主の弟子への招き

聖書箇所;ルカの福音書5章1節~11節 メッセージ題目;「主の弟子への招き」    本日は礼拝においてバプテスマが執り行われます。まことに嬉しい、喜びに満ちたひとときを、私たち教会はともに迎えます。私もお祝いする気持ちで、祈りつつ聖書本文を探しまして、今日の本文に行きつきました。今日はバプテスマも主の晩さんも行われますので、いつもより短い時間でメッセージしたいと思います。  イエスさまを信じるということは、同時に、イエスさまの弟子に招かれる、ということです。イエスさまの弟子になるということは、難しいことではありません。厳しい修行を積まなければイエスさまの弟子になれない、という性質のものではありません。聖書を見てみますと、イエスさまがご自身のメッセージを聴きに集まった群衆に、たとえで神の国について説明された後、そのたとえの意味を尋ねる弟子たちに、その意味を解き明かされた内容が収録されています。この解き明かしが、弟子ではなければお聴きできなかった内容であったことを考えると、それが聖書に収録されている以上、聖書を読む人はみな、イエスさまの弟子に招かれている、ということが言えるわけです。聖書は一般の書店でも簡単に手に入る書物であるわけで、つまり、イエスさまの弟子になる道は、実はとても広く開かれているわけです。  それだけではありません。使徒の働き6章1節を読んでみますと、教会の群れに日に日に増し加わった人々のことを、はっきり「弟子」と呼んでいます。その人々はもちろん、イエスさまを信じ受け入れ、バプテスマを受けることによって教会の一員となっていったわけですから、イエスさまを信じてバプテスマを受けるならば、即、弟子に召されると言えるわけです。  今日の箇所、ペテロがイエスさまの弟子に正式に招かれた箇所も、難解かつ秘密の書物ではなく、聖書の読者である私たちに開かれているみことばです。ペテロは特別だと思いますでしょうか? いえ、みことばをもって弟子に招かれているということにおいて、ペテロも私たちも変わるところはありません。  今日の箇所、ルカの福音書5章のシーンをざっと見てみます。ゲネサレ湖で……ガリラヤ湖のことですが……ゲネサレ湖という湖で夜通し漁をしたけれども、何も獲れなかったシモン・ペテロの舟にイエスさまがお乗りになって、舟の上から湖岸に集まった大勢の群衆に教えを語られました。それからイエスさまはペテロに、深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい、そうすれば魚が獲れるから、とおっしゃいました。ペテロがそのおことばのとおりに網を下ろすと、舟も沈みそうになるほどの魚が獲れ、ペテロがイエスさまの御前にひれ伏します。そんなペテロにイエスさまは、あなたは人間を取る漁師になります、とおっしゃいました。そのおことばを受けて、ペテロもアンデレも、その網を引きげるのを手伝ったヤコブもヨハネも、何もかも老いてイエスさまに従っていきました。  そのように、今日の箇所はイエスさまのお招きにペテロたちがお応えしたという内容ですが、主の弟子への招きとそれへの応答というものは、イエスさまが一方的に嫌がるペテロたちを引っ張っていったわけではなく、イエスさまとペテロの共同作業のようにしてなされたものだということがわかります。  福音書を読み比べてみると分かりますが、実を言いますと、シモン・ペテロは今日の本文、ルカの福音書5章のシーンでイエスさまに初めて出会ったわけではありません。その前に、すでに出会っています。その場面はヨハネの福音書1章に描かれていますが、もともとがバプテスマのヨハネの弟子だったアンデレが、自分の兄弟のことをイエスさまのもとに連れていきます。その兄弟がシモン・ペテロです。アンデレは一日、イエスさまと過ごしてから、シモンのもとに行ったわけですが、この時点ですでにアンデレは、イエスさまのことをキリストと認めています。  シモンがイエスさまのもとに行くと、イエスさまはシモンに対し、あなたはケファ、すなわちペテロと呼ばれよう、と、出会ってそうそう、名前をつけられ、シモンとの個人的な関係を築かれました。  そういう背景があったうえで、イエスさまはゲネサレ湖畔にて、シモン・ペテロの舟から群衆に対して教えを宣べられたわけです。いきなり面識もないペテロの舟に乗られたわけではなかったわけです。ともかく、ペテロは夜通しの漁で疲れていたことでしょう。そればかりか何も獲れないで、むなしささえ覚えていたはずです。しかし、なんと、その朝に、目を凝らすとイエスさまがやってきます。後ろにはぞろぞろと群衆がついてきています。そのイエスさまが、群衆を教えるにあたり、ペテロの船着き場、そしてペテロの舟という場所をお選びになったわけです。実に、ペテロは選ばれていました。なんという光栄でしょう。  それだけではありません。ペテロがこぎ出した舟にイエスさまがお乗りになり、そこからお教えになったということは、ペテロはだれよりもイエスさまのそばで、そのメッセージを直接お聴きするという恵みにあずかったことになります。選ばれて、みそばでイエスさまのみことばをお聞きする、すでにイエスさまの弟子としてお従いする準備ができていました。  そのイエスさまが、深みに漕ぎ出して魚を獲りなさい、とおっしゃるわけです。ペテロとしては、夜通し漁をしても何も取れなかった……先週私たちは、落胆、ということをメッセージで扱いましたが、こういう時こそペテロは落胆していたことでしょう。それに、何も獲れなかったなんて、漁師としてのプライドにかかわることでもありました。  しかしペテロは、「でも、おことばどおり、網を下ろしてみましょう」とお答えします。いえいえ、何も獲れないんです! 私は疲れているんです! そんなことは言いませんでした。ペテロは、そばでメッセージをお語りになるイエスさまのそのおことばに、心動かされたわけです。このお方が一緒ならばできる、このお方がおっしゃるならばできる、そう信じ、深みに漕ぎ出して網を下ろしました。すると何ということでしょう。まったく獲れなかった魚が、舟も沈まんばかりに大漁!  このように、主が召され、導かれるとおりに従順にお従いするならば、主はすばらしい祝福を約束してくださると、みことばは語ります。まずは、みことばがまことであると信じることです。主が祝福をもたらしてくださる恵みは、そこから始まります。  ペテロもアンデレも、その仲間のヤコブもヨハネも、イエスさまのこのみわざに、大きな恐れを覚えました。人間的にどんなに努力してもかなわないことを、従順に従うならば主は十二分にかなえてくださる。そんな全能なるお方。  このお方こそ王の王、主の主、もう、ひれふすしかありません。しかしイエスさまは、そのように恐れに震える彼に対し、「今から後、あなたは人間を獲る漁師になります」とおっしゃいました。漁師ひとすじに生きてきたペテロ、そしてアンデレやヤコブやヨハネに、新しい生き方、主ご自身がお導きになる生き方をお授けになりました。主の弟子となって、主のもとに人々をお導きするという、素敵な生き方。こうなったら彼らのすることは、その生き方をするために、イエスさまにお従いすることだけでした。  ペテロたちがそうしたように、私たちも主の弟子としてお従いする祝福を知って、イエスさまについていく存在です。人は言うかもしれません。弟子として生きるなんておよしなさい。しかし、天地万物をおつくりになった神さまご自身の招きです。これを拒否さすることがどんなに人生にとって損失か、わかっているのです。反対に、すべてを捨てて主にお従いすることならば、この世においては捨てた分の何倍も受け、のちの世では永遠のいのちの大きな祝福を受けることを知っているのです。その祝福を、だれかに言われたからと手放すだなんて! だれが何と言おうと、主の弟子としてイエスさまにお従いすることはやめられません。  でも、弟子としてお従いするのは楽しい道です。ペテロはそれから、そのリーダーシップを発揮する一方でおっちょこちょいな性格のゆえに、弟子共同体の生活の中で何度もしくじりましたが、最終的にはすばらしい働き人として整えられました。私たちはイエスさまのそばに置いていただいているから、必要十分のみことばをお読みできるから、お祈りすればイエスさまにいつでも聴いていただけるから、私たちは「弟子」です。  今日、姉妹はイエスさまの弟子としてキリスト教会においても、この世においてもデビューしようと、バプテスマをお受けになるという、素晴らしい決断をなさいました。繰り返し申します。イエスさまの弟子として生きることは楽しいです。なぜならば、その喜びを分かち合える信仰の友、弟子の仲間が、こうしてともにいるからです。ペテロが兄弟のアンデレ、漁師仲間のヤコブやヨハネと一緒に召され、共同体となって孤独じゃなかったのと同じことです。みなさん、姉妹と一緒に励まし合いながら、弟子の歩みをしてまいりましょう。その弟子の歩み、愛の歩みは、人間の力では決してできないけれども、全能なるイエスさまに働いていただくことではじめてできる、人がたくさんイエスさまのもとに送られてくるという、その実を結びます。そのために用いられるべく、日々ともに主の弟子として訓練を喜んで受け、お従いしていく、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。