「神の国の子どもになろう」

マルコの福音書10章13節~16節/メッセージ;「神の国の子どもになろう」 私は子どもが好きですが、小さいころ、子どもが嫌いでした。当時、伊武雅刀という俳優さんのヒット曲で、音楽に合わせて演説をするという変わったものがありましたが、その内容たるや、子どもというものがどんなに度し難い存在か、子どものことがいやだ、嫌いだ、というものです。もちろん、それはギャグなのですが、私はこの、歌とも演説ともつかぬ変わった曲を親戚のおじさんの前で披露しては喜んでいたもので、おじさんは呆れていました。 そんなふうに、私が子どものくせして、子どもが嫌いだった理由は、いま振り返ればわかる気がします。引っ込み思案で、体育や音楽や図工のような「わかりやすい」科目がからきしダメで、みんなからからかわれ、恥ばかりかいていました。そんな私は、早く子どもであることをやめたくてたまらなかったのでした。おかげでわざと難しい本を読んでみせたり、難しいことばづかいをしてみせたりして、ますます浮いた存在になっていました。 そんな私の意識が変わったのは、教会に行くようになってからでした。何度もお話ししていますが、ダウン症のあっこちゃん、彼女の純粋きわまる信仰に触れて、そうか、難しいことなんて知らないでいいんだ、ただ信じさえすればいい、喜びさえすればいい、子どものように……。そのように、私は彼女の姿を通して教えられ、それから私は、日曜学校の教師をするなど、子どもが大好きになりました。神さまが私を変えてくださったのでした。ハレルヤ! さて、そこで今日の箇所です。今日の箇所は、2週間前の16日の礼拝でも取り上げていて、くどい説明にならないようにと思います。特に、今日の箇所のキーワードになるのは、「子ども」、そして「神の国」です。そこで今日は、「神の国」と「子ども」を関連づけた3つのポイントから、みことばの教える主のみこころを学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神の国とは、子どものような者のものです。 イエスさまは力あるわざを行われました。それは、神の子としての御業でした。神の子であるゆえに、ほんとうの祝福を与えてくださるお方でいらっしゃいました。だから群衆は、イエスさまから本物の祝福をいただこうと、群れを成しました。 そこに、子どもを連れてきた人がいました。子どもを祝福してほしいと考えたのでしょうか? 子どもから手が離せないけれども、とにかくイエスさまのところに来るチャンスを逃したくなかったのでしょうか? いずれにせよ、この大人の人は、子どもを連れてやってきました。 しかし、みことばは何と語っていますでしょうか? そう、弟子たちが「彼らを」叱った、とあります。彼らとはだれでしょうか? 大人たちならば、子どもなんて連れてきてはいけない、という意味になるでしょう。子どもたちならば、だめだめ、ここはキミたちの来るところじゃない、ということでしょう。 しかし、イエスさまはどうでしょうか? 弟子たちのこの言動に、御怒りを発せられました。14節です。イエスさまは、子どもたちを来させなさい、止めてはならない、とおっしゃいました。そうです、イエスさまは子どもという存在を人として認めておられます。それ以上に、ご自身の祝福を受ける権利のある存在として認めておられます。 その権利は、たとえイエスさまの十二弟子であったとしても、とどめることは許されません。しかし、子どもという存在は、なんと、受けるべき権利や祝福をとどめられてしまうことの多いものでしょうか。冒頭でお話しした児童養護施設にいる子どもたちは、当然享受すべき安全かつ安定した環境を味わえなかった存在です。多くの大人たちは、子どものことをそのように扱っています。でもイエスさまは、そのような扱いを子どもに対して平気でしているような大人たちに対して、御怒りを発せられるお方です。たとえそれが十二弟子のような、イエスさまの特別の寵愛を受けているような者たちであっても容赦されません。いや、イエスさまの弟子だからこそ、子どもたちに対してそんな態度をするのは許さん、となられるのでしょう。 そのように、大人たちにメインで注がれている恵みから、子どもたちが隅に追いやられている現実というものも、残念ながらあるものです。しかし、だからといって子どもを、大人の集会にとにかく出席させ、静かにしているように躾けるにしても、子どもはじっとしているのが苦手です。それで、我慢できないでふざけたら思い切り叱ったりするようでは、子どもどころか、大人が恵みを受けるうえでもよくありません。子どもがむずがるのは、大人たちが礼拝を退屈なものにしてしまっているからです。私も自分に子どもがいるからなおさらですが、反省します。 これは言ってみれば、礼拝に臨んで主の恵みを受けているはずの大人たちに、子どもを受け入れる余裕がない、ということです。そんなとき、私たちは自分に問うてみましょう。果たして自分は、イエスさまの恵みをほんとうにいただいているだろうか? イエスさまの恵みを受けていれば、解放されているはずですし、子どもを受け入れる余裕もあります。何よりも、子どもを受け入れるお方であるイエスさまの願いが、大人たちの気持ちや態度、ことばや行いにおいて、実現することになります。 イエスさまが王として統べ治める神の国、そこに子どもたちが入れるようにするのは、つまり、子どもたちが神の国に入るというイエスさまのみこころを実現するようにするのは、大人たちの責任です。主は、私たち大人が、イエスさまの愛を顕すことにおいて、子どもたちに対してどんな態度をとっているかを、つねに見ておられることを心に留めてまいりましょう。 みなさまにも祈っていただきたいのです。以前に比べると下火になりましたが、もともと私どものミニストリーは、子ども伝道に力を入れていたものです。これはやはり、みなさまの祈りを込めたご協力のとても必要な領域です。まことに、子どもを愛することは、教会全体で取り組むことであると、私は声を大にして申し上げたいのです。 私たちはイエス・キリストが王である、神の国の民です。そしてイエスさまがおっしゃっているとおり、神の国にふさわしいのは、子どもです。子どもたちを積極的に、教会という、この地上に実現した神の国に招き入れるお手伝いをする、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二のポイントにまいります。第二に、神の国に入るには、子どものようになることです。 15節のみことばです。……子どものように神の国を受け入れる人が、神の国に入れる。そこで私たちは、このイエスさまのみことばからいくつか考えてみたいと思います。 まず、神の国、とは、単なる概念ではありません。それは、私たちが礼拝している礼拝堂が存在するのが、日本という国である、その日本という国の存在のように、確実なものです。しかし、「神の国」を規定するのは、何らかの法律ではありません。信仰告白の伴う信仰が必要になります。 では、何を信じるのでしょうか? 神の国は力の伴った実体であることを信じるのです。具体的には、イエスさまが病気をいやされ、悪霊を追い出され、みことばをもって死んでいたたましいを生き返らされ、十字架に死なれてよみがえられ、天に昇られ、やがて来られる……そのことを心から、そのとおりに信じ受け入れることです。 子どもは、聖書を読むならば、イエスさまが神の子であること、奇跡を行われたこと、悪霊を追い出されたこと、病気をいやされたこと、死人を生き返らされたこと、十字架に死なれて三日目によみがえられたこと、みんなそのとおりに信じます。それが大人になるとどうでしょうか。聖書を読んでも、そんなことはありえないと否定するか、嘲笑います。あれこれ理屈をつけて、聖書の奇跡の記述を合理的に説明して、自分なりに納得しようとします。そんなにまでして、聖書の記述そのものを受け入れないことが正しいとでもいうのでしょうか、といったところです。 聖書のとおりに神の力を信じ受け入れるならばどんな信仰が生まれるでしょうか? 神さまは祈りを聴いてくださり、イエスさまの十字架によって罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えてくださる、いや、それだけではない、病気を実際にいやしてくださる、悪霊を実際に追い出してくださる、また、それだけではない、自己中心の人が愛の人に変わる、けがれた人がきよい人になる、傲慢な人がへりくだった人になる、仕えられることを好む人が仕えることを実践する人になる、それが、神の国の人になる、ということです。 コリント人への手紙第一4章20節でパウロが語っています。「神の国は、ことばではなく力にあるのです。」イエスさまが王として統べ治める神の国は、頭だけの聖書理解にとどまりません。生活が実際に変わっていきます。なぜならば、イエスさまがその人にみわざを行なってくださるからです。 ただし、みわざを行なっていただく条件は、子どものように神の国を受け入れること、です。神の国を受け入れているならば、イエスさまが全能なる神にして、王でいらっしゃることを受け入れることです。 子どものようになるならば、受け入れることができます。ただし、子どものように、ということを間違ってとらえてはなりません。日本語の「子どもらしい」と「子どもっぽい」がちがうのはお分かりだと思います。英語もちゃんと両者を区別していて、「子どもらしい」は「チャイルドライク」、「子どもっぽい」は「チャイルディッシュ」です。私たちがイエスさまを神の国の王としてお迎えするにあたって取るべき態度は、「チャイルドライク」であって、「チャイルディッシュ」ではありません。 「チャイルディッシュ」の態度はいわば、「どうせイエスさまが十字架ですべての罪を赦してくれたんだから、何をしても許される!」とばかりに、自分勝手な生き方、幼稚な生き方を悔い改めようとしないことです。それは、イエスさまを王としていない、自分が王様のようにふるまう、傲慢きわまる態度であり、神の国にふさわしくありません。 「チャイルドライク」はそうではなく、子どもとしての分をわきまえながらも、子どものように素直に、みことばがそのとおりだと受け入れる態度です。そういう人は素直に、しかし、おもちゃやお菓子をねだる子どものように一生懸命、神さまのみわざが起こされるように祈りますし、神さまはそういう人に、御力をもってみわざを行なってくださいます。こうして、神の国は力をもってその人に実現することになります。 そういう点で、神の国を受け入れるにあたり、子どもになりきれた人は、文字どおり最強です。なぜならば、その人にこそ、全知全能なる神さまが大いにお働きになる余地があるからです。私たちもそんな人になりたいでしょうか? もし、わけ知り顔の大人のように、はなからみこころなどありえないように決めつける人は、そもそも信仰をもってお祈りなどしないでしょうし、そういう方に主が大いにお働きになるでしょうか? ともかく私たちは、子どものような謙遜さ、素直な信仰、熱心に求める態度を与えていただきたいものです。 第三のポイントにまいります。第三に、神の国の王イエスさまは、子どもを祝福するお方です。 16節です。イエスさまは子どもたちを抱っこされました。そして、子どもたちの頭に手を置いて祝福されました。 こうしてみると、イエスさまはほんとうに、子どもが大好きなことが分かります。神さまご自身なのに、抱っこまでしてくださるんですよ! そしてイエスさまはお語りになります。「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 子どものように神の国を受け入れる人は、イエスさまに抱っこされていい、自分の頭に手を置いて、祝福していただいていい、と、イエスさまの前で子どもになりきれる人です。考えてみましょう。大人になると、私たちはなんと多くの罪を犯すことでしょうか。そして言うまでもなく、罪とはからだを使って犯すものです。そんな、罪を犯すからだ、罪だらけのからだを、イエスさまが抱っこしてくださろうというのです。私たちは果たして、自分のからだを差し出せるでしょうか? さらに言えば、イエスさまが手を置いて祝福してくださるからだの場所は「頭」です。私たちが罪を犯すとき、それは頭の中でまず、考えにおいて罪を犯すところから始まります。頭とはかくも罪に満ちた器官です。イエスさまはその頭に手を置いて祝福してくださろうというのです。私たちは果たして、自分の頭を差し出せるでしょうか? しかし、イエスさまは私たちが、子どもだからという理由で受け入れてくださいます。からだを抱っこしてもくださいますし、頭に手を置いて祝福してもくださいます。私たちがそんな罪深いものであることをすべてご存じの上で、なお受け入れてくださるのです。 だから私たちは、恥ずかしがってイエスさまから逃げ回るべきではありません。こんな罪深い者はあなたさまに近づけません、ということは、謙遜ではありません。それは、それにもかかわらず愛してくださるイエスさまの愛を拒む、傲慢な態度です。 イエスさまの愛に飛び込んでいいのです。ここでも私たちは、子どもになりきることが求められています。そうしてイエスさまに抱っこされ、御手を置かれて祝福していただいたならば、私たちは罪深い自分中心の生き方から、イエスさま中心のきよい生き方へと変えていただけます。私たちはみことばを読むたびに、こんな厳しい教え、高い基準は守り行えないと、落ち込んだり、諦めたり、そもそも自分とは関係のない世界だ、などと思ったりしてはいなかったでしょうか? そうではないのです。イエスさまは私たちを抱っこしてくださり、私たちの頭に手を置いて祝福してくださることで、みことばを理解する力、そして、みことばを守り行う力に、私たちのことを満たしてくださるのです。 イエスさまに抱かれている感覚、御手を置いていただいている感覚、それを私たちは、みことばを読んで学ぶときに、お祈りをおささげするときに、意識してまいりたいものです。それはやはり、頭だけの理解にとどめる、悪い意味で「大人ぶった」信仰によっては身に着けることはできません。この点でも私たちは子どもになる必要があります。イエスさまに抱っこされ、手を置いていただいてあらゆる力をいただいて、私たちは神の国の民として、この地上において雄々しく振る舞うことができ、やがて天の、神さまが待っておられる場所に迎え入れていただけます。 私たちを子どもにさせないでいるものは何でしょうか? そのまま受け入れてくださる神さまの愛と赦しを疑わせているものはなんでしょうか? そのような者がことごとく取り除かれ、私たちがほんとうに子どもとなって、イエスさまが王として統べ治める神の国を受け入れ、この地上の歩みにおいて神の国の力を体験し、また現していくことができますように、主の御名によってお祈りいたします。

「結婚におけるみこころ」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇150篇/主の祈り/讃美歌515「十字架の血にきよめぬれば」/聖書箇所;マルコの福音書10:1~12/メッセージ/聖歌538「ただ主を」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「結婚におけるみこころ」 小学生も高学年くらいになると、男の子が女の子を好きになり、女の子が男の子を好きになる、ということも、ちらほら現れてきます。私もそんなひとりでした。クラスの、隣の席の子。友達が気を利かせてくれて、私の誕生日パーティにその女の子を呼んでくれたときは、天にも昇る気持ちでした。残念ながら私は中学受験で東京の学校に行ってしまったため、彼女とは疎遠になりましたが、今でも、ああ、あの子が誕生日プレゼントにくれた鉛筆と消しゴムで、中学校の入試に臨んだっけなあ、なんて想い出します。 そんなふうに、その頃私の通いました小学校では、あいつはあの子が好き、あの子はあの男が好き、なんて、ゴシップで盛り上がることこの上なかったのですが、私は彼らのゴシップの輪の中で、割と浮いているほうでした。といいますのも、私はひとたびだれかのことを好きになったら、「結婚」ということを考えて、そんなことを友達に熱く話して聞かせたからでした。友達にしてみれば、「そんな年で結婚がどうのこうのなんて早すぎるよ!」といったところだったわけです。しかし私は、結婚のことを考えられない恋愛は遊びだ、そんなのはいけないことだ、という思いを、小学生なりに強く持っていました。 のちに私はクリスチャンになり、クリスチャンの若者の兄弟姉妹とつきあうにつれ、彼らは、「惚れた腫れた」の恋愛を賛美するこの世の流れから一線を引いたきよい人たちである、ということを知りました。また彼らが、いざ人を好きになるならば、その人との結婚を真剣に祈る人たちであることを知り、ああ、なんてすばらしい、と、しみじみしたものでした。 ともあれ、結婚というもののすばらしさを語りはじめるならば、私などは、三日三晩あってもまだ足りないくらい語りたいことがいっぱいですし、また、語るのが大好きです。今日はそんな思いをぐっとこらえて、イエスさまがお語りになった、みこころにかなう結婚のあり方というものについて、ともに学んでまいりたいと思います。 イエスさまはガリラヤを去り、南のユダヤへと赴かれました。もちろん、群衆はイエスさまのもとに集まってきて、神の子自らが解き明かしてくださる至上の聖書講解を聴くという、素晴らしい恵みにあずかっていました。 面白くないのは宗教指導者たちです。いや、イエスの説く教えは異端だぞ、とばかりに、正統の聖書学者をもって自任するパリサイ派の教師たちが、イエスさまのもとにやってきます。粗探しをして、あわよくば告訴して葬り去ってやろう、という、薄汚い意図が彼らにはありました。 パリサイ人はどんな質問を用意したのでしょうか? 2節です。……これは、どちらの答えをなさっても、イエスさまを葬り去ることができる、という計算が彼らにあったと見ることができます。同じような質問は、「姦淫の女を石打ちにするか否か」、また、「カエサルに税金を納めるべきか否か」というものがあり、どちらの答えをしてもイエスさまを失脚させられる、答えないなら答えないでイエスさまがその程度の人物だったという印象を民衆に与えられて失脚させられる……そんなことを彼らは考えたわけで、ほんとうに、悪知恵はここに極まっています。 この質問の場合は、どういう罠がその背後にあったのでしょうか? まず、「離婚することは許される」とイエスさまがおっしゃったらどうなるでしょうか? パリサイ人のことばをよく見ると、「夫が妻を離別する」と表現しています。つまり、この離婚の主導権は夫の側にあり、妻の側にはありません。 イエスさまは女性と子どもにやさしい、つまり、弱い立場の人にあわれみをお示しになるお方です。もしイエスさまが、夫が妻と離別してよいとおっしゃったならば、イエスさまの愛の教えと矛盾することになります。結局は男性中心の社会におもねる、愛のない人、ということになり、そういうイメージが拡散されて人気が失墜することをパリサイ人は狙っていました。 しかしそれなら、離婚してはならない、とおっしゃったとしたらどうでしょうか? 実はこの背後には、バプテスマのヨハネを処刑したガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスの存在がありました。ヘロデ・アンティパスは、腹違いの兄弟であるピリポからその妻ヘロディアを奪うために、それまでの妻を捨て、ヘロディアを自分の妻にしてしまいました。バプテスマのヨハネはそれに対し、あなたのその行いは律法にかなっていないと糾弾しました。ヘロデはヨハネを逮捕し、牢獄に入れ、ついには妻ヘロディアの策謀により、ヨハネは殺害されてしまいました。イエスさまが、離婚はいけない、とおっしゃったとするならば、それは権力者であるヘロデ・アンティパスを糾弾したことになると見なせることにもなり、うまくいけば、イエスさまもヨハネのように葬り去れる、という計算が、パリサイ人たちにありました。つまり、どちらに転んでも、イエスさまを失脚させられる、と彼らは踏んだわけです。 しかし、パリサイ人のこの挑発に、イエスさまは断固として立ち向かわれました。まずイエスさまは、なんとおっしゃったのでしょうか。3節です。 彼らパリサイ人は、判断を下す根拠として、聖書を用いていましたし、また用いるべき立場にありました。そこでイエスさまは、あなたがたがわたしのことを試すならば、まずはあなたがたの考えの根底にある聖書箇所を示しなさい、とおっしゃったわけです。 何度もこの講壇から語らせていただいていることですが、「韓国のクリスチャンは祈るクリスチャン、台湾のクリスチャンは賛美するクリスチャン、日本のクリスチャンは? 議論するクリスチャン。」しかし、議論がもし健全であるならば、日本の教会もあながち間違ってはいないと思います。実際、私が韓国の神学校で学んでいたとき、日本の神学校はレベルが高い、という話をよくお聞きしたものでした。ただし、その議論は、聖書の禁じる「ことばについての論争」というものではなく、どこまでも、聖書の穏健な解釈に根差したものである必要があり、そのためには、固定観念や先入観を排除して、聖書そのものを素直に読むことが必要になります。 そこでイエスさまは、パリサイ人に対しても、2つのことを自ら顧みるように仕向けられました。すなわち、あなたがたの考えの基礎になる聖書のみことばは何ですか、ということ、もうひとつは、あなたがたの聖書解釈は、みこころにかなったふさわしいものですか、ということです。 牧師や宣教師のような、神さまのために献身した働き人がほんとうにみこころにかなっているかどうかを判断する基準は、いろいろありますが、最優先の基準とすべきものは、なんといっても聖書です。聖書の教えに明らかに反している言動をしているならば、その働き人は一見するとどんなに立派な業績を上げているようでも、みこころにかなった働き人と見なすわけにはいきません。 しかし、聖書を基準にする場合、もうひとつ注意しなければならないことがあります。それは、「そもそも基準とする聖書の解釈がふさわしくない場合」です。聖書にはふさわしい読み方、解釈のしかたというものがあり、それは、長い教会の歴史の中で定まっているもので、だから私たちはたとえばアウグスティヌスですとか、カルヴァンですとか、スポルジョンですとか、歴史も国も民族もちがう人物の著書からも学ぶことができるわけです。 しかし、最近発生して猛威を振るっている異端、具体的には、教会に入り込んで信徒を奪い取っていくようなタイプの勢力は、かなり変わった聖書解釈をします。長い歴史の中で世界中で踏襲されてきたキリスト教会における聖書解釈の流れからは、まったく発生することなどありえない読み方で信徒を籠絡し、自分たちの陣営に引き入れるわけです。最後には唯一の救い主、イエスさまの十字架の贖いを否定するところまでマインドコントロールされてしまいます。 だからこそ私たちはふさわしい聖書解釈を身につけておく必要があるわけで、現在、礼拝の最後に祝祷のあとで「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、そのような伝統的かつ健全な聖書解釈を私たちが自分のものにする必要があるからです。毎週必ずこの時間を持ちますが、どうか面倒だとか退屈だとか思わないで、しっかり学んでいただければと思います。 さて、本文に戻りますが、彼らが根拠としたみことばは、申命記24章1節から4節のみことばです。しかし、この箇所は一読してみればわかりますが、離婚というもの一般について神さまは容認しておられる、と言い切るには、無理があるのがわかるはずです。モーセのことばはかなり限定的であり、夫が妻を離別することそのものを許している、ということではありません。 ここから、パリサイ人たちがイエスさまに対してかけた罠が外れていきます。このみことばを用いようと、ヘロデがヘロディアの美貌をわがものにしようと最初の妻を捨ててヘロディアをめとったことなど、一切弁護できません。さしものパリサイ人も、こういうことを言ってしまっては、これがヘロデを弁護するみことばになりえないことを、自ら認めたようなものです。イエスさまを葬り去るためならばヘロデ党とも組み、ヘロデの側に立つこともいとわないパリサイ人は、こうしてまず、策士策に溺れるような結果となりました。 それでも、パリサイ人たちは、聖書の律法は離婚を認めている、という、その一点によって、イエスさまを糾弾する方向にかけているかのように見えます。実際、妻を離縁することは許されているではないか、さあ、それなのに、あなたは「離婚は許されない」などと言うのか? 彼らはこんどは、イエスさまの教えは律法に反しているのではないか、という点で攻撃の機会を得ようとしました。 パリサイ人のこの答えに対して、イエスさまはしかし、そのみことばのふさわしい解釈をお示しになりました。まずは5節です。……つまり、人とは神さまの教えを守り行うべき存在なのに、守り行いたくない肉の思いを優先させることおびただしい、実に頑なな存在、それは結婚という領域にも波及し、妻は姦淫を犯し、夫はそれを許せず、結局は離婚することで丸く収める、そうして、イスラエルの共同体を、彼らが神の民でありながらも罪人であるという、その頑なさを容認しつつも、神の民としての聖さの中に保たせるわけです。 本来ならば、姦淫の罪など犯すべきではありません。はっきり律法に規定されているとおりです。しかし、人は弱いので、悲しいことですが、よろめくということもありえます。それくらい人は頑なな罪人です。それでも、そういう人をあえて妻として迎え入れた、預言者ホセアの実例が、彼らパリサイ人にとっても大事な存在である、旧約聖書に登場します。しかし、なかなかそうはなれないくらい、人は愛のない、頑なな存在です。そんな神の民の秩序を守らせるためには、離婚もやむなしとして、民をきよさの中にとどめるしかなかったのでした。 しかしここでイエスさまは、画期的なことをおっしゃいます。いえ、画期的というよりも、そもそも神さまは人をどのような存在としておつくりになったのか、ということをおっしゃいます。原点に返らせたわけです。6節から9節のみことばです。 まず、人という存在は、男と女に創造されている、ということ、そして、そのひとりの男とひとりの女は、父と母を離れ、愛し合うべく夫婦として一体となること、それはふたりではなく、ひとりになることである、ということ、そのように、ひとりの男とひとりの女を一体、ひとりに結び合わせるのは、神さまである、だからだれも、この存在を引き離してはならない、と教えてくださいます。 これが、イエスさまの教えてくださった、夫婦という存在に対するお答えです。結論として、離婚はいけない、それは、それが神さまのみこころだから、ということを、きちんと説明してくださいました。もしそれでパリサイ人がヘロデに言いつけるようでしたら、悪いのは聖書をちゃんと理解していないパリサイ人、ということになります。 さらに、パリサイ人たちが去ったのち、イエスさまはさらに高い次元の教えを弟子たちにお語りになりました。11節、12節です。 本来、結婚するということは、ここまでの純潔を互いに対して約束することである、二夫(二婦)にまみえる、ということは、姦淫である、ということを語ります。このメカニズムをまず11節から見ますと、男性の場合、妻を離別して別の妻と結婚した場合、それはその男性が姦淫を犯していることになるのだとイエスさまはおっしゃいますが、その姦淫の対象が、現在結婚している妻ではなく、かつて婚姻関係にあった女性であることに注意が必要です。つまり、いま仮に婚姻の状態にある女性、つまり奥さんともし別れたとしたら、その奥さんはなんと、姦淫の罪を犯した相手になりえる、もし別の女性と結婚してしまったら、ということです。もし旦那さんがちゃんとしていなかったら、いまの奥さんが自分にとって未来の姦淫の相手と、神の目に見なされるようになるしれない、なんと恐ろしい警告でしょうか。そう考えると、男性はやすやすと、浮気や不倫のたぐいなど考えることなどできないはずです。いまの奥さんが神さまの結び合わせてくださった人、そう信じ受け入れることが何よりも大事になります。これは信仰の問題、神さまと自分との関係の問題です。 イエスさまがこのようなことをおっしゃることができるのは、イエスさまこそが教会に対するまことの花婿だからです。イエスさまは花嫁なる教会を、ご自身の血潮によって買い取ってくださいました。もし人が、イエスさまの十字架によって罪赦され、神の怒りとさばきから救われると信じ受け入れるならば、人はキリストの花嫁として、教会というキリストのからだなる共同体に入れられる資格を得ます。そうして、バプテスマをもって教会の一員となり、主の晩さんにつねに与りながら教会の一員としてともに信仰告白し、やがて再びこの地に来られるイエスさまを花婿としてお迎えできるように、日々待ち望みます。 しかし、イエスさまはここで、女性の側の責任も問われます。妻は女性である以上、一般的に当時のユダヤにおいては社会的には弱い立場にありましたが、だからといってみこころにかなわない行動をしたならばそれが免責されるわけではありません。申命記の該当する箇所によれば、夫が妻を離別してその妻が別の男の人に嫁いだ場合、について扱っていますが、このケースは逆に、妻が夫から去る場合です。そして、さらに別の男性に嫁いだならば、ということで、その場合、それは姦淫である、とイエスさまはおっしゃっています。 「離婚」ということに対するイエスさまのお考えは、かくも厳しいものです。ただし、補足して説明しますと、イエスさまは無条件に、離婚は一切いけない、とおっしゃっているわけではありません。マタイの福音書の19章、1節からのみことばは、本日の箇所の内容が別の視点から語られていますが、その箇所においては、夫のことのみが語られています。夫たる者が妻を離別するならば姦淫を犯すのである、とイエスさまはお語りになり、そのあまりの厳しさに弟子たちは、「もし妻に対する夫の立場がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と答えています。しかしイエスさまはそれを戒め、結婚しない男性は生まれつきそのようになっている人か、神さまに献身することを独身を貫くという形で実践するつもりの人にかぎられ、そうではない男性は結婚することがふさわしいとほのめかされました。 それともうひとつのこと、それは、離婚が許されるケースとして、「不貞」ということを挙げられました。逆に言えば「不貞」以外の理由で離婚することは姦淫につながるという厳しいメッセージですが、つまりそれだけ、「不貞」ということは特別に、厳しく取り扱われるべきものである、ということです。 不貞はなぜそれほど厳しくさばかれるべきことなのでしょうか? それは、その不貞という行為は、神さまの結び合わされた配偶者を裏切る罪深い行為であり、弁護の余地がないからです。キリスト教会においては、夫婦のどちらかが姦淫の罪を犯したという理由で離婚に至った場合、潔白な側は再婚することが許される習わしとなっていますが、それはイエスさまの、このみことばが根拠となっています。 さて、結論とするには極めて壮大な話なのですが、キリストが花婿であり、教会が花嫁であるという聖書のみことばに照らせば、男性とはキリストの象徴であり、女性とは教会の象徴です。男女が先に存在して、それによって聖書はキリストと教会の愛し合う関係を説明しているわけではありません。教会とキリストの愛し合う関係が存在することを前提に、男女の関係、夫婦の関係を見るべきです。 姦淫がなぜいけないのかは、ここから説明できます。キリストは決して教会をお見捨てにならない、絶対的な愛を注いでくださるお方です。教会はキリストのその絶対的な愛によって、完全にきよいものとしていただきました。その両者が愛し合う関係には、何の雑なものも入り込む余地がありません。 夫婦の相愛関係とは、キリストと教会とのその相愛関係を象徴するゆえ、そのように愛し合うように、神さまは旦那さんと奥さんを召されました。その相愛関係を壊すことが姦淫なのです。イエスさまは教会をお見捨てになりません。教会はイエスさま以外に主はいません。同じように、夫は妻を愛し、妻は夫に従うことによって、夫を愛します。その、お互い以外のだれかに肉欲をいだき、その感情の赴くままに別の人のもとにいくなら、それはキリストと教会の相愛関係の象徴であることを自ら捨てたことになります。 しかし、それだけに、私たちはイエスさまの愛を思う必要があります。先ほども申しました旧約の預言者、ホセアは、新約式に名乗るとイエスであり、イエスさまの象徴というべき人物です。その彼が、姦淫の妻を許して受け入れたということを見て、私たちは何をメッセージとして受け取るべきでしょうか。それは、たとえ自分がコキュになっても、相手を無条件に受け入れなさい、ということでしょうか。そうではありません。イエスさまさえ、姦淫は離婚の理由にしていいことをおっしゃっています。もちろん、不倫生活を清算した人をもとの配偶者が許して受け入れた、というケースを、私はいくつか知っていますし、それができる人は立派だとは思いますが、だれもが無条件にそうすべきかというと、それは簡単な問題ではありません。 私たちがホセアのエピソードから学ぶべきことは、キリストと教会の相愛関係から除かれるほどの罪をいまもなお犯しつづけるような私たちのことを、イエスさまはなおも赦し、受け入れてくださっているということ、だから私たちは罪を犯したことに気づかされたならば、迷わずイエスさまのもとに行くべきだということです。まさに、離縁して当然の妻を受け入れたホセアの姿は、イエスさまの御姿を映しています。 使徒パウロは、すべての罪はからだの外に対して犯すものであるが、姦淫にかぎっては、からだに対して犯すものであると語りました。それほど、姦淫というものは、神さまの結び合わされたひとつのからだなる夫婦、キリストと教会の相愛関係のまたとない象徴を破壊する罪です。だからこそ私たちは、すべからく姦淫の罪を避けるべきなのです。 しかしここで、ひとつフォローしますと、姦淫の罪とは、心の中で犯したものまで含む、とイエスさまはおっしゃっています。配偶者以外の人に肉欲をいだくことそのものが、たとえ実際の行為に及ばなくても、姦淫の罪であるわけです。そうなりますと、いったい私たちは無事で済むでしょうか。厳密に言うと、街ですれ違う人に目を奪われて、その後その人のことが頭から離れなくなってもアウトです。そのようなことまで神さまがおさばきになるのが本来のみこころです。まったく耐えられません。 しかし、そのような真っ赤な緋のような罪も、雪のように白くしてくださるのが、イエスさまの十字架の血潮です。今日は特に、教会の中に、まことの結婚に象徴される純潔、ウェディング・ドレスのごとききよさが保たれるように、日本の、世界の教会のために、お祈りいただけたらと存じます。

「一番偉い人」

聖書箇所;マルコの福音書9:30~50/メッセージ;「一番偉い人」 イエスさまは、やがてこの地上に主のみからだなる教会、主の支配される神の国をお立てになる目的で、弟子たちを召され、訓練されました。では、弟子たちの側はというと、その訓練の結果として、どんなことを期待していたのでしょうか? マタイの福音書19章を見ますと、金持ちの青年がイエスさまについていくことに失敗して立ち去ったのち、弟子のペテロはイエスさまに向かって、このようなことを言っています。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何がいただけるでしょうか。」 ペテロのこのことばの裏には、イエスさまの弟子になることには、それなりの利得があるものだという前提が見え隠れします。しかし、イエスさまはペテロのこのような問いに対して、そうです、あなたがたが受け取れるものはきちんと用意されています、とお語りになりました。なんとおっしゃっているでしょうか?「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座につくとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」 イエスさまは、ペテロの質問の動機がどうであれ、ちゃんとお答えになっています。これが、御国のためにすべてを捨てた人に約束されている報いです。しかし、同時に気になるのは、このときペテロはイエスさまのこのおことばを聞いて、はたしてイエスさまのおっしゃっていることのその意味を、しっかり理解することができていたのだろうか、ということです。 彼ら弟子たちは、群衆によってイエスさまが王として祭り上げられるたびに、あるいは、祭り上げられるだけのみことばを語られ、みわざを行われる場面に同席するたびに、イエスさまがユダヤ人の王として戴冠した暁には、自分たちもそれ相応の地位を与えられることを期待したことでしょう。その期待そのものは、イエスさまのみこころとはそれほどたがっていないことになります。 ただし、その御国の報酬、永遠の報酬をいただくには、それ相応の謙遜さを身に着けている必要があるのもまた事実です。身の程知らずの者は果たして、天の御国、神の国を治める者として、ふさわしいでしょうか。 本日お読みした箇所において、イエスさまはその、御国をともに治める者の資格を、時にはその姿勢をもって、時にはみことばをもって、弟子たちに、そして私たちに伝えてくださっています。ひとつひとつ見てまいりましょう。 30節のみことば。まず、イエスさまの一行は人目を避けて行きました。その理由は続く31節を見ると、「それは、イエスが弟子たちに教えて『人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる』と言っておられたからである」とあります。 しかし、その予告は、弟子たちには難解なものでした。と同時に、弟子たちはその意味をイエスさまに尋ねて理解することに、恐怖を覚えていました。たしかに、イエスさまは死なれても、よみがえられるとはおっしゃいましたが、弟子たちはむごたらしく殉教した神の国の働き人たちのことは知っていても、そのような神の人がよみがえるということを実感として受け入れていたわけではありません。もちろん、旧約聖書には、死人がよみがえるという記述はいくつか登場しますが、「殺されて」よみがえった人の記録というものはありません。 もうひとつ忘れてはならないのは、聖霊なる神さまは、この時点で、イエスさまの死と復活というものの持つ、究極の悲しみのあとに控える究極の喜びを、弟子たちに実感させることをお許しにならなかった、ということです。まことに、みことばに対する悟りというものは、聖霊なる神さまのお導きによってはじめて得させていただけるものであって、人間的な知恵でみことばを知ろうとして、悟りをいただけるものではありません。 さて、弟子たちはそのように、イエスさまに対し、イエスさまがお語りになったことのほんとうに意味するところをお尋ねする代わりに、何やら話し合っていたようです。33節、イエスさまはお尋ねになりました。もちろん、全能なるお方、イエスさまは、弟子たちが何を話し合っていたかご存じの上で、そのようにお尋ねになりました。弟子たちの対話の本心をお探りになったわけです。 案の定、弟子たちは何も言えませんでした。24節、「来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたから」「彼らは黙っていた」とあります。その会話の内容が、イエスさまのみこころにかなっていないことは、弟子たちにもわかっていました。 しかし、イエスさまは彼らのことをお責めにならず、「いちばん偉い者になろうとすることそのものは間違っていない」と受け止めてくださっています。それでも、「いちばん偉い者になる」ということは、彼らが願うような肉的な動機によることではない、ということも明らかにしていらっしゃいます。イエスさまは彼らに対して、いちばん偉い者になるためには、どうあらねばならないか、お語りになりました。35節です。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後(あと)になり、皆に仕える者になりなさい。」 このとき、弟子たちの中にあった、偉い人になるというイメージは、みなの先頭に立ち、みなに仕えてもらう立場であったことでしょう。ふつうはそう考えます。しかし、イエスさまはまったく逆のことをおっしゃいました。みなのあとに立ってみなに仕える人が、実は先頭に立つ者である。これは、この世の価値観に縛られているかぎり、ぜったいに理解できない真理です。しかし、イエスさまは、へりくだりなさい、仕えなさい、とおっしゃいます。そんなことはまっぴらごめん、と考えるのが、この世の中の価値観でしょう。しかし、仕えるということを真っ先に実践してくださったのは、イエスさまです。イエスさまは神として権勢をふるう姿でこの世に来られたのではありません。貧しい大工の子としてこの地にお生まれになり、じつに十字架の死をもって、その流された血潮により人の罪を洗ってくださるほどに、私たち人間に仕えてくださったしもべ、それがイエスさまです。イエスさまのようにしもべになれないならば、御国において偉い者にならせていただくことはできません。 私たちがこうして、教会に集い、みことばから学ぶことは、なにか人間的に気持ちのよい祝福を受けるため、お客さんとして満足なサービスを提供してもらうためと思ったら、それは、このときの弟子たちのように、間違った了見でイエスさまについていっていることになるわけです。私たちは重く、きつく、苦しい十字架を背負いつつ、自分が愛されることに関心を持つのではなく、人がいかにしたら神の栄光を顕せるようになるか、そのことをつねに思い、祈り求める者として、整えられるために、こうして教会においてみことばをお聴きし、学んだみことばを生活において実践するものです。 しかし、形だけでもしもべとして振る舞いさえすればそれでいい、ということではありません。しもべのように仕える行動も、人に見てもらってほめられるため、あるいは、こんなにも自分は頑張っているんだぞ、と、自己満足に陥るためであるならば、それはイエスさまとの関係でしもべになっているとは言えません。また、みなのしんがりになることも、どうせ自分は世の中の毒にも薬にもならない人間だから、と、卑屈な態度で隅っこに自分を追いやることではありません。そういう態度でいいから仕える者になりなさい、とイエスさまはおっしゃっているわけではありません。 それでは、イエスさまのおっしゃる、へりくだった者のモデルは何でしょうか? 36節、37節です。子ども! 子どもは古今東西、いつ、どこにおいても、絶対的に弱い存在です。腕っぷしでも知恵でも上下関係でも、まったく大人にはかなわない、弱い立場にあります。 そして、大人たちの都合で、いつでものけ者にされたり、構われなくなったりします。ちょっとでも大人の気に入らない言動をしたら叱られます。実際、イエスさまのもとに祝福を求めて子どもたちが連れてこられたとき、弟子たちは彼らを来させないようにじゃましました。イエスさまはそんな弟子たちに激怒され、子どもたちを来させなさいとおっしゃり、子どもたちの頭に手を置いて祝福されました。そのように、子どもをイエスさまのゆえに受け入れることが人にとってふさわしいことを、イエスさまは弟子たちに直接、お示しになったのでした。 子どもであろうとも、神のかたちです。幼いからと、小さいからと無視したり、蔑んだりすることは、その子が尊ばれるべき神のかたちであることを真っ向から否定することです。子どもへの虐待がいけないいちばんの理由は、抵抗できない神のかたちに対する暴力という犯罪だからです。子どもへの犯罪であるのと同時に、神さまへの犯罪です。 逆に、子どもを受け入れるならば、それはイエスさまを受け入れることであり、神さまを受け入れることであるのだと、イエスさまはお語りになります。ほんとうに神の国でリーダーシップを取るべきしもべであるならば、まず、神さま、イエスさまを受け入れていなければ話になりません。しかしイエスさまに言わせれば、神さま、イエスさまをほんとうに受け入れているならば、子どもをきちんと神のかたち、れっきとした人格として受け入れているはずである、ということです。子どもが嫌いと言ってはばからない神の人というのは、その存在そのものが形容矛盾であり、ありえません。 さて、ここでもうひとつ、弟子たちには取り扱われるべき問題がありました。38節です。ヨハネが問題にしていることは何でしょうか? イエスさまの名によって悪霊を追い出す行為をするならば、当然、自分たち、イエスさまの弟子の群れに加わるべきである、だが、それをしないならば、イエスさまの御名によってわざを行う資格はない……要するにヨハネは、イエスさまの弟子らしく、イエスさまならきっと、こういう者にこういう行為はお許しにならないはずだ、と考えて振る舞ったわけです。 しかし、イエスさまの御思いは、ヨハネとは異なっていました。39節、40節です。……イエスさまは何をもって、弟子の群れの味方、すなわち、教会というキリストのからだの側につく人を判別すべきだとおっしゃっているのでしょうか? まず、弟子の群れ、こんにちでいえば、教会に反対しない人たちが、わたしたち、キリストとその弟子の群れなる教会の味方であるというわけです。 実際、イエスさまと十二弟子が共同体をつくったこの時代は、はっきり、いわば「わたしたちの味方」ならぬ「わたしたちの敵」と呼ぶべき存在が、うようよしていました。伝統にこだわるあまりイエスさまをキリストと認めなかった宗教指導者たち、ユダヤを吞み込みにかかるローマ、いや、そればかりか、この弟子たちの中にも、イスカリオテのユダのように、肚の中ではキリストを売る機会をうかがうような輩もいたわけです。しかし、イエスさまの御名によってわざを行う人はそれとはちがいます。おそらくその人はガリラヤで、すでに何らかの形でイエスさまの御業を体験していた、すなわち、イエスさまの御名には全能の神としての御力があることを信じ受け入れていた人でした。そして、そのとおりにイエスさまの御名を用いると、悪霊が去ることを体験していました。よって彼は、この十二弟子の群れに属してはいなくても、イエスさまが全能の神であることを認めて、イエスさまにお従いしていた人だったのです。 このようにして、本来「本部」のような群れからではなく、全く異なる環境からイエスさまの働き人が起こされるということは、新約聖書の「使徒の働き」にも記録されています。だれのことでしょうか? そう、パウロです。そんなパウロも、最初はエルサレム教会に警戒されて、なかなか仲間に加えてもらうことができないでいました。しかし、神さまはバルナバのとりなしをとおして道を開いてくださり、パウロもまた、十二弟子と同等に使徒となることができたのでした。 だから、ヨハネは、彼のことをやめさせるのではなく、あなたの遣わされている場所でどんどんやってください、と言ってもよかったくらいでした。ヨハネがそう言えなかったのは、自分たちこそイエスさまに従う本家本元、元祖、というプライドもあったのではないでしょうか。 まことに、偉くなりたいと思う考えがイエスさまのみこころと一致していないならば、こうして、働き人を認めず、働き人を育てない、狭い考えに凝り固まることになります。 41節はここまでの流れを踏まえて読むべきです。イエスさまは、わたしたちの群れに敵対しないものがわたしたちの味方、とお語りになりましたが、さらに踏み込み、わたしたちの群れに属していなくても、もし、わたしのことを敬い、それゆえにわたしの弟子たちによくしてくれる人がいるならば、わたしはその人のことを大いに祝福しよう、と語っていらっしゃいます。敵対しない、のは、反キリストとしての罰は受けない、ということであり、それはもちろん祝福ではありますが、消極的な祝福です。しかし、これに対して、たとえ群れに属さなくても、キリストを恐れ敬い、その弟子たちによくしようと考えてささげることをするならば、それがたとえ1杯の冷たい水のようなささやかなものであったとしても、神さま、イエスさまはそれに必ず報いてくださる、という約束です。 ほんとうに謙遜な人は、むやみやたらに私たち教会ならびにクリスチャンのことを誹謗中傷しないものです。しかし、祝福された人は、もっと積極的です。教会やクリスチャンに当たらずさわらずの態度をとることで済ませるのではなく、働き人とその働きをもっと支えたい、となってしかるべきである、となります。そういう、いろいろ人たちの働きや施しによって、わたしたちキリストのからだ、弟子の群れというものは存在するのですよ、自分は霊的に人々を祝福する偉い立場にある、などと勘違いするのはやめて、そういう人たちに支えられていることを覚えて感謝し、へりくだりつつその人々の祝福を祈り求めなさい……イエスさまはそうおっしゃっているようです。 イエスさまのことばは続きます。42節です。イエスさまは子どものような小さい者を受け入れることがわたしを受け入れること、神さまを受け入れることであるとおっしゃいましたが、逆に、つまずかせるならば、そういう者は海に沈め、二度とこの世に現れるな、いや、それよりももっと大きな罰を受けてしかるべきだ、とおっしゃっています。すさまじいおことばです。それほど、小さな存在をつまずかせることをイエスさまは忌み嫌っておられます。 この時代の宗教指導者たちは、民を惑わし、搾取し、自分たちに隷属することが神のみこころだとばかりに民を支配しました。そのくせ、神の民として当然出会うべきイエス・キリストへの信仰を持たせないようにし、ついには彼らの口から、イエスを十字架につけろ、と叫ばせ、イエスさまを呪われた存在として葬らせる張本人としました。弱い羊のような民にとって、これ以上ないほどの壮絶なつまずきです。 しかし、福音書のイエスさまのおことばにおいて、これほどまでに宗教指導者たちを攻撃するおことばが登場するのはなぜでしょうか? ああ、自分はイエスさまを信じて罪から解放されているから、こんな律法主義者のような罪なんて犯さない、感謝! となるためでしょうか? それは大きな勘違いです。イエスさまのこの震え上がるようなおことばがこれでもかと記録されているのは、ほかならぬ、私たちに対する警告だからです。 私たちがもし、イエスさまの恵みによって生かしていただいているという、その本来の立場を忘れ、イエスさまと関係なく生きるようならば、名前はクリスチャンかもしれなくても、ことばや態度や行いはそれなりに立派で模範的かもしれないけれども、人を神の恵みよりもさばきや呪いへと陥らせる言動がいつ飛び出すかわかりません。そういう言動はどんなに、弱い人、成長の途上にある人のことをつまずかせることでしょうか。下手をするとその人は、神さまのさばきのことばしか心に残らなくなり、信仰から離れてしまいます。イエスさまは、そんなふうに傲慢に振る舞う人は、働き人として認めません、天国には必要ありません、どうぞ、滅びてください、とおっしゃっているようです。 この流れで43節以下のみことばをお読みすると、いったい、つまずかせる手や足や目とは何か、ということが、はっきりしてきます。一見するとこのみことばは、私たちが罪を犯さないようにするために、私たちにとってからだの一部のような大事な存在であっても、犠牲にしなさい、と語られているように見えます。 テレビやスマホのたぐいもそうでしょう。そういうものに没頭することで、本来主のみこころを知る時間、主にあって人々を愛する機会が損なわれるならば、これはよくありません。お酒やたばこもそうでしょう。そういうものがつまずきとなっているならば、そういうものを身の回りから取り除いて、サタンの誘惑から自分を守りなさい、という意味に取れます。 しかし、ここまでの流れを踏まえて読むと、つまずかせる存在とは単なる誘惑を引き起こす物体ではなく、キリストのからだなる共同体の中に存在する、人、という意味にもとらえられます。実際、48節で、「彼らを食らううじは尽きることがなく、火も消えることがありません」というフレーズが、この「両方そろっていてゲヘナに投げ込まれるよりは、片方を失っても神の国に入るほうがよい」という意味のことが三度繰り返されてから登場しているわけですが、それをただ単に、誘惑をもたらす物質を切り捨てなさい、というレベルで理解していては、なぜこのように、ゲヘナに投げ込まれた者たちのさばきが詳細に登場するのか、しかも、写本によっては3度も繰り返されて、ということが理解しにくくなります。 これは、第一コリント12章や、ローマ12章に登場したとおり、教会という主の弟子の共同体は各器官、各部分からなっているキリストのからだである、という前提を踏まえると、イエスさまのおっしゃることがはっきりしてきます。キリストのからだなる共同体において「つまずく」ということは、最悪のケースでは、「人がキリスト信仰を失う」ということを意味します。そして、ほかの信徒からキリスト信仰を失わせてしまう、キリストのからだの器官なる一員というものが、存在する、ということです。 そういう人もまた、教会にとっては欠くべからざる、大事な兄弟姉妹です。そう知っているからこそ、教会はそのような信徒の扱いに苦慮します。しかし、あまりにその信徒が勝手なことをして、ほかの信徒たちにさまざまな害を及ぼすようでは、そのような行動をする信徒には戒規を施さなければなりません。ただし、それはその信徒に対し、無条件に地獄行きを宣告し、世界中のすべての教会から除名する、ということではありません。その信徒のしたどんな行為がみことばに反する罪であるかを明確に示し、その罪は本来ならば赦されない罪であるのに、イエスさまの十字架の恵みによって赦していただいたことを信じ受け入れ、悔い改め、もうそういう悪いことをしないことを、神と教会の前に約束するために、戒規という教会のわざは行われるのです。まさしく、テサロニケ人への手紙第二2章14節、15節に書かれているとおりです。「もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。」そのように、戒規とは恥じ入らせることによってその人を悔い改めさせ、本来ならゲヘナ行きがふさわしい、教会につまずきをもたらす困った人をちゃんとした兄弟姉妹にするうえで、素晴らしい機能を持ったものです。もっとも、それをよしとしないで、悔い改めて教会に従うのではなく、かえって教会を去るならば、もうそれはその人の取った選択であり、その人のことは神さまにお委ねするしかありません。 しかし、このように申します私も、これまでどれほど多くの弱い人をつまずかせてきたかわかりません。火と硫黄の池で永遠に焼かれてしかるべきでした。しかし、私がこうして生きていること、まだこうして許されて講壇に立ってみことばを取り次がせていただいていることは、このような者の地獄行きにふさわしい罪、弱い人たちをつまずかせつづけた罪を、イエスさまが十字架において赦してくださったから、そして、そのようなしもべである私のことを、それでも教会のみなさまが主の働き人と受け入れて、私のために祈って支えてくださったから、そう信じて、私は奮い立ちつづけて、なお講壇に立たせていただくものです。神さまと教会のみなさまにほんとうに感謝するばかりです。 さて、イエスさまは、ゲヘナの火に関連して、人は火によって塩気をつけられる存在であることもお語りになります。聖書を読みますと、神さまは火をもって人々にそのご存在を顕される場面がしばしば登場します。 ゲヘナの火とは、罪を決してお許しにならない怒りの神さまが、その怒りをもって罪人を滅ぼされる、神さまの火です。しかし、その神さまの火は同時に、人々を地の塩、すなわち、この世界を味のあるものに整え、愛と義の実践によって世界の腐敗を防ぐ存在へと、主の弟子たちを訓練します。そう、神の火とは、みことばを解き明かし、実践へと導いてくださる、聖霊なる神さまです。 その塩気を保つことで、教会は味わいのあるもの、愛し愛される麗しい共同体となります。みなさまは今朝、朝ごはんを食べてこられましたか? 食べていない方も、昨日どこかで食べておられると思います。その食べ物に、一切、塩味が入っていなかったら、と思うとどうでしょうか? 食べられたものではありません。そのように、金科玉条の律法を振りかざすばかりで神の人らしい味わいの少しもない宗教指導者のようにではなく、キリストの弟子らしくわたしの味わいを出して生きるために、聖霊の炎を求めなさい、そうすることであなたがたは、だれが偉い、とか、この世の論理を持ち込んで生きるのではなく、互いに各器官が調和したわたしのからだとして生きるのですよ……。 私たちはクリスチャンを名乗り、こうして教会に集うものとされている以上、私たちの価値観が問われます。私たちは果たして、イエスさまに「あなたは偉い」と認めていただくために、何をしますでしょうか? 子どものような弱い存在を受け入れているでしょうか? だれかをつまずかせていないでしょうか? 変な仲間意識に凝り固まって、自分たちの群れに属していないクリスチャンのことをさばいたりしていないでしょうか? イエスさまは「偉くない者になれ」とおっしゃっていないのです。「偉い者になれ、ただし偉い者とは、皆の後になる者、皆に仕える者だ」とおっしゃっています。私たちはこの、イエスさまのチャレンジに教会全体でお応えし、へりくだって仕え合うことで、そのみこころを全うする群れとなり、終わりの日に、全員がほめていただけるように、イエスさまから、「水戸第一聖書バプテスト教会のみんなは偉い!」と言っていただけるように、ともに目指してまいりましょう。

「復活を受け入れられる幸い」

聖書本文;マタイの福音書28:1~15/メッセージ;「復活を受け入れられる幸い」 主イエスさまのご復活をお祝い申し上げます。 今年の復活祭は、特にみなさま、復活の喜びもひとしおと思えないでしょうか? そう、ここ数年は、「コロナ下」という、思い出すのもいまいましい、社会全体がとんでもない閉塞感のもとに置かれ、自由に会話することばかりか、ともに集まって礼拝することにさえ後ろめたさを覚えるなどという、本来、あってはならない状況に長らく置かれていました。 いまはどうでしょうか? もちろん、その影響は今もいくらか残ってはいますが、それでも以前のことを考えてみますと、ほんとうに自由に礼拝をおささげできるようになりました。まさに「復活」! その喜びを体験できていることを、ともに主に感謝したいと思います。 さあ、今日はその、復活祭を最初にお祝いした人、そして、お祝いできなかった人のことをみことばから学びながら、私たちは復活をお祝いする人にしていただいていることを覚え、感謝する日といたしたいと思います。 さて、イエスさまの復活に関する記録は、4つの福音書すべてに登場しますが、今日はマタイの福音書の記述から見てまいります。マタイの福音書の記述は面白いです。当時、よほど復活を認めたくなかった者たちがいて、そういう者たちがまことしやかな噂を広めて、火消しに必死になったのだろうな、という事情が垣間見えます。しかし、その裏にある真実はこうなのですよ、と、ちゃんと説明してくれていて、聖書の読者が合理的に納得できるようになっています。このことについては後で触れるとして、まずは復活のできごとそのものから見てみます。 マグダラのマリアともうひとりのマリアが、イエスさまのご遺体の納められたお墓に行きました。マルコの福音書を読むと、もうひとり、サロメという女性も一緒に行っています。また、もうひとりのマリアとは、「ヤコブの母マリア」であることがわかります。ルカの福音書では彼女たちの名前は言及されていないで、「イエスとともにガリラヤから来ていた女たち」と書かれています。ヨハネの福音書はマグダラのマリアひとりです。このように、福音書の間に若干のちがいがみられますが、これは、矛盾ということではなく、イエスさまのお墓に赴いた人がだれだったか、ということをどう強調するかのちがいと見るべきでしょう。 彼女たちは手ぶらでお墓に赴いたわけではありません。ご遺体に塗る香料と香油を持ってきていました。もう生きているイエスさまにお会いすることはかなわない、でも、せめてご遺体のそばにでもいさせていただきたい……彼女たちは切実でした。しかし、問題がありました。岩を掘ってなきがらをその中に横たえたそのお墓には、ピラトが番兵たちを配置し、しかもそのお墓の蓋の石には封印が施されていました。この3日間の間には絶対にだれも手出しができないようにとしたわけです。暴動をけしかけようとしてピラトを脅迫したユダヤの宗教指導者たちは、今度はイエスの遺体が盗み出されて墓が空になったら、ユダヤはこれまで以上の大混乱に陥って、もっとたいへんなことになるぞ、と、さらにピラトを脅したわけです。保身に走ったピラトは、ユダヤ人を恐れて引きこもっていた弟子たちのことなどまるで考えないで、過剰なほどの警備を施しました。イエスさまを十字架につけた勢力は、ユダヤ側のカヤパたち、ローマ側のピラトたちがひとつに組んで、全力でイエスさまのご復活を阻止したような形となりました。 彼女たちは、背後にそのような陰謀があったことなど、知る由もなかったでしょう。なんとか、お墓のふたが開いていてほしい、そうすればご遺体とでも一緒にいられる……安息日が明けて、夜が明けそめて、彼女たちはいてもたってもいられなくなり、すでにイエスさまのご遺体が十字架から取り降ろされて葬られたことを確認していたゆえに、どこに行くべきかわかっていたその場所、お墓へと向かいました。 そこに大きな地震。現れたのは、稲妻のような姿の、雪のごとく白い衣の御使い。石はわきに転がされ、お墓は開きました。あまりのことに番兵たちは震えあがり、気絶して死人のようになりました。死人が復活し、生きる者が死んだようになる、この逆転。 御使いのことばを聞きましょう。女性たちは十字架に死なれたイエスさまのご遺体を訪ねてここに来ていました。しかし、ここにはおられません。よみがえられたのです! どんなふうに?「前から言っておられたように」。 そうです。イエスさまはよみがえられる、ということは、すでにイエスさまご自身がお語りになっていたことです。私たち、現代を生きる者たちにとって、イエスさまの復活が事実であることを受け入れるには、なによりも、この4つの福音書に書かれている復活の記述を受け入れることと同時に、イエスさまがずっとお語りになっていた、ご自身の十字架と復活に関する福音書の記述、いや、さらに言えば、それらすべてに至るまで預言していた旧約のみことばを受け入れる必要があるのと同じです。 御使いは女性たちに、早く弟子たちに知らせに行きなさい、と命じました。彼女たちは喜びの心と、恐ろしさとがないまぜになったまま、お墓をあとにしました。すると……そこに現れたのはだれでしょうか? イエスさまです! なんと、生きておられたのです! イエスさまのご復活の第一声、「おはよう」、原文は、複数の人に呼び掛けるあいさつのことば「カイレテ」であり、その基本形「カイロー」は、「喜ぶ」、「喜び祝う」、「平安を祈る」という意味があります。本来は、「おはよう」にかぎらない、あいさつのことばです。そう考えると、あれ? ほんとうにイエスさまは、おはよう、っておっしゃったのかなあ、なんて思いますでしょうか? しかし、それでいいのです。逆に言えば、時制に関係ないあいさつのことばは日本語にはありませんから、状況にあった訳し方をすべきであり、イエスさまがもし日本語を話しておられたら、当然こうおっしゃっただろう、という前提で、私たちは聖書を読むわけです。 このあいさつのことばを「おはよう」と訳せたことは、日本語の聖書の素晴らしさであろうと思います。死の闇を破り、新しい朝が来た、わたしがその朝を来たらせたのだよ、さあ、喜んで、一緒に祝おう! そんなイエスさまの御思いまで、この「おはよう」という日本語訳には込められているように見えてきます。 ほんとうだったんだ! みことばはそのとおりだったんだ! 女性たちはどれほど喜んだことでしょうか。弟子たちはイエスさまの十字架を前にして、散り散りになっていました。しかし女性たちは最後まで十字架を見届け、イエスさまがお墓に葬られる現場までを目に焼きつけていました。その後も弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸に鍵を閉めて家に引きこもっていました。しかし女性たちはこうして堂々と、イエスさまのお墓まで近づいていきました。このように、イエスさまに対する愛に裏打ちされた献身、そしてその献身から行動を起こしたという事実は、だれよりも早く、復活のイエスさまに出会うことを可能にしました。 こうして礼拝にいらしている以上、みなさま、イエスさまにお会いしたいと思っていらっしゃることでしょう。今朝、こうしてともに礼拝に集うことのできました私たちは幸いです。ともに集いました私たちに、イエスさまはにっこり、満面の笑みで「おはよう」といってくださっています。 女性たちはひざまずき、イエスさまの御足に取りすがりました。それはそうです。これが感動せずにいられるでしょうか。しかし、イエスさまは、その喜びを彼女たちが味わうのもつかの間、すぐに彼女たちを弟子たちのもとに送り、彼らをガリラヤに来させるようにと指示されました。 さて、このような喜びが沸き起こった一方で、笑い話というにはあまりにも笑えない事態も起こりました。11節。番兵たちは祭司長カヤパら宗教指導者たちに対して、何が起こったか、すべて話して聞かせました。番兵たちが見たこと、体験したことは、神さまがイエスさまをよみがえらされたということでなくして、何ものでもありませんでした。番兵たちはもちろん、祭司長たちの思惑に反して、墓の封印を守り切れなかったことに対する自分たちの責任を述べたわけですが、同時に、これは神さまご自身がご介在されたことだから、どうしようもなかったのです。と語ってもいるわけです。 これだけのことを聞けば、さしもの祭司長たちもイエスさまのご復活を認めるしかなかったはずです。ところが、かたくなということは、なんと恐ろしいことでしょうか。これだけの事実が語られていながら、祭司長たちは金輪際認めようとしませんでした。そればかりか、兵士たちを金で買収して嘘をつかせました。「偽証してはならない」、これは十戒ではっきり定められたことです。その律法を知り尽くしているはずの彼らが、イエスさまがよみがえられたという事実を嘘とするために、とんでもないことをしたものでした。イエスさまを十字架につけた彼らは、イエスさまが復活されてもなお、神に不従順な罪人でありつづけたのでした。 これはもう、仕方がないのです。ルカの福音書の16章に、イエスさまのこんなお話が登場します。地獄で苦しむ金持ちが、かなたにいるアブラハムに向かって、こんな苦しみは今生きている自分の家族に味わわせたくはないから、あなたのふところにいるラザロを復活させて、彼らのところに送っていただきたい、と懇願します。そんな金持ちに対して、アブラハムはこう答えます。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」 イエスさまのこのおことばは、主に救っていただくうえでは、復活を目撃することそのものよりも、みことばを信じ受け入れることのほうがはるかに大事であることを示しています。いわばみことばのプロであるべき祭司長ら宗教指導者たちは、その傲慢さによって目がふさがれていて、そのみことばがほんとうに語っているイエスさまの十字架も復活も、何ひとつ理解していませんでした。そればかりか、この復活という事実を頑なに認めないために、弟子たちがイエスさまのご遺体を盗んだなどという濡れ衣を着せ、兵士を買収し、ピラトを丸め込もうとする、実に汚い手を使いました。 しかし、結果として、ユダヤの社会には、弟子たちがイエスの遺体を盗んだからあの墓は空っぽになった、といううわさが出回ることになりました。それは、そう考えるほうが合理的だからです。しかし、合理的であるかもしれませんが、みことばにはまったくかなっていません。 私たちのことを考えてみましょう。いったい私たちが、イエスさまがよみがえった、ということを受け入れているのは、当たり前のことでしょうか? 世の中の人たちは、死者の復活ということを聞いただけで拒絶します。笑います。そんな話につきあってられるかと怒ります。それが世の人たちというものです。 しかし、私たちもそのひとりではなかったでしょうか? そんな私たちにもし、とにかくイエスさまのみそばにいたい、と切に願い、イエスさまに近づく信仰と実践が与えられているならば……そうです、それこそ、このせっかくの日曜日に、いや、せっかくの日曜日だからこそ、イエスさまの御前に礼拝をおささげしたいと切に願って、この場に集っているならば……それはもはや人間業ではありません。私たちにとってほんとうに価値ある生き方は、復活のイエスさまとともに生きることであると、私たちが心の底から信じる信仰に導いていただいているからではないでしょうか? もう、罪にくよくよして、こんな自分などだめだ、赦されない、と考えないことです。もちろん、そのままでは私たちは赦されることなどありませんでした。しかし、イエスさまは私たちの罪を十字架の上で、その死をもって完全に赦してくださいました。そして、よみがえってくださいました。このよみがえりのいのちをもって、私たちは永遠に生きるものとしていただいています。信じましょう。この信仰も私たちから出たことではなく、主の恵みによって得させていただいたものであるゆえに、主にすべてのご栄光をお帰しし、主をほめたたえましょう。

「主を十字架につけたカヤパ、そしてユダヤ人」

聖書;ヨハネ11:47~53/メッセージ;「主を十字架につけたカヤパ、そしてユダヤ人」  今日の本文をお読みして、みなさまはどんなことをお思いになりますでしょうか? 大祭司カヤパは、この決定的な一言で、イエスさまを十字架送りにしました。しかし、彼のことばは同時に、大祭司という、神の権威が与えられた存在として語った、「預言」そのものでありました。皮肉とさえいえることです。今日は、このことを考察してみたいと思います。  カヤパは大祭司という職分にありましたが、祭司はどのようにして立てられるのでしょうか? 出エジプト記40章15節には、アロンに始まり、その家系の男子が永遠に祭司の働きを受け継ぐことに関して、このように書かれています。「彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」  この、同じ出エジプト記の40章の9節以下にも書かれていることですが、油を注ぐということには、神さまのものとして聖別する、という意味があります。幕屋とその中にあるすべてのもの、祭壇、すべての用具、洗盤とその台に油を注いで聖別しなさいと命じられています。これらの用具は、神さまの前にふさわしい礼拝をおささげすること以外には用いない存在です。それを神さまのものとして聖別するしるしとして、油を注ぐわけです。  その油注ぎはさらに、祭司に対しても行われます。祭司はだれでもなれるわけではなく、アロンの家系に属する者が永遠に祭司職を担うのであると、この出エジプト記40章15節のみことばは語ります。その祭司に任命されているしるし、神のものとしてきよく別たれているしるしとして、彼らには油が注がれます。  油を注がれて聖なる任務に就くということは、単なる仕事のことにとどまりません。儀式として礼拝をささげさえすればそれで充分、ということではないのです。油を注がれることには、その油注がれた対象に霊的な権威が与えられる、という意味があります。その油注ぎを受けた者に霊的権威が与えられるのは、どのような仕組みによるものでしょうか? ヨハネの手紙第一2章27節にはこのようにあります。「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」  そうです。油注ぎとは、御子キリストに由来するものであり、油注がれた者はそのようにして、御子キリストについて教えられます。そういうわけで、カヤパはキリストについて教えられたというわけですが、問題はカヤパが、キリストとは、いま問題にされているイエスさまであることを認めなかった、ということにあります。ゆえにカヤパは、キリストについて教えられていたものの、御子イエス・キリストのうちにとどまることはできませんでした。油を注がれていたならば、御子キリストのうちにとどまることは、自動的にできることではなく、このヨハネの手紙第一2章27節に示された主のご命令を信じてお従いする、人の側の責任に属することです。  さて、カヤパはたしかに、神の究極の奥義である、キリストの死による人類の贖いを語ってはいましたが、彼がそう語った動機は、どこにあったのでしょうか? 自分の仕え礼拝する対象である神さまのみこころを成就させるためという、高尚なものではありませんでした。ナザレのイエスを、あたかも人身御供のようにして、イスラエルを敵ローマの手から守る、それ以上の動機はありませんでした。  なぜ、カヤパはそうだったと言えるのか、みことばにちゃんと根拠があります。パウロは、神さまの究極の奥義であるイエスさまの十字架を示すみことばを語るにあたり。このように述べています。  コリント人への手紙第一2章1節と2節、飛ばして、7節と8節をお読みします。「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。……私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」  神の民であるユダヤにおいて、宗教的権威の元締めとされている大祭司、カヤパはまさに、ここでパウロが述べているとおりの、この世の支配者です。しかし、カヤパはいかに大祭司として油注がれていた存在であったとしても、イエスさまの十字架という隠された神の知恵を、少なくとも、自分が信じ従うべきみこころとして、知らなかったのでした。知らなかったゆえに、栄光の主を十字架につけたのでした。  カヤパの罪の大きさは、イエスさまご自身がポンテオ・ピラトの前でお語りになったおことばに、如実に表れています。まず、ヨハネの福音書18章35節のピラトのことばを見ると、イエスさまがどういう経緯で自分のもとに引き出されたかを、ピラトはイエスさまに対して語っています。「あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。」  イエスさまのことをピラトに引き渡したのは、ユダヤ人、わけてもそのユダヤ人の宗教的環境を司る霊的権威たる、祭司長カヤパであるということを、当のピラトが明らかにしているわけです。そして、イエスさまに対する尋問がさらに続く中で、ピラトとイエスさまはこのような対話を交わしました。ヨハネの福音書19章10節と11節です。「そこで、ピラトはイエスに言った。『私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威があることを、知らないのか。』イエスは答えられた。『上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」  私たちクリスチャンは信仰告白として使徒信条を唱和しますが、その中でイエスさまというお方が、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」たことを告白します。神の御子イエスさまを苦しめ、十字架につけたという、ピラトのその究極の罪は、今に至るまで世界中の教会で告白され、確認されています。  しかし、イエスさまはそのピラトの権威、イエスさまのことを十字架につけることができるとうそぶく権威は、所詮、ローマの皇帝というひとりの人間に由来するものでしかなく、あなたにその権威がなければ、あなたはわたしには何もすることができない、と喝破されます。しかし、イエスさまはそのおことばに続けて、そんなあなたにわたしのことを引き渡した者のほうが、わたしのことを十字架につける権威を行使して、神の子であるわたしをなき者にしようとするあなたよりも、はるかに大きな罪を犯したのである、とおっしゃっています。  ピラトの権威が、どんな大国の皇帝であろうとも、所詮はひとりの人間の権威にしか由来しないのに比べて、カヤパの権威はどうでしょうか? 唯一の神さま、万物の創造主である全能の神さま、究極の権威そのものであられる神さまに由来する権威です。この神の権威を帯びているべき者が、神の子なるイエスさまのことを、神の律法に書かれているとおり、木にかけて死刑にすることで呪われた存在とするために、よりにもよってユダヤの不倶戴天の敵であるはずのローマの権威にイエスさまを引き渡したのです。そうすることでローマはユダヤに攻めてこなくなる、とカヤパは宗教指導者たちを説き伏せたわけですが、ローマに攻撃させないためにかえってローマの権威を利用するという、途方もない矛盾を犯したわけです。しかもこの矛盾に満ちた行動の結果、木にかけて呪われたものとなったのは、栄光の主、神の御子、イエスさまだったのです。  すべての人は、神さまの大いなるみこころが成し遂げられるうえで、神さまに用いられています。それは神さま、イエスさまを信じている、いないにかかわらず、だれにでも当てはまることです。しかし、およそ神のみことばである聖書を読んでいる人ならば、すべての物事のうちに働いておられる神さまのご主権とみこころ、そしてみわざを認め、その御前にひれ伏す必要があります。カヤパは少なくとも、みこころのすべてを示す油が注がれている存在として、この最大の問題人物とされていたナザレのイエスという人は、実はみことばに啓示された神の御子、救い主であることを、知っている義務がありました。知っている以上、その究極の礼拝を、イエスさまに対してささげなければならない存在、ほかのどのユダヤ人よりも、イエスさまのことを礼拝しなければならない存在でした。  だが、頑なということは、なんと恐ろしいことでしょうか。だれよりもみこころが示されているゆえに、イエスさまの十字架の贖いさえも預言できてしまった、そしてその預言どおりにユダヤ全体を動かしてしまったほどの霊的権威を帯びた者が、イエスさまのおことばによれば、イエスさまを十字架につけた張本人であるピラトよりももっと罪人である、これほど恐ろしいことがあるでしょうか。  マタイの福音書7章21節から23節のイエスさまのみことばをご覧ください。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者たちがわたしに向かって言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」働き人には油が注がれているゆえに、聖霊の力あるわざが起こされます。しかし、そのわざを行い、みことばを取り次ぐ働き人は、どんなに霊的権威が付与されていようとも、その力あるわざそのものがその働き人の救いを保証してはくれない、ということを知る必要があります。  イエスさまは、パリサイ人の言うことは守り行いなさい、とおっしゃいました。パリサイ人にはみことばを取り次ぐ、「モーセの座」という霊的権威が付与されいることを、イエスさまは認めていらっしゃるわけです。しかしイエスさまは同時に、彼らパリサイ人の行いをまねてはなりません、ともおっしゃいました。みことばを学び、みことばを語る、その悟りを神さまから与えられている存在が、行いではイエスさまを否定する。そういう者はどんなに霊的権威があるように見えても、神さまのみこころからは程遠い存在ということになってしまいます。  さて、そのような反キリストの権化とも言うべき大祭司に扇動された、神の民であるはずのユダヤ人はどうだったのでしょうか? 彼らは、こぞってイエスさまを十字架につける罪を犯しました。イエスさまを何とか釈放しようとしたピラトに向かって、十字架につけろ、十字架につけろ、とわめいたのは、彼らユダヤ人でした。  なんという罪を犯したことでしょう。そして、ユダヤ人にそれほどまでの罪を犯させるきっかけとなったカヤパのことばは、人間的な国家としてのユダヤがローマから守られなかった、紀元70年にローマが攻め込んでエルサレムが陥落した、という事実をもって、完全に当てが外れました。このできごとはある意味、イエスさまを十字架につけたカヤパたち宗教指導者と、それに扇動されたユダヤ人に対する神のさばきともいえたことでした。イエスさまをピラトに引き渡した者のほうが、ピラトよりももっと大きな罪がある、イエスさまはそうおっしゃいましたが、それはカヤパのことであるのと同時に、ユダヤ人のことでもありました。ユダヤ人は神の民として、メシアの訪れを待ち望んでいた民として、イエスさまをキリストと信じてお従いすべき民でした。ところが彼らのしたことは、イエスさまを十字架につけることでした。なんと、神の民としてふさわしくなかったことでしょうか。  しかし、私たちはここで、イエスさまが十字架の上でおっしゃったみことばを思い起こしたいと思います。ルカの福音書23章34節です。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」  さきほど、第一コリント2章8節でお読みしたとおり、神さまの知恵をこの世の支配者は悟らなかった、悟っていれば、栄光の主を十字架につけることはなかったのでした。神さまの究極の知恵であった、ひとり子イエスさまが肉体を取ってこの世に来られたこと、そのことを、宗教指導者たるものが悟れなかった以上、その指導の下にあったユダヤ人が悟れなかったのは当然です。しかし、彼らは本来、みことばを教わってメシアを待望しつづけてきた民であるという自覚がある以上、イエスさまを信じるべきでした。その信仰にもとる選択をして、イエスさまを信じなかったゆえに、神の怒りを受けて、民は滅ぼされなければなりませんでした。  いえ、神の怒りを受けてさばかれて滅びるべきは、ユダヤ人にかぎりません。すべての人がその怒りの対象、滅びるべき存在です。ローマ人への手紙2章12節をご覧ください。「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下(もと)にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。」すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、その罪の報酬として死を受けるさだめとなりました(ローマ3:23、同6:23)。  しかしイエスさまは、その神の怒りを、十字架にくぎづけになった両手を広げて受け止められ、ご自身を十字架につけたすべての罪人を神の怒りからかくまい、赦してくださいました。これがイエスさまの愛です。  使徒の働き3章13節から15節、そして17節から20節で、ペテロが語ったことばを聞きましょう。私たちもまた、イエスさまを十字架につけた罪人であるという自覚を持っていますでしょうか? そんな私たちは、何をすべきでしょうか?  私たちは今なお罪を犯すものです。考えでも、態度でも、表情でも、ことばでも、行いでも、私たちはなんと多くの罪を日々犯していることでしょうか。しかも、そんな罪を犯す自分のことを、しかたがない、悪くないと正当化し、神さまと関係のない生き方をし、他人のせい、サタンのせいにして、自分は澄ましているのでしょうか。私たちはたしかに、イエスさまを信じる信仰によってバプテスマを受け、罪赦されています。しかし、その罪赦された自分の立場を考えず、なんとふさわしくないことを、今もなおやめようとしないことでしょうか。  だから、私たちは悔い改める必要があります。悔い改めに導いてくださる神さまの恵みと愛は絶対です。自分たちがイエスさまを十字架につけたと自覚し、罪を悟って心を刺されたユダヤ人たちは、赦されたい、と強く願うように導かれ、そして彼らは悔い改めてイエスさまとつながる恵みを受けました。聖書をお読みすると、カヤパが悔い改めに導かれてイエスさまを信じ受け入れたかどうかについては沈黙しています。しかし、イエスさまを十字架につけたということにおいては、カヤパとまったく同じ罪人であったユダヤ人たちは、イエスさまを信じる信仰によって罪赦され、悔い改めに導かれる恵みにあずかりました。  私たちも、ユダヤ人のように、神の民であるという自覚があるでしょう。しかし、自分はイエスさまを十字架につけたほどの罪人であるという自覚をもって生きていますでしょうか? どれほど私たちは、悔い改めが必要なことでしょうか? しかし私たちは、どんな罪を犯したとしても、イエスさまに立ち帰り、悔い改めることをするならば、赦していただけるのです。神さまの寛容な愛をまず思いましょう。私たちはこの愛、ひとり子イエスさまさえも十字架につけてくださったほどの愛を思うならば、私たちは自分の犯した罪がひどいからと、悔い改めを控えてよいことにはなりません。神さまの愛、イエスさまの愛に飛び込みましょう。