「主を十字架につけたカヤパ、そしてユダヤ人」

聖書;ヨハネ11:47~53/メッセージ;「主を十字架につけたカヤパ、そしてユダヤ人」  今日の本文をお読みして、みなさまはどんなことをお思いになりますでしょうか? 大祭司カヤパは、この決定的な一言で、イエスさまを十字架送りにしました。しかし、彼のことばは同時に、大祭司という、神の権威が与えられた存在として語った、「預言」そのものでありました。皮肉とさえいえることです。今日は、このことを考察してみたいと思います。  カヤパは大祭司という職分にありましたが、祭司はどのようにして立てられるのでしょうか? 出エジプト記40章15節には、アロンに始まり、その家系の男子が永遠に祭司の働きを受け継ぐことに関して、このように書かれています。「彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」  この、同じ出エジプト記の40章の9節以下にも書かれていることですが、油を注ぐということには、神さまのものとして聖別する、という意味があります。幕屋とその中にあるすべてのもの、祭壇、すべての用具、洗盤とその台に油を注いで聖別しなさいと命じられています。これらの用具は、神さまの前にふさわしい礼拝をおささげすること以外には用いない存在です。それを神さまのものとして聖別するしるしとして、油を注ぐわけです。  その油注ぎはさらに、祭司に対しても行われます。祭司はだれでもなれるわけではなく、アロンの家系に属する者が永遠に祭司職を担うのであると、この出エジプト記40章15節のみことばは語ります。その祭司に任命されているしるし、神のものとしてきよく別たれているしるしとして、彼らには油が注がれます。  油を注がれて聖なる任務に就くということは、単なる仕事のことにとどまりません。儀式として礼拝をささげさえすればそれで充分、ということではないのです。油を注がれることには、その油注がれた対象に霊的な権威が与えられる、という意味があります。その油注ぎを受けた者に霊的権威が与えられるのは、どのような仕組みによるものでしょうか? ヨハネの手紙第一2章27節にはこのようにあります。「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」  そうです。油注ぎとは、御子キリストに由来するものであり、油注がれた者はそのようにして、御子キリストについて教えられます。そういうわけで、カヤパはキリストについて教えられたというわけですが、問題はカヤパが、キリストとは、いま問題にされているイエスさまであることを認めなかった、ということにあります。ゆえにカヤパは、キリストについて教えられていたものの、御子イエス・キリストのうちにとどまることはできませんでした。油を注がれていたならば、御子キリストのうちにとどまることは、自動的にできることではなく、このヨハネの手紙第一2章27節に示された主のご命令を信じてお従いする、人の側の責任に属することです。  さて、カヤパはたしかに、神の究極の奥義である、キリストの死による人類の贖いを語ってはいましたが、彼がそう語った動機は、どこにあったのでしょうか? 自分の仕え礼拝する対象である神さまのみこころを成就させるためという、高尚なものではありませんでした。ナザレのイエスを、あたかも人身御供のようにして、イスラエルを敵ローマの手から守る、それ以上の動機はありませんでした。  なぜ、カヤパはそうだったと言えるのか、みことばにちゃんと根拠があります。パウロは、神さまの究極の奥義であるイエスさまの十字架を示すみことばを語るにあたり。このように述べています。  コリント人への手紙第一2章1節と2節、飛ばして、7節と8節をお読みします。「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。……私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」  神の民であるユダヤにおいて、宗教的権威の元締めとされている大祭司、カヤパはまさに、ここでパウロが述べているとおりの、この世の支配者です。しかし、カヤパはいかに大祭司として油注がれていた存在であったとしても、イエスさまの十字架という隠された神の知恵を、少なくとも、自分が信じ従うべきみこころとして、知らなかったのでした。知らなかったゆえに、栄光の主を十字架につけたのでした。  カヤパの罪の大きさは、イエスさまご自身がポンテオ・ピラトの前でお語りになったおことばに、如実に表れています。まず、ヨハネの福音書18章35節のピラトのことばを見ると、イエスさまがどういう経緯で自分のもとに引き出されたかを、ピラトはイエスさまに対して語っています。「あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。」  イエスさまのことをピラトに引き渡したのは、ユダヤ人、わけてもそのユダヤ人の宗教的環境を司る霊的権威たる、祭司長カヤパであるということを、当のピラトが明らかにしているわけです。そして、イエスさまに対する尋問がさらに続く中で、ピラトとイエスさまはこのような対話を交わしました。ヨハネの福音書19章10節と11節です。「そこで、ピラトはイエスに言った。『私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威があることを、知らないのか。』イエスは答えられた。『上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」  私たちクリスチャンは信仰告白として使徒信条を唱和しますが、その中でイエスさまというお方が、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」たことを告白します。神の御子イエスさまを苦しめ、十字架につけたという、ピラトのその究極の罪は、今に至るまで世界中の教会で告白され、確認されています。  しかし、イエスさまはそのピラトの権威、イエスさまのことを十字架につけることができるとうそぶく権威は、所詮、ローマの皇帝というひとりの人間に由来するものでしかなく、あなたにその権威がなければ、あなたはわたしには何もすることができない、と喝破されます。しかし、イエスさまはそのおことばに続けて、そんなあなたにわたしのことを引き渡した者のほうが、わたしのことを十字架につける権威を行使して、神の子であるわたしをなき者にしようとするあなたよりも、はるかに大きな罪を犯したのである、とおっしゃっています。  ピラトの権威が、どんな大国の皇帝であろうとも、所詮はひとりの人間の権威にしか由来しないのに比べて、カヤパの権威はどうでしょうか? 唯一の神さま、万物の創造主である全能の神さま、究極の権威そのものであられる神さまに由来する権威です。この神の権威を帯びているべき者が、神の子なるイエスさまのことを、神の律法に書かれているとおり、木にかけて死刑にすることで呪われた存在とするために、よりにもよってユダヤの不倶戴天の敵であるはずのローマの権威にイエスさまを引き渡したのです。そうすることでローマはユダヤに攻めてこなくなる、とカヤパは宗教指導者たちを説き伏せたわけですが、ローマに攻撃させないためにかえってローマの権威を利用するという、途方もない矛盾を犯したわけです。しかもこの矛盾に満ちた行動の結果、木にかけて呪われたものとなったのは、栄光の主、神の御子、イエスさまだったのです。  すべての人は、神さまの大いなるみこころが成し遂げられるうえで、神さまに用いられています。それは神さま、イエスさまを信じている、いないにかかわらず、だれにでも当てはまることです。しかし、およそ神のみことばである聖書を読んでいる人ならば、すべての物事のうちに働いておられる神さまのご主権とみこころ、そしてみわざを認め、その御前にひれ伏す必要があります。カヤパは少なくとも、みこころのすべてを示す油が注がれている存在として、この最大の問題人物とされていたナザレのイエスという人は、実はみことばに啓示された神の御子、救い主であることを、知っている義務がありました。知っている以上、その究極の礼拝を、イエスさまに対してささげなければならない存在、ほかのどのユダヤ人よりも、イエスさまのことを礼拝しなければならない存在でした。  だが、頑なということは、なんと恐ろしいことでしょうか。だれよりもみこころが示されているゆえに、イエスさまの十字架の贖いさえも預言できてしまった、そしてその預言どおりにユダヤ全体を動かしてしまったほどの霊的権威を帯びた者が、イエスさまのおことばによれば、イエスさまを十字架につけた張本人であるピラトよりももっと罪人である、これほど恐ろしいことがあるでしょうか。  マタイの福音書7章21節から23節のイエスさまのみことばをご覧ください。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者たちがわたしに向かって言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」働き人には油が注がれているゆえに、聖霊の力あるわざが起こされます。しかし、そのわざを行い、みことばを取り次ぐ働き人は、どんなに霊的権威が付与されていようとも、その力あるわざそのものがその働き人の救いを保証してはくれない、ということを知る必要があります。  イエスさまは、パリサイ人の言うことは守り行いなさい、とおっしゃいました。パリサイ人にはみことばを取り次ぐ、「モーセの座」という霊的権威が付与されいることを、イエスさまは認めていらっしゃるわけです。しかしイエスさまは同時に、彼らパリサイ人の行いをまねてはなりません、ともおっしゃいました。みことばを学び、みことばを語る、その悟りを神さまから与えられている存在が、行いではイエスさまを否定する。そういう者はどんなに霊的権威があるように見えても、神さまのみこころからは程遠い存在ということになってしまいます。  さて、そのような反キリストの権化とも言うべき大祭司に扇動された、神の民であるはずのユダヤ人はどうだったのでしょうか? 彼らは、こぞってイエスさまを十字架につける罪を犯しました。イエスさまを何とか釈放しようとしたピラトに向かって、十字架につけろ、十字架につけろ、とわめいたのは、彼らユダヤ人でした。  なんという罪を犯したことでしょう。そして、ユダヤ人にそれほどまでの罪を犯させるきっかけとなったカヤパのことばは、人間的な国家としてのユダヤがローマから守られなかった、紀元70年にローマが攻め込んでエルサレムが陥落した、という事実をもって、完全に当てが外れました。このできごとはある意味、イエスさまを十字架につけたカヤパたち宗教指導者と、それに扇動されたユダヤ人に対する神のさばきともいえたことでした。イエスさまをピラトに引き渡した者のほうが、ピラトよりももっと大きな罪がある、イエスさまはそうおっしゃいましたが、それはカヤパのことであるのと同時に、ユダヤ人のことでもありました。ユダヤ人は神の民として、メシアの訪れを待ち望んでいた民として、イエスさまをキリストと信じてお従いすべき民でした。ところが彼らのしたことは、イエスさまを十字架につけることでした。なんと、神の民としてふさわしくなかったことでしょうか。  しかし、私たちはここで、イエスさまが十字架の上でおっしゃったみことばを思い起こしたいと思います。ルカの福音書23章34節です。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」  さきほど、第一コリント2章8節でお読みしたとおり、神さまの知恵をこの世の支配者は悟らなかった、悟っていれば、栄光の主を十字架につけることはなかったのでした。神さまの究極の知恵であった、ひとり子イエスさまが肉体を取ってこの世に来られたこと、そのことを、宗教指導者たるものが悟れなかった以上、その指導の下にあったユダヤ人が悟れなかったのは当然です。しかし、彼らは本来、みことばを教わってメシアを待望しつづけてきた民であるという自覚がある以上、イエスさまを信じるべきでした。その信仰にもとる選択をして、イエスさまを信じなかったゆえに、神の怒りを受けて、民は滅ぼされなければなりませんでした。  いえ、神の怒りを受けてさばかれて滅びるべきは、ユダヤ人にかぎりません。すべての人がその怒りの対象、滅びるべき存在です。ローマ人への手紙2章12節をご覧ください。「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下(もと)にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。」すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、その罪の報酬として死を受けるさだめとなりました(ローマ3:23、同6:23)。  しかしイエスさまは、その神の怒りを、十字架にくぎづけになった両手を広げて受け止められ、ご自身を十字架につけたすべての罪人を神の怒りからかくまい、赦してくださいました。これがイエスさまの愛です。  使徒の働き3章13節から15節、そして17節から20節で、ペテロが語ったことばを聞きましょう。私たちもまた、イエスさまを十字架につけた罪人であるという自覚を持っていますでしょうか? そんな私たちは、何をすべきでしょうか?  私たちは今なお罪を犯すものです。考えでも、態度でも、表情でも、ことばでも、行いでも、私たちはなんと多くの罪を日々犯していることでしょうか。しかも、そんな罪を犯す自分のことを、しかたがない、悪くないと正当化し、神さまと関係のない生き方をし、他人のせい、サタンのせいにして、自分は澄ましているのでしょうか。私たちはたしかに、イエスさまを信じる信仰によってバプテスマを受け、罪赦されています。しかし、その罪赦された自分の立場を考えず、なんとふさわしくないことを、今もなおやめようとしないことでしょうか。  だから、私たちは悔い改める必要があります。悔い改めに導いてくださる神さまの恵みと愛は絶対です。自分たちがイエスさまを十字架につけたと自覚し、罪を悟って心を刺されたユダヤ人たちは、赦されたい、と強く願うように導かれ、そして彼らは悔い改めてイエスさまとつながる恵みを受けました。聖書をお読みすると、カヤパが悔い改めに導かれてイエスさまを信じ受け入れたかどうかについては沈黙しています。しかし、イエスさまを十字架につけたということにおいては、カヤパとまったく同じ罪人であったユダヤ人たちは、イエスさまを信じる信仰によって罪赦され、悔い改めに導かれる恵みにあずかりました。  私たちも、ユダヤ人のように、神の民であるという自覚があるでしょう。しかし、自分はイエスさまを十字架につけたほどの罪人であるという自覚をもって生きていますでしょうか? どれほど私たちは、悔い改めが必要なことでしょうか? しかし私たちは、どんな罪を犯したとしても、イエスさまに立ち帰り、悔い改めることをするならば、赦していただけるのです。神さまの寛容な愛をまず思いましょう。私たちはこの愛、ひとり子イエスさまさえも十字架につけてくださったほどの愛を思うならば、私たちは自分の犯した罪がひどいからと、悔い改めを控えてよいことにはなりません。神さまの愛、イエスさまの愛に飛び込みましょう。