「一番偉い人」

聖書箇所;マルコの福音書9:30~50/メッセージ;「一番偉い人」 イエスさまは、やがてこの地上に主のみからだなる教会、主の支配される神の国をお立てになる目的で、弟子たちを召され、訓練されました。では、弟子たちの側はというと、その訓練の結果として、どんなことを期待していたのでしょうか? マタイの福音書19章を見ますと、金持ちの青年がイエスさまについていくことに失敗して立ち去ったのち、弟子のペテロはイエスさまに向かって、このようなことを言っています。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何がいただけるでしょうか。」 ペテロのこのことばの裏には、イエスさまの弟子になることには、それなりの利得があるものだという前提が見え隠れします。しかし、イエスさまはペテロのこのような問いに対して、そうです、あなたがたが受け取れるものはきちんと用意されています、とお語りになりました。なんとおっしゃっているでしょうか?「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座につくとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」 イエスさまは、ペテロの質問の動機がどうであれ、ちゃんとお答えになっています。これが、御国のためにすべてを捨てた人に約束されている報いです。しかし、同時に気になるのは、このときペテロはイエスさまのこのおことばを聞いて、はたしてイエスさまのおっしゃっていることのその意味を、しっかり理解することができていたのだろうか、ということです。 彼ら弟子たちは、群衆によってイエスさまが王として祭り上げられるたびに、あるいは、祭り上げられるだけのみことばを語られ、みわざを行われる場面に同席するたびに、イエスさまがユダヤ人の王として戴冠した暁には、自分たちもそれ相応の地位を与えられることを期待したことでしょう。その期待そのものは、イエスさまのみこころとはそれほどたがっていないことになります。 ただし、その御国の報酬、永遠の報酬をいただくには、それ相応の謙遜さを身に着けている必要があるのもまた事実です。身の程知らずの者は果たして、天の御国、神の国を治める者として、ふさわしいでしょうか。 本日お読みした箇所において、イエスさまはその、御国をともに治める者の資格を、時にはその姿勢をもって、時にはみことばをもって、弟子たちに、そして私たちに伝えてくださっています。ひとつひとつ見てまいりましょう。 30節のみことば。まず、イエスさまの一行は人目を避けて行きました。その理由は続く31節を見ると、「それは、イエスが弟子たちに教えて『人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる』と言っておられたからである」とあります。 しかし、その予告は、弟子たちには難解なものでした。と同時に、弟子たちはその意味をイエスさまに尋ねて理解することに、恐怖を覚えていました。たしかに、イエスさまは死なれても、よみがえられるとはおっしゃいましたが、弟子たちはむごたらしく殉教した神の国の働き人たちのことは知っていても、そのような神の人がよみがえるということを実感として受け入れていたわけではありません。もちろん、旧約聖書には、死人がよみがえるという記述はいくつか登場しますが、「殺されて」よみがえった人の記録というものはありません。 もうひとつ忘れてはならないのは、聖霊なる神さまは、この時点で、イエスさまの死と復活というものの持つ、究極の悲しみのあとに控える究極の喜びを、弟子たちに実感させることをお許しにならなかった、ということです。まことに、みことばに対する悟りというものは、聖霊なる神さまのお導きによってはじめて得させていただけるものであって、人間的な知恵でみことばを知ろうとして、悟りをいただけるものではありません。 さて、弟子たちはそのように、イエスさまに対し、イエスさまがお語りになったことのほんとうに意味するところをお尋ねする代わりに、何やら話し合っていたようです。33節、イエスさまはお尋ねになりました。もちろん、全能なるお方、イエスさまは、弟子たちが何を話し合っていたかご存じの上で、そのようにお尋ねになりました。弟子たちの対話の本心をお探りになったわけです。 案の定、弟子たちは何も言えませんでした。24節、「来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたから」「彼らは黙っていた」とあります。その会話の内容が、イエスさまのみこころにかなっていないことは、弟子たちにもわかっていました。 しかし、イエスさまは彼らのことをお責めにならず、「いちばん偉い者になろうとすることそのものは間違っていない」と受け止めてくださっています。それでも、「いちばん偉い者になる」ということは、彼らが願うような肉的な動機によることではない、ということも明らかにしていらっしゃいます。イエスさまは彼らに対して、いちばん偉い者になるためには、どうあらねばならないか、お語りになりました。35節です。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後(あと)になり、皆に仕える者になりなさい。」 このとき、弟子たちの中にあった、偉い人になるというイメージは、みなの先頭に立ち、みなに仕えてもらう立場であったことでしょう。ふつうはそう考えます。しかし、イエスさまはまったく逆のことをおっしゃいました。みなのあとに立ってみなに仕える人が、実は先頭に立つ者である。これは、この世の価値観に縛られているかぎり、ぜったいに理解できない真理です。しかし、イエスさまは、へりくだりなさい、仕えなさい、とおっしゃいます。そんなことはまっぴらごめん、と考えるのが、この世の中の価値観でしょう。しかし、仕えるということを真っ先に実践してくださったのは、イエスさまです。イエスさまは神として権勢をふるう姿でこの世に来られたのではありません。貧しい大工の子としてこの地にお生まれになり、じつに十字架の死をもって、その流された血潮により人の罪を洗ってくださるほどに、私たち人間に仕えてくださったしもべ、それがイエスさまです。イエスさまのようにしもべになれないならば、御国において偉い者にならせていただくことはできません。 私たちがこうして、教会に集い、みことばから学ぶことは、なにか人間的に気持ちのよい祝福を受けるため、お客さんとして満足なサービスを提供してもらうためと思ったら、それは、このときの弟子たちのように、間違った了見でイエスさまについていっていることになるわけです。私たちは重く、きつく、苦しい十字架を背負いつつ、自分が愛されることに関心を持つのではなく、人がいかにしたら神の栄光を顕せるようになるか、そのことをつねに思い、祈り求める者として、整えられるために、こうして教会においてみことばをお聴きし、学んだみことばを生活において実践するものです。 しかし、形だけでもしもべとして振る舞いさえすればそれでいい、ということではありません。しもべのように仕える行動も、人に見てもらってほめられるため、あるいは、こんなにも自分は頑張っているんだぞ、と、自己満足に陥るためであるならば、それはイエスさまとの関係でしもべになっているとは言えません。また、みなのしんがりになることも、どうせ自分は世の中の毒にも薬にもならない人間だから、と、卑屈な態度で隅っこに自分を追いやることではありません。そういう態度でいいから仕える者になりなさい、とイエスさまはおっしゃっているわけではありません。 それでは、イエスさまのおっしゃる、へりくだった者のモデルは何でしょうか? 36節、37節です。子ども! 子どもは古今東西、いつ、どこにおいても、絶対的に弱い存在です。腕っぷしでも知恵でも上下関係でも、まったく大人にはかなわない、弱い立場にあります。 そして、大人たちの都合で、いつでものけ者にされたり、構われなくなったりします。ちょっとでも大人の気に入らない言動をしたら叱られます。実際、イエスさまのもとに祝福を求めて子どもたちが連れてこられたとき、弟子たちは彼らを来させないようにじゃましました。イエスさまはそんな弟子たちに激怒され、子どもたちを来させなさいとおっしゃり、子どもたちの頭に手を置いて祝福されました。そのように、子どもをイエスさまのゆえに受け入れることが人にとってふさわしいことを、イエスさまは弟子たちに直接、お示しになったのでした。 子どもであろうとも、神のかたちです。幼いからと、小さいからと無視したり、蔑んだりすることは、その子が尊ばれるべき神のかたちであることを真っ向から否定することです。子どもへの虐待がいけないいちばんの理由は、抵抗できない神のかたちに対する暴力という犯罪だからです。子どもへの犯罪であるのと同時に、神さまへの犯罪です。 逆に、子どもを受け入れるならば、それはイエスさまを受け入れることであり、神さまを受け入れることであるのだと、イエスさまはお語りになります。ほんとうに神の国でリーダーシップを取るべきしもべであるならば、まず、神さま、イエスさまを受け入れていなければ話になりません。しかしイエスさまに言わせれば、神さま、イエスさまをほんとうに受け入れているならば、子どもをきちんと神のかたち、れっきとした人格として受け入れているはずである、ということです。子どもが嫌いと言ってはばからない神の人というのは、その存在そのものが形容矛盾であり、ありえません。 さて、ここでもうひとつ、弟子たちには取り扱われるべき問題がありました。38節です。ヨハネが問題にしていることは何でしょうか? イエスさまの名によって悪霊を追い出す行為をするならば、当然、自分たち、イエスさまの弟子の群れに加わるべきである、だが、それをしないならば、イエスさまの御名によってわざを行う資格はない……要するにヨハネは、イエスさまの弟子らしく、イエスさまならきっと、こういう者にこういう行為はお許しにならないはずだ、と考えて振る舞ったわけです。 しかし、イエスさまの御思いは、ヨハネとは異なっていました。39節、40節です。……イエスさまは何をもって、弟子の群れの味方、すなわち、教会というキリストのからだの側につく人を判別すべきだとおっしゃっているのでしょうか? まず、弟子の群れ、こんにちでいえば、教会に反対しない人たちが、わたしたち、キリストとその弟子の群れなる教会の味方であるというわけです。 実際、イエスさまと十二弟子が共同体をつくったこの時代は、はっきり、いわば「わたしたちの味方」ならぬ「わたしたちの敵」と呼ぶべき存在が、うようよしていました。伝統にこだわるあまりイエスさまをキリストと認めなかった宗教指導者たち、ユダヤを吞み込みにかかるローマ、いや、そればかりか、この弟子たちの中にも、イスカリオテのユダのように、肚の中ではキリストを売る機会をうかがうような輩もいたわけです。しかし、イエスさまの御名によってわざを行う人はそれとはちがいます。おそらくその人はガリラヤで、すでに何らかの形でイエスさまの御業を体験していた、すなわち、イエスさまの御名には全能の神としての御力があることを信じ受け入れていた人でした。そして、そのとおりにイエスさまの御名を用いると、悪霊が去ることを体験していました。よって彼は、この十二弟子の群れに属してはいなくても、イエスさまが全能の神であることを認めて、イエスさまにお従いしていた人だったのです。 このようにして、本来「本部」のような群れからではなく、全く異なる環境からイエスさまの働き人が起こされるということは、新約聖書の「使徒の働き」にも記録されています。だれのことでしょうか? そう、パウロです。そんなパウロも、最初はエルサレム教会に警戒されて、なかなか仲間に加えてもらうことができないでいました。しかし、神さまはバルナバのとりなしをとおして道を開いてくださり、パウロもまた、十二弟子と同等に使徒となることができたのでした。 だから、ヨハネは、彼のことをやめさせるのではなく、あなたの遣わされている場所でどんどんやってください、と言ってもよかったくらいでした。ヨハネがそう言えなかったのは、自分たちこそイエスさまに従う本家本元、元祖、というプライドもあったのではないでしょうか。 まことに、偉くなりたいと思う考えがイエスさまのみこころと一致していないならば、こうして、働き人を認めず、働き人を育てない、狭い考えに凝り固まることになります。 41節はここまでの流れを踏まえて読むべきです。イエスさまは、わたしたちの群れに敵対しないものがわたしたちの味方、とお語りになりましたが、さらに踏み込み、わたしたちの群れに属していなくても、もし、わたしのことを敬い、それゆえにわたしの弟子たちによくしてくれる人がいるならば、わたしはその人のことを大いに祝福しよう、と語っていらっしゃいます。敵対しない、のは、反キリストとしての罰は受けない、ということであり、それはもちろん祝福ではありますが、消極的な祝福です。しかし、これに対して、たとえ群れに属さなくても、キリストを恐れ敬い、その弟子たちによくしようと考えてささげることをするならば、それがたとえ1杯の冷たい水のようなささやかなものであったとしても、神さま、イエスさまはそれに必ず報いてくださる、という約束です。 ほんとうに謙遜な人は、むやみやたらに私たち教会ならびにクリスチャンのことを誹謗中傷しないものです。しかし、祝福された人は、もっと積極的です。教会やクリスチャンに当たらずさわらずの態度をとることで済ませるのではなく、働き人とその働きをもっと支えたい、となってしかるべきである、となります。そういう、いろいろ人たちの働きや施しによって、わたしたちキリストのからだ、弟子の群れというものは存在するのですよ、自分は霊的に人々を祝福する偉い立場にある、などと勘違いするのはやめて、そういう人たちに支えられていることを覚えて感謝し、へりくだりつつその人々の祝福を祈り求めなさい……イエスさまはそうおっしゃっているようです。 イエスさまのことばは続きます。42節です。イエスさまは子どものような小さい者を受け入れることがわたしを受け入れること、神さまを受け入れることであるとおっしゃいましたが、逆に、つまずかせるならば、そういう者は海に沈め、二度とこの世に現れるな、いや、それよりももっと大きな罰を受けてしかるべきだ、とおっしゃっています。すさまじいおことばです。それほど、小さな存在をつまずかせることをイエスさまは忌み嫌っておられます。 この時代の宗教指導者たちは、民を惑わし、搾取し、自分たちに隷属することが神のみこころだとばかりに民を支配しました。そのくせ、神の民として当然出会うべきイエス・キリストへの信仰を持たせないようにし、ついには彼らの口から、イエスを十字架につけろ、と叫ばせ、イエスさまを呪われた存在として葬らせる張本人としました。弱い羊のような民にとって、これ以上ないほどの壮絶なつまずきです。 しかし、福音書のイエスさまのおことばにおいて、これほどまでに宗教指導者たちを攻撃するおことばが登場するのはなぜでしょうか? ああ、自分はイエスさまを信じて罪から解放されているから、こんな律法主義者のような罪なんて犯さない、感謝! となるためでしょうか? それは大きな勘違いです。イエスさまのこの震え上がるようなおことばがこれでもかと記録されているのは、ほかならぬ、私たちに対する警告だからです。 私たちがもし、イエスさまの恵みによって生かしていただいているという、その本来の立場を忘れ、イエスさまと関係なく生きるようならば、名前はクリスチャンかもしれなくても、ことばや態度や行いはそれなりに立派で模範的かもしれないけれども、人を神の恵みよりもさばきや呪いへと陥らせる言動がいつ飛び出すかわかりません。そういう言動はどんなに、弱い人、成長の途上にある人のことをつまずかせることでしょうか。下手をするとその人は、神さまのさばきのことばしか心に残らなくなり、信仰から離れてしまいます。イエスさまは、そんなふうに傲慢に振る舞う人は、働き人として認めません、天国には必要ありません、どうぞ、滅びてください、とおっしゃっているようです。 この流れで43節以下のみことばをお読みすると、いったい、つまずかせる手や足や目とは何か、ということが、はっきりしてきます。一見するとこのみことばは、私たちが罪を犯さないようにするために、私たちにとってからだの一部のような大事な存在であっても、犠牲にしなさい、と語られているように見えます。 テレビやスマホのたぐいもそうでしょう。そういうものに没頭することで、本来主のみこころを知る時間、主にあって人々を愛する機会が損なわれるならば、これはよくありません。お酒やたばこもそうでしょう。そういうものがつまずきとなっているならば、そういうものを身の回りから取り除いて、サタンの誘惑から自分を守りなさい、という意味に取れます。 しかし、ここまでの流れを踏まえて読むと、つまずかせる存在とは単なる誘惑を引き起こす物体ではなく、キリストのからだなる共同体の中に存在する、人、という意味にもとらえられます。実際、48節で、「彼らを食らううじは尽きることがなく、火も消えることがありません」というフレーズが、この「両方そろっていてゲヘナに投げ込まれるよりは、片方を失っても神の国に入るほうがよい」という意味のことが三度繰り返されてから登場しているわけですが、それをただ単に、誘惑をもたらす物質を切り捨てなさい、というレベルで理解していては、なぜこのように、ゲヘナに投げ込まれた者たちのさばきが詳細に登場するのか、しかも、写本によっては3度も繰り返されて、ということが理解しにくくなります。 これは、第一コリント12章や、ローマ12章に登場したとおり、教会という主の弟子の共同体は各器官、各部分からなっているキリストのからだである、という前提を踏まえると、イエスさまのおっしゃることがはっきりしてきます。キリストのからだなる共同体において「つまずく」ということは、最悪のケースでは、「人がキリスト信仰を失う」ということを意味します。そして、ほかの信徒からキリスト信仰を失わせてしまう、キリストのからだの器官なる一員というものが、存在する、ということです。 そういう人もまた、教会にとっては欠くべからざる、大事な兄弟姉妹です。そう知っているからこそ、教会はそのような信徒の扱いに苦慮します。しかし、あまりにその信徒が勝手なことをして、ほかの信徒たちにさまざまな害を及ぼすようでは、そのような行動をする信徒には戒規を施さなければなりません。ただし、それはその信徒に対し、無条件に地獄行きを宣告し、世界中のすべての教会から除名する、ということではありません。その信徒のしたどんな行為がみことばに反する罪であるかを明確に示し、その罪は本来ならば赦されない罪であるのに、イエスさまの十字架の恵みによって赦していただいたことを信じ受け入れ、悔い改め、もうそういう悪いことをしないことを、神と教会の前に約束するために、戒規という教会のわざは行われるのです。まさしく、テサロニケ人への手紙第二2章14節、15節に書かれているとおりです。「もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。」そのように、戒規とは恥じ入らせることによってその人を悔い改めさせ、本来ならゲヘナ行きがふさわしい、教会につまずきをもたらす困った人をちゃんとした兄弟姉妹にするうえで、素晴らしい機能を持ったものです。もっとも、それをよしとしないで、悔い改めて教会に従うのではなく、かえって教会を去るならば、もうそれはその人の取った選択であり、その人のことは神さまにお委ねするしかありません。 しかし、このように申します私も、これまでどれほど多くの弱い人をつまずかせてきたかわかりません。火と硫黄の池で永遠に焼かれてしかるべきでした。しかし、私がこうして生きていること、まだこうして許されて講壇に立ってみことばを取り次がせていただいていることは、このような者の地獄行きにふさわしい罪、弱い人たちをつまずかせつづけた罪を、イエスさまが十字架において赦してくださったから、そして、そのようなしもべである私のことを、それでも教会のみなさまが主の働き人と受け入れて、私のために祈って支えてくださったから、そう信じて、私は奮い立ちつづけて、なお講壇に立たせていただくものです。神さまと教会のみなさまにほんとうに感謝するばかりです。 さて、イエスさまは、ゲヘナの火に関連して、人は火によって塩気をつけられる存在であることもお語りになります。聖書を読みますと、神さまは火をもって人々にそのご存在を顕される場面がしばしば登場します。 ゲヘナの火とは、罪を決してお許しにならない怒りの神さまが、その怒りをもって罪人を滅ぼされる、神さまの火です。しかし、その神さまの火は同時に、人々を地の塩、すなわち、この世界を味のあるものに整え、愛と義の実践によって世界の腐敗を防ぐ存在へと、主の弟子たちを訓練します。そう、神の火とは、みことばを解き明かし、実践へと導いてくださる、聖霊なる神さまです。 その塩気を保つことで、教会は味わいのあるもの、愛し愛される麗しい共同体となります。みなさまは今朝、朝ごはんを食べてこられましたか? 食べていない方も、昨日どこかで食べておられると思います。その食べ物に、一切、塩味が入っていなかったら、と思うとどうでしょうか? 食べられたものではありません。そのように、金科玉条の律法を振りかざすばかりで神の人らしい味わいの少しもない宗教指導者のようにではなく、キリストの弟子らしくわたしの味わいを出して生きるために、聖霊の炎を求めなさい、そうすることであなたがたは、だれが偉い、とか、この世の論理を持ち込んで生きるのではなく、互いに各器官が調和したわたしのからだとして生きるのですよ……。 私たちはクリスチャンを名乗り、こうして教会に集うものとされている以上、私たちの価値観が問われます。私たちは果たして、イエスさまに「あなたは偉い」と認めていただくために、何をしますでしょうか? 子どものような弱い存在を受け入れているでしょうか? だれかをつまずかせていないでしょうか? 変な仲間意識に凝り固まって、自分たちの群れに属していないクリスチャンのことをさばいたりしていないでしょうか? イエスさまは「偉くない者になれ」とおっしゃっていないのです。「偉い者になれ、ただし偉い者とは、皆の後になる者、皆に仕える者だ」とおっしゃっています。私たちはこの、イエスさまのチャレンジに教会全体でお応えし、へりくだって仕え合うことで、そのみこころを全うする群れとなり、終わりの日に、全員がほめていただけるように、イエスさまから、「水戸第一聖書バプテスト教会のみんなは偉い!」と言っていただけるように、ともに目指してまいりましょう。