神は生きている者の神

聖書箇所;マルコの福音書12章18節~27節 メッセージ題目;「神は生きている者の神」 私たちがクリスチャンであると公にして生きると、いろいろ煩わしいことに巻き込もうとする人がいます。なかでも、私たちがちゃんと説明したところで神さまを信じるつもりもないのに、私たちにとって答えにくい質問を吹っかけて悦に入るタイプの人など、その典型でしょう。私も学生時代から、自分がクリスチャンであることを周りに明らかにして生きてきましたので、興味本位の質問や議論を吹っかけられることがたまにありました。みなさまにもそんな経験はありませんでしょうか? ただ、そういう議論をクリスチャンではない人がしてくるなら、それでも福音を宣べ伝える機会にはなるので、意味がないとは言えないでしょう。問題は、聖書に啓示されている神さまを信じていると言いながら、私たちのことを意味のない議論に持ち込もうとする人たちです。いったい、彼らは何を思ってそんなことを言ってくるのでしょうか? 私たちのことを論破したつもりになって、そんなに楽しいのでしょうか? 今日の本文を見ますと、そのようなタイプの議論家がイエスさまに議論を吹っかける場面となっています。出てくるのは、おなじみのパリサイ人ではなく、サドカイ人です。サドカイ人、サドカイ派は、エルサレム神殿を中心とした祭司の家系に属する裕福な上流階級で、民衆の宗教的指導者として、パリサイ派の宗教指導者、パリサイ人と、政治や宗教をめぐる主導権争いをしました。 彼らの特徴として、モーセ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に最終的権威を置いていました。彼らは復活や死後のいのちというものを認めませんでしたが、それは、彼らにとっての聖典というべきモーセ五書に、それらのことが明記されていなかったからと推測されます。また、彼らは政治指導者としての側面も持っていましたが、だからというべきか、彼らは現実主義者で、世俗には関心を持っても、真の霊的な関心というものを彼らは持っていませんでした。 その前提で今日の箇所を読んでいただければ、サドカイ人がなぜこのような議論を吹っかけ、それに対してイエスさまがこのようなお答えをなさったかがわかります。のちほど順を追って説明しますので、まずは本文を見てみましょう。 18節、サドカイ人が来ました。ここで「復活はないと言っている」と、但し書きがついています。イエスさまはおっしゃいました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」まことのいのち、よみがえりそのものでいらっしゃるイエスさまに議論を吹っかけるのですから、彼らのたくらみは無謀と言えるものです。 イエスさまを指し示した働き人であるバプテスマのヨハネは、パリサイ人とサドカイ人をまとめて、「まむしのすえども」と糾弾しています。おまえたちは宗教家のなりをした悪魔の子だ、というわけです。聖書を読んでも、彼らがバプテスマのヨハネの糾弾のことばを聞いて、悔い改めた形跡はありません。すなわち、パリサイ人がイエスさまに敵対していたように、サドカイ人もまた、神の子であるイエスさまを受け入れることろには到底達していませんでした。だから彼らは真理を求めてイエスさまに質問したのではありません。言いがかりをつけてイエスさまを罠にかけ、あわよくば失脚させようとたくらんだわけです。この点、対立する相手のパリサイ人と同じことをしていたことになります。 彼らがそういうことを念頭に置いていたという前提で、あらためて19節から23節を読みましょう。 まず、19節のみことば、これは申命記25章5節に書かれているみことばがもとになっていて、「レビラート婚」という、律法に定められた結婚形態の根拠となっています。これそのものはもちろん、みこころにかなっていることであり、亡くなったイスラエルの民の名を記憶させる、また、その財産を一族で守るという意義があります。ルツ記に登場する、ルツをめとったボアズは、この「レビラート婚」の原則にしたがって行動し、ルツとの結婚を果たしました。あとでおうちに帰られたら、ぜひ「ルツ記」をお読みください。短い1章ずつの全部で4章の、とても短くて美しいみことばです。 その「レビラート婚」の原則はモーセ五書である申命記にあるわけで、サドカイ人の信仰の根拠、というより宗教的判断の根拠となっているのももっともですが、問題はその次です。長男夫婦に子どもがないまま、長男が死んだ。その長男には弟が6人いて、次男が長男を継いでその妻と結婚、しかし次男が死んだ、そこで三男が継いで結婚、でも死んだ、そこで四男が継いで結婚、でも死んだ、そこで五男が継いで結婚、でも死んだ、そこで六男が継いで結婚、でも死んだ、そこで七男が継いで結婚、でも死んだ、そして妻も死んだ。 このように言うと、サドカイ人がどれほどめちゃくちゃ、ナンセンスなことを言っているかわかると思います。これは、レビラート婚はそれほど大事なものだからしっかり守るべきである、という前提で話しているというよりも、何が何でもイエスさまの粗探しをしてやる気満々で、こんなことを言っていると見るべきでしょう。 しかし、そうは言いましても、可能性としては限りなくゼロに近いですが、完全なゼロとは言い切れません。そういう可能性もありますよ、さあ、あなたならどうお答えになるのですか、これはほかならぬ、みことばの語っていることなのですよ、と迫っているわけです。 しかし、彼らサドカイ人がこのような例話を用いた意図が、23節ではっきりします。彼らは復活を信じない前提でこのようなことを言っているわけですが、彼らはこう言いたいわけです。もし復活というものがあったら、婚姻関係はめちゃめちゃになるでしょうが……。したがって、復活というものはありません。先生、あなたは嘘つきです。そういうふうに、彼らはイエスさまに喧嘩を売っているわけです。 私たちにとっても、しばしば答えにくい問いというものがあります。特に、聖書の一か所を取り上げて、聖書のほかの箇所と照らし合わせると矛盾ではないですか、さあ、どう考えますか、というたぐいのものです。これは、聖書を誤りなき神のみことばと信じ告白する私たちからすると、一生ついて回る課題です。逃げたくなるでしょうか。そんな問いをする人に対して逆切れでもして、うるさい! と一喝するでしょうか。 しかし、イエスさまはそのどちらでもありませんでした。このような者たちに対しても、懇切丁寧にお話しになりました。まず、イエスさまは、あなたがたサドカイ人は聖書という神のみことばも神の力も知らない、とおっしゃいました。ゆえに、あなたがたは思い違いをしている、ということです。 およそ神に属する者にとっては、聖書という神のみことばに根差し、聖霊なる神の御力を祈りのうちにつねに体験することは必須のことであり、生命線です。いわんや彼らは祭司の一門に属する立場にあります。みことばを知ることもせず、神の力を体験することもしないで、ユダヤの宗教指導者として君臨するなど、あってはならないことでした。まさにヨハネが「まむしのすえども」と糾弾した時から、彼らは変わっていなかったのでした。宗教家のなりをした俗物でした。 しかし、人の振り見て我が振り直せ、です。私たちはみことばと祈りにおいて神と交わり、人々の前に神を証しし、聖徒の交わりをする者として、広い意味で祭司です。まさに、第一ペテロ2章9節に「あなたがたは王である祭司」と書いてあるとおり、また、宗教改革者ルターが私たちすべての聖徒を指して「万人祭司」と主張したとおりです。私たちがその祭司としての役割を果たすには、毎日みことばをお聞きし、毎日祈ることで神さまと交わることは必須です。こうしないと、私たちは思い違いをすることになります。 思い違い。それは、みことばと御霊の啓示から外れることで、私たちが「信じたい」方向に動かされてしまうことから生じることです。私たちの教会が毎週「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、それは先人たちが緻密に聖書を研究した結果のエッセンスであり、そこから外れては教会があらゆる点で不健全になるからです。信仰告白、教義、神学、ほんとうに必要です。それを外れるならば、それはもはやキリスト教と呼ぶことはできません。 イエスさまはなんとお語りになっているのでしょうか? 25節です。そうです。婚姻というものは、第一に「産めよ、増えよ、地を満たせ」というご命令を人間が遂行するために、男性と女性で結び合わさって成り立つ制度です。しかし、御国においては、もはや出産ということはありえず、したがって出産の大前提になる「結婚」ということもありえません。この神さまのみこころは、永遠のいのちというものをこの世的な発想でしか理解できないサドカイ人には、到底理解できないものでした。 そして、イエスさまはさらに、彼らが後生大事にしているモーセ五書から、実は神さまが復活ということをお語りになっていることを明らかにされます。26節です。これは、出エジプト記で、荒野で羊を飼っていたモーセの目の前に、火で燃えているのに燃え尽きない不思議な柴の中から、神さまがモーセにお語りになった、という箇所であり、モーセ五書をなによりも大切にしているサドカイ人にとっては、原点そのものというべきみことばです。イエスさまは彼らサドカイ人に「読んだことがないのですか」とおっしゃっていますが、当然彼らは読んでいます。しかし、その意味するところを、彼らは悟っていませんでした。彼らはイエスさまのおっしゃるとおり、たいへんな思い違いをしていたわけです。 しかし、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と主がおっしゃったことが、なぜイエスさまのおっしゃるように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」ということになるのでしょうか? 不思議に思いませんか? まともな答えになっているのでしょうか? それが、これこそ正解中の正解なのです。それは、こういうことです。神さまがアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ということは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブの三代と契約を結ばれたということであり、その契約はその子孫であるイスラエルに不変である、ということです。 彼らは確かに、地上での生涯は終えていました。墓もあります。しかし、そのはるかのちの時代にモーセが神の御声をお聴きした、それも「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神さまご自身の自己紹介をこめて、これは、アブラハムもイサクもヤコブもなお生きていることが前提です。というのは、契約は当事者が死んでしまったら無効になるからです。しかし、この契約はいまなお生きていて、サドカイ人も含むイスラエル人、ユダヤ人も、契約の民としてみことばに生きる特権にあずかっています。だからこそ彼らサドカイ人はみことばを根拠に、レビラート婚の原則を受け入れて生活していたわけです。 となりますと、この契約がサドカイ人を含めて今なお有効ということは、2つのことを示しています。すなわち、契約を結ばれた当事者である神さまは変わることのないお方であること、そしてもうひとつ、もう一方の契約を結んだ当事者であるアブラハム、イサク、ヤコブはこの地上にはいなくても、それは彼らの肉体が朽ちたというだけのことで、彼らは霊においてなお生きている、そして、やがて復活して、主と結ばれた契約は最終的に成就する、ということです。 というわけで、サドカイ人がユダヤ人としてモーセ五書を大事にしているのならば、いかに律法のみことばに書かれていなかろうとも、彼らは復活、永遠のいのちということを受け入れていてしかるべきでした。それを受け入れられない彼らは聖書もわからず、神の力も体験できないので、不幸としか言いようのない存在でした。 しかし、この永遠の復活ということは、実際に見たことのない人には理解を絶するものでした。見えるものがすべての俗物だったサドカイ人などまさにそうです。しかし、見ずに信じる者になり切れない点で、私たちもまたサドカイ人と五十歩百歩の存在ではないでしょうか。イエスさまはそんな罪人である私たち、神を見ず、神を認めない罪人の私たちのために、十字架におかかりになり、その死をもって私たちを罪から贖い、救ってくださいました。 そして、イエスさまは復活してくださいました。当時のユダヤ人たちはこの論より証拠の復活を見て、イエスさまを信じました。 まことに、復活は神の力です。また、モーセ五書に始まるみことば全体の成就です。イエスさまの復活にあずかって、私たちも復活します。アブラハム、イサク、ヤコブも復活するのは、イエスさまによって成就した神の契約のゆえです。マタイの福音書8章11節をご覧ください。時が来て私たちは、異邦人の身分であったのにイエスさまを信じる信仰のゆえに神の民に接ぎ木された身分で、アブラハム、イサク、ヤコブととともに、天の御国の交わりに加えられます。イエスさまを信じなかった者は、たとえ血筋では彼らを先祖としているようでも、イエスさまの復活を受け入れているゆえに彼らの復活を受け入れているわけではないので、復活のいのちから除外されます。12節にあるとおりです。このときのサドカイ人は悔い改めないかぎり、マタイ8章12節のさばきが臨む立場にありました。 私たちがイエスさまを信じるということは、復活と永遠のいのちにあずかっているということです。地上の幕屋なる肉体が朽ちても、永遠のいのちが与えられ、やがて朽ちない永遠の、御霊に属する栄光のからだによみがえらされます。 私たちはこの地上に目を留めると、がっかりさせられることばかりかもしれません。しかし、そんなときこそ、わたしはよみがえりです、いのちです、わたしを信じる者は死んでも生きるのです、と言ってくださった、イエスさまの御顔を仰ぎ、力をいただく必要があります。 先週も学びました。主を仰ぎ見る者は輝くのです。私たちはこの世の過ぎ去るものに捕らえられていては輝けません。ただ、主との交わりの中で、永遠のいのち、栄光のいのちがあたえられていることを信じ受け入れつづけることによって、私たちは変わることなく輝くことができるのです。 私たちを輝かせてくださるお方は、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。アブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約は、信仰をもって神さまを受け入れた私たちには変わることなく有効で、私たちは信仰ゆえに神の子としていただきました。それゆえ、私たちはこの世においても神さまの助けをいただいて、雄々しく、勝利の人生を歩んでまいりましょう。復活のイエスさまはともにいてくださいます。

聖書の語る「輝く」ということ

聖書本文;マタイの福音書5章16節 メッセージ題目;聖書の語る「輝く」ということ 毎週、礼拝が始まるにあたり、私たちは「導入賛美」というものを歌います。いろいろな歌を歌いますが、多くは「ワーシップ」と呼ばれるたぐいの、現代的な音楽です。歌詞も多岐にわたっていますが、その中にはときに、「輝く」ことを訴えている賛美があります。「輝け主の栄光地の上に」ですとか「さあ輝け闇を照らせ夜が明けるまで」ですとか「輝かせよあなたがたの光を」ですとか。そういうわけで、私たちにとって「輝く」ことは大事です。 今年の年間テーマは「主を仰ぎ見て輝く」です。輝くことは主のみこころと、みことばからお受け取りしてそのようにつけさせていただきました。しかし、「輝く」ということは、なぜ主のみこころなのだろうか? 今週のメッセージは、そのふと生まれた疑問から備えさせていただきました。 私たちの使っている、新改訳聖書2017では、「輝く」の「輝」という漢字が出てくる節は、なんと135節にもなります。その135節における「輝く」ということはいくつかに分類することができますが、大きく分けてそれは「神に属する輝き」と「人に属する輝き」です。 まず「神に属する輝き」から見てまいりましょう。神さまは栄光そのもののお方でいらっしゃいます。私たちの世界は太陽という天体ひとつで明るく照らされ、暗い夜も朝や昼になってしまいますが、神さまというお方は太陽とは比べ物にならないほど輝いておられるお方です。まことに輝きとは、神さまの本質そのものです。まさに、ヨハネの黙示録21章23節が語っているとおりです。 神さまがそのような輝かしいお方なので、神さまに属する存在もそれ相応に輝きます。神さまを礼拝するために用いる道具が輝いている必要があるのは、神さまが栄光に輝くお方だからです。また、「冠」が輝く、というみことばも聖書のところどころに登場しますが、これは、冠が人に栄光を授けて輝かせる存在である、ということです。 また、輝くといえば太陽や月や星のような天体の輝きを外せませんが、もちろん聖書にも天体の輝きが出てまいります。これは、神の栄光を顕す被造物の輝き、と言えるでしょう。そればかりかヨブ記を見てみると、レビヤタンという、こんにちでは恐竜のことではないかとも言われている獣が歩いたあとが「輝く」ともありますが、これはそのような、第一の獣として神さまが創造された存在が、生きていること、存在することそのもので、神のご存在の栄光を現している、ということもできるわけです。 それでは、「人に属する輝き」を見てみましょう。サムエル記第一を見てみますと、野蜜を口にしたヨナタンの目が輝いた、とあります。ヨナタンの目が輝いたことは、食べ物を口にするものは殺されなければならないと神かけて誓ったサウルの誓いがみこころにかなわないことをほのめかしています。また、神さまと顔と顔を合わせて語り合ったモーセは、民の前に出たとき、顔の肌が光を放っていました。まさに、神の栄光に照らされた、ということです。 一方で、神さまのとその民イスラエルに敵対する、アッシリア、モアブ、ツロ、またペルシアの宰相(さいしょう)ハマン、ダニエル書に登場するバビロンの王にも、「輝く」の字が用いられています。これは、その権勢をほしいままにしたその栄光の輝きが取り去られる、という文脈で用いられていて、つまりこの輝きとは、有限な人の輝きです。 しかし、人の輝きは偶然なくなるわけではなく、これらのものに対する「輝き」は神さまがお与えになるものであり、神さまの摂理の中で消されていくことが、これらのみことばにほのめかされています。 なお、このほかに、人を堕落へと誘惑する「ぶどう酒が輝く」という表現が箴言に登場します。これは神さまの栄光とは直接の関係がないばかりか、その輝きをもって人を神から遠ざけるわけです。 これは、この世の権力が「輝く」、しかしその「輝き」がやがて取り去られるという意味の「輝く」に分類できるでしょう。 要するに、どんな輝きも実際のところは、神の栄光のうちに輝くことが許されている、ということです。ゆえに私たちは、もし自分が輝きの中にあるならば、そのことを誇ってはなりません。また、だれかわが世の春を謳歌しているような人がいたとしても、その人を見てうらやむ必要もありません。すべては主の許しのうちに行われていることであり、私たちはへりくだる必要があります。 実際、いくつかのみことばを見てみますと、神が人の輝きとなられる、という箇所もありますし、神が人に輝きを与えられる、という箇所もあります。つまり、人の輝きは、神さまと無関係に存在する者ではない、ということです。 ゆえに私たち人間にとって、自分が輝くことを神さまに求めることは、たいへん、みこころにかなっていることであり、何にもましてすべきことである、というわけです。なにも、演技みたいにしてわざとらしく明るくしなさい、ということではありません。神の民、クリスチャンは、すべからく明るくするべきです。ヤコブの手紙には「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい」と、輝かないことを奨励するような表現が出てきますが、それはこの世の偽りの輝きで輝くのをやめなさい、つまり、その輝きを捨て去って、主の輝きでほんとうに輝きなさい、という意味です。私たちは主にあって輝くのです。 しかし、私たちが明るくするには、どうすればいいのでしょうか。そのためには、私たちが何者かということを、いつも心に留める必要があります。 ここまで「神に属する輝き」、そして「人に属する輝き」について見てまいりました。すると、「神が人となられたイエスさまの輝き」はどうなのだろう、と思いませんでしょうか? 実は、それがとても重要なのです。 まず、イエスさまと輝き、の関連でいえば、イザヤ書53章2節のみことばを外すことはできません。イエスさまは人として、苦難のしもべとしてこの地に来られるとき、「輝き」がないお方であられる、とすでに預言されていました。 しかし、それは輝きをあえて「消して」おられた歩みというべきです。イエスさまのご本質はどこまでも、「輝く」お方でした。それはパウロの書簡やヘブル人への手紙でも解き明かされているところですが、イエスさまの公生涯においても、変貌山において御顔や御衣が大いに輝くお姿で現れました。ヨハネの黙示録に登場するイエスさまのお姿も、「輝く」という表現が用いられています。本来イエスさまは輝きそのものでいらっしゃいます。 このお方を心に宿しているゆえに、私たちは輝くのです。人間的な方法で輝こう、明るくなろうとしても限界がありますし、またそれは、必ずしも神の栄光を顕していることとイコールではありません。私たちのすることは、心のうちにある光を升の下に隠すのではなく、燭台の上に掲げて輝かせることです。 イエスさまは、「あなたがたは世の光です」とおっしゃっています。「あなたがたは世の光に『なります』」ではありません。「世の光に『なるでしょう』」でもありません、「世の光『です』」なのです。なぜ私たちは「世の光『です』」と言っていただけるのでしょうか。それは、まことの光なるイエスさまを宿しているからです。それゆえ、私たちはすでに光だからです。 しかし、光は「輝いて」こそその価値があります。私たちがもし「輝いて」いないならば、せっかく「世の光」にしている意味がありません。私たちが世の光として輝くために必要なのは、まず、イエスさまとの交わりの中にとどまり、自分自身が「世の光」であるという自覚を確かに持つことです。イエスさまを見ることができていれば、私たちは必ず輝きます。 もし、それでも自分が光であるということがわからないでいるならば、私たちがどこを見ているかを考える必要があります。まことの光がイエスさまである以上、イエスさま以外のものを見ていたならば、私たちが輝くことができないのは当然のことです。 いまこそ、イエスさまとの交わりを取り戻すときです。私たちはみことばによってイエスさまに出会い、祈りのうちにイエスさまの御顔を仰ぐ必要があります。そのようにして、イエスさまとの交わりにとどまれば、私たちは必ず明るく輝きます。 私たちは、心落ち込んでいていいことは何一つありません。イエスさまを仰ぎ、光り輝きましょう。ほかの兄弟姉妹も暗さの中にいると知ったならば、ともに御顔を仰ぎ、光を得て、輝きましょう。 さあ、私たちは何を見ているために輝けないでいるのでしょうか? 自分の過去の忌まわしい記憶でしょうか? いま私たちを煩わせている人間関係でしょうか? お金の心配でしょうか? 老後のことでしょうか? もし、そのようなものばかり見えてしまっているならば、それはイエスさまが見えていない、ということです。いまこそ、すべてのすべてであられる主イエスさまを見ましょう。ではお祈りします。

神のものを神に返す

聖書箇所;マルコの福音書12章13節~17節 メッセージ題目;「神のものを神に返す」  私が神学生時代に奉仕した韓国ソウルのサラン教会では、主日ごとの礼拝の締めくくりに、教会全体の信仰告白として「共同体告白」というものをしていました。礼拝のたびに、会衆はそろってこんな告白を毎週していました。「私たちは世から呼び出された神の民です。そして、世に遣わされたキリストの弟子です。」  まことにそのとおりです。私たちは教会という共同体で、神の民として礼拝し、みことばを学び、ともに祈り、ともに賛美し、交わりを持ち、奉仕します。しかし、私たちの信仰生活はそれで終わりません。この世界に出て行って、神の民、キリストの弟子として、具体的な生活をとおして神の栄光を顕すように召されています。  私たちがみことばを学ぶことには、神の栄光を現実の生活において具体的に顕すため、という意味もあります。しかし、私たちはときに、みことばをどのように具体的に自分の生活に適用したものか、迷ったりすることがないでしょうか?  今日の箇所は言うまでもなく、イエスさまを罠にかけようとした悪だくみに満ちた質問が打ち破られるという内容です。私たちクリスチャンはイエスさまのこの痛快なおことばに、快哉を叫びたくなりますが、このみことばでイエスさまが語っておられることは、私たちがこの世において神のみことばにお従いするうえで、きわめて大事な基準となっています。  それでは本文を見てみましょう。13節、「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老の群れです。ユダヤを牛耳る者たち。しかし彼らは、イエスさまに議論を仕掛けたら論破され、そればかりか、聖書の語る主に敵対する者はあなたたちだ、という意味のことをイエスさまに指摘され、それも群衆が見守る前で指摘され、怒り心頭、イエスさまを殺そうとしました。そこで彼らはさらに卑怯な手段を使います。  彼らは、パリサイ人、すなわち宗教指導者の群れ、そしてヘロデ党、すなわちローマの任を受けてガリラヤを治める指導者に就く、政治的勢力をけしかけます。彼らは本来ならば、けっして仲がいいとはいえない、普段からお互いうまくやっているとはいえない関係でした。しかし、イエスさまをなきものにするためならば、彼らは手を組むこともいといませんでした。  なぜ、イエスさまをなきものとするために、このように仲のよくないどうしが手を組むことがありえるのでしょうか? それは、彼らはどちらも、神のみこころに反する、頑なな存在だからです。  彼らが自分たちの宗教的信念、政治的信念にしたがって行動すればするほど、皮肉なことに、彼らはますます、神さまがみことばにおいて啓示され、そしていまや時至ってこの世にお送りになったキリストに敵対する道を行くようになりました。  これは、この世を生きる私たちにとっても同じことです。私たちを取り囲む社会は、神々を拝む偶像礼拝であったり、あるいは無神論の唯物論であったりします。しかし、そのどちらもが、キリストを認めず、ゆえにキリストに敵対することもいといません。日本という国に住むということは、そのような反キリストの勢力が束になって襲いかかってくる生活をしているということです。いみじくもイエスさまがおっしゃったとおりです。「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すように、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」  私たちは羊であるとイエスさまはおっしゃいます。周りはそんな弱い羊を隙あらば食い尽くそうという、獰猛な者たちで満ちています。それが私たちの生きている現実だから、素直であるのとともに、蛇のような賢さを備えなさい、とイエスさまはおっしゃるわけです。その道は、みことばを神のことばとして素直に受け入れることです。そうすれば神さまは私たちに、冷徹にこの世を見分ける知恵を授けてくださいます。  さて、イエスさまもいま、蛇に身をやつしたサタンに対抗すべく、アロンの杖の蛇がエジプトの魔術師の杖の蛇を呑み込んだがごとき知恵を動員すべきときが来ていました。ユダヤの指導者たちは何と言ってきたでしょうか? まず14節の彼らのことばの前半を見てみましょう。  これはもちろん、彼らが心底そのようにイエスさまのことを高く評価していたわけではなく、お世辞にすぎません。しかもこのお世辞は、きわめて底意地の悪いいことばです。なぜならば、このことばには、ある意味が隠されているからです。「あなたはあなたなりに真実な人として、だれにも遠慮しないで物事を語っていますね? あなたが教えておられる神の道は、あなたなりの真理にもとづいていて、それゆえ人の顔色を見ませんね? しかし、果たして、それは神の道ですかな? 真理ですかな? 私たちこそ神の道の専門家、真理の専門家ですが、長年のイスラエルの伝統のお墨付きをいただいてる私たちの宗教的権威にかなうほど、あなたの語る神の道とやらは真理なのですかな? そんなに人の顔色を見ないならば、宗教的権威が神さまら与えられている私たちに歯向かうことなどできますかな?」  そうです。彼らがそういう意識でイエスさまに質問を仕掛けてきたことは、そのあとの彼らのことばではっきりします。……カエサルというのは、ローマ帝国において神のごとく君臨する存在であり、ローマに税金を納めるとはカエサルに税金を納めることである以上、カエサルに税金を納めることは見ようによっては、カエサルに「献金」することに等しいとも言えるわけです。  だから、ユダヤの人は、カエサルに税金を納めることには耐えがたい屈辱を覚えることでもありました。現に、これは使徒の働きにも記録されている歴史的なできごとですが、ユダという者が紀元前6年に暴動を起こしたのは、ローマに税金を納めることに反対してのものでした。  つまり、イエスさまがユダヤの霊的な指導をする立場にある者として、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていない、という回答を引き出そうという意図が彼らにあったわけです。しかし、それなら、「律法にかなっていない」というべきだったのでしょうか? そうなると今度は、その発言はローマの統治を否定するものと捉えられ、ローマへの反逆者として当局に引き出されるしかありませんでした。つまり、律法にかなっている、と答えたら失脚、かなっていない、と答えても失脚、実にうまくできた質問をこしらえたもので、敵ながらあっぱれ、といったところでしょうか。  しかし、ほんとうにあっぱれなのはイエスさまです。彼らがイエスさまから律法を勉強して生活を改めるためではなく、イエスさまを罠にかけるためにそのような質問をしたことを、イエスさまは見抜いておられました。イエスさまは彼らの普段の生活がどういうものか、彼らに認めさせながら、神の真理を説くという離れ業を演じられました。  イエスさまは彼らに、デナリ銀貨を用意させました。このデナリ銀貨はカエサルの肖像が刻まれていて、しかも、「神であり祭司」ということばも同様に刻まれていました。したがって、神を神とし、ローマを毛嫌いするユダヤ人たちからしたら、到底容認できることではなく、このような硬貨を使うことは屈辱的なことでした。それで、普段の生活では、ユダヤで通用する銅貨を用いて物の売り買いなどをしていました。  貨幣はあらゆる物に価値を与える存在であるため、とにかく大事、だから、その貨幣に肖像画を刻んだり、刷り込んだりすることは、特別な意味を持ちます。北朝鮮はキム・イルソンの肖像画を紙幣に印刷していますが、この肖像画の部分を折りたたんで財布に入れると厳罰が待っています。国家が権力者の顔を貨幣に刷り込むことは特別な意味を持つゆえんです。  ユダヤでも、経済活動から出た税はカエサルのものになるように、経済を含む国のすべてはカエサルが掌握しています。カエサルの許しのもとに宗教を含むあらゆる活動は成り立っています。これは、罪人にすぎない人間がそんな権限を持っているなんて、と言ったところで、仕方のないことです。神さまは社会をそういう構造にされることで、ご自身の民が地上でご自身にお仕えすることをよしとされているわけです。  地上のお金は国家が管理しています。それを象徴するのがカエサルの肖像です。それをカエサルに返すことが法律で定められている以上、それに従いなさい、とイエスさまはお教えになりました。  しかし、それで終わりません。「神のものは神に返しなさい。」私たちが生きている世界は、確かに国家のような世俗の権力に支配されていて、それを支えることは、神さまによってこの世界に送り出されている者として果たすべき責任です。  しかし、その国家に統治権という、究極の責任を与えられたお方はどなたでしょうか? 神さまです。だから私たちは、この世の統治者に税金を納めるなどして忠誠を誓うことで責任を果たしきるのではなく、究極のお仕えすべきお方、おささげすべきお方である、神さまを認め、神さまにおささげし、神さまにお仕えするのです。  私たちにとって「カエサル」にあたるものは、日本国や茨城県、それぞれお住まいの市町村にかぎりません。私たちの上にあって私たちのことを従わせる存在はみなそうでしょう。ご家庭のお父さん、お母さんもそうですし、職場の上司もそうでしょう。町内会の会長さんや所属するサークルの代表かもしれません。私たちはときに、そういう存在の理不尽な言動に反発を覚えることもあるかもしれませんが、その場にいることが主のみこころにかなうと信じていらっしゃるならば、私たちのすることは、その「権威」を認め、従うことで、しもべとしてのアイデンティティを果たすことです。それは主に喜ばれます。  しかし、私たちは同時に「神のものを神に返す」生き方をしなければなりません。イエスさまがそうおっしゃられたとき、彼らははっとしました。カエサルに返すことと神にお返しすることを対立するもの、相容れないものと捉えていた自分たちは愚かだった、そう気づかされたのでした。もちろん、彼らユダヤ人は実の民として、神にお返しすべきものをお返しすることは、いうまでもないことでした。  さて、私たちは、神のものを神に返すとはどういうことか、よく考える必要があります。神のものを神に返す、というと、私たちが真っ先に思い浮かべるものは、献金ではないでしょうか。もちろん、それはそうです。しかし、献金ももちろんそれはそうなのですが、それだけではなく、それぞれ置かれた場において、キリストの弟子としての振る舞いを確かにすることが大事です。献金はもちろん大事ですが、献金さえささげればいいというものではありません。  たとえば、職場に神棚が飾ってあり、職員がみんなそれを拝むのが習わしでも、「いや、これはカエサルに返すことだから……」などと、拝むことに妥協するならば、返すべき「神のもの」とはいったい何でしょうか。町内会などでも、おまつりに経済面でも、労働面でも、いろいろ奉仕を求めてくる場合、それに対して「神のものを神に返す」態度をはっきりさせることに、どうか取り組んでいただきたいのです。コロナが明けてお葬式に行く機会も増えてきたと思いますが、そのような場での振る舞いも神の御前に問われるところです。  私たちは考えてみましょう。私たちはカエサルのごときこの世の権力に対して主にあって振る舞う、仕えることをもって普段彼らから受けている恵みをお返しするために、どんなことを具体的にしますでしょうか? しかし、そんな彼らの間にあって、彼らの存在を超え、いつも変わることなくともにおられるイエスさまにお従いするために、どんな行動を取りますでしょうか? しばらく祈りつつ考えましょう。

悔い改めが迫られたとき

聖書箇所;マルコの福音書12章1節~12節 メッセージ題目;「悔い改めが迫られたとき」    このところ、日本の芸能界に長年絶大な影響を及ぼしてきた芸能事務所があっという間に崩壊させられるという、以前の芸能界を知る者には信じられないようなことが起きています。しかし、その芸能事務所のボスがしてきたことはいわば公然の秘密とも言えることで、それまでにもそのボスの悪行を告発した人はいなくはなかったのですが、その事務所から多大な利益を得ていたマスコミをはじめ世間はこぞって黙殺し、その人は泣き寝入りを強いられる羽目になりました。  権力者、そしてその権力者を支える絶大な存在、その陰で泣かされる弱者というものは、いつ、どこの時代にもいるものでしょう。イエスさまの時代のユダヤがまさにそうでした。ユダヤという宗教社会は、宗教指導者が実際の権力はもちろんのこと、民衆の精神面、霊的な面に至るまで大いに支配していました。その時代に彼らによって泣かされる弱者がどれほどいたことでしょうか。イエスさまはそのような、宗教を笠に人間的な権力をほしいままにする者たちをおさばきになるお方として、この世界に来られたお方です。  今日の箇所は、前回学びました11章の終わりからそのまま続いていますが、イエスさまのご質問にぐうの音も出なかったユダヤの指導者たちに対し、今度はイエスさまがその問題を指摘されます。ただし、イエスさまはストレートに彼らの問題を指摘されるというよりも、たとえで婉曲的に彼らの問題に気づかされます。  具体的に、イエスさまはどんなことをお語りになったのでしょうか。それがぶどう園のたとえです。ぶどう園は旧約聖書の預言書にも表れているとおり、神の民イスラエルを象徴しています。イエスさまのこのお話は宗教指導者だけではなく、エルサレム神殿に集まっていた群衆も耳を傾けていたので、群衆の中にも、イエスさまのお語りになっていることにピンと来た者もいたことでしょう。  ということは、このぶどう園の主人、オーナーは、父なる神さまです。そのぶどう園が自前の酒ぶねや見張りやぐらを用意できるほど大規模だったことも、イスラエルという国と民族を丸ごと持っておられる神さまを象徴するのに充分でしょう。  収穫の時が来ます。神の民はぶどうの実を結ぶように、神の栄光を顕すという実を結ぶものです。御父はその生き方をとおして、ご自身ご栄光をお受けになります。ぶどう園は労働者が働き、主人の命を受けたしもべがその収穫の分け前を取りに行くように、御父の命を受けた預言者たちはイスラエルへと遣わされていきます。  しかし、旧約聖書を読んでみますと、主のみこころを語った預言者たちはとても不遇な生き方をさせられていました。彼らの言うことをイスラエルの指導者たちは聞きませんでした。そればかりか、たいへんに侮辱的な扱いを受けたりしました。中には殺されるものもありました。  今日の本文の、3節から5節をお読みください。読み進めるほどに、ぶどう園の労働者たちの振る舞いがエスカレートしているのがわかります。殴ったり袋叩きにしたりというのが、殺すことさえしているわけです。それはまさに、イスラエルがそれまで神さまのみこころを伝える働き人に対してなしてきた振る舞いそのものでした。  御父を象徴するぶどう園の主人は、この労働者たちに対して圧倒的な権原を持っていました。そうだとすると、自分の大事なしもべがこんな目にあい、さらには殺されることにまでなろうとも、なおあきらめなかったのは、どれほど忍耐したということでしょうか?  「これでもか、これでもか」ということばがありますが、ぶどう園の主人が労働者たちを思う思いは、まさしく「これでもか、これでもか」の愛といえるでしょう。その「これでもか」は、ついに頂点を迎えます。それは、自分の息子を送るということです。しもべなら敬わないからそんな真似ができようが、よもや息子にはそんな真似などできまい。しかし、労働者たちは何を考えたのでしょうか。7節です。  しかし、これはよく考えるとおかしくはないでしょうか。ぶどう園は依然として主人のものであり、そんな真似をすればどんな制裁が自分たちを待っているか、分かっていないはずはなかったからです。だが、彼らは陰謀をめぐらしたとおり、跡取り息子を殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。こんなことをする労働者はどんな目にあうでしょうか? 9節にあるとおりです。みな容赦なく滅ぼされ、ぶどう園はほかの者たちの手に渡ります。  ぶどう園の主人がイスラエルの神である御父ならば、その跡取り息子はイエス・キリストです。イエスさまはご自身がその跡取り息子であることを語っておられるわけです。してみるとこの労働者は、宗教指導者のことであり、宗教指導者は御子イエスさまを殺し、その報いとして滅ぼされ、イスラエルの牧者としての権限を取り去られる、ということをイエスさまはお語りになったわけです。  そしてイエスさまはだめを押すように、詩篇118篇のみことばを引用されます。建物は礎の石があってこそ建つわけで、何よりも大事です。しかしその石を粗末にし、捨てるような家つくりは、家つくりという職業にありながら、家というものも、それにふさわしい材料というものも、まったく理解していないことになります。それと同様、宗教指導者たちは、イエスさまというお方に「いらない」とノーを突きつけて捨てることをする以上、宗教指導者にふさわしい態度で、神の御子イエスさまに接していない、そればかりか「捨てる」ことさえしているというわけです。  イエスさまがここまでおっしゃったら、さすがの宗教指導者たちも気づかざるを得ません。というよりも、イエスさまをまことの救い主と認める勘のいい群衆たちの前で、自分たちの正体をばらされたも同然でした。彼らは大恥をかかされました。そこで彼らは何をしようとしたのでしょうか。イエスさまを捕らえようとしました。捕えて、殺すためです。そうしなかったのは、群衆を恐れたからでした。  そうです。彼ら宗教指導者たちは、まさにイエスさまがたったいまお語りになったとおりのことをしようとしたのでした。イエスさまが彼らの罪をお示しになったのは当然のことです。彼らはそうすることで、自分たちこそ神にお仕えする者であると誇ろうとするわけです。だが、彼らはここまで自分たちの罪が明らかにされても、イエスさまのみことばそのものを信じて、悔い改めることをしませんでした。もし信じていたならば、イエスさまがおっしゃるおことばを聞いたならば、そのさばきの対象に自分が入っていることを認め、どうか助けてください、いのちだけは取らないでください、と、必死に悔い改め、命乞いをしたはずです。しかし彼らのしたことは、かえってイエスさまを殺そうとすることでした。そして彼らの思いは、イエスさまを十字架につけることによって遂げられました。彼らは最後まで悔い改めることをしなかったのです。その結果、彼らの支配するユダヤはどうなったでしょうか? ローマ軍に攻め入られ、散り散りになってしまいました。そして、御父を神とする民は血筋のイスラエルを越えて、全世界に広がり、もはやイエスさまを神とも王とも認めない宗教指導者たちの手を完全に離れました。  いま私たちは、本来彼ら神の民が受けるべき、神の子としての特権を受けています。それはまさに恵みによることで、私たちの誇るべきことでは決してありません。そんな私たちが、この宗教指導者たちを反面教師として学ぶべきことは何でしょうか。  私たちはパリサイ人に代表される宗教指導者の姿を聖書をとおして眺めて、いろいろ思うところがあるかもしれません。しかし、もしかしたらこんなことを思ってはいないでしょうか。  「彼らは律法を守り行うことによって救われようとする律法主義者だ。しかし自分たちは恵みによって救われている。パリサイ人のようにならなくてよかった。」もし、そんなことを考えているならば、危ないです。それはすでに、恵みというものを私たち人間のの側に属する資格のように勘違いしはじめている証拠かもしれません。  福音書にはなぜ、これほどまでにパリサイ人たち宗教指導者の、イエスさまに対する敵対的な言動が、これでもか、と登場するのでしょうか? 私たちがそれを読んで、ああよかった、自分たちはそんな人間じゃなくて、と安心するためでしょうか? 決してそうではありません。それは、私たちに対する警告が、それほどの紙面を割くほどに必要だからではないでしょうか? ありていに言ってしまえば、パリサイ人とは、私たちなのです。  そんな、ひどい! と思いますか? うそだ! と思いますか? しかし、今日のみことばに現れた、宗教指導者たちの態度をどうかよく考えていただきたいのです。聖書はときに私たちに、耳の痛いことを語ります。中には主にある兄弟姉妹が、みことばにしたがってそのような耳の痛い忠告をすることもあるでしょう。いえ、兄弟姉妹ではなくても、家族や一般の職場で、もし私たちに耳の痛い忠告をする人がいて、その忠告がみこころと一致していたとすれば、それはその未信者を通じて主が語ってくださったと言えなくもないわけです。そんなことばを聞いたとき、私たちはどのように反応しますでしょうか?  耳が痛い、と申しましたが、耳が痛ければとっさに手で押さえるでしょう。しかし、耳を手で押さえては、せっかくの忠告も聞くことができません。それほどまでの私たちは自己防御的、保身に走る、自己中心の存在です。それでも、私たちにもし、主のみこころにかなった柔和な心が与えられているならば、そのような耳の痛い忠告も、そうです、そのとおりです、と耳を傾け、悔い改めに至ることができるはずです。耳が痛くても手でふさがず、あえて耳を傾ける、柔和ならばそれができます。  旧約聖書にもそのモデルが出てきます。まさに今日のマクチェイン式聖書通読の箇所、サムエル記第二の13章、預言者ナタンに罪を指摘され、即、悔い改めたダビデの姿、これぞまさに柔和な者、主のみこころにかなう者の姿勢です。ダビデのしたことは人妻を寝取り、その夫を戦死を装って殺し、それからその人妻を自分のものにしてしまうという、とんでもないものでした。普通に考えるならば、そんなことをした者は死刑だ! とだれだって言いそうなことをしたわけです。そういうダビデはそれゆえ、その罪の責任を残る生涯でたっぷり取らされることになりましたが、しかし罪そのものはダビデが神さまに立ち返ることにより、赦していただきました。こうしてダビデはいのち救われたのでした。  警告されても悔い改めないケースも聖書には登場します。代表的なのは、ささげものを受け入れられたアベルに嫉妬したカインのケースでしょう。神さまは、戸口で待ち伏せしているように間近にある罪を治めよ、とカインに忠告されたというのに、カインは罪を治めきれず、アベルを殺しました。新約聖書にも、アナニアとサッピラのケースが登場します。彼らが献金をごまかしたときも、ペテロは彼らに質問を投げかけ、彼らがしでかしたことを認め、悔い改める余地を与えましたが、彼らは最後まで悔い改めることをせず、うそをつきました。しかし、それは人ではなく神を欺いたことであり、それゆえに彼らは立てつづけに神のさばきを受け、いのちを落としました。  この宗教指導者たちも、イエスさまに迫られていました。イエスさまが語るぶどう園の労働者が自分たちのことだということにも気づいていました。しかし、彼らはそれが単なる当てこすりとしかとらえられず、イエスさまに怒りを燃やすことしかできませんでした。これが、かたくなということです。  ヘブル人への手紙4章7節のかぎかっこの中のみことばを読みましょう。もともとがダビデをとおして語られたみことばと考えると、ダビデがこのみことばによって立っていたとおり、御声を聞くなら心を頑なにしない者の幸いに生きていたことは確かなことで、このみことばの語るとおり、私たちもその幸いに生きるべく召されています。  自分たちはパリサイ人のようではないから大丈夫だ、と思ったならば、すでに私たちは頑なになりはじめています。福音書に登場する、イエスさまがパリサイ人をお責めになったあまたのみことばは、まさしく私たちを悔い改めに導くべく語られているみことばです。今日の箇所などどうでしょうか。私たちが悪いことをついしてしまうとき、そこにイエスさまにいてほしくない、と思うならば、私たちは宗教指導者を象徴するぶどう園の労働者のように、御子をいらないものとしていることにならないでしょうか? それは、御子を十字架につけることです。  しかし、こうも言えます。私たちが罪を犯すことは、御子を十字架につけること、しかし、そのように御子イエスさまが十字架についてくださることによらなければ、私たちの罪はほかのどんなことによっても赦されません。私たちは罪を犯してしまいますが、そんな私たちを完全に赦してくださるイエスさまの十字架のほうが絶対です。だから私たちが罪を犯してしまうとき、もっといい人になるように努力しようとするのではなく、イエスさまの十字架にすがる、これがもっとも必要なことです。  いちばんいけないのは、罪が示されたとき、頑なになってイエスさまとそのみことばを無視することです。それでは宗教指導者と同じです。そんなとき私たちは、悔い改めることができるかどうかが問われるところです。私たちがそんなとき、悔い改めて主の赦しと回復のみわざを体験することができますように、主の御名によって祝福してお祈りします。

子どもを受け入れる

聖書箇所;マタイの福音書18章1節~10節 メッセージ題目;「子どもを受け入れる」 人をほめることばにもいろいろあります。かわいい、ですとか、かっこいい、ですとか。いろいろなことばがありますが、「偉い」というのも、立派なほめことばでしょう。人は、偉いと言われたい、そのためにも偉くなりたい、出世するのも、そのために勉強するのも、その理由として「偉くなりたいから」、「偉い人として振る舞いたいから」という動機は外せません。ほめられるということは、人に尊敬されるということですが、それだけではありません。偉くなればお金も入ってきて、楽な暮らしができるようになります。だからとにかく、偉くなりたい。 そんな思いは、イエスさまの弟子たちも持っていたようです。イエスさまがまことのイスラエルの王、天の御国の王になられることを、弟子たちは信じて従っていました。そうなると弟子たちは何を気にしたでしょうか? 自分たちもイエスさまとともに偉くなることでした。イエスさまが王になったら、われこそは右大臣、とか、左大臣、とか、いやいや太政大臣、ですとか。 そんな偉い人になりたい。それで彼らは、イエスさまに尋ねました。天の御国では、だれがいちばん偉いのでしょうか。このような問いを発する弟子たちのことを、私たちはどう思いますでしょうか。何を言っているのか、天の御国ではみな平等だ、人より偉い人などいるものか、そう思いますでしょうか。 イエスさまは、彼らの思いを否定されることはありませんでした。というのは、天の御国においては、確実に偉い人、それも、いちばん偉い人というのはいるからです。それは、子どもです。それもイエスさまは、子どもを彼ら弟子たちの真ん中に立たせて、注目までさせて、子どもがいちばん偉いのであると強調されたのでした。 普通なら、よほど変わった人でもないかぎり、子どもがいちばん偉いなどとは言いません。しかし、すべての創造主であり、私たちの主であるイエスさまは、子どもがいちばん偉いとはっきりおっしゃいました。弟子たちはおそらく、意表を突かれたのではないでしょうか。私たちならば、イエスさまのこのおことばを、どのように受け止めるべきでしょうか? イエスさまが、子どもがいちばん偉いとおっしゃったのには、2つの理由があります。まず3節と4節にあるとおり。あなたがたは子どものように、神の国を受け入れなさい、と、弟子たちにお教えになるためでした。ほんとうに偉いのは、子どものように神の国を受け入れた人だよ、と。 私たちの信仰生活を、一般的に「キリスト教」といいます。しかし、私たちがだれかにイエスさまを伝えようとするとき、人は「キリスト教の話は結構」という反応を示さないでしょうか? 理由はいろいろ考えられるでしょうが、無視できない理由として考えられることに、「難しい話は聞きたくない」というものがあるのではないでしょうか。 「キリスト教」を難しくするのは、子どものようにイエスさまを信じ、イエスさまを王とする天の御国を信じ受け入れればいいのに、それにいろいろ付け加えて、小難しい理屈をいろいろ言うせいではないでしょうか。そうするところから、いつの間にか子どものような単純な信仰は、「キリスト教」という「宗教」、すれた大人のものになってしまうのです。 子どもは、いろいろ考えることはしません。いいと思ったら受け入れ、悪いと思ったら離れます。そして、神さま、イエスさまは絶対的に「よい」お方なのですから、イエスさまが大好きになるしかありません。子どものようになるのに理屈などいりません。ただ、愛すればいいのです。ただ、好きになればいいのです。難しいことなどありません。 子どもはまた、疑いません。学問としての「キリスト教」の発達は、いろいろなことを疑うことで発展してきた模様ですが、少なくとも、イエスさまが主でいらっしゃること、聖書は誤りなき神のことばであることは、疑うべきではなく、また、疑う必要のないことです。疑わずに素直に受け入れるのが、子どもらしい信仰です。 イエスさまが子どもを彼らの真ん中に立たせられ、注目させられたことには、もう一つ理由がありました。それは、このような小さな子どもを受け入れることは、イエスさまを受け入れることであるからです。 これも理屈はいりません。イエスさまがそうおっしゃる以上、私たちはあれこれ考えないで、子どもを受け入れることをするしかありません。 子どもを受け入れてみると、それがイエスさまを受け入れることであることを実体験できます。パウロが、自分の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができようか、と語っていますが、パウロがそれだけのことを語る大きな理由として、主にあって子育てをしているならば、イエスさまを受け入れるとはどういうことか、実際に体験している分、イエスさまを主と受け入れている共同体、神の教会を世話する素質を備えている、ということが挙げられるでしょう。 6節のみことばを見てみましょう。「受け入れる」の反対は「つまずかせる」です。大人たちの姿を見て、「イエスさまなんて信じるもんか!」と思ったならば、その子はどうなるでしょうか? 永遠の救いに至るはずが、永遠の滅びに至ります。私たち大人がよかれと思ってしていることが、子どもたちを排除し、子どもたちを神の恵みから除外しているならば、それは「つまずかせて」いることです。 そんな者は石臼を首に結わえつけられ、湖に沈められ、そこで溺れ死ぬほうがましだと、イエスさまはすごいことをおっしゃっています。しかも、よく見てみましょう。イエスさまは、そういう悲惨な死に方でも、そんな死に方をするほうが「まし」だとおっしゃるのです。それほど、子どもをつまずかせることは呪わしいことだとおっしゃるわけです。では、そういう者にふさわしい制裁は何でしょうか? それはすこしあとのみことばにほのめかされていますが、まず7節から見てみましょう。 イエスさまは、つまずきを与える存在が「この世」であるとおっしゃいます。私たちはこの世における教育、報道、それ以前に人々を支配する常識……それらのものによってどれほど、つまずかせられていることでしょうか。家々には仏壇や神棚があって神仏を拝むのは当たり前の美徳とされ、それを拒否するという選択肢は考えつかないようになっています。そうかと思えば、進化論を中心とした唯物論ですべては説明され、そこに創造主なる神さまのご存在とみわざを語る余地を与えようとしません。それなのに、占いやお守り、おまじないのようなオカルトはきわめて身近に存在します。悪魔や魔法にスポットのあたった音楽や文学、映画が人気です。どこもかしこも、つまずかせるもので満ちている、それがこの世というもので、イエスさまはそんなこの世を、わざわいだ、とおっしゃっています。 しかし、イエスさまは一方で、つまずきが起こるのは避けられないともお語りになっています。それは、人間は不完全な存在であり、考えや態度、ことばや行いにおいて、罪を犯してしまうものだからです。よかれと思ってしたことで、人がつまずいてしまう、ということは往々にして起こることです。 それでも、イエスさまは、つまずきを起こす者を容赦されません。特に、子どもという、疑うことを知らない純粋無垢な存在をつまずかせ、信仰を持てなくさせてしまうならば、それはどんなに大きな罪でしょうか。私たちの中に、子どもを排除してしまう思いがないか、よくよく点検してまいりたいものです。逆に、子どもをつまずかせないで受け入れるにはどうしなければならないか、ともに考えていただきたいのです。そのためにも、礼拝に子どもが来られる環境づくりに、一緒に取り組んでいただきたいのです。今日の午後の礼拝はその取り組みの一環です。時間的に協力してくださるのが難しいならば、せめて覚えてお祈りしていただけたらと思います。 8節、9節のみことばも過激なほどに厳しいおことばです。ここでは、もし人がつまずいたならば、地獄に落とされて永遠にさばかれる、という、恐ろしい警告がなされています。手も、足も、目も、みんなからだの一部であり、失ってはならないものです。それを切って捨てよ、えぐり出して捨てよ、とは、それだけ、自分のからだの一部のように自分にとって絶対なものでも、捨てなければつまずくよ、つまずいたら地獄行きだよ、というわけです。 私たちにしても、悪い習慣、悪い人間関係、悪い趣味、悪い番組やインターネットサイトの視聴……そういったものに貴重な時間を費やすことで、神さまとの交わりに弊害が出ているならば、それをやめさせてくださいと祈るべきです。祈ろうとしない、祈れないならば、それはそれだけ自分のからだの一部のように固着してしまい、大事なもの、捨てられないものと思っているからで、かなり深刻です。そんなときこそより真剣に祈る必要があります。まさに、切って捨てれば永遠のいのちに行けます。 子どもとの関係においてはどうでしょうか? 私は幼い頃、よく周りの大人たちから、大人は大人の世界で線引きをされて、そこから先に行けないような疎外感を味わっていました。むかしはそれをしかたがないものとあきらめていましたが、今、当時の大人たちの年齢をはるかに追い越したから言えることですが、彼ら大人たちは子どもを排除することで、自分たちだけで楽しんでいたのでした。そんなことを私たちクリスチャンがもししているならば、それで子供をつまずかせることになっていないか、よくよく省みる必要があります。いや、大人たちだけで時間を持つことは必要だ、と堅く信じているその考えも、もしかしたら、切って捨てるべきからだの一部のようなものかもしれません。 さて、8節、9節、繰り返し登場するゲヘナの火、これが、子どもをつまずかせる者が、石臼を結わえつけられて湖の深みに沈められるよりもよりふさわしい刑罰だ、ということです。すなわち、子どもをつまずかせるならば地獄のさばきがふさわしい、とさえいえます。 しかし、こんなことを言うと、ある方はおっしゃるかもしれません。いえ、イエスさまの十字架を信じているならば、私は地獄に落ちることはありません、何がゲヘナですか、脅かすのもたいがいにしてください。まあ、そりゃそうです。しかし考えていただきたいのです。私たちが救われるために、十字架にかかって身代わりにいのちを投げ出してくださったイエスさまのその切なる願い、子どもを受け入れなさい、つまずかせてはいけません、その願いを、私たちがイエスさまによって救われているならば、真っ先に考えるべきではないでしょうか? どうすれば子どもたちをつまずかせず、主にあって受け入れられるか、真剣に考えるようになりはしないでしょうか? その点で私たちは、子どもに関心を寄せることにおいて、まだまだな存在です。それでもどうか、恵みの主に拠り頼んで、少しでも子どもをつまずかせないように成長させていただきたいと祈れるならば幸いです。 私たちのことばの一言一言、一挙手一投足、浮かべる表情や雰囲気、見られていないようで、子どもはみんな見ています。それでつまずかせているとしたらと考えると恐ろしくなります。大人は、仕方ないよね、何か事情があるんでしょう、と忖度してくれます。しかし子どもはそうはいきません。さらに言えば、そのような言動の背後にある私たちの心の中まで見透かします。まさに神さまのようです。子どもが忖度しないように、神さまも罪に関して忖度される方ではいらっしゃいません。しかし、子どもを前にして持つべき態度が、神さまを前にした時の態度のようだと意識することがどれほどあるでしょうか。私たちは自分の態度を悔い改めるべきです。 最後に10節のみことばを見ますと、イエスさまは、子どもたち、とおっしゃらず、子どものひとり、とおっしゃっています。子どものひとりひとりに目を留める必要があります。子どもは群れになっていると、ついひとりひとりに目を留めることがおろそかになってしまわないでしょうか。しかし、イエスさまは、子どもの一人に目を留めなさい、とおっしゃっています。それは、彼ら子どもの御使いは、御父の御顔をいつも見ているからだというわけです。御父の御顔をしっかり見ることのできる、みこころにかなった御使いが、子どもをいつも守り、御父の御顔を仰げるように子どもの霊に仕えます。 大人はどうでしょうか? いつしかこのような御使いではなく、サタンの顔を見る悪霊を引き連れるような嫌味な存在に成り下がっています。そんな自覚を持つならば、私たちはまず主に近づき、そして、悪魔よ、悪霊よ、ナザレのイエスの名によって離れよ、と、しっかり命じ、離れさせる必要があります。それでこそ私たちは、子どものたましいに仕えることができます。 子どものたましいに仕えることは、神に近づく恵みの味わえることです。子どもに聖書を教えてやろう、という、偉ぶった態度ですべきことではありません。イエスさまのみことばに従えば、偉いのは教える側の大人ではなく、むしろ子どもではないですか。もちろん、偉いからと子どもを甘やかしたり、つけあがらせたりすることが主のみこころだと言いたいのではありません。子どもがしっかり主の御顔を仰ぎ、主のみことばに従えるようにすること、それが子どものたましいに仕えるということなのです。 うちの教会にも、少しずつですが子どもが送られてきています。子どもとともにみことばをの恵みをいただき、神を礼拝する、そのようにして子どものたましいに仕える働きに教会全体が用いられるならば、どんなにかすばらしいことでしょうか。今日から始まる午後の礼拝、そしてそのほかのあらゆる子どもの働きを、主が祝福してくださいますようにお祈りいたします。

指導者にあるまじき不信仰の理由

聖書箇所;マルコの福音書11章27節~33節 メッセージ題目;「指導者にあるまじき不信仰の理由」 先週私たちは、ディボーション月刊誌「リビングライフ」に従い、新約聖書、使徒の働きの終盤の部分を毎日通読して黙想しました。そこで私たちは、パウロがどんなときにも堂々とイエスさまとその福音を証しした姿に触れました。私たちもこうありたい、主がどうかパウロのような証し人となる力を与えてくださいますように、と、祈らずにはいられなかったと思います。私たちは職場ですとか、地域社会ですとか、同好会ですとか、もしかするとご家庭ですとか、いろいろなところで、イエスさまを知らない人、はなはだしくは、イエスさまとクリスチャンに激しく敵対したり、冷たい態度をとったりする人に囲まれています。そういう人たちを前にしてイエスさまのことを語ることは、並大抵のことではありません。いざ、そういう機会が与えられたとき、私たちは勇気を出して、確信をもって、理路整然と、しかし喜んで、イエスさまのことが語れるでしょうか。 私たち日本に暮らすクリスチャンは、福音が語りにくい同調圧力の中で生活しています。しかしそんな私たちでも、私たちのことをいのちをかけて救ってくださったイエスさまのことを語りたいはずです。なぜならば、神さまご自身が、私たちの神さまであり、また私たちだけではなく、およそ人間であるならばだれひとり例外なく、その人の神さまだからです。知っていただければその人には、永遠のいのちをはじめとした絶大な祝福があることを知るゆえに、私たちは少なくとも、よい行いによって証しを立てることに一生懸命になるのです。 しかし、世の中の人々は必ずしもそんな私たちのことを理解してくれるわけではありません。特に、私たちが信じるお方、私たちのすべてであられるイエスさまのことを理解してくれるわけではありません。むしろ、私たちがよい行いをすれば当然で、逆に私たちが少しでも自分たちの気に入らないことをするならば、私たちのことを激しく攻撃したり、嫌味を言ったりします。そんな世の人たちを相手に主を証しする生き方をするのも骨の折れることですが、私たちはやめるわけにはいきません。私たちの愛の行い、仕える生き方は、いずれの日にか救われる人が起こされることにつながると信じて励んでまいりたいものです。 いずれにせよ、私たちは神さま、イエスさまを証しをする働きに用いていただけます。それは、私たちには全知全能なる万物の主宰者、神さまの権威がともにあるからです。とはいいましても、私たちはこの権威が与えられていることを大っぴらに主張して威張る必要は少しもありません。それはむしろ傲慢な態度というべきで、そのような傲慢な者から果たして、人は福音を聞きたがるでしょうか。その姿から慈愛にあふれたイエスさまを見出すことができるでしょうか。私たちはむしろ、自分にこの絶大な権威が与えられていることを口にする代わりに、その権威に裏打ちされた隣人愛、隣人を愛して仕えることを実践することで、わかる人にはわかる、神の権威を用いさせていただく存在です。 イエスさまを見てみましょう。イエスさまは群衆の目には、パリサイ人のような宗教指導者のようにではなく、権威あるお方と映りました。すなわち群衆はイエスさまのお姿に、単に職業で宗教家をしているような俗物の俗っぽさではなく、神さまご自身の権威を見たのでした。しかしイエスさまご自身は果たして、人々の前で大っぴらに、神の権威が自分にあると主張されたでしょうか。 そうかどうかは今日の本文に示された、イエスさまのお姿から見ることができます。イエスさまはエルサレムに入られ、「宮きよめ」を行われました。すなわち、暴力的とさえ見える手段でエルサレム神殿を商売の場にし、貧しい人や異邦人を食い物にするユダヤ人たちに制裁を加えられました。そしてイエスさまは次の日もエルサレム神殿に入られました。折しもそこには、宮きよめを行われたイエスさまに憤っていたユダヤの政治的指導者、また宗教的指導者たちがいて、イエスさまを待ち構えていました。彼らはイエスさまに言いました。28節です。 彼らは、イエスさまがお答えになるべき答えを知っていました。イエスさまが創造主なる唯一の神の権威によって、神の子、メシアとして振る舞っておられたことを知っていました。しかし彼らは、イエスさまがもし、神の権威によってあらゆる振る舞いをしておられるとお答えになったならば、神の民にふさわしく、その場でイエスさまを信じるでしょうか? 申し訳ありませんでした、あなたさまこそ救い主であると今こそ受け入れます、と、彼らは告白したでしょうか? とんでもないことです。彼らはイエスさまを迫害し、なきものにしようと、虎視眈々と狙っていました。 ここで彼らが、イエスさまの権威の由来を聞いたのは、結論ありきの尋問です。これは誘導尋問、相手に不利になる答えをするように誘導し、陥れるやり方で、現代の刑事裁判では、尋問者が相手に不利になる誘導尋問をすることは禁止されています。 彼らは何をたくらんだのでしょうか? イエスさまなら当然、「権威は神に由来する」とお答えになることを前提として、彼ら指導者たちはこの質問を画策したわけです。しかし彼らはいやしくも神の権威についてだれよりもよく知っているべき立場、神の権威を正しく認めるべき立場にあったわけで、そんな彼らは、いま目の前におられるイエスさまが帯びておられる神の権威を認めないどころか、もしそのようにイエスさまがおっしゃったならば、死刑にしようとさえしているわけです。彼らは神の子を前にして、こうまでも霊の目に覆いがかぶさっていて、神の子が見えなかったことになります。 彼ら宗教指導者はしかし、頑なまでもイエスさまを認めようとしませんでした。かえって、イエスさまを葬り去るために、この手の質問をいくつも用意していました。姦淫の現場でとらえられた女性を連れてきて、さあ、どうする、とイエスさまに迫ったり、カエサルに税金を納めることは律法にかなっていますか、と迫ったり……。しかしそのたびに、どんな反問もできない神の知恵に満ちたイエスさまのお答えに、彼らは沈黙するしかありませんでした。 今回はどうでしょうか? 29節です。イエスさまは、自分は逃げずにこの質問にちゃんと答える準備ができている、ということをお示しになります。しかしそのためには、イエスさまのなさる質問に対し、自分たちの意見をしっかり語ることが条件だ、というわけです。ここでイエスさまは、彼ら指導者たちがどんなことばを語るよりも、どんな態度をしているかを問題にされます。 彼らの態度をあぶりだしにしたイエスさまのご質問はどんなものだったのでしょうか? 30節です。……イエスさまのこの質問は、彼らの問題をあらわにしました。それは彼らの会話を見ると明らかです。31節、32節です。 バプテスマのヨハネは、イエスさまの先駆けとしてこの地に現れた人です。その、彼が人々に施すバプテスマは、パリサイ人やサドカイ人のような宗教指導者たちも大勢受けに来たほど、彼らから一定の霊的権威を認められたものでした。もっとも彼ら宗教指導者たちは、まむしのすえたち、悔い改めにふさわしい実を結べ、と、ヨハネに一喝されています。 ただし、彼らはとにかくバプテスマを受けようとしたことは事実だったわけで、つまり、ヨハネに何らかの霊的権威があったことを認めていたことにはなります。しかしそれならば、ヨハネが指し示すお方である、イエスさまを救い主と信じるべき、少なくとも、イエスさまには父なる神さまに由来する霊的権威があることを認めるべきでした。その点で彼らは、ヨハネのバプテスマは天から来たと言うだけの行動をすでに取っていたにもかかわらず、そのバプテスマが天から来たと言うことは、口が裂けても言えませんでした。 ということは、彼らは、ヨハネのバプテスマが人から出たと言えば、彼らなりに筋が通っていることになります。そうすれば、ヨハネの指し示すイエスさまの権威は、所詮人に由来するものでしかないと言い切れます。しかし、彼らはヨハネを預言者と認め、ヨルダン川に身を沈めてバプテスマを受けることさえした群衆を前にしても、やはりそんなことは言えませんでした。彼らがほんとうに恐れていたのは神ではなく、人だったとも言えるわけで、その点でも彼らは神の民ユダヤの指導者として失格だったということができます。 結局彼らは、何も答えることができず、わかりません、と言うしかありませんでした。イエスさまはそんな彼らには、ご自身の権威がどこから来たかを説明される必要はありませんでした。つまり、イエスさまの権威がどこから来たかわかっているくせに、それをあえて尋ねることでイエスさまを罠にかけようとする者の手に乗る必要はなかった、ということです。またしても彼らは沈黙するのみでした。神の知恵にどんな人の悪知恵もかなうわけがありません。 こうしてイエスさまは、彼ら指導者を退けられましたが、ここで私たちは、彼らが神の民の指導者という立場にありながら、なぜこうまでして、聖書に啓示されたお方であるイエスさまのことが信じられなかったのか、その不信仰の理由を考えてみたいと思います。神さまは人を愛されるお方です。それならば、これほどまでに神さまに献身している人が、もっとも神さまとその愛を知っていてしかるべきです。ところが実際はその逆で、神を知っているはずの者たちががもっとも神から遠かったわけです。 それはなぜでしょうか。まず、彼ら指導者たちは、たしかに神を知っている立場にありましたが、実際はテトスへの手紙1章19節で語られているとおりの人だからです。そしてそのように、神を信じていることを行いで否定するということは、つまり、その行いは「悪い」ということです。このあたりのことについては、ヨハネの福音書3章16節以下をご覧ください。 私たちは、心の中の動機が悪ければ、つまり神に対して不敬虔ならば行いが悪くなる、とつい考えないでしょうか。しかしこのヨハネの福音書のみことばを見ると、行いが悪いから光のもとに引き出されたくなくて、神のもとに行かない、と語っています。ならば私たちが優先的に点検すべきは、心の状態ではなく、行いそれ自体です。 私たちは自分が思うほど、自分の心の状態をわかっているわけではありません。しかし、私たちは自分の行いなら、自分が何をしているかわかるはずです。この行いを見て、私たちは神の前に正しい態度でいるかどうか、イエスさまにお従いしているにふさわしい状態にあるかどうかが見えてきます。 だが、それさえも分からなくなるほど、サタンにくらまされる時というのがあります。彼らは何をしているのかわからないのです。自分がしていることが果たして悪いことかどうか、その判断をつけることさえできないのです。それはそれだけ、悪い行いをすることに慣れすぎてしまって、結果、神を信じない、神から離れるしかない状態です。 しかし、それは私たちみなに言えることではないでしょうか。私たちはどこかで、神さまのご支配に委ねたくない罪人です。神さまが自分の神でありつづけることをどこかで嫌がっている、自己中心の罪人です。このときの宗教指導者たちなど、まさにそのような状態にありました。 しかし、イエスさまはそのような宗教指導者の究極の悪い行いであった、十字架におつきになったときに、なんとお祈りされたでしょうか?「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼ら、神の子を十字架につけるという、宗教指導者にあるまじき行いをする者、行いが悪いゆえに、光なる主のみもとに来ることが決してできなくなった彼ら、そんな彼らは、何をしているのかわからないから、どうか赦していただきたい、と、御父にお祈りされました。 もし、自分が何をしているか知っていたら、彼らはその責任を当然、地獄行きというさばきを受けることによって取るべきでした。しかしイエスさまはそのさばきを、身代わりになって受けてくださいました。このとき、宗教指導者たちが神の子主イエスを知りながらも決して信仰告白をしなかったほど頑なであったように、私たちも頑なであるという点で、ユダヤの指導者と変わるところはありません。いまもなお、自分のしていることがわからない。神のみこころを行いたいと願いながら、それができず、反対のことを行なってしまうほど、自分の行いがわからない。それが私たちではないでしょうか。神さまはその行い、罪の行いの報酬として、当然私たちに、死、すなわち永遠の滅びをお与えになって当然です。 しかしイエスさまはその御父の怒りとのろいを、十字架にくぎづけになった両手を広げて受け止められ、すべての人をかくまってくださいました。彼らはわからずにしているんです、彼らに責任を負わせないでください、その責任はわたしがお引き受けします! 私たちは神を信じながら、なお罪を犯すものです。行いが悪いため、神さまのもとに行くことなどできない者でした。しかしあわれみ豊かな神さまは、私たちに、イエスさまの十字架を信じる信仰を与えてくださり、私たちのことを救ってくださいました。それでも私たちは相変わらず悪い行いをするものです。だからこそ私たちには十字架が必要なのです。あわれみを求めて、イエスさまの十字架を祈りのうちに仰ぐ必要があるものです。その歩みの中で、私たちの行いはきよめられて、キリストにならう者に変えられてまいります。 そして、私たちがクリスチャンだからという理由で迫害する人は、実はイエスさまご自身を迫害している人です。私たちの周りのそんな人たちのことを、私たちはどう思いますでしょうか? イエスさまが十字架の飢えからお祈りされたように、彼らはわからないでそういうことをしている、だから赦していただきたい、と、神さまに執り成してお祈りするならば、私たちは祝福された歩みをしていることになります。私たちがどんなにあわれみをいただいて、ユダヤの指導者と同じ、イエスさまを十字架につけるほどの罪から救っていただいたかを心から思い、主に感謝するなら、私たちはこの祈りがひとりでに口を突いて出る恵みをいただきます。 私たちはイエスさまによって赦されたわが身の幸せを思いましょう。そして、イエスさまの赦しが私たちの周りの人々に及ぶように、私たちもその人々を赦し、愛する力がいただけるように祈りましょう。

いちじくの木の教え

聖書本文;マルコの福音書11章12節~25節 メッセージ題目;いちじくの木の教え 神さまの創造の不思議というものに、私たちはときどき出会います。たとえば、人のように見えるもの。それは、木ではないでしょうか。教会の駐車場に生えているような、植物の木。幹は胴体、太い枝は腕、そして、上のほうで茂る枝葉は全体が人の頭のように見えないでしょうか? ときどき絵本などで見ませんか、人のように顔があって、ことばをしゃべる木を。 逆に、これは以前学んだマルコの福音書のみことばにありましたが、イエスさまに目をいやしていただいた盲人が、最初人を見たとき、人が木のようです、と言っています。人の姿はぼんやり見ていると、木に似ているというわけです。 そういうわけで、神さまは人に似たものとして、木というものを創造されました。そういう木に囲まれて生活している私たちですから、たとえば春になると満開の花を咲かせるさくらの木が、寿命が来てこのままだと倒れて危ないからと、電動のこぎりなどで切り倒す現場に出くわすと、私たちはどこか心が痛みます。そんな私たちが何の予備知識もなく、今日の箇所を読んだらどう思うでしょうか? お尋ねしたいのですが、みなさまが最初この箇所を読んだとき、どんな印象をお持ちになりましたか? イエスさま、おなかがすいているからって、何もそこまでしなくても、などと思いませんでしたか? 正直に申しまして、私は最初そう思ってしまいました。 イエスさまは貧しい人や、からだの不自由な人をお心に留めてくださる、やさしいお方です。そんなイエスさまが時に、暴力的とさえ思えるような行動に出られるのを福音書で目にしたら、私たちは戸惑いませんでしょうか? 今日お読みしたみことばでは、イエスさまは木を枯らされただけではありません。エルサレム神殿の中で暴れ回っておられます。こんなイエスさまのお姿はあまり見られないだけに、目を丸くしてしまわないでしょうか? だからこそ私たちは、このようなイエスさまの行動から学ぶために、聖書を深く知る必要があるわけです。聖書に書かれていることを表面的に受け取り、かわいそう、とか、ひどい、とか、感情的に反応したら、下手をするとつまずき、信仰がそれ以上成長しなくなる危険があります。つまずかないために、主のみことばは愛に満ちた誤りなき神のことばであると受け取りつつ、謙遜に学ぶ姿勢が必要です。 さて、朝になってエルサレム城外のベタニアからエルサレムに入られるイエスさまは、その途上、おなかがすいておられました。折しも、遠くにいちじくの木が見えました。しかしその木は、葉が茂っているばかりで、何の実もついていませんでした。イエスさまはこのいちじくの木を呪われ、今後おまえの実をだれも食べることのないように、とおっしゃいました。 しかし、この13節のみことばを見てみますと、「いちじくのなる季節ではなかった」からいちじくの実はなっていなかったということが書かれています。それなら、実がなっていないのはしかたがないのではないでしょうか? イエスさまはそれをご存じなかったのでしょうか? イエスさまはひどいのでしょうか? 私も長いこと、この謎がわからずにいました。しかし、私がこの教会にやってきて、前任者だった宇佐神実先生にいただいた本、『聖書の世界が見える・植物編』という、もともとが漢方のお医者さんで、現在はイスラエルで宣教師をしておられるリュ・モーセ先生という方がお書きになった本を読んで、長年の疑問が氷解しました。今からお話しする、いちじくに関するお話は、その本を参考にお話しすることです。 多くの人はこのできごとを合理的に説明しようと試みて、大きく分けて2種類のことを言います。ひとつは、イエスさまがあまりにおなかがすいていて、いらだちのあまり呪われた、もうひとつは、十字架の死を前にして、瞬間的に理性を失われた。とくに後者の解釈は、かのシュバイツァー博士も採用しているものです。 しかしもちろん、そういう軽薄な理由でイエスさまがこのような行動をお取りになったわけではありません。そのために理解すべきことは、イスラエルにおいていちじくがどのように実を結ぶかということです。イスラエルは地中海の気候で、4月から10月までの乾季と、その残りの期間の雨季に分かれます。6か月の雨季の冬の間、葉のない枯れ枝のまま冬を過ごしたいちじくの木は、過越が近づくにつれ、わずかな葉とともに最初の実をつけ、その後長い夏の間に、5回にわたって実をつけます。じつは、初なりのいちじくを指すヘブル語と、夏の間に実るいちじくを指すヘブル語は、別のことばなのです。初なりのいちじくは「パーグ」、そのあとのいちじくは「テエナ」です。 つまり、これはヘブル語の原語に忠実に解釈すると、イエスさまが探されたのは「パーグ」、すなわち「初なりのいちじく」であり、しかし「テエナ」の季節ではなかった、ということです。過越の時期に葉ばかりが茂って初なりのいちじく「パーグ」がついていない木は、明らかに問題がありました。こんな木は夏になっても「テエナ」の実を結ばないことは明らかでした。 イスラエルにおいて果物とは基本的に夏のもので、冬には果物は実を結びません。初なりのいちじくとは、まさにイスラエルの民が待ち焦がれている甘いもの、滋味豊かなものであり、神さまがイスラエルの民に注がれるそのおこころは、この待ち望まれているもの、初なりのいちじくに例えられます。 義人が消え去ってしまった南ユダ王国の時代の預言者ミカ、偶像礼拝がはびこったヤロブアム二世の時代の北イスラエル王国の預言者ホセアが、神さまのその御思いを語りましたし、一方で南ユダの預言者イザヤは、その活動していた時代にアッシリアによって滅ぼされた北イスラエルを、はかなく食べられてしまう初なりのいちじくになぞらえました。 このように、いちじくの実は神の民の状態を象徴していましたが、同時にいちじくの木は、季節の訪れを告げました。特に、夏の訪れを告げます。マタイの福音書24章23節と24節のみことばに注目しましょう。イエスさまが終末のしるしについてお語りになっているとき、唐突にいちじくの木の話が出てまいります。これは、イスラエルにおいては秋が一年の四季の始まりであり、秋、冬、春と来て、最後が夏、すなわち、夏という季節は、イスラエルの人たちにとっては終末を意識させるものだからです。 その終末に、滋味豊富で、イスラエル民族にとっては最高の果実ともいえるいちじくの実のような実りがないならば、そのような者は木が枯らされるように、神の国から放り出されてしまいます。このイエスさまのみわざは、マタイの福音書ではひとつづきのように書かれていますが、時系列で理解するならおそらくマルコの福音書の順番どおりです。すなわち、イエスさまがいちじくの木を呪われたらすぐにたちまち木が枯れたというよりも、イエスさまが呪われたあとになってもう一度その木を見ると、枯れていた、ということです。たった一日で枯れたわけですから、マタイの福音書の表現、たちまち枯れた、ということばも、あながち間違っていないことになります。 ともかく、いちじくの木が枯れたことがわかるまでには間があるわけですが、その間何があったのでしょうか? そのできごとから何をお教えになるため、イエスさまはいちじくの木を枯らされたのでしょうか? それは、いわゆる宮きよめでした。イエスさまがエルサレム神殿にお入りになると、そこにはいけにえにする鳩を売ったり、両替をしたりして儲ける者たちがいました。要するに、神殿を世俗的な商売の場としていたわけです。 もし、彼らに言い分があるとすれば、礼拝者の献金は両替してやらなければならないじゃないか、いけにえを用意できない人もいるじゃないか、とでもなるでしょうか。 しかし、イエスさまはお許しになりませんでした。それは、神への礼拝さえも肉的な利得の手段とするほどに堕落した、過ぎ越しにふさわしい初なりの実を結ぶことから程遠い、神の民のなれの果てでした。イエスさまは暴力的とさえ思えるような手段を用いてさえ、彼らに制裁を加えました。 イエスさまは彼らのしていることに対し、本来、御父の家、すなわち祈りの家と呼ばれるべき神殿を、おまえたちは「強盗の巣」にした、となじっておられます。神殿は単なる宗教施設ではなく、神の民が祈りというつながりをもって神を父とする家庭を築く「家」です。神の民は祈りによって父とつながり、お互いが神という父を介してつながる家族です。それが実現する究極の場所が神殿です。そういう生き方をすることによって、やがて世をさばくさばき主としてこの地に来られるイエスさまにまみえることに、神の民たる者はともに備えるべきなのです。 ところが彼らのしていることは、そんな神の民とは似ても似つかない姿です。いえ、およそ人に生まれたならば、その創造主なるイエスさまの再臨に備えて、つねに父なる神さまと祈りをもって交わり、ものの売り買いを介してではないとつながれないようなドライかつ世俗的な関係ではなく、主にあってほかの人たちと愛にあふれた交わりを持つ共同体を形づくるべきです。つまり、彼らは人でさえありません。家ではなく、「巣」に住むようなけだものにも等しい者ども、そして、いけにえにするには鳩しかささげられないような貧しい者たち、巡礼に来ていてなけなしのお金を差し出そうとする人たちさえ利得の手段にするような彼らユダヤ人は、強盗だとおっしゃっているわけです。人のものを奪う、すなわちそうすることで、神のものを奪う彼らは、祈りの家に居座る強盗どもです。 過越とは、神のさばきと贖いの告げ知らされる大事なときです。このときイエスさまは、十字架におかかりになり、過越における究極の子羊のいけにえとなられました。しかし、その子羊によって贖われるべき肝心のユダヤ人は、御父の家、祈りの家を弱者から搾取してむさぼる利得の手段にして恥じることをしない、強盗どもと化していました。そんな彼らはうわべだけを誇る、過越の季節にふさわしくなく、まるで真夏のように葉ばかり青々と茂らせても、イエスさまを満足させる小さな実ひとつ結べない者たちでした。イスラエルの夏に象徴される終末が現に臨んでいようとも、そんなことはお構いなしの傲慢きわまる態度です。 ただ、イエスさまはいちじくの木を枯らされたことに対して驚いている弟子たちに対して、そのような霊的な奥義を説明される代わりに、信じて祈る者の祈りを神さまは聞いてくださる、山に向かって動いて海に入れ、と祈っても、そのとおりになる、と、すごいことをお語りになりました。 イエスさまのこのおことばを表面的に受け取るならば、そうか、そんな不可能と思えるようなことでも、信じて祈れば聞いていただけるのか、という理解で終わってしまいます。これは前に、岡野俊之先生という牧師先生のメッセージでお聴きしたことですが、岡野先生はまだ若者だったとき、この箇所から解き明かされたメッセージを聴いてイエスさまを信じ、家に帰ってノンクリスチャンのお父さまに興奮してお話しになったそうです。「お父さん、イエスさまを信じるってすごいよ! イエスさまを信じて祈るならば、山も動かせるんだよ!」すると、お父さまはこうお答えになったそうです。「馬鹿だなあ。おまえは自分の寝ていた布団ひとつ動かせないじゃないか。」要するにお父さまは、布団の上げ下ろしもできない者が、何が祈りの力だ、とおっしゃりたかったわけです。だから、ここでイエスさまがおっしゃりたかったことを、クリスチャンは祈れば必ず全能の力が与えられる、というレベルで捉えないことが大事になります。 これは、イエスさまがなぜいちじくの木を枯らされたか、そのことで弟子たちに何をお教えになろうとしたか、を考えることで理解すべきことです。海とは何でしょうか。神なき暗黒の世界の象徴です。しかし終わりの日、天国が実現したら、以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはやそこには海がないとみことばは語ります。それでもそうなる前に、エルサレムという山の町がもろとも海に投げ込まれるがごとく、主の時の訪れを無視しつづけて神の領域を強盗のごとく占拠しつづける、名ばかりの神の民のつかさたちは、海に投げ込まれるがごとく、火と硫黄の池に投げ込まれます。 その主の正義のさばき、御怒りの報復の日は必ず起こる、と信じて祈ることが、あらゆる祈りの基礎となります。その中には、人間的に考えたら不可能と思えることさえ含まれるでしょう。その祈りが聞かれることで主のご栄光が広くたたえられ、主の御国が拡大し、主の再臨が確実に近づくからです。 そう、私たちにとっていちばん信じるべきことは、主が必ずこの世界をさばき、天国を実現してくださるということです。しかし、あらゆる宗教や唯物論が常識となる一方で、再臨のイエスさまのご存在を頑として受け入れないこの世界において、このことを事実と信じて祈る求めることには、並大抵ではない信仰が必要とされます。何よりも、いちじくをたちまち枯らされたほどのイエスさまがどれほど全能なお方であり、また主権者であられるかを心の底から認める謙遜さ、敬虔さが必要とされます。イエスさまなど再臨するものかという間違ったこの世の常識に、どんなことがあっても負けない、いえ、むしろ私たちの祈りの力によって、再臨を確実に実現していただく、そのように信仰を働かせてまいりたいものです。 ただし、そのように全能の御手を伸ばしてくださる信仰を私たちが働かせるにあたって、イエスさまが命じておられることがあります。それは、兄弟姉妹を赦す、ということです。私たちは神さまから見ればあまりに罪が多く、神に敵対する歩みを意識するしないにかかわらずしている罪人です。そんな私たちはしかし、イエスさまの十字架によって、完全に罪なきものと見なしていただきました。しかし、そのように罪を赦していただいただけの私たちが、もしほかの兄弟姉妹の罪に目を留めて、怒ったり、さばいたりして、赦さなかったらどうでしょうか? よくもそんなことをしてくれたな、と、呪ったりしたらどうでしょうか? 神さまはそんな私たちのことをお赦しになりません。そんな怒りとのろいをいだくものは、天国にふさわしくないからです。 しかし、私たちはそう簡単に怒りを手放せません。しかしこのままでは、終わりの日に神さまが実現してくださる天国に入れません。ならば私たちは、天国を実現する全能の御業をなしてくださいという祈りを手控えるべきなのでしょうか? そうなってはなりません。むしろ私たちは、天国がわが身にも完全に実現するために、怒りを手放し、兄弟姉妹を赦す決断をする必要があります。それがもし極めて難しいこと、不可能なこととさえ思えるならば、そこにこそ私たちは、全能の御手を求めましょう。主は、不動の山のように居座る私たちの怒りさえも手放せるように、全能の御業をなしてくださいます。 ともに祈りましょう。私たちはひとりの例外なく、さばき主なる主の御前に立つ日が来ます。しかし、私たちはさばかれません。なぜなら、イエスさまの十字架によって罪を赦していただいているからです。この罪の赦しが、私たちの愛する人、まだイエスさまに出会っていないけれども私たちの愛している人に実現すること、それによって神の怒りからその方が免れられるようにと願いましょう。そして私たちは、人間的にはありえないことのように見えるイエスさまの再臨を、心から信じて求めましょう。

主の弟子への招き

聖書箇所;ルカの福音書5章1節~11節 メッセージ題目;「主の弟子への招き」    本日は礼拝においてバプテスマが執り行われます。まことに嬉しい、喜びに満ちたひとときを、私たち教会はともに迎えます。私もお祝いする気持ちで、祈りつつ聖書本文を探しまして、今日の本文に行きつきました。今日はバプテスマも主の晩さんも行われますので、いつもより短い時間でメッセージしたいと思います。  イエスさまを信じるということは、同時に、イエスさまの弟子に招かれる、ということです。イエスさまの弟子になるということは、難しいことではありません。厳しい修行を積まなければイエスさまの弟子になれない、という性質のものではありません。聖書を見てみますと、イエスさまがご自身のメッセージを聴きに集まった群衆に、たとえで神の国について説明された後、そのたとえの意味を尋ねる弟子たちに、その意味を解き明かされた内容が収録されています。この解き明かしが、弟子ではなければお聴きできなかった内容であったことを考えると、それが聖書に収録されている以上、聖書を読む人はみな、イエスさまの弟子に招かれている、ということが言えるわけです。聖書は一般の書店でも簡単に手に入る書物であるわけで、つまり、イエスさまの弟子になる道は、実はとても広く開かれているわけです。  それだけではありません。使徒の働き6章1節を読んでみますと、教会の群れに日に日に増し加わった人々のことを、はっきり「弟子」と呼んでいます。その人々はもちろん、イエスさまを信じ受け入れ、バプテスマを受けることによって教会の一員となっていったわけですから、イエスさまを信じてバプテスマを受けるならば、即、弟子に召されると言えるわけです。  今日の箇所、ペテロがイエスさまの弟子に正式に招かれた箇所も、難解かつ秘密の書物ではなく、聖書の読者である私たちに開かれているみことばです。ペテロは特別だと思いますでしょうか? いえ、みことばをもって弟子に招かれているということにおいて、ペテロも私たちも変わるところはありません。  今日の箇所、ルカの福音書5章のシーンをざっと見てみます。ゲネサレ湖で……ガリラヤ湖のことですが……ゲネサレ湖という湖で夜通し漁をしたけれども、何も獲れなかったシモン・ペテロの舟にイエスさまがお乗りになって、舟の上から湖岸に集まった大勢の群衆に教えを語られました。それからイエスさまはペテロに、深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい、そうすれば魚が獲れるから、とおっしゃいました。ペテロがそのおことばのとおりに網を下ろすと、舟も沈みそうになるほどの魚が獲れ、ペテロがイエスさまの御前にひれ伏します。そんなペテロにイエスさまは、あなたは人間を取る漁師になります、とおっしゃいました。そのおことばを受けて、ペテロもアンデレも、その網を引きげるのを手伝ったヤコブもヨハネも、何もかも老いてイエスさまに従っていきました。  そのように、今日の箇所はイエスさまのお招きにペテロたちがお応えしたという内容ですが、主の弟子への招きとそれへの応答というものは、イエスさまが一方的に嫌がるペテロたちを引っ張っていったわけではなく、イエスさまとペテロの共同作業のようにしてなされたものだということがわかります。  福音書を読み比べてみると分かりますが、実を言いますと、シモン・ペテロは今日の本文、ルカの福音書5章のシーンでイエスさまに初めて出会ったわけではありません。その前に、すでに出会っています。その場面はヨハネの福音書1章に描かれていますが、もともとがバプテスマのヨハネの弟子だったアンデレが、自分の兄弟のことをイエスさまのもとに連れていきます。その兄弟がシモン・ペテロです。アンデレは一日、イエスさまと過ごしてから、シモンのもとに行ったわけですが、この時点ですでにアンデレは、イエスさまのことをキリストと認めています。  シモンがイエスさまのもとに行くと、イエスさまはシモンに対し、あなたはケファ、すなわちペテロと呼ばれよう、と、出会ってそうそう、名前をつけられ、シモンとの個人的な関係を築かれました。  そういう背景があったうえで、イエスさまはゲネサレ湖畔にて、シモン・ペテロの舟から群衆に対して教えを宣べられたわけです。いきなり面識もないペテロの舟に乗られたわけではなかったわけです。ともかく、ペテロは夜通しの漁で疲れていたことでしょう。そればかりか何も獲れないで、むなしささえ覚えていたはずです。しかし、なんと、その朝に、目を凝らすとイエスさまがやってきます。後ろにはぞろぞろと群衆がついてきています。そのイエスさまが、群衆を教えるにあたり、ペテロの船着き場、そしてペテロの舟という場所をお選びになったわけです。実に、ペテロは選ばれていました。なんという光栄でしょう。  それだけではありません。ペテロがこぎ出した舟にイエスさまがお乗りになり、そこからお教えになったということは、ペテロはだれよりもイエスさまのそばで、そのメッセージを直接お聴きするという恵みにあずかったことになります。選ばれて、みそばでイエスさまのみことばをお聞きする、すでにイエスさまの弟子としてお従いする準備ができていました。  そのイエスさまが、深みに漕ぎ出して魚を獲りなさい、とおっしゃるわけです。ペテロとしては、夜通し漁をしても何も取れなかった……先週私たちは、落胆、ということをメッセージで扱いましたが、こういう時こそペテロは落胆していたことでしょう。それに、何も獲れなかったなんて、漁師としてのプライドにかかわることでもありました。  しかしペテロは、「でも、おことばどおり、網を下ろしてみましょう」とお答えします。いえいえ、何も獲れないんです! 私は疲れているんです! そんなことは言いませんでした。ペテロは、そばでメッセージをお語りになるイエスさまのそのおことばに、心動かされたわけです。このお方が一緒ならばできる、このお方がおっしゃるならばできる、そう信じ、深みに漕ぎ出して網を下ろしました。すると何ということでしょう。まったく獲れなかった魚が、舟も沈まんばかりに大漁!  このように、主が召され、導かれるとおりに従順にお従いするならば、主はすばらしい祝福を約束してくださると、みことばは語ります。まずは、みことばがまことであると信じることです。主が祝福をもたらしてくださる恵みは、そこから始まります。  ペテロもアンデレも、その仲間のヤコブもヨハネも、イエスさまのこのみわざに、大きな恐れを覚えました。人間的にどんなに努力してもかなわないことを、従順に従うならば主は十二分にかなえてくださる。そんな全能なるお方。  このお方こそ王の王、主の主、もう、ひれふすしかありません。しかしイエスさまは、そのように恐れに震える彼に対し、「今から後、あなたは人間を獲る漁師になります」とおっしゃいました。漁師ひとすじに生きてきたペテロ、そしてアンデレやヤコブやヨハネに、新しい生き方、主ご自身がお導きになる生き方をお授けになりました。主の弟子となって、主のもとに人々をお導きするという、素敵な生き方。こうなったら彼らのすることは、その生き方をするために、イエスさまにお従いすることだけでした。  ペテロたちがそうしたように、私たちも主の弟子としてお従いする祝福を知って、イエスさまについていく存在です。人は言うかもしれません。弟子として生きるなんておよしなさい。しかし、天地万物をおつくりになった神さまご自身の招きです。これを拒否さすることがどんなに人生にとって損失か、わかっているのです。反対に、すべてを捨てて主にお従いすることならば、この世においては捨てた分の何倍も受け、のちの世では永遠のいのちの大きな祝福を受けることを知っているのです。その祝福を、だれかに言われたからと手放すだなんて! だれが何と言おうと、主の弟子としてイエスさまにお従いすることはやめられません。  でも、弟子としてお従いするのは楽しい道です。ペテロはそれから、そのリーダーシップを発揮する一方でおっちょこちょいな性格のゆえに、弟子共同体の生活の中で何度もしくじりましたが、最終的にはすばらしい働き人として整えられました。私たちはイエスさまのそばに置いていただいているから、必要十分のみことばをお読みできるから、お祈りすればイエスさまにいつでも聴いていただけるから、私たちは「弟子」です。  今日、姉妹はイエスさまの弟子としてキリスト教会においても、この世においてもデビューしようと、バプテスマをお受けになるという、素晴らしい決断をなさいました。繰り返し申します。イエスさまの弟子として生きることは楽しいです。なぜならば、その喜びを分かち合える信仰の友、弟子の仲間が、こうしてともにいるからです。ペテロが兄弟のアンデレ、漁師仲間のヤコブやヨハネと一緒に召され、共同体となって孤独じゃなかったのと同じことです。みなさん、姉妹と一緒に励まし合いながら、弟子の歩みをしてまいりましょう。その弟子の歩み、愛の歩みは、人間の力では決してできないけれども、全能なるイエスさまに働いていただくことではじめてできる、人がたくさんイエスさまのもとに送られてくるという、その実を結びます。そのために用いられるべく、日々ともに主の弟子として訓練を喜んで受け、お従いしていく、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

落胆しないで生きるために

聖書箇所;コリント人への手紙第二4章16節~18節 メッセージ題目;「落胆しないで生きるために」 7月の礼拝で毎週語ってまいりましたメッセージ、「キリストのからだ」シリーズも、今日で最後となります。私たちが、キリストのからだなる教会のひと枝であるとはどういうことか、いろいろな局面から学んでまいりました。今日は特に、キリストのからだとして生きる私たちは、本来、落胆というものをする存在ではないということについて学びます。 落胆……がっかりするということです。期待して物事に取り組んだが、その結果はよくなかった……そんなとき私たちはがっかりします。子どものときなど特にがっかりすることは多いでしょう。その「がっかり」の積み重ねで、私たちはいろいろなことを悟りながら成長し、やがて大人になります。しかし、大人になっても、がっかりすることというのは多いものです。いえ、がっかり、というより、落胆、ということばのほうがしっくりするものではないでしょうか。予期せぬ病気や事故、事業や資産運用の失敗、家族の中の問題、人間関係のトラブル、人間的にはどうしようもない自然災害……。実に落胆させられることばかりです。 しかし、今日の箇所を見てみますと、パウロはコリント教会の信徒たちに向かって、落胆しない、と語っています。パウロがそう語る最大の理由は、普通に考えるならば問題だらけのコリント教会を前にしても、指導者である自分は落胆していない、ということを、コリント教会の信徒たちにわかってもらうためでした。 落胆ということは複雑な教会の人間関係の中にかぎらず、先ほども申しましたとおり、いつ、どこでも、私たちが生活しているかぎり起こることです。だれであれ体験することです。しかし、私たちクリスチャンは少なくとも、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と語られている存在です。落胆することが私たちにあまりふさわしくないのは、私たちは主の光によって明るく輝く存在だからです。それは、私たちだけが快適に生きればよいからではありません。私たちの主にあるよい行いをとおして、周りの人たちが天におられる私たちの父なる神さまをほめたたえるためです。落胆しないといっても、周りと無関係に楽天的に振る舞いさえすればいいということではありません。 私たちは、「自分は落胆しません」と語るパウロの姿から、教会としても、個人としても落胆しないために、明るく快活に振る舞って主のご栄光を顕すために、どのような態度で生きるべきか、特に、何に注目して生きるべきか、いまお読みしたみことばを一節ずつに分けて、3つのポイントからお話ししたいと思います。 第一に私たちは、内なる人に注目します。 16節をお読みしましょう。……ここでは、「外なる人」と「内なる人」が対比されています。私たちは「外なる人」につい注目します。それは、私たちの目に見えるのも、私たちが実際に感じ、考え、語り、行動するのも、すべてはこの肉体、すなわち「外なる人」を介して行われるものだからです。その、厳然と存在する「外なる人」という制約の中で生活する現実から一切自由になることなく、私たちは生きています。 しかもこの「外なる人」は、つねに衰えます。いや、成長期にある子どもは衰えていないじゃないか、とおっしゃる向きもありましょうが、やがてその成長は止まり、衰えていく一方になります。かく申します私も、49にもなりますとしわや白髪が増え、若い頃ほどは体力的に無理が利かなくなっています。いえ、それ以前に、私は中高生のときに病気になって大きな手術をして、両胸ともに大きな傷跡があります。すでに十代の頃から衰えは始まっていたのでした。 そういう現実の中に生きる私たちですが、衰えるということは同時に、天国に一歩一歩近づいていくということも意味しています。多くの人にとって衰えるということが悲しいことにしかならないのは、その完全な衰え、究極の衰えである「死」の向こうにある、イエスさまの待つ永遠の御国に行く道を、そもそも知らないからです。私たちはそうではありません。私たちは究極の衰えである「死」のその瞬間、御国に移されます。 そうだと知るならば、私たちはまず、外の人の衰えにことさらに目を留めないで生きることが大事になります。外の人は衰え、病み、傷つくことばかりで、それを食い止めるにはどうすればいいか、ということばかりを考えてしまいます。なにも、そのような努力が「悪い」と言いたいわけではありません。よい食事をすることも、運動をすることも、みんな大切です。しかし、所詮それは「食い止める」、ないしは「遅らせる」努力であるだけで、衰えを「解決する」、「根治する」ことにはなりません。ただし、これらの努力には一定の意味はあります。それについてはのちほどお語りします。 私たちが目を留めるべきは、「内なる人」です。この「内なる人」は、外なる人が衰えてもなお依然として存在する、私たちの存在そのものであるのと同時に、イエスさまを信じる信仰によって主に贖われ、天の御国に入れていただく保障をいただいた存在です。私たちクリスチャンは、この「内なる人」という存在があるゆえに、その存在をもって天の御国に入れられ、永遠に生きるものです。 この「内なる人」が主と交わり、主を知る知識で満たされ、主の栄光を顕すという、主に喜ばれることを行いたいと願うものです。しかし、外なる人という現実ばかりが見えてしまっているならば、内なる人の持つ底知れぬポテンシャル、すなわち、全能なる主のみわざを、主の手足となって執り行う、主の愛をもって隣人を愛する、そのようにして主のご栄光を顕す、その生き方が、著しく制限されてしまいます。こんな傷ついた自分になんて、こんな弱い自分になんて、こんな未熟な自分になんて、そう思って、内なる人の、主のご栄光を顕したい、顕したい、そのために霊的に成長したい、成長したい、という、聖なる欲求をがんじがらめにしてしまうのです。 礼拝でみことばに耳を傾けることがなぜ必要なのでしょうか? 聖徒の交わりにおいてみことばを分かち合うことがなぜ必要なのでしょうか? ディボーションと聖書通読で毎日みことばを読むことがなぜ必要なのでしょうか? それは、衰える外なる人ではなく、日々新たにされる内なる人こそが、私たち個人個人にとっても、教会にとっても本当の現実であると知り、その現実の中でこそ私たちが実際に生きるためです。私たちは主と交わることによってはじめて、内なる人が日々新たにされているという、その現実を実感し、それゆえに落胆することがなくなります。個人個人がそうなれば、教会全体がそうなりますし、教会全体がそうなれば、個人個人がそうなります。 それでは、第二のポイントにまいりましょう。第二に私たちは、重い永遠の栄光に注目します。 17節のみことばをお読みしましょう。……この節は、「一時(いっとき)の軽い苦難」がもたらすものは、それとは比べ物にならないほどの「重い永遠の栄光」であると語ります。 私たちはだれしも、苦難を体験します。ここで礼拝をささげている私たちも、現実に今、苦難のただ中にいてとても苦しい思いをしているかもしれません。ところが、その苦難とは、このみことばによれば「軽い」というのです。 どうすればこの苦難を「軽い」ととらえられるようになるのでしょうか? それは、この苦難のすえに私たちがたどり着く「重い永遠の栄光」があることを心から信じることによってです。そもそも、苦難というものは、それが自分の身に起こるたびに「自分は悪くないのになんで自分ばかりこんなひどい目に」という態度でいるならば、私たちはいつまでたっても被害者のポジションから抜けられず、生産的ではない自己憐憫に陥るしかありません。 私たちが身に帯びる苦難というものは、何であれ、私たちに向けられた主のみこころと無関係に存在するものはありません。主は私たちが苦難にあうことをお許しになることによって、私たちをご自身に拠り頼むようにさせ、私たちをあらゆる面で成長させ、強くしてくださいます。また、ご自身の働き、すなわち、神の愛を隣人に対して実践するものとして、私たちのことをふさわしく整えてくださいます。 その、無数のプロセスの果てに、私たちはキリストの満ち満ちた身丈、キリストの似姿に成長させられ、その人生の終わりに、栄光の天国に至るわけです。そのような私たちは、その日、この地上で何をなしてきたか問われることになります。私たちがいかにして主の御国のために労してきたか、時にそのために苦難にあうことも選択してきたか、問われます。そのとき私たちは、恥ずかしくなく主の御前に立つことができるでしょうか? 私はもし、自分の人生が今日にでも終わり、主の御前に立つことになったならば、天国に入れていただける確信を持っています。天国というところはイエスさまを信じる信仰ひとつで入れていただけるところだからです。しかし、天国に入れていただけることは確かでも、私が恥ずかしくなく人生を走りおおせ、イエスさまの御前に立てるかと問われれば、まだまだです。とお答えするしかありません。それはなによりも、イエスさまが十字架を背負って私のために死んでくださったように、私も十字架を背負ってイエスさまのみあとを日々ついていきましたと、確信をもって断言できるとは思えないからです。 十字架を背負う歩みは、ひとりひとりが周りと関係なくするものではありません。この、キリストのからだなる共同体、教会においては、十字架を背負ってイエスさまにお従いするその歩みはそれぞれがしているようで、実はこの共同体にあって「ともに」していることを、私たちは自覚する必要があります。ゆえに私たちは、ほかの兄弟姉妹が今体験している苦難に無関心であってはなりません。それは「私の」問題であるからです。同時に「私の」体験している苦難は、ほかの兄弟姉妹にとっても同じように体験している苦難でもあります。分かち合えることを分かち合うことによって、私たちは重い永遠の栄光に向かう共同体として、ともにいま体験している苦難が、一時の軽いものであるととらえ、忍べるようになります。 また、重い永遠の栄光というゴールがあることを知るならば、いま体験している苦難が「被害者のように苦しまされていること」ではないことがわかります。もちろん、自分の不始末のせいで苦しい目にあっているならば、その責任は苦しい目にあうことで取らなければならないという側面もあるにはありますが、苦難とは必ずしもそういうものとはかぎりません。むしろ、主の栄光のために積極的に生きた結果、苦難を身に帯びることもあるわけで、そうであるならば、私たちは主の恵みの中で、その患難を「選択」する恵みをいただいた、とさえ言えるわけです。そう捉えますと、病気ですとか、災害ですとか、自分ではどうにもならないような領域にも、それらの苦しいことを通じて私たちに目を注がれる主のみこころを認め、感謝できるようになるのではないでしょうか。 私たちはいま体験している苦難がすべてのように思ってはなりません。苦しいときこそ、その果てに永遠の栄光に導いてくださる主の愛に目を留めましょう。ひとりひとりが、というよりも、ともに、目を留め、私たちひとりひとりを苦難のうちにあっても愛してくださる主の愛のすばらしさを、ともに分かち合ってまいりましょう。そうすることで私たちは、落胆することから守っていただけます。 最後に、第三のポイントです。私たちは、永遠に続く見えないものに目を留めます。 18節のみことばです。ここでは、見えるものが一時的であることと、見えないものが永遠に続くことが対比されています。もちろん、私たちの注目すべきは、永遠に続く見えないものです。 信仰というものは、見えないものを確信することです。私たちの信じている神さまは、目に見えるお方ではありません。 しかし私たちは、神さまを信じています。目の前におられる方として、いまここにおられる方として、信じています。これは、私たちに信仰を与えてくださる聖霊なる神さまのなしてくださるわざです。 私たちは信仰によって、このお方、神さまが、永遠のお方であることを信じ受け入れます。限りある私たち人間は、そもそも永遠というものを理解することが許されていません。ただ、永遠なる神さまを信じることにより、私たちは永遠というものを知り、信じることが許されています。 しかし、私たち人間は永遠がわからないと、目の前にあるもの、目の前にある状況が絶対だと思えてしまう弱さを抱えています。いま体験している患難、苦しみがすべて、それがなくなることはない、そう考えるから落胆してしまうわけです。そしてひとたび落胆すると、そのように落胆して当たり前、明るく生きることもできなくなってしまいます。 ふつうはそう生きるもの、そのように目を留めるものです。しかし、少なくとも私たちは、この世の常識や流れにしたがって、ただの人のように歩んで、落胆するのが当たり前のように思ってはなりません。私たちが目を留めるべきは、永遠なるお方、イエスさまです。永遠なるイエスさまはまた、愛なるお方です。ということは、私たちは、永遠の愛によって、永遠に愛されている存在です。イエスさまの十字架は2000年前のエルサレム城外、カルバリの丘での一日にも満たないできごとでしたが、その十字架によって、神さまはどれほど、私たちに対する永遠の愛を明らかにしてくださったことでしょうか。その、わずかの時間の十字架によって、イエスさまは私たちのことを、永遠に罪と死から贖い出し、永遠の神に永遠につなげてくださいました。 そのことを見るのは、信仰によることです。私たちがこうしてここに集い、礼拝をささげているのは、目に見えるのものがすべてではないこと、そして、目に見えない神さまとその愛にこそ目を留めて生きるべく召されていることを、私たちが知っているから、だから、このお方に礼拝をささげるのは当然のことであると私たちが知っているからではないでしょうか。私たちはもはや、現実そのもののようでいて実は過ぎ去っていくものに目を留める存在ではありません。永遠の神さまとその御国、その愛に目を留めて、その中に入れていただくという希望をつねに持つゆえに、一切の落胆から解放されている存在です。 もちろん、このような私たちも時に落胆することもあるでしょう。厳しいことが取り巻く現実を生身の身をもって生きる以上、私たちは傷つきますし、病むこともあるでしょう。しかし私たちは、落胆したままでいることはありません。落ち込んでしまうときこそ、私たちには見上げるべきお方がおられます。このお方を私たちひとりひとりが見上げ、また、教会という共同体で、ともに見上げるのです。そうするとき、私たちは力を受けます。最後に、イザヤ書40章の終わりのみことばをお読みましょう。 見えるものではなく見えないもの、すなわち、日々新たにされる内なる人に注目するならば、永遠の栄光に注目するならば、私たちは落胆することから守られます。この恵みが私たちとともにありますように、主の御名によってお祈りいたします。

弱さを誇るということ

聖書本文;コリント人への手紙第二11章30節 メッセージ題目;キリストのからだの中の弱さ  今年のプロ野球、私がむかしから応援している阪神タイガースは、いまのところ首位をキープしています。しかし、一時期ほどの勢いがないために、ファンとしてもやきもきさせられるところです。  野球のチームにかぎらず、勝つともてはやされ、負けるとけなされるように、「強い」ということが素晴らしいと、普通なら考えます。強いから誇るのです。ライオンという獣が百獣の王ともてはやされるのも、「強い」からです。  今日お読みしたみことばは、そんな「強い」ということに美徳を覚える私たちに、痛烈な一撃を与えるみことばではないでしょうか。自分は弱い、そんな弱い自分を誇る? そんな莫迦な! 普通ならそう思うでしょう。しかし、私たちクリスチャン、キリストのからだなる教会は、弱い自分を誇ってこそ存在する意義があることをみことばは教えます。  まず、パウロが、私は弱さを誇ります、と、コリント教会の信徒たちに高らかに宣言したその背景を、少し見てまいります。パウロの指導の下にあったコリント教会は、忍び込んできたにせ兄弟によって、かき乱されていました。パウロが宣べ伝えた福音に反する教えが伝えられていたのでした。その教えを伝えた者は、ユダヤ人の伝統に根差した自分自身を誇り、さらに、キリストの働き人であると自称して自分を誇る人でした。コリント教会は、そんなにせものの働き人の教えに、すっかり影響を受けてしまい、パウロが宣べ伝えた教え、十字架の福音が無駄になってしまっていました。  パウロはそのように、にせ兄弟に幻惑されていたコリント教会の信徒たちに、そんなにも「スペック」で働き人を判断することをあなたたちが好むならば、私はどうなるのだ、と、第二コリント11章から12章にかけて長い紙面を割いて語ります。  まず、パウロはもともとがユダヤの厳格な律法学者としての教育を受けた立場にありました。ユダヤ人の教師であるという「スペック」を重要視するならば、この私にいちばん言い分がある、というわけです。そして、彼らにせ兄弟、にせ教師たちがキリストの弟子であるというならば、私は狂ったように言いたいが、私こそがキリストの弟子である、と語ります。  そして、自分がキリストの弟子であるゆえに、これまでどれほどたいへんな目にあってきたかということを語ります。これを予備知識なしに読むと、まるで武勇伝のように見えてきます。パウロはこのように自分のことを語ることを、はっきり、自慢話であると語っています。それも、主によって語るのではない自慢話である、とさえ断っています。  もちろん、パウロがこのように自分自身のことを自慢話のように語るのは、それこそ自慢して認めてもらうためではありません。働き人に自己推薦など必要ないことを逆説的に語るためです。彼らにせ兄弟は自分のことを推薦して、それにあなたがたコリント教会はころっといってしまっているが、それと比較してあなたがたが見下げている私パウロはこういう者である、しかし、そんな自慢はむなしいことである、と語っているわけです。  パウロの体験してきたあらゆることを見てみると、主の働き人の末席に連なる者として、私などは恥ずかしくなります。しかし、パウロは、どうだ、こんな私は偉いだろう、と自慢する目的で、このような自慢話を述べているわけではありません。パウロは、そんな自分は実は強い者ではなく、弱い者である、ということを語っています。  一方でパウロは、誇るべき自分の経験を、続く12章の冒頭の部分で語っています。天上の栄光を見ることができた、これはたいへんなことです。ここで、この体験をした人物を、パウロは自分自身であるという語り方はしていませんが、続くことばを読めば、それがパウロであることがわかります。しかし、そのような誇るべき体験をしている者が私パウロであるとはっきり語っていないのは、それがパウロという人物をラベリングする自慢話ととらえてほしくないからです。  その代わりパウロは、この体験をしたことによって、サタンの使い、とげが自分を苦しめるようになったと語ります。パウロを苦しめるこのとげは、一般に肉体的なものであると解釈されています。一説によれば、言語障害、目の病気であると言われていますし、あるいは偏頭痛、てんかんとも言われています。  たしかに、ガラテヤ人への手紙を見てみると、パウロは目に重い病を負っていたように読み取れます。また、コリント教会の信徒の評価によれば、パウロは弱々しいなりをしていたようで、重大な持病を抱えていたことをうかがわせます。ともかく、具体的にその肉体のとげは何か、ということは聖書に明記されていませんが、パウロが弱さを抱えながらの働きをしていることは確かでした。  しかし、パウロにとって、自分が「弱い」ということの本質は、個人的なことにはありませんでした。本日お読みした箇所の直前、28節と29節のみことばをお読みします。……もともとが弱さを抱えているパウロをほんとうに弱くしていたものは、弱さを抱えている教会とその兄弟姉妹のその弱さ、痛みを担っているゆえであると告白します。しかし、続く節、30節において、誇るべきは自分の弱さであるとも語っています。  22節から12章6節までの、言ってみれば「自慢話」は、単に自慢と受け取るならばむなしいものです。しかし、このようなことを体験して弱くなることが、実はパウロのつながっているキリストのからだなる教会と密接にリンクしているならばどうでしょうか。パウロは、それらの体験を誇るのではなく、それらの体験のすえに謙遜にならされるために弱さを与えられたことを誇るようになります。  弱いことが誇れるのはなぜでしょうか。キリストの力が覆うようになるためです。しかし、ただ弱いだけでは、キリストの力が覆うことはありません。パウロにとっての弱さを伴うさまざまな体験は、キリストのからだなる教会が立て上げられるために、どうしても体験しなければならないことでした。兄弟姉妹が病んだり、心を痛めたりしたら祈りますし、必要なことばを送ります。教会内で人間関係のトラブルが起こったら積極的に介入します。次なる働き人を育て、訓練します。まだ福音が宣べ伝えられていない地を開拓し、そこで危険も顧みずに語ります。  そういったことをパウロが積極的に行うのは、キリストのからだなる教会がなお抱える弱さが覆われるためです。しかし、その弱さが覆われる働きは、自分自身が弱さを抱えていては、極めて困難の伴うものですし、しかもそれに取り組めば取り組むほど、ますます弱さを実感することになります。  そんなパウロですが、そのすべてを行うにあたり、何もしないということがあるでしょうか。それでは弱いままです。そうではなく、彼は祈っています。  そして、聖徒たちに祈ってもらっています。神さまはその、パウロと聖徒たちの祈りに応えて、パウロが弱いときにこそ強くしてくださいます。  ゆえにパウロは、自分の弱さを誇るのです。それは、キリストの力が自分を覆って強くしていただけるからであり、つまりは、自分を強くしてくださるキリストを誇っていることになります。ですから、パウロから学べることは、キリストのからだなる教会の中で弱さを自覚し、なお、その弱さを覆ってくださるキリストを誇るというその姿勢です。  パウロの自慢話を装った証しは、このパウロの弱さというものが、キリストのからだなる教会を形づくる働きに献身するゆえに、積極的にあらゆる形で弱さを体験してきた、そして今も弱さを抱えている、ということを示しています。すなわち、パウロの弱さは、まるで「被害者」のような立ち位置で「弱さ」を味わっているわけではないのです。むしろ、積極的に「弱さ」を身に帯び、なおその弱さがキリストの力により「強さ」へと変えられることを体験し、結果としてキリストを誇り、神に栄光を帰しているという、すばらしい結果を生んでいます。パウロは言ってみれば、「弱い」ことを「選択」しているのであり、主体的に「弱さ」の中に飛び込んでいます。しかし、パウロは決して、「弱いことを選択する自分はすごい」と誇っているのではありません。ただ「弱い」ことを誇っているだけです。  そこで、私たちのことを考えたいと思います。私たちもいろいろな「弱さ」を抱えていることと思います。その弱さはパウロのように、主と教会のために選択して身に帯びた「弱さ」とは言えないかもしれません。しかし、「弱い」ということそのものにおいては私たちはパウロと変わるところはありません。  私たちの抱える弱さとは何でしょうか。それは病気かもしれません。あるいは、お仕事の悩みかもしれません。しかし、私たちはここで、自分たちが今味わっている「弱さ」というものが、けっして、自分が意図もしなかったのに無理やり、不条理のようにして味わわされている「弱さ」だと考えないでいただきたいのです。それは、誇るべき弱さです。なぜならば、その弱さはキリストの力によっておおわれるべきものだからです。  そこで私たちは考えたいと思います。私たちはそれぞれの人生を生きているようですが、私たちがキリストのからだのひと枝ひと枝をなす存在である以上、私たちそれぞれの生活ないし人生というものは、教会のほかの兄弟姉妹の生活また人生と無関係に営まれているものではありません。すべて関係してます。ですから、問題があれば、すなわち、弱さを抱えていれば、その問題、弱さ、痛みは、ほかの兄弟姉妹にそのまま波及するものなのです。それでこそ、私たちが教会、キリストにあってひとつとされている証しとなります。  私たちは弱さを抱えるゆえに祈ります。その弱さがキリストの力によっておおわれるように祈ります。しかし、お祈りとは、個人のわざにとどまるものではありません。お祈りとは、どこまでも共同体としての教会のわざです。自分が自分のために祈ること、それはとても大事なことであり、必要なことですが、それは自分のためだけではありません。同じからだをなす、教会という共同体全体の健康のためです。  健康であれ、経済であれ、人間関係であれ、私たちが弱さを抱えるのは、教会全体が弱さを抱えていることであると、どうかとらえていただきたいのです。イエスさまが私たちをひとつからだとして召してくださった以上、私の弱さはほかの兄弟姉妹の弱さ、ほかの兄弟姉妹の弱さは私の弱さであると、どうか自覚していただきたいのです。  だからこそ、お祈りの課題をオープンに分かち合い、互いに祈り合うことが必要となってくるわけです。祈りの課題を出すことは、まだかなっていない自分の野望を宣言し、そんなビジョンを描いている自分はすごいだろうと自慢するためにすることでは決してありません。自分の弱さがキリストによっておおわれるためにお願いすること、それがとりなしの祈りというものです。  私たちは強い存在ならば、そもそもイエスさまのもとに来る必要のなかった存在です。教会とは何でしょうか? 弱い者たちが選ばれて集められた群れです。したがって、自分が弱いという自覚を持ち、その弱さがキリストの御力によって覆われるように祈ることなしには成り立たない群れです。  いま、私たちは祈りましょう。私たちが弱いことを認められるように。しかし、その弱さは自分だけのものではなく、教会全体で共有しているものであり、したがって一人ひとりの弱さの種類で優劣をつけるべきものではないことを認められるように。むしろ、自分の弱さのゆえに祈りましょう。また、お聞きになっているならば、ほかの兄弟姉妹の弱さのためにも祈りましょう。