クリスチャンとはどんな人か

聖書箇所;エペソ3:1~21 メッセージ題目;クリスチャンとはどんな人か 新約聖書の27巻のうち、その半数近くになる13巻は、使徒パウロによって書かれました。それはすべて「手紙」と書かれており、教会向けであったり、個人向けであったりします。この「手紙」を、「書簡」ともいいます。 この、パウロによる「書簡」を読んでみると、ほかの指導者たちによる書簡、ヤコブやペテロやヨハネやユダによる書簡と比べて、大きな特徴があります。それは、パウロという人物の個性が、時にかなり際立って現れている、という点です。からだの弱さであったり、個人的な体験であったり、そういう、時にかなりプライベートなことではないかと思えるようなことも、細かく書いてある箇所が珍しくない、それがパウロの書簡の特徴です。 しかし、そういうきわめて個人的な色彩を帯びた書簡も、聖書のみことばとして提示されていることを、私たちは受け入れる必要があります。このことは何を意味しているのでしょうか? それは、一見するとプライベートなパウロ個人の事情に思えることも、私たちクリスチャンひとりひとりと、実は密接な関係がある、ということです。 私たちは、初代教会において意味されているところの使徒ではありません。しかし、この世に遣わされているキリストの使者であることに変わりはありません。私たちは、決してパウロと同じような弱さを持っているとは限りません。しかし、パウロと同様に、何らかの弱さをもってこの世を生きていることに変わりはありません。実にパウロの際立って個人的な描写は、ことごとく、私たちクリスチャンの生活と関係があります。いかに個人的な事情であろうとも、聖書に収録されているだけの、それなりの正当な理由があるわけです。 本日の箇所は、パウロがいくつかの点で自己紹介をしている箇所です。これらの自己紹介はすなわち、私たちクリスチャンひとりひとりの自己紹介でもあります。では、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。 第一のポイントです。クリスチャンは、囚人、とらわれ人です。 そう申し上げると、むっとされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、1節を読んでみましょう。パウロはたしかに、自分のことを囚人と表現しています。 とは申しましても、ただの囚人ではありません。「キリスト・イエスの囚人」と書いてあります。 この、エペソ人への手紙という書簡は、獄中書簡と呼ばれるものです。パウロが、ローマの獄中、牢獄の中でものしたものです。まさしく、イエスさまを宣べ伝える働きに献身するゆえに迫害を受け、ローマの監獄にまで至ったわけで、罪を犯したからではありません。 福音を宣べ伝える、これ以上正しいことがあるでしょうか? それなのに世は、そのような正しい人を迫害し、なにも行えないように追い詰めます。 しかし、このエペソ人への手紙もそうですが、パウロが獄中で書いたいくつかの書簡はやがて、教会を養い、今こうして聖書という形で私たちは手にしています。 2節から4節をお読みしましょう。……神さまはなぜ、獄中にいるパウロに啓示を与えられたのでしょうか? それは、それぞれの教会、そしてゆくゆくは、今に至るまで2000年間、世界中に存在してきた教会が、福音の奥義を正しく悟るためです。 5節をお読みください。……パウロはこのわざのために用いられる「使徒」であるというアイデンティティを、神と人の前に明らかにしています。預言者、すなわち旧約聖書を解き明かす、新約聖書の書き手としてのアイデンティティです。私たちはこのようにして書かれら旧新両約の聖書によって、目に見えない神さまのみこころを正しく受け取ることができます。 そのみこころとは、具体的に言えばどのようなみこころでしょうか? 6節のみことばです。……信仰の父アブラハムに与えられた約束、その子孫を神の民としてくださるという約束が、異邦人にまで及ぶ、という約束です。この奥義を解き明かし、エペソ人をはじめとした異邦人たちに伝えるということが、神さまがパウロに与えてくださった使命であったということです。 そのようなパウロは、囚人ではありましたが、同時にこのような告白をしています。7節です。……そうです、福音に仕える「奉仕者」である、というわけです。 パウロは、囚人という立場にありました。自分の指導していた教会をケアしたり、信徒をフォローアップしたりということを、実際に教会を訪問し、信徒と顔と顔を合わせてという形で行うことは、もはやかないません。それが囚人というものです。しかし、それだからと、パウロがわが身に絶望して、福音宣教の働きをやめてしまうということはなかったのでした。パウロにはまだ、手紙を書き送るという手段が残されていました。 手紙を書き送ることができるかぎり、手紙に福音の奥義を込めて届けさせることができれば、それを読む人たちに牧会をすることができる、ということになります。それはたしかに、普通われわれが牧会と呼ぶような、相互通行的なコミュニケーションではないかもしれません。しかし、この手紙を読むならば確実に救われた者としてのアイデンティティを確立し、キリストのからだなる教会を建て上げる自覚が育つ……パウロはそう確信し、渾身の力を込めて手紙を書き送ったのでした。 ここに、私たちの生きるモデルが示されています。 私たちも福音に生きる者となりたい、福音を宣べ伝えたい、そう願いながらも、さまざまな理由でその生き方を制限せざるを得ないような、いわば「囚人」のような生き方を強いられているかもしれません。その制限は、家族や地域社会のしきたりというしがらみかもしれませんし、からだの弱さかもしれません。 あるいはもしかすると、過去犯してしまった大きな失敗を、周りの人たちがいまだに許してくれていないことかもしれません。いずれにせよ、私たちを囚われの身にするものはさまざまです。 しかしそれでも、私たちはパウロの生き方を見るとき、その制限というものを、いっさい行動を起こせていないことへの言い訳にしてもいいということではないことがわかります。囚人でありながらも福音に仕える者として諸教会を養ったパウロの姿は、私たちにとってのモデルです。 私たちは、何に目を留めているかを考える必要があります。私たちは、私たちを救ってくださったイエスさまに目を留めていますでしょうか? それとも、自分を取り巻く状況がすべてのように思わされていないでしょうか? すべての状況を動かし、そのような状況の中においてもみわざを行なってくださる、イエスさまにこそ、私たちは目を留めたいものです。果たして神さまは、何のために私たちを救ってくださったのでしょうか? この救いのみことばを人々に証しするために、このみことばをもって人々に奉仕するために、私たちを救ってくださったのではないでしょうか? もしそうならば、私たちがこの世に負けたままでいることを、神さまがお喜びになることはないはずです。お祈りして、いま自分を捉えているあらゆるしがらみに勝利する者となれるよう、力をいただきましょう。 では、第二の自己紹介です。クリスチャンは、福音を宣べ伝える人です。 8節のみことばをお読みします。……パウロはたしかに、キリストの教会を迫害したほどの自分が救われたという、その恵みを喜び、主に感謝しています。しかしパウロにとって、その救いの恵みは個人的なものにとどまってはいません。実にこの救いの恵みが、パウロのことを異邦人への宣教という使命に遣わしているということを、パウロ自身がよく理解し、そのことを書簡の読み手に伝えています。 いえ、パウロが福音を伝える相手は異邦人にかぎられているのでしょうか? 9節のみことばをお読みします。……パウロは、創造主なる神さまを語っています。しかし、創造主を伝えることにとどまらず、その創造主が、御子キリストを信じる信仰によって人々を救ってくださるという、時至って実現した奥義を、すべての人に明らかにし、伝えるために、自分が召されていることを語っています。そうです、すべての人です。 なぜ人々は、その奥義を知る必要があるのでしょうか? 10節、11節のみことばです。……あらゆる権威、支配を超えて、神さまの知恵が知らされるため、その知恵が伝えられるというご計画を成し遂げてくださるキリストのみわざが実現するためです。教会というものを過小評価してはなりません。すべての権威を超えるみ教えが伝えられる場所、実現する場所、それが教会なのです。私たちはこのことを、恐れと感謝をもって受け入れる必要があります。 この福音が伝えられる結果、人はどのようになるでしょうか? 12節です。 本来、きよい神さまというお方は、近づくことが許されないお方です。旧約聖書を見てみても、神さまに近づくことがどれほど恐るべきことかが、これでもかと記されています。しかし、キリストは神と人との仲立ちとなられました。私たちもキリストによって、大胆に父なる神さまの御前に近づくことができるようになったのでした。 人は、いろいろな形で救いに至ろうとします。善行を積んだり、哲学を極めたり、宗教活動にのめり込んだりと、そのとる行動はさまざまです。しかしそれらのものはいずれも、罪ある人間の側からの行動にすぎず、どんなに努力しても、いかなる努力をしても、きよい神さまに近づくことはできません。ただ、神さまの側で行なってくださったみわざ、ひとり子イエスさまを私たち罪人の身代わりに十字架につけてくださったこと、それによって私たちが罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけることを信じ受け入れた人だけが、神さまの救いをいただくことができます。 これこそが、パウロが人々に伝えようとしていた奥義です。この奥義を伝えるためにパウロは生きていたとさえ言えるくらいです。別の箇所でパウロは、自らを指して、もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいだ、とさえ告白しています。 このように神さまからの使命に生きるパウロの姿を見て、私たちは何を感じるでしょうか? 自分はそのようになれない、と落ち込むでしょうか? いいえ、その必要はありません。 私たちは生きているかぎり、必ずだれかとの触れ合いを経験しています。その人たちをご覧ください。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなたがたは……地の果てにまで、わたしの証人となります」とおっしゃいました。その、イエスさまの弟子たちから見れば、まさに「地の果て」に住む人たち、それが、私たちの目の前にいる人たち、私たちの隣にいる人たちではないでしょうか? このような人たちがイエスさまに出会い、大胆に神さまの御前に出る人になるという、そのビジョンを、私たちは持っていますでしょうか? 神さまはなぜ、この茨城県央にその人たちを生かしていらっしゃるのでしょうか? 私たちのすぐそばに生かしていらっしゃるのでしょうか? それは、キリストにお従いし、生活を通して福音を伝えようとする私たちの生き方を、その人たちも見て、キリストにお従いする道が開かれるためではないでしょうか? その意味では、私たちもパウロと同じです。私たちにはできるのです。パウロのようになれない、と考える必要はありません。私たちの手には、パウロをはじめ、使徒たちが神の霊感によって書き残した聖書があります。この聖書のみことばを語るならば、私たちが人間的なことばを尽くして説得しようとしなくても、聖霊なる神さまが働いてくださり、その人を救いに近づけてくださいます。そのわざに私たちも用いていただけるのです。 私たちも、福音を宣べ伝える伝道者です。伝道はだれにでもできることです。 そして神さまは私たちに、人々に伝道するように召しておられます。私たちの人格の欠けや、経験不足などを考える必要はありません。石ころからでもアブラハムの子孫を起こしてくださるのが神さまです。私たちのことも、必ず用いてくださいます。信仰をもって一歩を踏み出していただきたいのです。 では、三つ目のポイントにまいります。私たちクリスチャンは、祈る人です。 14節、15節をお読みします。パウロは、神の家族である教会を代表して祈っています。 そうです。クリスチャンとは祈る人です。まさしく私たちクリスチャンには、神さまの御前に祈るという特権が与えられています。 しかしこの箇所を見てみますと、パウロは異邦人がするような、単なる欲望や願望を羅列することをもって、祈っているのではありません。パウロは、何を祈っているのでしょうか? 16節から19節をお読みします。 パウロはひたすらに、御父が御霊によって教会に力を与えてくださるように祈っています。 その力はどのようにして働くのでしょうか? 聖徒一人ひとりの心のうちに、キリストが住まってくださり、働いてくださることによってです。そして、神の愛をすべての聖徒ともに知り、また理解することによってです。そのようにして、教会と聖徒たちが神さまの満ちあふれる豊かさにまで成長することを、パウロは切に祈っています。 そしてパウロのこの祈りは、たんに教会が強くなることだけに目的があるのではありません。20節、21節をお読みします。……全能なるお方のみわざ、御力が教会に働くことによって、教会をとおして、また、教会のかしらなるキリストをとおして、主が栄光を永遠にお受けになるようにと、祈っています。 この祈りは、私たちクリスチャンひとりひとりにとっても、究極の祈りの目標というべきです。私たちは祈りというものを、どのような目的で用いていますでしょうか? 自分が祝福されるためでしょうか? 自分や家族が栄え、いやされるために祈るのでしょうか? それももちろん必要なことでしょう。しかし、私たちクリスチャンにとっての究極の祈りの目標は、私たちを救い、贖ってくださった、主にすべてのご栄光がお帰しされるように、これです。 私たちクリスチャンはよく、証し、などといいます。体験談をもって神さまのすばらしさを伝えることが、証しの目的です。ところがときに、この証しというものが、一見すると神さまを誇っているようでも、手柄話だったり、自慢話だったりということが往々にしてあるものです。きつい言い方をすれば、単なる自慢話を、たまたまクリスチャンを名乗る人が語っているだけ、ということがあるものだ、ということです。 私たちの目指す証しの生き方は、そういうものではないはずです。私たちクリスチャンは、この世的なちっぽけな自己実現を目標として生きているのではありません。 だれよりも偉大なお方、神さまが、私たちクリスチャンの生き方によって、人々をとおしてたたえられる、それが私たちクリスチャンの生きる目的であるはずです。それは、私たちの属する教会が、御霊の力をいただき、愛において成長することによってこそ実現します。私たちは、その働きに用いていただけるのです。だから、その働きに加えていただくように、そして、すべての聖徒がその働きを担えるように、究極的には、自分も含むすべての聖徒を通して主の栄光が素晴らしく輝くように、私たちは祈るのです。 メッセージを締めくくりたいと思います。私たちは多くの制限を抱えています。それはまるで囚人の姿です。しかし私たちは、そのような弱さを抱えながらも、主のみことばを伝える働きに用いていただくものです。その働きはしかし、私たちのすばらしさを現すためのものではありません。私たちの働きをとおして、教会が愛において大いに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで成長すること、そのことによって主の栄光がこの地に素晴らしく輝くこと、それが私たちの目的です。そのために私たちは祈ります。それこそが私たちの祈りの究極の目的です。 忘れてはなりません。私たちは決して弱くありません。私たちは主によってどこまでも強い存在です。主により頼み、この世に主を現す働きに大いに用いられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

私たちも同じ家族

聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;私たちも同じ家族  何度かこのメッセージの時間にお話ししていますが、私は高校生の頃、アーサー・ホーランドという宣教師から多大な影響を受けました。 アーサーは、その時代の日本のキリスト教会に、大きな流れをつくる役割を確実に担っていました。90年代前半、日本のキリスト教会は、全国規模で「リバイバル」ということばを合言葉に、燃えに燃えつつありました。私は、その流れの中で、新宿駅前で信号機によじ登るようなスタイルで路傍伝道をしたり、高さ3メートルの十字架を担いで8人の男たちとともに日本列島を縦断したりと、とにかく過激、そして体育会系のノリで宣教を展開するアーサーを心底カッコいいと思い、そんな自分になれればと、アーサーの所属団体であるキャンパス・クルセードに入って、伝道活動をしたり、クリスチャンとしての訓練を受けたりしていました。 そうしているうちに、私はアーサーをアイドルとするよりも、むしろ自分が燃えてイエスさまを伝えることに、はるかに確信を持つようになりました。キャンパス・クルセードの公式伝道ブックレットの「四つの法則」を使って伝道できる人はだれか、鵜の目鷹の目になっていました。また私は、「ジェリコジャパン」ですとか、「リバイバル甲子園ミッション」ですとか、「ビリー・グラハム東京大会」ですとか、そういう何千人、何万人の規模の大会にも、せっせと足を運びました。友達を連れていくこともしました。  今思えば、そのように「燃える」ムーブメントに身を投じていたのは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思います。そして私は、感情的に高揚させようとしたり、一定の伝道プログラムを身に着けようとしたりすることで、日本の教会成長の公式といいますか、定理のようなものを見いだし、それに乗っかっていこうとしていたのだと思います。しかし、リバイバルと呼べるようなものは、なかなか訪れることはありませんでした。もちろん、私の経験したことは無意味ではなかったばかりか、その後の信仰の姿勢を形づくるうえで大きな要素となってはくれましたが、そうして熱心になることは、リバイバルに対する私の飢え渇きをほんとうの意味で満たしてはくれませんでした。 本日学びますみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばです。やはり飢え渇きというものは、みことばによってのみ満たすことができるものでした。そういうわけで私にとって、とても思い出深い箇所でありますが、まずはみことばの解き明かしから語らせていただきたいと思います。 この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができます。まずは「過去」からです。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にありました。 11節、12節をお読みします。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態を、パウロは語ります。 それは、どのような状態だったのでしょうか? まず彼らは、割礼を施されていない者でした。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しでした。尾籠なことを申しますが、男性は立って用を足すわけで、そのたびに包皮の切り取られた性器を見るわけで、否が応でも、そのユダヤ人の男性が、自分は神の民であるということを思い起こす仕掛けであると言えます。きわめてユニークな風習であります。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになります。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたわけですが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことであるわけです。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れです。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とあります。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができる世でしょうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけです。家であれ車であれ、売主と買主の契約というものをとおしてはじめて買主の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられます。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ないわけで、そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるでしょうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるでしょうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶いませんでした。 異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在です。このような存在に、救いはあるのでしょうか? そこで「現在」を見てみましょう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされました。 ひとつ前のみことばの中で、「キリストから遠く離れ」ということばはかぎになります。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方です。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはありません。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じでした。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らでしたが、そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけました。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかったのでした。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まりました。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちは大いに増やされ、エルサレムに教会が形成されました。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれました。 13節をご覧ください。「近い者となりました」とあります。だれと近い者となったのでしょうか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのように救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということです。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのでした。 14節から16節をお読みします。この箇所の主語はどなたでしょうか? そうです、キリストです。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストです。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださいました。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださったのでした。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃいました。それはやはり、平和のきみなるイエスさまをともに信じる信仰によってこそ、初めて可能となることです。私たち人間は平和を求めながらも、多くの場合、国家や民族、部族の間に不和や対立が存在するものだということは、残念ながら認めざるを得ません。 世界のさまざまな人たちは、そのような世界において、平和をつくる働きに献身しています。それはとても素晴らしいことです。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのでしょうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないでしょうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではありません。17節をご覧ください。 ……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在ですが、ほんとうの意味でイエスさまの福音を伝えられていたわけではありません。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらです。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教は必要です。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づくのです。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたいものです。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられることしきりかもしれません。しかし、どうか元気を出していただきたいのです。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではありません。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがありました。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではありませんでしたが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えしました。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったのですが、教授はすぐにこうおっしゃいました。「それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわかりませんでした。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことです。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことでしょうか。 19節をお読みします。……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされます。ことばや肌の色がちがおうとも、同じ家族です。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたいのです。 最後に、未来の姿です。クリスチャンたちは、教会を形づくります。 20節から22節をお読みします。……民族は、単に和解させられるだけではありません。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくるのです。 20節を見てみますと、使徒たちや預言者たちという土台、とあります。使徒の著した者は新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書です。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられます。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられます。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」というものです。それをキリスト信仰と呼んではなりません。しかし私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されています。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体です。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではありません。 民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会です。 このたび私は、保守バプテスト同盟の総会に出席してまいりました。この保守バプテストは、もともとが、アメリカの宣教師による東北地方の宣教から始まった団体であり、現在に至るまでも多くの宣教師が、日本人の先生方とともに働いています。また、宣教師ではなく、牧師として教会に奉仕していらっしゃる先生方にも、外国人の先生が複数いらっしゃいます。 私はこの姿をあらためて見てまいりまして、ことばや民族を超えた教会形成というものを、保守バプテスト同盟はとても理想的な形で実践していることを思わされました。そして、自分もその一員に加えていただいていることに、心から感謝したものでした。 うちの妻も宣教師なので、手前味噌のように聞こえるならばご容赦いただきたいのですが、日本は宣教がほかの国のように進まない分、他国からの宣教師をまだまだ必要としています。しかしその分、教会には外国人の信徒が集まりやすい傾向があると言えるかもしれません。そういう点では日本の教会は一見すると弱いようでも、民族を超えた教会形成をしているという分、聖書的にかなった教会形成に励みつつあるという評価をしてもいいのだと言えます。それならばこれは誇るべきことで、ますますその方向で教会形成をする必要があるのではないでしょうか。 とはいいましても、この茨城町のような場所では、外国人の信徒が集まるには限界があることを認めなければならないでしょう。それならば私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があります。それは、世の終わりのビジョンです。 聖書をお読みします。ヨハネの黙示録、5章6節から14節です。……みなさん、この大礼拝が、想像できますでしょうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝するのです。 最後に、この天国の前味とも言える体験から学んだことを分かち合って、メッセージを締めくくりたいと思います。 今から24年前、1995年のことです。私は韓国に、1度目の留学で渡っていました。当時、会話はあまり上手ではなく、周りを韓国人にばかり囲まれていた生活が続き、だんだん五月病のようになってしまっていました。 そんなとき、ソウルにある大きな教会を会場に、国際的な宣教大会が開催されました。私は、その大会でスタッフとして奉仕していた日本人の先生に会う目的で赴いたのですが、私の目の前に広がっていたのは、想像を絶する世界でした。 それはちょうど、お昼ご飯をビュッフェ式で食べる時間だったのですが、たくさんの人が立って食事をしていました。圧倒されたのは、そこには様々な肌の色をした人がいて、いったい何語なのだろうか、いろいろなことばで話していました。スーツを着た人は案外少なく、実にさまざまな民族衣装に身をまとった人々であふれかえっていたことでした。そういうどうしがとても楽しそうに話し合っていました。私はこれを見て、天国とはきっとこのようなところにちがいない、と思ったものでした。 このような宣教大会を堂々と開催できる韓国教会の底力を、私はまざまざと見せつけられ、いつか日本もこうなれるだろうか、と、私はその日以来、さらにいろいろと考えるようになりました。しかし、そんな私に、今日学びましたみことばが与えられたのでした。私たち日本のクリスチャンも祝福を受けた国々とその民に近い者とされている、ともに神さまのもとに行くように召されている、そのことを改めて教えていただき、私はどんなに慰められたかわかりません。そして、その日本の人たちにみことばを宣べ伝えることを、私はあらためて召命として受け取らせていただいたのでした。 この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出されます。私たちはその日まで、和解の福音を語りつづけ、人々を神さまと和解させ、敵対するどうし、反目するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただくのみです。この民に、私たちは福音を語ってまいりましょう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられてまいりましょう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことでしょうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実でした。しかし、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただきました。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められています。この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

救い、この大きなプレゼント

聖書箇所;エペソ2:1~10 メッセージ題目;「救い、この大きなプレゼント」  私たちはこのキリスト教会の中にかぎらず、世の中のあちこちで、「信じる者は救われる」と語られているのを耳にしていると思います。日本人にはなじみの深いフレーズです。しかし、いったい何を信じているというのでしょうか。ほとんどの場合、それは「キリストの十字架」ではありません。  しかし、少なくとも聖書は、そのようなことを語ってはいません。父なる神さまのひとり子イエスさまの、その十字架を信じる者は、救われる、そのように語っているのであって、何でもいいから信じればいいと言っているのではありません。何でもいいから信じればいいというのは、一見それは神がかっているようで、実際はまことの神さまの示された救いの道を歩もうとしないことです。私たちはそういうわけで、まことの神さまが示された唯一の救いの道を、人々に語っていく必要があります。  とは申しましても、私たちは何か自分が素晴らしかったから、そのまことの救いに至ることができたわけではありません。そのことを今日は、ともに学び、救われるということ、あるいは救われ「た」ということが、どのような意味を持っているかということを、さきほどお読みした本文から、ともに学びたいと思います。  第一のポイントです。私たちは救われる前、罪と世と、そしてサタンに支配されていました。  1節のみことばをお読みします。……救われてキリストのからだなる教会のひと枝とされたあなたがたは、以前は背きと罪の中に死んでいた、と語っています。  罪から来る報酬は死、とみことばは語ります。まことのいのちである神さまとの交わりが断たれてしまう、ということを意味しています。「背き」とありますが、これは以前の訳の聖書では「罪過」となっています。罪の行い、という意味です。背きとなりますと、それは神さまとそのみこころに背いていることであり、背くための罪深い行いに手を染めている状態です。行動で犯す罪です。  しかし、このみことばは、さらに畳みかけるように、「背きと『罪』」の中に死んでいた、と語ります。ただ行動するだけではありません。その人の存在そのものが「罪」となっていた、ということです。そう、「罪人」です。よい行いを積み重ねれば、人は罪人であることをやめられるのではありません。どんなによい行いをしたとしても、人は依然として罪人です。また、こうも言うことができます。罪を犯すから人は罪人なのではない、罪人だから人は罪を犯すのである――。  そのような状態にある人間を、みことばは「死んでいる」と語ります。表面的には生きているように見えるでしょう。ご飯も食べますし、仕事もします。それなりによい行いだってするでしょう。しかし聖書の宣言によれば、そういう人も「死んでいる」ことに変わりはありません。いのちなる神さまとの交わりが断たれているからです。  では、いのちの源(みなもと)なる神さまとの交わりを失った人は何をするでしょうか? 2節のみことばです。……神さまと関係なく生きる世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者なる霊、すなわちサタンにしたがって歩むようになります。  ちょうどそれは、私たち人間が、生きるためにものを食べる際、栄養の行き届いた良質なものを食べられない場合、とにかく生き延びるために、栄養もなく、かえって体に悪いものででも食欲を満たそうとし、それでからだを壊すのに似ています。神さまで満足できないならば、神さまに敵対する存在、世であったりサタンであったり、そういうものに満足を見いだそうとするのです。  そして、いったんそのような存在に満足を見いだすようになったなら、ほんとうに神さまが必要なくなり、いよいよ、神さまと関係のない生き方をするようになってしまいます。しかし、それは、神さまの怒りを受けるべきことであると、みことばは語ります。人はどこかで、この神さまの御怒りというものを意識し、どんなに罪におぼれても罪意識、後ろめたさというものを持つものでしょう。しかし、世とサタンに絡めとられてしまっているならば、それは自分の力ではどうにもならないことです。  こうなってしまった人間に、生きるべき道はあるのでしょうか?  そこで第二のポイントです。私たちは、神さまの愛と恵みによって救っていただきました。  4節と5節をお読みします。……神さまは私たちを愛していらっしゃいます。だからこそ、というべきです。これほどまでも愛しているのに、その愛に背を向け、ひたすらに神さまに反抗したり、神さまを無視したりして生きていく人間に、神さまは怒りを注がれるのです。しかし、それでも神さまは、ご自身が愛をもってお造りになった人を諦めることはなさいませんでした。なおも愛してくださいます。  その、神さまが私たちを死から救い出し、いのちに生かしてくださるために、取ってくださった方法とは、キリストとともに生かしてくださることでした。  キリストは十字架に死なれ、そして三日目に復活されました。この復活は、私たちが罪によって死んでいたことからよみがえらされることと、大いに関係があります。私たちもイエスさまの十字架と復活を受け入れるならば、死、すなわち神さまとの交わりの断絶からよみがえらされ、神さまといのちの交わりを持つ者としていただくことができるのです。  しかしこれは、私たちが何かいい人だったからとか、あるいは、何か努力をしたから、そのように認めていただいたということではありません。  5節をご覧ください。あなたがたが救われたのは恵みによるのです、とはっきり書いてあります。恵みとは何でしょうか? プレゼントです。  小学生から中学生の頃にかけて、私は、週刊朝日という週刊誌の、「似顔絵塾」というコーナーにせっせと投稿していました。そのコーナーを担当している山藤章二というイラストレーターの大ファンだったからです。山藤さんのファン熱が昂じて、そのコーナーに投稿するいろいろな読者の絵も好きになり、私も描いてみよう、と思うようになりました。私の描き方は、水性ボールペンで枠線を取り、クレヨンで色を塗り、マイナスのドライバーでクレヨンをはがす、そういう描き方でした。  その結果、私は2回の入選を果たすことができました。私の描いた絵が、カラーで印刷されて、全国の読者の目に触れることになったわけです。そのときはもう、うれしくてたまりませんでした。でも、今の私はその絵を見るのが、とてもつらいです。なぜかというと……あまりにも下手だからです。  そもそも、私はとても絵が下手な人間です。それは、うちの娘たちに聞いていただければお分かりになると思います。「うん、お父さんは絵がとても下手だよ」と、躊躇せず答えてくれますので。娘たちの方がよほど上手です。そんなわけで、今も昔も絵が下手だった私が、たくさんのプロの絵描きさんを輩出した「似顔絵塾」に、絵を載せていただいたのでした。  今なら、私にはわかります。週刊誌というものは、小中学生で熱心な読者になるということは基本的にはありません。似顔絵の投稿をするような子どもなど、とても少ないわけです。そんな中で、わずか12歳ほどの子どもが向こう見ずにも投稿してくるならば、山藤さんも、しょうがないやつだな、と、うれしくなってつい、掲載してしまったと考えた方が自然です。あのように掲載していただいたことは、山藤さんから幼い私への、プレゼントというべきでした。絵が上手だから載ったわけではありません。  私たちにしても、救いというものは資格がないのに与えられるプレゼントです。罪人は、何をしてもきよい神さまに認められるだけの行いをすることなどできません。救われるための方法はただひとつ、神さまの側から私たちを救ってくださること、これしかありません。私たちには救われるだけのよいものなど何ひとつないのに、神さまの側から手を差し伸べてくださるのです。私たちのすることは、このプレゼントが自分に与えられていることを信じて、受け取ることだけです。  6節のみことばをお読みします。……私たちは単に、この地上において救われただけではありません。私たちは復活します。天国に入れていただけます。天国においてキリストとともに、永遠のいのちを受け継がせていただけます。この、天国に入れていただくという希望を持って生きるということは、この世にだけ目を留めて生きるということと比べて、どれほど人生を明るく、肯定的に、また積極的にすることでしょうか。もし、私たちの生きる世がすべてだとするならば、私たちは死ぬことを恐れて生きるほかなくなります。 しかし、天国に入れていただけるという確信を持つならば、すべては希望へと変わり、私たちはいわば、末広がりの生き方をするように変えられます。それはどれほど素晴らしい生き方でしょうか! 7節のみことばをお読みします。……エペソのクリスチャンをはじめ、初代教会のクリスチャンたちが救いの恵みをいただいたのは、かぎりなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すため、とあります。救いは自分たちだけで完結していないのです。この救いを、まだ見ぬ世代、まだ見ぬ人々に伝えるため、そのためにあなたがたは救われたのである、というわけです。 私たちにしても同じことです。私たちは救われたという、人生で最高のこのグッド・ニュースを、自分だけのものにしておいていいのでしょうか? ほんとうにこの救いを喜んでいるならば、だれかに伝えたくはならないでしょうか? ぜひとも、このメッセージを聴いていらっしゃるみなさんに、神さまが、みなさまを通して救いのメッセージを聴くべき人たちを送ってくださいますようにお祈りします。 8節、9節は、私たちがぜひとも暗唱しておくべきみことばです。みことばの暗唱は大事です。なぜならば、私たちの信仰の基準は人の言い伝えや教えではなく、聖書のみことばだからです。聖書のみことばをそのまま暗唱するならば、その人の信仰はぶれることはありません。一字一句、間違わないようにして暗唱してみたいと思います。それではご一緒に! ……はい、何によって救われたとありますか? 恵みのゆえに、信仰によって。何によらないとありますか? 行いによらない、とあります。 信じるということは、行いではありません。私たちは新聞やテレビのニュースなどで、地球の裏側のことを知ることができ、それが実際に起こっていることだと「信じている」わけですが、それを「信じる」ために地球の裏側にわざわざ行って確かめる必要はありません。見て、そのとおりだ、と受け入れさえすればいいわけです。信仰もそれと同じことで、聖書のことばをそのまま「信じれば」いいわけです。 前にもやったことですが、念のためまたやってみます。(「信仰」と書かれたサインボードをかざす。「令和」の額をかざした菅官房長官のように)官房長官のまねではありませんが、「信仰」とは、漢字でこう書きます。信じて仰ぐ、という意味です。しかし私たちキリスト者なら、こういう解釈を施すべきでしょう。(「信」と「仰」の間にマーカーで返り点を打ち)仰せを信じる、つまり、神さまのおっしゃることばである聖書のことばを信じる、これが、私たちにとっての「信仰」というものです。何でもいいから信じれば救われる、という考えとはまったく異なることを、これでご理解いただけると思います。聖書のことばを疑わず、そのまま受け入れる。それで、救われるのです。 そのように「信じる」こと、それは、私たちに与えてくださった、神さまからの恵み、プレゼントです。たくさん勉強しからとか、たくさん人生経験を積んだからと、信じられるのではありません。 ただ、神さまが救いに選んでくださった人だけが、信じ受け入れるように導かれるのです。決めるのは神さまであって、人ではありません。 だから私たちは、あの人はきっと救われない、とか、勝手に早急な判断を下してはならないのです。私たちのすることは、神さまが救いに召しておられる人がだれなのかを明らかにするために、この福音を人々に伝えることです。 もうひとつ、救いが行いによらないのは、だれも誇ることのないためである、と語られているのにも注目しましょう。私たちはクリスチャンになっている、救われていることを、未信者の人と比較してすごい存在になっている、などとは、間違っても考えてはなりません。それでは、宗教的な特権階級を享受して、庶民を苦しめるだけ苦しめた、イエスさまの時代の宗教指導者たちと何の変わりもないことになってしまいます。 いったい、イエスさまが宗教指導者たちと戦われたことがあれほど聖書に記録されているのは、何のためでしょうか? 自分たち救われている者たちはあのような存在ではない、と、ほっとするためでしょうか? そのような律法主義者たちをさばき、自分を正しい側に置くためでしょうか? そうではありません。聖書があれほど律法主義者に対する批判に紙面を割いているのは、私たちへの戒めのためではないでしょうか? 私たちが救われていることを確信することは素晴らしいことなのですが、それが人をさばき、罪に定める根拠となってしまうならば、私たちもイエスさまに口を極めてののしられる存在となっているということです。私たちが救われたのが恵みであると知るならば、私たちは決して、自分自身を誇ってはなりません。誇るべきは、私を救い出してくださった神さまの恵み、イエスさまの十字架のみです。 もし、私たちが何か良いものであるかのように思っていたならば、悔い改めましょう。このような罪人を一方的な恵みとあわれみにより救ってくださった神さまを誇り、感謝をおささげしましょう。私たちの信仰の生活は、そこにはじまり、そこに終わります。 第三のポイントです。私たちは、よい行いをするために召されました。 10節のみことばです。……私たちが神の子どもであるならば、よい行いへと実を結んでしかるべきです。その行いを、神さまは私たちひとりひとりに備えていてくださっています。私たちはそれぞれ、神さまから与えられた個性にしたがって、その各自のよい行いをしていくことによって、神さまのご栄光を現します。うちの教会で何度かお招きしているミッシェル姉妹は、フルートの演奏を通じて神さまのご栄光を現しています。それが、彼女にとってのよい行いというわけです。私たちもそれぞれの持ち場で主に従った働きをするとき、それは神の作品としてふさわしい生き方をしていることになります。 私たちが神の作品であるという聖書の宣言は、なんと私たちに生きる力を与え、本来の生き方に私たちを立たせてくれることでしょうか。 私たちは時に、意識して罪を犯したくなる誘惑にかられはしないでしょうか? そんな時、私たちが神の作品であると思い起こすならば、罪から守られます。それこそ、罪から救い出された者としてふさわしい選択をすることができるようになります。実に、悪い行いから離れ、よい行いへと導き入れられることは、神の作品としてふさわしいことです。 間違ってはなりません。よい行いを積むことは、天国に行くための道ではありません。大学生の頃、私の所属していた教会に、私のことを「先輩」と呼んで慕っていた若者がいました。彼はなかなかバプテスマを受けようとしませんでしたが、それでも教会には喜んで通っていました。 ある日のことです。教会の若者たちで大掃除をしていたとき、彼も一生懸命に奉仕してくれました。まだバプテスマを受けていない彼の身を案じて、ねぎらうつもりで、私は彼に、頑張っているね、と声をかけました。すると彼はこう答えたのでした。「いやー、こうして奉仕することで、俺も天国に近づきますよ。」……それは違うでしょ! しかし、もしかすると多くの日本の人が、同じような感覚で「奉仕」というものを捉えているのではないかと危惧したものでした。 奉仕のわざは、救われている喜びの中から湧き出るべきもので、善行により認められるためなのだとするならば、その相手が神さまであろうと人であろうと、ぜったいにちがいます。 とは申しましても私は、バプテスマを受けていない人、信仰を持っていない人は教会奉仕に加わるべきではない、と言っているのではありません。無償のボランティアで働くということは、普通に生活していてもなかなかできることではないので、そういう場に加わることで喜んでいただけるなら歓迎しますし、教会としてももちろん助かります。でも、間違えないでいただきたいことは、奉仕は天国に入るための手段では、ありません。信仰のみです。 メッセージを締めくくるにあたり、もう一度、8節と9節をお読みしましょう。暗唱できる方は暗唱してみてください。 ……私たちの罪深さを思えば思うほど、神さまの恵みが身に染みます。この恵みのゆえに、どこまでも神さまに感謝してまいりましょう。

キリストと教会

聖書箇所;エペソ人への手紙2:15~23 メッセージ題目;「キリストと教会」  私がメッセージを語るたびに、繰り返し用いていることばのひとつに、「共同体」ということばがあります。この概念は、私が神学校の最終学年の時に奉仕した、サラン教会という教会が特に強調していたことです。  サラン教会では、日曜日ごとの礼拝が終わるたびに、会衆全体がスクリーンに映される「共同体宣言」というものを斉唱するのが習わしとなっていました。これは全部読み上げると1分近くかかるものでしたが、これを会衆全体でお読みすることで、私もまた、このサラン教会の会衆の一人にしていただいていることを実感したものでした。以来私は、教会とは集う人がばらばらでいいのではなく、ひとつからだの共同体であるという考えを保ちながら、ここまでまいりました。メッセージのたびに、教会は共同体である、ということを強調するゆえんです。  今日はメッセージを始めるにあたり、だいじな質問をしたいと思います。私たちにとって、教会とはどのようなところでしょうか? 今日そのことを、みことばから学び、私たちなりの結論を出して、礼拝後にともに分かち合っていただければと思います。  今日の箇所をいつものように、3つのポイントからお話ししたいと思います。  第一に、教会は主への信仰と隣人への愛の共同体です。  15節と16節をご覧ください。パウロは獄中にあって、神さまに感謝しています。獄中というのは、直接的な宣教、牧会といった教会形成に携われない場所です。しかしパウロはそのような環境にありながら、人ではなく、神さまに近づいていきました。その、神さまに近づく手段、それが祈りであったわけです。  みなさん、「祈りは労働である」ということばをお聞きになったことがありますでしょうか? 私も、かつて通っていた教会の聖書日課のプリントに、毎月そのように必ず書かれていたことを思い出します。  パウロにとっては、直接宣教することだけが働きではありませんでした。こうして捕らえられようとも、パウロにとってはなお働きが残されていました。それがこうして、聖徒たちのために祈ることであったわけです。  パウロが具体的に何を祈っていたか、それは第二のポイントで詳しく扱うとして、まずは、パウロがこのようにエペソの聖徒たちを覚えて祈っていたその動機を見ておきたいと思います。それは、エペソ教会のクリスチャンたちが、主イエスに対してふさわしい信仰を持っていることと、すべての聖徒に対して愛をいだいていることを知ったからです。  キリスト教会は、主イエスさまに対する信仰からすべては始まります。私たちはこの、目で見たことのないお方に、どのようにして近づくのでしょうか? 聖書をお読みして、聖書がまことであると信じ受け入れる、信仰によって近づくのです。  この地上を生きておられたイエスさまにお会いしたことがないのは、エペソの信徒たちも私たちも同じです。しかし彼らも私たちも同じ聖霊なる神さまによって、同じ信仰を持たせていただきました。同じイエスさまの十字架によって罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちをいただいたと、いう信仰を持たせていただいたという点において同じです。  このことを外すならば、私たちは世代や地域を超えてひとつとならせていただいている教会に属すことはありません。主イエスさま以外のものを主とするならば、そのようなものは異端であり、キリスト教会と呼ぶことはできません。  大変なことですが、いま私たちの住むこの世界には、あらゆる形で異端が入りこんでいます。イエスさま以外のものを、またはイエスさま以外のもの「も」、主と告白するように誘導するのです。私たちはそういう者に決して惑わされてはなりません。いつも、どんなときでも、イエスさまから離れてはならないのです。わたしが道であり、真理であり、いのちである、わたしを通してでなければ決して御父のもとにいけない、このようにおっしゃったのはただひとり、イエスさまだけです。イエスさまだけに、ひたすらに、私たちの信仰の歩みは、これでまいりたいものです。  次に、そのようにしてイエスさまへの信仰を持たせていただいた者は、すべての聖徒に対する愛を持つように導かれます。どのような国や民族であろうとも、どのような立場にあろうとも、同じキリストを信じる信仰に導かれているかぎり、愛し受け入れるのです。  みなさん、キリスト教は愛の宗教、とお聞きになったことがあるでしょう。私たちは、人を愛することによって信仰の実を結ぶべき存在です。逆に言えば、信仰の実は人を愛することによって結ばれます。  イエスさまの十字架をご覧ください。天に向けて縦杭が建てられ、地と水平に横杭が打ちつけられています。縦杭は、神さまに向けての信仰を象徴するといえます。これに対して横杭は、人と人の間を結ぶ愛を象徴していると言えるでしょう。私たちの信仰と愛は、まさしく、イエスさまの十字架よりすべては始まります。  しかしこのようなことを申しますと、私たちの中には、このようなことを考える人が出てはこないでしょうか。「ああ、自分は人を愛することをしていない。このような自分の中に、イエスさまのへの信仰がほんとうにあるのだろうか。神さまの愛がほんとうにあるのだろうか。」  しかし、そのように問われる思いを持っているならば、その人は幸いです。なぜならばそのような人は、愛することに対する飢え渇きを持つようになるからです。 イエスさまが私を愛してくださったように、私も人を愛することができるように、その愛を与えてくださいと、願い求める思いを与えていただき、祈るように導かれます。私たちが人を愛する者となれるようにと祈り求めるならば、それは神さまのみこころにかなう祈りですから、必ずかなえていただけます。ここにも私たちは、信仰を働かせる必要が出てまいります。  教会とは、御父がイエスさまを愛してくださるように、互いに愛し合うべく主に召された者たちの集まりです。ますます信仰を増し加えていただき、愛する行いの実を互いのうちに結んでいきますように、お祈りいたします。  では、第二のポイントにまいります。教会は読んで字のごとく、教えられることで成長する共同体です。 パウロは、このエペソの兄弟姉妹のために祈っていると告白していますが、具体的にどのようなことを祈っているかについてもまた語っています。17節から19節です。 この箇所はひと言で言って、「あなたがたが『知る』ことができますように」と言っているわけです。 しかし、なにをどうやって知るのでしょうか? まず17節から見てみますと、イエス・キリストの父でいらっしゃる栄光の御父、このお方が与えてくださる御霊なる神さまによって、神さまを知ることができるように、ということが語られています。 神さまを知ることがなぜそれほど大事なのでしょうか? それは、イエスさまが私たちのために祈られたことであるからです。ヨハネの福音書、17章3節をご覧ください。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 イエスさまはやや難解な表現を用いていらっしゃいますが、私たちはみことばをお読みすることで、また、みことばを解き明かしたメッセージに触れたり、本を読んだりすることで、自分に与えられている永遠のいのちがどれほど豊かなものか、また、その永遠のいのちを与えてくださった神さまはどれほど素晴らしいお方か、ますます知るようになります。 そして、その永遠のいのちの恵みを味わおうと、私たちはさらにみことばから学ぼうとするわけです。この、学びたいという飢え渇きを与えてくださり、その飢え渇きに応えて、天の知恵をもって教えてくださるお方、それが御霊なる神さまです。教えてくださるのは御霊さまなのです。私も今こうして高いところから語らせていただいていますが、私が教える、と思ってはならないわけです。教えてくださるのはどこまでも、御霊なる神さまです。私も、謙遜にならせていただくのみです。 では、御霊なる神さまは、なにを知らせてくださる。すなわち、教えてくださるのでしょうか? 18節から19節は、3つのことを語っています。 まず、神さまの召しによって与えられる望みです。私たちは望みを、神さまとそのみことばに置くようになります。それは、私たちがこの世から召し出された者となったからです。 人はこの世にあるものがすべてだと思うかぎり、この世のあらゆるものの中から何かを選び、それに望みを置くものです。しかし、それがどんなものであれ、かぎりあるこの世に存在している以上、所詮はかぎりあるものにしかなりません。それに全幅の信頼を置いていたならば、どこかで裏切られることを覚悟しなければなりません。 しかし私たちは、そのようなかぎりある世界から、唯一変わることのない神さまとそのみことばに望みを置く者へと召し出されました。私たちの希望はもはや、失望に終わることがありません。 しかし私たちは、依然としてかぎりあるこの世を生きているという現実の中にいます。そのような私たちは、この世の価値観や基準と調子を合わせて生きざるを得ないように思わされることが多くあります。そのような私たちだからこそ、望みを神さまとそのみことばにおいて、その豊かさ、恵み深さを具体的に学び、自分の生活にひとつひとつ適用させていくことが必要になってくるわけです。聖霊なる神さまは、そのことを私たちにひとつひとつ教えてくださり、まことの望みを持てるように導いてくださいます。 次に、聖霊なる神さまは、聖徒たちが受け継ぐものの豊かな栄光を教えてくださいます。 このことをイエスさまご自身がどう語っていらっしゃるかを見てみましょう。マルコの福音書、10章29節と30節です。 このみことばが語られたのは、使徒たちはもちろんのこと、初代教会の信徒たちに対しても同じことが語られていました。彼らもイエスさまを信じる信仰を選んだゆえに、多くのものを失いました。 エペソ教会にしても、アルテミスという「女神」を巡っての迫害の中、パウロが去り、たいへんな苦しみを体験していました。まさしく、アルテミスにつく者たちとの離別すら選択しなければならなかった苦しみ、また彼らからの迫害も甘んじて受けなければなりませんでした。 イエスさまが語られた、この世で百倍のものを受けるというみことばは、ほんとうだったのでしょうか? ほんとうです。なぜならば、それから2000年にわたって、この世の多くの人が同じ主を信じ従う兄弟姉妹となり、それだけ、彼らの所有する多くの財産が聖徒たちのものとなり、教会は豊かになったからです。そしてみな、イエスさまを信じる信仰により、永遠のいのちをいただきました。 この世において富を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。知恵が増し加わり、地位や名声を享受している兄弟姉妹もいるでしょう。しかし彼らの今手にしているものが、神さまから見れば、私たちも今手にしている共有の財産であるということを、私たちはちゃんと認識していますでしょうか? もしそういう認識に立たなかったならば、私たちはそんな彼らのことをうらやんだり、ねたんだりしたり、あるいは神さまのことを不公平だと思ったりするようになります。しかしそれでは、兄弟姉妹とされていることをそもそも考えていないことになります。 しかし、世界の兄弟姉妹の財産が共有のものと考えるならば、私たちは、迫害や貧困の中で純粋に神さまのみを仰ぎ見る兄弟姉妹の信仰もまた、共有財産と考えられるようになるでしょう。日本や世界の神学校や大学の教授たち研究者の研究成果も、共有財産としてとらえられるようになるでしょう。このように、世界の兄弟姉妹の持つものを、自分もともに共有しているひとつの財産ととらえるならば、私たちは自然と、世界に目を向けることができるようになりますし、迫害のうちにある兄弟姉妹のため

三位一体の恵み

聖書箇所;エペソ人への手紙1:1~14 メッセージ題目;三位一体の恵み 本日から「エペソ人への手紙」の学びに入ります。このエペソ人への手紙、若い頃の私に大きなチャレンジを与えてくれた書簡です。2章のみことばをお読みして、私は日本と韓国の架け橋になりたいと願いました。5章のみことばをお読みして、結婚への召命を与えられました。その結果、今はどちらもかないました。わが家はまさに、このどちらのみことばも実現しています。だから私は個人的に、エペソ人への手紙というタイトルを見るたびに、生活に即した近しさのようなものを覚えます。みなさんはどうでしょうか? すばらしいみことばですので、一緒に学んでまいりたいと思います。 今日の箇所は、エペソ書の始まりの部分です。さてこの箇所で著者のパウロが強調していること、それは、私たちを救ってくださった神さまの「恵み」です。 今日の箇所を、3つの時制に分けて、それぞれの時制において神さまが私たちに何をしてくださったのか、ともに見てまいりたいと思います。 第一に、永遠の昔に神さまがしてくださったことです。父なる神さまが、私たちを選んでくださいました。 まず、この手紙を受け取ったエペソ人のことを考えてみましょう。パウロはこの書簡の冒頭で、キリスト・イエスの使徒の名において、キリスト・イエスにある忠実な聖徒たちと、エペソのクリスチャンたちのことを評価しています。 しかし彼らエペソのクリスチャンたちがもともと、どんな人たちだったかというと、月の女神アルテミスの都市に生まれ育った人たちです。その市民はどういう神観をふつう持っていたかということは、使徒の働き19章が証言しています。パウロの何年にもわたる働きにより、エペソにキリスト教会が定着しつつあったとき、市民たちがクリスチャンたちを排斥しようと騒乱を起こし、たいへんな騒ぎとなりました。そのとき、町の書記官が、こんなことを言って、彼らエペソの人たちをなだめました。「エペソのみなさん。エペソの町が、偉大な女神アルテミスと、天から下ったご神体との守護者であることを知らない人が、だれかいるでしょうか。」書記官一流の知恵を用いて騒ぎを鎮めたといえますが、しかしこれは同時に、アルテミスを礼拝する者にあらずばエペソ市民にあらず、とさえ言っているようです。 このような異教社会の中で、それでもまことの創造主、救い主なるキリストを信じ受け入れ、キリストに忠実な者となったと、パウロはキリストの名において評価しているのです。これは、たいへんなことです。 私たち、日本に生まれ育った者たちにとってもそうではないでしょうか。私たちも本来は、当たり前のようにして先祖代々日本の人たちが受け継いできた宗教的な習俗を受け入れていたはずです。やおよろずの神、といいますが、これは外国から見ると、やおよろずは八百万と書くので、日本には八百万も神がいる、ととらえられます。 私たち日本人は別に、八百万(はっぴゃくまん)の神々と特に意識しているわけではないでしょうが、それでも神々がとても多いことは何かにつけて気づかされるでしょう。むかし、日本の当時の総理大臣が、日本は神の国と発言して物議をかもしましたが、そういう発言がまかり通るような霊的風土ということは、みなさんも何かと感じていらっしゃるのではないかと思います。 そういう中から信仰を持つ者とされた。そういう点では、アルテミスの守護者にさえされているエペソの、その市民であったエペソ教会のクリスチャンは、われわれ日本のクリスチャンにとって誇るべき先輩と言えるでしょう。 3節をご覧ください。私たちは祝福されている、とパウロは語ります。どれくらい祝福されているのか? 天にあるすべての霊的祝福を神さまがくださっているほど、私たちは祝福されている、というのです。 その霊的祝福とは、どういうものでしょうか? 4節をご覧ください。……世界の基の置かれる前から、すなわち創造のみわざの前、永遠の定めによって、ということです。私たちが救われているということは、永遠の前からすでに神さまがお決めになっていた、ということです。 これは、たいへんなことです。私たちはこの地上を生きるものでありながら、天の祝福をいただきつつ、この地上を生きる者とされる、そうなるように、神さまが私たちをあらかじめ定めてくださっていた、ということです。神さまは目に見えないお方です。だから多くの人は、神さまがほんとうにおられるかどうか、不確かな思いしかいだけません。しかし私たちは、天におられる神さまがともに歩んでくださるという、その祝福を、日々いただきつつ生きています。私たちにとって神さまとは、なによりもリアルな存在であるのです。天にあるすべての霊的祝福は、いま現実に私たちがいただいているのです。その祝福を受けるように、神さまは永遠のむかしから定めてくださっていたのです。 いえ、それだけでしょうか? 天にあるすべての霊的祝福をいただいている、ということは、永遠の天国は私たちのもの、ということにもなります。私たちはこの地上を生きていますと、苦しいことやつらいことのある一方で、喜びを体験します。その喜びは、この地上を生きていく原動力になったりもするのです。しかし、私たちが体験するその素晴らしい喜びさえ、天国を受け継ぐ祝福に比べれば、なにほどのこともありません。想像すらできないほどの祝福、それが天国を受け継ぐ祝福です。その天国に入れるように、神さまが永遠のむかしからすでに私たちを選んでくださっていた、ということです。 さて、ここでパウロが、「私たち」がその祝福をいただくと言っていることにも注目です。私たち。アルテミスの民であったエペソの人、生粋のユダヤ人でエリートの律法学者であったパウロ、立場はまったく異なりますが、どちらもキリストに出会っていなかったということでは同じです。しかし今や、そのどちらの立場からも、キリストに出会い、まことの霊的祝福を受けるものとされた、というわけです。 この、まったくちがうところから永遠のむかしに選ばれ、みもとに集められ、「ともに」祝福を受ける喜び、御業をほめたたえる喜びが、この「私たち」ということばから伝わってくるようです。 私たちも立場はさまざまだったでしょう。イエスさまを信じ受け入れたプロセスもいろいろでした。しかし、そういうどうしがこの水戸第一聖書バプテスト教会という、ひとつところに集うべく、永遠のむかしに選ばれ、ひとつところに集められ、ともに天の霊的祝福にあずかるということ、それはどんなにすばらしいことでしょうか。ここでともに礼拝する私たちは、立場や性格の違いを超えて、ともに霊的祝福にあずかる者として選ばれている、だいじな兄弟姉妹です。 とは申しましても、いま現実にこの教会に集っていない人は、選ばれていないのではないか、などと、どうか思わないでいただきたいのです。神さまの永遠の選びというものは、人間の目によって判断できるものではありません。それこそ、私たちの周りの人たちのことも。神さまは永遠のむかしから選んでいらっしゃるかもしれないのです。だから私たちは、選ばれている人を見いだす働きに用いられるべく、伝道するのです。 神の選びというものは、かぎりある人間の立場から推し量るのはとても難しいものです。しかし、こう考えてみてはいかがでしょうか? 私がこうして信仰をもてるように、神さまが永遠のむかしから、私のことを選んでくださっていたなんて! 神さま、感謝します! 人のことはどうあれ、まず自分が選んでいただいていることに、感謝したいものです。その感謝の積み重ねが、みこころにかなったよい行いを生み、私たちを特別に選んでくださった神さまのすばらしさを、その行いをもって現すことができるようになると信じます。 第二に、2000年前に子なる神さまがしてくださったことです。イエスさまは私たちを、十字架の血によって神の子にしてくださいました。 4節のみことばをもう少し学んでまいります。神さまの選びは、「彼にあって」とあります。彼とは、キリストのことです。それは5節のみことばで解き明かしているとおり、御父がキリストによってご自分の子にしようと、私たちを選んでくださったということです。 6節を見てみますと、キリストは御父が私たちに与えてくださった恵みであると語っています。恵みとは何でしょうか? ただでもらえるものです。 私は小学生のとき、親友の石川くんという友達に、誕生パーティを開いてもらったことがあります。仲のよかった友だちが集まりました。当時私が片想いをしていた女の子も来てくれました。プレゼントもいろいろもらいました。ほんとうに楽しかったですし、またうれしかったです。一生の想い出になりました。 でももし、私が石川くんやほかの友達に、こんなことを言ったらどうなるでしょうか? 「今日は来てくれてありがとう。プレゼントもありがとう。でも、お金がかかったよね? パーティを盛り上げるのも大変だったよね? じゃあ、お金をこれだけ払うよ」そんなことを言って、お金なんか渡したら、みんなどう思うでしょうか? プレゼントにお金などいりません。それと同じものが、神さまの恵みです。イエスさまは、父なる神さまのプレゼントです。神さまがイエスさまを私たちのために送ってくださったならば、私たちのすることは、ただひとつです。ありがたく受け取ることだけです。 では、イエス・キリストは何をしてくださったのでしょうか? 7節のみことばを説き起こしますと、イエスさまは十字架の上で血潮を流して死んでくださったことによって、私たちのことを天国に入れなくしていた原因である、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださり、天国に私たちのいるべき場所を買い取ってくださったのでした。 その、2000年前の十字架のできごと、それを私たちは、自分のこととして信じ受け入れる信仰を与えていただいたのでした。それは自分の意志で信じたように思えても、ほんとうのことを言うと、神さまの遠大なご計画の中で、その信仰が与えられたというべきです。 私たちがまことに神さまの子どもとなるため、神さまがこの世界から買い取ってくださるために、イエスさまがしてくださったこと、それが十字架です。しかしそのために、イエスさまはどれほど苦しまなければならなかったことでしょうか。十字架の苦しみがどれほどのものであったか、それは肉体的な苦しみはもちろんのこと、最大の苦しみは、父なる神さまと引き離されなければならなかったことでした。イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」あのように叫んで捨てられなければならなかったのは、罪を捨てることをしない、神さまに従わないでいて平気でいる私たちだったはずです。しかし父なる神さまはそんな私たち人間を憐れんで、その罪の罰を、十字架というこの上なくむごたらしいかたちでイエスさまに負わせられました。 これが、恵みなのです。そして、その恵みをただで信じて受け入れるようにいていただいたこと、これもまた恵みです。恵みの上にさらに恵みをいただいた存在、それが私たちです。 8節から11節をお読みします。……神さまはキリストによって、罪から贖ってくださっただけではありません。みことばに啓示されたご計画を教えてくださり、キリストを救い主、主として告白するどうしを、民族や国や時代の枠を超えてあらゆるところから集めてくださり、ひとつの御国を受け継ぐ者としてくださいました。 それは、神さまの永遠のご計画によって定められていることでした。 キリストは死なれただけではありません。今も生きておられ、私たちの主でいらっしゃいます。私たちがみことばをお読みして神さまのみこころを知ることができるのは、その中心に啓示されているキリストによって、みことばを解き明かすことができるように、私たちが導かれているからです。 私たちの信仰生活を、人は「キリスト教」と呼びます。キリストのないキリスト教など、ほかの宗教と変わりのないものになってしまいます。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません、とおっしゃったキリストによって神と交わる、その生き方を許されているのが、私たちクリスチャンです。 ですから私たちは、キリストによって神との交わりにつねに招かれている者として、神との交わりにどんなときにも入っていきたいものです。いろいろなことで忙しくしているときでも、飲み物くらいは飲むでしょう。トイレくらいには行くでしょう。それならば、わずかでもいいです。すこし、祈ってみてはいかがでしょうか。みことばを思い出してみてはいかがでしょうか。長くなくていいのです。有名人がツイッターというインターネットのツールを用いて自分の意見を短く発信するとき、たまにその内容がニュースになったりしますが、短い意見でも世の中にインパクトをもたらすものです。同じように私たちの祈りは、長々としていればいいものではありません。仕事中でも構いませんから、気がついたら短くお祈りすることをお勧めします。私はこれを、「ツイッターの祈り」と呼びます。 もちろん、それだけではなく、みことばをしっかりと読み、じっくりと祈る時間を一日のうちに必ず1回は確保していただきたいと願います。みことばを黙想するならば、朝がいいでしょう。黙想するみことばの箇所は、週報に書いてありますので参照していただければと思いますが、その短い箇所を毎日、熟読玩味してみこころを受け取っていただければと思います。しかしそれは、お勤めのような宗教的な日課ではなく、キリストとの交わりとして毎日行なっていただきたいと願います。 そのようにしてイエスさまは、私たちに十字架の赦しの恵みをくださり、みことばを教えてくださる恵みをくださり、天国に入れてくださる恵みを与えてくださいます。ともに感謝いたしましょう。 第三に、今このとき、聖霊なる神さまがしてくださることです。聖霊なる神さまは、私たちに御国を受け継ぐ保証を与えてくださいます。 この保証を、13節のみことばでは「証印」と語っています。創世記やエステル記など、聖書の中にはしばしば、印、というものが出てきます。その印が押された文書には、印の持ち主である王の権威によって効力が発せられる、というわけです。 それは今日の日本でも同じことで、印の押された文書には、その人ないしは法人、団体の名により、効力が発せられます。 契約というものを結ぶならば、なおさらこの「印」というものの効力が重要になってきます。神さまと人との間にも契約が結ばれ、神さまは人をご自身の民にしてくださったわけですが、この契約の保証となってくださるお方が、聖霊なる神さまです。 神さまはもともと、イスラエルという民を特別に選び、ご自身の民としての契約を結ばれました。しかし、人がその契約を履行する際の条件であった、神さまの定めた掟を守り行うこと、それをすることのできる人は、だれひとりいませんでした。ただ、神の御子なるイエスさまだけが、御父への完全な従順をもってこの律法を完全に履行され、その従順は、十字架に死にまで至りました。この十字架は、御父が人を神の子どもにするために新しく結んでくださった契約であり、完全な契約、永遠の契約です。 聖霊なる神さまは、神さまと私たちの間にこの契約を結ぶべく働いてくださいました。私たちの力では、神さまのこの恵み、プレゼントを受け取ることなどできません。しかし聖霊なる神さまは、私たちの心にイエスさまの十字架に対する信仰を持たせてくださり、信仰による救いへと至るように、私たちを導いてくださいました。 聖霊さまのこの導きは、一生続きます。私たちがこの、十字架による罪の赦し、贖いという、永遠の契約に入れられている者にふさわしくなれるよう、私たちを日々整え、きよめてくださいます。そのために聖霊さまは、私たちが教会というキリストのからだのひと枝ひと枝となれるようにしてくださったのです。 礼拝の最後に祝祷をいたしますが、これは第二コリント13章の最後のことばをもとにしています。お祈りすることが、主イエス・キリストの恵み、父なる神さまの愛が私たちとともにあることに加え、聖霊の交わりがあるようにと祈っています。聖霊「と」の交わりとは表現しません。もちろん、たしかに「聖霊の交わり」とは「聖霊『と』の交わりではあるのですが、しかし、それは同時に、私たち信じる者どうし、教会という共同体のうちに聖霊さまが働かれることで成り立つ互いの交わり、ということを意味します。 私たちはまちがってはいけませんが、たとえクリスチャン同士でも、どうでもいいよもやま話で盛り上がることを「交わり」と呼ぶべきではありません。まあ、そういう話題になることももちろんありですが、それで終わるならば、何のために私たちはわざわざ、イエスさまを信じる者どうしで集まっているのでしょうか? しかし、もし私たちが、その会話の中で、神さまの素晴らしさ、みことばの恵みを分かち合うならば、あるいは互いの取り組んでいる課題、抱えている問題のために祈るならば、それはまさしく、交わりと呼ぶにふさわしいフェローシップが成り立っていることになります。私たちはせっかく、信じているどうしで教会に集まっているのですから、せめてそのような交わりをともに目指してまいりたいものです。そのような交わりを通して、私たちを救いに導いてくださった神さまの恵みが、私たちのうちにともにほめたたえられるようになります。 以上見てきて、お気づきになったことはありませんか? そう、私たちの救いは、御父の計画、御子の実践、御霊の適用、三位一体なる神さまがともに働かれて、成り立っている、ということです。救いに至るために、私たちが誇るような努力などなにひとつできません。すべては、三位一体なる神さまの恵みです。恵みのうちに私たちを選び、恵みのうちに私たちを贖い、恵みのうちに私たちを導く、父、御子、御霊の、三位一体の神さまの御名を、心からほめたたえてまいりましょう。

復活の朝に『おはよう』

復活祭感謝礼拝メッセージ 聖書箇所;マタイ28:1~10 メッセージ題目;「復活の朝に『おはよう』」  形あるものはどんなにすばらしくても、かぎりあるこの地上にあるならば、壊されたり崩されたりするものです。それは、イエス・キリストというお方も体験されたことです。イエス・キリストは、永遠、無限の創造主でいらっしゃいますが、肉体を取ってこの地上に来られたお方です。かぎりない神であるお方が、かぎりある人となられたのです。人は、イエスさまのことを神さまと認めず、十字架の上に死なせました。そして墓に葬りました。 しかし、イエスさまは復活されました。イエスさまは死からよみがえられ、永遠のいのちに生かされるならばもはや滅びることはないことを、身をもって証しされました。そして、人がイエスさまを信じ受け入れるならば、その人はもはや滅びることがなく、よみがえって永遠のいのちを受けます。 イエスさまの復活がどのようであったか、特に、復活のキリストが最初に発せられたことばに注目したいと思います。 イエスさまは、十字架から取り降ろされて、お墓に葬られていました。アリマタヤのヨセフという議員が、勇気を出して自分の入るはずの真新しいお墓を提供してくれたおかげです。しかし、イエスさまの復活の預言を生前聞いていた宗教指導者たちは、もしかしたら弟子たちがイエスさまの遺体を持ち出して、復活したと触れ回ったりはしないだろうか、そんなことになったら、たいへんな混乱が起こる……そう予測し、当時ユダヤを支配していたローマ総督ピラトに番兵を出してもらい、墓の番をさせました。 お墓といっても、日本のように火葬して土に骨壺を埋めるわけではありません。韓国のように土葬して土饅頭を盛り上げるわけでもありません。岩を横に掘り、そこに遺体を布で巻いた状態で安置するのです。そういうわけで、墓の入口の大きな石をどければ、中に入ってイエスさまのご遺体に対面できます。 そういうことをさせまいと、彼らは石をピラトの印により封印しました。これは、ピラトの命(めい)を受けた者でなければ、開けることは許されません。 墓に葬られて3日目になりました。折しもそのとき、女性たちがイエスさまのお墓にやってきました。ご遺体に香料を塗りにきたのです。 しかし、墓には石が転がしかけてあり、しかも封印されています。開けることはできないし、許されません。しかし女性たちは、せめてお墓のそばでもいいから、イエスさまのそばにいたい、その一心で、墓まで訪れたのでした。 こんなとき、男どもは情けないものです。イエスさまのあとに従います、死ぬことさえも覚悟しています、と大見えを切った弟子たちは、いったいどこにいるのでしょうか? ユダヤ人たちが自分のことも逮捕しにきはしないかと、引きこもってぶるぶる震えている有様です。そういうわけで、宗教指導者たちがあれこれ気をもんでいた、弟子たちがイエスさまの遺体を盗むかもしれないとかどうとかいったことは、まったく考える必要もないことだったわけですが、とにかくこのとき、堂々としていたのは女性たちでした。 女性たちはお墓に行きました。するとそのとき、光り輝く天使が現れました。墓の入口の石は転がりました。番兵たちはその姿に卒倒し、気絶しました。 天使は、女性たちに告げました。(5~7)恐ろしかったのは女性たちも同じでしたが、このできごとを弟子たちに伝えようと、さっそく、出発しました。この事実を、話しに行かなければ! 女性たちは恐れながらも喜びに満ちて走り出しました。 しかし、彼女たちが見たものは、天使と空っぽのお墓です。復活のイエスさまを見たわけではありません。それでも、彼女たちは信じました。信じて走り出しました。 そんな彼女たちはしかし、このとき、最高の出会いを体験することになりました。そこに、復活されたイエスさまが現れたのでした。イエスさまはおっしゃいました。「おはよう。」 イエスさまは、この女性たちに向けて「おはよう」とおっしゃったのです。このあいさつのことば、ちょっと味わってみましょう。 みなさん、朝起きたとき、「おはよう」とか「おはようございます」というあいさつを交わすのは、とても気持ちのいいことではないでしょうか? あれはなぜなのでしょうか? 一日を始めるとき、その前にはもちろん眠っています。まぶたを閉じた、暗い世界の中にいます。 しかし、その眠りから覚めると、目の前に広がるのは、私たちがたしかに生きている、すばらしい世界です。そのすばらしい世界に招き合うことば、その世界に生きることを祝福し合うことば、それが「おはよう」であり、「おはようございます」なのではないでしょうか? だから、このあいさつは何にもまして気持ちのいいものなのではないでしょうか? イエスさまが言われたこの「おはよう」ということば、これをギリシャ語の原語の意味を調べたり、いろいろな訳の聖書をつき合わせたりして、ちょっと勉強してみました。するとこのイエスさまのおっしゃった「おはよう」ということばには、相当いろいろな意味が込められていることがわかりました。 まず、「平安があるように」という意味です。これは、ユダヤで朝夕問わず交わすあいさつ、「シャローム」ですが、イスラエル、ユダヤの歴史を見てみると、落ち着ける時というものはなかったように思えます。聖書の記録を見てみると、この世的な平安を享受し、楽しむ記述よりは、外敵にいかに攻められて苦労したか、という記述にあふれています。外から攻撃され、内には不安にさせるものに満ち、まさに内憂外患、しかし、そのような歴史において、イスラエルは、この世の移り変わりのような状況に左右されることのない、まことの平安を体験するに至りました。それは、いかなる状況においても変わらずに民を愛もて導く、神さまだけが与えてくださる平安です。 イエスさまが十字架につけられた、死なれた、葬られた、これは、イエスさまを神の子と信じ、従ってきた者たちにとっては、耐えがたいできごとです。しかしそれでも、神さまはその人の心に、まことの平安を与えてくださいます。なぜならば、イエスさまは死を超えて、よみがえってくださり、永遠のいのちの中に生きておられるお方だからです。 イエスさまの与えてくださる平安は、この世の与えるものとはちがいます。この世はどんなに頑張っても、変わらない平安を与えることはできません。変わらない平安を与えることのできる唯一のお方、それは、変わることのないお方だけです。変わることのないお方、それは、イエスさまです。 わたしがここにいるよ! もう恐れないで! いつまでも一緒だよ! 女性たちはこのイエスさまのおことばに、そしてご存在に、測り知れない平安を体験したことでしょう。そしていま私たちも、復活のイエスさまがともにいてくださることによって、この不確かな世において、測り知れない平安を体験することができるのです。 そしてイエスさまのこの「おはよう」というおことばは、英語に直訳すると、「ヘイル」という詩的な表現になります。これは、やあ! とか、ばんざい! とか、幸(さち)あれ! となります。わたしがよみがえったことは、めでたいことじゃないか! ばんざいと言ってくれ! このことを喜んでくれ! あなたはしあわせだ! そうおっしゃっているようです。 朝のあいさつはどんな顔ですればいいでしょうか? いかにも眠そうに、というよりも憂鬱そうに、「おはよう」と言うべきでしょうか? それともにこにこと笑顔いっぱいに「おはよう」と言うべきでしょうか? うちには娘がいますが、娘に笑顔で朝のあいさつをされると、何とも言えないやる気がわき上がってきます。そうか、僕たちは、この新しい日、祝福の日に招かれているのか! この一日をしっかり頑張ろう! そうなるのだから、あいさつというものはなかなか大事なものです。 あいさつというものは、相手を祝福することです。しかしこの祝福は、自分が祝福を体験していてこそ自然にできることです。イエスさまはどうでしょうか? 死とよみから帰り、それこそ読んで字のごとくよみがえり、愛する人たちの前に生きて姿を現すことができたことは、イエスさまにとって素晴らしい喜びだったのではないでしょうか? わたしは生きてあなたがたに会えた! わたしはうれしい! わたしは天の父の祝福を、一身に受けている! わたしはそれゆえに、この復活の朝、ばんざいと叫びたい! あなたたちも一緒に、この幸いを喜んでほしい! イエスさまのひとこと、おはよう、には、そのような意味も込められているわけです。 私たちはいま、大きな問題を抱えていないでしょうか? あるいは、やる気が出なくて苦しんではいないでしょうか? 一切をリセットして、新しい出発をくれる素晴らしいことば「おはよう」、イエスさまのごあいさつ「おはよう」の声を聞きましょう。 そして私たちも、イエスさまのこの「おはよう」のごあいさつに対し、「イエスさま、おはようございます」と返してみてはいかがでしょうか? これまで味わったこともないような、底知れぬ底力がわいてくるのを感じることができるはずです。 朝、祈りのうちに始めてごらんになっていただきたいのです。目が覚めたら、寝床にひざまずいて、ちょっと祈ってみてください。イエスさま、おはようございます、と言ってみてください。新しい朝をくださるイエスさまは、必ず新しい力、喜んで生きる力に満たしてくださいます。 イエスさまというお方は、変わることのない神さまでいらっしゃいます。それは、イエスさまがつねに新しいお方でいらっしゃる、ということを意味します。新しい朝、ということばがあるように、一日のうちで新しい時間は、朝です。新しい昼とか、新しい夜などとは、ふつう言いません。朝が新しいように、朝に実にしみじみ深い意味を込めた「おはよう」とあいさつされたイエスさまは、どこまでも新しいお方です。私たちはこのイエスさまの御前に、つねに新しい気持ちで立たせられるものです。 私たちは時に、過去の自分に捕らわれます。過去自分が犯してしまった罪にくよくよしてしまいます。しかしそんなとき、十字架の上ですべての罪を赦してくださり、そして復活してくださったイエスさまの前に、新しい気持ちで立つことです。私たちはイエスさまによって、完全に新しくされます。 あるいは、過去の栄光を思い起こし、それにくらべて自分は今、なんでこんなに落ちぶれてしまったのか、と、くよくよする方もいらっしゃるかもしれません。しかし、すべてを新しくしてくださるイエスさまの前では、過去にこだわる必要はありません。新しいいのちに生きておられるイエスさまは、すべてを新しくしてくださいます。私たちはイエスさまがともに歩んでくださることによって、これまで味わったこともないような、喜びに満ちた新しいいのちへと歩み出すことができます。 そのいのちに招くイエスさまのごあいさつ、それが「おはよう」です。イエスさまの「おはよう」のことばに、毎日励ましをいただきましょう。そして私たちも毎日、「イエスさま、おはようございます」と祈りのうちに告白し、イエスさまとともに歩む素晴らしい日々を歩んでまいりましょう。イエスさまは私たちがどのような状況にあったとしても、つねに、新しいいのちのうちに生かしてくださいます。信じて歩み出しましょう。

八つの幸いその八

聖書箇所;マタイの福音書5:10~12 メッセージ題目;八つの幸いその八 義のために迫害されている者  来週になりますと、復活祭です。復活祭は、キリストの復活をお祝いする、喜びに満ちた日です。私たちの教会も特別なお祝いをします。この日のために体調を整えて参加しようと、長らくお休みしていらっしゃった方々も楽しみにしておられます。ほんとうに、めでたい日です。  復活祭、それは私たちのために、キリストがよみがえってくださった日です。キリストは十字架の上に死なれましたが、それで終わりではありません。キリストはよみがえられたのです。私たち、キリストを受け入れた者たちも、キリストの復活にあずかって、永遠に滅びることのない者としていただきます。天国にて、キリストともに永遠のいのちをいただく者としていただけます。ゆえに、キリストの復活は何よりも素晴らしいものです。  しかし、この復活のすばらしさの前に、私たちはキリストの死にあずからなければなりません。キリストが、私たちのために十字架にかかって死んでくださったこと、その事実のゆえに、キリストの復活があることを忘れてはなりません。  本日から一週間は、受難週と申します。キリストの受難をおぼえる週です。その日に、この八つの幸いの最後、迫害について学ぶということも、とても意味のあることではないかと思います。  本日の箇所を、3つのポイントから学びたいと思います。  第一に、義のために迫害された人とは、第一にイエス・キリストです。  イエスさまは、この八つの幸いを説くにあたり、その最後に語られた幸いが「義のために迫害されること」であると語られました。それは、天国がその人のものだからだ、というわけです。  天国とは、神さまのものです。そして、この天国は、永遠にキリスト・イエスが王として受け継がれます。イエスさまが永遠の王なのです。その王であられるイエスさまが、義のために迫害されている人は天国を持つ、と語っていらっしゃるのです。  このようにお語りになるイエスさまは、この地上に生きておられた間、堂々たる王さまとして振る舞っていらっしゃったでしょうか? いいえ、むしろイエスさまのお姿は、みすぼらしいしもべのようでありました。しかも時の権力者たちは、イエスさまにひどい迫害を加えました。  時の権力者は、神のみこころを取り継ぐはずの宗教指導者たちでした。しかし彼らは、民衆を苦しめるだけ苦しめて、自分たちは特権階級を享受していました。人々から尊敬されることを当然のように見なして生きていました。  しかしイエスさまは、口先だけのそんな彼らの前で、神の権威によって教えを宣べられ、その教えがまことに神から来たものであることを示されるように、多くのみわざをおこなわれました。そのみわざは、医者にも見放されたような病気の者、社会から疎外されたような者たちに対して行われたものであり、神さまのいつくしみと愛に満ちたものでした。  しかし、宗教的な権力者たちは、このイエスさまを見て、聖書に預言された神の子がついに来られた、と、イエスさまについていくことをしませんでした。かえって、イエスさまが神の義を宣べ伝えれば宣べ伝えるほど、イエスさまを疎ましく思いました。何度となく殺してやろうと謀議を巡らし、そしてついには弟子のユダの買収に成功し、十字架につけることまでしたのでした。  イエスさまはまさしく、神の義そのものの生き方を貫徹され、その結果、待つものは過酷な迫害の連続でした。その迫害は、十字架という、かぎりなくどす黒くて呪わしい姿にまでなりました。義のために迫害された第一の人、それは、この世界を造られ、人間をお造りになった創造主、イエスさまだったのです。人は、神の義そのものであられるイエスさまの生き方を、殺人というかたちをもって完全に否定し去ったのです。   それなら、全能なる神さまであられるイエスさまが、人間がこのような形でご自身を死に葬ることをご存じなかったのでしょうか? もちろんご存知でした。イエスさまは全知全能なるお方です。ならば、そうなると知っていてなおも御父がイエスさまをこの地上に送られたのは、なぜだったのでしょうか? その御父のみこころを、イエスさまがお受けになったのはなぜだったのでしょうか?  それは、復活、そして天国が、完全な従順を果たしたイエスさまの前に備えられていたからでした。イエスさまは、この地上の十字架だけを見つめておられたのではありません。イエスさまの目の前にあったのは、その迫害の先の天の御国、永遠の世界でした。  人の罪をさばかねばならない、この御父の義を果たすために、イエスさまはあらゆる迫害を甘受されました。イエスさまは十字架に死なれることによって、人がその罪ゆえに支払うべきいのちの代価を、御父にことごとく支払ってくださったのです。イエスさまが十字架の上で最後に語られたおことば「完了した」とは、いのちの代価を支払い終えた、という意味です。  この、御父の義が満足されるためにあらゆる迫害、実に十字架の死に至るまでをお受けになったイエスさまを思いましょう。私たちはこの地上でキリスト者として生きるならば、多くの苦しみを体験するかもしれません。しかしそのようなとき、まず私たちより先に、キリストが神の義を果たすために苦しみを受けられたことに思いを巡らしましょう。そして、イエスさまの十字架に感謝しましょう。  今週は受難週です。イエスさまの御苦しみのゆえに、私たちがどれほどいやされているか、神の恵みと愛をいただいているか、思い巡らし、感謝したいものです。  第二に、義のために迫害された人たちとは、みこころにかなった働きをした人たちです。  11節と12節をあらためてお読みします。……ありもしないことで悪口を浴びせる、みなさんにも経験がありませんでしょうか?  これはまず、イエスさまのもとにやってきたあらゆる群衆に語りかけていることです。彼らはこの機会に、イエスさまを救い主と受け入れて、イエスさまについて行きはじめた人たちです。そんな彼らから初代教会が起こされていくことを見越したうえで、イエスさまはこのみことばを語られたわけです。あなたがたは、わたしのゆえに、あらゆる悪口を浴びせられることになるでしょう。しかし、あなたがたは幸いです。あなたがたはこの地上で苦しい目に遭うかもしれませんが、やがて招き入れられる天国において、あなたがたの報いはとても大きいのですよ……と。  彼らは、聖書、今でいう旧約聖書の物語に接していたので、いにしえの預言者たちのことをよく知っていました。預言者とは、主のみことばを人々に取り継ぐ、神の器です。尊敬すべき、また尊重すべき存在です。  しかし彼らは、そのみことばをストレートに語ったゆえに、どれほどひどい迫害を受けたことでしょうか。「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤなど、その最たるものでしょう。中には、みことばを語り通して、殉教した者もいます。  それなら、迫害に遭ったり殉教したりする彼らのことを、そういう苦しい目に遭っているからと、私たちは愚か者扱いするでしょうか? いいえ、彼らの生き方を見て、私たちはむしろ、ますます、私たちの信じ受け入れているみことばは本物だと確かめるでしょうし、そのようにいのちをかけてみことばを伝え通す働き人を送られた神さまを、私たちはよりいっそうほめたたえるでしょう。  マタイの福音書、21章の33節から39節をお読みしましょう。ぶどう園の主人とは、父なる神さまです。収穫を得るために農夫たちのもとに送りつづけたしもべたちとは、父なる神さまの命(めい)を受けたしもべたちでした。それは預言者であり、祭司でありました。しかし、まことの神さまにお従いする道を、単なる人間的な利権と勘違いしているくせして、宗教的な装いをして権力の座に居座るような者たちは、彼ら主のしもべを思いきり迫害しました。そのような者たちは、ぶどう園の跡取り息子になぞらえらえたイエスさまが来られても、イエスさまを受け入れず、十字架の上に死なせました。  そう、この主のしもべたちは、イエスさまの十字架につながる人たちでした。彼らの受難は、イエスさまの受難を予告し、さらには、イエスさまにつながる人たちも迫害を受けることを予告したものでした。  彼ら旧約時代の主の働き人は、イエスさまの訪れを預言していました。そんな彼らは、イエスさまとともに力強く訪れる御国を、見たいと願いながらも見ることができませんでした。しかし、それで彼らの人生は終わったわけではありません。彼らは、その待望した御国に入れられ、いま、主とともに永遠の安息に入れられています。  これらのことは、このイエスさまのメッセージにより神の国にあずかり、主の働き人となる人たちにも当てはまります。彼らは、大いなる迫害を受けるようになります。その理由をイエスさまはこのみことばで「ありもしないことで」と語っていらっしゃいます。  キリスト者に対する迫害、それは「ありもしないことで」ということがその最たる理由ではないでしょうか。世の中の人たちが聖書の教えを批判することも、じっくり聖書を学んでみれば、誤解は必ず解けるものです。しかし、多くの場合、人々は誤解をあえて解こうとはせず、キリストの教えに攻撃のみを加えるものです。  先日私は、映画『パウロ』を鑑賞しました。ネロ皇帝による迫害下にあったローマで、キリスト者がどれほど残酷な扱いを受けたか、そのような中でパウロが、迫害する者たちにどれほどの赦しと愛を実践したか、という内容です。あの映画に描かれていたものは、キリストにお従いする者たちがこの世で体験するかぎりない不条理で、私はそれを見て大いに考えさせられました。この映画を観てしばらくの間は、これは聖徒たちに勧めるべきではないのでは、とさえ考えていました。しかし私は今日のメッセージを準備している間に、少しずつ考えが変わっていきました。勇気のある方は、機会があればぜひご覧いただきたいと思います。  あまりネタバレにならない程度に話しますが、そんな苦しみの極限にある彼らを支えたものは、天国の存在でした。彼らはこの世にてあらゆる苦しみを味わいましたが、やがて天国に迎え入れられる、その信仰により、彼らがこの世の迫害を耐えたと言ってもいいでしょう。  いえ、その初代教会に続く歴史において、なおもイエスさまのあとを追って迫害と殉教に服した人は、古今東西、枚挙にいとまがありません。その中でも、水戸刑務所で太平洋戦争中の1943年に殉教した斎藤保太郎(さいとう やすたろう)先生のことは、茨城の人として覚えておきたいものです。また、私を韓国語ならびに韓国事情専攻へと導いたものは、日本の支配下において国家神道が強要される中でキリストへの信仰を守り通した数多くの牧師先生の存在でした。その中でも、獄中で激しい拷問を加えられて1944年に殉教した朱基徹(チュ・キチョル)先生のことは、ぜひ覚えていただければと思います。朱牧師は、私にとっては神学校の誇るべき先輩です。この不肖の後輩がこの茨城の地で主の働きにあずかれているのも、斎藤先生や朱先生のような素晴らしい先輩方の殉教の血が流されたゆえと確信いたします。その歩みは私だけではなく、ここに集う私たちすべての歩みにつながっていると確信いたします。  しかし私たちは、そのいにしえのしもべたちが素晴らしかった、私たちにこんな真似はできない、などと思う必要はありません。そのような主の素晴らしいしもべを選ばれ、立てられ、用いられるのは、どこまでも神さまのご主権に属することです。人ももちろん素晴らしいですが、私たちはまず、そのように人をご自身のご栄光を現す働きに用いてくださる、神さまの御名をほめたたえてまいりたいものです。  第三のポイントです。義のために迫害されている人たちとは、今この世にもいる、幸いな人たちです。  イエスさまのこのメッセージは、第一にこの時代の

八つの幸いその七 

聖書箇所;マタイの福音書5章9節 メッセージ題目;八つの幸いその七 平和をつくる者  貴い平和……平和を愛する気持ちは、だれであれ同じでしょう。平和がきらいという人はいないはずです。平和の反対は、戦争でしょう。その戦争をする人も、けしかける側も、それは平和のためだと言ってはばからないと思います。  しかし、それが実際に、「平和をつくり出す」働きに結局は実を結んでいないことを見ると、平和をつくり出すことはなんと難しいことかと痛感させられます。 聖書は、神さまの大事なみこころとして、平和を語ります。しかし、聖書の語る「平和」とは、人類一般がいだいている普遍的な平和の概念と重なる部分がある一方、完全に同じものではありません。 それが、私たちキリスト者が生半可な気持ちで平和を語ることの難しさにつながっているのですが、私たちにとって、それでは真の平和とは何でしょうか?  コロサイ人への手紙1章20節をご覧ください。この箇所は平和を語っています。お読みします。……この箇所からわかることは、神さまは、イエスさまの十字架の血によって私たちに平和をもたらしてくださった、ということです。  私たちは本来、神さまに敵対する道を選んでいました。神さまのきよいみこころよりも、罪の道を歩むことを好んでいました。神さまはその罰として、私たちがなすがままにされました。こうして私たちは、自分たちの好むことをすればするほど、けがれと破壊を経験するようになってしまいました。  しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちが滅びるままにしてはおかれませんでした。私たちがこのままでは罪のゆえに滅びてしまう、そんな私たちのことを憐れみ、私たちのすべての罪を、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。イエスさまは私たちのすべての罪を、十字架にて背負ってくださいました。イエスさまが十字架によって私たちのすべての罪を赦してくださったと信じるならば、神さまに敵対していた私たちは、神さまと和解していただけます。この神さまとの永遠の和解、すなわち平和をもたらしてくださったもの、それがイエスさまの十字架の血です。  このことから、神さまが私たちに定めてくださったまことの平和は、御子イエスさまの十字架の血によるものであることがわかります。まず、神さまとの和解、これこそが私たちのうちに、まことの平和を保つための道です。イエスさまの十字架の血によって神さまと和解させられたどうしが、同じ神さまを見上げ、そのことによってひとつにさせられるのです。  しかし、これは頭でわかっているだけでは不十分です。それではただ単に「平和を愛する者」という、平凡なレベルで終わってしまいます。神さまが私たちに望んでいらっしゃるのは、「平和をつくり出す者」となることです。  そういう「平和をつくり出す者」が「神の子と呼ばれる」、これはどういうことでしょうか? まず、「神の子」とは、本来、イエスさまです。私たちは被造物ではありますが、本来の私たちの姿を考えてみますと、「罪人」でこそあれ、イエスさまと同じレベルでの「神の子」と呼ぶのは、無理があります。創造主と被造物ほどのちがいがあります。まさしく、天と地のちがいです。そのような被造物は、イエスさまのような意味での「神の子」ではありえません。  しかし、そのような罪人であった私たちは、イエスさまを受け入れることにより、神さまの子どもにしていただきました。神さまの子どもとして、イエスさまとともに来たるべき御国を受け継ぎ、御国の王とならせていただく約束をいただきました。私たちはそういうわけで、イエスさまを受け入れている以上、「神の子」にしていただいているのです。 そのようにして私たちは「神の子」にしていただいたわけですが、問題はそんな私たちが「神の子」と呼ばれるにふさわしいかどうかです。  もし、イエスさまを受け入れたクリスチャンであることをもって自任していたとしても、その人がとても証しにならない生活をしていたとしたらどうでしょうか? そういう人のことを私たちは、「神の子」と呼びたいと思うでしょうか?   とは申しましても、それならば、と、逆に私たちが証しを立てる生活をすることに集中したとして、そんな私たちのことを「神の子」と呼んでくれる人が、いったいどれくらいいるでしょうか? 私たちはこうして地上でクリスチャンとしての生活をしていて、いろいろな素晴らしいクリスチャンのうわさを見聞きすると思いますが、そういう素晴らしいクリスチャンのことを、私たちは臆面もなく「神の子」と呼んだりするでしょうか?  とすると、「神の子と呼ばれる」ということは、単純な呼称の問題ではないことがわかります。要は、神の子と呼ばれるにふさわしいだけの、行いの実を結んでいるかどうかということが大事なわけです。  そこで、その基準となるものは何か、ということになります。それが「平和をつくり出しているかどうか」ということです。  さきほども申しましたが、神さまの御目から見ての平和とは、イエスさまの十字架の血によることです。そうなると、まずは自分自身がイエスさまの十字架の血による罪の赦しをいただいて、神さまと和解させられる、すなわち神さまとの平和へと導き入れられることが必要となります。  そこから、平和をつくり出すのです。神さまがイエスさまの十字架によってつくり出してくださった平和をもって、今度は自分が人々と平和をつくり出すのです。  こういう前提で私たちのキリスト信仰を見てみると、武力のようなもので異民族や異教の人々を制圧することでキリストを伝えようとする試みは、何ら意味を持たないことになります。もちろん、武力によってキリストを伝えようとする試みの結果、摂理のようにしてキリストが伝わるということもなきにしもあらずではあるのですが、私たちはそれを一般的なものととらえてはなりません。私たちからキリストが伝わるのは、どこまでも、私たちにとっての平和をつくり出す努力から生まれるものであるべきです。  しかしこうなると、異教の人たちですとか、社会主義の人たちですとか、イエスさまをとおして神さまに至る道を認めない人たちとの間に平和を保つにはどうすればいい、という、難しい問題に私たちは出くわします。異教という点でいえば、多くの日本人にとって、私たちのキリスト信仰は異教のように映ることでしょう。私たちの隣人というミクロの関係から、世界の国や民族というマクロの関係に至るまで、少なくとも私たちひとりひとりは、どうすれば平和をつくり出すことができるでしょうか?  私たちは、ことばだけでキリストを伝えようとしてはだめです。おそらく私たちがことばでキリストを伝えようとするならば、多くの人は、私たちに対して、というよりもキリストに対して、反発心をいだくしかないでしょう。それは、自分の信じている神ですとか、自分の持っている主義がいちばんと考えているからです。 私たちはそういう人たちに対し、こちらが正しい、などと、頭ごなしに神さまを伝えることをしても反発を招くだけです。  そこで私たちは、イエスさまのおっしゃっているみことばに耳を傾ける必要があります。マタイの福音書、5章13節から16節です。  この時代の塩というものは、岩塩です。石の中から塩気のある必要な部分を削り取ったら、あとはただの石です。役に立たないから、道端に捨てるしかありません。塩は、腐敗を止める働きをします。また、食べ物に味をつけます。ヨブ記にもありますが、味のない食べ物は食べられない、まるで腐った食べ物のようだ、と語られています。それを食べられるようにするのが塩の役割です。これで食べ物は腐ることがなく、人の栄養になります。  腐る、という点では、罪人たちの生きるこの世も同様です。この腐敗を何とかするには、人が神さまのみことばに従って生きる以外にありません。塩は、大量に使わなくても、ほんのわずかで味付けをすることができ、また、腐敗を食い止めることができます。同じように、私たちクリスチャンはわずかの存在かもしれませんが、私たちがきちんと機能しているならば、この世は腐敗することがないのです。  そのように、世を腐敗させない生き方を、イエスさまはまた「あなたがたは世の光です」とも表現されました。ほんのわずかの光で、暗やみは明るくなります。その光を、私たちは升の下にわざわざ入れて生きることはありません。升の下に隠れて生活することは、謙遜なのでも奥ゆかしいのでもありません。御霊の与えてくださったともしびは、升の下に入れてしまったら消えてしまうのです。御霊を消してはなりません。私たちは、人々に見えるところにともしびを掲げ、煌々と照らすことが求められています。  その、光を輝かせる生き方は、私たちの生き方を通じて、私たちの主でいらっしゃる天の父なる神さまの御名を、私たちの周りの人々がほめたたえるという形で実を結んでしかるべきです。ここに、私たちの信仰が、行いという形で実を結ぶ必要性が出てきます。  間違ってはならないことですが、私たちの救いは、よい行いや宗教的な行為といった、なんらかの行いで手に入れるものではありません。私たちは何一つ、神さまに認められるような行いなどできない存在です。それが、救っていただいたのは、ひとえに神さまの一方的なあわれみによるものです。救いにおいて、私たちの行いの差し挟まれる余地などありません。  しかし、救っていただいたならば、私たちは神さまとの関係に生きる者に変えられました。私たちが生活の中で実を結ぶべき良い行いを、神さまご自身が私たちひとりひとりのために備えてくださいました。私たちは神さまとの関係を深めれば深めるほど、このよい行いの実を生活の中で結びたいと切に願うようになり、そのために祈るようになります。 そうして、神さまはその祈りに応えてくださり、少しずつ、よい行いが生活の中で結ばれていくようになります。これは、救ってくださった神さまを証しする生活となります。  そういう私たちの最もよい行い、それは何でしょうか? それは、普段のよい行いのうちに、人々を神さまと和解させるべく、つまり神さまとの平和に導き入れるべく、イエスさまを伝えることです。これは、牧師ですとか、宣教師といった、特別なフルタイムの働き人でなければできないことではありません。  よい行いをすることに、特に召命があるはずがありません。私たちがよくない生活におぼれているならば、それは私たちを救ってくださった神さまの栄光にならないことであり、人々の前で神さまの光を輝かせていることにはなりません。そういう生き方をあえて止めずにいるようなことは、私たちにはできないでしょう。  だから私たちは、みことばの教えをその生活をもって飾るべく、みこころにかなったよい行いを目指していきます。しかしその生活の究極の目的は何でしょうか? 私たちのように生きたい、と願う人が、周りに現れるように、証しの生活を立てることではないでしょうか?  それなら私たちは、ほんとうの意味で人々の間にキリストの平和をつくり出すべく、取り組んでいく必要があるはずです。みことばをお読みいただければと思います。ペテロの手紙第一、3章の13節から16節です。  ……そうです。よい行いをもって、私たちの救いの確かさを立証することが勧められています。柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって……私たちが信じていることがまことであることは事実ですが、だからといって、むりやり上から目線で、さあ、信じなさい、と迫るのではありません。相手をどこまでも尊重して、へりくだって、仕えるように……私たちクリスチャンは、いつでも敵対する人たちに取り囲まれています。しかし、彼らは、なぜ私たちのことを敵対する存在と見なすべきか、わからないのがほんとうのところです。なぜ私たちがそんなにも嫌うべき存在なのか、説明しようにもできないのです。  そういう人には、私たちの信じているお方がどんなに素晴らしいお方か、へりくだってきちんと説明するならば、必ずわかってもらえるのです。いえ、その場ではすぐにわかってくれないかもしれませんが、みことばの約束は、わかってくれる、というものです。私たちはわからずやの相手を前にして、涙とともにみことばの種を蒔きつづけ、それが無駄なことのように思えてならないかもしれませんが、私たちの思いと、みことばの約束と、どちらが真実でしょうか? 私たちにはできるのです。私たちは、平和の福音を宣べ伝えることによって、私たちの周りに平和をつくり出していくことが、必ずできます。あきらめないでいただきたいのです。  もちろん、この「弁明できる用意」が整うためには、私たちは相当にみことばを学ぶ必要があるでしょう。時には、提示する上で必要なみことばを暗唱することも必須です。 しかし、私たちのうちにイエスさまがおられる以上、私たちは必ずできる、と信じていただきたいのです。賜物はそれぞれでしょう。福音を提示するための賜物も、それぞれの個性に合わせていろいろであるかもしれません。しかし、福音を提示すること、すなわち伝道すること自体は、賜物ではありません。クリスチャンである以上、必ずすべきことです。というより、御霊の働きによって、必ずできることです。  私たちはそのようにして、人々を神さまと和解させる、平和へと導く働きをしていくことによって、神の子なるイエスさまがわがうちに働いていると言えるにふさわしい生き方をしていけるようになります。みなさん、平和をつくり出す者として、用いられたいですか? 反戦活動も素晴らしいでしょう。身の周りの仲が悪かった人と仲直りすることも必要でしょう。しかし何よりも私たちにとって必要なことは、人々を神さまとの平和へと導く、そのようにして平和をつくり出す働きをしていくことです。そのために私たちは、日々みことばを学び、祈りつつ備えてまいりましょう。この積み重ねが、この世界にまことの平和を実現する一歩となります。  もちろん、それは簡単な歩みではありません。表面的にだけイエスさまを信じさせたところで、世界がどうやって平和に満たされるでしょうか? 平和をつくる歩みは、私たちの生活が根本から変えられるところから始まり、そこから、周りの人たちの歩みがもろとも変えられていくことによって成し遂げられます。そこには多くの人の反対があるでしょう。また抵抗にあうでしょう。しかし、私たちはあきらめてはなりません。あきらめずに神との平和を保ち、その平和によって人を神との平和に導く人には、大いなる祝福があります。  私たちは、だれのことを神さまとの和解に導きたいでしょうか? ともに祈りましょう

八つの幸いその六 

聖書箇所;マタイの福音書5章8節 メッセージ題目;八つの幸いその六 心のきよい者  心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。  私たちは、神さまを肉眼で見ることはできません。では私たちは、神さまを見ることができないからと、あきらめる必要があるのでしょうか? そんなことはありません。私たちはこの世に生きながらも、神さまを目の前にしているごとく生きることができます。  そして実際に、神さまを目で見ながら生きていた人たちがいました。それは誰でしょうか? 新約聖書の最初の部分、四つの福音書に登場する、イエスさまの時代に生きた人たちでした。イエスさまは、受肉した創造主なる神さまでいらっしゃいます。イエスさまを見た人は、神さまを見たのです。  しかし、それでも、当時の宗教指導者たちをはじめ、このお方が神さまの御子であることがわからなかった者たちが大部分でした。彼らは神を見たのではなかったでしょうか? しかし、そうではなかったのです。「見る」と「見える」は、似ていますが決して同じものではありません。彼らにはイエスさまが「見えて」はいても、決してイエスさまを見ることで神さまを「見て」はいなかったのです。  ここに、「心がきよいかどうか」ということが問題になってきます。もし、心がきよければ、人はイエスさまの弟子たちや目の開かれた盲人、サマリアの女性のように、イエスさまを見ることで神さまを見ることができます。しかし、心がきよくなければ、そこにイエスさまがともにおられようと、どんなにお近くにおられようと、人は神さまを見ることなど決してできないのです。イエスさまを十字架につけた人たちなど、その典型といえるでしょう。  彼ら宗教指導者たちは宗教生活においては、もしかしたら非の打ちどころのない者たちだったかもしれません。しかしそんな彼らは、イエスさまを見ていても、それが神さまを見ていることだと分かりませんでした。つまりは、心がきよくなかったのです。より正確に言えば、どんなに宗教生活に打ち込もうと、それを心のきよさとして神さまに認めていただけなかったのです。  それはこんにちの私たちにとっても同じでしょう。私たちは父なる神さまはもとより、イエスさまも目で見ることができません。ときどき、イエスさまの絵を壁に飾る人がいますが、あれはイメージであって、あの絵をイエスさまそのものとして拝んでいるわけではありません。父なる神さまもイエスさまも、心の目で見るのみです。しかし私たちは、心の目で主が見えたならば、それで満足するものですし、また、満足すべきです。それ以上のことを望む必要はありません。  そういうわけで、私たちはいまこの世に生きていながらも、「神を見る」ことができます。だが、そのための絶対条件として、私たちは「心がきよい」必要があります。それでは、聖書の語る「心がきよい」とは、どのようなことでしょうか? 私たちはどうすれば、その「心のきよさ」を身に着けることができますでしょうか? ともに見てまいりましょう。  この「きよい」ということばは、清潔、という意味とともに、混じりけのない、という意味です。旧約聖書の士師記に、ギデオンの招集した軍隊が、3万2000人、1万人、そしてわずか300人とえり分けられ、そのわずか300人で主がイスラエルに勝利をもたらしてくださったという、あのできごとのように、まことに主の栄光が顕されるためには、必要とされるものはわずかであり、必要ではないものはふるい落とされるのです。  私たちの生活においてもそうです。私たちはみことばに照らして見てみると、なんと多くの不必要なものに囲まれて生きていることでしょうか。どれだけ多くのよくない習慣、よくない言動のせいで、神さまを見えなくさせてしまっていることでしょうか。  あの、イエスさまが足を踏み入れられたエルサレム神殿は、いけにえの動物を売る者や両替商などの、商売の場と化していました。こんなことでどうやって神さまにお祈りをささげることができるでしょうか。イエスさまは彼ら商売をする者どもを追い出されました。「宮きよめ」と呼ばれるものです。 きよめというものは、あらゆる分野で必要です。きれいではないことをお語りするようで恐縮ですが、このメッセージの準備をしていたまさにそのとき、わが家にはバキュームカーが来ていました。浄化槽の汲み取り作業にいらしていただいていたのでした。この浄化槽にきたないものがたまったままだと、やがてたいへんなことになります。 不純なものを取り除いていただく必要があるのは、私たちも同じです。そのようにして不純物を取り除いていただくことによって、私たちは神さまを見せていただくことができるようになります。本来私たちは、神さまと交わりの持てる存在として創造されました。神さまがいまも私たちを生かしてくださっていることからも、それは明らかです。神さまはいつでも私たちのそばにおられます。しかし私たちは罪の不純物があまりにも多いので、すぐそばにおられる神さまを見ることができなくなっていました。それを、不必要なものをことごとく取り除いていただくことで、実は神さまというお方は私たちから遠く離れた所におられる方ではなく、すぐそばにおられるお方だということを、私たちは知ることができるのです。 それでは、神さまを見る生活というものは、神を見ない生活に比べてちがいが現れるものでしょうか? そのとおりです。ちがいが現れます。というより、ちがいが現れてしかるべきです。ヤコブの手紙1章26節と27節をお読みください。 この箇所は、聖書全体には珍しく「宗教」ということばが用いられています。私たちは、神さまとともに歩む私たちの生活に「宗教」ということばはそぐわないと、日ごろ感じていらっしゃるのではないでしょうか? 私もそうです。「私は、キリスト教という宗教を信じています」などという言い方は、なるべくならばしたくありません。学生時代私は、学科の先輩たちと街を歩いていたとき、占い屋さんが店を出しているのを見て、先輩の一人が冗談半分に言いました。「あ、占い屋さんだ! 武井君も占ってもらいなよ。」私はこう言いました。「いえ、私はクリスチャンですから、占いはやらないんです。」すると、先輩はこう言いました。「えーっ! 武井君、キリスト教を信じているの!?」……私、この先輩のことばに、ちょっと違和感を覚えたものでした。私は、キリストを信じている、より正確に言えば、キリストと交わりを持っているのであって、キリスト教という「いち宗教」を信じているように言われるのは心外でした。みなさんにもそのような経験はありませんでしょうか? しかし、ヤコブの手紙を見てみますと、たしかに「宗教」と書いてあります。これは、キリスト信仰をかなり客観化した表現といえるでしょう。つまり、自分たちではなく、他者から私たちがどうみられるか、ということです。自分たちがなんと考えようと、世の基準から見れば私たちは「宗教」です。 そのように、私たちのキリスト信仰が「宗教」という次元で評価される場合、その評価の基準は、私たちの言動や、生活ということになります。「自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら」とあります。ことばや心がキリスト信仰にふさわしくなく、けがれたままなのに、まるで自分がひとかどの信仰者のごとく振る舞うならば、そのような人は宗教的に見てむなしい、というわけです。 それでは、どのような人が宗教者としてふさわしいのか? 27節にあるように、困窮している人に助けの手を差し伸べる形で実践の実を結び、またその一方で、この世とは一線を引く生き方をすることで自分をきよく守ることであると語ります。 心の問題でいえば、自分の中から不必要なものを取り除いていただくだけではなく、それ以上不必要なものを心の中に入れないことであるというわけです。心の中から不必要なものを取り除いていただいても、また以前のように不必要なものを取り込んでしまうならば、元の木阿弥です。心を守る必要があります。より正確に言えば、聖霊なる神さまに心を守っていただく必要があります。 また、きよい宗教、つまり客観的に見ても証しを立てていると認められるキリスト信仰は、孤児ややもめたちが困っているときに世話をすることであると語ります。このみことばが語られた当時のキリスト者は、とても困窮していた人たちでした。さまざまな試練や迫害に遭っている人たちでした。それでも、さらに困窮している人たちに手を差し伸べることこそまことの証しを立てることであると勧められているのです。 私たちを含め、こんにちの教会は、その当時に比べてはるかに余裕があるはずです。そして、被災地の教会や、迫害に遭っている海外の兄弟姉妹のことを考えてみましょう。私たちは恵まれています。そんな私たちは、困窮している人たちに対し、いったいどれほどの関心をいだいていることでしょうか? いえ、百歩譲って、私たちがどうしてもそういう困窮した人たちのところに行けないとしても、そういう人たちのために日夜骨折っている主にある兄弟姉妹のことを、どれほど覚えて祈り、支えていることでしょうか? このように申し上げている私こそが、まず悔い改めます。そして、愛するみなさんにも、このことを真剣に考えていただきたいのです。 私たちが毎日ディボーションを行うことは、生活の中で具体的にみことばを行うことへと実を結んでしかるべきです。その中でも、先週学んだように、あわれみを施す行いへと実を結んでこそ、私たちにとっての日々の主との交わりは意味のあるものとなります。 同じヤコブの手紙に書かれていることですが、着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているような人がいたとして、そういう人に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要なものを与えないならば何の役に立つか、そう警告するみことばが出てきます。 こういうことを、クリスチャンはよくやっているのではないでしょうか? 兄弟姉妹に関する悪いニュースに接しても、大丈夫だ、神さまが何とかしてくださる、とは言うものの、自分では何もしない、何もしてあげない。 こういう点でも、私たちの心のきよさが問われます。私たちはそのような人たちを前にしても、心は少しは動くかもしれないが、持てるものを提供しようともしないで、神さまに丸投げするようなことを口にして、自分には信仰があるように振る舞う……しかしそれでは、私たちはほんとうの意味で心がきよいわけではない、したがって、イエスさまのおっしゃっているおことばに従えば、神さまが見えていないことになります。 しかし、このようなみことばをお読みすると、私たちはとても心が刺されないでしょうか? 結局、自分は何もやっていないではないか、あわれみなどことばだけのものでしかないではないか、ああ、ほんとうは、神さまが見えていないのか……! そうお思いになって、がっかりしていらっしゃいませんでしょうか? では、ここで、イエスさまのお語りになったみことばを見てみましょう。ルカの福音書、18章の9節から14節です。 パリサイ人は宗教的に見ると、とてもすごい人でした。神さまのみこころを損なうような悪いことをしないだけではありません。断食という点でも、十分の一を納めるという点でも、怠りなく行なっている、宗教的に見ても完璧です。 しかし、神さまがお聞きになったのは、こういうお祈りではありませんでした。取税人……いわば、存在そのものが罪そのもの、というべき、ユダヤの宗教社会のとんだ鼻つまみ者です。彼は、ただひたすらにあわれみを求めました。神さまが聞いてくださったのは、この取税人の祈りの方だったのです。 ヤコブの手紙がそう言っているから、と、形だけであわれみを示すような行動を取ったところで、神さまはすべてお見通しです。施しをはじめ、あらゆる宗教的な行為を、神さまのあわれみを求める手段とするならば、このパリサイ人のように、自分の行いを義とする罠にはまってしまいます。 そうではないのです。私たちはそもそも、よい行いなど何ひとつできるような存在ではありません。困窮している人に施しをすることなど、なおさらのことです。しかし、私たちがそのような自己中心の罪人であることを認めるとき、そこから神さまのあわれみの御手は私たちに伸ばされていきます。私たちは真の意味で悔い改めに導かれ、私たちの心の中にある不必要なもの、神さまを見させなくしている罪深い性質は取り除かれていきます。 取税人が、存在そのものが罪人と見なされていたように、私たちも存在そのものが罪そのものです。私たちはそのことを認めることができるでしょうか? 私たちはまだ、自分はまだ大丈夫だと思っていないでしょうか? とんでもないことです。私たちはイエスさまがいなければ、生きていけない存在です。私たちは恵みの中で、そのことに気づかせていただいた存在です。そんな私たちのすることは、イエスさまにすがること、これだけです。 イエスさまはそのようにしてすがる私たちのことを、決して遠ざけることをなさらないお方です。私たちの切なるお祈りを聞いてくださいます。私たちをまことの悔い改めに導き、私たちの心を余計なものからきよめてくださいます。 こうして私たちは、神を見るという、最高の祝福にあずかれるようになります。そこから私たちは、混じりけない思いで、主のみこころにかなう行いの実を結んでいけるようになります。 私たちは神さまが見たいと切望するときがあるのではないでしょうか? そのようなとき、私たちがともに神さまを見る祝福をいただくことができますように、ともにお祈りしていただきたいのです。ともに神さまを仰ぎ見る共同体として、私たちの教会がますます成長していきますように、そこから、神さまを見る者としてふさわしい、みこころにかなった行いの実が結ばれて行きますように、主の御名によってお祈りいたします。