「復活を受け入れられる幸い」

聖書本文;マタイの福音書28:1~15/メッセージ;「復活を受け入れられる幸い」 主イエスさまのご復活をお祝い申し上げます。 今年の復活祭は、特にみなさま、復活の喜びもひとしおと思えないでしょうか? そう、ここ数年は、「コロナ下」という、思い出すのもいまいましい、社会全体がとんでもない閉塞感のもとに置かれ、自由に会話することばかりか、ともに集まって礼拝することにさえ後ろめたさを覚えるなどという、本来、あってはならない状況に長らく置かれていました。 いまはどうでしょうか? もちろん、その影響は今もいくらか残ってはいますが、それでも以前のことを考えてみますと、ほんとうに自由に礼拝をおささげできるようになりました。まさに「復活」! その喜びを体験できていることを、ともに主に感謝したいと思います。 さあ、今日はその、復活祭を最初にお祝いした人、そして、お祝いできなかった人のことをみことばから学びながら、私たちは復活をお祝いする人にしていただいていることを覚え、感謝する日といたしたいと思います。 さて、イエスさまの復活に関する記録は、4つの福音書すべてに登場しますが、今日はマタイの福音書の記述から見てまいります。マタイの福音書の記述は面白いです。当時、よほど復活を認めたくなかった者たちがいて、そういう者たちがまことしやかな噂を広めて、火消しに必死になったのだろうな、という事情が垣間見えます。しかし、その裏にある真実はこうなのですよ、と、ちゃんと説明してくれていて、聖書の読者が合理的に納得できるようになっています。このことについては後で触れるとして、まずは復活のできごとそのものから見てみます。 マグダラのマリアともうひとりのマリアが、イエスさまのご遺体の納められたお墓に行きました。マルコの福音書を読むと、もうひとり、サロメという女性も一緒に行っています。また、もうひとりのマリアとは、「ヤコブの母マリア」であることがわかります。ルカの福音書では彼女たちの名前は言及されていないで、「イエスとともにガリラヤから来ていた女たち」と書かれています。ヨハネの福音書はマグダラのマリアひとりです。このように、福音書の間に若干のちがいがみられますが、これは、矛盾ということではなく、イエスさまのお墓に赴いた人がだれだったか、ということをどう強調するかのちがいと見るべきでしょう。 彼女たちは手ぶらでお墓に赴いたわけではありません。ご遺体に塗る香料と香油を持ってきていました。もう生きているイエスさまにお会いすることはかなわない、でも、せめてご遺体のそばにでもいさせていただきたい……彼女たちは切実でした。しかし、問題がありました。岩を掘ってなきがらをその中に横たえたそのお墓には、ピラトが番兵たちを配置し、しかもそのお墓の蓋の石には封印が施されていました。この3日間の間には絶対にだれも手出しができないようにとしたわけです。暴動をけしかけようとしてピラトを脅迫したユダヤの宗教指導者たちは、今度はイエスの遺体が盗み出されて墓が空になったら、ユダヤはこれまで以上の大混乱に陥って、もっとたいへんなことになるぞ、と、さらにピラトを脅したわけです。保身に走ったピラトは、ユダヤ人を恐れて引きこもっていた弟子たちのことなどまるで考えないで、過剰なほどの警備を施しました。イエスさまを十字架につけた勢力は、ユダヤ側のカヤパたち、ローマ側のピラトたちがひとつに組んで、全力でイエスさまのご復活を阻止したような形となりました。 彼女たちは、背後にそのような陰謀があったことなど、知る由もなかったでしょう。なんとか、お墓のふたが開いていてほしい、そうすればご遺体とでも一緒にいられる……安息日が明けて、夜が明けそめて、彼女たちはいてもたってもいられなくなり、すでにイエスさまのご遺体が十字架から取り降ろされて葬られたことを確認していたゆえに、どこに行くべきかわかっていたその場所、お墓へと向かいました。 そこに大きな地震。現れたのは、稲妻のような姿の、雪のごとく白い衣の御使い。石はわきに転がされ、お墓は開きました。あまりのことに番兵たちは震えあがり、気絶して死人のようになりました。死人が復活し、生きる者が死んだようになる、この逆転。 御使いのことばを聞きましょう。女性たちは十字架に死なれたイエスさまのご遺体を訪ねてここに来ていました。しかし、ここにはおられません。よみがえられたのです! どんなふうに?「前から言っておられたように」。 そうです。イエスさまはよみがえられる、ということは、すでにイエスさまご自身がお語りになっていたことです。私たち、現代を生きる者たちにとって、イエスさまの復活が事実であることを受け入れるには、なによりも、この4つの福音書に書かれている復活の記述を受け入れることと同時に、イエスさまがずっとお語りになっていた、ご自身の十字架と復活に関する福音書の記述、いや、さらに言えば、それらすべてに至るまで預言していた旧約のみことばを受け入れる必要があるのと同じです。 御使いは女性たちに、早く弟子たちに知らせに行きなさい、と命じました。彼女たちは喜びの心と、恐ろしさとがないまぜになったまま、お墓をあとにしました。すると……そこに現れたのはだれでしょうか? イエスさまです! なんと、生きておられたのです! イエスさまのご復活の第一声、「おはよう」、原文は、複数の人に呼び掛けるあいさつのことば「カイレテ」であり、その基本形「カイロー」は、「喜ぶ」、「喜び祝う」、「平安を祈る」という意味があります。本来は、「おはよう」にかぎらない、あいさつのことばです。そう考えると、あれ? ほんとうにイエスさまは、おはよう、っておっしゃったのかなあ、なんて思いますでしょうか? しかし、それでいいのです。逆に言えば、時制に関係ないあいさつのことばは日本語にはありませんから、状況にあった訳し方をすべきであり、イエスさまがもし日本語を話しておられたら、当然こうおっしゃっただろう、という前提で、私たちは聖書を読むわけです。 このあいさつのことばを「おはよう」と訳せたことは、日本語の聖書の素晴らしさであろうと思います。死の闇を破り、新しい朝が来た、わたしがその朝を来たらせたのだよ、さあ、喜んで、一緒に祝おう! そんなイエスさまの御思いまで、この「おはよう」という日本語訳には込められているように見えてきます。 ほんとうだったんだ! みことばはそのとおりだったんだ! 女性たちはどれほど喜んだことでしょうか。弟子たちはイエスさまの十字架を前にして、散り散りになっていました。しかし女性たちは最後まで十字架を見届け、イエスさまがお墓に葬られる現場までを目に焼きつけていました。その後も弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸に鍵を閉めて家に引きこもっていました。しかし女性たちはこうして堂々と、イエスさまのお墓まで近づいていきました。このように、イエスさまに対する愛に裏打ちされた献身、そしてその献身から行動を起こしたという事実は、だれよりも早く、復活のイエスさまに出会うことを可能にしました。 こうして礼拝にいらしている以上、みなさま、イエスさまにお会いしたいと思っていらっしゃることでしょう。今朝、こうしてともに礼拝に集うことのできました私たちは幸いです。ともに集いました私たちに、イエスさまはにっこり、満面の笑みで「おはよう」といってくださっています。 女性たちはひざまずき、イエスさまの御足に取りすがりました。それはそうです。これが感動せずにいられるでしょうか。しかし、イエスさまは、その喜びを彼女たちが味わうのもつかの間、すぐに彼女たちを弟子たちのもとに送り、彼らをガリラヤに来させるようにと指示されました。 さて、このような喜びが沸き起こった一方で、笑い話というにはあまりにも笑えない事態も起こりました。11節。番兵たちは祭司長カヤパら宗教指導者たちに対して、何が起こったか、すべて話して聞かせました。番兵たちが見たこと、体験したことは、神さまがイエスさまをよみがえらされたということでなくして、何ものでもありませんでした。番兵たちはもちろん、祭司長たちの思惑に反して、墓の封印を守り切れなかったことに対する自分たちの責任を述べたわけですが、同時に、これは神さまご自身がご介在されたことだから、どうしようもなかったのです。と語ってもいるわけです。 これだけのことを聞けば、さしもの祭司長たちもイエスさまのご復活を認めるしかなかったはずです。ところが、かたくなということは、なんと恐ろしいことでしょうか。これだけの事実が語られていながら、祭司長たちは金輪際認めようとしませんでした。そればかりか、兵士たちを金で買収して嘘をつかせました。「偽証してはならない」、これは十戒ではっきり定められたことです。その律法を知り尽くしているはずの彼らが、イエスさまがよみがえられたという事実を嘘とするために、とんでもないことをしたものでした。イエスさまを十字架につけた彼らは、イエスさまが復活されてもなお、神に不従順な罪人でありつづけたのでした。 これはもう、仕方がないのです。ルカの福音書の16章に、イエスさまのこんなお話が登場します。地獄で苦しむ金持ちが、かなたにいるアブラハムに向かって、こんな苦しみは今生きている自分の家族に味わわせたくはないから、あなたのふところにいるラザロを復活させて、彼らのところに送っていただきたい、と懇願します。そんな金持ちに対して、アブラハムはこう答えます。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」 イエスさまのこのおことばは、主に救っていただくうえでは、復活を目撃することそのものよりも、みことばを信じ受け入れることのほうがはるかに大事であることを示しています。いわばみことばのプロであるべき祭司長ら宗教指導者たちは、その傲慢さによって目がふさがれていて、そのみことばがほんとうに語っているイエスさまの十字架も復活も、何ひとつ理解していませんでした。そればかりか、この復活という事実を頑なに認めないために、弟子たちがイエスさまのご遺体を盗んだなどという濡れ衣を着せ、兵士を買収し、ピラトを丸め込もうとする、実に汚い手を使いました。 しかし、結果として、ユダヤの社会には、弟子たちがイエスの遺体を盗んだからあの墓は空っぽになった、といううわさが出回ることになりました。それは、そう考えるほうが合理的だからです。しかし、合理的であるかもしれませんが、みことばにはまったくかなっていません。 私たちのことを考えてみましょう。いったい私たちが、イエスさまがよみがえった、ということを受け入れているのは、当たり前のことでしょうか? 世の中の人たちは、死者の復活ということを聞いただけで拒絶します。笑います。そんな話につきあってられるかと怒ります。それが世の人たちというものです。 しかし、私たちもそのひとりではなかったでしょうか? そんな私たちにもし、とにかくイエスさまのみそばにいたい、と切に願い、イエスさまに近づく信仰と実践が与えられているならば……そうです、それこそ、このせっかくの日曜日に、いや、せっかくの日曜日だからこそ、イエスさまの御前に礼拝をおささげしたいと切に願って、この場に集っているならば……それはもはや人間業ではありません。私たちにとってほんとうに価値ある生き方は、復活のイエスさまとともに生きることであると、私たちが心の底から信じる信仰に導いていただいているからではないでしょうか? もう、罪にくよくよして、こんな自分などだめだ、赦されない、と考えないことです。もちろん、そのままでは私たちは赦されることなどありませんでした。しかし、イエスさまは私たちの罪を十字架の上で、その死をもって完全に赦してくださいました。そして、よみがえってくださいました。このよみがえりのいのちをもって、私たちは永遠に生きるものとしていただいています。信じましょう。この信仰も私たちから出たことではなく、主の恵みによって得させていただいたものであるゆえに、主にすべてのご栄光をお帰しし、主をほめたたえましょう。