主の弟子は主にあってひとつ

聖書箇所;ヨハネの福音書17章20節~26節 メッセージ題目;主の弟子は主にあってひとつ  本日は主の晩餐を執り行う。これは私たちが大事にすべき教会のわざである。現在、東京は世田谷にある日本基督教団奥沢教会の牧師をしておられる洛雲海(ナグネ)先生という方、もともと日本人だが韓国が大好きで名前まで韓国式にし、一時期は韓国の神学大学院で教えておられた先生だが、神学生時代、たまたまこの先生とお会いして神学談議におつきあいすることになったとき、洛雲海先生は主の晩餐というものについて、こんなことをおっしゃった。「イエスさまのみからだと血潮を味わうんだよ! これがからだの中に溶けて入るんだよ! すごいことだと思わない!?」  それまで、そんなことを意識することもなかっただけに、洛雲海先生のこのおことばを聞いて以来、主の晩餐の味や香りを意識するようになった。言うまでもなく、主の晩餐は少量とはいえ、食べ物、飲み物である。それが血となり肉となって、私たちのからだを形づくる。その前段階として、私たちは味わう。イエスさまはこのようにして、ことばを聴いたり読んだりするだけでは体験しきれない恵みを味わう道を、私たちに備えてくださった。今日はそのことを意識して主の晩餐に臨もう。  主の晩餐は英語で「コミュニオン」という。これは、主にある交わり、コミュニケーションという意味でもある。したがって、主の晩餐とはキリストのからだなる教会の共同体としてのわざである。私はこの教会に赴任して以来、一貫して、教会の兄弟姉妹が「ひとつ」ということを強調してきた。しかし、ひとつのからだとして交わりを持つことはどんな教会においても簡単なことではない。むかしこの教会では、聖徒の交わりを持つためにどうすべきかという議論が大いに戦わされたと聞いている。みなさまのその祈りを込めた議論が、豊かな交わりを目指す今の教会の祝福につながっているならば感謝である。  主の晩餐は、そのように、主の民が、キリストの弟子たちが、キリストにあってひとつのからだである、共同体であることをともに味わい知り、見つめる、大事な教会のわざである。ということは、私たちが主の晩餐にあずかることにおいては、ともにひとつのお盆からパンと杯を取り、ともに味わうことに意味があるといえよう。  そこで、主にあって私たちがひとつとはどういうことか、今日、受難日を目前にした私たちは考えてみたい。実は、私たちがひとつになることは、イエスさまにとってのもっとも強い願いであった。本日お読みしたヨハネの福音書17章のみことばは、十二弟子を前にしたイエスさまの最後の、御父に向けたお祈りの箇所である。イエスさまは何を切に祈っていらっしゃるのだろうか? それは、ご自身が御父とひとつであられるように、主の弟子たちがひとつになることである。  主の弟子たちはたった今、イエスさまが自ら裂かれたパン、分けられたぶどう酒をともに口にして、イエスさまとひとつであることを体験した。イエスさまは主の晩餐というこの厳かな食卓を、ずっと守りつづけるように弟子たちにお命じになった。それは、弟子たちが主にあってひとつだからである。  今日は特に20節以下に集中してまいりたい。この人々とはもちろん、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子である。しかしイエスさまは、彼らだけではなく、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」御父にお祈りをささげていらっしゃる。  彼らとは弟子、言い換えれば、イエスさまに遣わされた使徒である。人は使徒たちの語ることばを聞いてイエスさまを信じ受け入れる。そのことばは教会を通じ、聖書のみことばによって代々伝えられ、こんにちに至っている。そして、私たちもまた、「彼らのことばによってイエスさまを信じる人々」とならせていただいたのであり、ということは、イエスさまは何と2000年前のユダヤで、2000年後の日本の茨城にいる私たちのために祈ってくださっていたのであった。これは驚くべきことではないだろうか? イエスさまは私たちにとって決して遠いお方ではない。2000年前のあのとき、イエスさまはここにいて、主の晩餐を囲む私たちのことを覚えていてくださったのであった。  では、なぜ、私たちはひとつにならなければならないのだろうか? それは、主イエスさまがそのように切に願われたからだが、では、イエスさまはなぜそのように願われたのだろうか? それは21節のみことばにあるとおりである。……ここでイエスさまは、3つの願いを語っていらっしゃる。まずイエスさまは、御父とご自身がひとつであるように、すべての人がひとつであることを願っていらっしゃる。そう、イエスさまは、人が争わず、対立せず、平和に暮らすことを願っていらっしゃる。主イエスさまがそう願われる以上、主の子どもたち、キリストの弟子たちに対立や分裂はふさわしくない。争いやさばき合いがあってはならないのである。自分の正しさを盾にいともたやすく他者をさばく、さばき合う、そんな姿をイエスさまはどれほど悲しんでいらっしゃるだろうか?  もちろん、ひとつになるのは難しい。私たちはみな、生まれも育ちも性格もちがうからである。しかし、そんな私たちにも主は道を備えてくださった。それが第二の願い、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」である。私たちは同じイエスさま、父なる神さま、聖霊さまにあってひとつになれるのである。考えてみていただきたい。私たちの群れからキリストを取ったら、いったい何が残るだろうか? しかし私たちはキリストという「わたしはある」お方によって、あってあるもの、存在そのものにしていただいた。  そう、それはまた、私たちが三位一体の神さまとの交わりから外されたら、そこには永遠の滅びしかない、ということでもある。神のいのち、永遠のいのちの中に保たれない人を、聖徒とかクリスチャンとか呼んではいけない。だから人は、なんとしてでもイエスさまから離れてはならないのであるが、もしかしたら自分は弱いから離れてしまうかも、と思うような方は、安心していただきたい。イエスさまは、そのような人が神のいのちの交わりから離れてしまうことがないように、御父にとりなして祈ってくださっている。イエスさまの祈りに信頼しよう。  そして、聖徒がひとつであること、聖徒と主がひとつであることは、なぜ必要か? それは、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるため」であるとイエスさまはお語りになる。主とひとつとされた教会という共同体が、唯一なる神さまがお遣わしになった方はイエス・キリストであると語るのである。それ以外の何ものも、イエスさまのことは語れない。  イエスさまがこのように祈られたとき、イエスさまに迫害の魔の手を伸ばしていた者は、なんと、神はおひとりであると、しかも聖書をもとに信じ告白していた宗教指導者たちであった。彼らは御父を認め、信じ従っていることにはだれよりも誇りと確信を持っていた。しかし、ほんとうのところ、御子イエスさまを認めない以上、彼らは御父を信じているとはいえなかった。唯一の神を信じることと御父を信じることはイコールではない。ヤコブの手紙2章19節には、「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」とある。私たちの信じているのは単なる神さまではなく、「神のひとり子イエス・キリストの父なる神さま」である。これを告白しないものはどんなに唯一の神さまを信じていると主張しようとも、異端であり、別の宗教である。  人は、道であり、真理であり、いのちであるイエスさまをとおしてでなければ、御父のもとに行くことはできない。悪魔と悪霊どもはそれを知っているので、唯一神ということに人をこだわらせ、イエス・キリストを決して見せないように誘導する。そのように、イエスさまに対して堅く目が閉ざされている世に対し、まことの神への道、すなわちイエスさまを語るのが、神とひとつ、互いにひとつとされた、教会のわざである。イエスさまが託されたこのわざを担うために、教会と聖徒は神との交わりがおろそかになったり、互いに対立したりさばきあったりしてはならないわけである。  さらにイエスさまは、主の弟子なる教会に何をお与えになるだろうか? 22節。御父がイエスさまに与えてくださった栄光を教会に与えてくださる。イエスさまは十字架にかかられる前に、すでに、十字架の果ての復活、そして天の御国での栄光のお姿、さばき主としての再臨、御国の永遠の王としての栄光を受けておられた。  この、イエスさまのみがお受けになることのできる栄光を、主は教会に与えてくださる。教会とはそれほど栄光ある共同体である。私たちはそのひと枝であり、教会という共同体においてキリストにつながっている以上、私たちも終末にいたる栄光をすでに受け取っているのである。しかし、私たちは自分たちの姿を見るとふさわしくないと思えてならないだろう。こんなにもきたない、こんなにもみすぼらしい。そのくせ、お互いを見ると、自分の目に梁があることも忘れて人の目のちりが見えてならない。  しかし、私たちが見るのは自分自身やお互いの足りなさではない。それを丸ごと赦し、私たちを完全に贖ってくださったイエスさまの十字架である。この栄光に私たちはあずからせていただいている。それは、イエスさまが私たちのために十字架で苦しまれたように、私たちもイエスさまのために、そしてイエスさまのからだなる教会のために苦しむ栄光が与えられている。これが栄光といえるのは、私たちがイエスさまのゆえに苦しむならば、その末にイエスさまの復活と御国の栄光にあずかるからである。  23節。ここでイエスさまは私たちと神さまとの関係において、大事なことを語っておられる。私たちがイエスさまを宣べ伝えるその前提は、御父がイエスさまを愛しておられるその愛で、私たちのことを愛されている、ということである。私たちはそれほどの愛を受けている。具体的には、御子イエスさまがいのちを捨ててくださるほどに、私たちは愛されている、ということである。  このように、キリストを信じてキリストのからだのひと枝になるならば、神さまにことのほか愛される存在になることを証しするのが、教会のわざである伝道である。伝えるものは福音、人をまことのいのちに至らせる唯一の道である。それだけに、どれほど私たちの愛は隣人によい証しとならなければならないことだろうか。福音提示も独善的になっては神の愛も何もなく、そのようになってしまっている人はほんとうにふさわしい形で神の愛を味わっているか、よく考える必要がある。  24節。イエスさまは栄光をもっていついかなるときも、どこにでもおられる。私たちはこのお方がどこにいても、どんなときも、ともにおられることを認めているだろうか? 普段の振る舞いはどうだろうか? 栄光のイエスさまがともにおられると意識しないで振る舞うことがあまりにも多くないだろうか? イエスさまの気持ちを考えよう。  25節。この時代のユダヤの宗教社会さえ、イエスさまのことを知っているとはいえなかった。つまり、イエスさまによって御父に至るということを信じていなかった。それが罪人として当たり前のことだったが、イエスさまに選ばれて弟子に取っていただいた者たちは、イエスさまを知る光栄にあずかった。すなわち、イエスさまをとおして御父をほんとうの意味で信じ、永遠のいのちに至る光栄にあずかった。この、もったいないばかりの恵みをいただいているのが、私たち教会である。  最後に26節。私たちにはイエスさまの御名が与えられている、イエスさまの御名によって御父に願うなら、みこころにかなうものをなんでも与えていただける。それほどまでに私たちは、イエスさまにあって御父に愛されている。この愛を受け取っている私たちは、御父に愛されている証しを、イエスさまの御名によって大胆に御父に祈る祈りをもって果たしていく。  御父とイエスさまがひとつであられるように、イエスさまと私たちはひとつ、そして私たちはひとつ、それを今日、主の晩餐においてともに体験し、ますます愛し合う共同体として成長してまいりたい。