「二重の慰め」

聖書箇所;ヨナ書4:1~11/メッセージ題目;「二重の慰め」 本日はヨナ書の最後の学び。ヨナ書を読むたびに私は、韓国教会に深くかかわってきた過去を持ち、韓国人宣教師と一緒に暮らしている者として、韓国の方が日本に福音を宣べ伝える姿と、ヨナの姿を二重写しにしてしまう。多くの場合、韓国人にとっての愛国心は、日本に対する複雑な感情と表裏一体のものである。それはクリスチャンであっても同じ。もちろん教会では、赦しなさい、ということが聖書から語られているから、みなさん、歴史的にひどいことをしてきた日本を赦そうと努力しておられる。しかし現実はとても難しい。 先週はヨナ書3章を学んだ。再び宣教の使命を与えられたヨナが、主のみことばをアッシリアの大都市ニネベに伝えて回ると、身分の高い者から低い者に至るまで悔い改め、その姿をご覧になった神さまが、わざわいをニネベに下すことを思い直された、という内容。 ヨナは宣教のわざに用いられた。主のご栄光を豊かに顕した。では、それでよかった、めでたし、めでたし、となったのだろうか? 4章は冒頭から、実に衝撃的なことが書かれている。まずは1節。ヨナは怒った。自分の語った預言のとおりにならなかったからである。なんと、大魚の腹の中で心底悔い改め、再び用いていただくべく整えられたヨナが、ここにきて、自分が宣教に用いられたゆえにニネベが悔い改め、神さまがわざわいを下されないことに、激しい怒りを燃やしたのである。 ヨナは主に何と申し上げたか? 2節。タルシシュへのがれようとしたのは、神さまのみこころに自分は絶対に従いたくなかったからだ。しかし神さまの強い導きで、結局は従った。その結果が、この惨めな思いだった。ヨナはまるで、タルシシュ行きの船が難破から守られたこと、荒海に投げ込まれても溺れ死ななかったこと、そこから救われて、大魚の腹の中で神さまとの愛の交わりを回復したことなど、すっかり忘れてしまっているようである。 それにしても、ヨナはいったい何を言っているのか。「あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。」これは、詩篇86篇15節など、聖書のいたるところに登場する神への賛美だが、ヨナもまた、神の働き人として、主の情け深さ、あわれみ深さ、怒るのに遅いこと、豊かな恵みをつねに主から受けていたし、大魚の腹の中では特に、その主の素晴らしさを味わっていた。 こんな反逆する自分に何という情けをかけてくださり、あわれみを与えてくださるのだろうか! このような自分のことをその御怒りによっておさばきにならないで生かしてくださり、豊かに恵んでくださっているのか! 神さまのこのご性質を心底味わっていた。この詩篇の告白はすなわち、ヨナの告白になっていた。それがいまや、同じことばのはずなのに、賛美は一転して、「そういうお方だからこそ」大嫌いだと言わんばかりに、主を貶めることばになってしまっている。なんだか妙なことになってしまっている。 主との愛の交わりができているならば、主の備えておられるあらゆるご性質、たとえば創造主であられるとか、愛なるお方とか、義なるお方とか、全知、全能、唯一、きよいお方……こういったことはことごとく、そのまま賛美のことばになりうる。だが、神さまとの愛の交わりがなかったら、そのご性質はそのまま、その人にとっては、主を貶めることばになってしまう。きよい、というご性質だったら、そんなきよいお方にはこんなけがれた自分のことなど理解できまい、となる。唯一、というご性質だったら、ほかの神々を認めない一神教は怖い、独善的だ、などと誹謗する。全能、というご性質は、人間には限界を設けておいてずるい、となる。 神さまのご性質は人間にとっては、そっくりそのまま、賛美にもなれば、貶めることばにもなる。ヨナは、神さまのご性質を、神さまを責めることばとして用いた。愛なるお方だから素晴らしい、ではない。愛なるお方だから憎らしい、である。今やヨナにとって神さまとの愛の交わりは、危機的な水準にあった。 その危機的な状況は、3節のみことばに表れている。ニネベの市民にいのちをもたらしたばかりのヨナが、今度は自分が死ぬことを願っている。しかし、死にたいと願うなどとは、ヨナのたましいが極めて病んでいたことがわかる。ニネベの人たちを滅ぼさないのがあなたさまのみこころなら、いっそ私を滅ぼしてほしい、とさえ言っているようである。 しかし、主はこのヨナの嘆きを聞き逃すことはなさらなかった。4節。人は怒っているとき、自分はまったく間違っておらず、間違っているのは周りのほうだと思うものである。ここでヨナはなんと、神さまを相手に、正しいのは自分で、間違っているのは神さまのほうだと、怒りを発しているわけである。しかし、神さまを相手にしたこの怒りは、果たして正当なものだろうか? 神さまはすぐには答えを与えず、ヨナのなすがままにさせた。5節。ヨナは、みことばを宣べ伝える預言者である。このニネベに遣わされたならば、その悔い改めが徹底したものとなるべく、ニネベの市民に神さまのみことばを徹底して教えることをすべきだった。少なくとも、神さまが別の町に行ってみことばを語れとおっしゃらない限り、彼はニネベにとどまるべきであった。しかし、ヨナはそれをせず、町の外に出ていった。またもやヨナは使命を放棄したのである。 その代わりにしたことは、わざわざ仮小屋まで作ってその中にすわり、このニネベの町がどうなるかを見物することであった。神さまはニネベにわざわいを下すことを思い直されたということだが、それでもその前にはたしかに自分に、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」というみことばを託されたのだから、神さまはそのみことばをたがえずに成し遂げられるかもしれない、つまり、ニネベを滅ぼしてくださるかもしれない、と、一縷の望みをかけたのだろう。 一見するとこの態度は、神さまのご主権、また正義に拠り頼んでいる態度といえなくもない。しかし、そこには神さまの愛という視点が決定的に欠けていた。また、このヨナの態度は、宣教の働きに召された神さまのみこころに対する不従順だけではなく、ニネベを滅ぼされないという神さまのみこころに対する不信仰でもあった。 そんなヨナだったが、神さまはヨナに介入された。6節。ヨナは、灼けるような暑さの中、依怙地になってニネベを見つめていた。そんなヨナに、神さまはその頭をおおって陰を作ってくれる、とうごまのつる草を生えさせてくださいました。すると、ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ、とあります。灼けつく暑さから守って涼しくしてくれるこの草があっという間に生えてきた。 ヨナはこれを体験して、自然を支配される神さまは自分のためにみわざを行なっておられる、やっぱり神さまは自分の味方だ、と思ったことだろう。もしかすると、こうして唐胡麻を生やして暑さから守ってくださっている以上、ニネベの滅亡を期待して自分が町を見守っているこの行為は間違っていないと、神さまが教えてくださったのだ、とか、ヨナは勘違いして喜んだのかもしれない。 しかし、神さまはこの唐胡麻からもヨナに大事なことを教えられた。7節。唐胡麻が不思議なようにしてたちまち生えたのは、それが神さまによるものであるとヨナが知るためだった。しかし、同じようにして、たった1匹の虫によって、唐胡麻は枯れた。神さまはこのことをとおしても、それがご自身のみわざであることを知らされた。 朝になってどうなったか? 8節。神さまは唐胡麻、1匹の虫に続き、照りつける太陽と灼けつくような東風を備えられた。その結果ヨナはどうなったか? 暑さにやられて身も心も衰え果て、死にたくなったのだった。なんだ、唐胡麻を備えて涼しくしてくださった神さまは、結局は自分のことを見放しておられるじゃないか……。 しかしヨナは、暑くて死にそうになっているのに、主の御名を呼び求めて「主よ! 助けてください!」と叫ぶことをしてはいない。かえって、自分のいのちがなくなることを望んでいる。いのちなる神の愛を、これっぽっちも実感していない模様であった。 しかし、主はそのようなヨナに話しかけられた。9節。神さまは、4節でおっしゃったみことばをそのまま再びヨナに語られた。4節では、神さまがニネベを滅ぼされなかったことを怒るのか、と、ヨナを責められるが、この9節では、神さまが唐胡麻を枯らされたことを怒るのか、と、ヨナを責められる。ヨナは、唐胡麻を枯らされたことに死ぬほど怒っているのは当然です、と、神さまにお応えした。 ヨナは、たかが草1本が枯れたことに、なぜそんなに怒っているのだろうか? ヨナは神の民であり、神のみことばを託された働き人であることに、強いプライドを持っていた。神の愛は自分のような者にこそ注がれるべき、と考えていたとしても不思議はない。 その意識は、タルシシュ行きの船が難船して、海に放り込まれ、大魚に呑みこまれたとき、その腹の中で神さまに立ち帰ることにおいてはとても益になった。しかしその一方で、憎っくきニネベ市民が滅ぼされなかったことに、強い怒りを感じたのであった。また、神の働き人である自分のことを、唐胡麻は守ってくれるかと思いきや、結局は守ってくれなかったことにも怒った。ニネベのおびただしい数の市民よりも、自分のことのほうがよほど大事、それが今のヨナだった。 そんなヨナのことを神さまは諭された。10節と11節。自分で種蒔きも育てもせず、たった一夜で生え、たった一夜で滅びる唐胡麻さえ、あなたは惜しんでいるではないか。だがわたしはこのニネベのおびただしい民を創造し、今に至るまで愛をもって育ててきた。だが彼らは、わたしの愛をわきまえ知らなかったばかりに、滅びようとしていた。それを悔い改めに導き、滅ぼさないことの何が悪いのか? ヨナよ、すべての創られしものに向けられた、わたしの愛を知ってほしい。あのはかない草をさえ惜しんだヨナよ、あなたにならそれがわかるはずだ……。 思えば、神さまの怒りに触れるべきニネベは、滅ぼされて当然の存在であった。その民は悔い改め、神さまからのいのちを得るに至った。このことに本来ヨナは慰めを得るべきであったが、それでもその慰めに気づかないヨナに、神さまはこれでもか、これでもか、と、あらゆる環境をとおして慰めを与えられた。 私たちも普段の生活で疲れよう。ほんとうは私たちが生きていることで、どれほど多くの人が主にある私たちの生き方を見て、触れることで、主に出会っていることだろうか。しかし、私たちはそのような主のお導きを、時に見失ってしまう。そんな私たちは、主に用いられていること、そしてそんな私のことを主が顧みてくださっていることに、二重の慰めを見出すべきではないだろうか? 私たちは今、神さまに恨み言を言いたくなっていないか? それでいい。取り澄ました態度で神さまの前に出ても始まらない。ここで私たちは、傷ついた心のままで、神さまの御前に出ていこう。いやしをいただこう。そして、それでも用いてくださる神さまの御声を聴くことを、御手に触れていただくことを、いま体験しよう。