「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」

聖書;マルコの福音書4:21~34/メッセージ題目;「みことばの解き明かしはなぜ必要なのか」 イエスさまがたとえで語られたのは、それが庶民の理解力に合っていたからである。しかし、それが庶民に理解できなかったのは、イエスさまに責任があることではない。わからなければお尋ねすればいいのである。それをお尋ねし、そのほんとうの意味するところを悟らせていただくならば、その人は「群れ」から「弟子」へと脱皮する。 ことはたとえだけではない。聖書というものは、その気になればだれにでも理解できるのだが、へりくだって聖霊さまの知恵を求めないかぎり、わからない仕掛けになっている。わからないのは、わかろうとしないからである。この点、私たちは「群れ」でいいと思ってはならない。みことばの意味を悟らせていただき、従わせていただく「弟子」になって、イエスさまにどこまでもついていく、祝福された人生を歩んでいただきたい。 いまこうして私はメッセージを語らせていただいているが、これは別名「みことばの解き明かし」という。私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ふさわしくみことばを理解し、その理解したことを生活のただ中で実践する。あるいはそのみことばをやさしいことばで人々に宣べ伝える。いずれにせよ、みことばを証しする生活をする。 その証しの生活、人々の前で神の栄光を顕す生活のために、みことばは理解されていなければならない。みことばはわからないままでいてはならない。 十二世紀の真言宗の僧侶、西行(さいぎょう)が伊勢神宮にて詠んだ歌、「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」この歌は、日本人の宗教観をよく表しているだろう。仏教者が神道のカミにそういう感情を抱く、いかにも日本的である。いや、日本人に限らず、もしかすると結構多くの人が、この歌の語るように、ありがたければそれでけっこう、と、信仰の対象を深く見極めないで終わらせてはいないだろうか? しかし、私たちを愛し、私たちと深い交わりを持つことを願っていらっしゃるイエスさまの前では、それはいけない。「ああ、このたとえは何やら面白いね、深いね、すばらしいね」と思っても、その意味をちゃんと悟ることがなかったならば、そのたとえを語ってくださったイエスさまに感謝したことにはならない。たとえにかぎらず、一見するとわかりにくいみことばをただ読んだだけで、わかったつもりになって、何やら霊的ステージが上がった、などと思うのは、自己満足にすぎない。だから私たちは、みことばの解き明かしをいただいて、ちゃんと理解する必要がある。 今日は、今日の箇所で語られた4つのたとえを3つのポイントにまとめて、たとえのような「難解な」みことばは、なぜ解き明かされなければならないのか、もっといえば全般的に、みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、学んでまいりたい。 ①みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、神の国の奥義が人々に伝えられるため みことばは秘密から始まっている。イエスさまが地上で生活しておられた公生涯において、やむをえず弟子たちの見ている前で神の子としてのみわざを行われたり、御姿をお見せになったりされたときも、それを言いふらしてはならないと厳しく戒められた。しかし、やがてイエスさまは十字架におかかりになり、復活され、天に昇られ、聖霊が降られて、人々はイエスさまが神の子であるとを証しする者と変えられた。 もはや秘密ではない。その光を人々の前に照らすべきである。しかし、その光を升の下に置いたら、その光はまるごと消えてしまう。寝台の下に置いたら、肝心の照らす人間は寝台の上で眠っているし、自分の部屋さえ照らせていない。だれのことをも照らす明るいところに掲げるから、光なのである。 とはいえ、その光が光としての役割をするためには、光の扱い方をよく知っておく必要がある。光とはろうそくにともす火であるが、火はまかり間違うと、大火事を起こす。いま世間を騒がせている韓国発祥の異端は、本来人々を照らして神さまへと向かわせるはずだった火の取り扱いを最大限に間違えた群れであり、その被害は大変なものである。 私たち人間は、子どものうちは火を扱わせない。火を扱うことができるのは、火についても、たとえば引火しやすいものや引火しにくいもの、風向きといった、その他あらゆる事象についてもよく理解を深めた、大人である。私たちもクリスチャンはみことばの光を掲げるために、光の性質をよく理解し、どうすれば最も効率的に光を掲げて明るくできるか、どうすれば火事にならないか、どうすれば人や自分をやけどさせないか、火の取り扱い方をよく知る必要がある。私たちが、光なるみことばをよく学ぶ必要があるのは、そのためである。 しかし私たちは、学ぶことで終わらせてはならない。学んで自己満足ではマニア、オタクである。パリサイ人はみことばをよく学んでいても、それを愛なく人をさばく道具としてしか用いなかった。悪い意味でのみことばオタクである。学んだら人を励ます、慰める、力づける、新たな働きに送り出す……みことばとはそのように用いるべきものである。私たちがみことばを学んで恵まれたら、その恵みを新たな人へと「流そう」。それが、明かりをふさわしく照らすことである。 ②みことばの解き明かしはなぜ必要なのか、それは、解き明かされてその価値がわかれば、私たちはますます、みことばを求めるようになるため 24節。これも一見すると難解なことをおっしゃっているが、宣教という文脈で読み解くと、イエスさまから聞くこと、すなわち私たちにとっては、みことばを読んで学ぶことをするならば、それを受け取る信仰の大きさに比例して、学んだだけ自分に与えられ、さらに学んだ以上のものが与えられる、ということである。 それは私たちも体験していることではないだろうか? 私たちはみことばを学ぶことで、その背後にある神の愛、神の慈しみを知り、神さまによりいっそう感謝するようになる。何が神さまの嫌っておられることかを知って、その価値観を持つことや行いをすることを避けるようになる。神さまの願っていらっしゃることを具体的に知り、生活のただ中で実践するようになる。こうしてますます、神さまとの強い結びつきを体験し、愛し愛される関係に入れられる。 しかし、そのような神さまとの愛の交わりに、そもそも関心を持たない人、そういう人は、学ばない人である。学ぶことに関心などない人である。学ばない人にとって福音は「猫に小判」である。小判の価値も使い方も知らない猫には、小判をやっても何の意味もないので、猫から取り上げて自分で使うしかない。 この「猫に小判」の西洋版のことわざは「豚に真珠」であると一般に言われているが、何を隠そう、このことわざはイエスさまがおっしゃったみことばである。ただ、「豚に真珠」は正確には「猫に小判」と意味が同じではない。価値ある福音を真珠の飾りを豚がひづめで引き裂くように粗末にし、福音を伝えた者に豚が突進するように攻撃を加え、傷つける。そういうことをする人は日本にも、世界にもごまんといる。そういう人への福音宣教のわざは今日も怠りなくなされているが、彼らが謙遜に主の御前にひざをかがめ、恭しくみことばを受け取らないかぎり、神の国が拡大しないのは主の摂理である。 私たちはみことばの恵みを取り上げられない者となるために、学ぶ者となりたい。みことばを語る人を愚かにもさばく者とならないために、学ぶ者となりたい。私たちは学ぶ者となることで、そのみことばの素晴らしさ、豊かさを具現する人となる。そうしてみことばを宣べ伝える人として用いられ、豊かに受けただけのみことばの恵みを、人々に分かち合うようになる。私たちは人々に証しする喜びのゆえに、もっとみことばを求める者となるだろう。 わからないみことばは人に伝えることなどできない。わからないみことばなど、どうやって実践できるだろうか? もっと学ばせてください! もっとわからせてください! 用いていただくために! それが私たちの祈りとなるようにしよう。 そして26節から29節、私たちはみことばを学んで成長するわけだが、成長そのものは、私たちの努力という要素だけで説明できるものではない。私たちはもちろん、人々が成長するためにみことばの種を蒔く必要がある。しかし、成長させてくださるのは神さまであり、伝道や宣教の種蒔きをした者、牧会のような霊的成長の手助けをして水やりをした者、どちらかがより偉いのでは決してない。もちろん、成長する者そのものが偉いわけでもない。 終わりの日は収穫の日である。その収穫に向けて、神さまは最後まで教会を成長させてくださる。私たちは神の畑であるが、神の同労者としての自覚も持ち、謙遜に成長するとともに、謙遜に奉仕させていただこう。神の民として成長するために、神の同労者として成長するために、日々みことばを学ぼう。 ③みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、そのみことばが国家単位、民族単位に至る、多くの人に共有されるため。 31節。からし種は野菜であるが、聖書箇所によってはこれを「木」とも表現する。鳥が巣をかけるような丈夫な枝を張り、3メートルにも5メートルにも大きくなる。この「からし種」の種の実物をご覧になったことのある方もおられるだろう。まるでほこりの粒のように小さい。これが大きく大きく成長するのである。 ここでイエスさまは、「空の鳥が巣をつくる」と語っていらっしゃる。このたとえは、単なる漠然とした象徴ではない。エゼキエル書31章6節をご覧いただきたい。ここでは「木」とは、当時の大国であるアッシリアのことを指し、アッシリアの庇護のもとに国々が集まることを「鳥が巣をつくる」という比喩で表現している。 始まりがガリラヤの片田舎だった福音宣教、神の国が、やがて世界中に広がり、世界の国々とその民がその神の国の陰に宿ることになるわけである。時代は下り、世界の様々な国々が、キリスト教国として建国された。それは、その国々が、大いなる神の国の陰にあることを高らかに宣言した、という意味である。 からし種は小さいがとても大きくなる。このたとえを聞いた者も十二弟子プラスアルファの少人数であった。しかしそこから始まった神の国の福音は、世界をおおった。国々が神の国のもとに身を寄せた。そして、いまわずかな群れである私たちからも、神の国が世界に広がるビジョンを思い描かないか? 神の国の旗印である「神の愛」は世界を変えた。人々を奴隷状態から解放し、疎外された人を神のかたちとしての人に回復させた。神の愛に動かされて人々はまことの安らぎを得られるように世界を変える努力をしている。その歩みはなお途上にあり、この「巣」を壊す企てはやまないが、それでも福音の宣べ伝えられるところ、国や民族の単位の変革がもたらされる。 そのように変革するには、みことばが人々にわからないままでいてはならなかった。医療を行うでもいい、福祉を行うでもいい、学校を建てるでもいい、人々を愛するためにキリストの犠牲に倣っていること、すなわち、その生き方において解き明かされているみことばが、人々に具体的に伝わっている必要があった。 私たちの信じる福音、宣べ伝える福音は、国と民族に及ぶもの。この点で私は韓国のクリスチャンから多くのことを学んだ。彼らは国と民族に世俗化が進もうとも、決してあきらめずに祈りつづけている。今度は私たちが日本のために祈る番である。私たちのすることは大それていなくてもよい。ともしびを掲げることが大事である。日本が神の国に身を寄せる国家と民になることを信じて、祈り、福音を宣べ伝えよう。 ●みことばの解き明かしはなぜ必要なのか。それは、私たちが解き明かされたみことばにしたがって生き、人々にイエスさまを証しする働きに用いていただくためである。 私たちは学んだみことばを、どのように実践することによって、この世界に変革をもたらす器として用いていただけるか、祈ってみてはいかがだろうか? 私たちの周りに、飛んでくる鳥が巣をかけるように憩いを得て、みことばによって力づけられ、みことばを携えて飛び立つ人が興されるように、祈ってみてはいかがだろうか? そのように、みことばの恵みを「流す」ために、みことばから何をどのように学ぶのか、今ここで具体的に決心をしよう。