「献身する聖徒の祝福」

聖書箇所;テモテへの手紙第一3:8~13/メッセージ題目;「献身する聖徒の祝福」  今日は、コロナ下の教会総会の開催される日ということもあり、特別ヴァージョンのメッセージをいたします。長くいたしません!  本日の箇所、テモテへの手紙第一3章8節から13節は、それまでの7節の監督の条件、すなわち、教会を監督として治める立場にある人の条件に続いて、執事の条件を語っています。監督の条件については、去年くわしく学びました。ほんらい監督とは、教会を指導する教職者に当たるもので、私たちもみな、教会において仕えるリーダーシップを発揮する立場として、監督という立場を自分たちに当てはめて学んだわけでした。 しかし執事となりますと、これは明らかに、教会員として教会に仕える一般信徒の立場にある人です。しかし、つまり、このみことばは、そのような人はどうあるべきかaを説いているみことばであるわけです。  執事についてですが、基本的に、私たちバプテスト教会においては、役員クラスの信徒を執事という肩書を与えるケースが多くあります。当教会は執事という制度を今のところ敷いていませんが、バプテストの教会には執事を制度化している教会がわりとあるわけです。  ただ、私が長年身を置いた韓国の長老派の教会は、バプテスト教会とは執事に対する考えが少し異なっています。一般的に長老派の教会は、主任牧師と、選挙で選ばれた信徒代表役員の長老たちによる合議によって教会に関するほとんどのことが決められます。  このような長老教会の中で、特に韓国の長老教会にも「執事」という制度があります。これは、「長老」とは別個に存在する職制で、バプテスト教会における執事のような、教会役員クラスの重責を負う立場にはありません。だいたい、満30歳以上の既婚者、あるいは社会的立場のある信徒は、「執事」という肩書が与えられます。  もちろん、執事は、単なる名誉職のような肩書のように思ってはなりません。執事というからには、教会のお世話、信徒のお世話をしてしかるべきです。私がその例の韓国教会にいたとき、伝道師として日曜学校を担当していたのですが、その日曜学校の生徒の小学生の男の子に、執事って何ですか? という質問を受けたことがありました。 私は言いました。「教会や信徒のお世話をする人のことだよ。」すると彼は目を丸くして言いました。「えー! うちの父ちゃん、そうなの!?」  やれやれ、おうちではいったいどんなお父さんなんだろう、と思ったものでしたが、教会で見せる姿とおうちや職場で見せる姿に裏表があったら困ります。 この8節以下のみことばは、教会役員クラスの信徒に語っているとも言えますが、一方で韓国教会の成人の信徒のような、ある程度の年齢になった社会人の信徒はすべからく守るべきみことばとも言えるわけです。このみことばが「執事」を対象に語られていると考えると、教会に仕える人はどうかこのようであってください、と語っているわけですが、信徒はやはり、教会とほかの信徒に仕えてこその存在であり、そういう者として、普段の生活から備えることが求められています。   今日、ここにいらしている信徒の方々は、ほとんどの方が、ここが韓国の長老教会と仮定すると、「執事さん」と呼ばれるべき方々で、中には「長老さん」と呼ばれるべき方もいらっしゃいます。こちらのお姉さんも、いずれ大きくなったら「執事さん」と呼ばれるにふさわしい成長を遂げてほしいと切に願います。   さて、執事になるべき人はこうあっていただきたい、と、いろいろな条件が並んでいます。みな、ごもっとも、とお思いだと思うので、今日はくわしくひとつひとつを扱うことはいたしません。 ただ、ひとつだけ。執事にするにはまず審査をうけさせなさいと書かれています。どういう審査でしょうか? 教会役員としての狭い意味での執事の場合でしたら、たとえば教会総会などの場で、信徒の選挙というような形で審査を受け、ふさわしければ当選します。   しかし、私たちひとりひとりを執事と考えた場合、すなわち、韓国教会の制度のような広い意味での「執事」と解釈した場合、「審査」とは何でしょうか? あの教会学校の男の子が言ったことばのように、ちゃんと見ている人、間近で見ている人に何か言われたら、ひとたまりもないのが私たちではないでしょうか? そんな私たちにとっての「審査」とは何でしょうか?    聖書の知識を増し加えたとか、毎日聖書を読んでお祈りすることが習慣となったとか、そういうチェックをするのでしょうか? ちがいます。そういったことも、それはそれで大事なことには違いありませんが、それは広い意味での「執事」であるうえで、重要な「審査」の基準ではありません。 ほんとうに大事なのは、自分の歩みがつねに神と人の前に審査されているという緊張感をもって、キリストの似姿にふさわしい、愛の実、愛のわざを生活の中に結んでいるかどうかです。   韓国教会が成人信徒に「執事」という肩書をつけ、教会生活により一層の責任を持ってもらおうと導くことは、一種の知恵ではないかと思います。実際、若者だった信徒たちは「執事」と呼ばれることにより、それ相応の責任感が育てられています。いいことです。 ただ、それは韓国のような、一般的にも、名前プラス肩書という呼び方が敬称として用いられる国だから可能なことで、日本のような、肩書で呼ぶとよそよそしくなるような国だと、それは少し難しいと思います。どう呼んでもらえるかというよりも、自分はこの聖書箇所で語られている「執事」と呼ばれるにふさわしくあろう、という自覚が、つねに必要です。   責任の伴う生き方は、それなりにしんどいものではあります。しかし、このみことばは「執事」として生きる人に対し、豊かな祝福を説いています。13節です。   良い地歩を占める。この社会においても、キリスト者としてふさわしい証しを、良い行いを通して残し、その生活があらゆる点で祝福される、というわけです。ただし、その祝福は、世の中の人々が祝福と思っていることと、同じことも多いかもしれませんが、必ずしも百パーセント、同じとはかぎりません。特に、偶像礼拝やお酒の席、この世的な不正に対して、難しい判断を迫られて苦労する、ということも、主にお従いする生活を続けていくうちにどんどん起きてくるかもしれません。   それでも、私たちがぶれずに主にお従いする生き方をするならば、主は私たちに大きな祝福を与えてくださいます。その祝福は特に、イエスさまを信じる信仰について強い確信を持つという形で現れます。私たちはもちろん、信仰を増し加えていただきたいから、その祝福をいただきたいから、コロナをものともせずにこうして日曜日に教会に集まっているわけでしょう。私たちの信仰は増し加えていただけるのです。私たちは祝福されるのです。信じていただきたいのです。   本日は短い時間ですが、教会総会のひと時を持ちます。みなが教会と聖徒にお仕えする当事者として、今日このときにともに、一丸となって取り組みます。教会は牧師ですとか役員ですとか、一部の人だけがその責任を担うのではありません。全員が責任を持つものです。総会にしっかり取り組みましょう。   そして、おうちにお帰りになったら、今日の箇所を改めてお読みください。私たちはこのように生きる責任が与えられていること、そして、大いなる祝福が与えられていることを心に留め、この2021年度、ますます主と教会に献身するものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

苦難にあっても忠実であれ

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:8~11/メッセージ題目;苦難にあっても忠実であれ  聖書は、聖徒が苦難にあうことを語っています。もちろん、そういう苦難は、私が先週立てつづけに体験したようなものとはまったくちがうものです。教会図書にある『たといそうでなくても』ですとか『サビーナ』といった本をぜひお読みいただきたいのですが、イエスさまを信じる信仰を貫いたゆえに、国家神道原理主義の日本の支配下にあった朝鮮ですとか、共産主義のルーマニアですとか、そういった国々で、聖徒たちは塗炭の苦しみを味わわされました。そんな方々のことを考えると、ごみ捨てに行けるだけのごみを出せる家に住めることも、きちんとした礼拝堂で礼拝できることも、格別の恵みというほかありません。  ヨハネの黙示録、7つの教会についての学びは今日が2回目、スミルナ教会についてです。  まず、このメッセージは、語ってくださるお方、イエスさまがどのようなお方かを告げるみことばから始まっています。スミルナ教会に語られるイエスさまは、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」であるということです。  イエスさまは7つの教会にそれぞれメッセージを語られるわけですが、そのメッセージを始められるにあたって、語ってくださるお方であるイエスさまとはどのようなお方か、修飾することばは、7つすべて異なっています。その修飾することばは特に、その教会ごとに対し意味があります。  先週私たちは、エペソ教会に対して語られたイエスさまのみことばを学びました。その修飾のことばは、「右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台を歩く方」です。七つの星、七つの燭台が、教会という意味を持っている以上、エペソ教会にこのメッセージを語られたのは、あなたがたエペソ教会が、教会、キリストのからだと呼ばれるにふさわしくあろうとするなら、初めの愛に立ち帰れ、という意味がありました。   今日の箇所、スミルナ教会に向かわれるイエスさまの御姿は、8節に書かれているとおりです。「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」……。   イエスさまがこういうお方であることは、私たちにとってどのような意味があるでしょうか? 私たち人間はいつかはこの地の生涯を終える存在であり、それはありていに言えば「死ぬ」存在である、ということです。   その「死ぬ」ということは、多くの場合、永遠の別れを意味します。だから死にたくはありません。ましてや、苦しんで死ぬなどなおさら避けたいことです。   それなのに、教会を迫害する者たちは、イエスさまを信じつづければおまえは死ぬよ、とちらつかせ、その死に対する恐怖をかきたてることで、人を信仰から引き離そうとします。   私たちは弱いです。ある牧師のお嬢さんが、『たといそうでなくても』を読んだとき、こんなことを言ったそうです。「こんな目にあったら、あたしなら信仰捨てちゃいそうだよ!」私は彼女のことを責めることなどできないと思いました。そうです、肉体的、精神的に極限まで追い詰められたら、私たちはどうすればいいというのでしょうか。   イエスさまが初めであり終わりである、死んでよみがえられた方であることを知ることは、そのように死と隣り合わせで迫害を受けかねない私たちにとって、この上なく必要なことです。十字架に死なれても三日目によみがえられたイエスさまは、私たち、有限であり、死ぬべき私たちに、よみがえりのいのち、永遠のいのちを与えてくださいます。この、永遠のいのちの信仰が、私たちを生かします。   9節を読みましょう。スミルナ教会を神さまはどう評価していらっしゃいますでしょうか? スミルナ教会は、苦難の中にあり、また窮乏していました。しかし、主はその苦難と貧しさを知っておられ、わたしはあなたがたがどんなに苦しいかよく知っているよ、と言ってくださいます。   苦しいということ、貧しいということは、できれば避けたいことです。 教会が成長するということには、経済的に豊かになって苦しさ、貧しさから抜け出すということも含まれてしかるべきです。しかし、教会は思うように成長しない、人が増えるわけでもなければ、経済的に豊かになるわけでもない、目下このコロナ下においては、礼拝に人が来なくなるという事態にもなるわけです。神さま、なぜですか! と叫び出したくなるようなそのとき……神さまは、私たちがなぜ苦しんでいるかすべてご存じで、そんな苦しみの中にある私たちのことを慰めてくださいます。   なんというみことばで慰めてくださるのでしょうか?「だが、あなたは富んでいるのだ。」そうです、経済的に、物質的に貧しいかどうか、あるいは、目に見える状況が苦しいかどうかということを、つい私たちは気にしてしまいます。しかし、神さまが私たちクリスチャン、教会をご覧になる基準は、そこにはありません。神さまがいったん、「あなたは富んでいる」とおっしゃるなら、状況はどうあれ、私たちは富んでいるのです。   教会が富んでいるかどうかは、教会の年間予算の額や、登録教会員なり礼拝出席者なりの数や、礼拝堂の大きさ、立派さで決まるのではありません。まことの富なる神さまが教会とともにおられるように、教会が神さまをお迎えしているかどうかです。もし、立派な礼拝堂を持ち、たくさんの会衆を集め、インターネットの礼拝中継はたくさんの視聴者を集め、そうとうな年間予算を誇る教会であったとしても、神さまの御声にその教会が無関心であるならば、その教会は「富んでいる」とはとても言えません。   もし、私たちがおのが貧しさを痛感し、神さまに涙をもって訴えるがごとく進み出るなら、それで私たちは「富んでいる」者となるのです。私たちは何を見て自分自身や、教会を評価するのでしょうか? お金のような目に見えるものではなく、目に見えない神さまのやさしい御目で自分たちのことを見ることができるならば、幸いなことです。   しかし、神さまがともにおられるゆえの霊的な富は、ある面では目に見える富をもたらします。「ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられている」……実は、これは富なのです。   うそではありません。これは、イエスさまがおっしゃっているとおりです。マタイの福音書5章、11節と12節に書かれているとおりです。   預言者とは、イエスさまのご到来を、その生き方をもって証しした人々です。しかし、イスラエル、ユダヤの既得権を握った者たちは、まことに神に従順であったそんな彼らを忌み嫌い、苦しめました。そのように、スミルナ教会はユダヤ人といいながら、まことの救い主であるイエスさまを信じない者たちから、塗炭の苦しみを味わわされていました。   だが、マタイ伝のイエスさまのみことばによれば、そんな聖徒たちは、天で大きな報いを受けるということです。天の御国においては、地上でイエスさまの御名のゆえに苦しんだ者、特に、イエスさまを信じ従っているというその理由で迫害を加えてくる者たちの、その迫害を耐え忍んだ聖徒たちに、主は大きな報いを与えてくださいます。   私たちがもし、この地上の生涯で終わりならば、そのような苦しみには意味がないことになるでしょう。しかし主は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」です。この永遠のいのちなるお方が私たちのことを、永遠の御国へと迎えてくださるゆえ、私たちはこの地上の苦しみを耐え忍ぶことに、大きな意義をいだくことができるのです。それは、イエスさまのあとについて自分の十字架を背負う生き方ですが、最高の祝福です。   10節にまいりましょう。「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。」このようにイエスさまがおっしゃるのは、苦しい思いをすることは、普通に考えるならば恐れることである、ということが前提となっています。いやー、自分はどんな目にあっても全く平気だよー、こわくないよー、なんて言うのは、ほんとうに苦しいとはどういうことかわかっていないからそう言っているだけに過ぎません。私も若い頃は、そのようなことを言ったものでしたが、それは、向こう見ず、というか、無謀、というか、いえ、そんなかっこいいものではなく、無知、だったということです。   苦しみを恐れないのは、無謀だからでも、無知だからでもありません。イエスさまがその苦しみを、完全に受けてくださったからです。考えてみましょう。神の御子があらゆるあざけりを受け、十字架でなぶり殺しにされ、ついには御父とのいのちの交わりが絶ち切られたと考えてください。そのイエスさまの苦しみはいかばかりか! それに比べたら、私たちの体験する苦しみなど、何ほどのこともありません。かつて、信仰の先達は、たいへんな迫害を受けましたが、彼らは何と言って耐えたのでしょうか。イエスさまの十字架に比べれば、こんなことは苦しみのうちに入らない……。 私は、このようにして迫害に耐えた先達のことばを、声を大にしてお伝えしたいのです。主は私たちにも、このように十字架を負う恵みを与えてくださるのだと。もちろん、このように語る私自身が失格者になってはなりません。自分を打ちたたいてでも、この永遠のいのちをくださったイエスさまにお従いしていく必要があります。 みことばは続きます。「見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。」これは、脅かして言っているのではなく、実際にあなたがたはそうなる、とおっしゃっていることばです。これは警告、つまり、そうならないように避けなさい、というおことばではありません。あなたはサタンによって迫害を受け、試されます。でも、死に至るまで忠実でありなさい。 「あなたは十日の間、苦難にあう」。この「十日」ということばは、文字どおりの十日、240時間という意味と取るべきでしょうか? それよりも、これは「象徴」としての時間と考えるといいでしょう。 私たちは苦しみに遭います。しかし、その苦しみに終わりがあると知っているなら、私たちは耐えられるのではないでしょうか?「十日」という時間は、案外長くない時間と考えられるでしょう。二週間にも満たない期間です。そのように、主はサタンに対し、私たち主の民を苦しめるのにも長すぎる時間を許してはおられない、ということです。私たちは苦しみますが、耐えることができるのです。 私たち聖徒は、地上では苦しみに次ぐ苦しみを体験します。しかしいのちが天国に移され、主とともに永遠に生きるようになったならば、その地上の長かった苦しみなど、あたかも十日かそこらの監獄生活のようではないでしょうか? さきほども申しました『たといそうでなくても』や『サビーナ』での監獄の生活は、もちろん、数字のうえでの十日ではすみません。その登場人物の中には朱基徹(チュ・キチョル)牧師のように、長い長い獄中生活のはて、苦しんで苦しんだ末にいのちを落とした人もいたわけでした。しかし、その後に控えていたものは永遠の天国、いのちの冠であったことは、もはや疑いようがありません。 私たちが避けるべきものは何でしょうか? この地において、キリストのゆえに受ける苦難ではありません。私たちが避けるべきは、苦しまなくていいという、安逸な心、安逸な生活です。脅かして言うのでもなんでもなく、私たちはサタンの試みにあい、苦しむ定めです。 それが避けられない以上、私たちのすることは、そうなっても信仰から離れてしまうことのないように、コロナ下とはいえそれでもまだ平常時といえる今から、普段からの主との交わりに努め、この愛するイエスさまを絶対に裏切ることがないように、ますますイエスさまを愛し、兄弟姉妹のために、教会のためにお祈りすることが必要ではないでしょうか? そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える、とあります。あなた、つまり教会がいのちの冠を受けるのです。信徒個人が、だれかほかの信徒を出し抜いて信仰深くなって、ほかの信徒が受けられないいのちの冠を私が受ける、ということではありません。そういうことはありえません。教会全体が一緒にいのちの冠を受けるのです。 聖書を読むとほとんどの場合、登場人物を介して主のみわざが語られています。この新約時代も、パウロやペテロ、そしてその周辺の人々によって教会が形づくられた様子が、使徒の働きや手紙類から垣間見えます。しかし、ヨハネの黙示録をご覧ください。この黙示録を記したヨハネ以外、どんな特定の登場人物もいません。あえているとすれば、7つの教会の7人の御使いです。擬人化された教会です。教会があたかもひとりの人のように、考え、語り、みことばに従う振る舞いをするのです。 それは今の時代も同じです。著名なクリスチャンや牧師が教会をつくるのではありません。私たち全員がひとつの教会、ひとつのからだなのです。教会の歴史とは、私たち全員がみことばに従順に従うことで紡ぐものです。…

初めの愛

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:1~7/メッセージ題目;初めの愛 むかし、日本独自のキャラメルの製法を編み出した森永太一郎という人物は、クリスチャンでした。そんな彼の信仰を反映して、彼の創業したお菓子の会社は、天使のマークなのだということです。 そういうこともあるからでしょうか、私の印象では、一般的に日本では、人々はキリスト教の象徴として天使にとても馴染んでいるように思えます。しかし、実際に聖書を読んでみますと、天使――新改訳聖書では「御使い」と表現していますが――は、案外登場しません。同じ霊的な存在でも、御父、御子、御霊なる神さまのほうがよほど大事な存在だからということもあろうかと思います。 しかし、やはり御使いは大事な存在であることに変わりはありません。御使いとはどのような存在でしょうか? ヘブル人への手紙1章14節は、御使いをこのように定義しています。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。」というわけで御使いは霊的な存在であり、救いを受け継ぐ聖徒に仕える存在です。 さて、今日から始まる7つの教会への使信ですが、人の子、主イエスさまは、ヨハネに対し「〇〇にある教会の御使いに書き送れ」と語っておられます。7つの教会の御使いを御手の中に握っておられるお方が、ヨハネに対し、御使いに書き送れと語っておられる、これいかに? といったところでしょう。 これは、「御使い」とはどのような存在かを改めて考えることで、謎が解けていきます。今回私はこの箇所の背景を勉強し、「御使い」とは、「神の使信を教会に語り伝えるメッセンジャー」という意味もあることを知りました。してみると、この「御使い」は、目に見えない霊的な存在であるところの「天使」を意味しているとはかぎらない、ということにもなるわけです。 しかし、そうなると、またほかの疑問が生じます。なぜここでわざわざ「御使い」という表現をしているのだろうか? 人間なら、ほかの言い方をしてもよさそうなものではないだろうか? 教会は単なる人の集まりではありません。霊的な存在です。単に人の群れとしての教会に書き送っているのとは次元が異なります。 教会にこの使信を書き送るとは、教会がこの使信を共有することで御使いに象徴される教会の霊的状況が左右されるということであり、きわめておごそかなことです。 その前提で、この7つの教会への指針、まず今日はエペソ教会への使信を読んでみたいと思います。エペソ教会に宛てたこの使信は3部構成になっています。見てまいりましょう。 第一は、神さまからの賞賛です。主は、エペソ教会の行い、労苦と忍耐を覚えていらっしゃいました。 教会を運営するということは大変な労苦と忍耐を必要とします。先週の金曜日、茨城県は緊急事態宣言を発令しました。コロナウイルス流行の第三波は、これまでにない勢いで日本を、世界を呑み込んでいます。 このようなとき、教会は難しい決断を迫られるばかりで、信徒は疲弊させられます。去年の5月、水谷潔先生がたいへんショッキングなことをおっしゃっていました。日本の教会の牧師たちは、経済的理由や精神的疲弊により、今年の3月までには、1割がもう牧師を続けられなくなっているだろう……。 これを読んだとき私は大きなショックを受けたものでしたが、その3月が間近になった今、感謝なことに、日本の教会と牧会者たちはおおかた、まだやれているようです。 エペソ教会はというと、パウロが開拓し、テモテが牧会し、そして今はヨハネの手にゆだねられましたが、女神アルテミスの門前町という偶像の精神風土の中にあり、たいへんな思いをして教会が保たれてきたことが、聖書のあちこちから垣間見えます。私たちも今たいへんな思いをしていますが、エペソ教会の体験していた苦難に比べたら、ものの数でもないでしょう。 教会は苦難に遭います。しかし、そのような中でも灯を消さずにいつづけるならば、それはすばらしいことです。教会とは、天国を地上に実現する場所であり、教会がなければだれひとりとして、神さまに出会うことができず、したがってだれひとりとして、この世界においてまことの希望を持つことができません。それゆえ、教会を何としてでも存続させなければ! と、この世の勢力と戦ってでも努力することは素晴らしいことです。 その戦いはときに、自称「使徒」を試すことで成り立ちます。「使徒」を自称する者たちはいつでも教会に入りこみます。 ひとことで言えば、彼ら自称「使徒」は、「論より証拠」で迫ってきます。ほらご覧なさい、あなたがた教会は古臭い教えにこだわっていますが、私たちはこんなにも霊的ですよ、天国を知っていますよ、それが証拠に、こんな霊的なことができるのですから……ことさらに異言を唱えたり、預言なるものをしたり、いやしの働きをことさらに行なったり……。 よくわかっていない人は、このようなカギカッコつきの「霊的」な彼らの姿にだまされ、キリストの花嫁なる教会の純潔を失うのです。イエスさまではない、人をあがめ、人についていくのです。「異端」というものの存在をなぜ許してはいけないか、それは、人をキリストから離れさせるから、つまり、永遠のいのちを失わせ、二度と救われる機会を与えさせないからです。 エペソ教会は、教会の純潔のために戦いました。それまでもエペソ教会には、パウロ、テモテによってしっかりした神学がたたき込まれていたわけで、その神学に堅く立って、その神学の物差しにあわない者は、たとえ論より証拠の説得力があっても排除しました。 このたび当教会は、礼拝後の短い時間に教理問答の勉強を始めることになりました。これは教会を強くするために必要なことです。正当な教理は、消毒液がコロナウイルスを死滅させるように、異端に引き込む教えをやっつけ、教会を守ります。学びを大切にしていただきたいのです。 しかし、このような内憂外患の連続では、教会やその指導者たちは燃え尽きてしまわないものでしょうか。けれども、神さまの御目には、彼らエペソ教会は「疲れ果てなかった」のでした。これは相当な賞賛ではないでしょうか。それほど彼らは教会を大切に思い、教会に力を注ぐことを第一としてきたのでした。 私たちも、今置かれている状況はとても厳しいものがあります。「初代教会のような迫害を受けていないのなら、もっと耐え忍べ!」などという問題ではありません。その時代、その時代の厳しさがあります。私たちもつらいのです。 こんなとき私たちは、慰めを与えてくださる神さまの御声に耳を傾けたいものです。よくやった、よい忠実なしもべだ。神さまは、その御声をかけてくださるお方です。頑張って燃え尽きてしまいそうな私たちにも、疲れ果ててはいない、と、最大限の賞賛をくださるお方です。 いま、疲れてはいないでしょうか? 神さまの御声に耳を傾けましょう。 そして、元気づけてくださるみわざを体験されますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 第二は、神さまからの叱責です。 これだけほめられたエペソ教会は、しかし、神さまのお叱りを受けなければなりませんでした。4節をお読みしましょう。……エペソ教会は、初めの愛から離れてしまったのでした。 神は愛なり。神さまの愛から離れた教会は、大いにみこころを損なった存在です。 エペソ教会は神さまのためによく忍耐した教会です。正当な教理で異端を排除することもしっかり取り組みました。すばらしいことをしました。それでも……神さまの御目から見れば、初めの愛から離れたのです。 イエスさまはおっしゃいました。わたしがあなたがたを愛し、あなたがたを任命した。この、先に愛してくださったイエスさまの愛こそ、初めの愛です。世界のはじめからすでに私たちのことを選んで愛してくださっていたこの愛こそ、初めの愛です。まさに聖徒とは、イエスさまの弟子とは、イエスさまに愛されてこそ存在する、かけがえのないものです。 そんな、イエスさまに初めの愛で愛されている聖徒と、その群れである教会のすることは何でしょうか? 初めの愛にとどまることです。このときエペソ教会は、初めの愛にとどまっていませんでした。それで叱責されたのでした。 そこで、初めの愛にとどまるとはどういうことかを考えましょう。5節のみことばです。まず、「どこから落ちたのか思い起こし」、そうです、教会がイエスさまの愛から離れるには、必ず何らかのきっかけというものがあるはずです。 エペソ教会にもそのようなきっかけがあったわけですが、それと同じようなきっかけは、私たちにもたえずついて回ります。自分たちはもっと礼拝堂をきらびやかに飾ろうとしていなかっただろうか、献金額を多くしようとして無理なキャンペーンをしていなかっただろうか、地域に教会の存在を知らせようと大予算で手の込んだ宣伝をしていなかっただろうか……。きっかけはいろいろです。 そのきっかけがわかったならば、次にすることは「悔い改め」です。 悔い改め、まずすることは「悔い」、自分たちが神さまの御目から見てどんなに自己中心で、間違ったことをしていたか、その罪を認めるのです。それから「改め」、自分の罪に向いていた視線を、聖い神さまへと方向転換するのです。 その「悔い改め」の結果することが何かというと「初めの行い」であるとあります。「初めの愛」にとどまるとは、「初めの行い」をすることである、というのです。 愛は行いが伴うものです。「互いに愛し合いなさい」というイエスさまのみことばは、単なる掛け声ではありません。心の中でだれかを「愛している」と思いさえすれば、それで愛していることになるのではありません。困っているなら助けの手をさしのべる、自分の都合を差し置いてでも。そういうことができてようやく、「初めの愛」で愛している、「初めの行い」をしている、ということができるのです。 教会は、兄弟姉妹を神さまの愛で愛することが、その旗印です。エペソ教会は察するに、兄弟姉妹のあいだにあるべき愛が冷えつつあったのではないでしょうか。その、兄弟姉妹のあいだにあるべき神の愛の行いは、同じ行いでも、教会を維持するためにとても努力しただとか、神学的に正統だとか、異端をやっつけただとか、そういう「行い」が取って代われるものではありません。 その、愛の行いがないことをそのままにしていたらどうなるか、ということに対しても、主は警告のみことばを発しておられます。あなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。 これまでも学んできたとおり、燭台とは教会です。つまり、燭台を取り除くとは、もはやそこを教会ではないものにしてしまう、という、怖ろしい警告です。たしかにそこは人が集まってはいます。キリスト教という「宗教」を行う場所ではあります。 しかし、それは「宗教」とは呼べても「キリストのからだなる教会」と呼ぶわけにはいかないのです。なぜなら、そこに集う人々が、具体的に行動する兄弟愛をもって証しされる神の愛を、その集まりから排除してしまっているからです。神の愛、互いの間の愛がないなら、教会とは名ばかりで、神さまはそれを教会として扱ってはくださいません。 この警告は、私たちを含め、世界中のすべての教会に突きつけられています。私たちは自己中心の罪人です。初めの愛の行いから落ちてしまうことなど、いつだって起こりうることです。そんな自分たちであることを、こうして気づかせていただいている私たちは幸いな存在です。 つねに悔い改め、神さまとの関係を結び直せることに感謝してまいりたいと思います。 そして第三、ふたたび神さまからの賞賛です。彼らエペソ教会がニコライ派の人々の行いを憎んでいることです。 ニコライ派が何者かということは、詳しくはわかっていません。しかし、聖書、特に黙示録2章のほかの箇所から、ある程度の類推をすることはできます。まず、14節と15節です。……詳しくは来週お話ししますが、民数記を読むと、イスラエルは不品行のゆえに堕落したことがありました。 この黙示録の箇所を読むと、その背後には占い師バラムがいたことがわかります。このバラムの教えによって、神の民は偶像礼拝をし、不品行を行いました。神の民にあるまじく汚されたのです。 それと同じように、ニコライ派の教えを奉じている、とあります。それと同じように、というのが手掛かりです。神の民が自発的に偶像礼拝や不品行を行うように導いて、共同体を内側から崩壊させる教えがバラムの教えであったわけですが、ニコライ派の教えもそのような、教会に内部崩壊をもたらす教えであったことがほのめかされています。その教えに裏打ちされた行いとは、もちろん、教会分裂、教会弱体化です。 プロテスタント教会は諸教会を一元的に統括する、ローマ・カトリックで言えば「教皇庁」のような組織が存在しないだけに、「一人一派」のようなところがあります。『百万人の福音』のような雑誌は、そのようにさまざまな立場の牧師やクリスチャンがいろいろな意見を述べています。 それがその雑誌の魅力であるわけですが、彼らが意見を述べるのは、その意見を述べることで読者の霊的成長を促し、よりいっそう所属教会に献身するように導くわけです。言ってみれば、雑誌に寄稿するすべての人は、読者それぞれの教会生活のために、読者に「仕えて」いるわけです。 しかし、クリスチャン相手に意見を述べる人は、そんな善良な人たちとはかぎりません。彼らを自分の考えに染めてやりたい。彼らを自分に仕えさせたい。口に出さなくても、そのような腹黒い考えでクリスチャンに接近する者は、いつでも、どこにでも存在するものです。彼らはうまいことを言いますが、それは私たちをより一層教会に仕えさせるためではありません。 それは教会に疑問を抱かせ、教会から引き離し、自分の側につけるためです。それ以上のものではありません。 そんなとき私たちは、そうですねえ、うちの教会には愛がありませんから! と、彼らの口車に乗るのでしょうか? しかし、はっきり申しますが、愛がないのはむしろ彼らのほうです。私たちのことを利用するだけして、最後は自分だけが得をします。 私たちは、こういうことをする者たちの行いは、思いっきり憎んでいいのです。なぜなら第一に、神さまご自身が憎んでおられるからです。憎んでいいのです。彼らのしていることは、私たちの大好きなイエスさまのみからだを切り刻み、引き裂くことです。教会がイエスさまのみからだである以上、彼らはそういうことをしているのです。 ただし、私たちが憎しみに捕らえられている「だけ」ならば、エペソ教会が叱責されたように、初めの愛から離れたままになってしまうこともありえます。まず、私たちが取り戻すべきは「初めの愛」です。イエスさまが私たちを愛されるゆえに、私たちもイエスさまを愛するのです。その愛を、兄弟姉妹を具体的に愛するということで守り行うのです。…

初めであり、終わりであり、生きているキリスト

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:9~20/メッセージ題目;初めであり、終わりであり、生きているキリスト 創造主なる神さまが私たち人間に書かれた聖書のみことばは、この世界には終わりがあることを語っています。私たちは今自分たちが生きている世界に対して、いつまでも続くものだとか、そもそも終わりがどうなるかわからないから考えたくもない、などと思ってはいないでしょうか? しかし聖書ははっきりと、この世界はいずれ終わることを語っています。 だから私たちは、この世界の終わりに向けて、自分にとって備えるべきことを備える必要があるわけです。ノアは神さまの警告を聞いて、大洪水に備えて箱舟をつくりました。同じように、私たちも備える必要があります。その備えをするために、私たちはみことばを聞くわけです。特にいま私たちは、世の終わりを語るヨハネの黙示録から学びつつあります。このみことばに、私たちはともにしっかり耳を傾けてまいりたいと思います。 それでは本日の箇所にまいります。本日もまた、3つのポイントでお話しいたします。 第一のポイントです。主は、復活のお方です。9節と10節のみことばをお読みします。 先週もお話ししましたが、ヨハネがパトモスという島にいたのは、神のことばとイエスの証しのゆえであると、この9節のみことばは語ります。ヨハネは迫害を受けて、流刑、島流しとなったのです。 これはイエスさまが予告されたことです。かつてヨハネとその兄弟ヤコブは、イエスさまが天に昇られたら、その左右の座に着きたいとイエスさまに直訴したことがありました。要するにほかの十人の弟子を出し抜こうとしたわけですが、そのときイエスさまはこの兄弟に、あなたがたは、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか、と迫られました。兄弟は、できます、と答えました。そのときイエスさまは、ご自身の右と左に座れるかどうかはイエスさま次第ではなく、御父のみこころ次第であることをお断りになった上で、ヤコブとヨハネはイエスさまの杯を飲むことになると予告されました。 実際そのとおりに、ヤコブはヘロデ王により殺害されました。十二使徒の中の最初の殉教者です。そしてヨハネも今このようにして、島流しに遭っています。まさしく、イエスさまの受けられた十字架の苦難の杯を飲んだのです。 しかし、島流しが苦難なのは、少なくとも使徒たちにとっては、一般の人たちとはちがう理由であるはずです。島流しに遭ったならば、人々との交わりが絶たれます。それはつまり、教会を開拓することも、聖徒たちと顔と顔とを合わせて教会を牧会することもできないことを意味します。それは主のしもべとして、どれほどつらかったことでしょうか。 みこころに従順になるなら、私たちは時として理不尽な苦難、受け入れがたい苦難を身に帯びることがあります。従順ゆえの苦難、それはイエスさまが体験されたことでした。十字架とは、御父のみこころに従順になられた証しでしたが、そのために罪のないお方は、人間のあらゆる罪という罪を背負われ、父なる神さまに捨てられました。 ヨハネの苦難、聖徒たちのもとに直接行って教会を形成することのできない苦難は、まさに、イエスさまが御父に従順であられたように、神のことばとイエスの証しがほんとうであると、身をもって宣べ伝えるという、神のみこころに従順であったゆえの苦難でした。 しかし神さまは、ヨハネのことを見捨ててはいらっしゃいませんでした。主は御声をもって、この孤独の中にいたヨハネに語りかけてくださったのでした。 この声を聞いた日は、主の日であったとあります。ヨハネは孤独な島流しの生活にあって、主の日、つまり日曜日、クリスチャンとして神さまを礼拝する日を忘れずにいました。その日に主がこの励ましのことば、戦いに備えよとのことばを語られたことは、注目に値します。 主の日、日曜日、それは、イエスさまが復活された日です。主が日曜日にヨハネにお語りになったのは、ご自身が復活の主としてお語りになったということではないでしょうか。 復活の主は、どんな声でヨハネに語りかけてくださったのでしょうか?「ラッパのような大きな声」でです。 新約聖書を読むと、世に終わりが来て、死ぬべき者が死なない者に変えられる、つまり天国に導き入れられるときに下される合図は、ラッパの音であるということがいくつかの箇所に書かれています。神のラッパの音は、死んでいた人をよみがえらせるというみこころの顕れです。 ヨハネもこのとき、島流しに遭って宣教も教会形成もできず、もはや使徒としては死んだも同然でありましたが、聖書66巻を締めくくるみことばを書き記すという偉大な使命が与えられ、生き返らせていただきました。 復活の主はこのように、死んでいた者に復活のいのちをくださるお方だということが、このみことばからもはっきりわかります。 また、この御声がラッパのような大きな音だったということには、どんな意味がありますでしょうか? 第一コリント14章を読むと、ラッパがはっきりした音を出すのは戦闘の準備をするためだ、と語っています。 ヨハネの黙示録は終わりの日の戦いを細かく描写していますが、血肉に対してではない、サタンともろもろの悪霊どもと私たち聖徒との戦いにおいて、このみことばは神さまの吹き鳴らされる「起床ラッパ」であり「進軍ラッパ」なのです。このラッパの鳴る音を聞いたならば、私たちは霊的な眠りからさめ、神のすべての武具を身に着けて戦いに赴きます。 まことに、主のみことばは、私たち人間、罪に死んでいた人間を生き返らせる、神のラッパにもなぞらえられる、大きな御声です。主は私たちひとりひとりに御声をかけてくださり、元気を出しなさい、立ち上がって歩き出しなさい、戦いなさい、と、励ましてくださいます。 このところ、私たちはニュース番組や新聞やインターネットで、ますます新型コロナウイルス感染者が増えているとかいう、憂鬱な話を目にし、耳にしています。そのほかにもいろいろな、いやになるニュースが流れています。しかし考えてみましょう。私たちを救い、天国に入れてくださっている主は、この世の憂いなどでどうにかなるようなお方ではない、偉大なお方ではないでしょうか? イエスさまは十字架にかかられただけではありません。復活されたのです。すべての罪と死に打ち勝たれました。私たちもイエスさまを信じる信仰により、圧倒的な勝利者にしていただいているのです。 落ち込むこともあるでしょう。暗い気持ちが続くこともあるでしょう。しかし私たちはここで、復活のイエスさまに目を留め、明るく輝く者とならせていただきたいものです。主は大きな音色で響くラッパの音のようなはっきりした御声をかけて、私たちのことを励ましてくださっています。立ち上がり、歩き出す力をともにいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二のポイントです。主は、恐るべきお方です。 11節のみことばです。……そのラッパのような声が命じたことは、アジアの7つの教会にみことばを書き送りなさい、ということでした。 ヨハネを励まし、立ち上がらせた進軍ラッパのみことばは、7つの教会……7が完全数であるということを考えると、あらゆる教会、かつ完全な教会にみことばを語りなさい、ということでした。まことに、教会の聖徒たちにみことばを伝えることこそ、まことの励ましをいただく道です。 その声はヨハネの背後から語りかけていました。これは何を意味するのでしょうか? もし、ヨハネの目の前に主が現れて、いきなり語りかけられたのならば、ヨハネの意思に関係なく、主が現れ、語られた、しかもラッパのような大きな声で語られたということになります。 しかし主は、ヨハネの背後から語られました。するとヨハネのすることは2つに1つです。振り返るか、無視するかです。しかしヨハネは声のする方(かた)へと振り返りました。これは、ヨハネが意志をもって御声を聞く選択をしたということです。 御声を聞く、ということは、神さまが一方的に語られることがひとりでに聞こえてくる、ということではなく、神さまが語られることを意志をもって聞く選択をする、という、神さまと人との共同作業です。神と人との交わりです。神さまはここで、ヨハネに背後から語られることで、ヨハネが振り向くという行動により、意志をもって御前に進み出るという選択をさせ、自発的な交わりへと招かれたわけです。 12節をよく見てください。「自分に語りかける声を見ようとして」、とあります。これは意訳ではありません。聖書の原文が「声を見る」と表現しているのです。創造主訳聖書では「声の主を見ようとして」、リビングバイブルでは「いったいだれだろう、と振り向くと」と意訳しています。もちろん、それも間違いではありませんが、ここはひとつ、「声を見ようとして」という表現に注目したいと思います。 神さまのしもべである私たちにとっては、神の御声は「聴く」ものであるのと同時に「見る」ものです。それは、こうして印刷され、製本された聖書を目で見て読むことを、「御声を聞く」と表現することからもたしかです。そのような表現をするのも、神のことばを「聞く」ことは、同時に神のことばなるイエスさまを「見る」ことでもあるわけです。 イエスさまの弟子のトマスは、肉眼でイエスさまを見たときようやく、イエスさまの復活を信じました。そんなトマスにイエスさまは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。 その幸いな人とはどういう人かを、使徒ペテロはこのように表現しています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」 この喜びは、私たちならだれでもわかるでしょう。目に見えないイエスさまを「見る」とは、みことばを「聞く」、すなわち「見る」ということです。その喜びを、私たちはこの年もますますみことばをお読みし、みことばに耳を傾けることで体験してまいります。 さて、こうして、ヨハネはみことば、すなわち人の子、イエスさまを「見ました」。するとそこには7つの金の燭台がありました。この7つの金の燭台は7つの教会であると、20節のみことばは解き明かしています。 燭台は金、金は何よりも尊い存在です。教会は尊いものなのです。教会は燭台ですから灯をともします。灯をともすのは暗闇の世界を明るく照らすため、そして、やがて来られる花婿なるイエスさまのおいでを待つゆえです。イエスさまがいつ来られてもいいように、花嫁にふさわしく灯を絶やさないでおくのです。 この7つの燭台の真ん中に、人の子のような方がおられた、とあります。人の子とは、イエスさまがご自身のことを指して用いられた表現であり、救い主、さばき主としてのお方を意味します。しかしここでは、「人の子の『ような』方」とあります。ヨハネは、イエスさまの十二弟子のひとりとして、イエスさまのお顔、お姿を忘れようはずがありません。 しかしここに現れたお方は、明らかに、弟子としてずっと見つづけてきたお顔、お姿とちがっていました。でもこのお方は人の子、イエス・キリスト以外のどなたでもないことが、ヨハネにはたちどころに分かったのでした。 足まで垂れた長服、まことの祭司としての服装です。そこに金の帯を身に着けておられるということは、神のきよさ、神の威厳そのものの姿として現れたということです。頭と髪は羊毛のように、雪のように白いということは、このお方は、毛を刈られる羊のような従順な姿をもって十字架にかかられ、血潮を流されたことにより、その血潮で私たちの罪を雪のように白くしてくださるお方である、ということです。 また、その目は燃える炎です。この姿はダニエル書10章6節にすでに預言されていたとおりですが、ダニエル書では「燃えるたいまつ」と表現されています。たいまつは暗闇を明るく照らすものです。 つまり主は、暗闇を煌々と照らす炎のように、どんなに隠しておきたい私たちの罪、闇のわざをも、明らかにされ、その御目の炎をもって焼き尽くされるお方であるということです。 その足は光輝く真鍮とありますが、これもダニエル書10章6節のとおりです。新改訳でダニエル書を見ると「磨かれた青銅」と書かれていますが、ヨハネが見たお方はダニエルが見たお方と異なるのではありません。新約聖書においてしばしば引用される旧約聖書は『七十人訳(しちじゅうにんやく)』というギリシア語の聖書です。この七十人訳によると、ダニエル書は「青銅」ではなく「真鍮」と表現しています。また、「青銅」も「真鍮」も、どちらも銅の合金であること、また、主の御足はそもそも金属ではなく、これは象徴であることを考えると、黙示録の「真鍮」という表現はダニエル書と一致していることになります。まさに、ダニエルが見たとおりの方が現れた、ということです。 そして、御声は大水のとどろきのようです。主の御声はラッパのようであるとともに、大水のとどろきのようでもあります。大水のとどろきのような御声、これはイザヤ書43章2節に書かれた、イザヤが見た主の御姿です。やはり預言されたとおりのお方でした。大水に関しては、同じイザヤ書の59章19節を見ると、主は激しい流れのように来られると預言されています。そのように、激しい流れのように主が来られるゆえに、東でも西でも、世界のどこにおいても主の御名、主の栄光が恐れられるとあります。まさに、激しい主の来臨のゆえに全地は激しく恐れるのです。 右手には七つの星を持っておられます。この七つの星は、7つの教会の御使いたちであると20節のみことばは解き明かします。主は御使いを遣わして、すべての教会を助けられます。イエスさまは、すべての教会を、その義の右の手で握られ、あらゆる悪しき者の攻撃から守り、御恵みをもって導いてくださるお方です。 そして、口からは両刃の剣が出ています。もうお分かりだと思います。ヘブル人への手紙4章12節にあるとおり、みことばです。私たち、全身に罪が染みこんだ罪人をばらばらに切り刻み、罪を明らかにし、取り除く剣は、主の御口から出るひとつひとつのみことばです。しかしこの「殺すことば」は、同時に私たちにとっては「いのちのパン」であり、「生かすことば」でもあります。 そして、御顔は強く照り輝く太陽です。太陽を肉眼で見つめたら失明します。御顔はそれほどの栄光に輝いています。旧約にはしばしば、主の御顔を見た者は死んでしまう、と恐れる場面が出てきます。このときもヨハネは、御顔を見極めようとして、ついにその栄光の前に死んだ者のようになり、倒れ伏しました。 イエスさまのこのようなお姿は、無抵抗に十字架にかかられたお姿とは対極にあるお姿です。人々があざけり、見捨て、葬り去ったナザレのイエスは、実は聖書に預言されていたとおりの王の王、主の主であった……なんということでしょうか。 私たちはイエスさまが目に見えないのをいいことに、ともにおられるイエスさまとの関係、イエスさまとの交わりを粗末にして、平気でいてはいないでしょうか? そんな私たちは、実はイエスさまはこのようなお方だということをしっかり見つめ、恐れをいだき、それでもこのようなイエスさまが私たちのことを友としてくださっていることに、もったいない、と、感謝するしかないのではないでしょうか? ぜひ、今日おうちに帰られたら、もういちど、この黙示録1章12節から16節までをお読みになり、イエスさまのこの御姿を黙想していただきたいのです。このお方が私たちの主なのです。そして、私たちはこのお方の友にしていただいているのです。 では、第三のポイントにまいります。主は、永遠のお方です。 17節をご覧ください。イエスさまのあまりの威厳の前に、ヨハネは倒れて死んだ者のようになりました。かつてヨハネは、イエスさまと食事をともにするとき、その胸元に寄りかかるほど、イエスさまを慕っていた人でした。そんなヨハネは大胆にも、自分のことを、イエスさまが愛しておられた弟子、と表現していました。 だが、目の前に現れたイエスさまは、もはや近くに寄ってお慕いするようなお方ではありません。このご威光、威厳の前には、死んだも同然の人になるしかありませんでした。そんな人間が生きるには、イエスさまに助け起こしていただくしかありません。 イエスさまはヨハネに、右手を置かれました。つい今しがた、7つの星、すなわち7つの教会の御使いたちを握っておられた右手です。わたしのからだである教会が大事なように、わたしにとってあなたは大事だよ、わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している……。 このお方は、初めであり、終わりであり、生きているお方です。人間には見極めることもできない世のはじめから世の終わりまで、永遠に生きておられるお方です。十字架に死なれましたが、生きておられるお方です。この方は人に殺されたようでも、あらゆるいのちを司っておられるお方です。人を永遠にさばく、死とよみの鍵、すなわち、罪人を死にてさばかれ、よみにつなぐ権限を持っておられるお方です。…

再臨に向けて

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:1~8/メッセージ題目;再臨に向けて  今年2021年の年間テーマは「イエスさまを迎える準備をしよう」とさせていただきました。  昨年は新型コロナウイルス流行に世界は揺れに揺れ、いやでも人々は終末というものを意識しました。しかし私たちクリスチャンは、この終末、世界の終末というものは、神さまがもたらされるものということを信じ受け入れています。  私たちがもし、イエスさまの再臨を待ち望んでいるならば、すなわち、イエスさまが再びこの地に来られて世界を終わらせられ、私たちが永遠の天国に迎えていただくことを待ち望んでいるならば、私たちはやはり、この世界の終わりについてみことばはなんと語っているかを、みことばから学ぶ必要があるはずです。  このことを最もよく語るみことばは、ヨハネの黙示録です。というわけで本日から、ヨハネの黙示録を学びます。難解な聖書箇所なので、慎重な解き明かしを必要とする一方で、読み進めていくうちに非現実的な描写に終始するようになりますので、メッセージをお聴きになるみなさまも、ぜひ祈っていただければと思います。その祈りをもって、お聴きになる心備えをしていただければとも思います。  それでは、早速、ヨハネの黙示録の学びを始めます。 では、本日の箇所を、3つのキーワードから解き明かしてまいりたいと思います。  最初のキーワードからまいります。1番目のキーワードは「証し」です。  まず、1節からまいります。この黙示、啓示は、イエス・キリストの啓示です。これは、すぐに起こるべきことであると語ります。これが、難解かつ怖ろしい描写に満ちているヨハネの黙示録を読み解くうえでの大前提です。 ヨハネの黙示録が啓示するお方はイエスさまです。ある大衆伝道者の先生は、人々の前でお祈りをされるとき、「やさしいイエスさま」ということばでよく始められます。先生のキャラクターも反映されていて、ほんわかしてきます。たしかにイエスさまは、この先生がおっしゃるとおりにやさしいお方でいらっしゃいます。 しかし、ヨハネの黙示録で啓示されるイエスさまは、やさしい、というイメージと大いに異なっているのではないでしょうか。凄まじい戦いの末に究極の勝利を得られる、雄々しくも恐ろしいお方です。私たちは、再臨のイエスさま、終末に臨まれるイエスさまが、このようなお姿で現れてくださることを見落としてはなりません。 そして、ヨハネの黙示録の語る内容は、「すぐに起こるべきこと」です。そう、この書に書かれていることは「必ず起こること」であり、「必ず起こらなければならないこと」です。起こることが神さまのみこころである、ゆえに神さまは必ず、みこころをもってこれらのできごとを起こされる、という前提で読むべき書です。 それも、すぐに起こるべきことという前提で読みなさい、というわけです。というわけで、このヨハネの黙示録が記録された紀元90年からずっと、クリスチャンは今に至るまで、終末を意識させられてきました。 終末は必ず来ます。おとといの元日礼拝で、ペテロの手紙第二の3章のみことばをお読みしましたが、まだ終末がこの世界にやってこないのは、この世界に住む人々のことを神さまが忍耐していらっしゃるからであって、終末は「ない」からではありません。その忍耐が2000年にもなろうとは、どれほど神さまは忍耐してこられたことか、と思いませんでしょうか? 2000年という歳月を計ってみたら、イエスさまからさかのぼると、ダビデやモーセを通り越して、なんと創世記11章のアブラハムにまで至ります。それほどの歳月を神さまはなお忍耐していらっしゃるのです。しかし、2000年でも、すぐ、です。一日は千年、千年は一日、この神さまの「時」を考えれば、2000年は決して長すぎる時間ではありません。 この、すぐに起こるべきことを父なる神さまは、ご自身のしもべたちである教会の兄弟姉妹にお示しになるため、この啓示をキリストに与えられ、イエスさまは御使いをとおしてヨハネに与えられました。 ヨハネとは、イエスさまの十二弟子、十二使徒で、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙を書いた使徒ヨハネです。ある解説書は、黙示録のヨハネは使徒ヨハネではないと語りますが、そのように主張する根拠も妥当性もありません。黙示録のヨハネは、あのヨハネです。 ともかく、イエスさまが黙示をヨハネに届けられたのは、最終的に神のしもべたち、教会に伝えるためです。そのためにヨハネがしたこと、それは2節にあるとおり、「証し」です。 神さまは、ご自身のみこころを、人々を用いて「証し」をさせるという形で伝えてくださいます。このときもヨハネを用いてくださいました。ヨハネは、この黙示録を諸教会に「証し」したのです。そして神さまが諸教会に求められたことは、この黙示録のみことばを「朗読する」こと、つまり、印刷技術がなく、会衆がともにみことばに耳を傾ける唯一の方法が「朗読」であった当時、そうすることで会衆全体がみことばを共有すること、そして、このヨハネの黙示録のみことばを「守り行う」ことです。 みことばは耳を傾けるものです。ヨハネの黙示録はとかく難解で、敬遠されがちなみことばでしょう。しかし神さまは、このみことばに「耳を傾けなさい」とおっしゃっています。それだけではありません。このみことばを「守り行う」のです。 こんな難しいみことばをどのように守り行うのか! そもそも、このみことばは何を語っているのか! 途方にくれたりはしないでしょうか? しかし、みことばがわかるように祈りつつ、励まし合って、しっかり取り組みましょう。私たちは必ず、このみことばの意味を悟り、具体的に実践できるように知恵が与えられると信じていただきたいのです。 具体的なみことばの実践。証しとは、その具体的なみことばの実践が教会全体でできるようになるために、耳を傾け、目にするべきものです。みことばは素晴らしいですが、実践されていなければ、絵に描いた餅です。 逆に言えば、みことばの素晴らしさは、私たちがそのみことばのとおりに生きる、証しの生活をすることを通して現されるものです。 次週学ぶみことばに書かれていますが、ヨハネはこのとき、パトモスという島にいました。それは、「神のことばとイエスの証しのゆえ」であると語られています。イエスさまを証しするみことばを語ったゆえにパトモス島にいたわけです。これは、流刑、島流しの刑です。まさに、生き方そのものが教えに殉じた人の生き方、いよいよこの生き方により、イエスさまが本物であることが証しされたわけです。その証しの集大成が、そのパトモス島でものされた「ヨハネの黙示録」であるわけです。 今年私たちは、イエスさまの再臨を待ち望む思いでみことばから学びます。この学びは、私たちの普段の生き方を変えるものとなるようにと、祈りつつ取り組んでいただきたいのです。自分の生き方を変え、人々の心を再臨のイエスさまへと向けるように……まさしく、証しになる生き方です。私たちを十字架によって罪から救ってくださったイエスさまと、再びこの世界に来てくださるイエスさまと、日々祈りとみことばによって交わっていくならば、私たちの生き方が変わります。証しの生き方へと変えられます。 そのようにして、私たちをとおして、イエスさまが周りに証しされて、この年、主を信じる人がひとりでも多く起こされて生きますように、主の御名によってお祈りいたします。  次のキーワードにまいります。2番目のキーワードは「神との交わり」です。 4節をご覧ください。このヨハネの黙示録は、アジアの7つの教会にあてて書かれた書簡であることがわかります。アジアと言っても、日本や韓国、中国の極東まで含むアジアではなく、今でいうトルコの地域を指し、小さいアジア、「小アジア」と言います。  教会の数は7つです。聖書で7という数字は「完全」を意味します。この7つの教会がいかなる教会で、主がそれらの教会ひとつひとつにどのようなみこころを持っておられたかについては、黙示録の2章と3章に詳しく出てきますが、この7つの教会は、「7つ」という数からもわかるとおり、これは完全な教会の姿、あるいは、現代に至るまで約2000年間存在しつづけたすべての教会のあらゆる様相を示しているとも言えます。  この7つの教会、完全な教会に向かわれるお三方が登場します。今おられ、昔おられ、やがて来られる方、つまり、永遠なる神さまです。このお方はヨハネの黙示録が記録されたそのときにも、そして2021年1月3日のこのときにも、おられるお方です。世界が創造された昔から存在してこられたお方です。 そしていずれの日、神さまが定められた日に、さばき主として、しかし神の民にとっては永遠の天国に召してくださるお方として、私たち人間の前に来てくださるお方です。 そして、御座の前におられる7つの御霊、これは、御霊の数を数えると7人おられた、ではありません。御霊はおひとりのお方です。しかしここでは、7つの御霊と表現しています。これは、完全な御霊という意味であり、全地に満ち満ちておられるほど完全なお方という意味です。 しかしこの全地に満ちておられる御霊なる神さまは、7つの教会それぞれを、つまりすべてのキリストのからだなる神の教会を、完全な存在としてくださるお方である、という意味に解釈すると妥当です。この7つの御霊と表現された御霊なる神さまが、7つの教会と表現されたあらゆる教会に向かわれ、語られるのです。 そして、イエスさまです。イエスさまは確かな証人、神さまを解き明かされた、父なる神さまのふところにおられるひとり子の神なるお方です。そして、死者の中から最初に生まれたお方、十字架の死からの復活をもって、ご自身神であることを証しされ、イエスさまを信じるすべての人を罪と死に打ち勝たせてくださったお方です。さらに、地の王たちの支配者、終わりの日にあらゆる権威、権力の上にまし、永遠の王となられるお方です。 この、三位一体なる神さまから、7つの教会、つまり、地にあるすべての、神さまの御目から見れば完全な教会に対し、何が臨むことを使徒ヨハネは祈っていますでしょうか?「恵みと平安」です。 「恵みと平安がありますように」という祈りは、新約聖書に収録されている使徒パウロが書いた13の手紙すべてで、パウロが手紙の読み手のために祈ったことばです。このことばはペテロの手紙第一と第二、ヨハネの手紙第二にも登場します。平安を祈る祈りも含めたら、もっと多くの書簡に登場します。それほど大事なことばです。 初代教会は、形成されて間もなく、たいへん迫害に晒されることになりました。恵みと平安、神さまご自身が御手を伸ばして守ってくださり、導いてくださるその恵みと、その守りの結果与えられる、世の何ものをもってしても奪い去ることのできない平安を、教会は必要としていました。ヨハネという指導者を失ったアジアの7教会もまた例外ではありませんでした。その諸教会に神さまの恵みのみ手が臨み、神さまが与えてくださる平安の中にいられるように……。 ヨハネのこの切なる祈りは、こんにち、すべての教会が必要としているものです。共産圏やイスラム圏のようなキリスト教会に対してむき出しの敵意を示す地域において、主にある私たちの兄弟姉妹が守られるように、私たちは祈る必要があります。これに対して私たち、彼らに比べるとあまりに危険のない地域にいるクリスチャンたちはどうでしょうか? やはり、恵みと平安を求める祈りを必要としています。 私たちがこれほど安全なのは、神さまが守ってくださっているから、それゆえに平安をいただいている……このことに私たちは無感覚になってはなりません。当たり前だと思ってはなりません。そうです。恵みと平安があるように、とは、「自分たちが無事であることは神さまの恵みと平安があるゆえであることを、信じ、神さまに感謝できるように」という意味でもあるのです。 では、三位一体の神さまが

「『その日』が近づく私たち」

聖書箇所;ヘブル人への手紙10章25節/メッセージ題目;「『その日』が近づく私たち」  昨年来の新型コロナウイルス流行は、戦後最大の危機を日本のキリスト教会にもたらしたと言えましょう。なにしろ、集まって礼拝をささげなくなっただけではありません。礼拝のために集まらないことが当たり前になり、さらには、集まらないことが、これほど正当化されたことがあったでしょうか。  新しい生活様式、などとよく言われましたが、新しい生活様式というものは、私たちキリスト教会にも否応なく押し寄せてきました。ただ、教会の場合、そのそれぞれの歴史、置かれた地域の特性によって、判断はさまざまであり、新しい生活様式なるものも教会によってちがいます。東京のような都会の教会は、集まらずにオンラインの礼拝中継に切り替える判断をした教会も少なからず存在したようです。 私たちの場合は感謝なことに、まだ大々的な感染拡大に至らず、1回も欠かさずに礼拝をささげつづけることができています。これは私たちが偉いのでもなんでもなく、恵みです。神さまにご栄光をお帰ししましょう。ハレルヤです。  ともに集まるかどうかという判断を下す場合もそうですが、私たちは何を基準に判断すべきでしょうか。やはりみことばです。もちろん、みことばどおりに行うことができなくて、苦しいところを通らされることも、教会としては充分にあることです。それでも、いざというときの判断の基準があるのとないのとでは、大きな違いがあります。  新聞やテレビの報道もたしかに大事でしょう。しかし私たちにとってそれらの報道は、絶対視するべきものでしょうか? 聖書とニュースと、どちらが大事でしょうか? 世相はいかようにも変わります。それらの揺れ動く報道を絶対視するならば、私たちも揺れ動くのであり、そうなったら、教会は果たして何のために存在するのか、教会を教会ならしめる聖書のみことばは何のために存在するのか、ということになりはしないでしょうか。  ただし私は、聖書とニュースは対立するものであると言いたいのではありません。言うまでもなく私たちの生きている現実は、ニュースという形で反映されていて、それを無視することはできません。要は、聖書のみことばから悟った真理を、いかにして、ニュースという形で映し出される現実の世界に反映させ、適用するか、ということです。  その原則から、今日のみことばをあらためてお読みしたいと思います。  まず、「ある人たちの習慣は、一緒に集まることをやめることであった」ということがわかります。  どうもこの時代のヘブル人クリスチャンの中には、一緒に集まって礼拝や交わりを持つことをやめて、単独で信仰生活を送ろうとしていた人が存在し、そういう存在が教会に少なからぬ影響を与えていた、ということが読み取れます。  一緒に集まることをやめる。理由はいろいろでしょう。この時代のクリスチャンは苛酷な迫害に晒されていたので、教会に集まるのは危険だと考えた、ですとか、あるいはもっと単純な理由、教会の中の人間関係につまずいて、もう教会には行きたくなくなった、ですとか。  そういう人たちの存在は、一緒に集まることをためらわせる大きな理由となったと思います。集まらない人はそれなりに正当な理由を持っている。右へならえ。いっそのこと、もうみんなで一緒に集まるのをやめてしまおう。  しかし、このみことばに示された原則は、一緒に集まることをやめてはならない、ということです。  一緒に集まることをやめてはならない。昨年の新型コロナウイルス流行で多くの教会は集会を中止しましたが、恐らくそれらの諸教会の聖徒たちの中にはこのみことばがあり、相当な苦渋の決断を強いられたことと思います。そんな諸教会のことを、うちのような集まりが持てた教会は決してさばくべきではありません。私たちはむしろ、このみことばを守り行う恵みを与えてくださった神さまに、心からの感謝と賛美をおささげするべきです。  しかし、もし集まることが許されているならば、私たちは決して、一緒に集まることをやめてはならないのです。それが、聖書のみことばが私たち聖徒たちに命じていることです。  では、なぜ私たち聖徒は、一緒に集まることをやめてはならないのでしょうか。それは「励まし合う」ためです。  信仰生活というものは、ひとりでするものではありません。ひとりで信仰生活ができるならば、教会というものはそもそもいりません。教会は共同体です。それは、神さまというお方が、おひとりであられるのと同時に、御父、御子、御霊の三位一体の共同体でいらっしゃるようにです。  お互いがもっと神さまにつながっていられるように。お互いがもっと神さまのみことばを守り行い、神さまのご栄光を顕せるように。そのために、お互いを覚えて祈る。この共同体の営みがあってこそ、私たちはともに信仰が増し加わっていくのです。教会という場で聖徒たちが励まし合うことで、私たちはそれぞれの信仰が成長するのです。  したがって、励まし合うためにともに集まるのでないならば、その集まりには意味がありません。励まし合いが集まりの目的となっていないならば、どうだ、よその教会とちがってうちは集まれたぞ! などという、的はずれな誇り、パリサイ人のような誇りにつながってしまいかねません。  そのように、聖徒たちが励まし合う理由……それは、その日が近づいている、ということです。その日とは何でしょうか? イエスさまが再び来られる日です。  このみことばからわかることは、イエスさまの再臨は、教会が始まったばかりのこの時代から、すでに切に待望されていたものであった、ということです。すぐにでもイエスさまは来られますよ、私たちキリストの花嫁なる教会はいっしょに、灯を掲げて、花婿なるキリストを待ち望みましょう……。  花婿なるキリストを待ち望むことは、ひとりですべきことではありません。いっしょになって、ともにみことばをお読みして、お祈りして、みことばを守り行いながら、教会全体で待ち望むものです。この水戸第一聖書バプテスト教会が待ち望みます。日本のすべての教会が待ち望みます。世界のすべての教会が待ち望みます。  この1年で、世界の教会はオンライン礼拝、リモート礼拝が花盛りとなりました。それは時代の趨勢、時代の要請と言えることでしょう。しかし、ここで憂慮されることがあります。それは、リモートで礼拝することによって、キリストのからだなる教会のひと枝とされている意識が希薄になってしまう信徒が多く現れてしまうのではないか、ということです。  ともに礼拝堂に集う場合と比較してみましょう。礼拝堂に集うならば、ちゃんと早起きして朝ご飯を食べ、女性の方ならばしっかりお化粧するでしょう。そして、威儀を正し、車に乗って数十分の時間をかけて礼拝堂に行きます。もうその時から祈り心をもって整えられているわけです。そして礼拝堂に到着し、礼拝室の中に入ったらお祈りします。これだけでも相当な心構えです。 しかし、リモート礼拝の場合、そこまでの準備をなさいますでしょうか。それができているならば素晴らしいことですが、何しろ家でパソコンに電源を入れ、インターネットに接続したら、すぐ礼拝です。ともに集うために祈り心を持って準備するという意識を持つか持たないかは、事程左様(ことほどさよう)に違ってしまうわけです。 だから、もしどうしてもリモートでなければ礼拝できない、という方は、それだけ充分な祈り心をもって礼拝に備えていただきたい、と、切に願います。特にその祈りを、神さまに向けてくださるのと同時に、所属していらっしゃる教会という共同体の兄弟姉妹を覚えての祈りとしていただきたいと思います。  要は、イエスさまの再臨にともに備えて、励まし合うために、共同体に召されたどうしを大切にすることです。いまこうして集っていられることは、集うこともままならないでいる教会から見ればとても贅沢なことです。この恵みをむだにしないでいただきたいのです。  今日、ここに集う兄弟姉妹のことを、再臨をともに備えるために励まし合う、大事な兄弟姉妹と考えていただきたいのです。そして……ここにともに集っていなくても……クリスチャンであるならば、同じイエスさまの十字架の血潮によって贖われ、神さまの子ども、天国の民にしていただいたどうし、ともに再臨を待ち望みつつ励まし合う、大事な存在です。  今年、うちの教会は、世の終わりがいかに訪れるかを語るみことば、ヨハネの黙示録から学びます。それは、単に聖書知識を増し加えるためではありません。みことばにともに耳を傾けることで、水戸第一聖書バプテスト教会というこの群れに主が持っておられるみこころをともに知り、励まし合うためです。  最後に、私たちはいかにして励まし合うものとなるべきか……やはりそれはみことばによってです。一箇所みことばを開(ひら)きたいと思います。ペテロの手紙第二、3章3節から9節です。  ある人は、私たちが終末ということを本気で信じていることを嘲るでしょう。もしかしたら私たちクリスチャンまで、そのような世の風潮に毒され、終末を語る主のみことばをまともに取り合わなくなってしまわないとも限りません。しかし、神さまは終末ということをはっきり語っています。  しかし、この終末のさばきは水のさばきではなく、火のさばきです。水のさばきも火のさばきも、どちらも恐ろしいですが、この最後の火のさばきは、不敬虔な者たち、すなわち、まことの神さまを神としない生き方を悔い改めない者たちに対して行われるものです。 私たちはこのさばきを免れ、救っていただく存在であることを覚え、感謝しましょう。でも、それだけではなく、さばき主なる主のさばきを覚え、ひとりでも多くの人がこの終わりの日のさばきから免れるように祈り、救い主イエスさまを今年も伝えてまいりたいものです。  そして主がこの世界に対し、忍耐しておられることも考えましょう。私たちの生きるこの世界は、イエスさまが天に昇られてからずっと、罪人の歴史、罪の歴史と言えるものでした。2000年間再臨がなかったからこれからもない、ではありません。2000年間、よくぞ忍耐してくださり、私のことを生かしてくださいました、感謝いたします、私たち教会はあなたさまを待ち望みます、こうでなければならないはずです。  私たちは去る2020年、再臨を待ち望んでいましたでしょうか? 再臨はないかもしれない、という、不信仰になってはいなかったでしょうか? あるいは、再臨のことなど考えもしないで、自分勝手に振る舞うことも多くはなかったでしょうか? はたまた、再臨なんてどうでもいい、と、無関心になってはいなかったでしょうか? もしそうだったならば悔い改め、今年こそ、必ず来られるとみことばにおいて約束しておられるイエスさまのその約束を心から信じ、イエスさまにのみ希望をおいて、ともに歩んでまいりましょう。  では、お互いのことを覚えて祈りましょう。