「愛されているゆえに愛を伝える」

聖書箇所;ヨナ書3:1~10/メッセージ題目;「愛されているゆえに愛を伝える」 今日の箇所は、悔い改めの末に再び宣教の使命に立ち帰らされたヨナが、実際にニネベに行って宣教する場面である。ヨナの宣教を通して、ニネベの町は老若男女が悔い改めに導かれ、それをご覧になった神さまが、わざわいを下すことを思い直されたというのだから、ヨナの宣教の結んだ実は相当なものだった。 1節と2節。ヨナは、主のみことばに反した行動を取って、大きな懲らしめを受け、ようやくのところでいのちが助かった。主は、このようにみことばに反する行動を取る者であっても、一度主が召された人であるならば、主はそのみこころをその人を通して成就されるまで、何度もその人を立たせられる。 主がニネベに宣教のわざを成され、その町を悔い改めさせる――この働きにふさわしいと主が見込まれ、用いられる働き人は、ヨナをおいてほかにいなかった。たとえヨナが、イスラエルという国家と民族を大切に思うあまり、イスラエルに敵対するアッシリアに対して激しい憎悪を抱いているような人物であったとしてもである。みこころに反する行動を取って、嵐に巻き込ませてタルシシュ行きの客船の乗客や船乗りに大きな迷惑をかけ、挙句の果てには海に放り込まれた、そんな人物であったとしてもである。 いま、自分は大した状態ではないから、主はきっと自分のことを用いてくださらないだろう……そんなことを思ってはいけない。主に救われている……主を愛している……それこそが、主に用いていただける条件である。復活のイエスさまがペテロを再び宣教と牧会の働きに召されたとき、イエスさまは多くのことはおっしゃらなかった。ただ、「あなたはわたしを愛するか」と、三度にわたって問いかけられたのみであった。三度にわたってイエスさまのことを知らないと言ってしまったペテロは、「私はあなたを愛します」とはさすがに言えなかったが、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。イエスさまを愛しているという事実を、イエスさまのみこころという変わらない基準にゆだねたのであった。 私たちもそうではないだろうか?「私はイエスさまを愛します」と正面切って言えないような、主に対するうしろめたさを私たちはもしかしたら抱えているかもしれない。しかし、私たちが主を愛しているかどうかを決めるのは、私たちの移ろいやすい感情ではない。主ご自身が、私たちは主を愛していると決めていてくださる。 だから私たちは、自分の不確かな心の声に惑わされてはならない。私たちは堂々と、主を証ししていい。主に用いていただいていい。たとえ自分が不完全に思えてならなくてもである。なぜならば、私たちは主を愛しているからであり、私たちが主を愛していることを、ほかならぬ、主が認めてくださっているからである。 3節。ヨナは大魚の腹の中で、自分に向けられた主の愛に立ち帰った。そしてその主の愛に、愛をもってお応えしようと決意した。ヨナが地中海のどの海岸に打ち上げられたかは、聖書は記していないが、そこから内陸の町のニネベに向かうだけでも長旅である。しかもその先にあるニネベの町は、行き巡るのに3日かかるとても大きな町である。このような町に向かい、実際にその町で宣教するには、どれほど主への愛と宣教に対する情熱に燃やされていなければならなかったことだろうか。 ヨナはどのようにして宣教を開始しただろうか。4節。このときのヨナの状況を、少し想像力をたくましくして考えてみよう。折しもアッシリアは、当時の中東で最大の勢力を誇る国家だった。それに比べるとイスラエルは、アラムから領土の一部を取り返したとはいえ、アッシリアとは比べるべくもない弱小国家だった。そのような国からやってきた預言者が、なにやら叫んでいる。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」普通に考えるならば、強大国を代表する都市の市民に向かってこんなことを言う弱小国の預言者などは、その場で殺されて当然である。ヨナも、そのようなリスクの中、伝えて回った。 ヨナにはなぜそれができたのだろうか? 信仰のゆえである。天地万物をお造りになり、お治めになる神さま、荒海から救い出してくださった神さまが、ここに遣わしてくださり、用いてくださるのならば、自分のすることは従順に従うことだけだ……ヨナはあれこれ考えず、ただひたすらに、ニネベの町に宣告を下すことに専念したのだった。 するとどうなったか? 5節。なんと、唯一の神さまなど信じないはずのニネベ市民がこぞって、神さまを信じたのである。そして、悔い改めを表明し、主がさばきを思い直してくださることを切に求め、神さまに懇願するしるしとして、荒布をまとった。 そればかりではない。6節。悔い改めは、ニネベを統べ治める王さまにまで及んだ。彼は王座から立ち上がり、王服を脱いだ。つまり、王として君臨することをやめたのである。そして、荒布をまとい、灰の中にすわった。王でもなんでもない、神さまの御前にあるひとりの罪人として、神さまの御前に出て行った。ただし、王はそれをあくまで王の立場として行なったのであるから、王のこの悔い改めの行動は、アッシリアという国を代表してのものであった。 そればかりではない。王は悔い改めを、ニネベの町に徹底させた。7節から9節です。二十世紀以来、今もなお存続している共産主義国家がそうであるように、神さまを無視する者たちは、血で血を洗うような悪に陥る。このニネベも、神さまを認めない者たちが、きわめて残虐なことを行なっていたため、その悪が主の御前に立ちのぼり、ついには神さまがニネベを滅ぼさなければならないほどになっていた。まるで、ノアの時代に大洪水で滅ぼされた人々、アブラハムの時代に天からの火と硫黄で滅ぼされたソドムとゴモラの人々のようである。 しかしここに来て、ニネベの人たちは、神さまがあわれんでくださり、この町を滅ぼさないように思い直してくださるよう、一生懸命に努力した。徹底した断食を呼びかけ、荒布をまとって悔い改めることを呼びかけた。 注目したいのは、獣や、牛や羊などの家畜までが食べたり飲んだりすることを許されないばかりか、荒布をまとわされた、ということである。悔い改めの表現として、断食したり、荒布をまとったりということはもちろんすべきことであるが、獣や家畜、つまり動物までに悔い改めをさせようということは、イスラエルの民ならば、おそらくやらない悔い改めの方法である。なぜならば、動物は人間とちがってそのうちに霊がなく、神のかたちに創造されてはいないものであり、したがって神に対し悔い改めの祈りをささげることなど、そもそもできないからである。それでもニネベの人々がこのような行動を神さまの御前で取ったのは、ちょうど、嵐に巻き込まれた客船に乗った人たちがそれぞれの神々に祈り、ついにまことの神さまに行き着いたようなものである。 神さまは、このような祈りをささげるニネベの民をどうしただろうか? 10節。ついに神さまは、ヨナに託された宣教のわざをかなえてくださった。神さまは、ニネベの人たちが悪の道から立ち返ろうとする、その「努力」をご覧になって、わざわいを下すことを思い直されたのだった。神さまは、ご自身に立ち帰ろうとする者たちのことを、決してお見捨てにならないお方である。 ただ、この記述を表面的にしか読まないと、まるでニネベの人々は努力したことによって救いを勝ち得たように思えてしまうことだろう。果たしてそうなのだろうか? まず、この悔い改めのわざは、ヨナという預言者がニネベに行かなければ、そもそも始まらないことだった。だがヨナは、イスラエルを思うあまり敵国アッシリアになど宣教に行きたくなくて、わざわざまったく違う方向の地の果てにまで行こうとした人である。そういう人を召され、用いられたのは主である。 そして、ヨナは当然のように敵国の大都市ニネベで宣教したわけではない。そこには殺されるかもしれないというリスクがついて回っていた。だが、ヨナは殺されなかった。そればかりか、この町の人々は神さまを認め、神さまからのさばきの宣告をほんとうのことと受け止めて心から恐れ、徹底した悔い改めを実践した。 このプロセスは、主がご介入されたのでなければ、絶対に起こりうることではなかった。主がニネベを滅びから救われたのは、究極的に言えば、ヨナがニネベの市民に神さまを信じさせたからでも、ニネベの市民が悔い改めの努力をしたからでもない。主がそのように定められ、そのように導かれたからである。ヨナは、そのみわざのために用いられた器でしかなかった。 このことからわかるのは、たとえ悪に満ちていた人々であったとしても、主は限りなく、彼らのことを愛しておられる、ということである。そして、その愛を伝えるご自身の器のことも、特別に愛しておられる、ということである。ヨナの伝道が成功したのは、このニネベのことを愛によって救おうとされる主のご主権に、ヨナがどこまでも従順に従ったことにあった。 あとでご自宅でヨナ書2章のみことばを読み返していただきたい。そのときヨナは、真っ暗な大魚の腹の中にいたが、ニネベを悔い改めに導くべく用いられたヨナは、まず、自分が徹底して悔い改める恵みにあずかった。そこで彼は、タルシシュ行きの船の船底で眠り込んでいたときには決して見ることのできなかった、主の御顔を仰ぎ見ていた。真っ暗な中で神さまを見失っていた彼は、真っ暗な中で神さまの光に照らされる恵みにあずかった。この神さまの光を、彼は罪により暗く閉ざされていたニネベの町に照らしたのであった。 しかし、ヨナの伝道が成功したのは、ニネベが悔い改めに導かれたこと以上に、あのかたくなだったヨナが従順に主に従ったことにあった。神の民だという理由で持っていた変なプライドのゆえに不従順の罪を犯しつづけることなく、ニネベ宣教という主のご命令に従順に従ったということ、これがヨナの宣教における最大の成功である。 学生時代、私はキャンパス・クルセードという宣教団体にいたが、そこでつねに教えられていたことばがある。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神にお委ねすることである。」私たちはつい、救われること、つまり、伝道の対象者が信仰告白に導かれることが「伝道における成功」と考えてはいないだろうか? それはある便槽かもしれないが、救う、救わないということ、言い換えれば、人が信仰告白をする、しないということは、神さまのご主権の領域である。だから、そういう意味では、私はだれだれさんを救いに導いた、という表現は、よく考えればおかしい、ということになる。その人が救われようと救われまいと、私たちのすることは、聖霊の力によってキリストを伝え、その結果を神さまにお委ねすることである。 ヨナは、神の霊、聖霊に導かれるままに神のことばを語った。その結果、聖霊はニネベの人に、救われようという強い思いをくださった。そして神さまは本来のみこころどおり、ニネベの民を死のさばきから救われた。 このような、神さまのみことばを伝える働きを担う者たちのことを、神さまは特別に愛してくださる。そして愛されるゆえ、愛しておられる民のもとに遣わしてくださる。私たちもまた、主が愛しておられる茨城県の人たちのもとに遣わされた、神さまの特別な愛を受けた者たちである。 最後に、ローマ人への手紙10章8節から15節までを読もう。これは私たちのことである。私たちはよい知らせを宣べ伝える麗しい足である。私たちがどんなに愛されているか、いま確かめよう。そして、この愛を私たちはだれに伝えたいか、今週、その人に対して、私たちはどんなアクションを起こすように導かれているか、祈ってお尋ねしてみよう。 <祈ってみよう> ・主よ、私の身代わりにひとり子イエスさまを十字架につけてくださったほどの大きな愛によって愛されている、その愛を心から思い、感謝するものとならせてください。 ・主よ、これほどまでに私のことを愛してくださっているその愛を、私はだれに語るべきでしょうか、教えてください。 ・主よ、その人のために、私は今週何をすべきでしょうか、教えてください。