「宣教する弟子は何者なのか」

聖書箇所;ルカの福音書10章3節 メッセージ題目;「宣教する弟子は何者なのか」  現在、大相撲初場所だが、その話題のひとつとして、十両に新しく「白熊」というしこ名の力士が誕生したことがある。その色白のアンコ型の風貌と相まって、かわいい、などと言われている。対戦相手のしこ名も動物にちなむものがいくつかあり、千代翔馬や欧翔馬といったお相撲さんに勝てば、今日は馬に勝った、とか、獅司というお相撲さんに負ければ、今日はライオンに負けた、などと、他愛のないこともニュースになっている。  人間はなぜか、多種多様な動物にいろいろなキャラクターをなぞらえたがる。童話や絵本を読んでも、動物ばかり登場する物語がとても多い。キツネはずる賢く、熊は気はやさしくて力持ち、などという設定になったりする。  今日の箇所でも、イエスさまが動物のたとえを用いておられる。あなたがた宣教する弟子は羊です、とおっしゃっている。羊とは弱く、頭もそんなによくなく、そのくせ頑迷ときている。あなたがたはそういう羊のようなものです、それをわたしは、狼の群れに送り込むのです、イエスさまはそうおっしゃっている。  さて、すると、狼とはなにか、ということを理解することで、私たち羊がいかにしてこの世界で宣教する弟子としての役割を果たしていくか、ということが明らかになる。狼とは凶暴な動物ということに異論はなかろう。それも、羊を取って食う獣である。それなら、狼はサタンなのだろうか? あるいは、サタンの手下の悪霊なのだろうか?  それは、狼という獣は聖書の中でどのような存在のたとえで用いられているかを見れば一目瞭然である。創世記49章27節でヤコブがベニヤミンを狼になぞらえ、その預言がかなうかのように、はるかのちの時代になってベニヤミンはほかのイスラエルの部族と戦いを交えることになるが、狼はベニヤミン族という人でこそあれ、サタンや悪霊のような霊的存在ではない。  エレミヤ書5章6節。神の民ユダへのさばきが、獅子、豹と並んで、狼のような猛獣になぞらえられた存在によりもたらされるとあるが、これはサタンや悪霊というよりは、イスラエルを吞み込もうとするバビロンの国と民族と言えよう。つまり、これも人、ないしは人の群れ。  エゼキエル書22章27節とゼパニヤ書3章3節。神さまに不従順なイスラエルの指導者たちが、民を食い物にする狼になぞらえられている。また、新約聖書に入ると、マタイの福音書7章15節。神の民の共同体を荒らす偽預言者が狼になぞらえられている。やはり人である。  その一方でこんなみことばもある。イザヤ書11章6節、同じくイザヤ書65章25節。終末における平和をこう描写しているが、狼も子羊も単数形である。この子羊は神の子羊なるイエスさまだろうか、それとも、イエスさまは心に宿す私たちひとりひとりという「羊」だろうか? しかし、どちらにしても、狼が「サタン」ないしは「悪霊」であるならば、こんなことはありえないことである。以上のことから、狼とは「人」または「人の群れ」であることがわかる。  そのような狼がうようよするところであろうとも、イエスさまはあえて弱くて愚かで頑迷な羊のような私たちのことを、その真っただ中にお送りになるのである。この世界にいる者たちがことごとく狼だから、羊であるおまえたちは勝てない、とはおっしゃらなかった。羊であろうとも出ていきなさい、と、イエスさまは彼らの中に出ていく使命を私たちに与えられたのである。  イエスさまは狼をさばいて切り捨てるお方ではない。むしろ、狼が子羊とともに草をはむ、まことの平和を実現するために、狼が狼としての生き方、自己中心によって他人を食い物にする生き方をやめるように導かれる。  ということは、自分はほんとうは狼ではなく、子羊であることに気づかせていただいて、牧者なるイエスさまに導かれてみことばの糧を兄弟姉妹とともにいただく、すなわち、まことの神の子羊なるイエスさまとともに食卓を囲む恵みをくださるわけである。狼をそのように導く働きはだれがするのか? それは、羊である私たちである。  私は少年院での篤志面接委員の働きを始めて8か月以上になった。少年と面会するたびに思うことは、彼らはほんとうは羊のようにいい子だということである。ところが彼らのことを食い物にする悪い連中、それこそ狼のような連中が、彼ら羊を狼にしてしまう。狼のような考え方、狼のような言葉遣い、狼のような人間関係、狼のような時間の使い方へと染めていき、ついには少年院に入るだけの犯罪、人を食い物にする悪い行いに手を染めさせる。そんな彼ら、もともと羊だった彼らも、立派に狼になってしまっていたのである。  でも、考えてみたい。私たちももともと、自己中心で人に迷惑をかけることを平気で行うような、狼ではなかっただろうか? 愛やきよさとは正反対の悪い考え、悪いことばづかい、悪い態度、悪い行いばかり、そんな私たちが、実は狼ではなく羊であった、羊だからこそまことの牧者なるイエスさまに養っていただかなくては生きられないものだと気づかせていただいた、ゆえにイエスさまが愛してくださったように愛する者になろう、イエスさまがきよいようにきよい者となろうと、神さまの恵みの中で努力させていただく者となった。  そういう前提でこの世の中、狼のうようよする世の中を見ると、見方が異なっては来ないだろうか? 彼らは弱い私たちのことを食い物にしようといつも狙っているようかもしれない。しかし彼らは実は、羊である。神さまが彼らのことをお救いになるのはみこころである。  しかし。私たち羊はどのようにして彼ら狼に伍していくのだろうか? 彼らのような敏捷さや強靭な肉体、牙、そのような凶暴さを備えるのだろうか? そうではない。そうしたって私たちは勝てない。なぜならば私たちはすでに自分が羊だと気づいた存在だからだ。イエスさまはそのように戦えとはおっしゃっていない。  このみことばはマタイの福音書10章16節でも語られているとおりだが、そこにはもう少し別の表現も語られている。蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ。これが、羊が狼に勝つ方法である。  このみことばをほんとうに実践し、絶対的な勝利をした例が聖書に記録されている。それは使徒の働きの6章と7章のステパノの姿である。ステパノは素晴らしい知恵によって語り、教会を迫害するユダヤの宗教指導者たちにぐうの音も言わせなかった。負けかかった彼らは今度は卑怯な方法で、ステパノはモーセの律法と神を冒瀆することを言ったと訴えたが、神の知恵によって語ったステパノは、むしろ彼らユダヤの宗教社会こそがモーセの律法と神を冒瀆していることを証明してみせた。まさしくステパノは、蛇のごとく冷徹だった。  しかし、それだけではなかった。逆切れしたユダヤ人たちから石つぶてが投げつけられ、殉教する間際になった、ステパノはこう祈った。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」この祈りはまさに、十字架の上でイエスさまが人の罪の赦しを祈られた祈りのとおりではないか。それほどステパノは、神さまとそのみことばに対して素直だった。まさに鳩のようだった。  ステパノのこの、蛇のようにさとい宣教と鳩のように素直な敬虔は、何を生んだか? ステパノを殺すために手を下した青年律法学者サウロを、使徒パウロにした。神の教会を迫害したサウロは、それだけで神の怒りのさばきを受けて当然だった。しかしステパノのとりなしの祈り、どうか罪を負わせないでくださいという祈りは聞かれ、サウロは罪が赦された。どんな形で赦されたか? キリストのからだなる教会を大いに形づくる不世出の働き人に召されるという、最高の赦しをいただいたのである。    考えてみよう。パウロは自らを罪人のかしらと呼んだが、それはどんなに素晴らしい働きをしても、ステパノを殉教に追い込み、教会を荒らし回ったという事実は消えないからではなかったか。まさにパウロは群れを荒らし回る狼だった。使徒の働き20章29節で、パウロは自分が去ったあと狂暴な狼がエペソ教会に入り込んで荒らし回るということを語ったが、そう言い切ったのはまさに、かつては自分もまた群れを荒らし回る狂暴な狼だったという前提があったからだろう。  しかし、ここは逆に考えてはいかがだろうか? 今は私たちのことを迫害する狼のごとき人、そう、具体的にだれかさんの顔が思いつくかもしれない、その人が、私たちの、蛇のようにさとい宣教と、鳩のように素直な敬虔を通してキリストに立ち帰り、狼が、キリストというまことの牧者によって養われる羊になるということ、そう考え、あきらめずにこの世界に踏み出してはいかがだろうか?  人間はみんな騙されている。狼の生き方がかっこいい、と思っている。狼の生き方、それは、あなたはイエスさまという牧者に飼われなくてもいい、と、神さまとそのみことばを無視させる生き方である。世の中はこぞってその狼の生き方に人々を導くものだから、いつの間にか人は狼になってしまう。下手をすると私たちクリスチャンも狼のようになってしまう。別に羊のようにイエスさまに飼われなくてもいいと思い、神との交わり、すなわち、礼拝の生活、みことばを読む生活、お祈りする生活をさぼってしまっても、それをしかたがないとか、当然だとか思ってしまうのである。  私たちは、狼の中に送り出された羊だと自覚しよう。だから、イエスさまにつながらなければ無力、丸腰で、食われるしかないということをちゃんと考えよう。しかし、イエスさまと交われば最強の守りをいただけるから、日々しっかりイエスさまと交わろう。  その上で私たちはこの世界に出ていこう。まさに、攻撃の5倍の防御。そして、私たちを狼が待ち受けているが、その狼が、実は自分は羊だと気づけるように、蛇のごとく冷徹な賢さを授けていただいてこの世を見通し、それにふさわしい知恵をもってみことばを語れるように、しかし一方で鳩のような素直さでみことばを受け取り、祈りにおいて、またみことばを守り行うことにおいてみこころに従順であるように。そうすれば私たちは、狼うようよのこの社会で勝ち得てあまりある者になれる。

「宣教する弟子は何をするのか」

聖書本文;ルカの福音書10章2節 メッセージ題目;「宣教する弟子は何をするのか」    私たちクリスチャンの生活で、主日に礼拝をおささげすること、毎日聖書をお読みすることと並んで、必須のことがあるとすれば、それは「お祈りすること」だろう。大阪で牧会されていた谷口和男先生という方がドイツに留学したとき、ある講義で教授が、「キリスト教をひとことで言ってみなさい」と学生たちに語られ、学生たちはいろいろ答えを出してみるが、すべて「ナイン(ちがう)」。いら立った学生たちが、では、何が正解なのですか、と抗議するように教授に言うと、教授がひとこと。「神との交わり。これ以外にない。」それを聞いた学生たちは、ああ、ほんとうにそのとおりだ、と、一同納得したとのこと。私たちクリスチャンにとってのあらゆる生活は、みことばをお読みしてお祈りする、その「神との交わり」なくしては何事も進まない。  今年の標語でもお語りしているとおり、私たちは「宣教する弟子」として召されている。宣教する弟子は神さまに祈る。神さまとは収穫の主である。収穫をもたらしてくださるのは神さまであるから、収穫を得たいならば神さまに祈るのは当然のことである。そのような次元でも、私たち「宣教する弟子」は神との交わりを必要としている。  では何を祈るのだろうか? 収穫を多く得させてくださるようにだろうか? もちろん、それもあるだろう。しかし、このみことばをよく読むと、イエスさまが「収穫は多い」と言ってくださっているわけで、ということは、収穫ははじめから多く得られるように備えていただいているのである。  では何を祈るのだろうか? 収穫になぞらえられる宣教、伝道をするにあたり、きちんと話せるようにだろうか? それももちろん大事なことだ。しかし、これは祈りつつ、徹底して努力していくことが必要なことであり、つまり、人間的な努力なしには成し遂げられないことだ。私が今年導入を考えている「爆発伝道」というものも、そのとおりに語れるようにとにかく努力する。練習をすることが必要である。もちろんそれば、よく語れるように祈らなくていいということではなく、むしろお祈りは必要だが、逆に、お祈りさえすれば伝道するための努力をしなくていいということではない。  では、イエスさまは何を祈れとおっしゃっているのか?「ご自分の収穫、すなわち神さまの、神さまによる、神さまのための収穫に、必要な働き手を送ってくださるように祈りなさい」ということである。神さまの収穫のための働き人が多く起こされるならば、それだけ多く備えられたたましいを収穫することができる。  この働き人ばかりは、人間的な知恵や計画で豊かに与えられるものではない。この働き人が与えられることは神さまのご主権の領域のうちにある。私たちのすることは、働き人を起こすための何らかのアクションをすること以前に、この働き人が起こされるように「祈る」ことである。  ところで、このおことばはどこかで見たことがあるだろう? そう、マタイの福音書9章35節から38節である。まさに、神の民ユダヤの弱り果てた羊たちをご覧になって、イエスさまがお語りになったひとことである。その直後に十二弟子をイエスさまがお立てになったという10章1節以下のみことばが続くことからして、神の民にまことの救い主を伝え、彼らを弱さと飢え渇きから救うみこころを全うするために、イエスさまが十二弟子を派遣されたということが明らかになる。  そしてルカの福音書を見ると、先週もお話ししたとおり、天下のすべての民族に宣べ伝える象徴として72人の弟子が派遣されるにあたり、イエスさまがこの同じおことばをお語りになったということは、彼ら異邦人もまたユダヤ人のように弱り果てているゆえにそれをご覧になるイエスさまのおこころが、はらわたもよじれんばかりに痛んでおられたということを表していると言えるだろう。  ユダヤ人は聖書を通して救い主が示されているというのに、宗教指導者たちのせいでイエスさまが救い主であると信じる道が遮断され、救い主を知ることなしに弱り果てた。  しかし考えようによっては、聖書という基礎があるのだから、彼らユダヤ人は、その聖書が語る救い主とは実はイエスさまであった、ということを知りさえすれば充分だった。それだけ、イエスさまに対して目が開かれる下地があるわけである。  それが異邦人となるとどうだろうか。そもそも、イエスさまがキリストであることどころか、キリストとはどのような救い主かを教えるみことばも、教師もない。いのちの主なる神さまにつながる手段がどこにもないのである。ゆえに、弱り果てて衰えるしかない存在である。彼らは異邦人でユダヤ人、神の民ではないからとイエスさまは差別されない。むしろ、同じ神のかたちに造られた存在として、イエスさまは彼ら異邦人のことも深く愛され、彼らにも等しく愛を注いでいらっしゃる、ゆえに、彼らが弱り果てることもイエスさまには耐えられず、人よ、彼らに救われてほしいというわたしの思いをともに持ちなさい、そして、そのかぎりなく多い収穫のための働き人をわたしは起こし、また送るから、わたしにその働き人を求めなさい、とチャレンジしておられる。  思えば、私たちもその、イエスさまを知らなかったけれども、収穫を経てキリストのからだなる教会のひと枝とされて、神さまの恵み、永遠のいのちの喜びを日々味わう存在とされた、異邦人ではなかっただろうか? そう、ここ日本においても「収穫は多い」ことは、私たちが証明しているではないか。私が見るに、ここにいる私たちは変わり物ではない。ベリー・オーディナリー・パーソン。そんな私たちがこうして救われている以上、救われるべき人はこの日本に潜在的にたくさんいて、ゆえに、イエスさまがおっしゃるとおり、収穫は多いのである。  2人の靴のセールスマンのエピソードをお聞きになったことがあるだろうか? 奥地の部族に靴を売りに行った2人のセールスマン。ひとりが上司に報告した。「ダメです。この部族はひとりも靴を履いていないから、靴なんて売れません。」もうひとりが報告した。「やりました! ひとりも靴を履いていないから、靴が売り放題です!」もちろん、このエピソードを語る人は、後者のセールスマンのようになってほしくてこう言うわけだが、日本もそう考えられないか? 私たちはあまりにも、日本で宣教できない理由を探しては落ち込むか、あきらめるかする。しかし、よく考えよう。私たちが聞いて理解しているように福音を聞いたことのある人など、おそらく日本にはほとんどいない。少なく見積もっても、500人いて1人くらいだろうし、それはほぼ、教会に通っているクリスチャンだろう。まさに、靴を履いたことのない人たちに可能性を見出して、靴を売りに行くような土地、それが日本だと考えてほしい。  しかし、その働きを一体どれくらいの人で担えるだろうか? 収穫は多くても働き人が少なすぎては、ほとんど刈り入れることはできない。この事実を深刻にとらえ、神さま、どうか働き人を送ってください! と祈るならば、神さまはこの切実な祈りに応えて、働き人を起こしてくださる。  そう、働き人というのは、私たちクリスチャンが求めないかぎり、神さまは起こしてくださらない。働き人というのはもちろん、牧師や宣教師のような、専門の働き人のことも指している。そういう働き人が増やされ、なおその働き人の生活を支えることができるほどに教会がしっかりすることも必要である。しかし、収穫のための働き人は、牧師や宣教師だけではない。ここにいる私たちひとりひとりもみな、収穫のための働き人として召されていると考えるならば、潜在的な働き人は思いのほか多いことに気づく。  それなら、私たちはなぜ祈らないのだろうか? 下手をすると自分が働き人に召されてしまうかも、ということが恐いからだろうか? しかし、繰り返して言うが、働き人になることは現在している仕事を捨てて牧師や宣教師になることとはかぎらない。  ただし、念のためひとつだけ補足すると、ここにいらっしゃる方の中にはもしかしたら、神さまから直接献身するように導かれているけれども、どうしても踏み出すことができない、という方がおられるかもしれない。それは私自身も体験したことである。    私は大学を卒業するときになって、降ってわいたように韓国の神学校行きの話が舞い込んだが、私の周りの信頼していたクリスチャンの先輩たちには、直接献身だけがみこころじゃないよ、と、私の神学校行きをやんわり牽制するわりとおられた。しかし、私がずっとお世話になっていた、キャンパス・クルセードのスタッフの佐藤さんという方は、このようにおっしゃるのだった。「神さまに直接献身するのがみこころじゃない、なんていう人がいるけれども、俺はちがうと思うね、だって、神さまは献身することを願っておられるんだから!」私はこのことばに背中を押される思いで、周りから何と言われようとも神学校に行こうと決めた。  今思えば、日本の地に働き人が欲しいと祈っておられた多くの日本のクリスチャンと、日本にリバイバルが起きてほしいと祈っておられた多くの韓国のクリスチャンの祈りに神さまが応えてくださり、私が神さまに献身できるように導かれたのだろう。私たちに働き人が必要と思うならば祈るべきである。もし、この世界が荒れ果てた地であることを思うならば、まずは祈ることである。そうすることで主は、祈る私たちを働き人にふさわしく整えてくださる。そして、私たちの周りから、収穫のために働く私たちのその姿に魅力を覚え、自分も収穫のための働き人になろうと願う人を起こしてくださるようにと、私たちは祈れるようになる。  考えてみよう。先週私たちは、二人一組の働き人になるように、心を合わせた祈りをする人、合心(がっしん)祈祷をする人がどんなに必要かを学んだ。その、ともに働くひとりの働き人さえ、私たちにいるだろうか? まず、このようにともに働くたった一人の働き人からでも、私たちは祈り求める必要がある。そうすることで、私たちは孤独な戦いから解放され、ともに働く人とともに収穫を得る大きな喜びを体験することができる。  いっぽうで、祈りとは何か、という面からも見てみよう。私たちにとって祈りとは、自分勝手な願望を連ねることではない。私たちは自分やその家族のことももちろん祈るが、それはその領域に神さまが働いてくださることによって、神さまのご栄光が豊かにあらわされ、神さまの御名がほめたたえられるようになるためである。  しかし、それでも私たちは、何を祈るべきかわからないことがある。そのようなとき、聖霊なる神さまは私たちに何を祈るべきか教えてくださる。だから私たちは神さまの御前に静まり、祈るべきことばを与えてくださるように、まず祈り求める必要がある。しかし、その祈りの課題は聖書から外れることはない。ゆえに私たちは、祈るうえで、聖書のみことばをよく読むことが必須である。  その聖書のことばだが、この箇所の場合、何を祈るべきかが具体的に書かれている。収穫のための働き手を送ってくださるように、と。このように、何を祈るべきかかなり具体的に明示されていることは、とてもありがたいことではないだろうか? これほど具体的に語られているということは、そのとおりに祈りなさい、ということでなくて何だろう? だから私たちは神さまに、収穫のための働き人を送ってください、と祈るべきである。神さまは必ず、私たちのこの祈りに応えてくださる。  今日は特に、このことを集中して祈りたい。神さまははっきりと、「働き人を送ってくださるように祈りなさい」と求めておられる。宣教する弟子は何をするのか、働き人を送ってくださいと祈る、これが第一にすることである。あとは私たちが神さまのこのお招きにお応えして、このようにお祈りするかどうかにかかっている。

宣教する弟子はどこへ行くのか

聖書箇所;ルカの福音書10章1節 メッセージ題目;宣教する弟子はどこへ行くのか    今年は何という幕開けなのだろうか。北陸の大地震、羽田空港の事故、北九州の大火事。秋葉原では通り魔も現れた。たしかにあらゆる面で日本がおかしくなっていることをわれわれは知っていたが、これほどとは思わなかったのではないだろうか。しかし、このようなときだからこそ、私たちはこの世界を救ってくださるイエスさまを待ち望みつつ過ごしてまいりたい。そして、日本と世界のために祈ってまいりたい。  私たちは単に自分さえよければそれでいいわけではない。私たちはイエスさまの弟子として、イエスさまを人々に宣べ伝える責任がある。しかし、それは何も特別に頑張らなければできないことではない。普通に主にお従いする生活をすることで、主は証しされ、福音は宣べ伝えられていくのである。  今年私たちは、「宣教する弟子」として考え、振る舞うことを目指してまいりたい。昨年最後の礼拝、今年最初の礼拝と、2日連続でこのことを考えたが、今月、来月としばらくみことばから、私たちが「宣教する弟子」として召されていることを考えてまいりたい。  そこで今日のみことば、ルカの福音書10章1節。先週月曜日の元日礼拝にもルカの福音書10章のみことばから、宣教を終えてイエスさまのもとに戻ってきた弟子たちが、やたら喜んでいたところ、イエスさまが彼らに「悪霊があなたがたに従うことではなく、天にあなたがたの名前が書き記されていることを喜びなさい」と釘を刺されたことについて学んだ。今日の箇所は、少し前に戻って、その弟子たちが派遣される場面である。みことばを読もう。    「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。」    まず、「宣教する弟子」をイエスさまが召されるにあたり、72人の人を召されたことを見てみよう。これは十二弟子とは別の弟子たちだが、72人という数字にはどんな意味があるのだろうか?   実を言うと、この「72人」という数字は、欄外の脚注をご覧になってもわかるとおり、聖書の写本によっては「70人」となっている。しかし、70人でも72人でも、どちらでも同じ意味になる箇所が聖書にある。  民数記11章24節と25節。反逆するイスラエルの民のために、主が預言者を70人お立てになるくだり。みことばを語る特別な働きを主が人に託されるにあたり、70人の人をお選びになるわけで、それはこの、イエスさまが宣教の働きを弟子に託されることと共通する。  しかし、この民数記の箇所には続きがあり、この70人以外に、エルダデという人とメダデという人、この2人も聖霊を受けて預言したとある。モーセの付き人のヨシュアはそれを不服として、モーセに、彼らが預言することをやめさせてくださいと訴えたが、モーセは彼らが預言することを主のお働きとして認めた。とすると、主のみことばを語る預言の働き人には、70たす2で72人が立てられたとも言えるわけである。ゆえに、72人も70人も、どちらも正解。  一方で、創世記10章にはノアの洪水によって世界が滅び、全民族が分かれ出て以来の世界の民族が記録されているが、その数を数えると70になる。ということは、70という数字は全民族への宣教という文脈で考えるべきことである。実際、ユダヤの伝承においては、70または72という数字が異邦人への宣教という文脈で、民族の数として伝えられていたということである。  宣教に携わる、ということは、天下のあらゆる民族に出ていく、ということ。イエスさまに遣わされた人たちはそのようにして時代と国と民族を超えて世界中に福音の種蒔きをし、その結果、福音は私たちのところにも伝わってきた。  宣教、ということで考えるならば、この日本で教会形成をすることは、大いなる未伝地である日本とその民族への宣教ということになる。私たちが隣人に福音を伝えるならば、決して大げさではなく、世界宣教に用いていただいているということである。みなさまは、この日本が最大にして最後の未伝地である、ということばを聞いたことがおありだろうか? よく見てみよう。ほんとうにそうではないだろうか? これほどまでに文明が発達し、これほどまでに信仰の自由が保障されているのに、まことの神さまを知らないとは。  私たちには信仰の自由が保障されている。なのに、私たちはあまりにもこの未伝地、日本の人たちに遠慮してしまってはいないだろうか。「証しにならない」ということばがあたかも呪文のように私たちを縛っている。しかし、「証しにならない」からと福音を伝えることを手控えるのは、本末転倒というものではないだろうか。  ローマ10章13節~15節をお読みいただきたい。イエスさまが72人、もしくは70人を遣わされたことを、みことばを託して世界のあらゆる民族に遣わされた、と理解するならば、私たちもまた、日々みことばをお読みすることでイエスさまからみことばを託され、証しする生き方をすべくこの世に遣わされていることになる。そして、私たちがイエスさまを伝えなければ、私たちの周りの人たちはイエスさまの福音を知りようもない。遠慮しなければならない理由もいろいろ挙げられようが、それでも私たちは、どこかの機会でイエスさまが伝えられるように、祈っていくべきではないだろうか。  宣教する弟子はどこへ行くのか。イエスさまがみことばを携えて行きなさい、と命じられる、地の果てに行く。私たちにとってそれは日本であり、その中でも茨城の、私たちに割り当てられた、家庭、職場、学校、地域社会、サークルである。    さて、1節のみことばによれば、イエスさまは赴かれる予定の場所があった。しかし、その場所にイエスさまが行かれる前に、先に弟子たちをお遣わしになったということである。72人ならば36か所、70人ならば35か所。そこに、あたかもバプテスマのヨハネがイエスさまの先駆けとなったように、弟子たちがイエスさまの先駆けとして、36か所ないしは35か所にてイエスさまとその福音を伝える、備えの働きをするために、遣わされたのであった。  私たちもいろいろな場所に遣わされている。家庭、職場、学校、地域社会、サークル……しかし、そこで私たちがすることは、いきなりイエスさまを語ることではなかろう。イエスさまが語れるだけの、いわば「先駆け」として、よいことばとよい行いをもってイエスさまを証しする下地をつくることが、私たちに求められている。そのうえで、イエスさまを伝えるべき時が来たとわかったとき、しっかり福音を語ればよい。  先駆けは、ヨハネがそうであったように、自分自身を伝えるのではない。自分のあとに来られるお方、イエスさまを伝えるのである。私たちは確かに主にお従いするゆえに善い行いをして、よいことばを語るが、その行いをすることそのものが目的となってしまうならば、イエスさまのことをいつまでたっても伝えられない。言ってみれば、それは自分自身を伝えていることであって、イエスさまを伝えることにはなっていない。それは宣教する弟子の姿勢ではない。  このことに関して、私の失敗を分かち合いたい。私の信仰が成長していった頃、日本の教会はリバイバルが叫ばれるようになったころで、ジェリコジャパンやリバイバル甲子園ミッション、ビリーグラハム東京大会など、大型の伝道集会や聖会が目立つようになり、私が活動していたキャンパス・クルセードのような宣教団体もとても力があった。そういう中で私は周囲の人にイエスさまを伝えたい一心で、学科の飲み会に参加したり、聖書研究会以外にもサークル関係の友達をつくったりして、人脈づくりにいそしんでいた。もっとあとになったら、mixiというSNSが普及するようになり、私は趣味の音楽鑑賞や落語や街歩きで新しく友達をつくっていった。  しかし、そのような中で盛り上がっても、いざという段になってイエスさまが伝えられなかった。人脈をつくって彼らと楽しむことそのものが目的となってしまったのである。そのことに気づいて、私はSNSなどで高校や大学の同窓会の知らせや同好会のオフ会の知らせを受け取っても、あえてあこがれるのをやめて、未信者との友達づきあいをほどほどにすることにした。それは「この世と調子を合わせてはいけません」という命令にお従いするゆえである。証しをするつもりがこの世と調子を合わせているのでは、何にもならない。  落語の趣味といえば、落語における前座と真打の関係を少しお話ししたい。私が初めて落語を生で鑑賞したのは、いまから20年以上前のことで、柳家さん喬という、のちに紫綬褒章を受章することになる名人が、もう亡くなったが古今亭志ん駒という、これも名人とともに出演した落語会だった。その落語会が始まるにあたり、丸坊主の前座さんが一席語った。この前座さん、今は柳家さん助という立派な真打になったが、そのときは出演者に名前もなく、ただ、さん喬の弟子として、客席を温めるための一席を語っただけだった。彼の役割は、師匠のさん喬と共演者の志ん駒を引き立てる以上のものではなかった。まさに前座の立場にふさわしい。  私たちのよい行い、またその行いの生み出す人間関係づくりは、言ってみれば、真打なるイエスさまの福音につながるための「前座」といえよう。前座は金を取れない。看板やチラシにに名前も出ないのが当たり前。落語会も開いてはならない。師匠の付き人としてはじめてその存在価値がある。付き人はまた「かばん持ち」ともいう。説教者として日本の諸教会で用いられてきた福澤満雄先生は、ご自身を「イエスさまのかばん持ち」と名乗っておられるが、そういう姿勢が私たちに必要である。イエスさまの福音を伝えることができないならば、私たちは世の光、地の塩として召されたその召しに応えきれていないことになる。イエスさまが現れてこそ、私たちの人生には意味がある。  私たちはどこに行くのだろうか? イエスさまが行かれる場所にあらかじめ行っているのである。その場所でイエスさまをあらわす生き方、イエスさまへとつなげる生き方に用いていただけるように祈ろう。    最後に、宣教する弟子は2人ずつ遣わされている。2人で宣教。これがイエスさまのお取りになる方法である。  私たちはひとりででも燃えることはできよう。では、「燃えつづける」ことにおいてはどうだろうか? 残念ながらそれは簡単なことではない。しかし、2人ならば私たちは大いに燃えて主を証しすることができる。私はときどき、妻とともにこの地域にトラクトを配りに行くが、私がひとりで行くのと、あきらかに力の入りようがちがう。もっと言えば、聖霊の臨在のちがいがあるとさえ言える。  私は妻によく言われる。「あなたひとりが頑張っているみたいだけど、何にもならないのよ!」ほんとうにそうだと思う。私の悪い癖であることを認める。私たちは「ともに」働くべく召された存在である。  ともに燃えつづける。私たちクリスチャンが、教会という共同体の一員でありつづける必要がここにある。また、クリスチャンホームという名の家庭を持つ必要があるのもこれと同じ。伝道者の書4章9節から12節をお読みいただきたい。このように、私たちはともに生きるべく召されており、だからこそイエスさまは、宣教のわざをひとりにお任せにならず、ふたりずつお遣わしになったわけである。もし、おひとりで生活していらっしゃる方であっても、この教会に所属することで、主の家族の一員となり、それにふさわしく振る舞える。  そうは言っても、私たちが実際に遣わされている場所においては、クリスチャンは自分ひとり、というケースがほとんどだろう。そうなると現実的に、ふたり一組で宣教することはできないように思える。しかし、これならどうだろうか? 祈りのパートナーを組み、集中してお互いのために祈ることで、からだはそこになくても霊においてはそこにいることとなる。これはもののたとえ以上の現実と受け取っていただきたい。パウロはコリント教会のために祈りつつ牧会の手紙を書くにあたり、まさしくそういうことを語っている(Ⅰコリント5:3)。  それを可能にする祈りとして、「心を合わせる」と書き、「合心祈祷」というものを奨励したい。これは2人1組のペアを組んで一定期間祈るもの。40日連続がひとつの基準。40日が終わったら、しばらく間を空けてまた同じ方と祈ってもいい。この祈りによってお互いの状況を知り、その取り組んでいる課題をわがこととして祈ることができる。そしてそれはイエスさまに間に入っていただく「三つ撚りの糸」である。ただし、ご夫婦やご家族ではない方どうしで合心祈祷を行われる場合、男性は男性どうし、女性は女性どうしでしていただきたい。男女交際のお相手がいても、まだ結婚していないなら、交際相手ではなく、交際関係をオープンにできる同性のクリスチャンの方とペアを組むようにしていただきたい。  こうすることによって、私たちは相手のクリスチャンの職場のような遣わされた場所に身を置かなくても、そこに遣わされた者としてともに祈りをもって携われる。論より証拠、ぜひどなたか見つけて、祈っていただきたい。40日が長い、というなら、1週間から始めてもいい。しかし、おそらく1週間毎日祈れたら、40日続けて祈るのも苦にはならないはずである。  宣教する弟子はどこへ行くのか? もうひとりの弟子が一緒に来てくれる場所に行く。それは、祈りによって可能となる。    今日のメッセージを振り返ろう。宣教する弟子はどこへ行くのか? イエスさまが遣わされる地の果てであるこの地に行く。イエスさまの道備えをする場所に行く。もうひとりの働き人がともに来てくれる場所に行く。この使命を握って、ともに祈りつつ、主を証しする力強い証し人として、ことし2024年、主に用いられていこう。

「宣教する弟子の原点」

  聖書箇所;ルカの福音書10章17節~20節 メッセージ題目;「宣教する弟子の原点」    あらためましてみなさま、あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。    今年のテーマを「宣教する弟子」とつけさせていただいた。聖書に示されたイエス・キリストの救いを人々に語ること、それももちろん宣教であり、必要なことだが、その福音を語る私たちの人格や言動がすばらしい福音に伴っていないならば、人々は耳を傾けることはなかろう。反対に、私たちが聖書にしたがってよい行いの実を普段から結べているならば、そのような私たちの語る福音は、とても説得力があるものとなる。ゆえに、生活のあらゆる面でみことばに従順になり、その従順の生き方を人々に対して現すならば、それは立派に「宣教」ということができる。あとは、そのことばをもってイエスさまの十字架を語ることができるように備え、語る機会が与えられるように祈ることである。  今日の箇所は、その「宣教する弟子」としての私たちは何者であるかをイエスさまが語っておられる。年の初め、私たちにとって最も大事なイエスさまのみことばに心を留め、間違いのない生き方を目指していこう。  まず、17節を見る前に、その前提である1節から。イエスさまは十二弟子とは別の72人の弟子を召され、彼らに働きを任された。それは彼らが、イエスさまご自身が行かれる予定の土地に先に行って、みことばを宣べ伝えるためだった。イエスさまを必要としている人々は、悪霊に取りつかれてもいたし、重い病気にかかってもいた。そのような人々を、イエスさまご自身というよき知らせによって解放する役割を、彼らは負っていた。また、いわばイエスさまの「分身」となって、72割る2で36倍の働きをした、とも言えるだろう。ここに集う人はざっと○○人。それを2で割れば××人。それだけのイエスさまの分身になると考えていただきたい。すごいことではないだろうか?  その前提で17節。彼らは興奮して帰ってきた。彼らはイエスさまの御名を語ると、悪霊でさえ従ったというのである。イエスさまの御名によって悪霊を追い出し、病をいやすことができたのであろう。イエスさまの御名は力がある。私たちが手にしている聖書は、イエスさまの御名を啓示している。このみことばを私たちが持っているということは、すごいことである。ただし、イエスさまの御名のほんとうのすごさが現れるのは、このイエスさまの御名を「用いる」ときである。  私たちの生活は、イエスさまの御名を「用いる」生活であるべきである。普通の人、ただの人のように生きるならば、私たちは特にイエスさまの御名など必要としない。しかし、私たちが困難に取り巻かれるとき、そう、たとえば重い病気、人間関係のトラブル、経済的な困窮、そういったことに苦しみ、自分の力ではどうにもならないとき、私たちの最大の強みは、私たちにイエスさまの御名があることである。イエスさまの御名によってあらゆる問題が解決「した」ことを宣言するとき、私たちはどれほど、主のみわざを体験することだろうか。私たち主の共同体は、その証しに満ちてしかるべきである。  昨日もお話ししたが、私たちにとっての宣教により、サタンとその手下の悪霊どもはこの世に居場所をなくし、追い出される。それが悪霊が追い出されるということなのだが、彼ら弟子たちが体験したことは、おそらくもっとダイナミック、ドラマチックなものであった。そういう「悪霊追い出し」のわざはこんにちにおいてもしばしば世界の各地で起きてはいる。それを慕い求めたい思いが、とかく唯物論、合理主義に支配されがちな日本に生き、それに息苦しさを感じるようなクリスチャンたちの間でも起こることは理解できよう。  では、この「悪霊追い出し」についてイエスさまはどう語っていらっしゃるだろうか? 18節。実はイエスさまは、ご自身が神の指によって悪霊を追い出されることによって、神の国がすでに来ていることを語っておられる(ルカ11:20)。  そのこととこのみことばを関連づけると、悪霊を追い出すことをもって神の国が来たことを実現されたイエスさまのご到来そのものが、サタンを天の座から突き落とし、ゆえにイエスさまの御名を用いる者は、神の指をもって悪霊を追い出す働きに用いていただけたということだというわけである。イエスさまが来られた以上、サタンはもはや王としての権威を行使できない。宣教とは、この世界の王はサタンではなくイエスさまであることを高らかに宣言し、また実現させていただくわざである。  コリント人への手紙第二10章4節をご覧いただきたい。私たちは主にあって、また主のゆえに戦う存在である。そんな私たちには、サタンの要塞を打ち倒す武器が与えられている。その武器とはローマ13章12節から14節によれば、「主イエス・キリストご自身」である。72人の弟子たちはまさに、「主イエス・キリストの御名」、言い換えれば「主イエス・キリストご自身」という最強の武器でサタンの要塞を打ち破る戦いをしたわけであった。  19節のみことばに行こう。「蛇やサソリを踏みつけ」とあるが、猛毒を持ったものでも人間の足に踏まれたらひとたまりもないように、主は私たちがサタンを踏み砕くことができるようにしてくださった(ローマ16:20)。なお、このイエスさまのみことばは、詩篇91篇13節によれば神さまご自身であり、イエスさまのこと。そのようにサタンを踏み砕く神の権威を、主は私たちに授けてくださった。そのようにして、私たちは敵のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられている。  しかし、イエスさまがこうおっしゃっても、私たちは思わないだろうか? 私は時にサタンに負ける。悪いことを考えてしまう。悪いことばを口走ってしまう。悪い習慣がやめられなくて、そのたびに自分は「負けた」と思ってしまう。しかし、それはちがう。サタンは私たちを完全に打ち負かすことなどできない。マタイ10章28節にあるとおり、私たちを滅ぼすことがおできになるのは神さまだけで、サタンには絶対にできない。そういう意味で、私たちは髪の毛ひとすじも失われない、完全な救いに入れられている以上(ルカ21:16~18)、サタンは私たちに、ほんとうの意味での害を与えることなどできないのである。  そのように、絶対的に守られている存在、絶対的に勝利している存在、それが私たちである。今年2024年、私たちはこの絶対の勝利、イエスさまの十字架の勝利をますますわがものとして、力強く、救い主をその生き方全体をもって証ししていく生き方をしてまいりたい。  さて、その生き方をするうえで、イエスさまは大事な注意をしてくださっている。20節。イエスさまが完全にサタンに勝利された以上、イエスさまの御名を用いるあなたがたも勝利するのであるという構造を、イエスさまはお語りになった。しかし、私たち主の弟子は、悪霊を服従させられることで喜んではならない、自分の名前が天に記されていることを喜べ、とイエスさまはおっしゃった。  しかし、17節にもあるとおり、弟子たちは大喜びして帰ってきたのではなかっただろうか? 悪霊を追い出す神の指の素晴らしい力を目撃して、喜んだのではなかっただろうか? しかし、17節と20節を合わせてちょっと見ていただきたい。彼らは確かにまことの神なるイエスさまの御名を用いて、その結果、悪霊が自分に服従するということを体験した。しかし、彼らの視点は、「悪霊どもでさえ私たちに服従する」と、「私」に焦点が合っている。厳しい言い方をすると、「私」の栄光にイエスさまの御名が利用されているとさえ言える。  これは宣教という神の働きをする上で、大きな罠となることである。神のわざの主人公は「私」ではない。イエスさまはやがて、この世界をおさばきになるためにこの世に来られる。そのとき主は、私たちが何をしたかということで、私たちのことを評価なさらない。マタイ7章21節から23節を読もう。彼らはイエスさまの御名によってすごいことをした。それはもちろん事実である。しかし彼らは「神の器」ではあったかもしれないが、そのような数々のすごいことをした「神の器」ゆえに神さまがその人のことを高く評価するとはおっしゃっていない。マタイ16章26節を見よう。イエスさまの御名を用いてすごいことをし、それで主のご栄光が顕れるようなことが起きたからと、主がその器を救われなかったら、いったいその人のあらゆる活動には意味などあるだろうか。  だから私たちはだれもが、恐れおののいて自分の救いを達成する必要があるのである(ピリピ2:12)。しかし、イエスさまは大前提として、「天にあなたがたの名が記されている」と語っておられる。私たちは「神さまのために何をしたか」で評価される以前に、「神さまが私たちを何者にしてくださったか」で自分自身のことを見るべきである。私たちは「神の国の兵士」である以前に、「神の国の国民」であることを忘れてはならない。  その、働く以前の原点、神の国の国民であるという原点につねに立ちつづけるならば、私たちは救いを生涯かけて達成する祝福された歩みができる。その歩みは、生活全体で証しする宣教の実を結ぶ、キリストの弟子の歩みである。神の国の国民だから、天に名の記されている救いを喜び、その救いを人々の前で、よい行いをもって現していくのである。  今年私たちは、どんな歩みをすることを祈ろう?