「キリストのからだにふさわしい健康」

聖書箇所;コリント人への手紙第一12章11節~27節 メッセージ;「キリストのからだにふさわしい健康」 先月、いやしというものについて、列王記第二の5章全体から学びました。いやし、というものがなぜ人に必要なのでしょうか。それは、私たちが健康ならば、主のお働きを充実してこなせるからです。そういう意味では、病気を抱えていても主の働きを大いにこなしていれば、健康といえます。持病を抱えていてもなお多く働いたパウロなどそのいい例でしょう。現代の日本にもそういう人がいまして、天に召されましたが、病弱なからだをおしてたくさんの本を書いた、三浦綾子さんもそういう、主にあって健康な人といえました。 反対に、五体満足、無病息災でも、主のために働きたくない人というのもいるもので、そういう人は外身が健康でも、実際は不健康といえます。私たちはどちらがいいでしょうか? やはり、クリスチャンとして尊敬できるのは、病身をものともせずに、主の働きに歩んでおられる方でしょう。口では立派なことを言っていても、いざとなると主のために働かない人とどちらがいいかと聞かれれば、答えははっきりしています。 とはいえ、私たちがもし主のためにもっと身を入れて働きたいと願いながらも、健康上の理由でそれがかなわないでいるならば、私たちはやはり、いやし主なるイエスさまに、大胆にいやしを求める必要があります。なんといっても、私たちは健康なからだを使わなければ、主のご栄光を顕すことはできないからです。 さて、からだとはなんでしょうか? 今日の箇所を見ると、キリストのからだなる教会がさまざまな働きを担うに際し、そのそれぞれが特別な働きを持っていることを、からだの部分になぞらえて表現しています。しかし、このことはこう考えられないでしょうか? すべての創造主なるキリストは初めからみからだをお持ちであり、そのからだなる教会の部分部分をなす存在として、創造のはじめから私たちは選ばれていたのだと。そう考えると、歴史上存在したすべての主にある人、世界に存在すrすべての主にある人は、創造のはじめから主のからだとして選ばれ、組み合わされた存在であり、したがってとても大事な存在です。もちろん、ここにいます私たちひとりひとりがそういう貴重な存在とされていることは、言うまでもありません。お互いの顔を見ましょう。主のからだとしてつながっている、とても大事な存在です。心からそう思え、喜びをもってそう告白できるならば幸いです。 そう考えると、私たちがなぜ健康でなければならないのかがわかります。それは、イエスさまのからだが健康であるためには、それを形づくる私たちが健康であるべきだからです。私たちが健康なとき、主のからだは健康になります。 今日は、主のからだの健康ということをともに考えたいと思います。そのことを、私たちのからだの健康ということを考えあわせながら、ともに学びましょう。 第一に、からだは部分部分それぞれがお互いを認めることによって、健康が保たれます。 12節のみことばをお読みします。一つのからだに多くの部分がある。その点で、キリストのからだなる教会も、人間のからだも、同じだというわけです。 ということは、人間のからだを見ればキリストのからだなる教会がわかりますし、その反対に、キリストのからだなる教会を見れば、人間のからだがわかるといえます。 その、からだの部分部分はすべて、ひとつの御霊によってバプテスマを受けているとも、一つの御霊を飲んだとも書かれています。実にキリストのからだなる教会とは、一つの御霊によってバプテスマを受け、すなわち、一つの御霊を飲んだ群れです。ちょうど、人がコップ一杯の水を飲むことによって、そのコップ一杯の水がからだの中に入り、五臓六腑に浸透し、人のいのちが保たれるのと同じことです。 御霊は人を生かします。御霊によって人ははじめてイエス・キリストを主と告白することができ、もはや罪人ではなく、神の子ども、聖徒となっているからです。この地上に生きながらにして、死からいのちに移っている、永遠のいのちを生きています。永遠に生きておられるキリストのみからだである以上、私たちは永遠のいのちにあずかっているのです。 そして12節のみことばを見てみると、ユダヤ人もギリシア人も、とあります。もともとが神の民であった者も、異邦人も、キリストを信じる信仰を与えてくださる御霊によってひとつ、というわけです。私たちもそうです。私たちもいろいろな生い立ち、背景を持っていますが、それぞれのところからおひとりの御霊によってキリストを信じる信仰に導かれ、御霊によってひとつとされ、御霊によってともに生かされています。 そんな私たちに必要なのは、まず私たちひとりひとりにとっては、からだの部分部分を大事にすること、そしてキリストのからだとして一つになった教会としての私たちにとっては、ちがっている互いを認め合うことです。 私たちは脳というからだの部分が快楽を感じさえすればいいとばかりに、テレビやスマホばかり見たら、目が悪くなりますし、肩や首の筋肉や骨格がおかしくなります。あるいは、栄養が偏っても好きなものばかり食べたり飲んだりしたら、臓器や血管がやられます。また、手はいろいろな役割をしますが、その手で肌をかきむしったり、にきびをつぶしたりするのもよくありません。からだの部分部分は、ほかの部分をいたわってこそ、健康が保てます。こんなことは当たり前のことなのですが、結構私たちはできていないものです。 同じように、教会の中でも、キリストのからだの自分とちがったほかの部分である、ほかの兄弟姉妹との調和が必要になります。これは3つの次元から理解する必要のあることで、まず第一に15節、16節を見ると、足や耳は、手や目がからだの一部であることを認めてはいますが、自分たちはそうじゃないからからだの一部ではないと言っている、ということで、そんなばかな、というわけです。 これは適用しますと、自分は牧師や教会役員のようなポジションにいないから、教会のことなど関係ない、と振る舞うのはふさわしくない、というような適用が導き出せます。お客様のポジションに自分を置きつづけ、教会という共同体の中でそのひと枝としての責任を果たそうとしないという態度です。こういう状態を放っておいたら、教会は健全かつ健康なキリストのからだとしてふさわしい状態にはない、つまり、病んでしまうわけです。 どうか、ひとはひと、自分は自分というようなことを思わないで、教会で今ともに礼拝をささげている方々はみな大事な兄弟姉妹、キリストのからだの同じひと枝、と、信仰によって受け取って、互いに愛し合っていただきたいのです。その兄弟愛こそが、私たちがキリストの弟子であることを麗しくこの世に証しする力となります。 また、第二の次元として、17節から19節、みんな同じではありません。金子みすゞの詩ではありませんが、みんなちがって、みんないい、それが私たち教会です。みんな牧師だったら、世の中に伍してキリストを証しする働きは極端に弱くなります。反対に、みんな一般の信徒だったら、みことばと祈りをもって仕える導き手は不在になり、やはり教会は立ち行かなくなります。 ひとと同じようになろうとする必要はない、というわけです。もちろん、ほかの信徒を見本として、より神と人の前に愛の人として生きるためということならばいいのですが、そうではなく、ほかの人のいわば「コピー人間」のようになろうとするならば困ります。 カルトな教会形成をしてしまうと、リーダーに思考パターンや、果てはしゃべり方までもが似ている「コピー人間」が生み出されるものですが、それは主が願われる教会形成ではありません。 そして、第三の次元として、21節、ほかの信徒を、自分とちがうからと、この共同体にいてはいけない、ということのできる資格は、だれも持っていません。例外として、深刻な罪を犯した人を「戒規」という形で教会の共同体から除名するケースがありますが、それにしても「さばき」のためではなく、「懲らしめ」のため、すなわち、その人がそのようなことを経て悔い改め、健全な信仰とライフスタイルを回復して共同体に戻ってくるためです。いわば、病んだ臓器にメスを入れて、痛い思いをしてでも治療し、健康にするようなものです。 いわんや健康な部分ならば、自分との違いに目を留めて、そんなあなたは必要ない、と言うことはできません。私たちは、主にあって保たれるべき共同体の調和を乱さないかぎり、多少の違いは個性として受け入れ合うべきです。 さて、その場合、その人が特に「弱い」ということが個性のようにして際立っている場合はどうなのでしょうか? そういう存在がいる場合、どのようにしたら健康が保たれるのでしょうか? そこで第二のポイントです。第二に、からだは弱い部分が尊ばれることによって、健康が保たれます。22節です。……「なくてはならない」とさえ言っています。多くの場合、弱い存在は、「足手まとい」呼ばわりされて、邪魔な存在として忌み嫌われたり、のけ者にされたりします。 しかし、からだはそうなってはならない、というわけです。たとえば、胃が弱かったら、人は胃をいたわって食べ物に気をつかったり、ストレスをためないようにしなりします。肌が弱くてもそうでしょう。弱い部分が弱いからと切り捨てるわけにはいきません。その部分はからだにとって絶対に必要だからと、大事に、大事にすることで、からだの健康を保てます。 私たち、教会の中の「弱い」人も、それと同じだというのです。弱い人は時に、問題の行動を起こします。元暴力団員から牧師になられた金沢泰裕先生の本にもありましたが、教会に連なったもと暴力団の人が、懲りずに覚せい剤に手を出してしまったのを、金沢先生や教会のひとたちは何度も忍耐しながら、ふさわしい方向に導こうと努力するわけです。覚せい剤ほど極端でなくても、私のかつていた教会では、あたりかまわず奇天烈な言動をする子どもがいましたし、シンナーに手を出した暴走族出身の女の子がいました。認知症が進んでまともにコミュニケーションのとれない人もいました。しかし、そういう人がそうだからと、教会の交わりからいなくなってもらう、ということはしないのです。そういう人の存在こそが必要、それが教会です。 そういう人たちの弱さが覆われ、強くされるためには、どうする必要があるでしょうか? 23節から25節です。重いやけどを負ったら、見えないところの健康なほかの皮膚を移植するようなものです。健康な兄弟姉妹が、弱い兄弟姉妹のその弱さをあえて愛をもって覆うことで、その人はいやされ、力づけられ、強くされます。 そういう人たちの存在をとおして、私たちはイエスさまの愛を学びます。私がたびたび申し上げていることですが、私たちは「愛されたい」のではありません。「愛したい」のです。なぜなら、私たちは愛なる神のかたちに創造されているからです。イエスさまが愛してくださったように、私たちは愛するのです。私たちの共同体に弱い人がいるならば、私たちはその存在を愛することによって、イエスさまの愛により愛することを学び、また実践します。こうして私たちはキリストの似姿に変えられ、また、主に用いられます。そうすることで、私たちはさらに、自分の弱さを知り、こんな弱い自分のことをイエスさまがどんなに愛してくださっているかを知り、主の愛に感謝するようになります。 弱い存在が大事にされる。弱い存在がいつくしまれる。これこそ、教会がこの世界に存在する意義です。これは保守バプテスト同盟の牧会者の勉強会、チームワークミーティングで、同志社大学教授の木原先生という方から学んだことですが、日本では現在、福祉というものは当たり前のように行政が主導していますが、本来福祉というものは、キリスト教会が担ってきたものでした。キリスト教会こそ弱者に注目し、弱者をいたわる役割を果たす存在でした。しかし、こんにちの教会は、なかなかそのような、弱い存在に対する実践が弱いようです。その共同体としての弱さが、教会内部にまで及んでいて、ほんとうに弱い人を顧みることができないとしたら、私たちは反省すべきです。 しかし、私たちにそんな自覚があるならば、ペテロのことばを思い出したいものです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」人をほんとうに強くする、すなわち、キリストのからだの部分をほんとうに強くするのは、ナザレのイエスの御名です。それは、全能なる神さまの御力そのものです。その御力に満たされて強くなれば、からだ全体、そう、ひとりひとりのからだも、キリストのからだなる教会も、強くなります。強くされる恵みをともに受け取る、そのような教会となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 第三に、からだは一つの部分の喜びや苦しみを全体で共有することによって、健康が保たれます。 26節です。これはほんとうのことです。自分のからだのことを考えれば確かです。あの、足の小指をどこかにぶつけただけで、めちゃくちゃに痛い、それは言ってみれば、からだ全体で痛いと思っているわけです。虫歯の痛みもそうでしょう。それだけで全身がダウンするようなものです。 反対に、たとえばきれいな花を見ただけでどうでしょうか。幸せになります。その香りを鼻でかいだだけでどうでしょうか。幸せになります。目や鼻というからだの一部の反応でも、からだ全身が喜んでいるわけです。 同じことで、ひとりの人の痛みが教会全体の痛みとなってこそ、教会はキリストのからだとして本来の役割をしていて、あるいは、ひとりの人の喜びが全体の喜びとなってこそ、やはり教会はその本来の姿を保っています。だから、私たちはもし自分がどこかからだの不調を覚えていたり、職場や家庭など生活の中で問題を抱えていたりするならば、それを隠すことはありません。話したら悪い、みんなに心配をかける、そんなことはどうか、こと教会という共同体においては、考えないでいただきたいのです。 自分のからだのことを考えてみましょう。もし、どこかの臓器が致命的に傷んでいて、それなのに痛みや違和感のような信号を一切発しなかったならば、放っておくと取り返しのつかないことになるわけで、そういう意味では、からだが痛むことはあながち悪いことではない、と言えるわけです。同じように、私たちがもし問題という痛みを抱えながら、それを教会という共同体の中でシェアしていないならば、その共同体には取り扱われないままに問題がありつづけることになるわけです。それこそ問題です。私たちは兄弟姉妹を信頼して、問題をシェアできるくらいに成熟したいものです。恥ずかしがらないでいただきたいのです。 また反対に、私たちは喜びがあれば、それを分かち合うことで全体が喜べるようにしたいものです。自分ばかり喜んでいることを悪く思われたらどうしよう、なんて考えないでいただきたいです。よいものはよい、喜ばしいことは喜ばしい、ならば私たちは、隠さないで分かち合うことで、キリストのからだを喜びに満たし、健康に保ちたいものです。 最後に、27節を一緒にお読みしましょう。……キリストのからだの健康は、その部分部分である私たちの健康です。逆に、私たちの健康は、その組み合わされたキリストのからだの健康です。切っても切れない関係にあるこの両者、教会と、私たちひとりひとり、その健康をつねに保つために、いつもみことばと祈りをもって御霊に満たされ、御霊の導きによって生きる、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。