未来に向けて種を蒔く

聖書箇所;創世記23:1~20/メッセージ題目;未来に向けて種を蒔く 私が青春をささげた東京での教会開拓時代のことは何度かお話ししましたが、千駄木という東京の下町で、教会開拓の働きを始め、私も伝道師という立場でそこに混ぜてもらっていました。 最初は、マンションの一室からのスタートです。しかし日曜礼拝がスタートして1か月で、そのマンションの商業スペースが、大家さんの好意で安く使えることになり、そのスペースを改装して、礼拝堂にしました。 しかしたいへんだったのは、近所から苦情が来て、礼拝や集会が中止する寸前まで追い込まれたことが何度もあったことです。今でも思い出すと緊張しますが、礼拝の時間に、苦情を申し立てた人がお巡りさんを引き連れてやってきたこともあったものでした。 泣きっ面に蜂、と申しますか、その好意を示してくださった大家さんはマンションの所有権をほかの不動産屋さんに売り、すると、教会のテナント料が数倍にはね上がり、ただでさえ苦しい教会財政を思いきり逼迫させました。 これはなんとかしなくては……主任牧師はほうぼうからお金を集め、韓国の教会から支払われる退職金さえ前借りして、千駄木から少し離れた千住の町に良い物件を見つけ、開拓からわずか2年でしたが、引っ越しました。 千住のその物件は袋小路にあり、表通り沿いだった千駄木の物件に比べると、その点では見劣りしました。また、千住は千駄木のような観光地でもなく、町としていかにも地味でした。しかし私たちは、これ以上ないほど喜んだものでした。ああ、これで動かなくてすむ! 礼拝も堂々とささげられる! 教会の方々は、ほぼ韓国の方々で固められていました。私はそのような方々をお相手に働かせていただいて、それこそ聖書の表現を借りれば「寄留者」として日本に生活することは、どれほど不安定で、また気持ちも不安になることか、思わずにはいられませんでした。 せめて、神さまを礼拝する場所ばかりは、安定した場所になってほしい、私はそのように祈りを込めて働かせていただいたものですが、土地建物が自分たち教会のものになり、そこで堂々と韓国語で礼拝をささげ、韓国語で賛美をし、韓国語でお祈りをし、韓国語で会話をし、キムチを中心とした韓国料理を食べる教会生活ができるようになって、ああ、ほんとうによかったなあ、と思ったものでした。 本日の聖書箇所、創世記23章をお読みし、学びながら、そのころのことを思い出しました。まことに、寄留者として客地に生きることは不安定な生活を強いられることですが、それでもその地に生きる証しを立てることは必要です。なぜならば、子どもたち、孫たちまで、不安定な生活をさせるわけにはいかないからです。 今日の箇所にまいりましょう。1節、2節のみことばをお読みします。……アブラハムの愛する妻、サラは死にました。127歳ですから、長寿を全うしたというべきですが、アブラハムは泣きました。 サラとは、いろいろなことがありました。異邦人の王に2度も召し入れられそうになっても、アブラハムは自分の身を守ろうともしました。サラ以外の女性と交わり、子をなしたこともありました。その子イシュマエルを巡ってサラの激しいことばを受け入れざるを得なくて、大いに苦悩したこともありました。しかしそれでも、サラはアブラハムにとって、愛する女性だったのでした。 主にある人が亡くなるということは、天国に行くということであり、それは喜ぶべきことといえば確かにそうです。しかし、私たちは堂々と悲しんでいいのです。泣いてもいいのです。主よ、なぜ愛する人のいのちを取ったのですか! 私たちはこのように、何度も悲しみに正面から向き合いながら、悲しむ者とともに涙を流してくださるイエスさまの愛を知ることとなるのです。 しかし、アブラハムはいつまでも悲しんでばかりもいられません。サラを葬るということをしなければなりません。しかし、アブラハムはその土地にあって寄留者です。サラを葬るために、この土地の所有者にお金を支払って、土地を手に入れなければなりません。 この「土地を手に入れる」ということは、重要な意味を持ちます。アブラハムはすでに、ベエル・シェバという、定住すべき土地がありました。しかし、それでもなお、アブラハムは、半分遊牧民のような生活を続けていました。 それが、サラの葬られる土地を手に入れるということは、そこに自分も葬られるということであり、息子のイサクも葬られるということです。時代は下り、イサクの妻のリベカ、ヤコブの妻レア、そしてヤコブがそこに葬られることとなりました。子孫に至るまで葬られる、これは、神さまが約束してくださったこの地を所有する権利を持っている、ということを、明らかにしていることになります。 そのためにもアブラハムは、サラを葬るこの土地を、正式な手続きを経て手に入れる必要がありました。3節と4節をお読みしましょう。 アブラハムの申し出に、この土地のヒッタイト人たちは何と答えたでしょうか? 5節、6節です。 アブラハムはヒッタイト人から見れば外国人、寄留者です。そんな彼のことを彼らは高く評価し、最上級の待遇をしようという意思を示しています。 しかし、これを額面通りに受け取り、彼らの好意に甘えるということは、いかにも厚顔無恥なふるまいです。第一コリント13章にありますように、神の民に備わっている「愛」の特質は、「礼儀に反することをしない」ことにあります。 この箇所は読み進めていきますと、ヒッタイト人がアブラハムのことを、それこそ下へも置かない待遇をしているわけではないことがはっきりします。私たちの場合はどうでしょうか? 神さまにお従いする生き方をしているなら、そこには、愛、寛容、親切、善意、誠実といった対人関係における御霊の実が結ばれていき、それはほかの人たちにとって私たちに対する素晴らしい評価へとつながるのですが、だからといって、私たちがいかにも、御霊の実を結んでいる素晴らしい人であるかのように自任して、振る舞うのはいけません。私たちがほんとうに御霊の実を結んでいるならば、謙遜になることが求められています。 とはいいましても、アブラハムは、土地を手に入れることは自分のするべきこととして主張しました。謙遜というものは、卑屈とはちがいます。いえ、私はそのような評価に値しません、そのようにへりくだるのは結構ですが、へりくだるあまり、この世界に対して引いてしまい、何の影響も与えられないようでは困ります。 アブラハムの場合は、どのようにしてこの土地を所有するヒッタイトに対して影響力を行使しようとしたのでしょうか? 8節、9節です。 まず、アブラハムは、「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたの心にかなうのであれば」と、ヒッタイト人たちの心に委ねています。お墓というものは、なんといっても、亡骸(なきがら)を置く場所であり、ぞっとしないものです。いわんや、この時代、異邦人のお墓を用意してあげようなどということは、普通ならば考えられないことです。アブラハムは、異邦人の遊牧民として生きる自分の弱い立場を認めながら、なお、ヒッタイト人の好意にすがろうとしていました。 そしてアブラハムは、どこに葬るつもりかを語っています。ツォハルの子エフロンの所有する、マクペラの洞穴。このようなことをアブラハムがすぐに言えたのは、どこならば葬るのを許してもらえそうかということを、事前によくリサーチしていた、ということです。あるいは、11節でエフロンがアブラハムに対して語ったことばを見ると、アブラハムはエフロンとの間に、一定の信頼関係を築いていた可能性もあります。 11節を詳しく見てみましょう。エフロンは民の集まっている前で、それをアブラハムにただで譲ると宣言しました。エフロンとしては、気前のいいところを示したのでしょうか。あるいは、アブラハムに対する尊敬の念を示したつもりだったのでしょうか。 しかし、この土地をただで取引したとなると、後々まで問題を残すことになります。なによりも、この土地はヒッタイトの好意で手に入れたもの、という事実が、アブラハムとその家族を支配することになります。それは、ひいてはアブラハムの子孫であるイスラエル民族にも影響を及ぼすことになります。 それだけではなく、アブラハムの一家は、ヒッタイト人の土地をただでせしめた家門という悪名も手にすることになります。これでは、神さまが約束の地としてイスラエルにカナンを与えられることが、きわめてふさわしくない形でその根拠を持つことになります。 この点でも、アブラハムが彼らの「ご主人」と呼びかけたりすることばや、妙にへりくだった態度を示したりすることを真に受けなかったことは、よいことだったと言うべきです。アブラハムは何と答えたでしょうか。13節です。 アブラハムは、あくまで通り相場で土地を買わせてくださいと申し出ました。といっても、この点でも彼らの判断に委ねました。彼らヒッタイト人が許すならば、相応のお金を払って土地を買います、ということです。 するとエフロンは、前言を翻しました。15節です。 この銀400シェケルというのは、時代によって価値が異なります。だから、それが高すぎるか適正な値段なのかはわからない、という神学上の見解があります。私も基本的にはそうだろうとは思います。しかし、聖書のほかの箇所を読んでみますと、この「シェケル」に関して、興味深い事実が見えてきます。 サムエル記第二の最後に、ダビデがイスラエルの軍事力を推し量るために民の数を数えたという、主のみこころにかなわないことを行なったため、主の懲らしめを民が受けるという、大変なことが起こったことが記録されています。疫病でいっぺんに7万人が倒れたのでした。 今、私たちの生きるこの世も、疫病の流行という時代であり、この箇所はとてもリアルに感じられないでしょうか? しかし、現代のコロナウイルスの流行のこれといった責任者の所在を問うのがとても難しい一方、サムエル記第二の疫病の責任者ははっきり、ダビデでした。 心が咎めたダビデは、主にいけにえをささげることを決意しましたが、その場所をいけにえの牛とともに提供したアラウナは、最初ダビデ王の申し出に恐れ入って、どうかただで使ってください、と言ったのですが、ダビデは、いや、お金を払って買い上げたい、と、ゆずりませんでした。それでようやく、アラウナはダビデから銀を受け取ることを承知し、土地と牛を提供しました。なんとなく、今日の箇所に構造が似ています。 ダビデは、イスラエルが主の下されたわざわいから救われるように、ダビデ王自身の悔い改め、神との和解のために、このようにいけにえをささげることを必要としました。問題はこのとき、ダビデがアラウナに支払った銀です。それは50シェケルでした。 シェケルというのは通貨の単位ではなく、重さです。1シェケルが11.4グラムですから、50シェケルは570グラム、なかなか重いですが、これは言うなれば、ダビデが神さまと和解し、イスラエルがわざわいから救われるために支払われる代価を象徴的に表しています。 一方、アブラハムがエフロンに支払った額はいくらでしょうか? 銀400シェケル、約4.5キロの銀です。一応、この時代のシェケルがダビデの時代のシェケルと同じ価値と考えると、銀400シェケルは、ダビデが払ったシェケルの、なんと8倍です。単純に考えると、王さまが自分の罪のとがめのために払ったお金の、8倍もするということです。 そう考えると、相当に高い額を吹っ掛けられたと言えなくもありません。それでもアブラハムはいっさい値切らず、言い値で買うことを承知しました。それは、それほどこの地に拠点を置くことが、自分にとっても、ひいては神の民にとっても大事であったからです。 そして、アブラハムがこのように、相手の言い値を唯々諾々と受け入れて土地を買ったということは、それだけ、居留させてもらっている土地の主人であるヒッタイト人のことを大事に思っている、ということです。アブラハムは裕福な族長として、自分の権勢を誇って、ヒッタイト人の下へも置かない扱いを当然のこととすることもできたはずです。しかしアブラハムは、そのように振る舞うのをよしとしませんでした。 アブラハムは、このようにしてきっちりとお金を払うことで、この地のヒッタイトにとって証しとなる行動をしました。これは、私たちにとっても模範となる行動ではないでしょうか。 ペテロの手紙第一、2章11節と12節をお開きください。……はい、旅人、寄留者という表現は、明らかに旧約聖書のアブラハムのことを意識したうえで、私たちのことを指しています。アブラハムが寄留者であるように、私たちもこの世にあっては、天の御国を目指しながらこの地に寄留する、寄留者です。 そんな私たちは、この世の論理で生きることを余儀なくされますし、何よりも、私たちはこの世に生きているかぎり、肉の性質を帯びて生きることは避けられません。この肉の欲は私たちのたましいに戦いを挑み、私たちが神さまに従えなくなるようにする、すなわち、神さまのご栄光を顕すという、人として最高の生き方、当然の生き方をできないようにしてしまいます。 だから、この肉の欲を避ける生き方を私たちは、ともに目指す必要があります。アブラハムは肉の欲の源ともいえる、お金に対する執着を切り捨ててでも、アブラハムから見れば異邦人であるヒッタイト人の前で立派に振る舞いました。アブラハムのこの生き方がヒッタイト人をして創造主なる神さまをほめたたえさせたかどうかは神のみぞ知る、といったところですが、少なくとも、私たちもやはり異邦人でありましたが、アブラハムのこの生き方を見て、神さまをほめたたえています。 そして今度は、私たちがその生き方によって、あとにつづく人々が神さまをほめたたえるようにするのです。時にその生き方は、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けるあまり、アブラハムが400シェケルの銀を手離したように、大きな犠牲を伴うものであるかもしれません。 しかしこれは、未来に向けて種を蒔くことと理解しておきたいものです。私たちは、葛藤を覚えるとき、天のお父さまを思いましょう。ひとり子イエスさまを十字架におつけになるほどの大きな犠牲は、信じるすべての人を生かし、そこに天の御国を実現してくださいました。私たちも十字架を信じる信仰ゆえに、天の御国に入れていただいています。 アブラハムは400シェケルの銀で、やがてイスラエルが約束の地を手にする礎を築きました。イエスさまは十字架の死によって、信じるすべての者を神の民としてくださり、御国を築いてくださいました。私たちも手離すことにより、大きな、大きな収穫を神さまが得させてくださることを、信じてまいりたいものです。 私たちにはまだ、これは自分のもの、これだけは譲れない、と、こだわっているものはないでしょうか? それを神さまの御手にゆだねる決心が与えられるように、祈ってみてはいかがでしょうか? 私たちの財産、私たちの時間の使い方、私たちの趣味……いろいろあると思います。しかし、私たちのあとにつづく人々から御国が立てられ、私たちも主とともに統べ治める者となるならば、何を惜しむことがあるでしょうか? それを手離すことにより、どれほど豊かな実を結ぶでしょうか? しばらく祈りましょう。アブラハムが、あとにつづく神の民のために、異邦人の間で立派に振る舞うために、400シェケルの銀を手離した、すなわち、未来に向けて種を蒔いた、その信仰に倣うために、私たちは何を手離すべきか、お示しください……。