神の知恵を求めなさい

聖書箇所;ヤコブの手紙1章5節~8節 メッセージ題目;神の知恵を求めなさい  このところ私たちは、リビングライフで列王記第一をとおしてソロモン王のことを学んできた。ソロモン王がどんなに知恵に満ちていたか、あの、赤ん坊を巡っての遊女の争いをさばいたエピソードや、大小さまざまな植物や動物についても知り尽くしていたという記述からもわかるような、一国の王という立場に納まらない見識、また博識ぶりは、神さまがソロモンにそれだけの知恵を与えてくださったからである。  神の知恵、といえば、私はかつて、知恵さん、という名前の教職者とともに同じ教会で働いたことがある。クリスチャンホームに生まれ育った彼女の名前の由来は、「神を知る恵み」ということだった。私は彼女の父上にもお会いしたことがあるが、実に素晴らしい信仰をお持ちの方で、神を知ることは実に神の恵みである、その神を知る恵みをいただくことが人間にとってどんなに大事なことか、という父上の信仰がその名前に込められているようである。  あまりよくないことばの用い方では、知恵をつける、という表現がある。家族や親戚や小さなお店の店員のような人間関係のごく近いどうし、立場の弱い者が法律などの正当な知識を用いて立場の強い者の理不尽さに対して攻撃したり、抗議したり、距離を置いたりするとき、やられた側は、「いったいどこで知恵つけてきたんだろう」とぼやいたりする。本来、愚かであってくれるほうが都合がいいものを、よくも賢くなりやがって、なまいきな、と思うわけである。  そういうわけで、知恵をつける、とは、実に上から目線の嫌味な言い方であるが、そういう言い方を聞くと、知恵を持つことは何かいけないこと、後ろめたいことのように思えてくるかもしれない。しかし、私たちが押さえておくべきことは「何のための知恵か」ということである。  決して自分が人を出し抜くためではなく、神さまの栄光のために神さまの知恵を用いること、これが、私たちが「知恵」というものを肯定的に理解する上での大前提である。同じ日本のキリスト教会の牧師として口にするのも嫌な不祥事だが、一時期、日本のごくごく一部のキリスト教会が、ふさわしくない牧師の独裁によってカルト化して、日本のキリスト教会全体の大問題になった。そのとき、パワハラにあっていたクリスチャンたちは法的手段に訴えたが、そのことは、聖書に基づいてふさわしく「知恵」を用いたからであり、何ら責められることではない。  そういう、知恵。私たちは第一列王記とともに、そのソロモンが大部分を記している「箴言」もこのところ通読してきたが、箴言は何とも知恵に満ちていて、読めば読むほど賢くなれそうである。もとへ、なれる。神さまがソロモンに与えてくださった知恵を、こうして箴言のみことばという形で分かち合っていただけるのだから、私たちは幸せである。  長い前置きになったが、今日の本文は「知恵をもとめること」を語っている。まずは5節。……知恵が欠けているなら知恵を神さまに求めなさい、ということだが、そもそも人は、どうしたら自分が知恵が欠けていることを意識し、それゆえに知恵を求めるべきだと考えるのだろうか?  やはりここは知恵の宝庫、箴言のみことばを見てみよう。まず、箴言3章7節。自分を知恵のある者と思わないことが必要。たとえ、人からリーダーとか先生とか言われて尊敬されている人であっても、自分は知恵がない、愚かだと心から思っていること。それだけ、神と人の前にへりくだることが大事である。同じく箴言の26章12節もご覧いただきたい。愚かなら賢くなろう、成長しようと考える。しかし、自分は充分に知恵を持っている、学ぶ必要はないと考えるなら、もはやその人には成長は望めない。同じく26章の16節は、そのような成長するための努力をまるでしない怠け者は、七人の賢者よりも自分のほうが知恵があると思っていると語る。手の施しようがない。  だから、自分はまだまだ未熟者だ、学ばなければならないと考える人は見込みがある。私もこれまで、自分も子どもだったし、また現に子育てもしているくらいで、数えきれないほどの子どもを見てきたが、親や先生といった大人がいかに「勉強しなさい」とがみがみ言ったところで、自分の知恵の足りなさを痛感して勉強が必要だとならないかぎり、子どもは勉強しない。もちろん、それは大人も同じことで、自分の足りなさを悟って必要に迫られ、はじめて勉強する気になる。しかし、本を読むにも視力も落ち、記憶力も落ち、だいいち忙しすぎるという現実をいやでも悟らされて、愕然とするわけである。ああ、若い頃から勉強しておけばよかった! なんて。  そういうわけで知恵を得ることは難しい。しかし、みことばはここに素晴らしい方法を示している。それは、神さまに求めなさい、ということである。神さまはだれにでも知恵をくださる。神さまはいくらでも知恵をくださる。求めるならば必ず知恵をくださる。何とすばらしいことではないか。  しかし、私たちはそうと知っても賢くなれないことがとても多い。それはなぜなのかもみことばは語る。6節を読もう。……神さまから知恵をいただける条件は、少しも疑わないで、信じて願うことである。まず、信じて願う、のほうから見てみたいが、願うということは、時に時間をかけることも覚悟しなければならない。現代はインスタント、コンビニ、インターネット……何でもあっという間に手にできる時代だけに、「待つ」ことの意味を忘れてしまいがちだが、ほんとうに欲しいものを手にするためには、待つこともできるはずである。  子育てをするとき、幼いその姿についてんてこ舞いしてしまうが、私たちは心のどこかで、その子がやがて大きく立派になる姿をビジョンとして持っているのではないだろうか? だから、それまでに何年かかったとしても、私たちは忍耐できる。それと同じことで、私たちに知恵が必ず与えられると信じるならば、その知恵が手に入るためにどんなに苦しい勉強をしなければならなくても、かならず充分な知恵を授けていただけると信じて、どこまでも祈って求めていけるはずである。  そう、ここで求められるのは、祈りつづけられるだけの信仰を働かせられるか否かである。6節の「疑う人」のたとえを見ていただきたい。どこかで見たことのある表現ではないだろうか? そう、これは、湖の上を歩くイエスさまを見て、ペテロがイエスさまの招きに従ったときの、あのみことば。ペテロはイエスさまの「来なさい」ということばに従って湖の上に足を踏み出し、イエスさまのほうに向かっていったとき、なんと水面を歩けた。しかし、ペテロは湖の波を見たとたん、おぼれてしまった。ペテロが見るべきはイエスさまおひとりであるべきだった。イエスさまを見ないならば、おぼれてしまう。  「どうせ自分なんて頭が悪いから」、「どうせ自分なんて信仰が弱いから」、こんなふうに自分のことを考えてしまっているとき、その人の目に果たしてイエスさまが見えているだろうか? そのような不信仰な人、神さまを信じているといってもそれは口先だけで実際は信じていないような人には、神の知恵はふさわしくない。そういう、中途半端な者には、神さまは知恵をお授けにならない。  「自分は必ずできる」、「やればできる」、「信じる」、そういう人は、簡単にはへこたれない。祈りつづけることができるし、その祈りに裏打ちされた、知恵を得るためのあらゆる努力を惜しまずにすることができる。神の知恵はそういう人にこそふさわしく、必ず与えてくださる。  7節、8節をお読みしよう。疑う人は、主から何かをいただけると思ってはならない。知恵の初めに知恵を買え、あなたが得たものすべてに換えて悟りを買え、と箴言4章7節のみことばは語る。それほど知恵とは何が何でも求めるべきものだということであり、逆に言えば、神の知恵さえ充分に与えられていれば、人間関係であれ、環境であれ、お金を含めた持ち物であれ、神さまが私たちに必要として与えられるものはすべてそろうのである。  しかし、神さまに対して疑いの思いを持っているようでは、知恵も何もいただけはしない。神さまに対して不信仰な者を、神さまはお用いになりようがないからである。その人のことを神さまがお用いになれないのは、その人は自分が用いられたいからと神の知恵を求めようともしない、怠け者だからである。求めない者には神さまは知恵も何もくださらない。  8節は、そういう人が二心の人だと説く。表面的に見るとご立派なことを言っていて、神さまを信じているように見える。しかし、ほんとうに彼が信じているのは、不確かでしかない自分自身である。主を心に迎えてはいるものの、心の王座に座っているのは自分という状態である。お祈りすると申し訳程度に神さまを心の王座にお迎えしたようなポーズは示すものの、ほんとうのところ、その人にとっての人生の主人はイエスさまではない。  そう、所詮は不確かな「自分」という存在が導く人生だから、心が定まっていないのは当たり前である。不信仰ということ、そして、知恵は必ず与えられると信じて求めることをしないことは、これほどまでに不確かな人生しか保証しない、ということである。  ちょっと、これからお読みになるリビングライフの第一列王記の内容を先取りしてしまうが、知恵を用いて国を治め、立派な神殿を建てて国民を礼拝者として整えたという点で、ソロモンは確かに素晴らしい王だった。それにふさわしい栄華も神さまはソロモンに与えてくださり、その栄華は主イエスさまもお認めになるほどだった。しかし、イエスさまはソロモンの栄華をお認めになってはいるが、ソロモンが知恵深かったと評価しておられるわけではない。やがてソロモンは政治において数々のしくじりをするようになった。いちばんいけないのは、政略結婚も含めてとんでもない数の女性と通じ、彼女たちが外国の神々を持ち込むままにさせ、イスラエルの霊的純潔をけがしたことである。神さまはソロモンに、充分な従順を果たせば齢を長くしてあげようと約束されたが、実際には60歳くらいまでしか生きなかった。これは、彼がそれだけ不従順だったことの何よりの証拠であり、神の摂理である。  そんなソロモンは知恵ある生き方をしたと言えただろうか? 晩年は、箴言というみことばを伝えた人物ととても同じには見えない。知恵を求め、知恵を用いたとは到底言えない、肉の思いに満ちた俗物となり下がっていた。まさしく聖書を代表する、晩節を汚した人物。  ソロモンにしてこうなのである。私たちはどうだろうか? ソロモンのこういう姿を私たちは反面教師としたい。ソロモンは父ダビデの従順により恵みを受けた存在にすぎなかったのに、王座に座って何十年も経つうちに、気がつけば勘違いもはなはだしかった。私たちもいまあるのは主の恵みゆえである。神の知恵を求めることは一生もの、いのち果てて御国に行くその日まで、私たちは日々お祈り、日々勉強あるのみである。  お祈りして、お伺いしてみよう。私たちはほんとうに愚かだと悟らされているだろうか? そんな私たちに、神さまはどんな知恵をお授けになろうとしているだろうか? 静まって、みこころを、そして知恵を求めよう。そして、これからも知恵を得るために励みつづける力をいただこう。