再臨に向けて

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:1~8/メッセージ題目;再臨に向けて  今年2021年の年間テーマは「イエスさまを迎える準備をしよう」とさせていただきました。  昨年は新型コロナウイルス流行に世界は揺れに揺れ、いやでも人々は終末というものを意識しました。しかし私たちクリスチャンは、この終末、世界の終末というものは、神さまがもたらされるものということを信じ受け入れています。  私たちがもし、イエスさまの再臨を待ち望んでいるならば、すなわち、イエスさまが再びこの地に来られて世界を終わらせられ、私たちが永遠の天国に迎えていただくことを待ち望んでいるならば、私たちはやはり、この世界の終わりについてみことばはなんと語っているかを、みことばから学ぶ必要があるはずです。  このことを最もよく語るみことばは、ヨハネの黙示録です。というわけで本日から、ヨハネの黙示録を学びます。難解な聖書箇所なので、慎重な解き明かしを必要とする一方で、読み進めていくうちに非現実的な描写に終始するようになりますので、メッセージをお聴きになるみなさまも、ぜひ祈っていただければと思います。その祈りをもって、お聴きになる心備えをしていただければとも思います。  それでは、早速、ヨハネの黙示録の学びを始めます。 では、本日の箇所を、3つのキーワードから解き明かしてまいりたいと思います。  最初のキーワードからまいります。1番目のキーワードは「証し」です。  まず、1節からまいります。この黙示、啓示は、イエス・キリストの啓示です。これは、すぐに起こるべきことであると語ります。これが、難解かつ怖ろしい描写に満ちているヨハネの黙示録を読み解くうえでの大前提です。 ヨハネの黙示録が啓示するお方はイエスさまです。ある大衆伝道者の先生は、人々の前でお祈りをされるとき、「やさしいイエスさま」ということばでよく始められます。先生のキャラクターも反映されていて、ほんわかしてきます。たしかにイエスさまは、この先生がおっしゃるとおりにやさしいお方でいらっしゃいます。 しかし、ヨハネの黙示録で啓示されるイエスさまは、やさしい、というイメージと大いに異なっているのではないでしょうか。凄まじい戦いの末に究極の勝利を得られる、雄々しくも恐ろしいお方です。私たちは、再臨のイエスさま、終末に臨まれるイエスさまが、このようなお姿で現れてくださることを見落としてはなりません。 そして、ヨハネの黙示録の語る内容は、「すぐに起こるべきこと」です。そう、この書に書かれていることは「必ず起こること」であり、「必ず起こらなければならないこと」です。起こることが神さまのみこころである、ゆえに神さまは必ず、みこころをもってこれらのできごとを起こされる、という前提で読むべき書です。 それも、すぐに起こるべきことという前提で読みなさい、というわけです。というわけで、このヨハネの黙示録が記録された紀元90年からずっと、クリスチャンは今に至るまで、終末を意識させられてきました。 終末は必ず来ます。おとといの元日礼拝で、ペテロの手紙第二の3章のみことばをお読みしましたが、まだ終末がこの世界にやってこないのは、この世界に住む人々のことを神さまが忍耐していらっしゃるからであって、終末は「ない」からではありません。その忍耐が2000年にもなろうとは、どれほど神さまは忍耐してこられたことか、と思いませんでしょうか? 2000年という歳月を計ってみたら、イエスさまからさかのぼると、ダビデやモーセを通り越して、なんと創世記11章のアブラハムにまで至ります。それほどの歳月を神さまはなお忍耐していらっしゃるのです。しかし、2000年でも、すぐ、です。一日は千年、千年は一日、この神さまの「時」を考えれば、2000年は決して長すぎる時間ではありません。 この、すぐに起こるべきことを父なる神さまは、ご自身のしもべたちである教会の兄弟姉妹にお示しになるため、この啓示をキリストに与えられ、イエスさまは御使いをとおしてヨハネに与えられました。 ヨハネとは、イエスさまの十二弟子、十二使徒で、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙を書いた使徒ヨハネです。ある解説書は、黙示録のヨハネは使徒ヨハネではないと語りますが、そのように主張する根拠も妥当性もありません。黙示録のヨハネは、あのヨハネです。 ともかく、イエスさまが黙示をヨハネに届けられたのは、最終的に神のしもべたち、教会に伝えるためです。そのためにヨハネがしたこと、それは2節にあるとおり、「証し」です。 神さまは、ご自身のみこころを、人々を用いて「証し」をさせるという形で伝えてくださいます。このときもヨハネを用いてくださいました。ヨハネは、この黙示録を諸教会に「証し」したのです。そして神さまが諸教会に求められたことは、この黙示録のみことばを「朗読する」こと、つまり、印刷技術がなく、会衆がともにみことばに耳を傾ける唯一の方法が「朗読」であった当時、そうすることで会衆全体がみことばを共有すること、そして、このヨハネの黙示録のみことばを「守り行う」ことです。 みことばは耳を傾けるものです。ヨハネの黙示録はとかく難解で、敬遠されがちなみことばでしょう。しかし神さまは、このみことばに「耳を傾けなさい」とおっしゃっています。それだけではありません。このみことばを「守り行う」のです。 こんな難しいみことばをどのように守り行うのか! そもそも、このみことばは何を語っているのか! 途方にくれたりはしないでしょうか? しかし、みことばがわかるように祈りつつ、励まし合って、しっかり取り組みましょう。私たちは必ず、このみことばの意味を悟り、具体的に実践できるように知恵が与えられると信じていただきたいのです。 具体的なみことばの実践。証しとは、その具体的なみことばの実践が教会全体でできるようになるために、耳を傾け、目にするべきものです。みことばは素晴らしいですが、実践されていなければ、絵に描いた餅です。 逆に言えば、みことばの素晴らしさは、私たちがそのみことばのとおりに生きる、証しの生活をすることを通して現されるものです。 次週学ぶみことばに書かれていますが、ヨハネはこのとき、パトモスという島にいました。それは、「神のことばとイエスの証しのゆえ」であると語られています。イエスさまを証しするみことばを語ったゆえにパトモス島にいたわけです。これは、流刑、島流しの刑です。まさに、生き方そのものが教えに殉じた人の生き方、いよいよこの生き方により、イエスさまが本物であることが証しされたわけです。その証しの集大成が、そのパトモス島でものされた「ヨハネの黙示録」であるわけです。 今年私たちは、イエスさまの再臨を待ち望む思いでみことばから学びます。この学びは、私たちの普段の生き方を変えるものとなるようにと、祈りつつ取り組んでいただきたいのです。自分の生き方を変え、人々の心を再臨のイエスさまへと向けるように……まさしく、証しになる生き方です。私たちを十字架によって罪から救ってくださったイエスさまと、再びこの世界に来てくださるイエスさまと、日々祈りとみことばによって交わっていくならば、私たちの生き方が変わります。証しの生き方へと変えられます。 そのようにして、私たちをとおして、イエスさまが周りに証しされて、この年、主を信じる人がひとりでも多く起こされて生きますように、主の御名によってお祈りいたします。  次のキーワードにまいります。2番目のキーワードは「神との交わり」です。 4節をご覧ください。このヨハネの黙示録は、アジアの7つの教会にあてて書かれた書簡であることがわかります。アジアと言っても、日本や韓国、中国の極東まで含むアジアではなく、今でいうトルコの地域を指し、小さいアジア、「小アジア」と言います。  教会の数は7つです。聖書で7という数字は「完全」を意味します。この7つの教会がいかなる教会で、主がそれらの教会ひとつひとつにどのようなみこころを持っておられたかについては、黙示録の2章と3章に詳しく出てきますが、この7つの教会は、「7つ」という数からもわかるとおり、これは完全な教会の姿、あるいは、現代に至るまで約2000年間存在しつづけたすべての教会のあらゆる様相を示しているとも言えます。  この7つの教会、完全な教会に向かわれるお三方が登場します。今おられ、昔おられ、やがて来られる方、つまり、永遠なる神さまです。このお方はヨハネの黙示録が記録されたそのときにも、そして2021年1月3日のこのときにも、おられるお方です。世界が創造された昔から存在してこられたお方です。 そしていずれの日、神さまが定められた日に、さばき主として、しかし神の民にとっては永遠の天国に召してくださるお方として、私たち人間の前に来てくださるお方です。 そして、御座の前におられる7つの御霊、これは、御霊の数を数えると7人おられた、ではありません。御霊はおひとりのお方です。しかしここでは、7つの御霊と表現しています。これは、完全な御霊という意味であり、全地に満ち満ちておられるほど完全なお方という意味です。 しかしこの全地に満ちておられる御霊なる神さまは、7つの教会それぞれを、つまりすべてのキリストのからだなる神の教会を、完全な存在としてくださるお方である、という意味に解釈すると妥当です。この7つの御霊と表現された御霊なる神さまが、7つの教会と表現されたあらゆる教会に向かわれ、語られるのです。 そして、イエスさまです。イエスさまは確かな証人、神さまを解き明かされた、父なる神さまのふところにおられるひとり子の神なるお方です。そして、死者の中から最初に生まれたお方、十字架の死からの復活をもって、ご自身神であることを証しされ、イエスさまを信じるすべての人を罪と死に打ち勝たせてくださったお方です。さらに、地の王たちの支配者、終わりの日にあらゆる権威、権力の上にまし、永遠の王となられるお方です。 この、三位一体なる神さまから、7つの教会、つまり、地にあるすべての、神さまの御目から見れば完全な教会に対し、何が臨むことを使徒ヨハネは祈っていますでしょうか?「恵みと平安」です。 「恵みと平安がありますように」という祈りは、新約聖書に収録されている使徒パウロが書いた13の手紙すべてで、パウロが手紙の読み手のために祈ったことばです。このことばはペテロの手紙第一と第二、ヨハネの手紙第二にも登場します。平安を祈る祈りも含めたら、もっと多くの書簡に登場します。それほど大事なことばです。 初代教会は、形成されて間もなく、たいへん迫害に晒されることになりました。恵みと平安、神さまご自身が御手を伸ばして守ってくださり、導いてくださるその恵みと、その守りの結果与えられる、世の何ものをもってしても奪い去ることのできない平安を、教会は必要としていました。ヨハネという指導者を失ったアジアの7教会もまた例外ではありませんでした。その諸教会に神さまの恵みのみ手が臨み、神さまが与えてくださる平安の中にいられるように……。 ヨハネのこの切なる祈りは、こんにち、すべての教会が必要としているものです。共産圏やイスラム圏のようなキリスト教会に対してむき出しの敵意を示す地域において、主にある私たちの兄弟姉妹が守られるように、私たちは祈る必要があります。これに対して私たち、彼らに比べるとあまりに危険のない地域にいるクリスチャンたちはどうでしょうか? やはり、恵みと平安を求める祈りを必要としています。 私たちがこれほど安全なのは、神さまが守ってくださっているから、それゆえに平安をいただいている……このことに私たちは無感覚になってはなりません。当たり前だと思ってはなりません。そうです。恵みと平安があるように、とは、「自分たちが無事であることは神さまの恵みと平安があるゆえであることを、信じ、神さまに感謝できるように」という意味でもあるのです。 では、三位一体の神さまが