教会に注がれた恵み

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:4~9/メッセージ題目;教会に注がれた恵み 私の通っていた中学高校には、購買部がありまして、文房具などを買うことができました。それで、鉛筆などはそのままでは使えないので、電動削り器を使えるようになっていました。中には、先が丸くなった鉛筆を削るのにちょっと拝借する生徒もいました。それで……その鉛筆削り器の上には、こんな小さな張り紙がしてありました。「使ったら、『ありがとうございました』の言える人になりましょう」……。 購買部のおばさんの嘆きが聞こえてきそうでした。ただで使わせてもらっているのに、「ありがとう」のひと言もないとは何事ですか……。がさつな男子校にありがちなマナーの悪さを象徴するような張り紙ですが、そんなことを見ても、「ありがとう」というあいさつは当たり前に交わせないものだということをしみじみ思います。 私たちは聖書を手にしています。聖書は「すべてのことについて感謝しなさい」と私たちに教えています。私たちは神さまに「感謝します」と普段から言えていますでしょうか? あれやこれやをお願いするお祈りばかりしても、どんな小さなことでも感謝するお祈りができないようでは困ります。 今日学びます箇所、第一コリントの1章4節から9節は、先々週学びました箇所の続き、教会とは何か、ということについて、コリント教会をモデルに、さらに具体的に話が展開していきます。その大前提となるのが4節のみことばです。何と書いてありますでしょうか? ……あなたがたコリント教会に与えられた神の恵みのゆえに、私パウロは私の神に感謝しています、ということです。自分の牧会する教会のために感謝できるなんて、言い方はあれですが、牧師冥利に尽きる、といった感じです。ええ、私も、水戸第一聖書バプテスト教会のみなさまのゆえに、神さまに感謝しています。 私の神、とあります。パウロが信じ、パウロが宣べ伝えてきた神さまです。その同じ神さまの恵みが、パウロが開拓し、牧会してきたコリント教会に臨んでいる、ということです。それゆえに私の神さまに感謝します……。 大前提となりますのは、コリント教会の現状ではありません。具体的な現状をひとつひとつ見るならば、コリント教会は決して褒められたものではありません。 パウロとしては苦言を呈さなければならないところだらけでした。もちろん、そのような叱責のことばはあとから続いていくわけですが、パウロがこの手紙をしたためる前提として語っていることは、コリント教会の恥ずかしい現実ではなく、そのような教会であるにもかかわらず神さまが注いでおられる恵みです。 このことからわかりますことは、教会というものは恥ずかしい現実、整っていない現実を見て判断する以前に、その教会を教会として立ててくださっている神さまの恵みにこそ目を留めるべきであるということです。私たちはつい、目に見えるもので判断してしまいがちです。しかしどうか、神さまが私たち教会をどのような存在としてくださっているか、そこにこそ目を留めて、お互いがさばき合ったり、引き下げ合ったりすることをどうかやめて、徳を高め合う共同体を形づくってまいりたいものです。 そこで私たちが学ぶべきことですが、私たち教会には、神さまからどのような恵みが注がれているのでしょうか? 今日の箇所から、私たち教会に注がれている3つの恵みを見てみたいと思います。 第一に、イエスさまによって豊かな者となるという恵みです。 5節のみことばです。……キリストにあって豊かな者とされた。これが、神さまが教会に対して見ておられる見方なのです。 何において豊かな者となっているのでしょうか。あらゆることばとあらゆる知識においてです。……コリント教会はもともと異邦人の群れであり、聖書もイエスさまも知らなかった人たちでした。しかし、パウロが宣教に訪れ、教会が形成されました。そこには聖書のみことばが語られ、みことばからイエスさまが解き明かされました。 聖書のことば、それはこの時代においては旧約聖書を指していましたが、イエスさまがみことばから解き明かされないかぎり、それはパリサイ人やサドカイ人のようなユダヤの宗教共同体にとってのみことばと何ら変わるところはなく、真理は自由にするどころか、窮屈にするばかりです。聖書のことばと知識に通じているようでも、何一つわかってはいないことになります。 パウロにしてもそうでした。パウロはどれほど学んだことでしょうか。ガマリエル門下のパリサイ人として、その学者ぶりは知れ渡っていました。 しかし、イエスさまに出会わなかったならば、それまで積み重ねてきた聖書の学びは、何一つ意味がなかったのでした。 でも、コリント教会は違いました。彼らはもちろん、聖書を深く広く学ぶことはおろか、みことばが生活化したユダヤ人のような暮らしをしていたわけではありませんでした。しかし彼らは、みことば全体の要であるイエスさまが宣べ伝えられ、イエスさまを知る知識を授かっていました。パウロは、イエスさまに出会うことで、それまで積み重ねた聖書の知識が初めて意味を持ったのですが、コリント教会の信徒たちは、最初からイエスさまが宣べ伝えられたことで、イエスさまという要をとおして聖書全体を理解する特権をいただいたのでした。 私たちもそうです。私たちは聖書全体を細かく学ばなければ信仰が持てなかったのでしょうか? そうではありません。イエスさまが宣べ伝えられて、イエスさまを信じる信仰によって、聖書が読めるようになったのでした。まさしく、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされたのです。 そのように、豊かな者とされる知識をいただくならば、どのような実が結ばれるでしょうか? 6節です。……そうです。「キリストについての証し」という実が結ばれます。 イエスさまを信じる信仰を持ち、その信仰によって聖書がわかるようになったならば、私たちの信じる神さまがいかにして私たちの生活において実を結んでくださったか、その証しが確かなものとなり、私たちはその証しを教会の中で分かち合ったり、人々に宣べ伝えたりするようになります。実に、証しという実が結ばれるということは、神さまのご栄光が人々の前であらわされるということであり、これほど素晴らしいことはありません。 そのような証しの生活は、あらゆることばとあらゆる知識がキリストにあって豊かにされていてこそ実を結ぶものです。そこで私たちの生活を省みてみたいと思います。私たちはいつも聖書を読んでいるでしょう。しかし、私たちが聖書を読むとき、そこにイエスさまがともにいらっしゃるという実感がありますでしょうか? イエスさまをとおして聖書がわかる、という感覚がありますでしょうか? それでこそ証しの実が結ばれるわけで、イエスさまへの信仰抜きで聖書を読んでいては、パリサイ人やサドカイ人がみことばに接するのと五十歩百歩にはならないでしょうか? それでは私たちの歩みは、単なる宗教以上のものになりません。そんな味気ない歩みでは、到底生けるイエスさまを証しできないのです。 だから私たちは、イエスさまによって、ことばと知識において豊かな者とされたという信仰がつねに与えられるように、その恵みがお互いに臨むように祈ってまいりたいものです。まさしく持続的な信仰は、恵みによって与えられるもので、私たちの頑張りで何とかなるものではありません。お互いのために祈ってまいりましょう。 第二に感謝すべき恵みにまいります。第二に感謝すべき恵み、それは「終末の希望」です。 イエス・キリストの証しが確かなものとなった教会は、どのようになるのでしょうか? 7節です。……そうです、まず、どんな賜物にも欠けることがない、とあります。賜物って何でしょうか? 神さまがくださるものです。 第一コリントも後半に入りますと、いろいろな賜物についての記述が出てまいります。12章の4節から11節をお読みします。……知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡、預言、霊の判別、異言とその解き明かし……いろいろな賜物が出てまいりますが、だいじなのは、これらすべての賜物は、「御霊による」ということです。 賜物というものは、単なる超常現象のようなものではありません。もちろん、場合によっては超常現象のような性質を帯びることもありますが、それは、すべてを超えて働かれる御霊なる神さまの働きだからそうなるのです。だいじなのは、「超常現象が起きているかいないか」ではありません。「それは御霊の働きである」ということです。 そもそもキリスト教会が、イエスさまを主と告白するのは、御霊の働きによることです。それだけでも充分に奇跡といえます。コリント教会においては、福音が異邦人の社会に宣べ伝えられるにあたり、たとえば「異言」のような超常現象もときには必要とされました。しかしそれは御霊の主導的な働きによることで、もし御霊が「異言」や「癒やし」のような超常現象のごとき御業がその教会に必要ないと判断されるならば、人がどんなにそれらの御業を求めても、絶対にそれは起こりません。 だから、「うちの教会には奇跡が起きていない」とか、「うちの教会では異言とその解き明かしが行われていない」などという基準で、自分たちの教会は御霊の賜物に欠けている、と判断すべきではありません。パウロがコリント教会を評価して、「あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく」と言ったそのことばは、「異言」や「癒やし」のような現象が教会の中に起きていてもいなくても、こんにち世界中に存在するすべての教会に当てはまります。 イエスさまを主と告白させてくださる全能なる御霊の働きがあるかぎり、その教会は一切賜物に欠けていないのです。もちろん、うちの教会もです。 そのように、最大の賜物である御霊が教会に臨むと、信徒たちはどのようになるか、というと、1章7節のみことばにあるとおり、「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになる」わけです。 イエスさまの現れを待ち望む、それは、顔と顔とを合わせてイエスさまにお目にかかりたいと切に願う、ということです。コリント教会がイエスさまのお話を聞いたとき、イエスさまはすでに天に昇られて何十年も経っていましたが、コリントの信徒たちはイエスさまに会いたい、という思いで、イエスさまの再臨を、一日千秋の思いで待ち望んでいたはずです。 イエスさまに会いたい、という思いを持つことは、御霊なる神さまの大いなる御業です。悪を行なっている者は、イエスさまに会いたいなどと思いません。ゴキブリに光を当てたら暗闇にこそこそと逃げていくように、イエスさまという光に照らされるなどまっぴらごめん、となるのが、悪人の特徴です。 人は本来罪人だから、罪人であるかぎり、イエスさまに会いたいなどと思いたくはないのではないでしょうか。罪を犯したアダムとエバが、神さまの足音を聞いて逃げ惑ったようなものです。それが罪人というものです。しかるに私たちはどうでしょうか? 今日にでもイエスさまに会いたい、と思っているのではないでしょうか? その思いは自分で持っているのではありません。御霊が与えてくださる思いです。 その思いは、生活にどのような動機づけを与えてくれるでしょうか? 8節です。……そうです。終わりの日に恥ずかしくなく御前に立てるように、聖霊なる神さまは私たちのことを堅く保ってくださいます。 しかし、堅く保ってくださる御霊の働きが、一方的なもので、私たちが何もする必要がないのだとするならば、聖書がこんなにも分厚く、いろいろな生活の教えが書かれている必要はありません。「イエスさまを信じましょう」だけでいいはずです。しかし、そうではなく、やはり私たちの読むべき神のみことばは、これだけの分量を必要とします。 私たちはこのみことばを守り行うように召されています。それは信仰を持つ前か、持ちたての頃の私たちには、気の遠くなるようなチャレンジではなかったでしょうか。 しかし今は、喜んでこのみことばに従おうという思いを、私たちは持っています。その最大の動機づけは、「主イエス・キリストの日に責められるところがない者」になる、ということではないでしょうか。 しかし、みことばにお従いすることは、人間的な動機づけでしようとするには限界がありすぎます。そもそも私たちは肉が生きていて、みことばに書かれている神さまの御思い、すなわち、御霊の願うことは、したくはない、したいとも思わないのです。みことばにお従いしたい思いもまた、神さまが与えてくださるものです。 私たちは、みことばにお従いして終末に備えよう、なぜなら、イエスさまが再臨して私たちに現れてくださるという希望に満ちているから……このように願うことができるのもまた神さまの恵みです。感謝して終末に備えてまいりたいものです。 第三の感謝すべき恵み、それは「イエスさまとの交わり」です。 9節のみことばをお読みします。……大前提として、神さまは真実なお方です。もし、私たち人間を含め、すべてのものの上におられる神が不正な存在ならば、私たち人間は何をしてもよく、あるいは、どこにも希望はありません。しかるに、聖書において啓示されるまことの神さまは真実なお方、偽りのないお方です。 神々の精神風土であり、港湾都市につきもののいろいろなよくない文化に毒されていたコリントから、コリント教会の信徒たちは、この真実な神さまを信じるように、神さまご自身が召してくださったのでした。どんな悪い環境の中で生まれ育とうとも、神さまが臨んでくださる以上、人は神さまを信じるようになるのです。 それは、たまたまパウロがコリントにやってきたからと考えてはいけません。人が神さまを信じることは偶然ではありません。神さまが人をお選びになり、ご自身を信じるように働きかけてくださるゆえに、人は神さまを信じるのです。 そのようにして人は、真実なる神さまを知る知識を持つようになります。キリスト教会は2000年の宣教の歴史を持ち、その結果、世間はクリスチャンに対して、きわめて高い水準の倫理を要求するようになっています。みなさまも、クリスチャンであるゆえに世間の風当たりの強さを感じることはないでしょうか? その理由のひとつとして、私たちの信じる神さまが真実なお方であると知るゆえに、私たちにも真実であること要求するから、ということがあるでしょう。 それはきびしいことです。しかし私たちクリスチャンは、真実なる神さまの招きに応えて、クリスチャンであることから逃げません。これも大きな恵みです。私たちが神さまを選んだのではなく、神さまが私たちを選んでくださった、ということです。 しかし、ほんとうにこの神さまの選びの召しが意味を持つようになるためには、私たちひとりひとりが「神との交わり」の中に自分が身を投じる必要があります。そもそも、神との交わりを持つことができるのはだれにでもできることではなく、私たちクリスチャンの特権です。 世間一般の人は神さまとの交わりなど持ちようもなく、持つことに何の意味も見いだせないものですが、私たちは、神さまとの交わりがどんなに素晴らしいものかを知っています。みことばをお読みするたび、お祈りするたび、礼拝するたび、賛美するたび、聖徒の交わりをもつたび……神との交わりというこの特権を、私たちは心ゆくまで味わうのです。 しかしそれには、意識して自分が神との交わりを持つ必要があります。極めて残念なことに、多くの人が、イエスさまを信じてバプテスマまで受けてから、信仰を失って教会から離れてしまいます。しかし、そのような人がいるからといって、9節のみことばが有名無実になるわけではありません。神との交わりに入れられた、その神の招きにお応えするのは、私たちの側の責任です。信仰から離れて「還俗」することを選択するのは人間であって、神さまがあえてそうさせると思ってはなりません。 主イエスさまとの交わりを持たせていただけるということは、私たち教会にとって最高の恵みです。私たちのすべきことは、その恵みにとどまることです。お互いにその恵みがとどまるように祈ってまいりましょう。 今日のメッセージを振り返ります。教会は、イエスさまによって豊かな者となるという恵みをいただきます。私たちはイエスさまをとおして、パリサイ人やサドカイ人のような聖書学者をはるかに凌ぐみことばの知識の恵みを神さまからいただきます。また教会は、終末に希望を抱くという恵みをいただきます。その希望を胸に私たちは、終末に日々備える恵みをいただきます。そして教会は、イエスさまとの交わりに召されるという希望をいただきます。その召しに感謝して、今日もイエスさまとの交わりに生きる私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。