弱さを誇るということ

聖書本文;コリント人への手紙第二11章30節 メッセージ題目;キリストのからだの中の弱さ  今年のプロ野球、私がむかしから応援している阪神タイガースは、いまのところ首位をキープしています。しかし、一時期ほどの勢いがないために、ファンとしてもやきもきさせられるところです。  野球のチームにかぎらず、勝つともてはやされ、負けるとけなされるように、「強い」ということが素晴らしいと、普通なら考えます。強いから誇るのです。ライオンという獣が百獣の王ともてはやされるのも、「強い」からです。  今日お読みしたみことばは、そんな「強い」ということに美徳を覚える私たちに、痛烈な一撃を与えるみことばではないでしょうか。自分は弱い、そんな弱い自分を誇る? そんな莫迦な! 普通ならそう思うでしょう。しかし、私たちクリスチャン、キリストのからだなる教会は、弱い自分を誇ってこそ存在する意義があることをみことばは教えます。  まず、パウロが、私は弱さを誇ります、と、コリント教会の信徒たちに高らかに宣言したその背景を、少し見てまいります。パウロの指導の下にあったコリント教会は、忍び込んできたにせ兄弟によって、かき乱されていました。パウロが宣べ伝えた福音に反する教えが伝えられていたのでした。その教えを伝えた者は、ユダヤ人の伝統に根差した自分自身を誇り、さらに、キリストの働き人であると自称して自分を誇る人でした。コリント教会は、そんなにせものの働き人の教えに、すっかり影響を受けてしまい、パウロが宣べ伝えた教え、十字架の福音が無駄になってしまっていました。  パウロはそのように、にせ兄弟に幻惑されていたコリント教会の信徒たちに、そんなにも「スペック」で働き人を判断することをあなたたちが好むならば、私はどうなるのだ、と、第二コリント11章から12章にかけて長い紙面を割いて語ります。  まず、パウロはもともとがユダヤの厳格な律法学者としての教育を受けた立場にありました。ユダヤ人の教師であるという「スペック」を重要視するならば、この私にいちばん言い分がある、というわけです。そして、彼らにせ兄弟、にせ教師たちがキリストの弟子であるというならば、私は狂ったように言いたいが、私こそがキリストの弟子である、と語ります。  そして、自分がキリストの弟子であるゆえに、これまでどれほどたいへんな目にあってきたかということを語ります。これを予備知識なしに読むと、まるで武勇伝のように見えてきます。パウロはこのように自分のことを語ることを、はっきり、自慢話であると語っています。それも、主によって語るのではない自慢話である、とさえ断っています。  もちろん、パウロがこのように自分自身のことを自慢話のように語るのは、それこそ自慢して認めてもらうためではありません。働き人に自己推薦など必要ないことを逆説的に語るためです。彼らにせ兄弟は自分のことを推薦して、それにあなたがたコリント教会はころっといってしまっているが、それと比較してあなたがたが見下げている私パウロはこういう者である、しかし、そんな自慢はむなしいことである、と語っているわけです。  パウロの体験してきたあらゆることを見てみると、主の働き人の末席に連なる者として、私などは恥ずかしくなります。しかし、パウロは、どうだ、こんな私は偉いだろう、と自慢する目的で、このような自慢話を述べているわけではありません。パウロは、そんな自分は実は強い者ではなく、弱い者である、ということを語っています。  一方でパウロは、誇るべき自分の経験を、続く12章の冒頭の部分で語っています。天上の栄光を見ることができた、これはたいへんなことです。ここで、この体験をした人物を、パウロは自分自身であるという語り方はしていませんが、続くことばを読めば、それがパウロであることがわかります。しかし、そのような誇るべき体験をしている者が私パウロであるとはっきり語っていないのは、それがパウロという人物をラベリングする自慢話ととらえてほしくないからです。  その代わりパウロは、この体験をしたことによって、サタンの使い、とげが自分を苦しめるようになったと語ります。パウロを苦しめるこのとげは、一般に肉体的なものであると解釈されています。一説によれば、言語障害、目の病気であると言われていますし、あるいは偏頭痛、てんかんとも言われています。  たしかに、ガラテヤ人への手紙を見てみると、パウロは目に重い病を負っていたように読み取れます。また、コリント教会の信徒の評価によれば、パウロは弱々しいなりをしていたようで、重大な持病を抱えていたことをうかがわせます。ともかく、具体的にその肉体のとげは何か、ということは聖書に明記されていませんが、パウロが弱さを抱えながらの働きをしていることは確かでした。  しかし、パウロにとって、自分が「弱い」ということの本質は、個人的なことにはありませんでした。本日お読みした箇所の直前、28節と29節のみことばをお読みします。……もともとが弱さを抱えているパウロをほんとうに弱くしていたものは、弱さを抱えている教会とその兄弟姉妹のその弱さ、痛みを担っているゆえであると告白します。しかし、続く節、30節において、誇るべきは自分の弱さであるとも語っています。  22節から12章6節までの、言ってみれば「自慢話」は、単に自慢と受け取るならばむなしいものです。しかし、このようなことを体験して弱くなることが、実はパウロのつながっているキリストのからだなる教会と密接にリンクしているならばどうでしょうか。パウロは、それらの体験を誇るのではなく、それらの体験のすえに謙遜にならされるために弱さを与えられたことを誇るようになります。  弱いことが誇れるのはなぜでしょうか。キリストの力が覆うようになるためです。しかし、ただ弱いだけでは、キリストの力が覆うことはありません。パウロにとっての弱さを伴うさまざまな体験は、キリストのからだなる教会が立て上げられるために、どうしても体験しなければならないことでした。兄弟姉妹が病んだり、心を痛めたりしたら祈りますし、必要なことばを送ります。教会内で人間関係のトラブルが起こったら積極的に介入します。次なる働き人を育て、訓練します。まだ福音が宣べ伝えられていない地を開拓し、そこで危険も顧みずに語ります。  そういったことをパウロが積極的に行うのは、キリストのからだなる教会がなお抱える弱さが覆われるためです。しかし、その弱さが覆われる働きは、自分自身が弱さを抱えていては、極めて困難の伴うものですし、しかもそれに取り組めば取り組むほど、ますます弱さを実感することになります。  そんなパウロですが、そのすべてを行うにあたり、何もしないということがあるでしょうか。それでは弱いままです。そうではなく、彼は祈っています。  そして、聖徒たちに祈ってもらっています。神さまはその、パウロと聖徒たちの祈りに応えて、パウロが弱いときにこそ強くしてくださいます。  ゆえにパウロは、自分の弱さを誇るのです。それは、キリストの力が自分を覆って強くしていただけるからであり、つまりは、自分を強くしてくださるキリストを誇っていることになります。ですから、パウロから学べることは、キリストのからだなる教会の中で弱さを自覚し、なお、その弱さを覆ってくださるキリストを誇るというその姿勢です。  パウロの自慢話を装った証しは、このパウロの弱さというものが、キリストのからだなる教会を形づくる働きに献身するゆえに、積極的にあらゆる形で弱さを体験してきた、そして今も弱さを抱えている、ということを示しています。すなわち、パウロの弱さは、まるで「被害者」のような立ち位置で「弱さ」を味わっているわけではないのです。むしろ、積極的に「弱さ」を身に帯び、なおその弱さがキリストの力により「強さ」へと変えられることを体験し、結果としてキリストを誇り、神に栄光を帰しているという、すばらしい結果を生んでいます。パウロは言ってみれば、「弱い」ことを「選択」しているのであり、主体的に「弱さ」の中に飛び込んでいます。しかし、パウロは決して、「弱いことを選択する自分はすごい」と誇っているのではありません。ただ「弱い」ことを誇っているだけです。  そこで、私たちのことを考えたいと思います。私たちもいろいろな「弱さ」を抱えていることと思います。その弱さはパウロのように、主と教会のために選択して身に帯びた「弱さ」とは言えないかもしれません。しかし、「弱い」ということそのものにおいては私たちはパウロと変わるところはありません。  私たちの抱える弱さとは何でしょうか。それは病気かもしれません。あるいは、お仕事の悩みかもしれません。しかし、私たちはここで、自分たちが今味わっている「弱さ」というものが、けっして、自分が意図もしなかったのに無理やり、不条理のようにして味わわされている「弱さ」だと考えないでいただきたいのです。それは、誇るべき弱さです。なぜならば、その弱さはキリストの力によっておおわれるべきものだからです。  そこで私たちは考えたいと思います。私たちはそれぞれの人生を生きているようですが、私たちがキリストのからだのひと枝ひと枝をなす存在である以上、私たちそれぞれの生活ないし人生というものは、教会のほかの兄弟姉妹の生活また人生と無関係に営まれているものではありません。すべて関係してます。ですから、問題があれば、すなわち、弱さを抱えていれば、その問題、弱さ、痛みは、ほかの兄弟姉妹にそのまま波及するものなのです。それでこそ、私たちが教会、キリストにあってひとつとされている証しとなります。  私たちは弱さを抱えるゆえに祈ります。その弱さがキリストの力によっておおわれるように祈ります。しかし、お祈りとは、個人のわざにとどまるものではありません。お祈りとは、どこまでも共同体としての教会のわざです。自分が自分のために祈ること、それはとても大事なことであり、必要なことですが、それは自分のためだけではありません。同じからだをなす、教会という共同体全体の健康のためです。  健康であれ、経済であれ、人間関係であれ、私たちが弱さを抱えるのは、教会全体が弱さを抱えていることであると、どうかとらえていただきたいのです。イエスさまが私たちをひとつからだとして召してくださった以上、私の弱さはほかの兄弟姉妹の弱さ、ほかの兄弟姉妹の弱さは私の弱さであると、どうか自覚していただきたいのです。  だからこそ、お祈りの課題をオープンに分かち合い、互いに祈り合うことが必要となってくるわけです。祈りの課題を出すことは、まだかなっていない自分の野望を宣言し、そんなビジョンを描いている自分はすごいだろうと自慢するためにすることでは決してありません。自分の弱さがキリストによっておおわれるためにお願いすること、それがとりなしの祈りというものです。  私たちは強い存在ならば、そもそもイエスさまのもとに来る必要のなかった存在です。教会とは何でしょうか? 弱い者たちが選ばれて集められた群れです。したがって、自分が弱いという自覚を持ち、その弱さがキリストの御力によって覆われるように祈ることなしには成り立たない群れです。  いま、私たちは祈りましょう。私たちが弱いことを認められるように。しかし、その弱さは自分だけのものではなく、教会全体で共有しているものであり、したがって一人ひとりの弱さの種類で優劣をつけるべきものではないことを認められるように。むしろ、自分の弱さのゆえに祈りましょう。また、お聞きになっているならば、ほかの兄弟姉妹の弱さのためにも祈りましょう。