えるその前提は、御父がイエスさまを愛しておられるその愛で、私たちのことを愛されている、ということである。私たちはそれほどの愛を受けている。具体的には、御子イエスさまがいのちを捨ててくださるほどに、私たちは愛されている、ということである。  このように、キリストを信じてキリストのからだのひと枝になるならば、神さまにことのほか愛される存在になることを証しするのが、教会のわざである伝道である。伝えるものは福音、人をまことのいのちに至らせる唯一の道である。それだけに、どれほど私たちの愛は隣人によい証しとならなければならないことだろうか。福音提示も独善的になっては神の愛も何もなく、そのようになってしまっている人はほんとうにふさわしい形で神の愛を味わっているか、よく考える必要がある。  24節。イエスさまは栄光をもっていついかなるときも、どこにでもおられる。私たちはこのお方がどこにいても、どんなときも、ともにおられることを認めているだろうか? 普段の振る舞いはどうだろうか? 栄光のイエスさまがともにおられると意識しないで振る舞うことがあまりにも多くないだろうか? イエスさまの気持ちを考えよう。  25節。この時代のユダヤの宗教社会さえ、イエスさまのことを知っているとはいえなかった。つまり、イエスさまによって御父に至るということを信じていなかった。それが罪人として当たり前のことだったが、イエスさまに選ばれて弟子に取っていただいた者たちは、イエスさまを知る光栄にあずかった。すなわち、イエスさまをとおして御父をほんとうの意味で信じ、永遠のいのちに至る光栄にあずかった。この、もったいないばかりの恵みをいただいているのが、私たち教会である。  最後に26節。私たちにはイエスさまの御名が与えられている、イエスさまの御名によって御父に願うなら、みこころにかなうものをなんでも与えていただける。それほどまでに私たちは、イエスさまにあって御父に愛されている。この愛を受け取っている私たちは、御父に愛されている証しを、イエスさまの御名によって大胆に御父に祈る祈りをもって果たしていく。  御父とイエスさまがひとつであられるように、イエスさまと私たちはひとつ、そして私たちはひとつ、それを今日、主の晩餐においてともに体験し、ますます愛し合う共同体として成長してまいりたい。

主の弟子は主を認める

聖書箇所;マタイの福音書10章32節~42節 メッセージ題目;「主の弟子は主を認める」  ちょっとお尋ねしたいが、みなさまは人々の前で、自分がクリスチャンであることを明らかにしていらっしゃるだろうか? もちろん、なかなかそうする機会がないという方もおられるだろう。それはしかたがない。しかし、いざというとき、自分の信仰を語るような機会が巡ってきたとき、果たして私たちは、自分がクリスチャンであることを言えるだろうか?  日本のようにクリスチャンが少ない国では、イエスさまを証しすることが難しい。しかし、それを言ったら、初代教会はいまの私たちとは比べ物にならないほど難しかったはずである。イエスさまをメシアと認めないユダヤ教と、皇帝崇拝をさせるローマ帝国。まさに、前門の虎、後門の狼。  そのような背景の中で、イエスさまはあえて弟子たちを遣わされた。彼らは羊のように弱い、しかも彼らを取り囲む環境は狼たちがうようよしているとご存じの上で。そんな弟子たちをお遣わしになったイエスさまのみこころを知ることにより、私たちはこの世界においてどのようにキリスト者として、すなわち、主の弟子として振る舞うことができるかを教えていただく。  それでは今日の本文に行こう。32節、ですから、で始まっている。先週学んだ31節以前を指しての「ですから」だが、そこで語られていたことは、あなたがた主の弟子たちは、無限大の価値を神さまから与えられている、神さまはそのような大事な存在として、あなたがたのことを見ておられ、守ってくださる、ということ。  神さまがそのように私たちのことを認めてくださっているのはなぜだろうか? 本来私たち人間はみな罪を犯した罪人であり、まことのいのちという神さまの栄誉を受けることができない存在だった。しかし、あわれみ豊かなイエスさまは、そのような私たちが滅びることがないように、私たちがかかるべき十字架に身代わりにかかってくださり、私たちを神の怒りから、罪と死から救い出してくださった。このイエスさまの犠牲によって、神さまは本来人間を創造されたとき、人間に対して持っておられたその価値どおりに、私たちの無限大の価値を回復してくださった。私たちは恵みによってイエスさまを信じる信仰を持たせていただき、自分にこのような無限大の価値があることを受け取らせていただいた。  だから私たちは、イエスさまを人々の前で認めるのである。そのことばで、行いで、イエスさまが私の主です、と証しし、あなたもイエスさまを信じてください、と促すのである。創造主なるイエスさまに出会うことで初めて、人は本来のいのち、本来の価値を取り戻すのであり、それを神さまが願っておられる以上、私たちがイエスさまを証しするのは当然のことである。  そしてイエスさまは、そのような私たちを認めてくださると約束してくださっている。これは信仰義認と矛盾するのだろうか? イエスさまを信じさえすれば救われるのに、それになにか付け加えているということになるのか? しかしこれは、こう考えるべきだろう。「イエスさまを信じれば救われる」という「信仰義認」は、たしかに簡単きわまるシンプルな真理であり、そうでなければ救われない。しかし、信じるということは、ヨハネの黙示録3章20節にあるように、イエスさまを心の中に受け入れることであり、ガラテヤ人への手紙2章20節にあるとおり、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるという生き方そのものである。自分が基準として生きることから、イエスさまに生きていただく人生へと変えていただく、それが「信じる」ということである。「キリスト教」という「宗教」を信じるなどというレベルではない。言ってみれば、「キリスト命(いのち)」。観光地の落書きなどで、恋人の名前を書いて、「○○ちゃん命」なんてある、あれみたいなもの。  いのちだから、寝ても覚めてもイエスさま。だから、人々にイエスさまのことを話したくてたまらない。十字架にいのち捨てられるイエスさまのためには、いのちを懸ける、それほど惚れ込む弟子ならば、イエスさまは御父にその人のことを誇りとされるだろう。アバ、見てよ、この人はあなたのためにいのちを懸けていて、すごいんだよ!  逆に、イエスさまのことを知らないと言ったらどうなるか? 33節。これを見て、私たちはぎょっとしないだろうか? やっぱり、信仰義認なんて嘘なのか? しかし、ここはもう少し考えていただきたい。私たちが信じているイエスさまは、私たちのために何をしてくださった方か、私たちは果たしてほんとうに知っているだろうか? 私たちが目にしている十字架は、単に十字架だけで、これはイエスさまが復活してもう十字架にかかっていないからだ、といわれる。そんな私たちは一度でいいから、カトリック教会の十字架を見るといい。イエスさまがかかっている。これを見ると目をそむけたくなる。しかし、これがイエスさまのほんとうの姿である。イエスさまをこのような目に合わせた、それが私たちの罪であった。しかし、こうも言える。イエスさまは私たちをかぎりなく愛しておられるから、私たちがこんな死に方をしなくていいように、身代わりに十字架にかかってくださった。  その、イエスさまの十字架の愛を知りながら、人前であたかも、イエスさまなんて知らないよ、というような行動をとってしまったならば、イエスさまのお気持ちはどうなるだろうか? ただし、イエスさまのこのおことばを聞きながら、なお、イエスさまを知らないと、しかも、知らないというのが嘘ならば呪われてもいいと誓いながら宣言した弟子がいた。それはペテロだった。ペテロはそのように誓った途端、鶏が鳴いてわれに返り、自分のしたことに泣き崩れた。だがイエスさまは、彼のことを知らないとはおっしゃらなかった。かえって、ご復活されてから、あなたはわたしを愛しますか、わたしの羊を養いなさい、と、3度もおっしゃって、働き人として回復してくださった。それは、イエスさまが、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださっていたからだった。  私たちだってイエスさまを知らないと言っているも同然の振る舞いをしてしまうことがあろう。葬儀や地鎮祭のような宗教儀式に参加して礼拝の対象を拝んでしまうなど、その最たるものだろう。あるクリスチャンは、そのように拝むことでクリスチャンは変な人だと思われないで済む、これは神さまを証しするためだ、と言い訳するだろう。だが、たとえばムスリムやエホバの証人の信者だと周りにすでに知られている人が、そのような宗教儀式を強制されることがあるだろうか? 周囲がそういうことを理解するのは、それがまことの神の前に正しいかどうかは別にして、彼らが自分たちの信じている対象を人前で認める人たちであると、周囲に理解させる努力をつねにしているからである。彼らにできていることを私たちがしないのは、とどのつまり、ただ、悪く思われたくないから、恥ずかしいからなのではないか? だから、私たちクリスチャンが宗教行為をしてしまったら、イエスさまを知らないと3度も言ったペテロのような後ろめたさを覚えるだろう。  しかし、私たちがもし、そのような宗教行為をしてしまって、なおそんな自分を悲しむ思いがあるならば、神さまは私たちに再スタートするチャンスを与えてくださっている。何とか悔い改め、今度こそイエスさまを人々の前で知っていると言えるに値する生き方ができますようにと、祈って取り組んでまいりたい。本来ならばイエスさまが「そんなことをするあなたのことなど知らない」とおっしゃるところを、悔い改める余地を与えていただいただけでも私たちは救われている。そのチャンスが与えられている間にも、私たちはイエスさまに知っていただいている者にふさわしく歩んでまいりたい。  さて、イエスさまのみことば、次は34節から39節だが、人々の前で主イエスさまを認めるということは、ときに家族との関係にも影響を及ぼす。イエスさまは平和の君であるが、イエスさまをてこでも認めない者との間にまで平和をもたらされることはない。イエスさまはパリサイ人や祭司たちのような宗教指導者、すなわちイエスさまを迫害した者たちとの間に平和を築きなさいとはおっしゃらなかった。イエスさまの弟子でありつづけるということは、時に家族であろうとも、そのような既存の宗教観に固執するならば対立することさえいとわないように、ということだった。  イエスさまのこういうお話を聞いてしまうと、キリスト信仰とはもし家族が未信者だったら大事にしなくてもいいということなのか、それでは、隣人を愛しなさいというご命令は矛盾ではないか、ととらえるだろうか? しかし、それは短絡的というものである。イエスさまは何も、無条件で家族を粗末にせよ、とはおっしゃらなかった。私たちは人一倍愛を示すべき存在だから、家族は大事にすべきである。  しかし、もしイエスさまへの信仰と、イエスさまに従わない家族と、どちらを取るかはっきりせよ、となったとき、私たちは決断を迫られる。もちろん、イエスさまに従わない家族に黙々と仕えることがイエスさまに仕えることである、というお導きがある場合もあろう。しかし、それで家族のことをイエスさまより優先するような生活をするならば、それをイエスさまにお従いする生き方と言っていいのか、という問題が生まれてくる。そのように問われるとき、イエスさまを選ぶならば、周りからの罵詈雑言にも耐えなければならないだろうが、イエスさまはそのような弟子たちの味方である。ぜひ、26節、27節をご覧いただきたい。彼らはどんな苛烈な迫害を加えてきても、キリストにある永遠のいのちまで取り去ることはできない。主は、この救いを握って忍耐する者の味方であられる。  38節もご覧いただきたい。注意が必要なのは、イエスさまがこのおことばをおっしゃったとき、このおことばを聞いた当の弟子たちはだれも、イエスさまが十字架におかかりになって死なれるとは知らなかった、ということ。というより、夢にも思わなかっただろう。私たちはイエスさまというお方を十字架とセットで考える癖がついているから、つい、弟子たちもそういう理解でいたと思ってしまうが、そうではない。  しかし、イエスさまがおっしゃったこのみことばは、強烈に弟子たちの心に刺さったからこそ、わざわざここで記録しているのではなかろうか。十字架というのは極悪人がかかる呪いの木であり、それを背負うなんて、人間として最低のことである。それを背負ってイエスさまについていくということは、自分は最低最悪の罪人であると認める、しかし、そんな自分のことをイエスさまは導いてくださる、ついていかせてくださる、弟子に取ってくださった、という信仰を告白しつづけることである。  私たちは自分のことを罪人だと思えてならないときがあろう。悪いことを考えたり口走ったりしたとき、仕事で失敗したとき、人間関係でしくじったとき、過去の忌まわしい記憶がふとしたことでよみがえり、ぐるぐると頭の中を巡るとき……だが、十字架を負うとは、そういうふうに自分が自分自身のことを思うよりもはるかに罪深い、比べ物にならないほど罪深い、呪わしい、ということである。  だから、私たち自身のことを見てはならないのである。見たって罪しか見つからず、絶望するしかないからである。自分を見てはならない。目の前のイエスさまを見て、イエスさまの歩まれるあとをひたすら進みつづける、それが私たち主の弟子のすることである。そうなると、主ばかり見ることになるから、人々にはおのずと、主を語るようになる。そうして人々は私たちのことを馬鹿にしたり、遠ざけたり、迫害を加えたりするかもしれない。中にはそういったことを血を分けた家族がしてくるかもしれない。しかし、私たちの前を歩かれるイエスさまは、十字架を背負っておられる。その十字架に私たちの罪は、イエスさまもろとも釘づけになり、私たちは完全に赦されるのである。このようにしてくださったイエスさまを私たちは誇らずにいられない。見るべきはイエスさま、認めるべきはイエスさまである。  さて、私たちはそうして、主の弟子として歩むなら孤独になるように思えるだろう。だが、忘れてはならない。40節から42節。そう、主は、ご自身の弟子をやさしく受け入れてくれる存在を備えてくださっている。そういう存在に主は報いてくださると約束してくださっている。  十二弟子がイエスさまとともに共同体を形づくっていたときも、すでにそういうありがたい存在はあった。ペテロの姑がそうだった。イエスさまに熱をいやしていただいて元気になったら、ただちにイエスさまの一行をもてなした。  マルタとマリアの姉妹がそうだった。マルタは奉仕のしすぎで不満がたまってしまうという失敗はしたものの、もてなしのために頑張ったことそのものは評価されるべきだろう。最後の晩餐のために大広間を用意した人も、その大事な席でイエスさまが弟子たちと時間をともに過ごし、みことばを授けるという大事なみわざに貢献したわけである。  その後も、つまり、イエスさまの復活と昇天後も、「使徒の働き」を見てみると、皮なめし職人のシモン、マルコの実家、キプロスの地方総督セルギウス・パウルス、ティアティラの紫布商人リディア、コリントのアキラとプリスキラの夫婦……こう言った人々によって主の弟子たちが支えられ、福音宣教が前進していったことがわかる。  こんにちにおいて、弟子たちのその働きを支えるのはどこだろうか? だれだろうか? 私たち教会である。中には、未信者の篤志家によって教会が支えられるというケースもなくはないが、それはよほど特殊な場合であって、基本的に主は、私たちのことを主の弟子であると認める信仰をお授けになった人たちを通してお働きになる。それは、私たち教会である。私たちは主の弟子を支えるうえで、裕福な篤志家である必要はない。初代教会のように、お互いの必要のために分かち合えれば充分である。私たちは主の弟子として遣わされている一方で、主の弟子を養うベースキャンプの役割も同時に担っている。そのように、お互いを主の弟子と認め、祈りにおいて、また具体的な助けによって、必要な力を注ぐことは、主の弟子として主を認める行いを実践することである。このよい働きに集中し、主の報いをいただけるという喜びに満たされてまいりたい。

主の弟子の価値は無限大

聖書箇所;マタイの福音書10章24節~31節 メッセージ題目;「主の弟子の価値は無限大」    みなさまにお尋ねしたい。ご自分は、どのくらい価値があるとお思いだろうか? つい私たちは、失敗したり、人から悪口や批判のことばを言われたり、過去の忌まわしい記憶がよみがえったりするとき、ああ、自分なんてダメだ、と思ったり、口にしたりしないだろうか?  そんな私たちに対して、神さまは語ってくださっている。イザヤ書43章4節。ヨハネの福音書3章16節。そう、私たちは自分のことをどう思おうとも、神さまが変わらずに愛してくださっているのである。  神さまが愛しているものを、ダメだと言ってはいけないだろう。人に対しても、自分に対しても。私たちはつい、自分はダメだと思って落ち込んでしまう。そんなとき、神さまの愛に立ち帰ることができたらどんなにかすばらしいだろうか。私たち教会とは、何かと落ち込みがちなお互い、人をそしってしまいがちなお互いが、神さまの愛によって愛されていること、神さまの愛によってお互いが愛し合えることを心に留め、愛の奉仕をすることで成長する共同体である。神さまと兄弟姉妹の愛を受けて、神さまと兄弟姉妹、そして隣人を愛する、私たち主の民は、そうして自分の価値を確かめ、神さまに感謝する。  聖書は語る。「神は愛です。」したがって、神の子イエスさまの弟子である私たちも、その神の愛の御姿にならう存在。私たちはなかなか、師であるイエスさまのその愛の姿にならうのは難しいが、あきらめないで愛することを取り組んでまいりたい。  今年の年間テーマは「宣教する弟子」である。しかし、宣教というのは、人を「キリスト教」という宗教の教えに染めて、先輩である自分は教えてあげたからと大きな顔をすることでは決してない。そうすることは傲慢であり、愛の反対であり、「宣教」の名に値しない。「宣教」するとは愛すること、仕えること、癒すこと。だから、へりくだっていないと無理な働きである。人間、へりくだることはほんとうに難しいが、聖書をつねにお読みして、私たちのためにへりくだって仕えてくださるイエスさまのお姿にいつも触れるならば、私たちもへりくだることの麗しさを習い、腰が低くなっていこう。隣人、まだイエスさまとはどんなお方か知らない人に、イエスさまが愛されたようなその愛を実践すること、小さなことでも気がついて手伝ってあげるでもいい、人より早く出勤、遅く退勤して、主にある勤勉の具体的な姿を示すでもいい、悩みを抱えた人の話を聞いてあげるでもいい、そういう、アーサー・ホーランドのことばを借りれば、「1ミリだけ難しく生きて」隣人を愛することをする、それが、イエスさまの望んでおられる宣教ではないだろうか。  もちろん、ことばで筋道立ててイエスさまとはどういうお方かを語れるようになることは大事である。それは確かに宣教のコアにあたる部分であり、必須である。しかし、ことばがご立派でも行いが伴っていない人の話など、説得力はないというものである。ことばで伝道することも、愛の行いをすることも難しいが、励まし合ってチャレンジしていこう。  本文に入ろう。イエスさまは弟子と師の関係を語っているが、マタイ23章10節によれば、師と呼ぶべきお方はキリストである。私たちはイエスさまをキリストと告白するので、イエス・キリストという師の弟子である。その最初の弟子が、いまこうしてイエスさまからみことばを授けられている十二弟子。その弟子たちは、師以上には出られない、と語る。また、しもべというのは、イエスさまを主と告白する、すなわち主人と告白する者たち、イエスさまのしもべであるわれわれクリスチャンであり、ここでは、まずこの弟子たちを指している。弟子もしもべも、どちらも同じである。その共通点は、低い存在として高い存在の言うことを聞き、行動する、ということ。絶対のことばに従う。それはこの世の上下関係でもそう。ただし、ほんとうの師であり主人であるイエスさまは、黒いカラスでも私が白といったら白だ、というような、理不尽な上下関係を強要される方では決してない。  師という存在、主人という存在が崩れたら、そのもとにいる者たちは守ってももらえず、用いてももらえない。だから、永遠の師であり主人であるイエスさまが私たちにいてくださるということは、ほんとうにありがたいことである。  25節。このイエスさまのみことばによれば、弟子でも師のようになれ、しもべでも主人のようになれることを約束しておられる。これはルカの福音書6章40節によれば、充分な訓練を受ければ、という条件がつく。訓練というのは、Ⅰテモテ4章7節から8節によれば、今のいのちと来たるべきいのちが約束されるための、敬虔のための訓練であり、それは肉体の鍛錬にもまして有益であるという。イエスさまは今のいのちにおいても、来たるべきいのちにおいても、今からのち永遠に私たちの主であられる。主との聖い交わりを保つことは訓練が必要な領域である。好きなところに遊びに行くのではなくて主日に教会に来ることも、毎日時間を確保して聖書を読んでお祈りをすることも、訓練によって少しずつ身についていくこと。私はしょっちゅう弟子訓練ということを強調しているが、弟子とは牧師の弟子ではなく、キリストの弟子であり、キリストの弟子になるには教会がみんなして訓練に入っていく必要がある。  そうして私たちは、師であり主人であるキリストの似姿に近づいていくのだが、同時に私たちは迫害も受ける。ユダヤの宗教エリートたちはイエスさまのことをベルゼブル呼ばわりして、そのみわざを全否定してみせた。だが、そこまで言われるイエスさまよりも、より悪く言われるのが、その弟子、そのしもべにあたる、主の子どもたち、クリスチャンたちだというのである。  クリスチャンに対する悪口。これは、キリスト教会が宣教するようになったここ160年ほどの日本で、絶えず聞いてきたことばだろう。「ヤソ」とか「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とか。こういうことはイエスさまを指して言うことばではなく、クリスチャンを指して言うことばである。東京の寄席に行くと今でもよくかかっている「宗論」という噺があるが、この演目はイエスさまに対する悪口ではなく、クリスチャンに対する偏見に満ちた悪口のオンパレードである。恐れ多いとでも思うのか、イエスさまへの批判などできないような人たちも、クリスチャンへの批判や非難、罵詈雑言は容赦ない。まさにイエスさまがおっしゃるとおりである。  しかし、26節。イエスさまは、ですから、恐れてはいけません、と語っておられる。クリスチャンを待ち受ける現実は決してたやすいものではないとお語りになっているのに、なぜ、恐れてはいけません、と語っておられるのか? だいたい、何が「ですから」なのだろうか?  それは、師であるキリスト・イエスのようになれるほど、神さまは私たち教会に、無限大の価値を見出していらっしゃるからである。私たちはどれほど尊い存在だろうか? 私たちのいのちが救われるために、神のひとり子イエスさまのいのちが犠牲になったほどである。そんな無限大に尊い存在を、神さまはサタンにやられるままには決してなさらない。  サタンに魅入られた狼のような人たちに神の愛を施す、宣教のわざをしても、彼らは私たちの善意に対して理解せず、非難したり、無視したりするかもしれない。しかしイエスさまは約束しておられる。今はそのよい行いの源である福音が、彼らの目には隠されているかもしれない。しかし、それはやがて明らかになる。覆われたままではいない。隠されたままではいない。彼らはやがて、私たちの信じているお方を見るようになる。  27節。イエスさまは全能の神さまであられたから、やろうと思えば世界中の人々にたちどころに福音をお語りになることもできた。しかしイエスさまのとられた方法は、十二人に限定した共同生活の中で時間をかけて弟子訓練することだった。その間のイエスさまにみことばを授けられている共同体生活は、閉じていた。しかし、遣わされたら広々とした世界に向けて堂々と語った。まさに、十二弟子が人目につかないところで聞いたことばが、宣べ伝えられ、今や世界中で語られるようになったのである。イエスさまがおっしゃったとおりになった。そのようにイエスさまは、福音宣教という最高のわざのために、ご自分の愛する弟子をきたえ、広く用いられるのである。  その働き、無限の神さまがになってしかるべき働きを託していただけるほどの存在、それが主の弟子。私たち主の弟子は、そんな無限の価値を持っている。だから恐れてはならないのだが、それでも私たちは恐れないだろうか? 私たちの恐れの正体とは何だろうか? その正体はほぼ、「失うこと」と言えるだろう。現在、マクチェイン式聖書通読はヨブ記を毎日読んでいるが、ヨブ記は、家族、財産、自分の健康や妻の尊敬さえ失った、喪失の悲しみに打ちひしがれた者の嘆きに満ちている。同じ旧約聖書の「哀歌」も、ユダという国を失った亡国の悲しみに満ちている。私たちも、健康、財産、名誉、愛情、人間関係、尊敬、安全、安心……そういうものを失うことを恐れている。私たちがそれらを失うのを恐れるのは、その結果私たちが「死ぬこと」「滅びること」を、心のどこかで恐れているからではないだろうか。  だからこそ私たちは、いのちの主なる神さまが私たちのいのちを握っておられることを覚え、そのことに平安を覚えるべきなのである。サタンは、私たちに喪失の恐怖をちらつかせ、失うな、とばかりに、悪の勢力に隷属させようとする。よく見てみよう。サタンに牛耳られたこの世界は、どんなに「得ること」、「手に入れること」を私たちに宣伝しているだろうか? 愛情、快楽、安定、健康、名声、尊敬、財産、安全……だが、それらのものを手に入れようとも、ほんとうに満たすお方であるイエスさまに出会わないならば、人はサタンに隷属するしかなくなる。  イエスさまに出会うには、自分が大事に思っているものを、どこかで「失う」決断をすることも時には必要である。それは、サタンに従う者にはあらゆる喪失に加え、いのちさえも喪失させ、永遠の滅びにお定めになる神さまとの出会いをとおしてできることである。神さまがすべてを持っておられる、そのすべてを私にくださっている、それほど私は無限大の価値のある存在である、そう知れば、神さまから滅びに定められるようなことなど、恐れ多くてとてもできない、となろう。  その無限大の価値を、イエスさまは雀に例えて語っておられる。29節。1アサリオンとは、一日分の労賃1デナリの16分の1だから、日本円に直して簡単に考えれば、ワンコインランチのお値段くらい、500円かそこら。それが2羽分だから、1羽ではおにぎり2つ買えるか買えないかくらい。ほんとうに安い。しかもほかのイエスさまのおことばによれば、2アサリオンあれば雀は5羽買える。つまり、1羽分はおまけ。おにぎり2個どころではない、ただ。  しかし、神さまはそんな雀の1羽さえも、みこころに留めて生かしていらっしゃる。そのいのちを司り、労働もしないその鳥に食べ物をつねに備えてくださるほど、神さまは関心を持っていらっしゃる。1羽の雀に無限大の神さまの無限大の愛は注がれている。ゆえに1羽の雀の価値は無限大。その雀は数えきれないほどたくさんこの世界にいる。数学的に言うとおかしい言い方かもしれないが、無限大に無限大をかけたよう。それよりもあなたがた、弟子たちには価値があると、イエスさまはおっしゃる。  なぜ恐れてはならないのだろうか? 無限大かける無限大の価値を見出すほど、神さまは私たちを愛し、関心を持ってくださっているから。髪の毛ひとすじに至るまで数えておられるとは、髪の毛ひとすじも失わせないほど、つまり、私たちの髪の毛一本サタンの手に渡さないほど、私たちを完璧に守ってくださる、ということ。  私たちが無限大の存在ならば、ひとつでも何か欠けたら、もうそれで無限大ではなくなる。神さまは、そんなことはさせない、髪の毛一本に至るまでも守るように、私たちの全存在を守ってくださり、私たちを完璧な存在、無限大の存在として保ってくださる。それは、神さまが私たちに備えてくださった唯一の道、御子イエスさまを信じ従うことによって許されることである。イエスさまを信じていこう。  ともかく神さまは私たちに、無限大の価値を与えてくださった。私たちにこれほどの価値があるなら、私たちはもう、自分なんてダメだ、と嘆くまい。そんなことは言えないではないか。神さま、これほど素晴らしい存在にしてくださって感謝します! ハレルヤ! 喜んで信じます! これでいこうではないか。  その喜びは、イエスさまの弟子が味わえる特権である。宣教とは、自分はその無限大の価値を持っている、その喜びを、へりくだって愛することによって人々に分かち合うことである。「あなたがたも無限大の価値を持っているんです。神さまに愛されていることを知ればそれがわかります。」  その愛する働きをするとき、抵抗されたり無視されたりすることもあろう。でも、忍耐して種蒔きをしよう。主は必ず、その、涙とともに蒔いた種を芽吹かせ、育て、豊かな実りを与え、刈り取らせてくださる。私たちの間で隠されていた愛の福音は必ず、この世に広く宣べ伝えられる。私たちの愛の奉仕によって。その積み重ねで、人々がイエスさまに大いに立ち帰る、リバイバルは必ず来るから、イエスさまを信じ、あきらめないでよい働きに、愛の働きに献身していこう。

主の弟子は守られる

聖書箇所;マタイの福音書10章16節~23節 メッセージ題目;主の弟子は守られる  大なり小なり、クリスチャンが迫害という形で悪い目にあうことは避けられない。そんなとき私たちは、どのようにそういったことに対処するものだろうか? もちろん、個別のケースのちがいがあるので、具体的にどうこうすべし、と一概には言えないが、その原則として、私たちには聖書のみことばが与えられている。特に、今日のみことばは、私たちが迫害にあうときにどう対処すべきかを詳しく語っているので、このみことばを原則として歩めばよい。  16節。このみことばと同じことを語るルカの福音書のみことばについては、ついこの間の礼拝で取り上げた。そのとき、羊らしい主イエスへの従順の行いをもって主を証しし、サタンに従う狼を主に従う羊にしていこう、これぞ伝道である、とお語りした。しかし、そうはいっても一方で、そのように狼自身が実は羊であることを自覚できるようになることは、神の時にしたがってのことであり、それまで狼はやはり、羊を取って食う狼である。そのような者の攻撃に対して無防備であれ、とイエスさまは教えておられるわけではない。  そこでイエスさまが説いておられることが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に、ということ。前回のメッセージでは、この原則を、狼を羊にしていくわれわれにとっての伝道のわざに適用したが、狼から不必要な危害を受けることから身を避けることに関しては、こういうことが言えよう。  蛇とは何だろうか? 言うまでもなくサタンの象徴である。また、出エジプトにおいて、火の蛇が荒野において、片っ端からイスラエルの民に危害を加えていったように、滅ぼす者の象徴である。そういう存在がさとい、とみことばは語る。  イエスさまは、サタンに属する者、そのような知恵を受けた者を、ルカの福音書16章の不正な管理人のたとえにおいて、こう評しておられる。「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについて、光の子らよりも賢い」。主人の債務者のための証文を偽造して彼らの歓心を買おうとすることは、ほんとうならばいよいよ主人の信用をなくすこと。しかし、主人はこれをほめた、とイエスさまは語っておられる。ずるがしこいことはこの世の流れ、この世の知恵であり、この世が何に関心を持っているかに無知であってはならない、ということも教えている。  そもそも、私たちの敵である蛇、サタンがどのような戦略と戦術で私たちを脅かしにかかるかが分かっていないならば、私たちはどうやってこの世の人々に伍していくことができるだろうか? ただでさえ彼ら狼は、私たちが善良な羊なのをいいことに、そんな私たちのことを食い物にする者たちである。狼を狼ならしめている蛇の知恵、サタンの知恵を見抜くこと、それが私たちに必要である。  サタンのことを知るには、サタンの動かしているこの世のニュースを知る必要ももちろんあろう。しかし、それにいちいち対応していては切りがない。サタンとは何物で、どんなことを考えて行動しているか、という原則を私たちは知る必要がある。聖書のみことばを学ぶならば、サタンがどんな知恵を持っているかを私たちは知ることができる。  そうすることによって、私たちは蛇のように賢くなることができる。これはなにも、蛇の知恵を身に着けてその知恵にしたがって行動するようになる、という意味ではない。それでは私たちは反キリストの手先になってしまう。  そうではなくて、蛇の思考パターン、行動パターンを読み、それにふさわしい戦略、戦術を立て、この世のあらゆる歩み、家庭生活や職場生活、近所づきあいといったことに入っていくことができる、ということである。こうすることで、私たちは主のからだの一部分である自分自身、また信仰の仲間を、人を介してのサタンの余計な攻撃に晒すことから避けさせることができるようになる。  同時に必要なのが鳩のように素直なこと。鳩は、御父からくだってイエスさまにとどまられた聖霊なる神さまのお姿。鳩のように素直に、とは、聖霊なる神さまが御父と御子に従順に従われ、そのみこころをつねにあらわされる、その素直な姿勢を指している。  サタンの思考パターンを知るだけでは充分ではない。それ以上に必要なのは、聖霊なる神さまによって私たちはどれほど愛なる神さまとの深い交わりに入れられているか、その素晴らしさを日々体験することである。私たちを取り囲む世界はサタンに魅入られた狼にあふれていて、そのひねくれた見方ばかりとつきあっていたら、私たちもいつしか、ことばづかいやものの見方がサタンの影響を受けすぎてしまう。私たちが素直になる対象はサタンではない。御父、御子、御霊の三位一体の神さまに対してである。そうなることで私たちは、平常時にも、いざというときにも、神さまの導きをいただいて狼のような存在に伍していける。  使徒が活動しはじめたばかりの初代教会のころ、狼のようなユダヤ人は使徒たちを告訴したり、暴力的な迫害を加えたりして苦しめた。そのような者たちを用心しなさい、とイエスさまは語っておられる。彼らに捕らえられ、福音宣教がストップしてしまったら、元も子もなくなる。たしかに私たちは、主の弟子だからというそれだけの理由でこの世から不当に憎まれるが、その憎む者たちに対して無防備に身を晒していいわけではない。彼らのことを避けることができるならば避けるのも知恵である。私たちはまず、自分自身を守らなければならない。それは自分がかわいいからではなく、神さまが私たちのことを大事に思ってくださっているからである。私たちは犬死にのように、苦しめる者の手に自分のことをやすやすと渡してはならない。  しかし、迫害ということにはほかの側面もある。それは、証しをする機会が開かれる、ということである。18節にあるとおり。ステパノがそうだったし、このステパノの最後の説教を聴いたことがのちの回心につながったといえるパウロもそうだった。しかし、語ることは普段からどうしようと心配していた末に出てきたことではない。19節、20節にあるとおり、聖霊の交わりによって語られたことである。  私たちはいざというとき、未信者に対して救い主イエスさまのことが語れなくて、口惜しい思いをしたことがないだろうか? そんな私たちに必要なのは、彼らを突き動かす蛇の知恵を見抜き、彼らに証しする神の知恵を授けてくださる聖霊のお働きに、普段から従順でありつづけることである。何を語るかをあらかじめ考えないのは、相手が何を言ってくるかを想定するときりがないからでもあるが、なによりも、相手にもいのちを与えて生かしておられる主のみわざが、相手にも臨み、導きを与えるため。パウロの宣教がヘロデ・アグリッパ王を動揺させた、すなわち、自分がクリスチャンになったらどうしようとうろたえた、使徒の働き26章のようなことが起こるからである。  ただ、そのように御霊ご自身が現れるダイナミックな宣教の働きに用いていただける一方で、迫害を加えてくる存在はとても身近な人たちであったりする。きついのは、血を分けた親子や兄弟でさえ、迫害を加える存在となる、ということ。そのようなとき私たちの信仰が問われる。私たちは何も、彼らに強い態度で立ち向かって勝負を挑み、勝つべきなのではない。私たちはまず、謙遜であることが求められる。  そうはいっても、彼らに迎合することがみこころにかなっているのではない。たとえば、葬儀などで、偶像礼拝行為を強要してくるとき、彼らは私たちの善良さにつけこむ。私たちの罪責感を刺激するようなことを言ってくる。偶像礼拝行為をして当然、それが私たちの持つべき信仰の姿と彼らは理解し、しなければ、私たちの信仰を攻撃する。考えてみればとんでもないことである。  私たちは知恵深く、こういったことを避ける必要があるが、だからといって、たとえが極端だが、織田信長の伝説のように、位牌に抹香を投げつけるようなこともすべきではない。やっぱりあいつはヤソだから、などというひんしゅくをあえて買うことをしてはならない。迫害者の魔の手を避けながらも謙遜に……。簡単ではないが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に普段から考え、振る舞っているならば、かならずできると信じていただきたい。  「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。この、耐え忍ぶということは、神の恵みによってできることである。ペテロをご覧いただきたい。彼はイエスさまについていきますと誓い、大見得を切った。そんな彼もいざとなると、自分がイエスを知らないというのが噓なら呪われてもいい、という、とんでもない誓いを立ててイエスさまを否定した。だが、彼は呪われることなく、のちにはイエスさまについていくことができた。なぜか? ペテロのことをサタンがふるいにかけようとも、信仰がなくならないように、イエスさまが祈ってくださっていたからである。  立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。しかし、気をつけるのは人間的な努力や気合でどうにかなることではない。あのソロモンも晩節を汚(けが)したことを、私たちはもっと聖書の警告として受け取る必要がある。恵みに拠り頼まないで、千人からの女の人やエジプトの富に拠り頼むような人の晩年は悲惨なものだった。しかし、私たちは覚えておこう。私たちが主に拠り頼むことができるように、主イエスさまは私たちのために祈り、恵みをくださっている。  私たちは守られる。だから、もしかしたら自分は迫害にあって、たいへんな思いをするかもしれない、と、恐れたり、おびえたりしないでいただきたい。そんな私たちはしかし、繰り返すが、あえて迫害にとどまろうとすることをする必要はない。23節。私たちの証しを受け入れない人、それこそイエスさまがお語りになったように、真珠のごとき大事な福音を語る者に対して恩知らずにも攻撃を仕掛けてくる「豚」のような人。  豚に真珠を与えてはならない、とイエスさまはおっしゃる。日本の猫に小判が西洋の豚に真珠だ、と言われるが、正確にはちがう。猫に小判を投げても「なんだろう?」という表情を浮かべるだけだが、豚は真珠を投げると真珠を足で踏みにじり、投げた人に危害を加えるとイエスさまはお語りになっている。福音の価値がわからないどころではない、福音をけがれたものとみなし、福音を語る人をいたく傷つける、そういう人に構っている必要はない、とイエスさまはお語りになっている。これは、足のちりを払い落としなさいとおっしゃることにも通じる。  そういう場合には次の町に逃れなさい。つまり、福音を語る働き人のことを受け入れてくれる人たちのもとに行きなさい、ということ。人の子が来るときまで、すなわち、イエスさまが再びこの世界に来るときまで、あなたがたはイスラエルの町々を巡り終えることはできない、つまり、福音を完璧に宣べ伝えきることはできないとお語りになる。これは、そうだという事実、人の力は及ばないということを受け入れてあきらめなさい、ということではない。福音宣教とはそれだけ急を要するものである、ということ。このみことばは、自分の愛するあの人のもとに福音が宣べ伝えられ、それからイエスさまが来られますように、そのために私のことを用いてください、というチャレンジを私たちに与える。  私たちはその働きをすることにおいても守られる。サタンは、福音宣教のわざがなされ、人々がひとりでも救われていくことにならないように、さまざまな妨害を仕掛けてくる。  しかし、私たちは信じよう。主が福音宣教の働きのために私たちを召され、用いてくださる以上、主は私たちのことを、また、私たちが福音を証しすべき人たちのことを、サタンの魔の手から守ってくださり、この地に私たちをとおして、神の国を成し遂げてくださる。  私たちは何か恐れていることがあるだろうか? なにゆえに恐れているのだろうか? 何かを失うことだろうか? それを失うと何がいけないのだろうか? 逆に、私たちにとってほしいものは何だろうか? なぜそれがほしいのか? それを手にすることでどのような益があるのだろうか?  神さまは、もしみこころのゆえに失ってはならないものがあるならば、必ず保ってくださり、必要なものがあるなら与えてくださる。私たちは主の弟子であるゆえに、主がそのいのちに責任を取ってくださり、守られる。私たちを守ってくださる主に感謝しよう。