苦難にあっても忠実であれ

聖書箇所;ヨハネの黙示録2:8~11/メッセージ題目;苦難にあっても忠実であれ  聖書は、聖徒が苦難にあうことを語っています。もちろん、そういう苦難は、私が先週立てつづけに体験したようなものとはまったくちがうものです。教会図書にある『たといそうでなくても』ですとか『サビーナ』といった本をぜひお読みいただきたいのですが、イエスさまを信じる信仰を貫いたゆえに、国家神道原理主義の日本の支配下にあった朝鮮ですとか、共産主義のルーマニアですとか、そういった国々で、聖徒たちは塗炭の苦しみを味わわされました。そんな方々のことを考えると、ごみ捨てに行けるだけのごみを出せる家に住めることも、きちんとした礼拝堂で礼拝できることも、格別の恵みというほかありません。  ヨハネの黙示録、7つの教会についての学びは今日が2回目、スミルナ教会についてです。  まず、このメッセージは、語ってくださるお方、イエスさまがどのようなお方かを告げるみことばから始まっています。スミルナ教会に語られるイエスさまは、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」であるということです。  イエスさまは7つの教会にそれぞれメッセージを語られるわけですが、そのメッセージを始められるにあたって、語ってくださるお方であるイエスさまとはどのようなお方か、修飾することばは、7つすべて異なっています。その修飾することばは特に、その教会ごとに対し意味があります。  先週私たちは、エペソ教会に対して語られたイエスさまのみことばを学びました。その修飾のことばは、「右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台を歩く方」です。七つの星、七つの燭台が、教会という意味を持っている以上、エペソ教会にこのメッセージを語られたのは、あなたがたエペソ教会が、教会、キリストのからだと呼ばれるにふさわしくあろうとするなら、初めの愛に立ち帰れ、という意味がありました。   今日の箇所、スミルナ教会に向かわれるイエスさまの御姿は、8節に書かれているとおりです。「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」……。   イエスさまがこういうお方であることは、私たちにとってどのような意味があるでしょうか? 私たち人間はいつかはこの地の生涯を終える存在であり、それはありていに言えば「死ぬ」存在である、ということです。   その「死ぬ」ということは、多くの場合、永遠の別れを意味します。だから死にたくはありません。ましてや、苦しんで死ぬなどなおさら避けたいことです。   それなのに、教会を迫害する者たちは、イエスさまを信じつづければおまえは死ぬよ、とちらつかせ、その死に対する恐怖をかきたてることで、人を信仰から引き離そうとします。   私たちは弱いです。ある牧師のお嬢さんが、『たといそうでなくても』を読んだとき、こんなことを言ったそうです。「こんな目にあったら、あたしなら信仰捨てちゃいそうだよ!」私は彼女のことを責めることなどできないと思いました。そうです、肉体的、精神的に極限まで追い詰められたら、私たちはどうすればいいというのでしょうか。   イエスさまが初めであり終わりである、死んでよみがえられた方であることを知ることは、そのように死と隣り合わせで迫害を受けかねない私たちにとって、この上なく必要なことです。十字架に死なれても三日目によみがえられたイエスさまは、私たち、有限であり、死ぬべき私たちに、よみがえりのいのち、永遠のいのちを与えてくださいます。この、永遠のいのちの信仰が、私たちを生かします。   9節を読みましょう。スミルナ教会を神さまはどう評価していらっしゃいますでしょうか? スミルナ教会は、苦難の中にあり、また窮乏していました。しかし、主はその苦難と貧しさを知っておられ、わたしはあなたがたがどんなに苦しいかよく知っているよ、と言ってくださいます。   苦しいということ、貧しいということは、できれば避けたいことです。 教会が成長するということには、経済的に豊かになって苦しさ、貧しさから抜け出すということも含まれてしかるべきです。しかし、教会は思うように成長しない、人が増えるわけでもなければ、経済的に豊かになるわけでもない、目下このコロナ下においては、礼拝に人が来なくなるという事態にもなるわけです。神さま、なぜですか! と叫び出したくなるようなそのとき……神さまは、私たちがなぜ苦しんでいるかすべてご存じで、そんな苦しみの中にある私たちのことを慰めてくださいます。   なんというみことばで慰めてくださるのでしょうか?「だが、あなたは富んでいるのだ。」そうです、経済的に、物質的に貧しいかどうか、あるいは、目に見える状況が苦しいかどうかということを、つい私たちは気にしてしまいます。しかし、神さまが私たちクリスチャン、教会をご覧になる基準は、そこにはありません。神さまがいったん、「あなたは富んでいる」とおっしゃるなら、状況はどうあれ、私たちは富んでいるのです。   教会が富んでいるかどうかは、教会の年間予算の額や、登録教会員なり礼拝出席者なりの数や、礼拝堂の大きさ、立派さで決まるのではありません。まことの富なる神さまが教会とともにおられるように、教会が神さまをお迎えしているかどうかです。もし、立派な礼拝堂を持ち、たくさんの会衆を集め、インターネットの礼拝中継はたくさんの視聴者を集め、そうとうな年間予算を誇る教会であったとしても、神さまの御声にその教会が無関心であるならば、その教会は「富んでいる」とはとても言えません。   もし、私たちがおのが貧しさを痛感し、神さまに涙をもって訴えるがごとく進み出るなら、それで私たちは「富んでいる」者となるのです。私たちは何を見て自分自身や、教会を評価するのでしょうか? お金のような目に見えるものではなく、目に見えない神さまのやさしい御目で自分たちのことを見ることができるならば、幸いなことです。   しかし、神さまがともにおられるゆえの霊的な富は、ある面では目に見える富をもたらします。「ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられている」……実は、これは富なのです。   うそではありません。これは、イエスさまがおっしゃっているとおりです。マタイの福音書5章、11節と12節に書かれているとおりです。   預言者とは、イエスさまのご到来を、その生き方をもって証しした人々です。しかし、イスラエル、ユダヤの既得権を握った者たちは、まことに神に従順であったそんな彼らを忌み嫌い、苦しめました。そのように、スミルナ教会はユダヤ人といいながら、まことの救い主であるイエスさまを信じない者たちから、塗炭の苦しみを味わわされていました。   だが、マタイ伝のイエスさまのみことばによれば、そんな聖徒たちは、天で大きな報いを受けるということです。天の御国においては、地上でイエスさまの御名のゆえに苦しんだ者、特に、イエスさまを信じ従っているというその理由で迫害を加えてくる者たちの、その迫害を耐え忍んだ聖徒たちに、主は大きな報いを与えてくださいます。   私たちがもし、この地上の生涯で終わりならば、そのような苦しみには意味がないことになるでしょう。しかし主は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」です。この永遠のいのちなるお方が私たちのことを、永遠の御国へと迎えてくださるゆえ、私たちはこの地上の苦しみを耐え忍ぶことに、大きな意義をいだくことができるのです。それは、イエスさまのあとについて自分の十字架を背負う生き方ですが、最高の祝福です。   10節にまいりましょう。「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。」このようにイエスさまがおっしゃるのは、苦しい思いをすることは、普通に考えるならば恐れることである、ということが前提となっています。いやー、自分はどんな目にあっても全く平気だよー、こわくないよー、なんて言うのは、ほんとうに苦しいとはどういうことかわかっていないからそう言っているだけに過ぎません。私も若い頃は、そのようなことを言ったものでしたが、それは、向こう見ず、というか、無謀、というか、いえ、そんなかっこいいものではなく、無知、だったということです。   苦しみを恐れないのは、無謀だからでも、無知だからでもありません。イエスさまがその苦しみを、完全に受けてくださったからです。考えてみましょう。神の御子があらゆるあざけりを受け、十字架でなぶり殺しにされ、ついには御父とのいのちの交わりが絶ち切られたと考えてください。そのイエスさまの苦しみはいかばかりか! それに比べたら、私たちの体験する苦しみなど、何ほどのこともありません。かつて、信仰の先達は、たいへんな迫害を受けましたが、彼らは何と言って耐えたのでしょうか。イエスさまの十字架に比べれば、こんなことは苦しみのうちに入らない……。 私は、このようにして迫害に耐えた先達のことばを、声を大にしてお伝えしたいのです。主は私たちにも、このように十字架を負う恵みを与えてくださるのだと。もちろん、このように語る私自身が失格者になってはなりません。自分を打ちたたいてでも、この永遠のいのちをくださったイエスさまにお従いしていく必要があります。 みことばは続きます。「見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。」これは、脅かして言っているのではなく、実際にあなたがたはそうなる、とおっしゃっていることばです。これは警告、つまり、そうならないように避けなさい、というおことばではありません。あなたはサタンによって迫害を受け、試されます。でも、死に至るまで忠実でありなさい。 「あなたは十日の間、苦難にあう」。この「十日」ということばは、文字どおりの十日、240時間という意味と取るべきでしょうか? それよりも、これは「象徴」としての時間と考えるといいでしょう。 私たちは苦しみに遭います。しかし、その苦しみに終わりがあると知っているなら、私たちは耐えられるのではないでしょうか?「十日」という時間は、案外長くない時間と考えられるでしょう。二週間にも満たない期間です。そのように、主はサタンに対し、私たち主の民を苦しめるのにも長すぎる時間を許してはおられない、ということです。私たちは苦しみますが、耐えることができるのです。 私たち聖徒は、地上では苦しみに次ぐ苦しみを体験します。しかしいのちが天国に移され、主とともに永遠に生きるようになったならば、その地上の長かった苦しみなど、あたかも十日かそこらの監獄生活のようではないでしょうか? さきほども申しました『たといそうでなくても』や『サビーナ』での監獄の生活は、もちろん、数字のうえでの十日ではすみません。その登場人物の中には朱基徹(チュ・キチョル)牧師のように、長い長い獄中生活のはて、苦しんで苦しんだ末にいのちを落とした人もいたわけでした。しかし、その後に控えていたものは永遠の天国、いのちの冠であったことは、もはや疑いようがありません。 私たちが避けるべきものは何でしょうか? この地において、キリストのゆえに受ける苦難ではありません。私たちが避けるべきは、苦しまなくていいという、安逸な心、安逸な生活です。脅かして言うのでもなんでもなく、私たちはサタンの試みにあい、苦しむ定めです。 それが避けられない以上、私たちのすることは、そうなっても信仰から離れてしまうことのないように、コロナ下とはいえそれでもまだ平常時といえる今から、普段からの主との交わりに努め、この愛するイエスさまを絶対に裏切ることがないように、ますますイエスさまを愛し、兄弟姉妹のために、教会のためにお祈りすることが必要ではないでしょうか? そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える、とあります。あなた、つまり教会がいのちの冠を受けるのです。信徒個人が、だれかほかの信徒を出し抜いて信仰深くなって、ほかの信徒が受けられないいのちの冠を私が受ける、ということではありません。そういうことはありえません。教会全体が一緒にいのちの冠を受けるのです。 聖書を読むとほとんどの場合、登場人物を介して主のみわざが語られています。この新約時代も、パウロやペテロ、そしてその周辺の人々によって教会が形づくられた様子が、使徒の働きや手紙類から垣間見えます。しかし、ヨハネの黙示録をご覧ください。この黙示録を記したヨハネ以外、どんな特定の登場人物もいません。あえているとすれば、7つの教会の7人の御使いです。擬人化された教会です。教会があたかもひとりの人のように、考え、語り、みことばに従う振る舞いをするのです。 それは今の時代も同じです。著名なクリスチャンや牧師が教会をつくるのではありません。私たち全員がひとつの教会、ひとつのからだなのです。教会の歴史とは、私たち全員がみことばに従順に従うことで紡ぐものです。…