主の弟子は守られる

聖書箇所;マタイの福音書10章16節~23節 メッセージ題目;主の弟子は守られる  大なり小なり、クリスチャンが迫害という形で悪い目にあうことは避けられない。そんなとき私たちは、どのようにそういったことに対処するものだろうか? もちろん、個別のケースのちがいがあるので、具体的にどうこうすべし、と一概には言えないが、その原則として、私たちには聖書のみことばが与えられている。特に、今日のみことばは、私たちが迫害にあうときにどう対処すべきかを詳しく語っているので、このみことばを原則として歩めばよい。  16節。このみことばと同じことを語るルカの福音書のみことばについては、ついこの間の礼拝で取り上げた。そのとき、羊らしい主イエスへの従順の行いをもって主を証しし、サタンに従う狼を主に従う羊にしていこう、これぞ伝道である、とお語りした。しかし、そうはいっても一方で、そのように狼自身が実は羊であることを自覚できるようになることは、神の時にしたがってのことであり、それまで狼はやはり、羊を取って食う狼である。そのような者の攻撃に対して無防備であれ、とイエスさまは教えておられるわけではない。  そこでイエスさまが説いておられることが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に、ということ。前回のメッセージでは、この原則を、狼を羊にしていくわれわれにとっての伝道のわざに適用したが、狼から不必要な危害を受けることから身を避けることに関しては、こういうことが言えよう。  蛇とは何だろうか? 言うまでもなくサタンの象徴である。また、出エジプトにおいて、火の蛇が荒野において、片っ端からイスラエルの民に危害を加えていったように、滅ぼす者の象徴である。そういう存在がさとい、とみことばは語る。  イエスさまは、サタンに属する者、そのような知恵を受けた者を、ルカの福音書16章の不正な管理人のたとえにおいて、こう評しておられる。「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについて、光の子らよりも賢い」。主人の債務者のための証文を偽造して彼らの歓心を買おうとすることは、ほんとうならばいよいよ主人の信用をなくすこと。しかし、主人はこれをほめた、とイエスさまは語っておられる。ずるがしこいことはこの世の流れ、この世の知恵であり、この世が何に関心を持っているかに無知であってはならない、ということも教えている。  そもそも、私たちの敵である蛇、サタンがどのような戦略と戦術で私たちを脅かしにかかるかが分かっていないならば、私たちはどうやってこの世の人々に伍していくことができるだろうか? ただでさえ彼ら狼は、私たちが善良な羊なのをいいことに、そんな私たちのことを食い物にする者たちである。狼を狼ならしめている蛇の知恵、サタンの知恵を見抜くこと、それが私たちに必要である。  サタンのことを知るには、サタンの動かしているこの世のニュースを知る必要ももちろんあろう。しかし、それにいちいち対応していては切りがない。サタンとは何物で、どんなことを考えて行動しているか、という原則を私たちは知る必要がある。聖書のみことばを学ぶならば、サタンがどんな知恵を持っているかを私たちは知ることができる。  そうすることによって、私たちは蛇のように賢くなることができる。これはなにも、蛇の知恵を身に着けてその知恵にしたがって行動するようになる、という意味ではない。それでは私たちは反キリストの手先になってしまう。  そうではなくて、蛇の思考パターン、行動パターンを読み、それにふさわしい戦略、戦術を立て、この世のあらゆる歩み、家庭生活や職場生活、近所づきあいといったことに入っていくことができる、ということである。こうすることで、私たちは主のからだの一部分である自分自身、また信仰の仲間を、人を介してのサタンの余計な攻撃に晒すことから避けさせることができるようになる。  同時に必要なのが鳩のように素直なこと。鳩は、御父からくだってイエスさまにとどまられた聖霊なる神さまのお姿。鳩のように素直に、とは、聖霊なる神さまが御父と御子に従順に従われ、そのみこころをつねにあらわされる、その素直な姿勢を指している。  サタンの思考パターンを知るだけでは充分ではない。それ以上に必要なのは、聖霊なる神さまによって私たちはどれほど愛なる神さまとの深い交わりに入れられているか、その素晴らしさを日々体験することである。私たちを取り囲む世界はサタンに魅入られた狼にあふれていて、そのひねくれた見方ばかりとつきあっていたら、私たちもいつしか、ことばづかいやものの見方がサタンの影響を受けすぎてしまう。私たちが素直になる対象はサタンではない。御父、御子、御霊の三位一体の神さまに対してである。そうなることで私たちは、平常時にも、いざというときにも、神さまの導きをいただいて狼のような存在に伍していける。  使徒が活動しはじめたばかりの初代教会のころ、狼のようなユダヤ人は使徒たちを告訴したり、暴力的な迫害を加えたりして苦しめた。そのような者たちを用心しなさい、とイエスさまは語っておられる。彼らに捕らえられ、福音宣教がストップしてしまったら、元も子もなくなる。たしかに私たちは、主の弟子だからというそれだけの理由でこの世から不当に憎まれるが、その憎む者たちに対して無防備に身を晒していいわけではない。彼らのことを避けることができるならば避けるのも知恵である。私たちはまず、自分自身を守らなければならない。それは自分がかわいいからではなく、神さまが私たちのことを大事に思ってくださっているからである。私たちは犬死にのように、苦しめる者の手に自分のことをやすやすと渡してはならない。  しかし、迫害ということにはほかの側面もある。それは、証しをする機会が開かれる、ということである。18節にあるとおり。ステパノがそうだったし、このステパノの最後の説教を聴いたことがのちの回心につながったといえるパウロもそうだった。しかし、語ることは普段からどうしようと心配していた末に出てきたことではない。19節、20節にあるとおり、聖霊の交わりによって語られたことである。  私たちはいざというとき、未信者に対して救い主イエスさまのことが語れなくて、口惜しい思いをしたことがないだろうか? そんな私たちに必要なのは、彼らを突き動かす蛇の知恵を見抜き、彼らに証しする神の知恵を授けてくださる聖霊のお働きに、普段から従順でありつづけることである。何を語るかをあらかじめ考えないのは、相手が何を言ってくるかを想定するときりがないからでもあるが、なによりも、相手にもいのちを与えて生かしておられる主のみわざが、相手にも臨み、導きを与えるため。パウロの宣教がヘロデ・アグリッパ王を動揺させた、すなわち、自分がクリスチャンになったらどうしようとうろたえた、使徒の働き26章のようなことが起こるからである。  ただ、そのように御霊ご自身が現れるダイナミックな宣教の働きに用いていただける一方で、迫害を加えてくる存在はとても身近な人たちであったりする。きついのは、血を分けた親子や兄弟でさえ、迫害を加える存在となる、ということ。そのようなとき私たちの信仰が問われる。私たちは何も、彼らに強い態度で立ち向かって勝負を挑み、勝つべきなのではない。私たちはまず、謙遜であることが求められる。  そうはいっても、彼らに迎合することがみこころにかなっているのではない。たとえば、葬儀などで、偶像礼拝行為を強要してくるとき、彼らは私たちの善良さにつけこむ。私たちの罪責感を刺激するようなことを言ってくる。偶像礼拝行為をして当然、それが私たちの持つべき信仰の姿と彼らは理解し、しなければ、私たちの信仰を攻撃する。考えてみればとんでもないことである。  私たちは知恵深く、こういったことを避ける必要があるが、だからといって、たとえが極端だが、織田信長の伝説のように、位牌に抹香を投げつけるようなこともすべきではない。やっぱりあいつはヤソだから、などというひんしゅくをあえて買うことをしてはならない。迫害者の魔の手を避けながらも謙遜に……。簡単ではないが、蛇のようにさとく、鳩のように素直に普段から考え、振る舞っているならば、かならずできると信じていただきたい。  「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。この、耐え忍ぶということは、神の恵みによってできることである。ペテロをご覧いただきたい。彼はイエスさまについていきますと誓い、大見得を切った。そんな彼もいざとなると、自分がイエスを知らないというのが噓なら呪われてもいい、という、とんでもない誓いを立ててイエスさまを否定した。だが、彼は呪われることなく、のちにはイエスさまについていくことができた。なぜか? ペテロのことをサタンがふるいにかけようとも、信仰がなくならないように、イエスさまが祈ってくださっていたからである。  立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。しかし、気をつけるのは人間的な努力や気合でどうにかなることではない。あのソロモンも晩節を汚(けが)したことを、私たちはもっと聖書の警告として受け取る必要がある。恵みに拠り頼まないで、千人からの女の人やエジプトの富に拠り頼むような人の晩年は悲惨なものだった。しかし、私たちは覚えておこう。私たちが主に拠り頼むことができるように、主イエスさまは私たちのために祈り、恵みをくださっている。  私たちは守られる。だから、もしかしたら自分は迫害にあって、たいへんな思いをするかもしれない、と、恐れたり、おびえたりしないでいただきたい。そんな私たちはしかし、繰り返すが、あえて迫害にとどまろうとすることをする必要はない。23節。私たちの証しを受け入れない人、それこそイエスさまがお語りになったように、真珠のごとき大事な福音を語る者に対して恩知らずにも攻撃を仕掛けてくる「豚」のような人。  豚に真珠を与えてはならない、とイエスさまはおっしゃる。日本の猫に小判が西洋の豚に真珠だ、と言われるが、正確にはちがう。猫に小判を投げても「なんだろう?」という表情を浮かべるだけだが、豚は真珠を投げると真珠を足で踏みにじり、投げた人に危害を加えるとイエスさまはお語りになっている。福音の価値がわからないどころではない、福音をけがれたものとみなし、福音を語る人をいたく傷つける、そういう人に構っている必要はない、とイエスさまはお語りになっている。これは、足のちりを払い落としなさいとおっしゃることにも通じる。  そういう場合には次の町に逃れなさい。つまり、福音を語る働き人のことを受け入れてくれる人たちのもとに行きなさい、ということ。人の子が来るときまで、すなわち、イエスさまが再びこの世界に来るときまで、あなたがたはイスラエルの町々を巡り終えることはできない、つまり、福音を完璧に宣べ伝えきることはできないとお語りになる。これは、そうだという事実、人の力は及ばないということを受け入れてあきらめなさい、ということではない。福音宣教とはそれだけ急を要するものである、ということ。このみことばは、自分の愛するあの人のもとに福音が宣べ伝えられ、それからイエスさまが来られますように、そのために私のことを用いてください、というチャレンジを私たちに与える。  私たちはその働きをすることにおいても守られる。サタンは、福音宣教のわざがなされ、人々がひとりでも救われていくことにならないように、さまざまな妨害を仕掛けてくる。  しかし、私たちは信じよう。主が福音宣教の働きのために私たちを召され、用いてくださる以上、主は私たちのことを、また、私たちが福音を証しすべき人たちのことを、サタンの魔の手から守ってくださり、この地に私たちをとおして、神の国を成し遂げてくださる。  私たちは何か恐れていることがあるだろうか? なにゆえに恐れているのだろうか? 何かを失うことだろうか? それを失うと何がいけないのだろうか? 逆に、私たちにとってほしいものは何だろうか? なぜそれがほしいのか? それを手にすることでどのような益があるのだろうか?  神さまは、もしみこころのゆえに失ってはならないものがあるならば、必ず保ってくださり、必要なものがあるなら与えてくださる。私たちは主の弟子であるゆえに、主がそのいのちに責任を取ってくださり、守られる。私たちを守ってくださる主に感謝しよう。