子どもの好きなイエスさま

聖書箇所;マルコの福音書10:13~16/メッセージ題目;子どもの好きなイエスさま 今日は、子どものことについてお話しします。みことばをベースに、自分の証しも交えてお話しし、みなさまにも子どもたちに関心を持っていただければと願いつつ、メッセージを取り次がせていただきます。 イエスさまは人気者でした。ゆく先々に人々がついていっていました。本来彼らは、祭司やパリサイ人のような宗教指導者たちからいろいろ教えてもらってこそ満たされるはずでした。しかし、彼ら宗教指導者たちは、えらそうな教えを垂れながら何一つ必要を満たしてくれません。ユダヤの庶民たちは、そんな宗教指導者たちについていけないで飢え渇いていた人たちでした。 しかし、イエスさまのもとに行くならば、神さまのみことばのほんとうの意味を教えていただけました。死にそうに飢え渇いていたたましいはうるおされ、癒されました。それだけでしょうか? 医者たちに見放されていた病気まで癒やしていただき、だれにも追い出してもらえなかった悪霊まで追い出していただけたのです。イエスさまのもとに行けば、弱い自分も強くなれる、癒やされる……噂はうわさを呼んだことでしょう。そこかしこから人々が押し寄せ、ときには何千人という大群衆に膨れ上がったりもしました。 ここから先は、ちょっと日曜学校のメッセージっぽくお話しします。だいぶ脚色が入っていることをお断りします。ある日、ある家のお父さんが、とても素敵なニュースを聞きました。うちのまちにイエスさまがやってくる! その家には子どもがいます。有頂天になったお父さんは、心の中でこう叫びました。よーし、イエスさまに頼んで、うちのかわいい子に手を置いていただき、祝福していただこう! これは一生の記念になるぞ! そう考えたお父さんはひとりではなかったようで、何人もの大人たちが、子どもを連れてイエスさまのところにやってきました。さあ、ようやくイエスさまに会えるぞ! ところがなんとここで、みんなは信じられないようなことばをお弟子さんから聞きました。「子どもはダメです!」ガーン!……でも、仕方ないよな……年端もいかない子どもがユダヤでは一人前扱いされないのは、当たり前だもの……。帰るか……。子どもも大人も、みんながっかりです。 しかしこれを見たイエスさまは、憤られました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい! 邪魔するんじゃない!」なんで子どもたちがイエスさまのもとに来るのを邪魔してはいけないか、イエスさまはちゃんと説明してくださいました。「神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 このとき弟子たちは問われたことでしょう。子どもたちを劣っていると考えて、神の国の仲間はずれにする自分たちは、このままでひょっとして、神の国にふさわしくなくならないだろうか? イエスさまはチャレンジされているのではないでしょうか? あなたたちも、子どものように素直に神の国を受け入れているというのなら、いちばん純粋に神の国を受け入れる子どもたちを受け入れなさい。 このできごとは私たちにいろいろなことを教えてくれますが、特に教えられること、なんといってもそれは、イエスさまは子どもが大好き、ということです。 私は中学生になり、教会に通うようになりました。そして私は、イエスさまにそのまま愛されているということを実感するようになりました。そうか、子どもでいて悪いことはないのか、子どもでいいのか! そうして見てみると、教会は母体になっている診療所の産婦人科や小児科の関係で、教会の日曜学校は何十人ものお友達であふれかえっていて、どこを見ても子どもたちです。 彼らはとても純粋でした。教会学校が好きで、教会の兄弟姉妹が好き、つまり、教会が好きでした。私は彼ら子どもたちの姿を見て、子どものように神の国を受け入れるとはどういうことかを、実際に学んだのでした。 私が何度もこのメッセージの時間にお話ししているダウン症の女の子「あっこちゃん」とも、この教会学校をとおして知り合いになりました。一緒に二人して大宮駅から特急電車に乗り、長野県にある松原湖バイブルキャンプに行ったこともある仲です。私は信仰が成長していく過程において、あっこちゃんから実に多くのことを教わったと、今でも思います。そのことはのちほど改めてお話しします。 そのようにして子どもに対する意識が変わった私は、高校を卒業して、日曜学校の教師に志願しました。私は中高生の担当になりたかったし、なれるものだと思って、期待して発表を待ちました。 そして、校長先生は私をどこに配置されたかといえば……嬰児科、でした。0歳から3歳までの赤ちゃん、幼児のクラスです。校長先生は石黒妙子先生という肝っ玉母さんの産婦人科の先生で、とても逆らうことなどできません。私は数人のベテランの先生、そして子どもたちのお母さんたちに囲まれながら、見よう見真似の教師生活を始めました。わからない! 何もかも! しかし、なんとか1年やり遂げました。最後の頃にはギターを弾いて賛美をリードしたり、ネヘミヤの物語を紙芝居にして読み聞かせしたりと、少しはご奉仕らしいことをすることができました。 そこで私が学んだことは、へりくだるということでした。実はこの年、私はもうひとつのへりくだるための体験をしていました。その年の6月、私は例の松原湖バイブルキャンプの奉仕者に志願して、子どもたちの部屋ごとのまとめ役のカウンセラーになろうとしました。しかし……キャンプ場のサイドから、私はカウンセラーになるには経験が必要ということで、カウンセラーにはしてもらえませんでした。 配属されたのはグランドワーカー、あらゆる力仕事、汚れ仕事を担う働きでした。私はその打診をいただいたとき、ええ、喜んでお引き受けします、と、心にもないことを言いましたが、実際はどうだったのでしょうか? キャンプが始まってみると、子どもたちの目につかないところで労働することは体力を必要とする上に、大変な気苦労の伴うことでした。 午前4時に物音を立てないで水洗ではないおトイレを掃除したり、台風がやってきたら低い建物の入り口にたまった泥水をバケツリレーで汲み出したり、終わって疲れた体を休めるのは自分たちで立てたプレハブ小屋の中の古い布団だったり……そんな生活をしていて、私は3日目でからだをおかしくし、みんなに気を遣ってもらい、仕事を減らしてもらいながら11日目まで働くという、なんとも情けないことになったものでした。 その頃の私を振り返ると、赤ちゃんの働きにせよ、グランドワーカーにせよ、子どもの働きをするにはまず謙遜になれ、というメッセージをいただきながらの訓練のただ中にいたと思います。私は、自分にではできる、という思いが砕かれることがどうしても必要だったのでした。 しかし、訓練はこれで終わってはいませんでした。大学を卒業して、私は韓国の神学校に行き、ソウル日本人教会で奉仕をはじめました。その奉仕の一環として、ソウル市内の日本人の集住地域で、日本人の子どもたちを対象に教会学校の教師をすることになりました。それは私にとって、はじめてリーダーシップを取って働く教会学校の働きでした。私はこの働きに誇りを持ち、神学校の友達を誘って一緒に働いたりしました。 子どもたちは言うことを聞かないなりにとても可愛かったものですが、すぐに私は日本人教会から現地の教会に移籍することになりました。とても残念だったのですが、私はせっかくリーダーシップを取って働けていた働きをあえなく手離しました。 今思えば私は、自分が握っていた働きを手離し、神さまの導きにゆだねて従順になるように導かれていたのだと感じます。そうです、働き、わけても子どもの働きは人に属するものではなく、神さまのものであることを知ったのでした。あのとき子どもたちにはかわいそうな思いをさせたように思い、心を痛めましたが、しばらくたってその子たちに再会したとき、同じ日本人の集住地域にある別の教会の教会学校に通っていることを知り、心底ほっとしたものでした。やはりこれは、神さまのお導きだと知ったわけでした。 そのほかにもそれ以降、子どもの働きは数多く取り組んでまいりました。中でも、自閉症の子どもにかかわることが何回かありました。それはとても難しい働きでしたが、その一方で、そういう子どもの独特な感性に驚かされたり、ときに感動したりといったこともあったものでした。 そのような、長年の子どもたちとの付き合いからはっきり言えることは、子どもは大人よりも確実に、神の国を素直に受け入れる人たちだ、ということです。まさしく、イエスさまがおっしゃったとおりです。 ここで、先ほど先延ばしにしていたあっこちゃんの話の続きをしたいと思います。私とあっこちゃんは同い年ですが、高校3年、松原湖バイブルキャンプに参加する最後のチャンスになったとき、講師は前の年のキャンプに大好評だったアーサー・ホーランド、小坂忠、岩渕まことのお三方がまた来てくださり、またもや大きく盛り上がりました。あっこちゃんは思い余って、ノンクリスチャンのお母さまに電話をかけ、洗礼を受けたいと訴えました。お母さまは許してくれたと、そばであっこちゃんの電話を見守っていたカウンセラーの方からあとで伺いました。私はどれほどうれしかったかわかりません。 さあ、お母さまはどんなふうに迎えてくださるだろうか……キャンプから一緒に帰り、大宮駅でお母さまにお目にかかると、私は「あっこちゃんの洗礼を許してくださりありがとうございます」と申し上げました。 ところが、お母さまは言下に否定されたのでした。「いいえ、私はそういう意味で言ったのではありません。あっこが興奮していたからそう言うしかなくて……噓をついたわけじゃなかったんですよ……まったく、このキャンプは洗礼を受けている人じゃないと参加できない、ってなっていればよかったんですけどねえ……。」その間あっこちゃんは何も言えず、ただじっとお母さまにしがみついていました。私は家に帰っても何も手につかず、半日ほど放心状態でいました。それから二度と、あっこちゃんはあれほど好きだった教会学校に姿を見せなくなりました。 しかし、それからだいぶたってのことですが、この、子どものような心を持つあっこちゃんらしいエピソードを、私は当時の中高生科を担当していらっしゃった婦人の先生からお伺いしたのでした。 先生はあっこちゃんのところに電話をしました。あっこちゃんは元気でした。よくお祈りもしていたそうです。 しかし、それだけではありません。あっこちゃんは先生に、自分の空想話を聞かせてくれたのだそうです。それは先生をとおして間接的に聞いても、実に新鮮で、感動的なものでした。 あっこちゃんはこう言ったそうです。……ある夜ね、イエスさまが「泊まるところがないから泊めて!」と、あたしのところを尋ねてきたの。でね、イエスさまはどんな格好をしていたと思う? パジャマを着ていたの! 私は先生からそれを聞いて、あっけにとられました。イエスさまがパジャマを着ているだなんて! しかしそれと同時に、私の心の奥底から、なんともいえない感動が沸き起こってまいりました。 私は今日のメッセージを準備するにあたり、そのときあっこちゃんが言っていたことの意味を、あらためて自分なりに考えてみました。子どもの無垢な心の空想をあれこれ解釈するなんて、野暮なことなのは重々承知していますが、それはきっと、こんなことだったのではと考えます。 パジャマというものは、外に着ていくためのものではありません。まれにゴミ捨て場にごみを捨てに行くとき、パジャマを着たまま出ていきたくなるかもしれませんが、会社や学校のようなフォーマルな場には、間違っても着ていきません。作業着やジャージは着るかもしれませんが、パジャマはまず着ません。 逆に言えば、家の中で休むときもスーツや学生服、仕事着を脱がないようでは、自分も落ち着きませんし、見ているほうも落ち着きません。やはりゆったりした服装でいてほしいです。でも、下着で歩き回るのはちょっとみっともない。そんなとき、パジャマを着ていたら、少なくとも見ているほうは安心します。ああ、お父さんは、おうちではよろいを脱いで、私たちのことを信頼してくれている! 安心してくれている! 家族はそう思ってくれるでしょう。 イエスさまがパジャマ姿であっこちゃんのお部屋を訪ねてきた、ということばに、婦人の先生も私も感動したのは、どうしてでしょうか? あっこちゃんにとってイエスさまは安心できるお方だ、ということだけではなくて、イエスさまも、あたしの存在に安心していらっしゃる、ということを、あっこちゃんが心底感じているのが、先生にも私にもわかったからだと思います。 イエスさまが、神の国は子どもたちのものだからわたしのもとに来させなさい、とおっしゃったのも、まさにこの流れで説明できないでしょうか? わたしは、わたしのことを素直に理解してくれる子どもたちと、わたしを慕ってそばに近寄ってくれる子どもたちと、一緒にいるとほっとする、気持ちがいい、どんどん来させなさい、それがわたしの力だ、とおっしゃっているようです。 これに対して、大人はどうでしょうか? 自分の学んできた知識、身に着けてきた知識はいっぱいあるかもしれません。でもそのせいで、神の国を素直に受け入れることができなくなっています。そんな人とイエスさまはいっしょにいたいとお思いになるでしょうか? まるでパジャマを着て一緒にいるような、リラックスしたお気持ちをその人と一緒にいてお感じになってくださるでしょうか? でも、子どもたちなら、素直にイエスさまを受け入れます。イエスさまはそんな子どもたちと一緒にいることをお喜びになることでしょう。私は、イエスさまが子どものことをそのように見ていらっしゃると信じるからこそ、昨日の子どもの働きを何としても休まずやり遂げたかったのでした。その結果私は大きな力をいただきました。ああ、やってよかった! なんて元気をもらえたんだろう! 今日私は疲れを知らずに、こうしてご奉仕をさせていただいています。 私自身も問われます。イエスさまは果たして、パジャマ姿で私のところに来てくださるだろうか? よお、わたしはキミといろいろ話がしたい、ちょっといさせてもらうよ! 私は、そんなふうにイエスさまに言っていただけるだろうか、と思います。はっきり言ってちょっと自信がないですが、私もそんなふうにイエスさまに言っていただけるようになりたいと、心から思います。みなさまはいかがでしょうか? イエスさまはパジャマ姿でみなさまのところにいらしてくださると思いますか? 昨日、久しぶりに持った子どもお楽しみ会は、単なる夏の恒例行事以上の意味があることです。これを取っかかりに、子どもたちがイエスさまに出会うように、教会学校は努めてまいります。威儀を正したイエスさまよりも、パジャマ姿のイエスさまに出会ってほしい、そんな気持ちです。 みなさまにもどうか、子どもたちがイエスさまに出会う働き、子ども伝道に関心を持っていただきたいのです。うちの教会はコロナ下になっても、子ども伝道のともしびを消さないでいられたのは神さまの恵みです。この働きをする教会をイエスさまは喜び、祝福してくださる、どうかこのことを忘れないでいただきたいのです。そして、祈って支えていただきたいのです。 子どもを受け入れてくださるイエスさまの心で子どもを受け入れる、つまり、子どもたちがイエスさまを受け入れる働きを喜んでする、それゆえに神さまが私たちを祝福してくださるように、主の御名によってお祈りいたします。

教会に注がれた恵み

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:4~9/メッセージ題目;教会に注がれた恵み 私の通っていた中学高校には、購買部がありまして、文房具などを買うことができました。それで、鉛筆などはそのままでは使えないので、電動削り器を使えるようになっていました。中には、先が丸くなった鉛筆を削るのにちょっと拝借する生徒もいました。それで……その鉛筆削り器の上には、こんな小さな張り紙がしてありました。「使ったら、『ありがとうございました』の言える人になりましょう」……。 購買部のおばさんの嘆きが聞こえてきそうでした。ただで使わせてもらっているのに、「ありがとう」のひと言もないとは何事ですか……。がさつな男子校にありがちなマナーの悪さを象徴するような張り紙ですが、そんなことを見ても、「ありがとう」というあいさつは当たり前に交わせないものだということをしみじみ思います。 私たちは聖書を手にしています。聖書は「すべてのことについて感謝しなさい」と私たちに教えています。私たちは神さまに「感謝します」と普段から言えていますでしょうか? あれやこれやをお願いするお祈りばかりしても、どんな小さなことでも感謝するお祈りができないようでは困ります。 今日学びます箇所、第一コリントの1章4節から9節は、先々週学びました箇所の続き、教会とは何か、ということについて、コリント教会をモデルに、さらに具体的に話が展開していきます。その大前提となるのが4節のみことばです。何と書いてありますでしょうか? ……あなたがたコリント教会に与えられた神の恵みのゆえに、私パウロは私の神に感謝しています、ということです。自分の牧会する教会のために感謝できるなんて、言い方はあれですが、牧師冥利に尽きる、といった感じです。ええ、私も、水戸第一聖書バプテスト教会のみなさまのゆえに、神さまに感謝しています。 私の神、とあります。パウロが信じ、パウロが宣べ伝えてきた神さまです。その同じ神さまの恵みが、パウロが開拓し、牧会してきたコリント教会に臨んでいる、ということです。それゆえに私の神さまに感謝します……。 大前提となりますのは、コリント教会の現状ではありません。具体的な現状をひとつひとつ見るならば、コリント教会は決して褒められたものではありません。 パウロとしては苦言を呈さなければならないところだらけでした。もちろん、そのような叱責のことばはあとから続いていくわけですが、パウロがこの手紙をしたためる前提として語っていることは、コリント教会の恥ずかしい現実ではなく、そのような教会であるにもかかわらず神さまが注いでおられる恵みです。 このことからわかりますことは、教会というものは恥ずかしい現実、整っていない現実を見て判断する以前に、その教会を教会として立ててくださっている神さまの恵みにこそ目を留めるべきであるということです。私たちはつい、目に見えるもので判断してしまいがちです。しかしどうか、神さまが私たち教会をどのような存在としてくださっているか、そこにこそ目を留めて、お互いがさばき合ったり、引き下げ合ったりすることをどうかやめて、徳を高め合う共同体を形づくってまいりたいものです。 そこで私たちが学ぶべきことですが、私たち教会には、神さまからどのような恵みが注がれているのでしょうか? 今日の箇所から、私たち教会に注がれている3つの恵みを見てみたいと思います。 第一に、イエスさまによって豊かな者となるという恵みです。 5節のみことばです。……キリストにあって豊かな者とされた。これが、神さまが教会に対して見ておられる見方なのです。 何において豊かな者となっているのでしょうか。あらゆることばとあらゆる知識においてです。……コリント教会はもともと異邦人の群れであり、聖書もイエスさまも知らなかった人たちでした。しかし、パウロが宣教に訪れ、教会が形成されました。そこには聖書のみことばが語られ、みことばからイエスさまが解き明かされました。 聖書のことば、それはこの時代においては旧約聖書を指していましたが、イエスさまがみことばから解き明かされないかぎり、それはパリサイ人やサドカイ人のようなユダヤの宗教共同体にとってのみことばと何ら変わるところはなく、真理は自由にするどころか、窮屈にするばかりです。聖書のことばと知識に通じているようでも、何一つわかってはいないことになります。 パウロにしてもそうでした。パウロはどれほど学んだことでしょうか。ガマリエル門下のパリサイ人として、その学者ぶりは知れ渡っていました。 しかし、イエスさまに出会わなかったならば、それまで積み重ねてきた聖書の学びは、何一つ意味がなかったのでした。 でも、コリント教会は違いました。彼らはもちろん、聖書を深く広く学ぶことはおろか、みことばが生活化したユダヤ人のような暮らしをしていたわけではありませんでした。しかし彼らは、みことば全体の要であるイエスさまが宣べ伝えられ、イエスさまを知る知識を授かっていました。パウロは、イエスさまに出会うことで、それまで積み重ねた聖書の知識が初めて意味を持ったのですが、コリント教会の信徒たちは、最初からイエスさまが宣べ伝えられたことで、イエスさまという要をとおして聖書全体を理解する特権をいただいたのでした。 私たちもそうです。私たちは聖書全体を細かく学ばなければ信仰が持てなかったのでしょうか? そうではありません。イエスさまが宣べ伝えられて、イエスさまを信じる信仰によって、聖書が読めるようになったのでした。まさしく、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされたのです。 そのように、豊かな者とされる知識をいただくならば、どのような実が結ばれるでしょうか? 6節です。……そうです。「キリストについての証し」という実が結ばれます。 イエスさまを信じる信仰を持ち、その信仰によって聖書がわかるようになったならば、私たちの信じる神さまがいかにして私たちの生活において実を結んでくださったか、その証しが確かなものとなり、私たちはその証しを教会の中で分かち合ったり、人々に宣べ伝えたりするようになります。実に、証しという実が結ばれるということは、神さまのご栄光が人々の前であらわされるということであり、これほど素晴らしいことはありません。 そのような証しの生活は、あらゆることばとあらゆる知識がキリストにあって豊かにされていてこそ実を結ぶものです。そこで私たちの生活を省みてみたいと思います。私たちはいつも聖書を読んでいるでしょう。しかし、私たちが聖書を読むとき、そこにイエスさまがともにいらっしゃるという実感がありますでしょうか? イエスさまをとおして聖書がわかる、という感覚がありますでしょうか? それでこそ証しの実が結ばれるわけで、イエスさまへの信仰抜きで聖書を読んでいては、パリサイ人やサドカイ人がみことばに接するのと五十歩百歩にはならないでしょうか? それでは私たちの歩みは、単なる宗教以上のものになりません。そんな味気ない歩みでは、到底生けるイエスさまを証しできないのです。 だから私たちは、イエスさまによって、ことばと知識において豊かな者とされたという信仰がつねに与えられるように、その恵みがお互いに臨むように祈ってまいりたいものです。まさしく持続的な信仰は、恵みによって与えられるもので、私たちの頑張りで何とかなるものではありません。お互いのために祈ってまいりましょう。 第二に感謝すべき恵みにまいります。第二に感謝すべき恵み、それは「終末の希望」です。 イエス・キリストの証しが確かなものとなった教会は、どのようになるのでしょうか? 7節です。……そうです、まず、どんな賜物にも欠けることがない、とあります。賜物って何でしょうか? 神さまがくださるものです。 第一コリントも後半に入りますと、いろいろな賜物についての記述が出てまいります。12章の4節から11節をお読みします。……知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡、預言、霊の判別、異言とその解き明かし……いろいろな賜物が出てまいりますが、だいじなのは、これらすべての賜物は、「御霊による」ということです。 賜物というものは、単なる超常現象のようなものではありません。もちろん、場合によっては超常現象のような性質を帯びることもありますが、それは、すべてを超えて働かれる御霊なる神さまの働きだからそうなるのです。だいじなのは、「超常現象が起きているかいないか」ではありません。「それは御霊の働きである」ということです。 そもそもキリスト教会が、イエスさまを主と告白するのは、御霊の働きによることです。それだけでも充分に奇跡といえます。コリント教会においては、福音が異邦人の社会に宣べ伝えられるにあたり、たとえば「異言」のような超常現象もときには必要とされました。しかしそれは御霊の主導的な働きによることで、もし御霊が「異言」や「癒やし」のような超常現象のごとき御業がその教会に必要ないと判断されるならば、人がどんなにそれらの御業を求めても、絶対にそれは起こりません。 だから、「うちの教会には奇跡が起きていない」とか、「うちの教会では異言とその解き明かしが行われていない」などという基準で、自分たちの教会は御霊の賜物に欠けている、と判断すべきではありません。パウロがコリント教会を評価して、「あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく」と言ったそのことばは、「異言」や「癒やし」のような現象が教会の中に起きていてもいなくても、こんにち世界中に存在するすべての教会に当てはまります。 イエスさまを主と告白させてくださる全能なる御霊の働きがあるかぎり、その教会は一切賜物に欠けていないのです。もちろん、うちの教会もです。 そのように、最大の賜物である御霊が教会に臨むと、信徒たちはどのようになるか、というと、1章7節のみことばにあるとおり、「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになる」わけです。 イエスさまの現れを待ち望む、それは、顔と顔とを合わせてイエスさまにお目にかかりたいと切に願う、ということです。コリント教会がイエスさまのお話を聞いたとき、イエスさまはすでに天に昇られて何十年も経っていましたが、コリントの信徒たちはイエスさまに会いたい、という思いで、イエスさまの再臨を、一日千秋の思いで待ち望んでいたはずです。 イエスさまに会いたい、という思いを持つことは、御霊なる神さまの大いなる御業です。悪を行なっている者は、イエスさまに会いたいなどと思いません。ゴキブリに光を当てたら暗闇にこそこそと逃げていくように、イエスさまという光に照らされるなどまっぴらごめん、となるのが、悪人の特徴です。 人は本来罪人だから、罪人であるかぎり、イエスさまに会いたいなどと思いたくはないのではないでしょうか。罪を犯したアダムとエバが、神さまの足音を聞いて逃げ惑ったようなものです。それが罪人というものです。しかるに私たちはどうでしょうか? 今日にでもイエスさまに会いたい、と思っているのではないでしょうか? その思いは自分で持っているのではありません。御霊が与えてくださる思いです。 その思いは、生活にどのような動機づけを与えてくれるでしょうか? 8節です。……そうです。終わりの日に恥ずかしくなく御前に立てるように、聖霊なる神さまは私たちのことを堅く保ってくださいます。 しかし、堅く保ってくださる御霊の働きが、一方的なもので、私たちが何もする必要がないのだとするならば、聖書がこんなにも分厚く、いろいろな生活の教えが書かれている必要はありません。「イエスさまを信じましょう」だけでいいはずです。しかし、そうではなく、やはり私たちの読むべき神のみことばは、これだけの分量を必要とします。 私たちはこのみことばを守り行うように召されています。それは信仰を持つ前か、持ちたての頃の私たちには、気の遠くなるようなチャレンジではなかったでしょうか。 しかし今は、喜んでこのみことばに従おうという思いを、私たちは持っています。その最大の動機づけは、「主イエス・キリストの日に責められるところがない者」になる、ということではないでしょうか。 しかし、みことばにお従いすることは、人間的な動機づけでしようとするには限界がありすぎます。そもそも私たちは肉が生きていて、みことばに書かれている神さまの御思い、すなわち、御霊の願うことは、したくはない、したいとも思わないのです。みことばにお従いしたい思いもまた、神さまが与えてくださるものです。 私たちは、みことばにお従いして終末に備えよう、なぜなら、イエスさまが再臨して私たちに現れてくださるという希望に満ちているから……このように願うことができるのもまた神さまの恵みです。感謝して終末に備えてまいりたいものです。 第三の感謝すべき恵み、それは「イエスさまとの交わり」です。 9節のみことばをお読みします。……大前提として、神さまは真実なお方です。もし、私たち人間を含め、すべてのものの上におられる神が不正な存在ならば、私たち人間は何をしてもよく、あるいは、どこにも希望はありません。しかるに、聖書において啓示されるまことの神さまは真実なお方、偽りのないお方です。 神々の精神風土であり、港湾都市につきもののいろいろなよくない文化に毒されていたコリントから、コリント教会の信徒たちは、この真実な神さまを信じるように、神さまご自身が召してくださったのでした。どんな悪い環境の中で生まれ育とうとも、神さまが臨んでくださる以上、人は神さまを信じるようになるのです。 それは、たまたまパウロがコリントにやってきたからと考えてはいけません。人が神さまを信じることは偶然ではありません。神さまが人をお選びになり、ご自身を信じるように働きかけてくださるゆえに、人は神さまを信じるのです。 そのようにして人は、真実なる神さまを知る知識を持つようになります。キリスト教会は2000年の宣教の歴史を持ち、その結果、世間はクリスチャンに対して、きわめて高い水準の倫理を要求するようになっています。みなさまも、クリスチャンであるゆえに世間の風当たりの強さを感じることはないでしょうか? その理由のひとつとして、私たちの信じる神さまが真実なお方であると知るゆえに、私たちにも真実であること要求するから、ということがあるでしょう。 それはきびしいことです。しかし私たちクリスチャンは、真実なる神さまの招きに応えて、クリスチャンであることから逃げません。これも大きな恵みです。私たちが神さまを選んだのではなく、神さまが私たちを選んでくださった、ということです。 しかし、ほんとうにこの神さまの選びの召しが意味を持つようになるためには、私たちひとりひとりが「神との交わり」の中に自分が身を投じる必要があります。そもそも、神との交わりを持つことができるのはだれにでもできることではなく、私たちクリスチャンの特権です。 世間一般の人は神さまとの交わりなど持ちようもなく、持つことに何の意味も見いだせないものですが、私たちは、神さまとの交わりがどんなに素晴らしいものかを知っています。みことばをお読みするたび、お祈りするたび、礼拝するたび、賛美するたび、聖徒の交わりをもつたび……神との交わりというこの特権を、私たちは心ゆくまで味わうのです。 しかしそれには、意識して自分が神との交わりを持つ必要があります。極めて残念なことに、多くの人が、イエスさまを信じてバプテスマまで受けてから、信仰を失って教会から離れてしまいます。しかし、そのような人がいるからといって、9節のみことばが有名無実になるわけではありません。神との交わりに入れられた、その神の招きにお応えするのは、私たちの側の責任です。信仰から離れて「還俗」することを選択するのは人間であって、神さまがあえてそうさせると思ってはなりません。 主イエスさまとの交わりを持たせていただけるということは、私たち教会にとって最高の恵みです。私たちのすべきことは、その恵みにとどまることです。お互いにその恵みがとどまるように祈ってまいりましょう。 今日のメッセージを振り返ります。教会は、イエスさまによって豊かな者となるという恵みをいただきます。私たちはイエスさまをとおして、パリサイ人やサドカイ人のような聖書学者をはるかに凌ぐみことばの知識の恵みを神さまからいただきます。また教会は、終末に希望を抱くという恵みをいただきます。その希望を胸に私たちは、終末に日々備える恵みをいただきます。そして教会は、イエスさまとの交わりに召されるという希望をいただきます。その召しに感謝して、今日もイエスさまとの交わりに生きる私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「教会はキリストの花嫁」

聖書本文;エペソ人への手紙5:22~24/メッセージ題目;「教会はキリストの花嫁」  私の親戚一族は、母と兄、そして私が教会に通っていた以外には、キリスト教会とはとんと縁がありませんでしたが、あることをきっかけに、キリスト教会というものにちょっと好意的になりました。それは私が大学生のとき、いとこが、軽井沢のチャペルで、結婚式を牧師先生の司式で挙げたときのことでした。  もちろん、いとこはクリスチャンではなく、そればかりか、教会に通った経験さえあるわけではありません。そんないとこと、いとこの配偶者になる方のことを、司式をなさった牧師先生が「兄弟姉妹」と呼んでおられたのは、何とも不思議な気がしました。それでも結婚式は、軽井沢という土地柄も相まって、きわめてロマンチックなムードにあふれたものとなりました。 私の伯父はそれを見て、私に、「俊孝もキリスト教式で結婚式を挙げたらいい」といいました。当たり前のことを言わないでほしい、ぼくはクリスチャンだよ、という気分になりましたが、事程左様に、日本の人は教会のことを知っているわけではなく、それだけに、教会というものに一定のロマンを感じているものだと知ったできごとでした。 キリスト教式の結婚式がこれだけ日本ではやっていることは、日本人が宗教というものに無節操だからだと一概に責めることは、ないのではないかなと思います。花嫁が最高に輝くのは、やはりキリスト教式の結婚式ではないでしょうか。 でも、花嫁さんが輝くのは、結婚式だけではないはずです。新婚生活。ウェディング・ドレスをまとって結婚式の主人公になるだけではなく、新婚生活で旦那さんにいっぱいに愛されるなんて、すてきだなあ、と思います。 さて、本日のテーマは、教会はキリストの花嫁、ということで、みことばが語る「花嫁」というものについて、ともに学んでまいりたいと思います。このテーマで語るなら、みことばは私たちに実に多くのことを教えていて、語るべきことがたくさんありますが、今日はその中から、エペソ人への手紙5章の、よく結婚式で牧師先生のメッセージ本文に引用される箇所からお語りしたいと思います。 「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」特に結婚していらっしゃるみなさまにお伺いしたいのですが、このみことばから何を感じますでしょうか? これは、結婚された年数によってさまざまだと思います。まだまだ新婚気分の方なら、うんうん、とうなずかれるでしょう。もう結婚生活が長くなった方はもしかすると、主にお従いするように? そんなの無理! でしょうか? まあ、続きをお聞きください。23節です。……この23節のみことばは、3つのことを語っています。第一に、キリストが教会のかしらである、ということ。第二に、キリストがご自身のからだの救い主である、ということ。そして第三に、そのように、夫は妻のかしらである、ということです。 第一のポイントからまいりましょう。キリストは教会のかしらです。先週私たちは、教会はキリストのからだである、と学びました。からだならば、かしら、頭の部分があるわけです。その頭の部分に当たるのが、イエス・キリストである、というわけです。 あらためて考えてみるまでもないことですが、人間にとってのすべての行動は、頭に位置する脳の指令によることで、たとえば蚊に刺されて「かゆい」と感じたりすることも、明るい場所に出て「まぶしい」と感じたりすることも、みんな脳があるからそう反応するわけです。人間にとっては24時間どんなときも、脳と無関係な行動など存在しません。今こうしてみなさまの前でメッセージをすることにしても、立っていよう、マイクを握っていよう、原稿を読もう、みんなに視線を配ろう、このくらいの声の大きさと口調で話そう……みんな、脳の働きです。 イエスさまがかしらであるということはそのように、教会というものは、キリストのありとあらゆる指令なしには存在することができないことを意味します。私たちはあらゆることを、主のみことばに従って語り、行動します。ゆえに私たちは普段から、主は何を私たちに願っていらっしゃるのか、みことばから学ぶのです。普段からみことばに親しんでいるならば、聖霊なる神さまは私たちのうちに働き、ふさわしいことばを語らせてくださり、ふさわしい行いをさせてくださいます。 それゆえに私たちもまた、キリストのからだであるという自覚を持ち、イエスさまが私たちに願っていらっしゃることをみことばから受け取って、聖霊さまの助けによって語らせていただき、行わせていただくように、日々自分を主にささげていく必要があるわけです。 ディボーションというものはそのように、日々自分を主にささげることであり、単なる宗教的な行い、習慣のように考えるべきではありません。ディボーションを通して主の御声が受け取れていないと感じていらっしゃる方は、牧師まで個別におっしゃっていただければ感謝です。ともに対策を考えてまいりたいと思います。 もう一度申しますが、教会がキリストのからだであるならば、そのかしら、頭(あたま)はキリスト、イエスさまです。誤解される方がいらっしゃらないことを願いますが、牧師が頭なのではありません。牧師である私が講壇でみことばを取り次ぐのは、教会全体がかしらなるキリストに結びつくお手伝いをしていること以上のものではありません。 逆に言えば、みなさまがこのメッセージをお聴きになったとき、細かいたとえ話などが心に残るのではなく、よりいっそうキリストに結びつくようになったならば、私はメッセージを取り次いだ責任を果たしたことになります。 私たちは、かしらであるキリストに結びつくことによって、キリストの願っておらっしゃることを心から喜んで行いたいと願うようになります。そうでないならば、私たちは今なお肉が生きている弱い者です。御霊に逆らう肉の願うことを行いたいと心底願い、結果として罪を犯し、神さまのご栄光をいたくけがすことになります。 そのような人は名前ばかりのクリスチャンで、かしらなるキリストに結びついているなどとは到底言えません。いや、私たちは弱いのだから、罪人なのだから、仕方がない、などと言い訳してはなりません。なぜならば、私たちのかしらはキリストなのであって、私たちの肉の欲望のままに生きてかまわないと吹き込む、サタンではないからです。 では、私たちにとってはなぜ、キリストがかしらなのでしょうか? そこで第二のポイントです。キリストがご自身のからだなる教会の救い主だからです。 私たちはクリスチャンです。神さまのものです。しかし、私たちがイエスさまを信じてクリスチャンになるとき、私たちは、自分が神さまのことを選んだからクリスチャンになったのでしょうか? そうではありません。神さまが私たちを愛し、私たちのために御子イエスさまを遣わしてくださったから、私たちは神さまを愛しているのです。先にあったのは私たちの愛ではありません。神さまの愛です。神さまが愛してくださったから、聖霊さまは私たちがイエスさまを信じ受け入れるように働いてくださったのでした。 神さまが私たちを選んでくださったということは、私たちがまだ罪人であったとき、キリスト・イエスさまが私たちの罪のために死んでくださったということ、そのことによって、神さまが私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださった、ということです。 私たちが犠牲を払って神さまの愛を報酬として獲得するのではありません。犠牲は、神さまの側で支払ってくださったのです。 数年前、山中知義先生が教会にいらしたとき、メッセージで語ってくださいましたが、イエスさまが十字架の上で息を引き取られるとき最後におっしゃったことば、「完了した」ということばは、「テテレスタイ」であり、これは「支払い完了」ということばです。 本来私たち人間は、罪人ゆえに、罪の報酬は死、死、それも、永遠の死をもって神さまに償わなければなりませんでした。しかし、あわれみ深い神さまは、私たち人間が死をもって滅んでしまうことを喜ばれず、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださることにより、その死をもって、私たちの支払うべき罪の代価を、ことごとく支払ってくださいました。テテレスタイ、支払いは完了したのです。 キリストは単にからだのかしらなのではありません。からだの救い主です。私たち主の教会は、キリストに救っていただいたゆえに、キリストのからだとしていただいた存在です。私たちの罪深さを思うならば、どれほどもったいないことでしょうか? 先週私たちは、礼拝において主の晩さんを執り行いました。パンとぶどう汁をいただくことは、単なる宗教的儀礼以上の意味のあることです。パンをキリストのからだに見立て、ぶどう汁をキリストの血潮に見立ててともにいただくということは、私たちがキリストのからだにされている、そして私たちがキリストのからだにされるために、キリストが十字架で血潮を流されたことを、ともに告白するということです。 そのように、キリストがみからだなる教会のかしらとして、みからだなる教会のためにご自分のいのちを差し出されたことを、私たちは地上において、どのように表現するのでしょうか? そこで第三のポイントです。夫たる男性が妻たる女性のかしらとして振る舞い、妻がすべてのことで夫に従うことで、このキリストと教会の相愛関係は完成されます。 このようなことをいうと、フェミニズムの運動家の方々に眉をひそめられることは重々承知です。しかし、聖書に示された、神さまが私たちに与えてくださった原則は、夫たる男性は妻たる女性のかしらである、ということです。 聖書を初めから終わりまで読んでもはっきりしているとおり、神さまは「父なる神さま」である以上、神さまのイメージは男性と女性のどちらなのか、と尋ねられれば、男性、と答えるべきでしょう。 実際、神さまによって最初に造られた人間であるアダムは男性ですし、神のひとり子イエスさまも男性です。イスラエルの十二部族を形づくるヤコブの十二人の子どもも、イエスさまの十二弟子も、みな男性です。聖書の重要な登場人物は女性ももちろんいますが、多くは男性です。そういった事実は、神のかたちは男性であることを聖書が語っていることを裏づけています。 しかし、24節にあるとおり、「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい」と、もし私たちが直接語られたとすれば、私たちはいささか反発心を覚えないでしょうか? 私たちはすべてにおいてキリストに従いたい、ええ、従いたいわよ。私はクリスチャンですもの。でも、うちの宿六亭主に、すべてのことで従いなさいって? 冗談じゃないわ! こうなってしまうのはなぜでしょうか? そう、それは、この地上に存在する多くの夫婦関係において夫とは、妻から見て、宿六亭主のように見なされるしかない、という問題があるからです。 このように妻から見なされるのは、だいたいの場合、夫の側に問題があります。最大の理由は、23節のみことばに隠されています。23節のみことばは何の前提もなく、「夫は妻のかしらです」とは書いていません。「キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように」という但し書きがついたうえで、「夫は妻のかしらなのです」と書いてあります。どういうことかというと、妻を自分のからだとして愛していない、ということです。 夫が妻をどう愛さなければならないかは、そのあとの25節から28節に書いてあるとおりです。お読みしたいと思います。 25節のみことばを見ると、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように」とあります。キリスト・イエスさまは何をして教会を愛されましたか? 何をして教会のためにご自分を献げられましたか? はい、「十字架におかかりになって」です。 つまり夫たる男性は、妻たる女性のために日々十字架を負うことによって、初めて妻に愛される、尊敬される、従ってもらえる資格を得ることができるというべきです。犠牲を払うのです。献身するのです。 そういう犠牲も、そういう献身も、そういう謙遜も一切なくて、聖書に書いてあるんだから私に従え、などと、けっして言うべきではありません。 いったいイエスさまは、教会以外の存在のために十字架を負われたでしょうか? 教会以外の存在のために犠牲を払われたでしょうか? いいえ、イエスさまの十字架の犠牲は、教会のためにだけ向けられた完璧なものでした。 夫たる男性は、なかなかイエスさまが愛されたようには、妻を愛することができないかもしれません。しかし、「キリストが愛されたように妻を愛したい、なぜならば、それがみこころだから」と、心から願って取り組んでまいりたいものです。その態度はやがて、奥さんに伝わり、奥さんも、このみことばのとおりに夫に従いたい、という思いを持つように、必ず変わるはずです。 以上のことはおもに、結婚していらっしゃる方に向けてお語りしていることですが、結婚していらっしゃらない方を含めた教会全体の兄弟姉妹には、私はこのようにお伝えしたいと思います。私たちはいっしょに、キリストの貞淑な花嫁になろう。この世のどんな夫婦関係の成し遂げ得ない、キリストとの相思相愛の関係をつくっていこう。 花嫁としてキリストに従うには、心の中が花婿なるキリストでいっぱいになっている必要があります。2000年前、イエスさまのおられたとこにはどこにでも、人々がついて行きました。俗っぽい言い方をすれば、アイドルの追っかけのように、イエスさまの追っかけだったわけです。 私たちは今こうして、みことばを開いてお祈りすることで、あの当時のパレスチナのユダヤ人に負けないほど、イエスさまの近くに行くことができます。いや、彼らよりももっと祝福されています。 わずか3年のイエスさまの公生涯で、直接お声をかけていただいた人がどれだけいたというのでしょうか? でも私たちは、会話まで交わすことができるのです。御手で触れていただくことができるのです。 イエスさまがアイドル歌手のようだったら、追っかけをするばかりで、心の中に憧れのイメージをつくるだけで満足するしかありません。 しかしイエスさまはアイドル歌手のような遠い憧れではありません。すぐそばにいる「花婿」つまり、「花嫁の夫」です。いつでもそばにいられるのです。いつでも話せるのです。いつでも愛してくださるのです。 ならば私たち教会のすることは何でしょうか? そう、「花嫁修業」です。私たちの地上の歩みは、キリストに嫁ぐ終わりの日に備えた「花嫁修業」になぞらえることができるでしょう。大好きなイエスさまに迎えていただけると思ったら、よい行いをしてしっかり備えていきたい、と思いませんでしょうか? ヨハネの黙示録は、キリストの花嫁なる教会が身にまとう白いウェディング・ドレスは、聖徒の正しい行いである語っています。聖徒として、すなわち、神さまのみこころにふさわしく、正しい行いをしていくのです。私たちは正しい行いで救いを獲得するわけではありません。救われているゆえに、救ってくださったイエスさまのすばらしさを顕すべく、みこころにかなった正しい行いを積み重ねていくのです。 その歩みは一朝一夕にできるようになるものではありません。ありていに言ってしまえば、すべては「練習」です。しかし、私たちの生き方はたとえ、御国につくまでの練習であっても、間違いなく、主のご栄光を人々の前に輝かせ、人々が私たちをとおして神さまをほめたたえるように導きます。 花嫁修業に励むことは、真剣にしてまいりたいものです。花婿イエスさまにいっぱいに愛されている、その愛に応えるために、ともに、どんなことでも励んでまいりましょう。私たちの日々の努力が、主の恵みによって支えられ、終わりに日に恥ずかしくなく、花婿なるイエスさまの御前にともに立つものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

教会はキリストのからだ

エペソ1:23「教会はキリストのからだ」 小噺をひとつ。最近の高齢化社会、病院の待合室はお年寄りばかり、まるで常連さんのお年寄りの談話室のようになっています。耳を傾けてみましょう。こんなことを話しています。「今日、高橋さんが来てないねえ。」「うん、どっか悪いんだろうねえ。」 こんな冗談もあります。テレビを見ても新聞広告を見ても、健康食品や健康器具の宣伝ばかり。健康になりたい。健康でいたい。健康のためなら死んでもいい。 冗談ばかりでくどいですが、先代の林家三平師匠のギャグに、「からだ大事にしてください」というものがありました。今聞くとこれはギャグでも何でもなく、あたりまえのこと、としか思えません。三平師匠に言われるまでもなく、からだは大事です。健康はしっかり守らなければ。だからご飯もちゃんと食べますし、運動だってちゃんとするのです。 なぜ、からだというものは大事なのでしょうか。それは、神のかたちを映すものだからです。私たちはこのからだを動かして、神の栄光を現します。ことばを操ることだって、口という肉体、手という肉体、脳という肉体を動かすのであって、からだなしにはできないことです。 そのように私たちクリスチャンは、神のかたちにつくられた肉体を用いて、神の栄光を現します。誠実に働いて、さすがイエスさまを信じている人だ、と、周囲にイエスさまを証しします。子どもたちやお年寄り、社会的に弱者にされている人をケアして、神さまの愛と正義を世の中に実現します。どのように生きるにせよ、私たちは神の栄光を現すという大きな目的をもって生きるわけですが、それはすべて、肉体、からだを用いてすることです。 私たちは、聖書をお読みすると、ときに目に見えない神さまを描写する場面に出会います。そのとき、目ですとか、鼻ですとか、口ですとか、手や足ですとか、そういう器官が神さまにあると書いてあります。それは、私たち人間が自分たちの肉体を見て、そこから神さまのイメージを自由に考えてそう描写しているのでしょうか? 人間が口で語るように神さまに口があって語られるとか? いいえ、そう考えるべきではありません。もともと神さまは、人間に見えないだけで、目や口、手足といったものをお持ちであり、人間は神のかたちにつくられたのだから、神のかたちにしたがって、器官や手足がこのようになっているというべきです。 そうです、私たち人間は、神のかたち、どのような肉体に生まれついていたとしても、神のかたちを映す存在です。男性であろうと女性であろうと、お年寄りでも子どもでも、どんな民族であろうと、障害があろうとなかろうと、どんな人でも神のかたちです。 特に障害ということについていえば、障害があるなどといって、差別したり排除したりするのは人間の社会のすることであって、神さまの御目にはそうではありません。イエスさまはそのような障碍者にとてもやさしく、そのような人は親の罪や自分の罪のせいでそう生まれついたのではない、神の栄光が現れるためにそう生まれたのだと断言なさいました。 そういう、からだ。しかし、完璧なからだというものは果たして、この世界に存在したのでしょうか? 神さまによって最初に創造されたアダムも、最後には死にました。そういう意味では完璧なからだではありません。サムソンは恐るべき屈強な男でした。しかし、髪を剃ったら力が抜けるようなからだなど、完璧とは程遠いものです。 完璧なからだが歴史上唯一あったとすれば、それはイエスさまのおからだでしょう。イエスさまのおからだを見るということは、父なる神さまを見るということです。それだけでも、イエスさまのおからだは完璧です。 さあ、ようやくここで、今日の聖書箇所にまいります。こんにち、私たちの住む社会にも、イエス・キリストの完璧なからだはあるのです。それは何ですか? はい、教会が、キリストのからだです。今ここに集う私たち、それが、キリストの完璧なからだなのです。 教会というと、教える会、教えの会と書くわけで、聖書勉強をする集会所のようなイメージがどうしてもあるかと思いますが、教会とは、聖書勉強をする集まり以上の場所です。聖書を学び、学んだみことばをもって兄弟姉妹が愛し合い、その愛をもって隣人に愛を実践すべく遣わされる共同体です。それが、キリストのからだだというのです。 みなさん、自分を見て、お互いを見てみましょう。これが完璧なからだ? キリストのからだ? 信じられない! こんな欠けだらけなのが! こんな病んでいて歪んでいるのが! そう思いませんでしょうか? でも、私たちはキリストのからだなのです。そりゃ、私たちは完璧ではありません。病んでいますし、罪だらけの者です。しかし、私たちはさばく目で自分やお互いのことを見てはなりません。神さまがイエスさまの十字架によって完璧に罪を洗いきよめてくださった、その神さまの御目にしたがって私たちを見たいものです。私たちは神さまがきよめてくださったものです。神がきよめたものを、きよくないと言ってはならないのです。 さて、教会はキリストのからだであるわけですが、福音書を中心に新約聖書に収録されているイエスさまの地上の生涯は、そっくりそのまま私たち教会に当てはまると言っても過言ではありません。なぜなら、私たち教会はキリストのからだである以上、イエスさまがなされたとおりのみわざ、イエスさまが生きられたとおりの生き方を地上で実現することが、神さまによって許されているからです。 とは申しましても、私たちはまだまだ罪の性質が存在するものであり、きよめにあずかりつづけることで、キリストに似たものとされていくことを必要としています。それでも私たちは、罪深い自分たちの姿にがっかりしてしまうことなしに、あきらめないで、キリストが生きられたその地上の生涯を再現する生き方を、教会というこの信仰の共同体をもって実現したいと、強く願いながら生きていきたいものです。 そのためにも私たちは、イエスさまが肉体をもって生きられたその地上のご生涯に、どのようにならうかを考えたいと思います。とはいいましても、イエスさまが肉体をとられた最大の理由は、十字架におかかりになり、復活されるためです。そこから解き明かしていくならば、時間がいくらあっても足りません。十字架に至るあらゆる奇跡、宣教のみわざも同様です。 今日はもっと根本的なことを見てみたいと思います。うちに、『ピーナッツ』の漫画本がありますが、登場人物の紹介で「スヌーピー」のところを見ると、最後に「現在の趣味は寝ることと食べること」とあります。何とも人を食った紹介ですが、犬にとって寝ることと食べることが必要なのと同様、人は寝ることと食べることが必要です。イエスさまも人として生きておられた以上、お休みになることとお食事をとられることは必須でした。ただ、イエスさまの場合のそれは、ただ単に寝ること、食べることとは根本的にその持つ意味が異なっており、私たち教会もその点で、イエスさまにならうものとなりたいわけです。 それではまず、眠る、ならぬ、休息をとる、ということから見てまいりましょう。イエスさまは、取るべき時に休息を取られました。 マルコの福音書1章を読んでみますと、イエスさまは1日のうちに、実に多くの働きをなさっています。これがイエスさまの日常生活だったと思うと、どれほど大変なことだろうかと、凡人の私など読んでいて目を回しそうになります。 このイエスさまの生活を支えていたものは何だったのでしょうか? それは、35節を見ると明らかです。……そうです、御父との個人的な深い交わりです。 イエスさまはおっしゃいました。人の子には枕するところもない。それはどういうことかというと、イエスさまは、この世が求めているような安楽、快楽の中でまことの休息を得るようなお方ではない、ということです。それは、教会もキリストのからだである以上、同じことで、教会もこの世的な快楽でなど休息できません。 笑えない実話をひとつ分かち合います。ある中学生くらいの女の子が、教会でバプテスマを受けることになり、バプテスマの証しを書き、牧師先生にチェックしてもらいました。すると、こんなことが書いてあったというのです。「私は日曜学校のプログラムで、遊園地に行って楽しかったので、バプテスマを受けたいです。」さすがに却下したそうですが、私はそれを聞いて、つくづく、この世的な楽しみは教会に合わないものだ、と思ったものでした。 いずれにせよ、レジャー旅行で遊ぶようなことは、みこころに従った休息と呼ぶには少々無理のあることです。アトラクションに乗るために延々長蛇の列に並び、帰るころには家族でぐったり、なんてなったら、なおさらです。 とは言いましても、せっかくの日曜日を「ネテヨウビ」で過ごすのも困りものです。箴言のみことばは、「眠りを愛してはならない。さもなくば貧しくなる」とはっきり語っています。 ただ、イエスさまも疲れを覚えられたとき、嵐に揺れる船の中であろうともぐっすり眠っておられました。イエスさまも眠られた以上、寝ることそのものは悪ではありません。しかし、箴言のみことばのとおり、睡眠というものは「愛する」べきものではありません。疲れたら充分に睡眠をとることは必要ですが、それは「睡眠を愛する」ためではなく、生産的な働きの実を結ぶうえで力を回復するため以上のものであってはなりません。 しかし逆に、「寝る間を惜しんで」ということは、しばしば美談のように語られますが、それをもてはやすのは慎むべきでしょう。私たちの肉体は限界があります。休むべき時に休まなければなりません。 よく、殺人的スケジュールということばを私たちは用います。このことばは誇張でも何でもありません。私には、高校時代、一緒に旅行に行ったり、学園祭で一緒に劇を演じたりした親友がいました。彼は社会人になって、ある大手証券会社の課長代理をしていましたが、今から十数年前のリーマンショックの頃、ただでさえ多忙だったところにさらに重い責任がのしかかり、たまに会うと明らかにやつれていて、ほんとうに心配になったものでした。そんな彼も長い独身生活の末、ようやく結婚のお相手が決まって、私は喜びました。さあ、いよいよ式だという矢先、彼は突然亡くなりました。過労死というものでしょう。悲しいのとむなしいのと怒りとで、今思い返してもやりきれない思いになります。 この証券マンの友達には遠く及ばないかもしれませんが、かつて日本の教会は、とても忙しくしていた時期がありました。教会は成長を志向し、礼拝はもちろんのこと、日曜学校も平日の祈祷会も、とても活動的でした。特伝、なんていって、特別伝道集会を持ち、そのPRのために教会を挙げて住宅街にチラシのポスティングに行きました。献金もいっしょうけんめいしました。 それはみな、とても素晴らしいことだったにちがいありません。しかし、あれだけ日本中の教会が努力したにもかかわらず、クリスチャンが国民の1%の壁を破るなど、いまだに夢のまた夢です。そればかりか、少子高齢化の波は教会にも容赦なく押し寄せ、いまや兼牧は当たり前、教会合併も今後は増える一方の見通し、そこへもってきてコロナ下はなおつづく……こうなると、教会も今までの在り方を考え直す必要が生じています。 考え直すことはいろいろあるでしょう。しかし私が最も強調したいこと、それは、イエスさまがそうなさったように、教会が御父の前に休息を取りつつ、御父との深い交わりを持つことです。 あれだけ忙しかった中で、教会はちゃんと休んでいただろうか、御父の前で休息をしっかりとっていただろうか……いま、自分たちはきちんと御父の前に憩えているだろうか……ぜひ、胸に手を当てて、ご自身に問うてみていただきたのです。 私は何も、シオン錦秋湖でも日光オリーブの里でも、うちの教会がこぞってどこか遠くに出かけてリトリートの集会を持つべきだ、といいたいのではありません。そのような保養施設やキャンプの存在にも意義があるのは確かですが、私たちがそろって御父との静かな交わりのうちに憩うことは、今いるところでできることです。 それを、教会でともにできる場所があるとすれば……。私はそれを、礼拝開始前の時間だと考えます。 みなさまにお尋ねしますが、みなさまは礼拝に来られるとき、いつも何時何分に礼拝室の椅子についていらっしゃいますか? 私がお願いしたいことは、どんなに遅くても、礼拝開始10分前には椅子についていただきたい、ということです。 そこでみんなで、心を整えて祈るのです。初めはうまくいかなくてもいいです。もっと言えば、居眠りしてしまったってかまいません。その時間こそ、父なる神さまの前に憩いつつ祈り、交わりを持つ、リトリートの時間です。 慣れてくれば、10分前といわず、15分前、20分前、30分前にいらっしゃり、さらに祈りに集中することができるようになるはずです。少しずつ努力しましょう。それはご自身の個人的な時間にとどまらず、教会の兄弟姉妹がともに御前にて憩いつつ御父と交わることにつながります。今日それができなかったとしても、ぜひ来週からでもその時間を持っていただきたければと願います。 次に、食べること、イエスさまが食事をなさったことの意味を考えてみましょう。 イエスさまは神の子でいらっしゃいましたが、食事もしないような超人として生きられたわけではありません。公生涯の初めには40日の断食をなさったと福音書にはありますが、それは公生涯においては例外的なことであり、その断食の終わりにイエスさまが空腹を覚えられたことも、聖書は率直に記述しています。イエスさまは基本的に食事をしていらっしゃいました。 でも、イエスさまはなぜ食事をするのでしょうか? それはもちろん、人として栄養をお摂りになるためでしたが、福音書を読んでみますと、イエスさまがおひとりで食事をされたという場面は出てきません。 あえて挙げるとすれば、十字架の上で酸いぶどう酒を受けられたという箇所くらいですが、これを「食事」に含めるのはかなり無理があります。福音書に収録されているイエスさまのお食事のシーンは、必ずだれかと一緒です。 これはどういうことでしょうか? イエスさまがご自身の肉体の必要を満たされたのは、だれかとの交わりをもってしたことだったことを、私たちに教えているのではないでしょうか? このことからわかることは、キリストのからだを満たし、保つことは、聖徒お互いの間の交わりを持つことから始まる、ということではないでしょうか。私たちのうちのだれかが、礼拝の時間にやってきたら、あとはだれとも話さないで帰る、というのでは、教会は少なくとも、その兄弟姉妹と愛し合うという機会を失ってしまいます。 コロナ下ということは、そのような交わりを持たせなくするという意味において、きわめて悪魔的です。このような状況がずっと続いていることに、どこへも持って行きようのない怒りの声を上げたくなります。 しかし、どうかご理解ください。これはまともなことではないのです。交わりによってお互いが豊かになるということをしない教会は、本来の役割を果たしていないのです。その、本来の役割を果たさないまま続いていることに、私たちは慣らされてはなりません。 私は韓国の神学校にいたとき、友達もいないで、学生食堂でひとりでご飯を食べることの多い者でした。すると、たいてい、ほかの神学生がずんずん近づいてきて、「なんで一人で食べているんですか?」と声をかけてきて、私の向かいの席に座ったものでした。あの頃、私は留学生活でストレスがたまることも多く、そんな親切に対して、ほっといてください、といいたくなることも多かったのですが、いまにして考えると、あれはほんとうにありがたいことで、気を遣ってくれた神学生のみなさんは、キリストのからだということをよく理解しておられたのだなあと思います。 あの頃私は、自分のことしか考えられず、食事というものに対して神さまが与えておられる役割をよく理解していませんでした。ご飯を食べることは交わりのためにすることです。いえ、ご飯だけでしょうか? 何もかもみな、交わりを持つためにすることです。 いま、私たちは教会で会食をすることはしていません。それは衛生のためであり、外部の人への証しのためでもあります。 しかし、そうであっても、私たちから交わりというものそのものが失われたわけではありません。このような中でも私たちは交わりに飢え渇き、会話を交わしています。これは当たり前のことです。なぜなら、キリストのからだなる教会とはそうあるべきだからです。 イエスさまが喜ばれたように交わりを喜ぶ、この祝福が与えられていることを感謝したいものです。 今日は、私たち教会はキリストのからだとしていかなる存在かということを学びました。イエスさまは単に休まれたのではありません。御父との交わりを持たれました。私たちも御父との交わりをともに持つのです。イエスさまは単に食事をされたのではありません。私たち人と交わりを持たれたのです。私たちも兄弟姉妹との交わりを持つのです。そのようにして、キリストのからだとして生きる生き方を全うして、主に喜ばれる私たちとなることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。