「二重の慰め」

聖書箇所;ヨナ書4:1~11/メッセージ題目;「二重の慰め」 本日はヨナ書の最後の学び。ヨナ書を読むたびに私は、韓国教会に深くかかわってきた過去を持ち、韓国人宣教師と一緒に暮らしている者として、韓国の方が日本に福音を宣べ伝える姿と、ヨナの姿を二重写しにしてしまう。多くの場合、韓国人にとっての愛国心は、日本に対する複雑な感情と表裏一体のものである。それはクリスチャンであっても同じ。もちろん教会では、赦しなさい、ということが聖書から語られているから、みなさん、歴史的にひどいことをしてきた日本を赦そうと努力しておられる。しかし現実はとても難しい。 先週はヨナ書3章を学んだ。再び宣教の使命を与えられたヨナが、主のみことばをアッシリアの大都市ニネベに伝えて回ると、身分の高い者から低い者に至るまで悔い改め、その姿をご覧になった神さまが、わざわいをニネベに下すことを思い直された、という内容。 ヨナは宣教のわざに用いられた。主のご栄光を豊かに顕した。では、それでよかった、めでたし、めでたし、となったのだろうか? 4章は冒頭から、実に衝撃的なことが書かれている。まずは1節。ヨナは怒った。自分の語った預言のとおりにならなかったからである。なんと、大魚の腹の中で心底悔い改め、再び用いていただくべく整えられたヨナが、ここにきて、自分が宣教に用いられたゆえにニネベが悔い改め、神さまがわざわいを下されないことに、激しい怒りを燃やしたのである。 ヨナは主に何と申し上げたか? 2節。タルシシュへのがれようとしたのは、神さまのみこころに自分は絶対に従いたくなかったからだ。しかし神さまの強い導きで、結局は従った。その結果が、この惨めな思いだった。ヨナはまるで、タルシシュ行きの船が難破から守られたこと、荒海に投げ込まれても溺れ死ななかったこと、そこから救われて、大魚の腹の中で神さまとの愛の交わりを回復したことなど、すっかり忘れてしまっているようである。 それにしても、ヨナはいったい何を言っているのか。「あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。」これは、詩篇86篇15節など、聖書のいたるところに登場する神への賛美だが、ヨナもまた、神の働き人として、主の情け深さ、あわれみ深さ、怒るのに遅いこと、豊かな恵みをつねに主から受けていたし、大魚の腹の中では特に、その主の素晴らしさを味わっていた。 こんな反逆する自分に何という情けをかけてくださり、あわれみを与えてくださるのだろうか! このような自分のことをその御怒りによっておさばきにならないで生かしてくださり、豊かに恵んでくださっているのか! 神さまのこのご性質を心底味わっていた。この詩篇の告白はすなわち、ヨナの告白になっていた。それがいまや、同じことばのはずなのに、賛美は一転して、「そういうお方だからこそ」大嫌いだと言わんばかりに、主を貶めることばになってしまっている。なんだか妙なことになってしまっている。 主との愛の交わりができているならば、主の備えておられるあらゆるご性質、たとえば創造主であられるとか、愛なるお方とか、義なるお方とか、全知、全能、唯一、きよいお方……こういったことはことごとく、そのまま賛美のことばになりうる。だが、神さまとの愛の交わりがなかったら、そのご性質はそのまま、その人にとっては、主を貶めることばになってしまう。きよい、というご性質だったら、そんなきよいお方にはこんなけがれた自分のことなど理解できまい、となる。唯一、というご性質だったら、ほかの神々を認めない一神教は怖い、独善的だ、などと誹謗する。全能、というご性質は、人間には限界を設けておいてずるい、となる。 神さまのご性質は人間にとっては、そっくりそのまま、賛美にもなれば、貶めることばにもなる。ヨナは、神さまのご性質を、神さまを責めることばとして用いた。愛なるお方だから素晴らしい、ではない。愛なるお方だから憎らしい、である。今やヨナにとって神さまとの愛の交わりは、危機的な水準にあった。 その危機的な状況は、3節のみことばに表れている。ニネベの市民にいのちをもたらしたばかりのヨナが、今度は自分が死ぬことを願っている。しかし、死にたいと願うなどとは、ヨナのたましいが極めて病んでいたことがわかる。ニネベの人たちを滅ぼさないのがあなたさまのみこころなら、いっそ私を滅ぼしてほしい、とさえ言っているようである。 しかし、主はこのヨナの嘆きを聞き逃すことはなさらなかった。4節。人は怒っているとき、自分はまったく間違っておらず、間違っているのは周りのほうだと思うものである。ここでヨナはなんと、神さまを相手に、正しいのは自分で、間違っているのは神さまのほうだと、怒りを発しているわけである。しかし、神さまを相手にしたこの怒りは、果たして正当なものだろうか? 神さまはすぐには答えを与えず、ヨナのなすがままにさせた。5節。ヨナは、みことばを宣べ伝える預言者である。このニネベに遣わされたならば、その悔い改めが徹底したものとなるべく、ニネベの市民に神さまのみことばを徹底して教えることをすべきだった。少なくとも、神さまが別の町に行ってみことばを語れとおっしゃらない限り、彼はニネベにとどまるべきであった。しかし、ヨナはそれをせず、町の外に出ていった。またもやヨナは使命を放棄したのである。 その代わりにしたことは、わざわざ仮小屋まで作ってその中にすわり、このニネベの町がどうなるかを見物することであった。神さまはニネベにわざわいを下すことを思い直されたということだが、それでもその前にはたしかに自分に、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」というみことばを託されたのだから、神さまはそのみことばをたがえずに成し遂げられるかもしれない、つまり、ニネベを滅ぼしてくださるかもしれない、と、一縷の望みをかけたのだろう。 一見するとこの態度は、神さまのご主権、また正義に拠り頼んでいる態度といえなくもない。しかし、そこには神さまの愛という視点が決定的に欠けていた。また、このヨナの態度は、宣教の働きに召された神さまのみこころに対する不従順だけではなく、ニネベを滅ぼされないという神さまのみこころに対する不信仰でもあった。 そんなヨナだったが、神さまはヨナに介入された。6節。ヨナは、灼けるような暑さの中、依怙地になってニネベを見つめていた。そんなヨナに、神さまはその頭をおおって陰を作ってくれる、とうごまのつる草を生えさせてくださいました。すると、ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ、とあります。灼けつく暑さから守って涼しくしてくれるこの草があっという間に生えてきた。 ヨナはこれを体験して、自然を支配される神さまは自分のためにみわざを行なっておられる、やっぱり神さまは自分の味方だ、と思ったことだろう。もしかすると、こうして唐胡麻を生やして暑さから守ってくださっている以上、ニネベの滅亡を期待して自分が町を見守っているこの行為は間違っていないと、神さまが教えてくださったのだ、とか、ヨナは勘違いして喜んだのかもしれない。 しかし、神さまはこの唐胡麻からもヨナに大事なことを教えられた。7節。唐胡麻が不思議なようにしてたちまち生えたのは、それが神さまによるものであるとヨナが知るためだった。しかし、同じようにして、たった1匹の虫によって、唐胡麻は枯れた。神さまはこのことをとおしても、それがご自身のみわざであることを知らされた。 朝になってどうなったか? 8節。神さまは唐胡麻、1匹の虫に続き、照りつける太陽と灼けつくような東風を備えられた。その結果ヨナはどうなったか? 暑さにやられて身も心も衰え果て、死にたくなったのだった。なんだ、唐胡麻を備えて涼しくしてくださった神さまは、結局は自分のことを見放しておられるじゃないか……。 しかしヨナは、暑くて死にそうになっているのに、主の御名を呼び求めて「主よ! 助けてください!」と叫ぶことをしてはいない。かえって、自分のいのちがなくなることを望んでいる。いのちなる神の愛を、これっぽっちも実感していない模様であった。 しかし、主はそのようなヨナに話しかけられた。9節。神さまは、4節でおっしゃったみことばをそのまま再びヨナに語られた。4節では、神さまがニネベを滅ぼされなかったことを怒るのか、と、ヨナを責められるが、この9節では、神さまが唐胡麻を枯らされたことを怒るのか、と、ヨナを責められる。ヨナは、唐胡麻を枯らされたことに死ぬほど怒っているのは当然です、と、神さまにお応えした。 ヨナは、たかが草1本が枯れたことに、なぜそんなに怒っているのだろうか? ヨナは神の民であり、神のみことばを託された働き人であることに、強いプライドを持っていた。神の愛は自分のような者にこそ注がれるべき、と考えていたとしても不思議はない。 その意識は、タルシシュ行きの船が難船して、海に放り込まれ、大魚に呑みこまれたとき、その腹の中で神さまに立ち帰ることにおいてはとても益になった。しかしその一方で、憎っくきニネベ市民が滅ぼされなかったことに、強い怒りを感じたのであった。また、神の働き人である自分のことを、唐胡麻は守ってくれるかと思いきや、結局は守ってくれなかったことにも怒った。ニネベのおびただしい数の市民よりも、自分のことのほうがよほど大事、それが今のヨナだった。 そんなヨナのことを神さまは諭された。10節と11節。自分で種蒔きも育てもせず、たった一夜で生え、たった一夜で滅びる唐胡麻さえ、あなたは惜しんでいるではないか。だがわたしはこのニネベのおびただしい民を創造し、今に至るまで愛をもって育ててきた。だが彼らは、わたしの愛をわきまえ知らなかったばかりに、滅びようとしていた。それを悔い改めに導き、滅ぼさないことの何が悪いのか? ヨナよ、すべての創られしものに向けられた、わたしの愛を知ってほしい。あのはかない草をさえ惜しんだヨナよ、あなたにならそれがわかるはずだ……。 思えば、神さまの怒りに触れるべきニネベは、滅ぼされて当然の存在であった。その民は悔い改め、神さまからのいのちを得るに至った。このことに本来ヨナは慰めを得るべきであったが、それでもその慰めに気づかないヨナに、神さまはこれでもか、これでもか、と、あらゆる環境をとおして慰めを与えられた。 私たちも普段の生活で疲れよう。ほんとうは私たちが生きていることで、どれほど多くの人が主にある私たちの生き方を見て、触れることで、主に出会っていることだろうか。しかし、私たちはそのような主のお導きを、時に見失ってしまう。そんな私たちは、主に用いられていること、そしてそんな私のことを主が顧みてくださっていることに、二重の慰めを見出すべきではないだろうか? 私たちは今、神さまに恨み言を言いたくなっていないか? それでいい。取り澄ました態度で神さまの前に出ても始まらない。ここで私たちは、傷ついた心のままで、神さまの御前に出ていこう。いやしをいただこう。そして、それでも用いてくださる神さまの御声を聴くことを、御手に触れていただくことを、いま体験しよう。

「愛されているゆえに愛を伝える」

聖書箇所;ヨナ書3:1~10/メッセージ題目;「愛されているゆえに愛を伝える」 今日の箇所は、悔い改めの末に再び宣教の使命に立ち帰らされたヨナが、実際にニネベに行って宣教する場面である。ヨナの宣教を通して、ニネベの町は老若男女が悔い改めに導かれ、それをご覧になった神さまが、わざわいを下すことを思い直されたというのだから、ヨナの宣教の結んだ実は相当なものだった。 1節と2節。ヨナは、主のみことばに反した行動を取って、大きな懲らしめを受け、ようやくのところでいのちが助かった。主は、このようにみことばに反する行動を取る者であっても、一度主が召された人であるならば、主はそのみこころをその人を通して成就されるまで、何度もその人を立たせられる。 主がニネベに宣教のわざを成され、その町を悔い改めさせる――この働きにふさわしいと主が見込まれ、用いられる働き人は、ヨナをおいてほかにいなかった。たとえヨナが、イスラエルという国家と民族を大切に思うあまり、イスラエルに敵対するアッシリアに対して激しい憎悪を抱いているような人物であったとしてもである。みこころに反する行動を取って、嵐に巻き込ませてタルシシュ行きの客船の乗客や船乗りに大きな迷惑をかけ、挙句の果てには海に放り込まれた、そんな人物であったとしてもである。 いま、自分は大した状態ではないから、主はきっと自分のことを用いてくださらないだろう……そんなことを思ってはいけない。主に救われている……主を愛している……それこそが、主に用いていただける条件である。復活のイエスさまがペテロを再び宣教と牧会の働きに召されたとき、イエスさまは多くのことはおっしゃらなかった。ただ、「あなたはわたしを愛するか」と、三度にわたって問いかけられたのみであった。三度にわたってイエスさまのことを知らないと言ってしまったペテロは、「私はあなたを愛します」とはさすがに言えなかったが、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。イエスさまを愛しているという事実を、イエスさまのみこころという変わらない基準にゆだねたのであった。 私たちもそうではないだろうか?「私はイエスさまを愛します」と正面切って言えないような、主に対するうしろめたさを私たちはもしかしたら抱えているかもしれない。しかし、私たちが主を愛しているかどうかを決めるのは、私たちの移ろいやすい感情ではない。主ご自身が、私たちは主を愛していると決めていてくださる。 だから私たちは、自分の不確かな心の声に惑わされてはならない。私たちは堂々と、主を証ししていい。主に用いていただいていい。たとえ自分が不完全に思えてならなくてもである。なぜならば、私たちは主を愛しているからであり、私たちが主を愛していることを、ほかならぬ、主が認めてくださっているからである。 3節。ヨナは大魚の腹の中で、自分に向けられた主の愛に立ち帰った。そしてその主の愛に、愛をもってお応えしようと決意した。ヨナが地中海のどの海岸に打ち上げられたかは、聖書は記していないが、そこから内陸の町のニネベに向かうだけでも長旅である。しかもその先にあるニネベの町は、行き巡るのに3日かかるとても大きな町である。このような町に向かい、実際にその町で宣教するには、どれほど主への愛と宣教に対する情熱に燃やされていなければならなかったことだろうか。 ヨナはどのようにして宣教を開始しただろうか。4節。このときのヨナの状況を、少し想像力をたくましくして考えてみよう。折しもアッシリアは、当時の中東で最大の勢力を誇る国家だった。それに比べるとイスラエルは、アラムから領土の一部を取り返したとはいえ、アッシリアとは比べるべくもない弱小国家だった。そのような国からやってきた預言者が、なにやら叫んでいる。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」普通に考えるならば、強大国を代表する都市の市民に向かってこんなことを言う弱小国の預言者などは、その場で殺されて当然である。ヨナも、そのようなリスクの中、伝えて回った。 ヨナにはなぜそれができたのだろうか? 信仰のゆえである。天地万物をお造りになり、お治めになる神さま、荒海から救い出してくださった神さまが、ここに遣わしてくださり、用いてくださるのならば、自分のすることは従順に従うことだけだ……ヨナはあれこれ考えず、ただひたすらに、ニネベの町に宣告を下すことに専念したのだった。 するとどうなったか? 5節。なんと、唯一の神さまなど信じないはずのニネベ市民がこぞって、神さまを信じたのである。そして、悔い改めを表明し、主がさばきを思い直してくださることを切に求め、神さまに懇願するしるしとして、荒布をまとった。 そればかりではない。6節。悔い改めは、ニネベを統べ治める王さまにまで及んだ。彼は王座から立ち上がり、王服を脱いだ。つまり、王として君臨することをやめたのである。そして、荒布をまとい、灰の中にすわった。王でもなんでもない、神さまの御前にあるひとりの罪人として、神さまの御前に出て行った。ただし、王はそれをあくまで王の立場として行なったのであるから、王のこの悔い改めの行動は、アッシリアという国を代表してのものであった。 そればかりではない。王は悔い改めを、ニネベの町に徹底させた。7節から9節です。二十世紀以来、今もなお存続している共産主義国家がそうであるように、神さまを無視する者たちは、血で血を洗うような悪に陥る。このニネベも、神さまを認めない者たちが、きわめて残虐なことを行なっていたため、その悪が主の御前に立ちのぼり、ついには神さまがニネベを滅ぼさなければならないほどになっていた。まるで、ノアの時代に大洪水で滅ぼされた人々、アブラハムの時代に天からの火と硫黄で滅ぼされたソドムとゴモラの人々のようである。 しかしここに来て、ニネベの人たちは、神さまがあわれんでくださり、この町を滅ぼさないように思い直してくださるよう、一生懸命に努力した。徹底した断食を呼びかけ、荒布をまとって悔い改めることを呼びかけた。 注目したいのは、獣や、牛や羊などの家畜までが食べたり飲んだりすることを許されないばかりか、荒布をまとわされた、ということである。悔い改めの表現として、断食したり、荒布をまとったりということはもちろんすべきことであるが、獣や家畜、つまり動物までに悔い改めをさせようということは、イスラエルの民ならば、おそらくやらない悔い改めの方法である。なぜならば、動物は人間とちがってそのうちに霊がなく、神のかたちに創造されてはいないものであり、したがって神に対し悔い改めの祈りをささげることなど、そもそもできないからである。それでもニネベの人々がこのような行動を神さまの御前で取ったのは、ちょうど、嵐に巻き込まれた客船に乗った人たちがそれぞれの神々に祈り、ついにまことの神さまに行き着いたようなものである。 神さまは、このような祈りをささげるニネベの民をどうしただろうか? 10節。ついに神さまは、ヨナに託された宣教のわざをかなえてくださった。神さまは、ニネベの人たちが悪の道から立ち返ろうとする、その「努力」をご覧になって、わざわいを下すことを思い直されたのだった。神さまは、ご自身に立ち帰ろうとする者たちのことを、決してお見捨てにならないお方である。 ただ、この記述を表面的にしか読まないと、まるでニネベの人々は努力したことによって救いを勝ち得たように思えてしまうことだろう。果たしてそうなのだろうか? まず、この悔い改めのわざは、ヨナという預言者がニネベに行かなければ、そもそも始まらないことだった。だがヨナは、イスラエルを思うあまり敵国アッシリアになど宣教に行きたくなくて、わざわざまったく違う方向の地の果てにまで行こうとした人である。そういう人を召され、用いられたのは主である。 そして、ヨナは当然のように敵国の大都市ニネベで宣教したわけではない。そこには殺されるかもしれないというリスクがついて回っていた。だが、ヨナは殺されなかった。そればかりか、この町の人々は神さまを認め、神さまからのさばきの宣告をほんとうのことと受け止めて心から恐れ、徹底した悔い改めを実践した。 このプロセスは、主がご介入されたのでなければ、絶対に起こりうることではなかった。主がニネベを滅びから救われたのは、究極的に言えば、ヨナがニネベの市民に神さまを信じさせたからでも、ニネベの市民が悔い改めの努力をしたからでもない。主がそのように定められ、そのように導かれたからである。ヨナは、そのみわざのために用いられた器でしかなかった。 このことからわかるのは、たとえ悪に満ちていた人々であったとしても、主は限りなく、彼らのことを愛しておられる、ということである。そして、その愛を伝えるご自身の器のことも、特別に愛しておられる、ということである。ヨナの伝道が成功したのは、このニネベのことを愛によって救おうとされる主のご主権に、ヨナがどこまでも従順に従ったことにあった。 あとでご自宅でヨナ書2章のみことばを読み返していただきたい。そのときヨナは、真っ暗な大魚の腹の中にいたが、ニネベを悔い改めに導くべく用いられたヨナは、まず、自分が徹底して悔い改める恵みにあずかった。そこで彼は、タルシシュ行きの船の船底で眠り込んでいたときには決して見ることのできなかった、主の御顔を仰ぎ見ていた。真っ暗な中で神さまを見失っていた彼は、真っ暗な中で神さまの光に照らされる恵みにあずかった。この神さまの光を、彼は罪により暗く閉ざされていたニネベの町に照らしたのであった。 しかし、ヨナの伝道が成功したのは、ニネベが悔い改めに導かれたこと以上に、あのかたくなだったヨナが従順に主に従ったことにあった。神の民だという理由で持っていた変なプライドのゆえに不従順の罪を犯しつづけることなく、ニネベ宣教という主のご命令に従順に従ったということ、これがヨナの宣教における最大の成功である。 学生時代、私はキャンパス・クルセードという宣教団体にいたが、そこでつねに教えられていたことばがある。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神にお委ねすることである。」私たちはつい、救われること、つまり、伝道の対象者が信仰告白に導かれることが「伝道における成功」と考えてはいないだろうか? それはある便槽かもしれないが、救う、救わないということ、言い換えれば、人が信仰告白をする、しないということは、神さまのご主権の領域である。だから、そういう意味では、私はだれだれさんを救いに導いた、という表現は、よく考えればおかしい、ということになる。その人が救われようと救われまいと、私たちのすることは、聖霊の力によってキリストを伝え、その結果を神さまにお委ねすることである。 ヨナは、神の霊、聖霊に導かれるままに神のことばを語った。その結果、聖霊はニネベの人に、救われようという強い思いをくださった。そして神さまは本来のみこころどおり、ニネベの民を死のさばきから救われた。 このような、神さまのみことばを伝える働きを担う者たちのことを、神さまは特別に愛してくださる。そして愛されるゆえ、愛しておられる民のもとに遣わしてくださる。私たちもまた、主が愛しておられる茨城県の人たちのもとに遣わされた、神さまの特別な愛を受けた者たちである。 最後に、ローマ人への手紙10章8節から15節までを読もう。これは私たちのことである。私たちはよい知らせを宣べ伝える麗しい足である。私たちがどんなに愛されているか、いま確かめよう。そして、この愛を私たちはだれに伝えたいか、今週、その人に対して、私たちはどんなアクションを起こすように導かれているか、祈ってお尋ねしてみよう。 <祈ってみよう> ・主よ、私の身代わりにひとり子イエスさまを十字架につけてくださったほどの大きな愛によって愛されている、その愛を心から思い、感謝するものとならせてください。 ・主よ、これほどまでに私のことを愛してくださっているその愛を、私はだれに語るべきでしょうか、教えてください。 ・主よ、その人のために、私は今週何をすべきでしょうか、教えてください。

「ヨナの悔い改め」

聖書箇所;ヨナ書2:1~10/メッセージ題目;「ヨナの悔い改め」  先週はヨナ書1章を学んだ。海を荒れさせた神の怒りを鎮めるため、ヨナは海に投げ込まれた。そのヨナのために神が大きな魚を備え、その魚にヨナを呑みこませた、というところで、ヨナ書1章は終わっている。本日お読みしたヨナ書2章のみことばは、そのほとんどが、大魚の腹の中でヨナが神におささげした告白に費やされている。1節ずつ見ていこう。  1節。ヨナは大魚の腹の中に導かれた。ひとすじの光も届かなくて真っ暗、消化中の大量の魚介類に埋もれてぬめぬめして生臭い場所、胃壁から分泌される胃酸に触れたら肌もただれる。不快極まる場所だが、それまで大海原のただ中にいて溺れ死にしかかっていたことを思えば、比べ物にならないほど安全な場所なのはたしかである。   少なくともここなら、いのちが脅かされることはない。なによりも、じっくりお祈りすることができる。ヨナは、環境がどうであろうと、神に祈りをささげることのできる恵みをしっかり噛みしめたのではないだろうか。  2節のみことば。私のことを海に投げ込んでください、と船乗りたちに言ったヨナだったが、実際にそういうことになってみて、いのちが脅かされるとはどういうことか、初めて思い知ったのだった。  しかし、私たちは祈りに応えていただける。人は時に、とんでもなくいのちが脅かされるような瞬間に出会うものだが、もともと全能なる神さまとの関係を持つ者はその危機をきっかけに神に立ち帰るという、大きな恵みを体験する。これは神さまが私たちに対して下される、わたしに立ち帰れ、という懲らしめ、俗っぽい言い方をすれば、愛のむちである。ヨナは苦しみの果てに、祈りが聞かれたことを知った。祈りが聞かれている確信。これは、私たち神の子どもたちに与えられている特別な恵みである。  3節。この告白によれば、あなた、つまり、神ご自身が私ヨナを海に投げ込まれたのだと告白している。そうだとすると、ヨナが船乗りたちに向かって、自分のことを荒海に投げ込んでほしいと言ったのは、やけを起こしてではなかったのである。ヨナは、神のみことばをゆだねられた預言者であったが、その彼が、神のみこころは自分を海に投げ込まれることだと受け取り、神に対してせいいっぱいの従順を実践したのであった。ヨナを海に投げ込まれたのは、人ではなく、神ご自身だった。これは神によるヨナに対する愛のお取り扱いだった。 ただ、そのお取り扱いは、とてもきびしいものだった。潮の流れにもまれ、大波小波が頭の上を越えたということは、息もすることもできないような海水の中にいたということであり、苦しいなんていうものではなかった。しかしここでヨナは「あなたの波、あなたの大波」と告白している。このきびしい波、波に次ぐ波は、ほかならぬ神から与えられた愛のお取り扱いであったことを、ヨナは心から認めて告白している。  4節。ヨナは、私は御目の前から追われました、と告白している。神さまがヨナを目の前から追い出された、ということである。 しかし、もともと主から逃げたのはヨナのほうである。主はヨナをお用いになろうと、ニネベに行って宣教せよとのご命令をくださった。それから逃げてまったく違うほうに行ったのはヨナのほうである。それを、主がその目の前から追われた、と告白するのはどういうことだろうか? それは、ヨナ、逃げようと思うならばやってみなさい、と、主があえてヨナを逃がされた、ということである。 その結果、ヨナはどんどん主の使命から遠ざかり、挙句の果てはいのちさえ危機に瀕した。だが、ここでヨナは気づかされた。自分の求めていたことは主の御顔を避けることではない、むしろその反対に、主の聖なる宮を仰ぎ見ること、つまり、主の臨在の前に進み出て、主を仰ぎ見ることだということを、自分は求めていたのだと。  ヨナは、人から教えられて主に立ち帰るべく促されたのではない。主ご自身からの悟りを与えられて、その顔を主に向けて方向転換したのだった。「悔い改め」ということばは、「悔い」ということばが入っているので、なにやらくよくよ後悔するようなイメージがついて回りそうだが、ほんとうの悔い改めとはそのようにくよくよすることではなく、もう完全に主に向かって、過去の罪深い自分とすっぱり手を切ることを意味する。 ヨナは悟りを与えられて、不信仰と反抗に満ちた過去の自分を捨て、主に向かおうとする強い意志と欲求が与えられたのだった。この悟りを与えてくださるお方は神ご自身である。悟りが与えられることは主の大きなあわれみ、また恵みである。主の御名をほめたたえよう。  だが、この悟りを与えてくださるために、主は時に激しい形でのお取り扱いを及ぼされる。5節、6節前半。ヨナは、地中海の海底のさらに奥深くまで、そしてその最も低い水底に生えた海藻に髪の毛が取られるほど、奥底に沈んだと告白している。そこでヨナの見たものは、山々の根元というべき海底の岩々であり、ヨナはその底に落ち込み、地のかんぬきが自分の後ろで下ろされた、もう、ヨナはここで人生が終わったのだった。だが、ヨナは生きた。  こんなことがあるだろうか? 人は、ほんの少し海に沈んだだけで、窒息して死んでしまう。それがヨナの場合、水責め、土責めの息苦しさがいつまでも続き、どこまでも深く深く、海の底に沈んでいく一方だった。ヨナは「いつまでも」死の苦しみが続く状態を体験したのだった。これをヨナは「よみの腹の中」と表現したのだろう。よみの闇の中では、人のたましいは消滅して苦しみも何もなくなるわけではない。よみに下ったたましいは、やがて来るさばきによって永遠に火の池に投げ込まれ、永遠に焼かれつづけて苦しむのである。  しかし、主はこのようなヨナをどのように導かれたか? 6節後半。  聖書にはしばしば「穴」というものが登場する。創世記には、ヨセフが兄たちに謀られて穴に落とされる場面が出てくる。ヨセフを待つものは、兄たちに殺されるという運命だった。だが、兄のひとりのユダの発案によって、ヨセフは殺されることなく、穴から引き上げられ、いのちが助かった。のちにこうしていのちの助けられたヨセフは数奇な運命をたどり、イスラエルを救う器として大きく用いられることになった。 また、ヨナよりもはるかあとの時代の預言者エレミヤも、穴に沈められて、そこから引き上げられるという体験をしている。そして、墓という「穴」からの生還を果たされたお方は、イエスさまだった。 ヨナがこのように告白するのは、ヨセフのように、もはや死ぬまでだった運命から救われて、いのちを救う働きに用いていただくようになったという、感謝に満ちた告白ではなかろうか。  7節。ヨナは悟りに至るまでに、主の御顔を避けつづけたばかりに、たましいが衰え果てていた。そうなったら、そのたましいが主に向かうことは、とても困難になる。しかし、そのような状態で主の御前に出ることができたとしたら、それはもはや、恵みとしか言いようのないことである。主は、たとえたましいが主に向かえないほど衰え果ててしまった者であったとしても、その人を愛しておられるかぎり、必ず立ち帰らせてくださる。 もし、私たちの周りにたましいが衰えてしまっている人がいて、そのために心を痛めていらっしゃるならば、どうか失望しないでお祈りしていただきたい。いや、もしかするとその衰えた人とは、自分自身のことかもしれない。失望しないでいただきたい。主は必ずお祈りを聴いてくださって、引き上げてくださり、主に心が向かうようにしてくださる。  8節。ヨナは、主の素晴らしいみことばをゆだねられた預言者である。それは光栄に満ちていることであり、とても恵まれている。一見するとこの告白は、偶像礼拝の国アッシリアにあらためて宣教に行くぞという決意表明のようにも見える。だが、偶像礼拝という問題は、まずヨナの中にあった。 ヨナは、アッシリアへの敵対心に裏打ちされた歪んだ愛国心、選民思想を自己中心とはき違えた歪んだ民族主義という、神さまご自身に取り替わる偶像を心に抱えていた。もちろん、ヨナは何も、時の為政者ヤロブアム王のように、金の子牛のような目に見える偶像を拝んでいたわけではない。しかし、心の中に神さまご自身以上に大切にする思想を抱え、その思想に殉じて神の御顔を避け、神のみこころを無視したという点で、ヨナはやはり、偶像礼拝者と変わるところはなかった。だがヨナはここに来て、それがどんなにむなしいことかということに気づかされ、今度こそ、主に立ち帰る決心をしたのだった。  9節はそんなヨナの祈りを締めくくることばである。偶像を捨てた者のすることは、いけにえをささげること、すなわち、主を礼拝することである。しかし、礼拝するといっても、形式的に礼拝をささげさえすれば、主はそれで良しとしてくださるわけではない。  いかに威儀を正して礼拝をささげようと、そこに主に対する従順がなければ、主はそれをご自身に対する礼拝と見なされないどころか、偶像礼拝であるとさえ見なされる。 私たちの礼拝をおささげする姿勢も激しく問われている。  しかし、私たちは、例えば今のこの時間のように、プログラムとして礼拝をおささげすることだけを礼拝を見なすべきなのか? 私たちの礼拝は、もっと広い範囲にわたるものであるべきである。ローマ人への手紙12章1節。  私たちのあらゆる行動は、からだを使ってすることである。ということは、からだが主にささげられた聖い供え物になっているならば、私たちの取るあらゆる行動は、礼拝になっていなければ、私たちのからだを正しく用いていないことになる。そう意識するならば、私たちは罪から身を引き、神のみこころにしたがった聖い行いを目指すようになるのではないだろうか? そしてその聖い行いこそ、霊的な礼拝であるというわけである。 だとすると、私たちの持つ信仰とは、頭だけのものとか、形だけのものとかではなく、きわめて実践的なものになる。自分自身を神にささげた者としてふさわしく、いつ、どこで、どんなときも、みこころにかなう行動とは何かということを祈り求め、それを具体的に実践する、この繰り返しこそ、私たちの本来歩むべき歩みである。  こうして、救いはほかならぬ神にあることを悟らされ、それを自分の口で告白したヨナは、10節にあるとおり、3日3晩にわたる真っ暗な大魚の腹の中から解放され、明るくて安全な陸地に戻ってきた。悔い改めによって再出発するチャンスが、ヨナに与えられたのであった。 私たちもヨナのように、悔い改めに導かれる悟りがつねに与えられ、キリストの似姿らしく変えられ、主のお働きをこの地上に現すことで主に大いに用いられるように、主の御名によってお祈りする。私たちは自分に与えられたどんな主のみこころに対して不従順だろうか? いま悔い改めることは何だろうか? 主の御前に出ていく力さえ出てこなくても、いま主の御前に置かれているこの恵みを覚え、主に祈ろう。

「それでもみこころに導かれる」

聖書箇所;ヨナ書1:1~17/メッセージ題目;「それでもみこころに導かれる」 先月でマルコの福音書の連続講解が切りのいいところで終わったので、今月は夏のスペシャルというわけではないが、別の箇所から学ぶ。今月はヨナ書から学びたい。 ヨナは、ニネベという都市に行って宣教せよと神から命令が下ったにもかかわらず、その命令から逃げ、まったく方向のちがうタルシシュという町に行く船に乗った。すると、その船が荒波に遭い、ついにはヨナが荒波を鎮めるために海に投げ込まれるという、短いながらも波乱万丈の物語、ヨナ書はこんなドラマティックなシーンから始まっている。 ヨナは、ニネベに行けという神さまのご命令に従いたくなかった。それはなぜか、そのことを正確に理解するために、まず、ヨナが行くように召されたニネベという都市と、聖書のほかの箇所に書かれたヨナの活動について、まず学ぼう。 ニネベという都市は、ヨナの活動した紀元前8世紀当時の中東社会で最強の国家だったアッシリア最大の都市で、のちにヒゼキヤ王時代のユダを攻撃したセナケリブ王の時代に、アッシリアの首都になった。 アッシリアは周辺国家に圧力を加え、アッシリアに比べればはるかに弱小国のイスラエル王国も抑圧された。ただ、その当時のイスラエルはみこころにかなったよい国とは言えなかった。歴代の王たちは揃いもそろって偶像礼拝者だった。ソロモン王の死後に南北に分裂したイスラエルは、南王国のユダはまだよい王がいたが、北王国イスラエルは、聖書の評価から見れば落第生の王ばかりだった。 ヨナについては聖書にこのような記述がある。列王記第二14章23節から27節。……北イスラエル王国にはヤロブアムという王が2人いたが、こちらのヤロブアムは2世のほう。ヤロブアムもまたほかのイスラエルの王同様、偶像礼拝をするような悪い王だったが、それでも、イスラエルの領土を回復するために主に用いられた人物だった。 もともと、イスラエルの領土が減らされたのは、列王記第二10章の32節から33節までをお読みすると、ハザエル王の統治するアラムの攻撃によるものだったが、それは32節にあるとおり、主のご主権によることだった。 なぜ、このような懲らしめを、主は愛するご自分の民であるはずのイスラエルに対して加えられたのか? それは、直前の10章31節のみことばにほのめかされている。 この箇所の「ヤロブアム」とは、分裂王国となったイスラエルの初代の王であったヤロブアム1世のこと。ヤロブアムは、イスラエルを統合するために、金の子牛の偶像をつくって礼拝させるという、イスラエルの王にあるまじき罪を犯した。一方エフーは、ヤロブアム一世、ナダブ、バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、アハブ、アハズヤに続き、10番目に北イスラエルの王になった人物で、アハブ王とその妻イゼベルによるバアル神信仰をイスラエルから追放したということで、その子孫が四代目までイスラエルの王座に着くことを主から約束されるという祝福をいただいた。 しかしエフーは、ヤロブアムの罪、すなわち金の子牛礼拝をやめさせなかった。依然として偶像礼拝者であり、イスラエルを偶像礼拝の道に引き込んでいた。イスラエルの領土が削られたのは、そのような王の主に対するいいかげんな態度、偶像を愛する態度に対する懲らしめであった。 そのようにしてアラムを通して領土が削られたイスラエルの王たちは、たしかにエフーの子孫、アハズ、ヨアシュ、そしてこのヤロブアム二世が代々に王座に着いて、主の祝福の預言は成就していた。しかし、やはり主の与えられた預言は四代目まで王座が続く(四代目までしか王座が続かない)というものだったように、エフーの王朝を終焉させてしまうほど、ヤロブアム2世の偶像礼拝はひどかった。 しかし、希望もあった。このとき、ヤロブアム2世に、アラムに対し戦いを仕掛けよ、そうすれば領土を回復すると預言したのが、このヨナだった。イスラエルの存亡にかかわるような危機的な状態の中で、神の民イスラエルの預言者としての矜持にかけて、王に預言を伝え、果たしてその預言どおり、イスラエルに回復をもたらした主の器、それがヨナだった。 そういうわけで預言者ヨナは、イスラエルを盛り上げるうえで大きく用いられた人物だった。イスラエルという国に対する愛国心ももちろんあったゆえに預言者でありつづけた。その愛国者らしい一面を念頭に置いて考えるべきことだが、今度はそんな彼が、まったくちがうことに用いられようとしていた。 それは、イスラエルを呑みこむような強大国アッシリア最大の都市、ニネベに行って、主のみことばを宣教せよというものだった。理由は2節にあるとおり、「彼らの悪が神の前に上ってきたから」ということだった。 もはやどうにもならないほど主に対する悪に満たされたニネベ……そこに、神のことばを伝えに行け……いや、あんな敵国、神の敵の民族に、救いのことばを伝えるなんて、そんなことができるものか! ヨナは神に反抗し、3節の行動に出た。 ニネベは、イスラエルの首都サマリヤから北東に1000キロほど行った内陸の都市である。しかし、タルシシュは、地中海を経て西の果てに行った場所であり、今日のスペイン南部と推測されている。ヨナの取った行動はまるで、北海道に行けと言われたのに、フィリピンとか、まったくちがう国に向かったようなものである。 ヨナがそのようにまったく違った方向に向かった動機が、「主の御顔を避けたから」であると、みことばには2度も繰り返して語られている。主のみこころは何であるか、ヨナははっきりわかっていたが、従いたくなかった。主の民を苦しめるアッシリアのニネベの者たちに、貴重な福音など伝えるものか! しかし、ヨナの乗った船は大きな嵐に遭い、難破しそうになった。4節のみことばにあるとおり、神さまが大風を海に吹きつけられたからである。この嵐は、神さまがご自身に反抗するヨナひとりを取り扱うために備えられたものでした。ひとりの人を悔い改めに立ち帰らせる神の大きなみこころは、時にものすごい形をとって現される。主はあらゆる環境を用いても、ひとりの人を本来の道に引き戻される。私たちも例外ではない。私たちを取り巻くあらゆる環境を用いて、主はご自身のみこころを私たちに現してくださる。 しかし、船に乗っている人は、それを知る由もない。乗組員たちは、それぞれの信じている神に祈ったり、船の積み荷を海に捨てて被害を小さくしようとしたりした。ところが、肝腎のヨナはと言えば……船底に降りていって、そこで横になって寝入っていた。まるで、これで死ねるなら死んでもいい、とでも思っているようである。 主の御顔が見えなくなった人は、自分のいのちも、人のいのちも、何とも思うことができなくなる。しかし、主はヨナと、船に乗る人たちを捨て置かれなかった。主は船長を用いられた。彼は船底に降りていき、そこで横になっているヨナを見つけ、何を寝ているのか、起きて、われわれが滅びなくて済むように、あなたの信じる神に祈れ、と命じた。 7節に入り、場面は急展開する。舟に乗る者たちは、このわざわいは船にいるだれかのせいで起こったものだと、霊的な感覚から感づいていたようである。そこで、みなでくじを引き、だれのせいでこうなったのかを知ろうと発案する。 くじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らは、ヨナの正体をあれこれ尋ねた。ヨナはその問いに、自分はヘブル人、つまりイスラエル人であり、海と陸をつくられた天の神、主を恐れる者であると明かした。 この答えに一同は恐れた。天地万物をお造りになった神を礼拝し、そのみこころを知る者が、なぜこのような海をも揺り動かす神のわざわいを引き起こしたのか! しかし、そうこうしているうちに、海はますます荒れてきた。このままではだれも助からない。一同はヨナに、あなたのことをどのようにすれば海が鎮まるか、と問いかけた。ヨナは、この嵐は自分のせいで起こったのだから、私を捕らえて、海に投げ込んでください、と答えた。 しかし、そんな人のいのちを粗末にするようなことは、いかに嵐に遭っていのちの危機に瀕している彼らにも、簡単にできることではなかった。彼らは努力して、船を陸に戻そうと、一生懸命船をこいだ。しかし、海はますます荒れる一方だった。 ついに彼らは、自分たちがこれまで信じてきた神々ではなく、天地万物の創造主に祈りをささげた。14節。 ヨナは、自分のことを海に投げ込んでほしいと言ったが、自分から海に飛び込んで人身御供のようになろうとしたわけではなかった。船乗りたちに自分のいのちをゆだねたのであった。しかし船乗りたちはここにきて、天地万物を統べ治められると同時に、人のいのちを主管しておられる神への、限りない恐れを抱いた。どうか、あなたを恐れるこの男を海に投げ込んだからと、その血の責任を私たちに問わないでください! そして彼らは、ついにヨナを海に投げ込んだ。すると……聖書の表現をそのまま用いると、「激しい怒りがやんで、海は凪になった」。 この荒海は、神の激しい怒りを具現するものであった。しかし、神の怒りは、ヨナのみならず、「それぞれの神」を礼拝する者たちに対しても向けられていたのではなかったか? だが神は、ヨナというひとりのしもべの犠牲を通して、この偶像礼拝者たちを、まことにご自身を恐れ、礼拝する者たちへと変えられた。16節。彼らは主を恐れ、主にいけにえをささげて礼拝している。 さて、マタイの福音書12章38節以下に、イエスさまがご自身をヨナになぞらえるエピソードが出てくる。パリサイ人や律法学者はイエスさまに、しるしを見せてほしいと迫ったが、イエスさまは、ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられないと語られ、それに続き、ご自身のことを、ヨナよりもまさったものである、すなわち窮極のヨナはイエスさまである、とお語りになった。 ヨナ書第1章を見てみると、ヨナがイエスさまの象徴であることが表れている。ヨナは、ご自身に反逆する人を滅ぼそうとする御父の怒りをなだめるために、荒海に投げ込まれた。 しかし、それで神の怒りは和らぎ、海は静かになった。イエスさまの十字架というなだめの供え物によって、御父の怒りが和らぎ、人が御父と和解する道が開かれたことと同じである。実際、ヨナを海に投げ込んだ彼らは、それぞれが信じていた神々に礼拝することをやめ、まことの神を礼拝する者たちへと変えられた。 しかし、ヨナはあくまでイエスさまのモデルにすぎない。イスラエルから罪深いニネベに遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたヨナは、たしかに、天の御国から罪深いこの世に遣わされ、彼らを悔い改めさせる使命を帯びたイエスさまの象徴であったが、イエスさまが御父に従順に歩まれたのに対し、ヨナの心は反抗心でいっぱいだった。 それでも、神さまはヨナのことを見捨てず、また、ヨナによって宣教され、悔い改めていのちを得るべきニネベのことを見捨てず、ヨナに取り扱いの御手を伸ばされることをやめられなかった。神の取り扱いは時に、とても厳しいものになるかもしれない。時にはこの時のヨナのように、周りの人に相当な迷惑をかけてしまうこともあるかもしれない。 しかし、信じていただきたい。神はこのような大いなる取り扱いを通してでも、ご自身の愛を私たちに知らせ、ご自身の使命に立ち帰らせてくださる。私たちは従順になる上で葛藤するでしょう。イエスさまでさえ、十字架を前にして血の汗を流して葛藤されました。いわんや私たちが、主のみこころに従順に従う上で葛藤せずにはいられようか? しかしそれでも、神は私たちのことを、みこころに従う祝福が得られるように、絶えず愛のうちに導いてくださる。 私たちには今、どのようなみこころが与えられているだろうか? 従順になれなくて葛藤していないだろうか? しかし信じよう。ヨナが信じ、私たちの信じているお方は、天地万物を創造された創造主であり、それとともに愛のお方であり、私たちが今考えているよりも、はるかに偉大なお方である。 私たちの偉大な信仰が私たちをりっぱな人にするのではない。私たちは相変わらずみっともなくても、神が私たちのことを限りなく愛して、私たちを通して働いてくださる。私たちは葛藤しながらでも、主のよきみこころを信じて、従っていこう。主が私たちを通して働いてくださるという、この信仰を持ち、今日も、そして明日からも、終わりの日までも、この国の救いのために、ともに用いられていこう。主はヨナを愛されたように、私たち働き人を愛してくださる。