「疑わずに信じるということ」

聖書箇所;マルコの福音書5:35~43/メッセージ題目;「疑わずに信じるということ」 私たちにとって、信仰が大事であることは常に意識している。しかし、その信仰を、いざというときに発揮できるか、それが私たちに問われている。いざというときに「恐れないで、ただ信じている」信仰を働かせることができるならば、その人は幸いである。 今日の箇所、会堂司ヤイロとイエスさまの箇所だが、ヤイロが何としてでも急いでイエスさまに、娘のために来ていただきたいとせかしても、群衆が押し寄せてなかなか先に進めなかったうえに、長血をわずらっていた女性をそのまま去らせず、わざわざケアすることさえイエスさまはなさった。そうこうしているうちにどんどん時間は過ぎ、ついに、ほんとうに娘は死んでしまったという知らせを聞くに至った。 こうなったらもう、イエスさまにいらしていただくには及ばないと思うだろうか。しかしイエスさまはおっしゃる。「恐れないで、ただ信じていなさい。」この話は、マタイの福音書、ルカの福音書にも記録されているが、マタイの福音書を読むと、「恐れないで、ただ信じていなさい」とイエスさまがおっしゃった後で、「そうすれば、娘は救われます」と続けていらっしゃる。 イエスさまは、単に娘を生き返らせようとなさったのではない。いや、「生き返らせる」ということ自体、「単に」では済まないくらいすごいことなのだが、もし仮に生き返ったとしても、その魂がイエスさまによって「救われる」ことなく、ついにはほんとうに死んでしまったとするならば、何にもならない。事は娘の「救い」にかかわることだった。「あなたが最後まで信じるならば、あなたの娘は永遠の死から救われて、永遠のいのちに至る救いに導かれる」、これをイエスさまはおっしゃりたかったのである。 つまり、ここでイエスさまに信仰が問われていたヤイロは、2つの点で信仰を働かせる必要があった。ひとつは、娘が生き返るという信仰、そしてもうひとつは、娘が救われるという信仰である。しかし、イエスさまにあっては、この2つの信仰は、本質的にはまったく同じものであった。イエスさまによって復活するということは、イエスさまから永遠のいのちをいただくということである。また、その復活を起こされるというイエスさまのみわざは、旧約以来預言されてきたとおり、時至って、神の国がこの地に来たらされたという、終末を告げるみわざであった。 私たちはよく、自然災害や戦争、経済的不安といった世相を見て、いよいよこの世界は終末かなどとうろたえがちなものだが、終末というものは、2000年前にイエス・キリストが力ある身わざを持って神の国をこの世に来たらせられて以来、この世界は終末にすでに突入していることを、忘れてはならない。要するに、いま現実に終末を生きている、それが私たちなのである。 そういうわけで、このヤイロの娘がよみがえることは、人を救って神の御国に導き入れるという主の御業がなされることにおいて重大な意味を持っていた。また、イエスさまによって神の国がこの世に実現していることを示すことにおいて、重大な意味を持っていた。きわめておごそかなことだった。 このことは、イエスさまが十字架と復活をもって、完全に満天下に主のみこころ、イエスさまが統べ治める神の国を実現されるまでは、まだ秘密、奥義の段階だった。それでイエスさまは、娘の両親であるヤイロとその妻、そして十二弟子の選抜メンバーであるペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴われて、娘のいるところに行かれたのだった。 しかし、そこで待ち構えていた者たちは、すでに葬式をおっぱじめていた。騒いだりする者、さめざめと泣いたりする者、いろいろである。しかし彼らに共通していえることは、それこそ「喪主」になるべきヤイロがなぜここにいないで、イエスさまのところまで向かって行ったか、そのヤイロの信仰を理解していなかったことである。果たして、彼らはイエスさまのことも理解していなかった。イエスさまに対して信仰を働かせるなど、望むべくもなかった。 彼らの反応はどうだったか? イエスさまが、この娘は「死んだのではなく、眠っている」のだとおっしゃったとき、イエスさまのことを「あざ笑った」のである。あざ笑った理由はいろいろ考えられるだろう。娘が生きているうちに来ることもしないで、何を言っているのか、という思いもあったかもしれない。しかしはっきりしていることは、イエスさまのみことばよりも、目の前に存在するヤイロの娘の「死」というものが、よほど彼らにとってリアルな現実だった、ということである。 イエスさまのみことば、特に復活に関するみことばを信じることは、私たちクリスチャンにとって必須の信仰である。毎週、礼拝のたびに唱和している「使徒信条」、その締めくくりのことばは、「とこしえのいのちを信ず」である。しかし、私たちはこの「使徒信条」で告白しているそのままに、世においてはだれもが死ぬ、私たちの知っているかぎり、生き返った人はだれ一人いない、という現実を前にしてもなお、人の「死」より、「復活」のほうがリアルな現実であることを、なお信じていられるだろうか? 残念なことに、キリスト教会を標榜するグループに属する人たちの中に、復活を信じられない人がいる。復活を信じられない人はむなしいと、第一コリント15章にはっきり書かれていることを考えると、彼らの信仰はとてもむなしいもので、さらに言えば、神のことばである聖書をまともに信じていない信仰でもある。これはさらに突き詰めると、イエスさまの復活さえも信じないということになってしまう。しかし、ご自身復活されない、そして人も復活させられないイエスさまは、ほんとうにイエスさまなのだろうか? 私たち、水戸第一聖書バプテスト教会は、「保守バプテスト同盟」という群れに属している。何に対する保守なのかといえば、かつてアメリカを席巻し、福音主義に対して大いなる脅威となっていた自由主義神学、それこそ、聖書を人間的な自由で解釈するあまり、聖書を批判的に読むのも自由、したがってイエスさまのこのよみがえりに関する記述も、あり得ない、神話だ、と読もう、とするような聖書の読み方をする、そんな自由主義神学に対する、本来の「聖書は神のことばである」という前提で聖書を読んで学ぶべきという意味での「保守」である。私たちはそのように、信仰の戦いを繰り広げた信仰の先祖につながる群れの一員として、疑わずに聖書を読む、疑わずにイエスさまのみことばを信じる者となりたいものである。 ただし、疑わずに聖書のみことばをお読みするのは、簡単なことではない。なぜならば、私たちはどこに行っても「常識」というものに囲まれて生活しているからである。そもそも、うちの教会は、「進化論」という「常識」を、聖書を前提にして批判するところから形成されてきた群れであり、私たちはこの世が金科玉条のように大事にしている「常識」というものが、聖書の光に照らせばいかにあてにならないか、ものによっては受け入れるべきではないかを知りながら生活している存在である。 それでも、イエスさまのみことばを受け入れることに困難をおぼえる場合がある。世の人は言うまでもない。イエスさまが実際になさった復活のみわざについても、信じない、でたらめだと言ってはばからない。私たちがすることは、そんな彼らのレベルに合わせて信じてもらおうと、自由主義神学のような妥協をすることだろうか。そうではないはずである。あのときイエスさまは、「娘は眠っているのです」というその「真意」を、説明して、彼らを説得して、そのまま葬式を進めるに任せただろうか? そうではない、復活させるという、実際のみわざをなわったわけである。神の国はことばにはなく、力にある、それをイエスさまは実際になさったのである。私たちが信じるべきは、ことば遊びのつじつま合わせではない、実際にイエスさまが御力をもって行われたそのみわざを、そのまま信じることである。 イエスさまはそのように、どのような現実の中にあろうとも、恐れずに信じる者に、みわざを示してくださり、みこころの奥義を示してくださって、ますます、キリストに似た者へと変えてくださる。私たちはそのような中で、予想をはるかに超えるみわざを見せられて、そのようなみこころを示されて、驚くばかり。 イエスさまがそのような場に私たちを招いてくださっていることを感謝しよう。いまこの場、礼拝の場は、復活のイエスさまが、私たちのことを復活のいのちへと招き、導いてくださっているという、奇跡が実現している場である。わかる人にはわかる。私たちもわかる者にしていただこう。わかる者にしていただいているなら、心から感謝しよう。 さて、イエスさまはこの復活のわざを行われたとき、人々には黙っておくようにと、釘を刺された。イエスさまをあざ笑うような者たちが、このわざを見れば、あるいは態度を変えるかもしれない。しかし、それはしょせん、世にいうところの「手のひら返し」のレベルであって、本質的にイエスさまのことを理解するようになるわけではない。彼らが興奮して、「この方こそユダヤの王だ!」とイエスさまのことを祭り上げたならば、イエスさまが十字架と復活をもってユダヤ人の王、いな、すべての王の王となられるという神のご計画は、崩壊しかねなくなる。 イエスさまのこの戒めは、私たち、特にクリスチャンが少ない日本の者たちにとって、教訓とならないだろうか。何か大きなみわざが行われないものか。そうすれば多くにひとが救われて、イエスさまの名は世間にとどろくのに。私も以前は、リバイバルを祈り求めていた大学生のころなどは特に、そのムーブメントを導いていた先生方の意図されていたところに反して、そのような一発逆転のような考えでリバイバルを祈らなくもなかった。 しかし、イエスさまが神の国を成し遂げられることは、人の考えや期待に応じてのものではない。神のみこころと時はしばしば人間のそれとは一致しないが、すべてを超えて働かれる神さまのみこころと時は、人間のすべての考えにまさって働く。 とはいっても、娘が生き返ったのは事実で、その日以来、娘が元気な姿で人々の前に姿を現したならば、それがイエスさまのみわざによることを、イエスさまのことをあざ笑った人たちもさすがに認めるしかなかった。マタイの福音書によれば、この話は一帯に広がったとある。イエスさまは確かに奇蹟を秘密のうちに行われたが、そのうわさが一帯に広がることまで計算に入れないでみわざを行われたわけではない。これは、神の奥義を顕す奇跡の記述に満ちている聖書が、クリスチャンにとどまらず、一般にも普及して、彼ら一般人もイエスさまの奇跡そのものを知ることができるのと同じである。 その中から、イエスさまのみわざに、イエスさまが神の御子であると認め、イエスさまを信じる人が起こされもするし、そのみわざはでたらめだ、神話だという人もいる。イエスさまを信じない人がいようとも、私たちが聖書を教会だけの内輪の財産にしないで、人々に伝えて回るのも、そのように救われる人が現れる可能性があるからである。 しかし、忘れてはならないのは、このにぎやかし、野次馬のごとき群衆は、イエスさまが実際にみわざを行われる場面に立ち会える栄光にあずかれなかった。しかし、弟子ならばイエスさまのみわざに立ち会える。そして人々にイエスさまの復活を宣言し、人々を永遠のいのちへと導く働きに用いていただける。群衆と弟子を分けるのは、この信仰があるかないかである。私たちは群衆でかまわないと思っていてはならない。私たちはすべからく、弟子を目指し、弟子として生きるべきである。

「一人に注目されるイエスさま」

聖書箇所;マルコの福音書5:21~34/メッセージ題目;「一人に注目されるイエスさま」 今日の箇所は、先週からの流れで行けば、ひとりの人を大切にされるイエスさまのお姿にどうしても目が留まる。イエスさまは押し寄せる群衆をあとにして、ゲラサ人の地に行って墓場に住む狂人を癒されたが、わざわざこの人の救いのために嵐吹くガリラヤ湖を渡っていかれたかのようである。そして今日の箇所。イエスさまは一行とともに戻ってこられ、引きつづき大勢の群衆がつき従っていったが、会堂司ヤイロ(あるいはその娘)、そしてひとりの女性と、イエスさまのご関心はどこまでも、ひとりの人にあったことがわかる。 21節。イエスさまはゲラサ人の地から立ち去るように言われ、再びガリラヤに戻られた。イエスさまはデカポリスにいられなくなったわけだが、先週お話ししたとおり、これは宣教の失敗ではない。神の国の宣教ということならば、イエスさまが悪霊レギオンを追い出されたその男の人が担ったわけである。イエスさまが再びガリラヤに戻られたということは、神の民の住むこの地においてはまだイエスさまのお働きが残されていた、ということである。 ガリラヤの人は物分かりが悪かった。イエスさまがたとえで神の国について話されても、その場の雰囲気で、いい話、と思ったかもしれないが、そのほんとうに意味するところを食い下がってイエスさまにお尋ねする「弟子」になれたのは、ほんのごく一部の人でしかなかった。しかし、イエスさまが彼らのことをお見捨てにならなかったのはなぜだろうか? そこに、まことの信仰をもってイエスさまに近づく人がいたからである。 22節、23節。会堂司ならば、普段当たり前のようにして、パリサイ人のメッセージを聴きつづけていた人である。もし、パリサイ人にあおられていたならば、むしろイエスさまを排除する側に回ったことだろう。しかしヤイロは、会堂にてイエスさまが病気を癒されたり、悪霊を追い出されたりするようなみわざを行なっておられたのを目撃し、それを見て、この方こそまことの癒し主、救い主だ、と信じ受け入れていた。 折しも、彼の娘が死ぬような病気にかかっていた。12歳。ちょうどうちの娘たちくらいの歳である。私はもし、うちの娘たちが重い病気にかかったならば、主よみもとに近づかん、ああ、これで娘も天国行きですね、なんて平静な気持ちではとてもいられなかろう。死に物狂いでお祈りするはずである。現に、上の娘が予定日までまだ3か月のタイミングで、切迫早産になり、このままでは危険、となったとき、おそらく今振り返ってみても、人生であのときほどお祈りしたことはなかったと思う。いわんや、ここまで育ち、さらにどんな将来が待っていることかと期待しながら育てているときにそんなことになったなら、と、考えるだけで、神さま、それだけは! と思ってしまう。 しかしヤイロにとっては、大きなリスクと隣り合わせだった。もし、会堂司ともあろう者が、イエスさまのことをそれほど信頼し、イエスさまに神の子としての力が働いていることを認めるような信仰があることが、ただでさえイエスさまのことを目の敵にしている、メインラインの宗教指導者たち、パリサイ人たちにわかったりしたら、彼らからどんな制裁が待っているか……しかし、そのような人を恐れる思いは、ほんとうの意味で神さまを恐れ、神さまにすがる信仰に呑み込まれた。   ヤイロには、イエスさまが来てくださったならば、そして、人々から悪霊を追い出され、病を癒されたその御手を娘の頭に置いてくださるならば、娘は必ず癒される、その信仰があった。その信仰は、パリサイ人の「空気」だけではなく、「イエスさまは俺たちのものだ。邪魔をするな。勝手にどこかに連れて行くな」というような、群衆が醸し出していたその「空気」をも突破した。だれから何と思われようと、イエスさまにいらしていただかなければならない、彼には強い信仰の行動があった。そして、イエスさまにみわざをかなえていただくために、急ぐ、急がせるという行動もまた伴っていた。 イエスさまはヤイロとともに出発された。しかし、24節。群衆は行く手を阻むがごとく押し迫った。イエスさまがヤイロのところに行かれるのがみこころですから、どうぞ、行ってください、と、お譲りすることはしなかった。むしろ、これ幸いと我も我もとイエスさまに押し迫る、それが彼ら群衆の取った行動だった。 この群衆の行動を、私たちはどう評価するだろうか? イエスさまの邪魔をしてけしからん、と思うだろうか? しかし、ここはどうか、私たちがこの群衆の中にもしもいたならば、どうしただろうか、と考えてみよう。やめようよ、イエスさまの行くところに行かせてあげようよ、となるならば、何のためにイエスさまのもとに来たのだろうか? むしろ、厚かましいくらいに、祝福を求めるくらいでちょうどよくはないだろうか? こんなことでイエスさまは怒らない。それが証拠に、もし、こうして群衆が行く手を阻むことがイエスさまのみこころにかなわないことならば、イエスさまは奥の手を用いて、群衆の間を不思議なようにすり抜けて先へ行かれるだろう。これは実際なさっていることである。 しかし、群衆がこうして押し迫るままにされたのには、もうひとつ意味があった。それは、そうでもしないとイエスさまのみもとに行けない人がいたからであった。25節。長血、すなわち、血の漏出を伴った婦人病を患った女性がいた。このような漏出を病むことはからだが衰え果てることももちろん問題だが、ユダヤの宗教社会では避けられる人という扱いを受け、共同体から除け者になる運命であった。二重の苦しみを負っている。 彼女は治りたかった。だから治るためなら何でもした。しかし26節。元気になりたい、ユダヤの宗教共同体に属したい、という思いから彼女は足元を見られ、医者たちに金品を巻き上げられた。そして彼女は無一文になり、病気はもっと悪くなった。踏んだり蹴ったりとはこのことである。 しかし、この世の方法で一切絶望に追い込まれたとき、私たちには最後に頼るべきお方がおられる。イエスさまである。彼女はイエスさまのことを聞いていた。27節、28節。このお方に触れさえすれば、たとえお衣の裾にでも触れさえすれば、きっと治る。彼女には、イエスさまというお方が、救い主、癒し主、全能の創造主であるという信仰があった。 それでも、彼女はヤイロのように、堂々と出られるような勇気はなかった。なにせ人々から除け者にされるような病気持ちである。人目を避けて生きてきた者である。だから、彼女の取った行動は、イエスさまに声をかけていただいて、という、能動的なイエスさまのみわざを期待してのものではなかった。いわば「どさくさにまぎれて」イエスさまの力を頂戴した信仰であった。 しかし、彼女はどうなっただろうか。29節。癒されたのである。彼女の切なる思いを、神さまはみこころに留めてくださった。これで、彼女はもう、こそこそ生きる必要はなくなった。 だが、彼女がそのまま去ることを、イエスさまはお許しにならなかった。30節。これは、イエスさまに対するふさわしい信仰を持った人がそこにいた、その人と話をしなければならない、と、イエスさまが心から願われた、ということである。イエスさまが求めていらっしゃるのは、このように、ご自身に対する信仰をもっている人、その「ひとり」に注目されるのである。 しかし、弟子の当面の関心はそこにはなかった。まずはイエスさまのことを、ヤイロの娘のところに急いで行かせなければならない。イエスさまのおこころよりも、状況のほうが気になる。これは、教会や教職者によくあること、陳腐な言い方になるが、「教会あるある」「牧師あるある」である。しかし、イエスさまはここであくまで、だれが触ったかにこだわりをお見せになった。私たちはつい、イエスさまのおこころを考えずに突っ走ることの多い者だが、時には立ち止まって、イエスさまが何を願っていらっしゃるかを知る勇気も必要である。 ついに、彼女は名乗り出た。恐れおののきつつであった。イエスさまの歩みを止めてしまって、イエスさまにも、ヤイロにも申し訳ない、という恐れもあったかもしれない。しかしそれ以上に、彼女には、何もかもお見通しのイエスさまへの恐れ、これほどまでの病を一瞬にして癒されたイエスさまへの恐れ、そして、こんな私ひとりに注目してくださっているイエスさまへの恐れがあったと見るべきであろう。あらゆる恐れがないまぜになって、彼女はイエスさまの前に出ていった。 しかし、イエスさまは彼女になんとおっしゃっただろうか。34節。イエスさまは、まことの癒しを宣言された。それと同時に、まことの救いを宣言された。イエスさまが、救われたと宣言なさった以上、彼女は救われたのである。 私たちにも、イエスさまとのこのような出会いがあったはずである。救われたくて、ただやみくもにイエスさまのところに行った。すると、イエスさまが私のことを見つけてくださり、私はイエスさまの御前に、包み隠さず自分のことをお話しした。すると、イエスさまはそんな私のことを救ってくださった。 この女の人は、どうしようもない病気で、自分のことをけがらわしい罪人と認めるしかなかった。自分もそう認め、人からもそう思われていた。そこから立ち直りたいともがく努力さえ、悪い人間たちは利用するだけ利用し、彼女にはもはや何も残されていなかった。しかしイエスさまは彼女を癒され、苦しみから解放され、健康を与えてくださった。 よく、苦しみの中で神の恵みを知ったと人は言う。それは素晴らしいことなのだが、人はいつまでも病気でいることを神の恵みと思い込み、そこから抜け出さないことを当然のように思ってはいけない。癒されたいと願って、まずはイエスさまの御前に出るべきである。 それにしても、ヤイロのように、あるいはこの婦人のように、もはやいのちさえおびやかされるような苦しみにでも遭わなければ、人はイエスさまを求めないものなのだろうか? ほんとうに人間は、自分の力で何とかできると考えてしまうような、うぬぼれた、愚かな存在だが、主はそのように人を砕かれることをとおして、かえってその人を主へと向けさせてくださる。そのように主に向かう「ひとり」のことを、主は愛してくださる。この恵みを私たちは知っているだろうか? 私たちは群衆のひしめく中、どさくさにまぎれてイエスさまにふれて事を済ますような者ではない。イエスさまに声をかけていただく者である。いまもなお、私たちは苦しんでいる。健やかではない。「苦しむことなく、健やかでいなさい」というイエスさまの御声を必要としていないだろうか? その御声を聴くために、信仰をもってイエスさまに近づこう。イエスさまはあなたという「ひとり」に目をとめてくださるお方である。

「神の国、異邦人の地に臨む」

聖書箇所;マルコの福音書5:1~20/メッセージ題目;「神の国、異邦人の地に臨む」 妻とまだ結婚する前、交際中の頃のこと。妻は当時、関西地方で宣教師になるための訓練を受けていたが、ときどき私の携帯電話に電話をよこしてくれた。ある日、働いていた教会から駅に帰る道で、妻から電話がかかってきた。うれしいことだが、気持ちは複雑。なぜならば、そのとき通っていた駅への近道が、谷中霊園という墓地の中だったからである。15代将軍徳川慶喜のお墓、ステテコを流行らせた三遊亭圓遊のお墓、高橋お伝のお墓、その他もろもろの数えきれないお墓に囲まれて、電話でデートをする羽目になったわけである。それも、すっかり暗くなった夜。何とも言えない気分になった。 お墓という場所は、死者のお骨がたくさん埋まっている場所。好んで近寄りたいとは思えない場所である。しかし、このお墓を棲み処(すみか)とし、真っ裸で凶暴ななりをしているような男がいるとしたらどうだろうか? 怖いなんてものではない。さきほどお読みしたみことばは、そのような男がイエスさまによって変えられる場面である。 1節のみことば。イエスさまは群衆をあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡って、向こう岸のデカポリス、異邦人の地に赴かれた。そのとき、ひとりの男の人をめぐって起きた一連のできごとは、神の国が異邦人の地にいかにして臨んだかを、雄弁に物語っている。特にこの男の人にスポットを当てながら、男の人に起きた変化を観察しつつ、神の国の臨む前(過去)、神の国の臨むとき(現在)、神の国の臨んだのち(未来)の、3つのポイントから語ってまいりたい。 まずは、神の国の臨む前。2節のみことば。……神の国の臨む前は、人は悪しき霊に支配された状態である。墓場とは死んだ者のいる場所である。墓場にいるということは、生きてはいてもほとんど死んだ者として振る舞っている、ということである。神の国の臨む前の人は、永遠のいのち、神さまにあるまことのいのちがとどまっていないかぎり、どんなに生きているように見えても、神さまの目には死んだ人である。 3節から5節。悪霊に取りつかれた人のこの恐ろしさを見よ。あまりに狂暴なので、人々は彼に足かせをはめ、鎖につないだ。しかし、いったいどんな力が働いているのか、彼はその鎖を引きちぎり、足かせを壊して暴れる。夜となく昼となく墓場で大声を上げて叫びつづける。 注目すべきは、彼が自分のからだを傷つけていた、ということである。自ら進んでからだに傷をつけることは、精神がむしばまれている証拠である。なんという苦しみの中に彼はおかれていたことであろう。 人間はこんなにも悲惨になるのである。デカポリスの人々は、彼のことをこうして隔離し、のけ者にし、鎖と足かせで縛りつけて、なんとかことを収めようとした。しかし、それも甲斐なく、どうしたってこの恐ろしさそのものの彼のことを見ないわけにはいかなかった。彼の存在は、デカポリスの大いなる悩みの種だった。 悪魔と悪霊どもは、まことの神さまを知らない者たちのことを翻弄する。偶像礼拝をもって共同体を霊的に混迷させたりもするが、この場合は、悪魔に魅入られたような者を用いて共同体に不幸をもたらしている。日本もそうだったが、明らかに悪霊の支配を受けている人間の存在によって共同体が混乱させられるということは、古今東西存在してきたことである。いずれにせよ、そこには主が統べ治める「神の国」は臨んでいるとは到底言えない、悲惨な状態になっている。 しかしここに、悪霊を追い出すことのおできになるお方が登場された。イエスさまである。それでは、神の国の臨んでいる状態、「現在」を見てみよう。 6節。悪霊に取りつかれたこの男の人はイエスさまを礼拝した。これは、悪霊がイエスさまのことを礼拝しているということである。駆け寄ってきて礼拝したということは、イエスさまこそが礼拝すべきお方だということを、悪霊どもは知りすぎるほど知っていたということである。 イエスさまは、ユダヤ人の地域でだけの神さまではない。ユダヤの外に出ても、異邦人の地域においても、神さまである。悪霊がユダヤでだけ悪霊ではないのと同じことである。ガリラヤをあとにされ、異邦人の地域においても、神さまとして存在された。 それを念頭に置いて7節、8節を見ていただきたい。何の関係がありますか、というのは、マタイの福音書8章29節の、ほぼ同じような内容の箇所から、なぜ悪霊がそのように言ったのかが類推できる(地名や悪霊につかれた人の人数など、若干のちがいはあるが、ほぼ同じ話である)。「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか」と言っているが、「その時」とは、イエスさまが十字架と復活を経て、天に昇られ、聖霊が注がれ、使徒たちが神の国の福音を携えて、ユダヤを越えて異邦人の地、世界にまで出ていくそのとき、ということを指している。 悪霊は、そのような神さまのご計画を知っていた。だから、まだまだ大丈夫だ、とばかりに、デカポリスを霊的に支配し、特にこの男の人のことを苦しめるだけ苦しめていた。ところがそこに、イエスさまがやってきたからさあ大変、である。 嘘だ! まだ使徒たちが異邦人の地に派遣されていないばかりか、イエスさまは十字架にすらかかっておられないではないか。やめてくれ! 話がちがうぞ! お願いだから滅ぼさないでくれ! 面白いのは、悪霊が「神によってお願いします」とイエスさまに懇願していることである。私たちが神さまのことをよく知らないで済ませているうちにも、悪霊はよっぽど神さまのことがわかっているし、神さまの権威を認めている。 ヤコブの手紙に、行いによって信仰のあることを示すことをしないようなクリスチャンに対して苦言を呈すメッセージの中に、こんなことばが挿入されています。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(2章19節)神さまのこと、イエスさまのことを知識で知っている程度ならば、悪霊だって同じである。神さまに従順であるかどうかが問われている。 9節。イエスさまは悪霊に名前を問われた。レギオン、とは、ローマの6000人からなる部隊であり、それだけたくさんの悪霊がその人に取りついていた、ということである。名前をつかむ、ということは、とても大事なことである。聖書にはとても多くの人物が登場するが、名前が登場する場合と、名前が登場しない場合とでは、イメージを具体的に思い浮かべるうえで差が出てくる、ということは経験しているだろう。 だれかのために祈るとき、やはりせめて名前は知っておいた方がいい。その人がどんな人か、ということをまた聞きするとき、結構、その情報を提供してくれた人のバイアスがかかるものである。しかし、名前はバイアスのかかりようがない。名前を挙げて祈ろう。 10節。この地方から追い出さないように、という彼ら悪霊どもの祈りは、この地方はまだ俺たちの天下だ、余計なことをするな、という驕りが透けて見える。否が応でもイエスさまに支配させない姿勢である。イエスさまの神の国が宣べ伝えられるところには、その共同体における悪霊の支配が終焉を迎えるという、素晴らしいみわざが起こされてしかるべきである。 11節。ちょうどそこにはおびただしい豚が飼われていた。神の民ユダヤに与えられた律法では忌み嫌うべき動物であり、イエスさまご自身も、せっかく宣べ伝えられたみことばに対してきわめて否定的な態度を取り、せっかく伝えてくれた人を恩知らずにも攻撃するような剣呑な人間のことを、豚に例えていらっしゃる。 12節。そういう意味では、この男でだめだったら豚に取りつかせてほしい、という、彼ら悪霊どものことばも、一応は筋が通っていると言えた。13節。すると悪霊に取りつかれた2000匹の豚は、ガリラヤ湖目がけて突進し、そのまま溺れて死んだ。悪霊どもは生き永らえたのではない。滅ぼされたのである。こうして、この男の人は、無事に悪霊の支配から脱した。 14節。豚を飼っていた人たちは逃げ出した。そして、いったい何が起こったのか言い広めた。うわさを聞きつけた人々は、イエスさまのいるところまでやってきた。15節。これがあの男か! そして、このイエスという人は、この男をこのようにしたのか! 彼らは震え上がった。 16節と17節。彼らはイエスさまに、この地方から出ていってほしいと頼んだ。それは、この男の人から悪霊を追い出された霊的権威を前に震えおののいたということもあっただろうが、やはり、この地域の産業であった養豚業が少なからぬ打撃を受けたことも大きかったのではないだろうか。 私は最初、この箇所を読んだとき、イエスさまはもっとほかの方法で悪霊を追い出されることはなさらなかったのかな、と思ったものだった。彼らこの地方の人々がイエスさまに出ていってほしいと頼むのはある意味当然じゃないかな、と。しかしここで私たちが考えるべきは、「悪霊に取りつかれた人」のことであろう。 いったい彼は、ここまで悲惨な生き方をしたくてしていたのだろうか? 自分ではどうにもならない、ただ悪霊に支配されるしかなかった彼は、あまりに醜く、そしてこの地上で苦しむだけ苦しんだ末に、行きつく先は永遠の地獄である。この世に生まれたばかりに、地上で地獄を味わい、のちの世で地獄を味わう、そんな彼を救って、何が悪いのだろうか? 私が神学生のとき、「弟子訓練」を一緒に受けていた信徒さんの中に、シムさんという方がいた。お仕事は3000頭の豚を飼う養豚場のオーナーで、彼は教会の子どもたちから「テジアッパ(ブタさんのパパ)」と呼ばれていた。 彼はほかの訓練生同様、1年間の弟子訓練のコースを通じて、めきめき信仰が成長していかれたが、ひとりの人を大切にするというサラン教会の牧会哲学を身に着けられたこの方だったら、どうしただろうか? イエスさまがもし、この男の人を救うためにあなたの豚3000頭のうち2000頭を差し出しなさい、とおっしゃったならば、どうなさっただろうか? ひとりの人を救うために、自分の大切な財産である豚を差し出しかねなかったのではないか、そんなことを思う。 もっとも、彼らデカポリスの人々は、神の国の福音を受け入れられるだけの下地を持ち合わせてはいなかった。やはり異邦人としての限界の中に生きていたのである。イエスさまもそんな彼らの限界をよくご存じで、彼らが「出ていっていただきたい」と言えば、イエスさまも争わず、彼らのもとを去っていかれた。 しかし、これだけならば、イエスさまはなぜ、わざわざガリラヤをあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡ってまで、デカポリスまで赴かれたのだろうか、そこで宣べ伝えられるべき神の国の宣教は失敗に終わったのか、ということになるだろう。この話は終わっていない。 そこで、「神の国が臨んで以降の『未来』」のお話である。18節。彼はイエスさまについていこうとした。彼はもちろん、これほどまでのことをしてくださったイエスさまに一生ついて行きたいと思ったことだろう。あるいはもしかしたら、自分のことを邪険に扱いつづけたデカポリスの人たちに見切りをつけたかったのかもしれない。 19節。イエスさまは彼を弟子に取らなかった。その代わり、彼を直ちにデカポリスの働き人として派遣された。なんと、使徒が立てられるはるか以前に、イエスさまは「異邦人宣教」の道をすでに開いておられたのである。そして20節。彼はイエスさまがなさった大いなるわざを宣べ伝えた。 彼らはイエスさまを拒絶したかもしれない。しかし、この男の人は曲がりなりにも同じ共同体の最大の問題人物であった人であり、それがこれほどまでに変わったという事実を見せられては、イエスさまを信じるしかない。やはり、レギオンの悪霊が追い出されたなりの霊的効果が現れていたのである。 彼の未来は、イエスさまの弟子として添い遂げることではなかったかもしれない。しかし、イエスさまの働き人としてイエスさまを宣べ伝える人となった。神の国はこうして、この男の人にも、デカポリスにも臨んだのだった。 ここは、やはりこの男の人に、そしてこの人に注がれたイエスさまの愛に注目しよう。 生きて地獄、死んで地獄のこの人を、天国の人にしてくださったイエスさまの愛。墓場の狂人、共同体に問題しか与えなかった人を、神の国の働き人としてくださったイエスさまの愛。その男の人を救い、素晴らしい使命を与えるためだけに、はるかガリラヤ湖を越えてデカポリスまでやってこられたイエスさまの愛。 私たちも考えよう。私はとても悲惨だった。そんな私ひとりを救ってくださるためにイエスさまはこられ、十字架によって救ってくださった。そして私はこれから、イエスさまによって神の国の働き人として用いられる。イエスさまは私に、どんな働きを望んでいらっしゃるだろうか? この男の人は最初の願いを聞いていただけなかったが、イエスさまのおっしゃったとおりの使命を帯びて、用いられた。私たちもイエスさまの望みどおりの人となり、用いられるように。

「どうして怖がるのですか」

聖書箇所;マルコの福音書4:35~41/メッセージ題目;「どうして怖がるのですか」  船乗りという仕事は、なんというか、ロマンを感じさせる。漁師、海上自衛官、クルーズ船の乗組員……今はあまり行かなくなったが、時間があるとき私はたまに大洗に行き、苫小牧行きのフェリーを眺め、ああ、北海道にこれで行ったら楽しいだろうなあ、フェリーの乗組員なんて、いつも旅行をしているようなもの、うらやましいなあ、などと思ったりした。  しかし、「板子(いたご)一枚下は地獄」という船乗りのことわざがあるとおり、海というものはただ船を悠々と浮かべてくれるやさしいものとはかぎらない。荒れたときにはその凶暴さをむき出しにする。下手したら波に呑まれて死んでしまう。その冒険心をくすぐるヒリヒリした感覚がいいのだと、もしかしたら船乗りの人たちは思うのかもしれないが、死んでしまってはおしまいである。  私たちの人生は、しばしば船が海を行くこと、「航路」に例えられる。多くは波のない海を行くがごとく、平穏無事に過ぎゆくものだが、時に私たちの人生には、荒波のような試練が襲いかかるときがある。  今日の箇所は、イエスさまの弟子たちが文字どおりの荒波に襲われる、という、ハラハラするような場面。しかし、イエスさまはこれを治められた。この湖の旅をとおして、イエスさまは弟子たちに何をお教えになったのだろうか?  特にイエスさまのおっしゃったみことば、「どうして怖がるのですか」に注目しよう。もちろんイエスさまは、そうか、キミたちは怖かったんだね、おお、よしよし、とおっしゃりたいわけではない。わたしの弟子ともあろうあなたたちは怖がってはいけないでしょう? それが怖がるとは、どうしたことですか、と、叱咤激励しておられるのである。  今日の箇所は短いので、ポイントに分けず、最初から見てまいりたい。35節。イエスさまは畑の種蒔きのたとえほか、いくつかのたとえを弟子たちに解き明かされたその日、夕方になってから、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと弟子たちを促された。弟子たちはもちろん、お従いした。  私たちクリスチャンの歩みとは、イエスさまが「行け」と命じられたら行き、「とどまれ」と命じられたらとどまる、その歩みの繰り返しである。私たちはクリスチャンとしてふさわしく歩むために、イエスさまの御声につねに耳を傾ける必要がある。イエスさま以外のもの、テレビとかインターネットとか、はたまたご近所や職場のうわさ話などを聞いて、それで心の中がいっぱいになっていては、イエスさまの御声を聞き分けることができず、したがってイエスさまに聴き従うことはできない。  弟子たちがお従いしたのは、絶対的な師であるイエスさまが目の前におられ、御声をもって促されたからである。私たちも弟子たちのように、イエスさまを目の前にするように生きているならば、御声は必ず聴けて、お従いできる。 しかし、形式的に礼拝をささげて、形式的にディボーションをささげさえしていれば大丈夫というものではない。こうして弟子たちに交じって御顔を見、御声を聴いていたイスカリオテのユダが、土壇場でどんな選択をしたか。イエスさまを十字架に引き渡すような、究極の罪を犯したではないか。私たちは形だけでみことばの語られる場に同席するのではなく、生ける交わりを体験することである。私たち自身をイエスさまの御前に、日々赤裸々に差し出そう。  36節。イエスさまのみことばとみわざを求める群衆はまだそこにいた。しかし、イエスさまはそこから新たなところに行かれるとおっしゃるので、弟子たちはついて行った。群衆に関わっていると、イエスさまは本来のお働きができない。もっと大事な、みこころにかなうお働きに赴かれ、それに弟子たちはお従いする必要があるのである。  イエスさまは群衆に対して意地悪だったのではない。よりご自身の存在とみわざが必要なところに赴かれたのである(それについて詳しくは来週学ぶ)。そこで、弟子たちはイエスさまを舟にお乗せして出発した。ほかの舟も一緒だった、とあるが、弟子たち以外にもついていく者がいた模様である。このような人は、群衆の段階から弟子の段階へと成長を遂げつつある人である。私たちもそうなりたい。  しかし、弟子として成長することはひとりでにできることではない。成長させられるために、ときに厳しいところを通らされる。折しも夕方、あたりは暗くなっていた。真っ暗な中、広くて深いガリラヤ湖を舟で渡るのが危険極まりないことは、少なくともその中の4人がガリラヤ湖の漁師出身だった十二弟子にはわかっていたはずである。しかし、これはイエスさまの促しである。「でも、おことばどおり」の信仰をもって、彼らは一歩を踏み出した。 37節。果たして、ヘルモン山から標高からの落差1200メートルのガリラヤ湖の湖面に、激しいおろし風が吹きつけて、湖は荒れだした。水は舟の中に入り込み、なお波に激しく揺られ、いまにも湖に呑み込まれ、沈みそうになっている。  激しく揺れている。風に吹かれている。波が呑み込もうとしている。湖に投げ出されそう。その恐怖はいかばかりか。それは動物的な本能のような恐怖と言えたろう。しかし、その舟の中にあって、イエスさまだけはちがっていた。38節。まるで死んだように、ぐっすり眠っておられたのである。もちろん疲れておられたわけだが、同時にこれは弟子たちへのテストともなった。  弟子たちはどうしたか? イエスさまを起こした。しかし、彼らは何と言ったか?「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか!」……。こんな深夜の荒れた湖に連れ出したのは、イエスさま、あなたじゃないですか、それが、私たちをよそに、われ関せずとばかりに眠っておられるなんて、何なんですか! どうしてくれるんですか! その悲鳴にはまるで非難がこもっているようだった。  しかし、もちろんイエスさまは弟子たちを放っておかれる方ではなかった。39節。イエスさまは風を叱りつけ、湖に「黙れ。静まれ」と命令された。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスさまは弟子たちを守られたのと同時に、ご自身がみことばひとつですべてを動かされる、全能なる神さまであることを示されたのであった。  しかし、イエスさまはただ単に風と波を鎮められたのではなかった。40節。イエスさまは弟子たちをお叱りになった。「どうして怖がるのですか。」そしてイエスさまは、彼らが怖がって取り乱したことは、彼らにまだ信仰がなかったからだと喝破された。イエスさまは単に全能なる神さまであることを示されただけではない。弟子たちの不信仰を取り扱われたのだった。  イエスさまがともにおられるならば、彼らは湖におぼれて死ぬことなどあり得なかった。それは、イエスさまが死なれるのは、十字架にかかられてであり、弟子たちもイエスさまの十字架と復活を経て、永遠のいのちをいただき、彼らはこのような場面でむざむざ死ぬのではなく、イエスさまのあとにしたがって自らの十字架を背負い、イエスさまについて死ぬように定まっているからであった。仕方がなかったとはいえ、弟子たちはそのことを悟ることができないでいた。  しかし、弟子たちにそこまでの信仰が育つまでには、なお一層のお取り扱いが必要だった。この、荒れ狂う湖の体験は、その意味で弟子たちにとって必要なものであった。 私たちにせよ、弟子たちのような恐ろしい体験をして、正気でいられるだろうか? だがイエスさまは、そのような中でも揺るがない信仰を与えてくださるお方である。弟子たちはその後もさまざまな体験をさせられて、信仰を育てていただき、主の働き人とならせていただくに至った。  私たちを取り巻く状況も、ときに厳しい。とても解決しないように思えて、恐れをいだいたり、むなしくなったりもするだろう。しかしイエスさまは、そのような状況のただ中でもともにいてくださるお方である。私たちの信仰が問われる。私たちはそのようなとき、眠っておられるようでも、変わらずに、眠らずに働いてくださっている、イエスさまに対する信仰を確かに持って祈るべきである(詩篇121:4)。  41節。弟子たちはイエスさまのご存在に、「恐れた」とある。この「恐れ」は、イエスさまが弟子たちを叱責された際に用いられたことば「怖がる」と、同じといえば同じ。実際、英語の聖書ではどちらも「アフレイド」と訳している。しかしギリシャ語では同じではない。40節で、イエスさまは弟子たちが「怖がった」ことを叱責されたが、この「怖がる」は、ギリシャ語では「臆病な」と同じことばである。  キリストの弟子は臆病だとなぜいけないのだろうか? それは、臆病な者は地獄に堕ちるとみことばに警告されているからである。嘘ではない。ヨハネの黙示録21章8節には、地獄に落とされる人の第一の条件として「臆病な者」と挙げられている。 臆病な者とは、神さまはどうせ自分のことを怠け者扱いして罰を与えるだろうからと、賜物を活かすこともせず、ただのんべんだらりと生きる者のことをいう。まさしく、1タラントを包みにしまって土に埋めておくような者である。そういう者は終わりの日にさばかれ、外の暗闇に放り出され、泣いて歯ぎしりしても中に入れてもらえない。  しかし、その地獄の警告をやたらと怖がり、主の働きをすることに尻込みするならば、それこそ臆病な態度である。こわがってはいけない。神さまは自分のことを地獄に落とすかもしれないと怖がるあまり、何もしないのではなく、神さまを「正しく」恐れることである。 天地万物を統べ治めるお方、それなのに私のことを瞳のように守り、愛してくださるお方……まさしく、風と荒波が鎮められたのを目の当たりにした弟子たち、死の危険から守っていただいた弟子たちのように、イエスさまを恐れるならば、その恐れは正しいものであり、その正しい恐れから、イエスさまに対するまことの従順は生まれてくる。要は、イエスさまとの正しい関係、愛の交わりを持つことに尽きる。  「どうして怖がるのですか。」怖がること、臆病なことは、信仰が確かでない証拠である。私たちは風や荒波のようなできごとを見て、それに翻弄され、「怖がって」いるうちは、まだ臆病な段階ではないだろうか。私たちはだからこそ、たとえ眠っているように見えても、実は生きて私のために働いてくださっている、ともにおられるイエスさまに対する信仰を日々増し加えてくださいと、祈る必要がある。「それでも」怖がる自分に気づかされるならば、なおのこと、その祈りに集中する必要がある。  私たちの「怖れ」「臆病」を、主の御手に取り扱っていただこう。間違った怖れを主に対する正しい恐れに変えていただくために、私たちから取り除いていただくべき「怖れ」は、何だろうか? 具体的に祈って示していただき、それを取り除いていただくべくお祈りしよう。「どうして怖がるのですか」と叱責されるような怖れではなく、主を正しく恐れる恐れに満たされ、そこから主の働きに用いられていこう。

「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」

聖書;マルコの福音書4:21~34/メッセージ題目;「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」 イエスさまがたとえで語られたのは、それが庶民の理解力に合っていたからである。しかし、それが庶民に理解できなかったのは、イエスさまに責任があることではない。わからなければお尋ねすればいいのである。それをお尋ねし、そのほんとうの意味するところを悟らせていただくならば、その人は「群れ」から「弟子」へと脱皮する。 ことはたとえだけではない。聖書というものは、その気になればだれにでも理解できるのだが、へりくだって聖霊さまの知恵を求めないかぎり、わからない仕掛けになっている。わからないのは、わかろうとしないからである。この点、私たちは「群れ」でいいと思ってはならない。みことばの意味を悟らせていただき、従わせていただく「弟子」になって、イエスさまにどこまでもついていく、祝福された人生を歩んでいただきたい。 いまこうして私はメッセージを語らせていただいているが、これは別名「みことばの解き明かし」という。私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ふさわしくみことばを理解し、その理解したことを生活のただ中で実践する。あるいはそのみことばをやさしいことばで人々に宣べ伝える。いずれにせよ、みことばを証しする生活をする。 その証しの生活、人々の前で神の栄光を顕す生活のために、みことばは理解されていなければならない。みことばはわからないままでいてはならない。 十二世紀の真言宗の僧侶、西行(さいぎょう)が伊勢神宮にて詠んだ歌、「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」この歌は、日本人の宗教観をよく表しているだろう。仏教者が神道のカミにそういう感情を抱く、いかにも日本的である。いや、日本人に限らず、もしかすると結構多くの人が、この歌の語るように、ありがたければそれでけっこう、と、信仰の対象を深く見極めないで終わらせてはいないだろうか? しかし、私たちを愛し、私たちと深い交わりを持つことを願っていらっしゃるイエスさまの前では、それはいけない。「ああ、このたとえは何やら面白いね、深いね、すばらしいね」と思っても、その意味をちゃんと悟ることがなかったならば、そのたとえを語ってくださったイエスさまに感謝したことにはならない。たとえにかぎらず、一見するとわかりにくいみことばをただ読んだだけで、わかったつもりになって、何やら霊的ステージが上がった、などと思うのは、自己満足にすぎない。だから私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ちゃんと理解する必要がある。 今日は、今日の箇所で語られた4つのたとえを3つのポイントにまとめて、たとえのような「難解な」みことばは、なぜ解き明かされなければならないのか、もっといえば全般的に、みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、学んでまいりたい。 ①みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、神の国の奥義が人々に伝えられるため みことばは秘密から始まっている。イエスさまが地上で生活しておられた公生涯において、やむをえず弟子たちの見ている前で神の子としてのみわざを行われたり、御姿をお見せになったりされたときも、それを言いふらしてはならないと厳しく戒められた。しかし、やがてイエスさまは十字架におかかりになり、復活され、天に昇られ、聖霊が降られて、人々はイエスさまが神の子であるとを証しする者と変えられた。 もはや秘密ではない。その光を人々の前に照らすべきである。しかし、その光を升の下に置いたら、その光はまるごと消えてしまう。寝台の下に置いたら、肝心の照らす人間は寝台の上で眠っているし、自分の部屋さえ照らせていない。だれのことをも照らす明るいところに掲げるから、光なのである。 とはいえ、その光が光としての役割をするためには、光の扱い方をよく知っておく必要がある。光とはろうそくにともす火であるが、火はまかり間違うと、大火事を起こす。いま世間を騒がせている韓国発祥の異端は、本来人々を照らして神さまへと向かわせるはずだった火の取り扱いを最大限に間違えた群れであり、その被害は大変なものである。 私たち人間は、子どものうちは火を扱わせない。火を扱うことができるのは、火についても、たとえば引火しやすいものや引火しにくいもの、風向きといった、その他あらゆる事象についてもよく理解を深めた、大人である。私たちもクリスチャンはみことばの光を掲げるために、光の性質をよく理解し、どうすれば最も効率的に光を掲げて明るくできるか、どうすれば火事にならないか、どうすれば人や自分をやけどさせないか、火の取り扱い方をよく知る必要がある。私たちが、光なるみことばをよく学ぶ必要があるのは、そのためである。 しかし私たちは、学ぶことで終わらせてはならない。学んで自己満足ではマニア、オタクである。パリサイ人はみことばをよく学んでいても、それを愛なく人をさばく道具としてしか用いなかった。悪い意味でのみことばオタクである。学んだら人を励ます、慰める、力づける、新たな働きに送り出す……みことばとはそのように用いるべきものである。私たちがみことばを学んで恵まれたら、その恵みを新たな人へと「流そう」。それが、明かりをふさわしく照らすことである。 ②みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、解き明かされてその価値がわかれば、私たちはますます、みことばを求めるようになるため 24節。これも一見すると難解なことをおっしゃっているが、宣教という文脈で読み解くと、イエスさまから聞くこと、すなわち私たちにとっては、みことばを読んで学ぶことをするならば、それを受け取る信仰の大きさに比例して、学んだだけ自分に与えられ、さらに学んだ以上のものが与えられる、ということである。 それは私たちも体験していることではないだろうか? 私たちはみことばを学ぶことで、その背後にある神の愛、神の慈しみを知り、神さまによりいっそう感謝するようになる。何が神さまの嫌っておられることかを知って、その価値観を持つことや行いをすることを避けるようになる。神さまの願っていらっしゃることを具体的に知り、生活のただ中で実践するようになる。こうしてますます、神さまとの強い結びつきを体験し、愛し愛される関係に入れられる。 しかし、そのような神さまとの愛の交わりに、そもそも関心を持たない人、そういう人は、学ばない人である。学ぶことに関心などない人である。学ばない人にとって福音は「猫に小判」である。小判の価値も使い方も知らない猫には、小判をやっても何の意味もないので、猫から取り上げて自分で使うしかない。 この「猫に小判」の西洋版のことわざは「豚に真珠」であると一般に言われているが、何を隠そう、このことわざはイエスさまがおっしゃったみことばである。ただ、「豚に真珠」は正確には「猫に小判」と意味が同じではない。価値ある福音を真珠の飾りを豚がひづめで引き裂くように粗末にし、福音を伝えた者に豚が突進するように攻撃を加え、傷つける。そういうことをする人は日本にも、世界にもごまんといる。そういう人への福音宣教のわざは今日も怠りなくなされているが、彼らが謙遜に主の御前にひざをかがめ、恭しくみことばを受け取らないかぎり、神の国が拡大しないのは主の摂理である。 私たちはみことばの恵みを取り上げられない者となるために、学ぶ者となりたい。みことばを語る人を愚かにもさばく者とならないために、学ぶ者となりたい。私たちは学ぶ者となることで、そのみことばの素晴らしさ、豊かさを具現する人となる。そうしてみことばを宣べ伝える人として用いられ、豊かに受けただけのみことばの恵みを、人々に分かち合うようになる。私たちは人々に証しする喜びのゆえに、もっとみことばを求める者となるだろう。 わからないみことばは人に伝えることなどできない。わからないみことばなど、どうやって実践できるだろうか? もっと学ばせてください! もっとわからせてください! 用いていただくために! それが私たちの祈りとなるようにしよう。 そして26節から29節、私たちはみことばを学んで成長するわけだが、成長そのものは、私たちの努力という要素だけで説明できるものではない。私たちはもちろん、人々が成長するためにみことばの種を蒔く必要がある。しかし、成長させてくださるのは神さまであり、伝道や宣教の種蒔きをした者、牧会のような霊的成長の手助けをして水やりをした者、どちらかがより偉いのでは決してない。もちろん、成長する者そのものが偉いわけでもない。 終わりの日は収穫の日である。その収穫に向けて、神さまは最後まで教会を成長させてくださる。私たちは神の畑であるが、神の同労者としての自覚も持ち、謙遜に成長するとともに、謙遜に奉仕させていただこう。神の民として成長するために、神の同労者として成長するために、日々みことばを学ぼう。 ③みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、そのみことばが国家単位、民族単位に至る、多くの人に共有されるため。 31節。からし種は野菜であるが、聖書箇所によってはこれを「木」とも表現する。鳥が巣をかけるような丈夫な枝を張り、3メートルにも5メートルにも大きくなる。この「からし種」の種の実物をご覧になったことのある方もおられるだろう。まるでほこりの粒のように小さい。これが大きく大きく成長するのである。 ここでイエスさまは、「空の鳥が巣をつくる」と語っていらっしゃる。このたとえは、単なる漠然とした象徴ではない。エゼキエル書31章6節をご覧いただきたい。ここでは「木」とは、当時の大国であるアッシリアのことを指し、アッシリアの庇護のもとに国々が集まることを「鳥が巣をつくる」という比喩で表現している。 始まりがガリラヤの片田舎だった福音宣教、神の国が、やがて世界中に広がり、世界の国々とその民がその神の国の陰に宿ることになるわけである。時代は下り、世界の様々な国々が、キリスト教国として建国された。それは、その国々が、大いなる神の国の陰にあることを高らかに宣言した、という意味である。 からし種は小さいがとても大きくなる。このたとえを聞いた者も十二弟子プラスアルファの少人数であった。しかしそこから始まった神の国の福音は、世界をおおった。国々が神の国のもとに身を寄せた。そして、いまわずかな群れである私たちからも、神の国が世界に広がるビジョンを思い描かないか? 神の国の旗印である「神の愛」は世界を変えた。人々を奴隷状態から解放し、疎外された人を神のかたちとしての人に回復させた。神の愛に動かされて人々はまことの安らぎを得られるように世界を変える努力をしている。その歩みはなお途上にあり、この「巣」を壊す企てはやまないが、それでも福音の宣べ伝えられるところ、国や民族の単位の変革がもたらされる。 そのように変革するには、みことばが人々にわからないままでいてはならなかった。医療を行うでもいい、福祉を行うでもいい、学校を建てるでもいい、人々を愛するためにキリストの犠牲に倣っていること、すなわち、その生き方において解き明かされているみことばが、人々に具体的に伝わっている必要があった。 私たちの信じる福音、宣べ伝える福音は、国と民族に及ぶもの。この点で私は韓国のクリスチャンから多くのことを学んだ。彼らは国と民族に世俗化が進もうとも、決してあきらめずに祈りつづけている。今度は私たちが日本のために祈る番である。私たちのすることは大それていなくてもよい。ともしびを掲げることが大事である。日本が神の国に身を寄せる国家と民になることを信じて、祈り、福音を宣べ伝えよう。 ●みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、私たちが解き明かされたみことばにしたがって生き、人々にイエスさまを証しする働きに用いていただくためである。 私たちは学んだみことばを、どのように実践することによって、この世界に変革をもたらす器として用いていただけるか、祈ってみてはいかがだろうか? 私たちの周りに、飛んでくる鳥が巣をかけるように憩いを得て、みことばによって力づけられ、みことばを携えて飛び立つ人が興されるように、祈ってみてはいかがだろうか? そのように、みことばの恵みを「流す」ために、みことばから何をどのように学ぶのか、今ここで具体的に決心をしよう。

「みことばは正しく蒔かれていますか」

聖書箇所;マルコの福音書4:1~20/メッセージ題目;「みことばは正しく蒔かれていますか」 本日の箇所は大きく分けて、イエスさまが群衆に、たとえで説教をされた場面と、そのたとえを弟子たちの前で解き明かされた場面からなる。私たちはこの箇所を読めばもう、たとえが何を意味するか分かっているが、ひとつひとつ見ていくと、次のとおりになる。 種を蒔く人、これはみことばを蒔く人である。つまり、みことばを宣べ伝える人である。このみことばの種はまず、道端に落ちた。すると、鳥が来て種を食べてしまった。そのたとえの意味は、ある人はみことばが蒔かれて、すなわち、みことばが伝えられてみことばを聴くと、そこにサタンがやって来てその蒔かれたみことばを取り去ってしまうということである。 聖書がはっきり語るとおり、サタンはいる。聖書を読むと、イエスさまの時代において、ところどころで、悪霊に取りつかれた者の存在がクロースアップされているが、この時代の群衆は、悪霊の親玉であるサタンのことを、かなりリアルに感じていたはずである。しかし、サタンや悪霊はその時代だけに存在していたわけではなく、いまもなお、しぶとく存在している。 彼ら悪の勢力のすることは、せっかく人に伝えられたみことばを持ち去ることである。たとえば、みことばが伝えられている現場、礼拝でも伝道集会でもいいだろう、メッセンジャーはいっしょうけんめい語っているのに、居眠りしたり、別のことを考えたりしている。これは、サタンにみことばを持ち去られている状態である。 だから私たちは、せっかく蒔かれたみことばをサタンに持ち去られないための対策を講じる必要がある。みなさまの中に、メッセージのメモを取っている方がおられるが、これはみことばをサタンに持ち去られないための、とてもいい方法である。全身を耳にして「聴く」(耳と十四の心で{聴く})その内容を、手を使い、目で見ながら落とし込む作業である。こうすることで私たちは主の宮なる自分のからだと心に、がっちりとみことばを抱え込み、サタンに取られないようにできる。 また、礼拝の前日は質のよい睡眠をとる。夜食を取ったり、遅くまでテレビを見たりしないで、早く寝る。起きたら静かに祈って礼拝に期待する。こういうことも大事。最近はコロナ下ということで、空調をつけていても換気をするようになっているが、これは新鮮な空気を吸うことで脳を活性化させ、みことばに集中する上でよいことである。コロナが収まっても続けていいことではないだろうか。 サタンはなぜ、私たちにみことばが根づいたら「やばい」と思っているのか? それは、私たちがみことばに従順になったら、いよいよ自分たちが世界を支配できなくなる、この世にいよいよサタンの居場所がなくなることを知っているからである。私たちがそれほど、神さまに大いに用いられるポテンシャルを持っていることを、サタンは私たち自身以上によく知っている。私たちはだから、サタンの計略にだまされないで、みことばにとどまり、みことばを守り行う喜びに満たされてまいりたい。 ともかく、サタンは私たちにみことばが根づかないように虎視眈々と狙っているので、私たちの側でも真剣に対応する必要がある。これは戦いである。いま、私たちにとって、こぞってみことばをお聴きする時間は日曜日のこの時間をおいてほかにないのだから、一週間の計画を立てるにあたり、ぜひ日曜日の礼拝に勝利するようにすべてを調節していただきたい。私もみなさんのために祈る。 次のたとえは、土の薄い岩地に種が落ちたら、土が深くなかったのですぐに芽を出したが、日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。その意味は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分の中に根がなく、しばらく続くだけ。その後でみことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人のこと。 みなさんも普段からみことばを読んで感じていらっしゃることと思うが、みことばはこの世のいかなる文学や教えともちがう、独特の雰囲気と説得力、それに美しさを持っている。それはもちろん、神さまに由来するからそうなのだが、その雰囲気や美しさに惹かれる人というのは、一定数この世には存在する。だからこそ、こんなにクリスチャンがいないような日本の国においても、ホテルに聖書を置いてもらう働きがここまで保たれてきたわけである。聖書は読まれているのである。 イエスさまは、待ち受ける迫害に怖気づいて、もはや蒔かれたみことばが根づくことがない人のことを説かれた。これは日本だと充分にあり得ることである。特に、バプテスマを受けることにそれが表れている。バプテスマを受けてこそ私たちは名実ともにクリスチャンと名乗れるわけだが、日本においては、それは仏壇や神棚、神社仏閣、仏式や神式の葬儀にくみしない態度で、公に表明することが要求される。そこまでみことばに従順になることはしない、というわけである。しかしこれは、弟子の態度ではない。 これを解決するには、一にも二にも、教会の教会姉妹の助けと励ましが必要である。まず、私のところに来て、祈りを要請していただきたい。そのために真剣に祈ることを約束する。そして、この祈りの課題を教会で共有し、ともに祈ることに取り組んでいただきたい。 この祈りはすでに信仰生活がある程度の年数に達している、私たちにとっても取り組むべきことである。私たちもみことばを守るべきときに、守れない、いや、守らないという選択をしてしまいかねない。その葛藤は大変なものである。神さまに問われる思いで押しつぶされそうにもなるだろう。互いのために祈る必要がある。もちろん、私も、毎日みことばをお読みしているが、そのみことばをたがえずに実践できるように、迫害を怖れて尻込みして、実践することを控えることのないように、お祈りしていただきたい。 三番目のたとえは、茨の中に種が落ちた場合。茨が伸びでふさいでしまい、実を結ばなかった。これは、みことばを聞いたのに、この世の思い煩いや富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぎ、実を結ばない、ということ。 これは覚えがないだろうか? みことばは確かにそう言っている。それはわかる。「でも」、現実はこうだ、常識はこうだ、私はそれどころじゃない、もっと大事なことがある……なんだかんだで、みことばに従うことをしない。 それらはすべて、神さまとそのみことばよりも、自分のことを大事にする姿勢から生まれる。自分ファースト。状況が悪い、あの人が悪い、だからみことばを守れない、というだろうか? いや、それは、みことばを守れないことを状況や人のせいにして、自分の責任を回避する姿勢である。 要するに、神さまよりも自分のほうが大事、と言っていることになる。これは非常によくない。私たちはつねに、心の動機を聖霊なる神さまに点検していただく必要がある。みことばに従えないのは、自分のことしか見えなくなっているからではないだろうか? そういう人はみことばを守り行なって実を結ぶことが、とても難しい。神の栄光を顕すため、人を救うために、すべてを捨てて十字架におかかりになったイエスさまの御姿を、しっかり思うことだ。わが恩師、オク・ハンフム先生は、一日5分、イエスさまの十字架を黙想せよとおっしゃった。5分ならトイレに行く時間とどっこいどっこいではないか。ぜひ実践しよう。 以上のことをイエスさまはお語りになった上で、よい地にみことばの種が落ちれば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことを約束してくださった。 私たちがよい地になるためには、サタンがやってくるようなことのないようにしなければならない。茨城の農地にはかかしや、飛んでいる鷹のような凧が設置してあって、鳥が飛んでこないようになっているが、鳥は賢ければそんなものなどものともしない。鳥が寄ってこないためには、猟銃を構えた漁師が待ち構えるしかない。 イエスさまこそ、そのようにサタンを追い払ってくださるお方である。イエスさまとの交わりを持つことで、サタンの寄ってこないよい地になる。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、薄い岩地を肥沃な大地にしなければならない。みことばを雰囲気でいいものと思うことにとどまるような初歩の段階を抜け、どんなに苦しくてもみことばに従順に従うことを選べるように、そんな信徒を養えるだけの愛と祈りの共同体を、この教会の中に育てていくことである。そのために自分には何ができるか考えよう。 私たちがよい地になるためには、茨を取り去らなければならない。茨が伸びるに任せていては、私たちはいつまでたっても、自分たちが用いていただけないことを、現実のせい、環境のせい、人のせいにすることから抜けられない。この茨を、私たちは取り除いていくために、イエスさまに、何が取り除くべき茨なのかを祈っていく必要がある。そのために自分には何ができるかを考えよう。

「二重の慰め」

聖書箇所;ヨナ書4:1~11/メッセージ題目;「二重の慰め」 本日はヨナ書の最後の学び。ヨナ書を読むたびに私は、韓国教会に深くかかわってきた過去を持ち、韓国人宣教師と一緒に暮らしている者として、韓国の方が日本に福音を宣べ伝える姿と、ヨナの姿を二重写しにしてしまう。多くの場合、韓国人にとっての愛国心は、日本に対する複雑な感情と表裏一体のものである。それはクリスチャンであっても同じ。もちろん教会では、赦しなさい、ということが聖書から語られているから、みなさん、歴史的にひどいことをしてきた日本を赦そうと努力しておられる。しかし現実はとても難しい。 先週はヨナ書3章を学んだ。再び宣教の使命を与えられたヨナが、主のみことばをアッシリアの大都市ニネベに伝えて回ると、身分の高い者から低い者に至るまで悔い改め、その姿をご覧になった神さまが、わざわいをニネベに下すことを思い直された、という内容。 ヨナは宣教のわざに用いられた。主のご栄光を豊かに顕した。では、それでよかった、めでたし、めでたし、となったのだろうか? 4章は冒頭から、実に衝撃的なことが書かれている。まずは1節。ヨナは怒った。自分の語った預言のとおりにならなかったからである。なんと、大魚の腹の中で心底悔い改め、再び用いていただくべく整えられたヨナが、ここにきて、自分が宣教に用いられたゆえにニネベが悔い改め、神さまがわざわいを下されないことに、激しい怒りを燃やしたのである。 ヨナは主に何と申し上げたか? 2節。タルシシュへのがれようとしたのは、神さまのみこころに自分は絶対に従いたくなかったからだ。しかし神さまの強い導きで、結局は従った。その結果が、この惨めな思いだった。ヨナはまるで、タルシシュ行きの船が難破から守られたこと、荒海に投げ込まれても溺れ死ななかったこと、そこから救われて、大魚の腹の中で神さまとの愛の交わりを回復したことなど、すっかり忘れてしまっているようである。 それにしても、ヨナはいったい何を言っているのか。「あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。」これは、詩篇86篇15節など、聖書のいたるところに登場する神への賛美だが、ヨナもまた、神の働き人として、主の情け深さ、あわれみ深さ、怒るのに遅いこと、豊かな恵みをつねに主から受けていたし、大魚の腹の中では特に、その主の素晴らしさを味わっていた。 こんな反逆する自分に何という情けをかけてくださり、あわれみを与えてくださるのだろうか! このような自分のことをその御怒りによっておさばきにならないで生かしてくださり、豊かに恵んでくださっているのか! 神さまのこのご性質を心底味わっていた。この詩篇の告白はすなわち、ヨナの告白になっていた。それがいまや、同じことばのはずなのに、賛美は一転して、「そういうお方だからこそ」大嫌いだと言わんばかりに、主を貶めることばになってしまっている。なんだか妙なことになってしまっている。 主との愛の交わりができているならば、主の備えておられるあらゆるご性質、たとえば創造主であられるとか、愛なるお方とか、義なるお方とか、全知、全能、唯一、きよいお方……こういったことはことごとく、そのまま賛美のことばになりうる。だが、神さまとの愛の交わりがなかったら、そのご性質はそのまま、その人にとっては、主を貶めることばになってしまう。きよい、というご性質だったら、そんなきよいお方にはこんなけがれた自分のことなど理解できまい、となる。唯一、というご性質だったら、ほかの神々を認めない一神教は怖い、独善的だ、などと誹謗する。全能、というご性質は、人間には限界を設けておいてずるい、となる。 神さまのご性質は人間にとっては、そっくりそのまま、賛美にもなれば、貶めることばにもなる。ヨナは、神さまのご性質を、神さまを責めることばとして用いた。愛なるお方だから素晴らしい、ではない。愛なるお方だから憎らしい、である。今やヨナにとって神さまとの愛の交わりは、危機的な水準にあった。 その危機的な状況は、3節のみことばに表れている。ニネベの市民にいのちをもたらしたばかりのヨナが、今度は自分が死ぬことを願っている。しかし、死にたいと願うなどとは、ヨナのたましいが極めて病んでいたことがわかる。ニネベの人たちを滅ぼさないのがあなたさまのみこころなら、いっそ私を滅ぼしてほしい、とさえ言っているようである。 しかし、主はこのヨナの嘆きを聞き逃すことはなさらなかった。4節。人は怒っているとき、自分はまったく間違っておらず、間違っているのは周りのほうだと思うものである。ここでヨナはなんと、神さまを相手に、正しいのは自分で、間違っているのは神さまのほうだと、怒りを発しているわけである。しかし、神さまを相手にしたこの怒りは、果たして正当なものだろうか? 神さまはすぐには答えを与えず、ヨナのなすがままにさせた。5節。ヨナは、みことばを宣べ伝える預言者である。このニネベに遣わされたならば、その悔い改めが徹底したものとなるべく、ニネベの市民に神さまのみことばを徹底して教えることをすべきだった。少なくとも、神さまが別の町に行ってみことばを語れとおっしゃらない限り、彼はニネベにとどまるべきであった。しかし、ヨナはそれをせず、町の外に出ていった。またもやヨナは使命を放棄したのである。 その代わりにしたことは、わざわざ仮小屋まで作ってその中にすわり、このニネベの町がどうなるかを見物することであった。神さまはニネベにわざわいを下すことを思い直されたということだが、それでもその前にはたしかに自分に、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」というみことばを託されたのだから、神さまはそのみことばをたがえずに成し遂げられるかもしれない、つまり、ニネベを滅ぼしてくださるかもしれない、と、一縷の望みをかけたのだろう。 一見するとこの態度は、神さまのご主権、また正義に拠り頼んでいる態度といえなくもない。しかし、そこには神さまの愛という視点が決定的に欠けていた。また、このヨナの態度は、宣教の働きに召された神さまのみこころに対する不従順だけではなく、ニネベを滅ぼされないという神さまのみこころに対する不信仰でもあった。 そんなヨナだったが、神さまはヨナに介入された。6節。ヨナは、灼けるような暑さの中、依怙地になってニネベを見つめていた。そんなヨナに、神さまはその頭をおおって陰を作ってくれる、とうごまのつる草を生えさせてくださいました。すると、ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ、とあります。灼けつく暑さから守って涼しくしてくれるこの草があっという間に生えてきた。 ヨナはこれを体験して、自然を支配される神さまは自分のためにみわざを行なっておられる、やっぱり神さまは自分の味方だ、と思ったことだろう。もしかすると、こうして唐胡麻を生やして暑さから守ってくださっている以上、ニネベの滅亡を期待して自分が町を見守っているこの行為は間違っていないと、神さまが教えてくださったのだ、とか、ヨナは勘違いして喜んだのかもしれない。 しかし、神さまはこの唐胡麻からもヨナに大事なことを教えられた。7節。唐胡麻が不思議なようにしてたちまち生えたのは、それが神さまによるものであるとヨナが知るためだった。しかし、同じようにして、たった1匹の虫によって、唐胡麻は枯れた。神さまはこのことをとおしても、それがご自身のみわざであることを知らされた。 朝になってどうなったか? 8節。神さまは唐胡麻、1匹の虫に続き、照りつける太陽と灼けつくような東風を備えられた。その結果ヨナはどうなったか? 暑さにやられて身も心も衰え果て、死にたくなったのだった。なんだ、唐胡麻を備えて涼しくしてくださった神さまは、結局は自分のことを見放しておられるじゃないか……。 しかしヨナは、暑くて死にそうになっているのに、主の御名を呼び求めて「主よ! 助けてください!」と叫ぶことをしてはいない。かえって、自分のいのちがなくなることを望んでいる。いのちなる神の愛を、これっぽっちも実感していない模様であった。 しかし、主はそのようなヨナに話しかけられた。9節。神さまは、4節でおっしゃったみことばをそのまま再びヨナに語られた。4節では、神さまがニネベを滅ぼされなかったことを怒るのか、と、ヨナを責められるが、この9節では、神さまが唐胡麻を枯らされたことを怒るのか、と、ヨナを責められる。ヨナは、唐胡麻を枯らされたことに死ぬほど怒っているのは当然です、と、神さまにお応えした。 ヨナは、たかが草1本が枯れたことに、なぜそんなに怒っているのだろうか? ヨナは神の民であり、神のみことばを託された働き人であることに、強いプライドを持っていた。神の愛は自分のような者にこそ注がれるべき、と考えていたとしても不思議はない。 その意識は、タルシシュ行きの船が難船して、海に放り込まれ、大魚に呑みこまれたとき、その腹の中で神さまに立ち帰ることにおいてはとても益になった。しかしその一方で、憎っくきニネベ市民が滅ぼされなかったことに、強い怒りを感じたのであった。また、神の働き人である自分のことを、唐胡麻は守ってくれるかと思いきや、結局は守ってくれなかったことにも怒った。ニネベのおびただしい数の市民よりも、自分のことのほうがよほど大事、それが今のヨナだった。 そんなヨナのことを神さまは諭された。10節と11節。自分で種蒔きも育てもせず、たった一夜で生え、たった一夜で滅びる唐胡麻さえ、あなたは惜しんでいるではないか。だがわたしはこのニネベのおびただしい民を創造し、今に至るまで愛をもって育ててきた。だが彼らは、わたしの愛をわきまえ知らなかったばかりに、滅びようとしていた。それを悔い改めに導き、滅ぼさないことの何が悪いのか? ヨナよ、すべての創られしものに向けられた、わたしの愛を知ってほしい。あのはかない草をさえ惜しんだヨナよ、あなたにならそれがわかるはずだ……。 思えば、神さまの怒りに触れるべきニネベは、滅ぼされて当然の存在であった。その民は悔い改め、神さまからのいのちを得るに至った。このことに本来ヨナは慰めを得るべきであったが、それでもその慰めに気づかないヨナに、神さまはこれでもか、これでもか、と、あらゆる環境をとおして慰めを与えられた。 私たちも普段の生活で疲れよう。ほんとうは私たちが生きていることで、どれほど多くの人が主にある私たちの生き方を見て、触れることで、主に出会っていることだろうか。しかし、私たちはそのような主のお導きを、時に見失ってしまう。そんな私たちは、主に用いられていること、そしてそんな私のことを主が顧みてくださっていることに、二重の慰めを見出すべきではないだろうか? 私たちは今、神さまに恨み言を言いたくなっていないか? それでいい。取り澄ました態度で神さまの前に出ても始まらない。ここで私たちは、傷ついた心のままで、神さまの御前に出ていこう。いやしをいただこう。そして、それでも用いてくださる神さまの御声を聴くことを、御手に触れていただくことを、いま体験しよう。

「愛されているゆえに愛を伝える」

聖書箇所;ヨナ書3:1~10/メッセージ題目;「愛されているゆえに愛を伝える」 今日の箇所は、悔い改めの末に再び宣教の使命に立ち帰らされたヨナが、実際にニネベに行って宣教する場面である。ヨナの宣教を通して、ニネベの町は老若男女が悔い改めに導かれ、それをご覧になった神さまが、わざわいを下すことを思い直されたというのだから、ヨナの宣教の結んだ実は相当なものだった。 1節と2節。ヨナは、主のみことばに反した行動を取って、大きな懲らしめを受け、ようやくのところでいのちが助かった。主は、このようにみことばに反する行動を取る者であっても、一度主が召された人であるならば、主はそのみこころをその人を通して成就されるまで、何度もその人を立たせられる。 主がニネベに宣教のわざを成され、その町を悔い改めさせる――この働きにふさわしいと主が見込まれ、用いられる働き人は、ヨナをおいてほかにいなかった。たとえヨナが、イスラエルという国家と民族を大切に思うあまり、イスラエルに敵対するアッシリアに対して激しい憎悪を抱いているような人物であったとしてもである。みこころに反する行動を取って、嵐に巻き込ませてタルシシュ行きの客船の乗客や船乗りに大きな迷惑をかけ、挙句の果てには海に放り込まれた、そんな人物であったとしてもである。 いま、自分は大した状態ではないから、主はきっと自分のことを用いてくださらないだろう……そんなことを思ってはいけない。主に救われている……主を愛している……それこそが、主に用いていただける条件である。復活のイエスさまがペテロを再び宣教と牧会の働きに召されたとき、イエスさまは多くのことはおっしゃらなかった。ただ、「あなたはわたしを愛するか」と、三度にわたって問いかけられたのみであった。三度にわたってイエスさまのことを知らないと言ってしまったペテロは、「私はあなたを愛します」とはさすがに言えなかったが、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。イエスさまを愛しているという事実を、イエスさまのみこころという変わらない基準にゆだねたのであった。 私たちもそうではないだろうか?「私はイエスさまを愛します」と正面切って言えないような、主に対するうしろめたさを私たちはもしかしたら抱えているかもしれない。しかし、私たちが主を愛しているかどうかを決めるのは、私たちの移ろいやすい感情ではない。主ご自身が、私たちは主を愛していると決めていてくださる。 だから私たちは、自分の不確かな心の声に惑わされてはならない。私たちは堂々と、主を証ししていい。主に用いていただいていい。たとえ自分が不完全に思えてならなくてもである。なぜならば、私たちは主を愛しているからであり、私たちが主を愛していることを、ほかならぬ、主が認めてくださっているからである。 3節。ヨナは大魚の腹の中で、自分に向けられた主の愛に立ち帰った。そしてその主の愛に、愛をもってお応えしようと決意した。ヨナが地中海のどの海岸に打ち上げられたかは、聖書は記していないが、そこから内陸の町のニネベに向かうだけでも長旅である。しかもその先にあるニネベの町は、行き巡るのに3日かかるとても大きな町である。このような町に向かい、実際にその町で宣教するには、どれほど主への愛と宣教に対する情熱に燃やされていなければならなかったことだろうか。 ヨナはどのようにして宣教を開始しただろうか。4節。このときのヨナの状況を、少し想像力をたくましくして考えてみよう。折しもアッシリアは、当時の中東で最大の勢力を誇る国家だった。それに比べるとイスラエルは、アラムから領土の一部を取り返したとはいえ、アッシリアとは比べるべくもない弱小国家だった。そのような国からやってきた預言者が、なにやら叫んでいる。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」普通に考えるならば、強大国を代表する都市の市民に向かってこんなことを言う弱小国の預言者などは、その場で殺されて当然である。ヨナも、そのようなリスクの中、伝えて回った。 ヨナにはなぜそれができたのだろうか? 信仰のゆえである。天地万物をお造りになり、お治めになる神さま、荒海から救い出してくださった神さまが、ここに遣わしてくださり、用いてくださるのならば、自分のすることは従順に従うことだけだ……ヨナはあれこれ考えず、ただひたすらに、ニネベの町に宣告を下すことに専念したのだった。 するとどうなったか? 5節。なんと、唯一の神さまなど信じないはずのニネベ市民がこぞって、神さまを信じたのである。そして、悔い改めを表明し、主がさばきを思い直してくださることを切に求め、神さまに懇願するしるしとして、荒布をまとった。 そればかりではない。6節。悔い改めは、ニネベを統べ治める王さまにまで及んだ。彼は王座から立ち上がり、王服を脱いだ。つまり、王として君臨することをやめたのである。そして、荒布をまとい、灰の中にすわった。王でもなんでもない、神さまの御前にあるひとりの罪人として、神さまの御前に出て行った。ただし、王はそれをあくまで王の立場として行なったのであるから、王のこの悔い改めの行動は、アッシリアという国を代表してのものであった。 そればかりではない。王は悔い改めを、ニネベの町に徹底させた。7節から9節です。二十世紀以来、今もなお存続している共産主義国家がそうであるように、神さまを無視する者たちは、血で血を洗うような悪に陥る。このニネベも、神さまを認めない者たちが、きわめて残虐なことを行なっていたため、その悪が主の御前に立ちのぼり、ついには神さまがニネベを滅ぼさなければならないほどになっていた。まるで、ノアの時代に大洪水で滅ぼされた人々、アブラハムの時代に天からの火と硫黄で滅ぼされたソドムとゴモラの人々のようである。 しかしここに来て、ニネベの人たちは、神さまがあわれんでくださり、この町を滅ぼさないように思い直してくださるよう、一生懸命に努力した。徹底した断食を呼びかけ、荒布をまとって悔い改めることを呼びかけた。 注目したいのは、獣や、牛や羊などの家畜までが食べたり飲んだりすることを許されないばかりか、荒布をまとわされた、ということである。悔い改めの表現として、断食したり、荒布をまとったりということはもちろんすべきことであるが、獣や家畜、つまり動物までに悔い改めをさせようということは、イスラエルの民ならば、おそらくやらない悔い改めの方法である。なぜならば、動物は人間とちがってそのうちに霊がなく、神のかたちに創造されてはいないものであり、したがって神に対し悔い改めの祈りをささげることなど、そもそもできないからである。それでもニネベの人々がこのような行動を神さまの御前で取ったのは、ちょうど、嵐に巻き込まれた客船に乗った人たちがそれぞれの神々に祈り、ついにまことの神さまに行き着いたようなものである。 神さまは、このような祈りをささげるニネベの民をどうしただろうか? 10節。ついに神さまは、ヨナに託された宣教のわざをかなえてくださった。神さまは、ニネベの人たちが悪の道から立ち返ろうとする、その「努力」をご覧になって、わざわいを下すことを思い直されたのだった。神さまは、ご自身に立ち帰ろうとする者たちのことを、決してお見捨てにならないお方である。 ただ、この記述を表面的にしか読まないと、まるでニネベの人々は努力したことによって救いを勝ち得たように思えてしまうことだろう。果たしてそうなのだろうか? まず、この悔い改めのわざは、ヨナという預言者がニネベに行かなければ、そもそも始まらないことだった。だがヨナは、イスラエルを思うあまり敵国アッシリアになど宣教に行きたくなくて、わざわざまったく違う方向の地の果てにまで行こうとした人である。そういう人を召され、用いられたのは主である。 そして、ヨナは当然のように敵国の大都市ニネベで宣教したわけではない。そこには殺されるかもしれないというリスクがついて回っていた。だが、ヨナは殺されなかった。そればかりか、この町の人々は神さまを認め、神さまからのさばきの宣告をほんとうのことと受け止めて心から恐れ、徹底した悔い改めを実践した。 このプロセスは、主がご介入されたのでなければ、絶対に起こりうることではなかった。主がニネベを滅びから救われたのは、究極的に言えば、ヨナがニネベの市民に神さまを信じさせたからでも、ニネベの市民が悔い改めの努力をしたからでもない。主がそのように定められ、そのように導かれたからである。ヨナは、そのみわざのために用いられた器でしかなかった。 このことからわかるのは、たとえ悪に満ちていた人々であったとしても、主は限りなく、彼らのことを愛しておられる、ということである。そして、その愛を伝えるご自身の器のことも、特別に愛しておられる、ということである。ヨナの伝道が成功したのは、このニネベのことを愛によって救おうとされる主のご主権に、ヨナがどこまでも従順に従ったことにあった。 あとでご自宅でヨナ書2章のみことばを読み返していただきたい。そのときヨナは、真っ暗な大魚の腹の中にいたが、ニネベを悔い改めに導くべく用いられたヨナは、まず、自分が徹底して悔い改める恵みにあずかった。そこで彼は、タルシシュ行きの船の船底で眠り込んでいたときには決して見ることのできなかった、主の御顔を仰ぎ見ていた。真っ暗な中で神さまを見失っていた彼は、真っ暗な中で神さまの光に照らされる恵みにあずかった。この神さまの光を、彼は罪により暗く閉ざされていたニネベの町に照らしたのであった。 しかし、ヨナの伝道が成功したのは、ニネベが悔い改めに導かれたこと以上に、あのかたくなだったヨナが従順に主に従ったことにあった。神の民だという理由で持っていた変なプライドのゆえに不従順の罪を犯しつづけることなく、ニネベ宣教という主のご命令に従順に従ったということ、これがヨナの宣教における最大の成功である。 学生時代、私はキャンパス・クルセードという宣教団体にいたが、そこでつねに教えられていたことばがある。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神にお委ねすることである。」私たちはつい、救われること、つまり、伝道の対象者が信仰告白に導かれることが「伝道における成功」と考えてはいないだろうか? それはある便槽かもしれないが、救う、救わないということ、言い換えれば、人が信仰告白をする、しないということは、神さまのご主権の領域である。だから、そういう意味では、私はだれだれさんを救いに導いた、という表現は、よく考えればおかしい、ということになる。その人が救われようと救われまいと、私たちのすることは、聖霊の力によってキリストを伝え、その結果を神さまにお委ねすることである。 ヨナは、神の霊、聖霊に導かれるままに神のことばを語った。その結果、聖霊はニネベの人に、救われようという強い思いをくださった。そして神さまは本来のみこころどおり、ニネベの民を死のさばきから救われた。 このような、神さまのみことばを伝える働きを担う者たちのことを、神さまは特別に愛してくださる。そして愛されるゆえ、愛しておられる民のもとに遣わしてくださる。私たちもまた、主が愛しておられる茨城県の人たちのもとに遣わされた、神さまの特別な愛を受けた者たちである。 最後に、ローマ人への手紙10章8節から15節までを読もう。これは私たちのことである。私たちはよい知らせを宣べ伝える麗しい足である。私たちがどんなに愛されているか、いま確かめよう。そして、この愛を私たちはだれに伝えたいか、今週、その人に対して、私たちはどんなアクションを起こすように導かれているか、祈ってお尋ねしてみよう。 <祈ってみよう> ・主よ、私の身代わりにひとり子イエスさまを十字架につけてくださったほどの大きな愛によって愛されている、その愛を心から思い、感謝するものとならせてください。 ・主よ、これほどまでに私のことを愛してくださっているその愛を、私はだれに語るべきでしょうか、教えてください。 ・主よ、その人のために、私は今週何をすべきでしょうか、教えてください。

「ヨナの悔い改め」

聖書箇所;ヨナ書2:1~10/メッセージ題目;「ヨナの悔い改め」  先週はヨナ書1章を学んだ。海を荒れさせた神の怒りを鎮めるため、ヨナは海に投げ込まれた。そのヨナのために神が大きな魚を備え、その魚にヨナを呑みこませた、というところで、ヨナ書1章は終わっている。本日お読みしたヨナ書2章のみことばは、そのほとんどが、大魚の腹の中でヨナが神におささげした告白に費やされている。1節ずつ見ていこう。  1節。ヨナは大魚の腹の中に導かれた。ひとすじの光も届かなくて真っ暗、消化中の大量の魚介類に埋もれてぬめぬめして生臭い場所、胃壁から分泌される胃酸に触れたら肌もただれる。不快極まる場所だが、それまで大海原のただ中にいて溺れ死にしかかっていたことを思えば、比べ物にならないほど安全な場所なのはたしかである。   少なくともここなら、いのちが脅かされることはない。なによりも、じっくりお祈りすることができる。ヨナは、環境がどうであろうと、神に祈りをささげることのできる恵みをしっかり噛みしめたのではないだろうか。  2節のみことば。私のことを海に投げ込んでください、と船乗りたちに言ったヨナだったが、実際にそういうことになってみて、いのちが脅かされるとはどういうことか、初めて思い知ったのだった。  しかし、私たちは祈りに応えていただける。人は時に、とんでもなくいのちが脅かされるような瞬間に出会うものだが、もともと全能なる神さまとの関係を持つ者はその危機をきっかけに神に立ち帰るという、大きな恵みを体験する。これは神さまが私たちに対して下される、わたしに立ち帰れ、という懲らしめ、俗っぽい言い方をすれば、愛のむちである。ヨナは苦しみの果てに、祈りが聞かれたことを知った。祈りが聞かれている確信。これは、私たち神の子どもたちに与えられている特別な恵みである。  3節。この告白によれば、あなた、つまり、神ご自身が私ヨナを海に投げ込まれたのだと告白している。そうだとすると、ヨナが船乗りたちに向かって、自分のことを荒海に投げ込んでほしいと言ったのは、やけを起こしてではなかったのである。ヨナは、神のみことばをゆだねられた預言者であったが、その彼が、神のみこころは自分を海に投げ込まれることだと受け取り、神に対してせいいっぱいの従順を実践したのであった。ヨナを海に投げ込まれたのは、人ではなく、神ご自身だった。これは神によるヨナに対する愛のお取り扱いだった。 ただ、そのお取り扱いは、とてもきびしいものだった。潮の流れにもまれ、大波小波が頭の上を越えたということは、息もすることもできないような海水の中にいたということであり、苦しいなんていうものではなかった。しかしここでヨナは「あなたの波、あなたの大波」と告白している。このきびしい波、波に次ぐ波は、ほかならぬ神から与えられた愛のお取り扱いであったことを、ヨナは心から認めて告白している。  4節。ヨナは、私は御目の前から追われました、と告白している。神さまがヨナを目の前から追い出された、ということである。 しかし、もともと主から逃げたのはヨナのほうである。主はヨナをお用いになろうと、ニネベに行って宣教せよとのご命令をくださった。それから逃げてまったく違うほうに行ったのはヨナのほうである。それを、主がその目の前から追われた、と告白するのはどういうことだろうか? それは、ヨナ、逃げようと思うならばやってみなさい、と、主があえてヨナを逃がされた、ということである。 その結果、ヨナはどんどん主の使命から遠ざかり、挙句の果てはいのちさえ危機に瀕した。だが、ここでヨナは気づかされた。自分の求めていたことは主の御顔を避けることではない、むしろその反対に、主の聖なる宮を仰ぎ見ること、つまり、主の臨在の前に進み出て、主を仰ぎ見ることだということを、自分は求めていたのだと。  ヨナは、人から教えられて主に立ち帰るべく促されたのではない。主ご自身からの悟りを与えられて、その顔を主に向けて方向転換したのだった。「悔い改め」ということばは、「悔い」ということばが入っているので、なにやらくよくよ後悔するようなイメージがついて回りそうだが、ほんとうの悔い改めとはそのようにくよくよすることではなく、もう完全に主に向かって、過去の罪深い自分とすっぱり手を切ることを意味する。 ヨナは悟りを与えられて、不信仰と反抗に満ちた過去の自分を捨て、主に向かおうとする強い意志と欲求が与えられたのだった。この悟りを与えてくださるお方は神ご自身である。悟りが与えられることは主の大きなあわれみ、また恵みである。主の御名をほめたたえよう。  だが、この悟りを与えてくださるために、主は時に激しい形でのお取り扱いを及ぼされる。5節、6節前半。ヨナは、地中海の海底のさらに奥深くまで、そしてその最も低い水底に生えた海藻に髪の毛が取られるほど、奥底に沈んだと告白している。そこでヨナの見たものは、山々の根元というべき海底の岩々であり、ヨナはその底に落ち込み、地のかんぬきが自分の後ろで下ろされた、もう、ヨナはここで人生が終わったのだった。だが、ヨナは生きた。  こんなことがあるだろうか? 人は、ほんの少し海に沈んだだけで、窒息して死んでしまう。それがヨナの場合、水責め、土責めの息苦しさがいつまでも続き、どこまでも深く深く、海の底に沈んでいく一方だった。ヨナは「いつまでも」死の苦しみが続く状態を体験したのだった。これをヨナは「よみの腹の中」と表現したのだろう。よみの闇の中では、人のたましいは消滅して苦しみも何もなくなるわけではない。よみに下ったたましいは、やがて来るさばきによって永遠に火の池に投げ込まれ、永遠に焼かれつづけて苦しむのである。  しかし、主はこのようなヨナをどのように導かれたか? 6節後半。  聖書にはしばしば「穴」というものが登場する。創世記には、ヨセフが兄たちに謀られて穴に落とされる場面が出てくる。ヨセフを待つものは、兄たちに殺されるという運命だった。だが、兄のひとりのユダの発案によって、ヨセフは殺されることなく、穴から引き上げられ、いのちが助かった。のちにこうしていのちの助けられたヨセフは数奇な運命をたどり、イスラエルを救う器として大きく用いられることになった。 また、ヨナよりもはるかあとの時代の預言者エレミヤも、穴に沈められて、そこから引き上げられるという体験をしている。そして、墓という「穴」からの生還を果たされたお方は、イエスさまだった。 ヨナがこのように告白するのは、ヨセフのように、もはや死ぬまでだった運命から救われて、いのちを救う働きに用いていただくようになったという、感謝に満ちた告白ではなかろうか。  7節。ヨナは悟りに至るまでに、主の御顔を避けつづけたばかりに、たましいが衰え果てていた。そうなったら、そのたましいが主に向かうことは、とても困難になる。しかし、そのような状態で主の御前に出ることができたとしたら、それはもはや、恵みとしか言いようのないことである。主は、たとえたましいが主に向かえないほど衰え果ててしまった者であったとしても、その人を愛しておられるかぎり、必ず立ち帰らせてくださる。 もし、私たちの周りにたましいが衰えてしまっている人がいて、そのために心を痛めていらっしゃるならば、どうか失望しないでお祈りしていただきたい。いや、もしかするとその衰えた人とは、自分自身のことかもしれない。失望しないでいただきたい。主は必ずお祈りを聴いてくださって、引き上げてくださり、主に心が向かうようにしてくださる。  8節。ヨナは、主の素晴らしいみことばをゆだねられた預言者である。それは光栄に満ちていることであり、とても恵まれている。一見するとこの告白は、偶像礼拝の国アッシリアにあらためて宣教に行くぞという決意表明のようにも見える。だが、偶像礼拝という問題は、まずヨナの中にあった。 ヨナは、アッシリアへの敵対心に裏打ちされた歪んだ愛国心、選民思想を自己中心とはき違えた歪んだ民族主義という、神さまご自身に取り替わる偶像を心に抱えていた。もちろん、ヨナは何も、時の為政者ヤロブアム王のように、金の子牛のような目に見える偶像を拝んでいたわけではない。しかし、心の中に神さまご自身以上に大切にする思想を抱え、その思想に殉じて神の御顔を避け、神のみこころを無視したという点で、ヨナはやはり、偶像礼拝者と変わるところはなかった。だがヨナはここに来て、それがどんなにむなしいことかということに気づかされ、今度こそ、主に立ち帰る決心をしたのだった。  9節はそんなヨナの祈りを締めくくることばである。偶像を捨てた者のすることは、いけにえをささげること、すなわち、主を礼拝することである。しかし、礼拝するといっても、形式的に礼拝をささげさえすれば、主はそれで良しとしてくださるわけではない。  いかに威儀を正して礼拝をささげようと、そこに主に対する従順がなければ、主はそれをご自身に対する礼拝と見なされないどころか、偶像礼拝であるとさえ見なされる。 私たちの礼拝をおささげする姿勢も激しく問われている。  しかし、私たちは、例えば今のこの時間のように、プログラムとして礼拝をおささげすることだけを礼拝を見なすべきなのか? 私たちの礼拝は、もっと広い範囲にわたるものであるべきである。ローマ人への手紙12章1節。  私たちのあらゆる行動は、からだを使ってすることである。ということは、からだが主にささげられた聖い供え物になっているならば、私たちの取るあらゆる行動は、礼拝になっていなければ、私たちのからだを正しく用いていないことになる。そう意識するならば、私たちは罪から身を引き、神のみこころにしたがった聖い行いを目指すようになるのではないだろうか? そしてその聖い行いこそ、霊的な礼拝であるというわけである。 だとすると、私たちの持つ信仰とは、頭だけのものとか、形だけのものとかではなく、きわめて実践的なものになる。自分自身を神にささげた者としてふさわしく、いつ、どこで、どんなときも、みこころにかなう行動とは何かということを祈り求め、それを具体的に実践する、この繰り返しこそ、私たちの本来歩むべき歩みである。  こうして、救いはほかならぬ神にあることを悟らされ、それを自分の口で告白したヨナは、10節にあるとおり、3日3晩にわたる真っ暗な大魚の腹の中から解放され、明るくて安全な陸地に戻ってきた。悔い改めによって再出発するチャンスが、ヨナに与えられたのであった。 私たちもヨナのように、悔い改めに導かれる悟りがつねに与えられ、キリストの似姿らしく変えられ、主のお働きをこの地上に現すことで主に大いに用いられるように、主の御名によってお祈りする。私たちは自分に与えられたどんな主のみこころに対して不従順だろうか? いま悔い改めることは何だろうか? 主の御前に出ていく力さえ出てこなくても、いま主の御前に置かれているこの恵みを覚え、主に祈ろう。

「それでもみこころに導かれる」

聖書箇所;ヨナ書1:1~17/メッセージ題目;「それでもみこころに導かれる」 先月でマルコの福音書の連続講解が切りのいいところで終わったので、今月は夏のスペシャルというわけではないが、別の箇所から学ぶ。今月はヨナ書から学びたい。 ヨナは、ニネベという都市に行って宣教せよと神から命令が下ったにもかかわらず、その命令から逃げ、まったく方向のちがうタルシシュという町に行く船に乗った。すると、その船が荒波に遭い、ついにはヨナが荒波を鎮めるために海に投げ込まれるという、短いながらも波乱万丈の物語、ヨナ書はこんなドラマティックなシーンから始まっている。 ヨナは、ニネベに行けという神さまのご命令に従いたくなかった。それはなぜか、そのことを正確に理解するために、まず、ヨナが行くように召されたニネベという都市と、聖書のほかの箇所に書かれたヨナの活動について、まず学ぼう。 ニネベという都市は、ヨナの活動した紀元前8世紀当時の中東社会で最強の国家だったアッシリア最大の都市で、のちにヒゼキヤ王時代のユダを攻撃したセナケリブ王の時代に、アッシリアの首都になった。 アッシリアは周辺国家に圧力を加え、アッシリアに比べればはるかに弱小国のイスラエル王国も抑圧された。ただ、その当時のイスラエルはみこころにかなったよい国とは言えなかった。歴代の王たちは揃いもそろって偶像礼拝者だった。ソロモン王の死後に南北に分裂したイスラエルは、南王国のユダはまだよい王がいたが、北王国イスラエルは、聖書の評価から見れば落第生の王ばかりだった。 ヨナについては聖書にこのような記述がある。列王記第二14章23節から27節。……北イスラエル王国にはヤロブアムという王が2人いたが、こちらのヤロブアムは2世のほう。ヤロブアムもまたほかのイスラエルの王同様、偶像礼拝をするような悪い王だったが、それでも、イスラエルの領土を回復するために主に用いられた人物だった。 もともと、イスラエルの領土が減らされたのは、列王記第二10章の32節から33節までをお読みすると、ハザエル王の統治するアラムの攻撃によるものだったが、それは32節にあるとおり、主のご主権によることだった。 なぜ、このような懲らしめを、主は愛するご自分の民であるはずのイスラエルに対して加えられたのか? それは、直前の10章31節のみことばにほのめかされている。 この箇所の「ヤロブアム」とは、分裂王国となったイスラエルの初代の王であったヤロブアム1世のこと。ヤロブアムは、イスラエルを統合するために、金の子牛の偶像をつくって礼拝させるという、イスラエルの王にあるまじき罪を犯した。一方エフーは、ヤロブアム一世、ナダブ、バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、アハブ、アハズヤに続き、10番目に北イスラエルの王になった人物で、アハブ王とその妻イゼベルによるバアル神信仰をイスラエルから追放したということで、その子孫が四代目までイスラエルの王座に着くことを主から約束されるという祝福をいただいた。 しかしエフーは、ヤロブアムの罪、すなわち金の子牛礼拝をやめさせなかった。依然として偶像礼拝者であり、イスラエルを偶像礼拝の道に引き込んでいた。イスラエルの領土が削られたのは、そのような王の主に対するいいかげんな態度、偶像を愛する態度に対する懲らしめであった。 そのようにしてアラムを通して領土が削られたイスラエルの王たちは、たしかにエフーの子孫、アハズ、ヨアシュ、そしてこのヤロブアム二世が代々に王座に着いて、主の祝福の預言は成就していた。しかし、やはり主の与えられた預言は四代目まで王座が続く(四代目までしか王座が続かない)というものだったように、エフーの王朝を終焉させてしまうほど、ヤロブアム2世の偶像礼拝はひどかった。 しかし、希望もあった。このとき、ヤロブアム2世に、アラムに対し戦いを仕掛けよ、そうすれば領土を回復すると預言したのが、このヨナだった。イスラエルの存亡にかかわるような危機的な状態の中で、神の民イスラエルの預言者としての矜持にかけて、王に預言を伝え、果たしてその預言どおり、イスラエルに回復をもたらした主の器、それがヨナだった。 そういうわけで預言者ヨナは、イスラエルを盛り上げるうえで大きく用いられた人物だった。イスラエルという国に対する愛国心ももちろんあったゆえに預言者でありつづけた。その愛国者らしい一面を念頭に置いて考えるべきことだが、今度はそんな彼が、まったくちがうことに用いられようとしていた。 それは、イスラエルを呑みこむような強大国アッシリア最大の都市、ニネベに行って、主のみことばを宣教せよというものだった。理由は2節にあるとおり、「彼らの悪が神の前に上ってきたから」ということだった。 もはやどうにもならないほど主に対する悪に満たされたニネベ……そこに、神のことばを伝えに行け……いや、あんな敵国、神の敵の民族に、救いのことばを伝えるなんて、そんなことができるものか! ヨナは神に反抗し、3節の行動に出た。 ニネベは、イスラエルの首都サマリヤから北東に1000キロほど行った内陸の都市である。しかし、タルシシュは、地中海を経て西の果てに行った場所であり、今日のスペイン南部と推測されている。ヨナの取った行動はまるで、北海道に行けと言われたのに、フィリピンとか、まったくちがう国に向かったようなものである。 ヨナがそのようにまったく違った方向に向かった動機が、「主の御顔を避けたから」であると、みことばには2度も繰り返して語られている。主のみこころは何であるか、ヨナははっきりわかっていたが、従いたくなかった。主の民を苦しめるアッシリアのニネベの者たちに、貴重な福音など伝えるものか! しかし、ヨナの乗った船は大きな嵐に遭い、難破しそうになった。4節のみことばにあるとおり、神さまが大風を海に吹きつけられたからである。この嵐は、神さまがご自身に反抗するヨナひとりを取り扱うために備えられたものでした。ひとりの人を悔い改めに立ち帰らせる神の大きなみこころは、時にものすごい形をとって現される。主はあらゆる環境を用いても、ひとりの人を本来の道に引き戻される。私たちも例外ではない。私たちを取り巻くあらゆる環境を用いて、主はご自身のみこころを私たちに現してくださる。 しかし、船に乗っている人は、それを知る由もない。乗組員たちは、それぞれの信じている神に祈ったり、船の積み荷を海に捨てて被害を小さくしようとしたりした。ところが、肝腎のヨナはと言えば……船底に降りていって、そこで横になって寝入っていた。まるで、これで死ねるなら死んでもいい、とでも思っているようである。 主の御顔が見えなくなった人は、自分のいのちも、人のいのちも、何とも思うことができなくなる。しかし、主はヨナと、船に乗る人たちを捨て置かれなかった。主は船長を用いられた。彼は船底に降りていき、そこで横になっているヨナを見つけ、何を寝ているのか、起きて、われわれが滅びなくて済むように、あなたの信じる神に祈れ、と命じた。 7節に入り、場面は急展開する。舟に乗る者たちは、このわざわいは船にいるだれかのせいで起こったものだと、霊的な感覚から感づいていたようである。そこで、みなでくじを引き、だれのせいでこうなったのかを知ろうと発案する。 くじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らは、ヨナの正体をあれこれ尋ねた。ヨナはその問いに、自分はヘブル人、つまりイスラエル人であり、海と陸をつくられた天の神、主を恐れる者であると明かした。 この答えに一同は恐れた。天地万物をお造りになった神を礼拝し、そのみこころを知る者が、なぜこのような海をも揺り動かす神のわざわいを引き起こしたのか! しかし、そうこうしているうちに、海はますます荒れてきた。このままではだれも助からない。一同はヨナに、あなたのことをどのようにすれば海が鎮まるか、と問いかけた。ヨナは、この嵐は自分のせいで起こったのだから、私を捕らえて、海に投げ込んでください、と答えた。 しかし、そんな人のいのちを粗末にするようなことは、いかに嵐に遭っていのちの危機に瀕している彼らにも、簡単にできることではなかった。彼らは努力して、船を陸に戻そうと、一生懸命船をこいだ。しかし、海はますます荒れる一方だった。 ついに彼らは、自分たちがこれまで信じてきた神々ではなく、天地万物の創造主に祈りをささげた。14節。 ヨナは、自分のことを海に投げ込んでほしいと言ったが、自分から海に飛び込んで人身御供のようになろうとしたわけではなかった。船乗りたちに自分のいのちをゆだねたのであった。しかし船乗りたちはここにきて、天地万物を統べ治められると同時に、人のいのちを主管しておられる神への、限りない恐れを抱いた。どうか、あなたを恐れるこの男を海に投げ込んだからと、その血の責任を私たちに問わないでください! そして彼らは、ついにヨナを海に投げ込んだ。すると……聖書の表現をそのまま用いると、「激しい怒りがやんで、海は凪になった」。 この荒海は、神の激しい怒りを具現するものであった。しかし、神の怒りは、ヨナのみならず、「それぞれの神」を礼拝する者たちに対しても向けられていたのではなかったか? だが神は、ヨナというひとりのしもべの犠牲を通して、この偶像礼拝者たちを、まことにご自身を恐れ、礼拝する者たちへと変えられた。16節。彼らは主を恐れ、主にいけにえをささげて礼拝している。 さて、マタイの福音書12章38節以下に、イエスさまがご自身をヨナになぞらえるエピソードが出てくる。パリサイ人や律法学者はイエスさまに、しるしを見せてほしいと迫ったが、イエスさまは、ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられないと語られ、それに続き、ご自身のことを、ヨナよりもまさったものである、すなわち窮極のヨナはイエスさまである、とお語りになった。 ヨナ書第1章を見てみると、ヨナがイエスさまの象徴であることが表れている。ヨナは、ご自身に反逆する人を滅ぼそうとする御父の怒りをなだめるために、荒海に投げ込まれた。 しかし、それで神の怒りは和らぎ、海は静かになった。イエスさまの十字架というなだめの供え物によって、御父の怒りが和らぎ、人が御父と和解する道が開かれたことと同じである。実際、ヨナを海に投げ込んだ彼らは、それぞれが信じていた神々に礼拝することをやめ、まことの神を礼拝する者たちへと変えられた。 しかし、ヨナはあくまでイエスさまのモデルにすぎない。イスラエルから罪深いニネベに遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたヨナは、たしかに、天の御国から罪深いこの世に遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたイエスさまの象徴であったが、イエスさまが御父に従順に歩まれたのに対し、ヨナの心は反抗心でいっぱいだった。 それでも、神さまはヨナのことを見捨てず、また、ヨナによって宣教され、悔い改めていのちを得るべきニネベのことを見捨てず、ヨナに取り扱いの御手を伸ばされることをやめられなかった。神の取り扱いは時に、とても厳しいものになるかもしれない。時にはこの時のヨナのように、周りの人に相当な迷惑をかけてしまうこともあるかもしれない。 しかし、信じていただきたい。神はこのような大いなる取り扱いを通してでも、ご自身の愛を私たちに知らせ、ご自身の使命に立ち帰らせてくださる。私たちは従順になる上で葛藤するでしょう。イエスさまでさえ、十字架を前にして血の汗を流して葛藤されました。いわんや私たちが、主のみこころに従順に従う上で葛藤せずにはいられようか? しかしそれでも、神は私たちのことを、みこころに従う祝福が得られるように、絶えず愛のうちに導いてくださる。 私たちには今、どのようなみこころが与えられているだろうか? 従順になれなくて葛藤していないだろうか? しかし信じよう。ヨナが信じ、私たちの信じているお方は、天地万物を創造された創造主であり、それとともに愛のお方であり、私たちが今考えているよりも、はるかに偉大なお方である。 私たちの偉大な信仰が私たちをりっぱな人にするのではない。私たちは相変わらずみっともなくても、神が私たちのことを限りなく愛して、私たちを通して働いてくださる。私たちは葛藤しながらでも、主のよきみこころを信じて、従っていこう。主が私たちを通して働いてくださるという、この信仰を持ち、今日も、そして明日からも、終わりの日までも、この国の救いのために、ともに用いられていこう。主はヨナを愛されたように、私たち働き人を愛してくださる。