復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16章9節~20節 メッセージ題目;復活から派遣へ  今月、2人の娘の卒業式があった。一方は中学校、もう一方は小学校。卒業式というものは、単なる「卒業」を記念してお祝いするだけのものではない。進級先の学校という新たな環境に「派遣」される日でもあった。よその学校の校長先生から祝電が届いたりするのだが、いわく「みなさん、苦しんでください」なんて。保護者達にはその言わんとしたことは分かったと思うが、果たして生徒のみなさんにはちゃんと伝わったか。あまりに厳しすぎると思わなかったか。しかし、派遣されるとはそういうことなのだろう。  今日は喜びの日。イエスさまが復活されたことをお祝いする日。あらためて言おう。「主イエスは!」「よみがえられた!」イエスさまは十字架で死なれて終わりではない。復活されたのである。イエスさまは私たち人間のすべての罪を背負われて十字架に死なれた。しかし、イエスさまは死なれて3日目に復活された。イエスさまによって、私たち人間は永遠に罪と死に勝利した。私たちはイエスさまを信じるならば、永遠に罪と死に勝利し、すべての罪が赦され、永遠のいのちをいただくのである。  さて、冒頭で「派遣」の話をしたが、「派遣」はイエスさまの「復活」とひとつのセットになっている。それは今日のみことばをお読みいただければ一目瞭然である。弟子たちはイエスさまの復活を体験し、それから派遣されている。しかし、復活というものは、イエスさまからずっと聞かされていた一方で、弟子たちがそれとわかるように体験するには、少し時間を必要とした。  弟子たちは、イエスさまがよみがえったという、マグダラのマリアたちからの伝聞によって信じるしかなかった。別の福音書によれば、空っぽになったお墓という状況を証拠として信じ受け入れるしかなかった。それでも、イエスさまがよみがえるというおことばがそのとおりになったと信じられたならば、彼ら弟子たちは喜べたはずだった。ところが彼らは喜べなかったばかりか、悲しんで泣いていた。  そのあたりのことはのちほど詳しく見るとして、今日の箇所、9節のみことばから見てみよう。イエスさまはなぜ、マグダラのマリアにご自身を現されたのか? それは何といっても、ユダヤ人から何をされるかわからないという危険を顧みずにお墓に行った、その信仰にイエスさまが応えてくださったから、と言えよう。  もちろん、「救われる」ことに特別な条件は必要ない。特別な行動をとらなくても救っていただける。しかし、イエスさまに特別に近づいただけの恵みというものは頂けることを覚えておこう。ここでマグダラのマリアは、勇気をもってイエスさまのおられるところに近づいたら、イエスさまにまみえるという恵みをいただいた。私たちもイエスさまに近づいただけの恵みは受け取らせていただけるのである。  こうしてマリアは、弟子たちのいるところに知らせに行った。しかし、弟子たちはどうだっただろうか? 10節。弟子たちは嘆き悲しんで泣いていた。彼らからはイエスさまが3日目に復活するという信仰がすっぽり抜け落ちていた。彼らは、イエスさまが十字架の上でむごたらしい死に方をなさったそのお姿があまりにも鮮烈に目に焼きつき、もはや信仰を働かせるどころではなかった。  そんな彼らのところに、マリアは喜びの知らせを持っていった。しかし、彼らは信じられなかった。イエスさまが死なれた、それも十字架でむごたらしく死なれた、王として立ててくれるはずのユダヤの宗教社会にむごたらしく捨てられた、という現実の前に、彼らは打ちひしがれて悲しみに暮れていた。  現実。それはイエスさまの復活を見せなくするものである。あるミッションスクールの聖書の授業では、イエスさまの復活を信じてもいいし、信じなくてもいいと教えるという。ある教会の牧師夫人がその授業を受けたことがあると証言しているから、それは事実であろう。  彼女はそのことを、霊の先週のメッセージの冒頭でお話しした、主の晩餐のありがたさを説いた先生にお話しした。その先生は血相を変え、吐き捨てた。「あほか!」  キリスト教会が現実におもねって聖書を読むようでは、この時の弟子たちと同じである。もし、そのミッションスクールの学生が何かの理由で悲しみに打ちひしがれるようなことがあったら、いったいだれがその悲しみを解決してくれるのだろうか? キリストに復活がないならばこんなにむなしいことはない(Ⅰコリント15:14)。実にイエスさまの復活とは、キリスト信仰の中心も中心である。悪魔は隙あらば、現実のほうにこそ目を留めさせ、イエスさまの復活を見させなくし、主への信仰を奪い去る。この時の弟子たちも、イエスさまの復活が見えなくて、信仰が奪い去られた状態にあった。そうなると悲しみに圧倒されるしかない。  そこで12節。イエスさまは彼らのうち2人に現れてくださり、ご自身が復活されたことを証しされた。ただし、別の姿で現れてくださったとある。これはルカの福音書のみことばを見ると、彼ら弟子たちとともに行かれた方がイエスさまだとは気づかなかったという記述とも一致する。ルカの福音書を読むと、イエスさまがなさったことは、わたしだ、わたしはよみがえったじゃないか、とご自身をお示しになることではなかった。みことばを解き明かして、落ち込んで暗い顔になっていた彼らの心をイエスさまご自身へと向け、その心を燃やされることにあった。  イエスさまはなぜわざわざ、十字架におかかりになる前の、いわば「生前の」お姿で現れることをなさらなかったのか? 理由として考えられるのは、イエスさまが復活後、弟子のトマスにおっしゃったことば、「見ずに信じる者は幸いです」ということばから考えると、イエスさまの復活を信じるのはまず、イエスさまを見たから信じるのではなく、イエスさまのみことばがそのとおりになっていると、みことばに対する信仰ゆえに信じることが、どんな人にとっても大事であることをお示しになったから、ということが考えられる。  ここでも弟子たちは、はっきりイエスさまに出会ったことを証言する彼らのことばを信じていなかった。前にも言ったが、信仰とは「信じ仰ぎ見る」ということと同時に、「仰せを信じる」ということでもある。ことばが信じられないならば、イエスさまを信じること、すなわちイエスさまの復活を信じることは不可能である。たまに、夢なり幻なりでイエスさまに出会ってイエスさまを信じた、という話を聞くが、そういう人たちにしても、いざ信仰生活を送るとなると聖書のみことばに頼って生活することになるわけで、やはりみことばを聴いて信じることが信仰の大前提になることは変わらない。だれであれみことばを聴くことは必要なのである。  しかし14節。とうとうイエスさまは、そんな不信仰な彼らの前に現れてくださった。そして何をなさったか?「彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」とある。イエスさまの復活も信じられない不信仰、イエスさまの復活を受け入れられない頑なさは、イエスさまの弟子として最もふさわしくない姿勢であり、イエスさまに責められてしかるべきである。  しかし、イエスさまが弟子たちをお責めになるのは、もうお前たちは役立たずだ、わたしの働きなどとても任せられない、と切り捨てるためではない。むしろ、おいおい、おまえたちにはちゃんと教えたじゃないか、思い出せ、しっかりしなさい、と、本来の弟子としての立ち位置に戻してくださるためである。  私たちもイエスさまに用いられたいと願うだろう。しかし、頭ではそう願っていても、心の弱さ、信仰のなさで、イエスさまを信じ切れないことが多くあるのではないだろうか。しかし、そんな私たちだからと、イエスさまは私たちのことを切り捨てられたりはしない。むしろ私たちがちゃんとなれるように、いつでも励ましてくださる。  その励ましを受ける最善の道は、教会という、キリストのからだなる共同体から離れないことである。私たちは教会を離れてしまうと、イエスさまの弟子として歩むことはいかにもきつい。  ヘブル人への手紙3章13節によれば、頑なになるのは罪に惑わされるからだということであるが、そうならないために、日々互いに励まし合うことが命じられている。その励まし合いをする共同体が教会の交わりである。私たちは励まし合うことで、頑なになって罪に陥ることから守られる。  ともかくも、イエスさまはひとたび弟子たちをお責めになったが、それで終わりではない。不信仰と頑なという罪が取り扱われた弟子たちのことを、イエスさまは派遣されたのである。15節。この働きを受けた弟子たちは、自分たちが働いたのはもちろんのこと、バルナバ、そしてパウロと、そのあとに続く聖徒たちを訓練して宣教の働きを担わせ、その命脈は2000年にわたって全世界に広がり、いまここ、2024年の茨城にまで広がっている。  16節。信じる、ということと、バプテスマを受ける、ということはセットになっている。信仰を持つ人はバプテスマを受けることに躊躇してしまう、ということは、特にここ日本では往々にして起こる。しかし、このみことばに従順に従うならば、イエスさまを信じることはバプテスマを受けることとセットである。すなわち、バプテスマを受けることによって、ほんとうの意味でイエスさまを信じたと聖書的に認められることになる。  一方で、信じないならば罪に定められる。それは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とイエスさまがおっしゃっている以上、そうなのである。イエスさまを信じないならば、聖い御父から離れますと宣言していることになり、そういう人にはその選択にしたがって、さばきが下される。この選択の責任は自分が取らなければならないのである。  さて、17節と18節を見ると、信じる人はすごい体験をする。ここに書かれているような人になれるなんて、イエスさまを信じるとはなんとすごいことだろうか。ただし、前提として押さえておくべきことは、「イエスさまを信じる」人は即、「イエスさまを宣べ伝える」人になる、ということである。「イエスさまを信じさえすれば(主の弟子なり働き人にならなくても)このようなスーパーマンになる」ということではないのでご注意を。  具体的にひとつひとつ見てみよう。「わたしの名によって悪霊を追い出し」、私たちは悪霊を追い出す、すなわち、祈りをもってみことばを宣べ伝えることによって、悪霊の支配する領域(個人なり、家庭なり、地域なり)から悪霊を追い出し、主の支配される領域へと変えることができるようになる。  「新しいことばで語り」、ストレートに言うと、いったいどこのことばだろうかと思えるようなことばが口から飛び出してくる「異言」という霊的な働きのようでもある。しかし、本来「使徒の働き」で語られた最初の異言は、神の大きなみわざを、はっきりそれとわかるほうぼうの外国語で語ることばであり、そう考えると、「外国、他民族のことばが語れるように主が道を開かれる」とも言える。実際、大学で外国語を専攻した立場から言わせていただければ、外国語を読み書きするのは、ある意味「賜物」を必要とする領域である。その賜物が与えられて、世界宣教に大いに用いられるようになる、という意味のことをイエスさまがおっしゃったといえよう。  もちろん、私はこの箇所を、いわゆる「異言」のことを指しているという解釈を排除しているわけではない。むしろ、異言を語る人は確かに新しいことばを語っているわけだから、このみことばは当てはまっている。教派的にペンテコステ派やカリスマ派ではないから異言を語るのはふさわしくない、ということはない。私は韓国の教会に長年身を置いたが、早天祈祷ともなると、私の感覚ではほとんどの人が聞き取れる韓国語ではなく、異言を語っている。私がいたのは長老派やバプテストだったので、いわゆる「聖霊派」ではなかったが、異言は堂々と語られていたわけである。  もちろん、秩序は必要だからむやみやたら、のべつ幕なしに異言を語ったりするのは、第一コリント14章のみことばに照らしてふさわしいとはいえないが、同じ第一コリント14章は同時に「異言を語ることを禁じてはいけない」とも語っている。異言が語れる人は大いに語り、霊的な恵みを存分に味わっていただきたい。  「その手で蛇をつかみ」、この箇所は、毒まむしに噛みつかれてもそれを火の中に振り落とし、なんともなかったパウロを連想するが、パウロがそのように蛇を操り、その結果、地元の人から神さま扱いされるほど絶大な尊敬と信頼を得られるようになったように、蛇に象徴される悪魔と悪霊どもを制するだけの霊的権威を授けていただける、ということである。私たちは自分が思っている以上にはるかにすごい霊的権威が与えられている。祈ることによって行使できる。行使しなければもったいないではないか。  「たとえ毒を飲んでも決して害を受けず」、これは、なら、毒を飲んでみなさい、害を受けないから、ということではない。それは神を試みる愚かな行為である。ただし、自分から毒をあおる場合ではなく、毒を盛られた場合はどうか。ある宣教師の先生が、東南アジアのある国の、福音宣教を受け入れない地域で毒を盛られたというお話を、その先生の教え子の方から聞いたことがある。その先生は90歳を超えた今も元気に働きを続けておられるが、もし毒を盛られたという話がほんとうだとすると、このみことばはまことだったことになる。  ただ、聖書が「毒」というものをどう扱っているかを見てみると、単にからだに有害な物質を飲んでも大丈夫、ということに限定されないことがわかってくる。ヤコブの手紙3章8節、ローマ人への手紙3章13節を読むと、人のことばが毒となることがわかる。私たちはゆえなく誹謗中傷、罵詈雑言を浴びる。普通ならばそのようなことばを聞いたら傷つき、容易には立ち直れない。しかし、神さまとの交わりを保つならば、そのようなことばの毒を「解毒」するように、私たちがいちいちそのような激しいことばに傷つかないようにしてくださる。そういう点で「毒を飲んでも害を受けない」者にしていただいていることは、私たち主の弟子たちの強みである。  そして、病人に手を置けば癒される。イエスさまはこの癒しのみわざをもって、神の国を拡大された。同じことを私たちも行えるのである。私たちの教会は医療宣教で始まり、今も多くの信徒の方が医療に携わっている。人をいやす働きに特化した教会であり、また、私たちの教会における祈りによって、実際癒される方がいらっしゃる。みなさま、実際にこの教会はいやしのわざが行われているではないか! 病の絶望が、いのちの喜びに変えられているではないか!  最後に19節、20節。イエスさまは天において栄光をお受けになった。しかし、同時にイエスさまは私たちのために祈ってくださっている。また、イエスさまは、天におられると同時に、私たち主の弟子のいるところどこにおいてもともにおられる。私たちが祈るならば、イエスさまは応えてくださる。私たち主の弟子を、宣教のために用いてくださる。  私たちは不信仰ならば主に叱られる。しかし主は復活の恵みをもって、私たちを遣わし、主の復活を証しする証し人として力づけ、用いてくださる。復活は私たちの、弟子としての歩みと密接な関係を持っている。主のために労する私たちも、やがてこの地上のいのち果てたら、その先には復活、イエスさまとともに過ごす永遠のいのちが待っている。  今日は特に、イエスさまの復活を喜ぼう。イエスさまの復活を信じる信仰が与えられていることに感謝しよう。復活の主が私たちを派遣してくださっていることに感謝しよう。