「先に立つしんがり」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇4篇/主の祈り/讃美歌495「イエスよこの身を」/聖書箇所;マルコの福音書10章32節~45節/メッセージ/聖歌495「世人のとがのために」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/栄光の讃美;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「先に立つしんがり」 矛盾したようなタイトルをつけました。先に立つ者は先頭であり、しんがりは後ろに立つ者。「先に立つしんがり」は、形容矛盾のようです。「曲がった道をまっすぐ前へとバックする」みたいなものです。しかし、イエスさまの説かれる「先に立つ者」とは、実はしんがりであることが、今日のみことばから明らかになります。 まず32節、イエスさまは、天の御国のためにすべてを捨てるものに対する祝福を十二弟子にお語りになったことは、すでに先週のメッセージで学んだとおりですが、それに引きつづくこのみことばにおいては、イエスさまは御顔をまっすぐにエルサレムに向けて、前へと進んでいかれた、とあります。 このお姿に、弟子たちは驚きを覚え、また、恐れをいだいた、とあります。このみことばからわかることは、エルサレムへと進んでいかれるイエスさまのお姿に、弟子たちはただごとではないものを感じた、ということです。 エルサレムでイエスさまを待っているものは何でしょうか? 祭司長や律法学者のような宗教指導者たちに引き渡されて、裁判を受けて死刑の判決が下される、ということです。そしてそれにとどまらず、そのように死刑の判決を下した彼らが、異邦人にイエスさまのことを引き渡し、異邦人はイエスさまをあざけり、つばをかけ、鞭打ち、殺す、そのようにお語りになりました。イエスさまは、ここでははっきりと「十字架」という具体的な名詞を持ち出してはいらっしゃらなかったので、弟子たちは、よもやイエスさまがあの究極の刑罰である十字架によって死刑になろうとは、などとは思わなかったかもしれません。しかし、イエスさまがお語りになったこの苦難は、ほかでもなく、十字架を指していました。 しかし、イエスさまのおことばは、受難の予告では終わりませんでした。イエスさまは3日目によみがえるとおっしゃいました。これにより弟子たちは、イエスさまは死なれてもよみがえる、そのようにして神さまはイエスさまに栄光をお与えになる、と理解しました。 とはいえ、彼らのこの理解が、いかにも不充分だったことを示す対話が、彼らとイエスさまとの間で交わされることになりました。37節のみことばをお読みしましょう。……ヤコブとヨハネのこのことばには、伏線があります。この直前に、ペテロがイエスさまに自信満々に告げたことば、自分たちはすべてを捨ててあなたさまにお従いした、ついては何がいただけるだろうか、という、このことばのお答えとして、イエスさまがお語りになったおことばが、マタイの福音書を読むと、マルコの福音書に収録されていないこともまたお語りになっていることがわかります。それは、マタイの福音書19章28節です。 イエスさまにすべてを捨ててお従いした者は、その報いとしてイスラエルの十二部族をさばく、すなわち、神の民のリーダーとしての役割が果たせるという約束を、十二弟子はいただきました。それが実現するのは、イエスさまがご栄光をお受けになったときである、というわけです。 そのおことばが心にあったということを前提に、ヤコブとヨハネがイエスさまにお語りしたことばを見てみると、12の座に着いてイスラエルの12部族をさばくのは自分たち十二弟子である、そして、その中でも、イエスさまの右と左には自分たちが座れるようになりたい、というわけです。要するにヤコブとヨハネは、ほかの弟子たちを出し抜いてでもイエスさまに取り入りたい、という欲望があったわけです。 イスラエルをさばく立場とは、権力者として偉くなり、多くの者にかしずかれ、富の使い放題、というイメージが、彼らの中にあったのかもしれません。別の福音書を読むと、彼らにその地位を得させようとイエスさまに頼み込んだのは、彼らの母親であったとあります。息子たちが出世してほしい一心でイエスさまに頼み込む母心もあったといえるのかもしれませんが、ヤコブとヨハネは、母親にそんなことを言わせてしまっている自分たちのことをみっともないと思うどころか、自分たちはイエスさまの右と左に座るべき者たちだ、だからこのようなお願いをしても当然だ、という自負があったようです。 私たちは、いろいろなことを神さま、イエスさまにお祈りします。「なになにをください」、ですとか、「なになにしてください」といったたぐいのお祈りは、特に私たちはしているのではないでしょうか? しかし、ここで私たちが振り返ってみたいことは、私たちがそのようなものを神さま、イエスさまに求めている、その「動機」です。私たちがそれらのものがほしいのは、果たして神さまのためでしょうか、それとも、自分のためでしょうか? 私たちは自分の胸に手を当てて、ほんとうに後ろめたさなしに、心からはっきりと、「私は神さまのためにそれを求めます!」と断言できるでしょうか? ヤコブとヨハネがイエスさまに頼み込んだことも、祈りとはイエスさまに話すことであると考えると、これおも一種の「祈り」と言えたでしょう。しかし、イエスさまはその彼らの願いが、果たしてどこから由来したものであるかを自ら探らせるために、ひとことおっしゃいます。 イエスさまはここで、ご自身のお受けになる杯、また、バプテスマを受けることが、あなたたちにできるか、と問うていらっしゃいます。これは、どういうことでしょうか? 少しご説明します。 イエスさまが十字架におかかりになったとき、全身に及ぶ痛みとともに襲いかかってきたものは、血や汗が流れ出すゆえに、脱水してしまわれたという、その苦しみです。その中で死刑執行人が差し出してきたものはなんであったかといえば、苦みを混ぜた酸い葡萄酒でした。これはほとんど発酵が進んだ酢のようなものであり、それに苦みが混ぜられているゆえに、渇きに任せてそれを口にすると、その苦しみは何倍にもなって襲いかかってきます。 十字架の苦しみというものは、愛なる神さまから引き離されてでも人を愛し、人を救うために味わう、究極の苦しみです。その苦しみを味わうには、単なる自己実現、偉くなりたいという思いが動機では、不可能です。そのような思いはむしろ、十字架の苦しみを遂げる思いの正反対のものであり、その思いがひとかけらでもあったならば、人は絶対に死にたくはありませんし、いわんや十字架の苦しみなど、金輪際味わいたくはありません。 バプテスマとは何でしょうか? 人が水に沈められ、また引き上げられることによって、その行為は死にて葬られ、神によって陰府から引き上げられて復活させられることを象徴するものです。そのようにイエスさまは、復活に至るために、いちど死なれるということを経験されなければなりませんでした。ヤコブとヨハネもまた、すべてを捨ててイエスさまにお従いした証しとして、主のみこころにお従いして死ぬことさえも選び取らなければなりませんでした。むろん、人がそのように進んでいのちを差し出せるのは、バプテスマは水から引き上げられることによって完成されるように、死んでも陰府から引き揚げられて永遠のいのちが与えられるという信仰と信頼を、いのちの主なる神さまに置いているからです。 ヤコブとヨハネはイエスさまのこのチャレンジに、「できます」と、自信を持ってお答えしています。しかし、彼らのこの自信はどこから来たものでしょうか? 果たして彼らは、ほんとうにそのような、十字架と復活に対する確たる信仰があって、そのようにお答えしたのでしょうか? おそらくそうではなかったはずです。もし、彼らがほんとうに、イエスさまの十字架と復活をちゃんと信じていたならば、よもや十字架を前にしたイエスさまのもとから散り散りに逃げ出す、ということはなかったはずです。彼らの「できます」という大見得は、所詮、イエスさまによく見られることで高い地位を獲得したい、という、野心の表れでしかありませんでした。 これに対してイエスさまは、なんとお答えになったでしょうか?「いや、あなたたちは杯も飲めなければ、バプテスマも受けられない」とはおっしゃいませんでした。彼らはそのような、イエスさまの苦難にあずかる苦しみを受ける栄光を手にすることは、予告していらっしゃいます。実際、ヤコブは、使徒の働き12章を見てみますと、ヘロデの手にかかり、十二弟子の中で真っ先に殉教しています。ヨハネもまた、宣教の働きがとがめられてパトモスに島流しにされました。イエスさまゆえに苦難は経ているのです。 しかし、そうすれば、御国において偉い者となる、すなわち、イエスさまの両方の座を占める者となる、ということではありません。それを決めるのはご自身ではないことを、イエスさまはお告げになっています。人が天の御国に入ったとき、その天の御国においてどのような報いを受け、その報いとしてどのような地位に就くかということをお決めになるのは、神さまご自身であり、それは人間に知ることが許されていないことを、イエスさまはお語りになったのでした。 さて、このように、ほかの弟子たちをいわば「出し抜いた」ような態度を示したヤコブとヨハネに対し、ほかの十人、つまり、彼らを除いたほかの十二弟子が腹を立てました。さて、彼らが怒ったのは当然だと思いますでしょうか? もしそうならば、彼らはなぜ怒ったのだと思いますでしょうか? よく考えてみましょう。十二弟子は、何かあると、自分たちの間でだれがいちばん偉いか、という議論をおっぱじめるような者たちです。そういう者たちだったら、ほかの弟子たちを差し置いてイエスさまに引き上げてもらおうとするヤコブやヨハネに腹を立てるのは、当然だと思いませんでしょうか? ただし、そういう怒りを発するのが「当然だ」ということと、「正しい」ということは、同じ意味にはなりません。彼らが怒るのは当然でも、果たして正しいといえるでしょうか? この点を正されるために、イエスさまはひとつのことをおっしゃいました。それは「ほんとうに偉い人とはどういう人か」ということです。 まず、異邦人にとって「偉い人」とはどういう人かを、イエスさまはおっしゃいます。そういう者たちは人々に対して横柄に振る舞い、権力をふるいます。イエスさまはここで「あなたがたも知っているとおり」とお語りになっていますが、彼らとその民は、自分の立上の民の上に君臨するローマという異邦人のふるう権力に、相当へきえきさせられていたわけです。 彼ら弟子たちが思い描く「権力」というもの、ことに、イエスさまに投影していた神の国の王というイメージは、事実上ユダヤを支配していたローマの権力に代わる新たな権力でしたが、イエスさまのおことばは、彼ら弟子たちやユダヤ人たちの思い描く王のイメージは、所詮異邦人の世界における卑俗な権力の表れに過ぎないことをほのめかしておられるようです。 イエスさまは、ほんとうに偉いということ、ほんとうに力をもって治めるということは、そういうことではないことをお示しになります。43節、44節です。……ここでイエスさまは「あなたがた」ということばを用いていらっしゃいますが、この「あなたがた」は、第一に弟子たちの群れを指していますが、それ以上に、神の民の群れ、そしてひいては、すべての造られし者たちの群れを指しているといえるでしょう。つまり、イエスさまがお示しになったこの大原則は、前提として神の民における原則であるのと同時に、あらゆる人間社会に通用する原則であるわけです。 出世を狙ったヤコブとヨハネも、それに対して腹を立てたほかの弟子たちも、偉くなりたいという思いでは共通していました。イエスさまはそんな彼らに、ほんとうに主の弟子としてふさわしい態度は、すなわち、長じてキリストのからだなる教会を牧し、キリストの福音を行く先々で宣べ伝える者となるために必要な態度は、へりくだって仕えることである、とおっしゃいました。へりくだることを知らない者、仕えることのできない者には、神の国の働きをすることはできない、というわけです。 しかし、そのようにへりくだること、仕えることは、世の中が常識のようにして教える「出世しなさい」「偉くなりなさい」「人に使われないで、人を使う者になりなさい」という教えとは正反対です。 そういう生き方を目指す必要があるとイエスさまが弟子たちにお教えになった背景には、どんなことがあったのでしょうか? 45節のみことばを見てみましょう。このみことばは、イエスさまがどんな目的でこの地上に生まれ、生きられるのか、ということをお語りになったみことばです。 まずイエスさまは、「仕えられるためではなく仕えるために」この地上に来られたのであるとお語りになりました。イエスさまは神さまです。王の王、主の主です。およそ人という人がお仕えする対象として、イエスさま以上にふさわしい人物などいません。イエスさまこそ、人間の奉仕を受けるにふさわしいお方です。ところがイエスさまは、ご自身がこの地上に来られた究極の目的は、「仕える」ことにある、とおっしゃったのでした。 イエスさまのお働きは、すべてこの「仕える」ということをもって説明できます。十二弟子を訓練されたのは、十二弟子を支配して偉ぶるためではありません。そうではなく、寝食をともにして3年にわたってじっくり教え、免許皆伝の主の弟子にすることによって、弟子たちに仕えられたのでした。そのためには、弟子たちの足を洗うという、奴隷の役割さえ引き受けられましたし、徹夜の漁でへとへとになった彼らのために、パンと焼き魚を備えて朝ごはんをつくってくださいました。彼らが主の弟子としてしみじみするためならば、イエスさまはどんなことでもなさったのでした。 しかし、イエスさまにとっての「仕える」ということの根底には、何があったのでしょうか? 45節の後半のおことばをお読みすれば、それがはっきりします。そうです、イエスさまは「多くの人」を贖う、すなわち買い取るために、ご自身のいのちをその代価として差し出されたのでした。 イエスさまはおっしゃいます。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしはあなたがたをしもべとは呼びません。友と呼びました。友としてくださる、身代わりにいのちを捨ててくださって私たちを永遠の死と滅びから救い出してくださる、それはなぜでしょうか? 神は愛だからです。言い換えれば、イエスさまはそれほどまでに、私たちのことを愛してくださっているからです。 イエスさまが統べ治める神の国は、「愛する」ことをもって成り立っています。異邦人のように人々の上に君臨し、横柄に振る舞うことは、「愛する」ことの反対です。相手を「愛する」ならば、相手に対してへりくだりますし、喜んで仕えます。その愛の究極の形、それは、十字架で身代わりに死んでくださることにより、その流された血潮で、私たちを神のかたちとしての跡形もないほどにけがす罪を洗いきよめ、雪よりも白くしてくださる、ということです。 愛するから仕える、仕えることは愛すること、そのことをイエスさまは、この地上のすべての歩みをもって実践され、十字架とは、イエスさまのその究極の人を愛する姿、仕える姿でした。 イエスさまが堂々とした歩みをもって先頭に立って進んでいかれたのは、その十字架に向けてでした。その点でイエスさまは、当たり前と言えばそうなのですが、だれよりも先に十字架を負うお方でした。しかし、そのように先頭に立つ姿とは、実は人の後ろに立つ姿でした。十字架ほど呪わしく、みっともないものはありません。人は神の栄光を目指して生きる者である以上、こんなみじめな目にあえてあいたいと思うなどおかしいです。しかしイエスさまは、そのようにして人の最も後ろに立つ十字架の道、仕える道、もっと言えば、人から捨てられれる道をお選びになりました。そのように、言ってみれば、「しんがりに向けて先頭に立つ歩み」をなされたのでした。 しかし、この逆も逆の道をイエスさまが歩まれたことで、すべての人が救われる道が開かれました。このようにあえて十字架を背負われたイエスさまを信じるならば、神さまはその人を救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるのです。しかし、単に自動的に救われてそれで終わりというものではありません。私たちは先頭に立って十字架の道を歩まれるイエスさまのみあとを従い、自分も自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負って、イエスさまについていくのです。具体的には、まず、イエスさまに救っていただく資格も、イエスさまのみあとをお従いする資格もない罪人であることを思い、救いの喜び、従順の喜びを妨げる罪が示されたならば、祈りのうちに告白して悔い改めることです。 しかし、それにもかかわらず、そのような罪を犯す罪人である自分のことを救ってくださったイエスさまに、その十字架の御業を覚えて感謝をおささげします。そして、少しでもイエスさまの歩まれた愛の歩み、仕える歩みにならう者となるために、愛を増し加えてください、仕える者とならせてください、と、恵みを求めてお祈りします。そして、仕えるべき領域を具体的に示していただき、祈りのうちに導きをいただいて、ひとつひとつ実践させていただくのです。 それがみこころにかなうことです。もちろん、仕事において成果を上げて、職場で昇進して地位が上がり、部下を多く持つようになることはいいことです。しかし、それが何のためかということも、私たちは忘れないようにしなければなりません。上に立って権力をふるうためであってはなりません。いえ、そういうことをたとえ口に出さなくても、心のどこかでそのような思いを持っていて、人に仕えられたい、かしずかれたい、そんな思いを持っているようでは、神の子ども、主の弟子としてふさわしく振る舞っていないことになります。 それがわたしたちです。仕えるより、仕えられたいと願うことの、なんと多い者でしょうか。 仕えるために汗を流すことを言ということの、なんと多い者でしょうか。しかし、そのような自分であることに気づかされたならば、どうかその場で、十字架に向けて、前へ前へと進まれたイエスさまを思いましょう。私を愛するあまり、十字架におかかりになったイエスさまをしのびましょう。このイエスさまのおこころをわが心としつづけるならば、私たちは必ず、イエスさまにならう、「前に立つしんがり」、仕えることをもってこの世に神の栄光を顕し、人々を整えて奉仕の働きをさせるという、神のみこころにかなった歩みができるようになると確信して、今週も、そしてこれからも、歩んでまいりましょう。