宣教する弟子はどこへ行くのか

聖書箇所;ルカの福音書10章1節 メッセージ題目;宣教する弟子はどこへ行くのか    今年は何という幕開けなのだろうか。北陸の大地震、羽田空港の事故、北九州の大火事。秋葉原では通り魔も現れた。たしかにあらゆる面で日本がおかしくなっていることをわれわれは知っていたが、これほどとは思わなかったのではないだろうか。しかし、このようなときだからこそ、私たちはこの世界を救ってくださるイエスさまを待ち望みつつ過ごしてまいりたい。そして、日本と世界のために祈ってまいりたい。  私たちは単に自分さえよければそれでいいわけではない。私たちはイエスさまの弟子として、イエスさまを人々に宣べ伝える責任がある。しかし、それは何も特別に頑張らなければできないことではない。普通に主にお従いする生活をすることで、主は証しされ、福音は宣べ伝えられていくのである。  今年私たちは、「宣教する弟子」として考え、振る舞うことを目指してまいりたい。昨年最後の礼拝、今年最初の礼拝と、2日連続でこのことを考えたが、今月、来月としばらくみことばから、私たちが「宣教する弟子」として召されていることを考えてまいりたい。  そこで今日のみことば、ルカの福音書10章1節。先週月曜日の元日礼拝にもルカの福音書10章のみことばから、宣教を終えてイエスさまのもとに戻ってきた弟子たちが、やたら喜んでいたところ、イエスさまが彼らに「悪霊があなたがたに従うことではなく、天にあなたがたの名前が書き記されていることを喜びなさい」と釘を刺されたことについて学んだ。今日の箇所は、少し前に戻って、その弟子たちが派遣される場面である。みことばを読もう。    「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。」    まず、「宣教する弟子」をイエスさまが召されるにあたり、72人の人を召されたことを見てみよう。これは十二弟子とは別の弟子たちだが、72人という数字にはどんな意味があるのだろうか?   実を言うと、この「72人」という数字は、欄外の脚注をご覧になってもわかるとおり、聖書の写本によっては「70人」となっている。しかし、70人でも72人でも、どちらでも同じ意味になる箇所が聖書にある。  民数記11章24節と25節。反逆するイスラエルの民のために、主が預言者を70人お立てになるくだり。みことばを語る特別な働きを主が人に託されるにあたり、70人の人をお選びになるわけで、それはこの、イエスさまが宣教の働きを弟子に託されることと共通する。  しかし、この民数記の箇所には続きがあり、この70人以外に、エルダデという人とメダデという人、この2人も聖霊を受けて預言したとある。モーセの付き人のヨシュアはそれを不服として、モーセに、彼らが預言することをやめさせてくださいと訴えたが、モーセは彼らが預言することを主のお働きとして認めた。とすると、主のみことばを語る預言の働き人には、70たす2で72人が立てられたとも言えるわけである。ゆえに、72人も70人も、どちらも正解。  一方で、創世記10章にはノアの洪水によって世界が滅び、全民族が分かれ出て以来の世界の民族が記録されているが、その数を数えると70になる。ということは、70という数字は全民族への宣教という文脈で考えるべきことである。実際、ユダヤの伝承においては、70または72という数字が異邦人への宣教という文脈で、民族の数として伝えられていたということである。  宣教に携わる、ということは、天下のあらゆる民族に出ていく、ということ。イエスさまに遣わされた人たちはそのようにして時代と国と民族を超えて世界中に福音の種蒔きをし、その結果、福音は私たちのところにも伝わってきた。  宣教、ということで考えるならば、この日本で教会形成をすることは、大いなる未伝地である日本とその民族への宣教ということになる。私たちが隣人に福音を伝えるならば、決して大げさではなく、世界宣教に用いていただいているということである。みなさまは、この日本が最大にして最後の未伝地である、ということばを聞いたことがおありだろうか? よく見てみよう。ほんとうにそうではないだろうか? これほどまでに文明が発達し、これほどまでに信仰の自由が保障されているのに、まことの神さまを知らないとは。  私たちには信仰の自由が保障されている。なのに、私たちはあまりにもこの未伝地、日本の人たちに遠慮してしまってはいないだろうか。「証しにならない」ということばがあたかも呪文のように私たちを縛っている。しかし、「証しにならない」からと福音を伝えることを手控えるのは、本末転倒というものではないだろうか。  ローマ10章13節~15節をお読みいただきたい。イエスさまが72人、もしくは70人を遣わされたことを、みことばを託して世界のあらゆる民族に遣わされた、と理解するならば、私たちもまた、日々みことばをお読みすることでイエスさまからみことばを託され、証しする生き方をすべくこの世に遣わされていることになる。そして、私たちがイエスさまを伝えなければ、私たちの周りの人たちはイエスさまの福音を知りようもない。遠慮しなければならない理由もいろいろ挙げられようが、それでも私たちは、どこかの機会でイエスさまが伝えられるように、祈っていくべきではないだろうか。  宣教する弟子はどこへ行くのか。イエスさまがみことばを携えて行きなさい、と命じられる、地の果てに行く。私たちにとってそれは日本であり、その中でも茨城の、私たちに割り当てられた、家庭、職場、学校、地域社会、サークルである。    さて、1節のみことばによれば、イエスさまは赴かれる予定の場所があった。しかし、その場所にイエスさまが行かれる前に、先に弟子たちをお遣わしになったということである。72人ならば36か所、70人ならば35か所。そこに、あたかもバプテスマのヨハネがイエスさまの先駆けとなったように、弟子たちがイエスさまの先駆けとして、36か所ないしは35か所にてイエスさまとその福音を伝える、備えの働きをするために、遣わされたのであった。  私たちもいろいろな場所に遣わされている。家庭、職場、学校、地域社会、サークル……しかし、そこで私たちがすることは、いきなりイエスさまを語ることではなかろう。イエスさまが語れるだけの、いわば「先駆け」として、よいことばとよい行いをもってイエスさまを証しする下地をつくることが、私たちに求められている。そのうえで、イエスさまを伝えるべき時が来たとわかったとき、しっかり福音を語ればよい。  先駆けは、ヨハネがそうであったように、自分自身を伝えるのではない。自分のあとに来られるお方、イエスさまを伝えるのである。私たちは確かに主にお従いするゆえに善い行いをして、よいことばを語るが、その行いをすることそのものが目的となってしまうならば、イエスさまのことをいつまでたっても伝えられない。言ってみれば、それは自分自身を伝えていることであって、イエスさまを伝えることにはなっていない。それは宣教する弟子の姿勢ではない。  このことに関して、私の失敗を分かち合いたい。私の信仰が成長していった頃、日本の教会はリバイバルが叫ばれるようになったころで、ジェリコジャパンやリバイバル甲子園ミッション、ビリーグラハム東京大会など、大型の伝道集会や聖会が目立つようになり、私が活動していたキャンパス・クルセードのような宣教団体もとても力があった。そういう中で私は周囲の人にイエスさまを伝えたい一心で、学科の飲み会に参加したり、聖書研究会以外にもサークル関係の友達をつくったりして、人脈づくりにいそしんでいた。もっとあとになったら、mixiというSNSが普及するようになり、私は趣味の音楽鑑賞や落語や街歩きで新しく友達をつくっていった。  しかし、そのような中で盛り上がっても、いざという段になってイエスさまが伝えられなかった。人脈をつくって彼らと楽しむことそのものが目的となってしまったのである。そのことに気づいて、私はSNSなどで高校や大学の同窓会の知らせや同好会のオフ会の知らせを受け取っても、あえてあこがれるのをやめて、未信者との友達づきあいをほどほどにすることにした。それは「この世と調子を合わせてはいけません」という命令にお従いするゆえである。証しをするつもりがこの世と調子を合わせているのでは、何にもならない。  落語の趣味といえば、落語における前座と真打の関係を少しお話ししたい。私が初めて落語を生で鑑賞したのは、いまから20年以上前のことで、柳家さん喬という、のちに紫綬褒章を受章することになる名人が、もう亡くなったが古今亭志ん駒という、これも名人とともに出演した落語会だった。その落語会が始まるにあたり、丸坊主の前座さんが一席語った。この前座さん、今は柳家さん助という立派な真打になったが、そのときは出演者に名前もなく、ただ、さん喬の弟子として、客席を温めるための一席を語っただけだった。彼の役割は、師匠のさん喬と共演者の志ん駒を引き立てる以上のものではなかった。まさに前座の立場にふさわしい。  私たちのよい行い、またその行いの生み出す人間関係づくりは、言ってみれば、真打なるイエスさまの福音につながるための「前座」といえよう。前座は金を取れない。看板やチラシにに名前も出ないのが当たり前。落語会も開いてはならない。師匠の付き人としてはじめてその存在価値がある。付き人はまた「かばん持ち」ともいう。説教者として日本の諸教会で用いられてきた福澤満雄先生は、ご自身を「イエスさまのかばん持ち」と名乗っておられるが、そういう姿勢が私たちに必要である。イエスさまの福音を伝えることができないならば、私たちは世の光、地の塩として召されたその召しに応えきれていないことになる。イエスさまが現れてこそ、私たちの人生には意味がある。  私たちはどこに行くのだろうか? イエスさまが行かれる場所にあらかじめ行っているのである。その場所でイエスさまをあらわす生き方、イエスさまへとつなげる生き方に用いていただけるように祈ろう。    最後に、宣教する弟子は2人ずつ遣わされている。2人で宣教。これがイエスさまのお取りになる方法である。  私たちはひとりででも燃えることはできよう。では、「燃えつづける」ことにおいてはどうだろうか? 残念ながらそれは簡単なことではない。しかし、2人ならば私たちは大いに燃えて主を証しすることができる。私はときどき、妻とともにこの地域にトラクトを配りに行くが、私がひとりで行くのと、あきらかに力の入りようがちがう。もっと言えば、聖霊の臨在のちがいがあるとさえ言える。  私は妻によく言われる。「あなたひとりが頑張っているみたいだけど、何にもならないのよ!」ほんとうにそうだと思う。私の悪い癖であることを認める。私たちは「ともに」働くべく召された存在である。  ともに燃えつづける。私たちクリスチャンが、教会という共同体の一員でありつづける必要がここにある。また、クリスチャンホームという名の家庭を持つ必要があるのもこれと同じ。伝道者の書4章9節から12節をお読みいただきたい。このように、私たちはともに生きるべく召されており、だからこそイエスさまは、宣教のわざをひとりにお任せにならず、ふたりずつお遣わしになったわけである。もし、おひとりで生活していらっしゃる方であっても、この教会に所属することで、主の家族の一員となり、それにふさわしく振る舞える。  そうは言っても、私たちが実際に遣わされている場所においては、クリスチャンは自分ひとり、というケースがほとんどだろう。そうなると現実的に、ふたり一組で宣教することはできないように思える。しかし、これならどうだろうか? 祈りのパートナーを組み、集中してお互いのために祈ることで、からだはそこになくても霊においてはそこにいることとなる。これはもののたとえ以上の現実と受け取っていただきたい。パウロはコリント教会のために祈りつつ牧会の手紙を書くにあたり、まさしくそういうことを語っている(Ⅰコリント5:3)。  それを可能にする祈りとして、「心を合わせる」と書き、「合心祈祷」というものを奨励したい。これは2人1組のペアを組んで一定期間祈るもの。40日連続がひとつの基準。40日が終わったら、しばらく間を空けてまた同じ方と祈ってもいい。この祈りによってお互いの状況を知り、その取り組んでいる課題をわがこととして祈ることができる。そしてそれはイエスさまに間に入っていただく「三つ撚りの糸」である。ただし、ご夫婦やご家族ではない方どうしで合心祈祷を行われる場合、男性は男性どうし、女性は女性どうしでしていただきたい。男女交際のお相手がいても、まだ結婚していないなら、交際相手ではなく、交際関係をオープンにできる同性のクリスチャンの方とペアを組むようにしていただきたい。  こうすることによって、私たちは相手のクリスチャンの職場のような遣わされた場所に身を置かなくても、そこに遣わされた者としてともに祈りをもって携われる。論より証拠、ぜひどなたか見つけて、祈っていただきたい。40日が長い、というなら、1週間から始めてもいい。しかし、おそらく1週間毎日祈れたら、40日続けて祈るのも苦にはならないはずである。  宣教する弟子はどこへ行くのか? もうひとりの弟子が一緒に来てくれる場所に行く。それは、祈りによって可能となる。    今日のメッセージを振り返ろう。宣教する弟子はどこへ行くのか? イエスさまが遣わされる地の果てであるこの地に行く。イエスさまの道備えをする場所に行く。もうひとりの働き人がともに来てくれる場所に行く。この使命を握って、ともに祈りつつ、主を証しする力強い証し人として、ことし2024年、主に用いられていこう。