主イエスは医者なり

招詞 詩篇127篇/祈り/信徒信条/交読 詩篇57篇/主の祈り/讃美 讃美歌9/主の祈り/聖書朗読 マタイの福音書9:9-13 メッセージ題目;主イエスは医者なり  イエスさまは、律法学者、パリサイ人に対して、何度となく警告のことばを発されました。マタイの福音書23章などその最たるもので、パリサイ人のいろいろな悪い特徴を列挙しながら「わざわいだ」と語っておられます。さて、パリサイ人は律法を守り行うことにより救いを完成させようと教える者たちであり、ゆえにイエスさまと対立するわけです。 ならば、恵みによって救われたと信じている私たちは、このパリサイ人をさばくことのできる側にいるのでしょうか? いいえ、聖書がこれほど、パリサイ人に対する警告に紙面を割いているということは、私たちクリスチャンにもこのパリサイ人のような要素があることを警告しておられるからではないでしょうか? いえ、極言するならば、私たちこそがパリサイ人なのであって、神さまの怒りを受ける存在です。だから私たちは神さまのあわれみにすがる必要があります。下手をすれば、救われたはずの私たちは、気がつけばちっぽけな肉を誇りとし、パリサイ人のようになってしまうのです。  そんな私たちではありますが、イエスさまに救っていただいたときの感激は今も胸にあるでしょう。そのときの感激を思い起こしていただきたいのです。さきほどお読みいただいたみことばは、そのように救われた感激に裏打ちされたみことばということができます。では、ともに見てまいりましょう。三つのポイントでお話しします。 第一のポイントです。イエスさまは、罪人を招くお方です。 9節をお読みしましょう。「イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」 マタイは、収税所にすわっていました。取税人です。前に教会にいらっしゃった水谷潔先生のメッセージをおぼえていらっしゃるでしょうか? ユダヤの三大悪人は、「強盗、人殺し、取税人」です。宗主国ローマの手先となって同胞ユダヤ人から税金を取り立て、しかも決められた以上のお金をむしり取って自分を肥え太らせる……とんでもない輩(やから)です。しかし、税金というものは納めなければなりません。 この取税人という存在は、いわば「必要悪」とでも言うべきものですが、この役割にある者は、どのような気持ちでこの仕事についていたのでしょうか? 神の民のアイデンティティを持って生きたくても、ローマの権威をかさに着て生きるかぎりそれもできない、なぜならば、信仰をともにする民の共同体からのけ者にされているからです。それでもあえて金持ちになるためにこの職にしがみつかざるを得ない、そんな取税人の気持ちが私たちにわかりますでしょうか? その日もマタイは収税所に座っていました。道行く人々は、彼に極めて冷たい視線を投げかけたでしょう。唾を吐きかける人もいたかもしれません。マタイはそれでも、自分は間違っていない、自分は社会に必要とされているからこの仕事をしているんだ、社会に相手にされない分、少しぐらいお金を自分のふところに入れたからって、どうだと言うのだ……もちろん、こんな言い訳をしたところで、重い税金をむしり取られる立場のユダヤ人は納得するどころか、何を言っているんだと反発するでしょう。しかしマタイにしてみれば、こうでもして自分を慰めるしかなかったことでしょう。 そこへ通りかかったのがイエスさまです。イエスさまはマタイを見つめられました。マタイは、はっとしたはずです。自分を見つめるまなざしがまったくちがう! イエスさまは、やさしいまなざし、しかし強い意志のこもったまなざしで、マタイのことをじっと見つめられたのでした。マタイは思ったことでしょう。このお方はちがう! あるいはマタイが、すでにうわさでもちきりの先生だったイエスさまのことを知っていた可能性は充分にあります。もしそうだとすると、なぜこのような先生が自分のことを見つめておられるのだろうか……それもこのような嫌われ者の自分のことを……マタイは、驚きと感激で胸がいっぱいになったことでしょう。 そして、イエスさまはおっしゃいます。「わたしについて来なさい。」当代一の先生でいらっしゃるイエスさまにここまで言われては、マタイの答えは決まっていました。「はい! お従いします!」収税所をあとにして、イエスさまにお従いするのみでした。 マタイにとっては、お金持ちとして生きる生き方が終わりを告げることを意味していました。これから待つ生活は、人間的に見ればとてもきびしい生活です。マタイにそれがわからないはずがありませんでした。しかし、ついて行きました。そして、それは正しい選択でした。なぜでしょうか? 天地万物を創造され、動かし、生かしておられる全能なる主のみそばにて、ともに過ごす生き方へと入れられたからです。表面的には何も持たないように見えても、実際は宇宙のすべての富を手にしたも同然の生活です。マタイはこの無限の富に目が開かれたのでした。 それにくらべると、いかにお金持ちになれると言っても、取税人として得られる富などたかが知れています。しかもその富は、あえて嫌われ者になる道を選んで手にした富です。その富は、人として当然受けるべき愛情というものを失ってまで、言い換えるならば人としての在り方、人間らしさというもの失ってまでして得たものです。 そこまでして富を得て、いったい何の意味があるというのでしょうか? そこにはただ、絶望とむなしさしかありません。イエスさまはそのむなしさから救ってくださり、汲めどもつきぬ永遠のいのちの世界に導き入れてくださったお方です。 さて、ここで、マタイにとっては、救いが即献身であった点にも注意したいと思います。私たちも救っていただいたならば、即、主に身をささげてしかるべきです。何もそれは、教職者になるべきというのではありません。 「置かれた場所で咲きなさい」ということばがありますが、このことばを私なりに解釈すると、それぞれが遣わされている家庭、職場、学校の人間関係の中で、主のご栄光を顕す生き方をする、と言うことができると思います。その生き方を実践すべくつねに祈りつつ取り組んでいる人は、主に献身した人ということができます。マタイが特別なのではありません。私たちは一人の例外なく、イエスさまに「わたしについて来なさい」とお声をかけていただいた存在です。私たちの することは、イエスさまについて行くことです。 また一方で、私たちは人に伝道して救いに導くことについて、どのような考えを持っていますでしょうか? その人が信仰告白に導かれてバプテスマを受けるところまでこぎつけたならば、「さらに」信仰が成長して神さまに献身するようになればラッキー、そんなことを考えてはいないでしょうか? 違うのです。イエスさまは、信仰告白をする者をすべて、献身者と見なしていらっしゃいます。人の側で勝手に段階や優劣をつけて見てはいけません。私たちにも、救われてほしい、伝道させてほしいと祈る対象はいるでしょう。その人たちのことを私たちは、イエスさまによって御国の献身者に召された人、と見るべきです。そういう意味で、クリスチャンはみんなマタイなのです。 ついでに申し上げれば、このマタイは言うまでもなく、この「マタイの福音書」を書いている人です。そのマタイがこのような記事を書いた意図は何でしょうか? 自分のような者もイエスさまは召してくださったのだから、イエスさまはあなたのことも召してくださるのですよ……そういうメッセージを読者に、まごころをこめて送っていると読み取るべきでしょう。そう、私たちはみな、イエスさまに召されたマタイです。罪の奴隷から神のしもべへと完全に生き方が転換させられた、この上なく素晴らしい存在です。 私たちのかつての姿を思うならば、イエスさまの救いがどんなにすばらしいかわかるでしょう。そのような罪人に、イエスさまはどう接してくださいますでしょうか?  <後半につづく> 第二のポイントです。イエスさまは、罪人と交わるお方です。 10節のみことばをお読みします。「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」……JTJ神学校を創設された岸義紘(きしよしひろ)先生が語っておられましたが、これはマタイが、イエスさまの弟子共同体に加入するために取税人仲間とお別れパーティを開き、そこにいろいろな人を招いたのだ、ということです。そうだとすると、イエスさまのそばになぜこうも取税人や罪人が多く集まったのか、納得がいきます。嫌われ者のマタイにとっての友達は、このような嫌われ者しかいなかったでしょう。 しかし、先ほども少し触れましたが、取税人はいわば社会の必要悪です。取税人が税金を取り立てるから、パレスチナはローマによって平和が保たれると言えます。罪人というのも、言ってみれば世の中から必要悪にされてしまった人たちではないでしょうか?  たとえば遊女。漢字で「遊ぶ女」と書くのでとても誤解しやすいですが、彼女たちは何も遊んで暮らしているわけではありません。貧しい家を支えるために、売られて、好きでもない男の欲望のはけ口になる、あまりにもかわいそうな社会的弱者です。そしてこういう言い方をするのはとてもつらいですが、社会は彼女たちを必要悪に仕立てています。それでいて社会は彼女たちのことを忌み嫌うのです。 また、以前にもクリスマスのときお話ししましたが、羊飼いというのも罪人扱いされています。クリスマス物語の聖画などを見ると羊飼いがとても神聖に、かつ格好良く描かれていますが、もともとこの時代のパレスチナでは羊飼いとは、ならず者が社会から追いやられてつく職業でした。何しろ彼らは羊の番をするので、安息日に礼拝に行くこともままなりません。ますます社会は彼らを罪人扱いします。 その他にも、律法の解釈で罪人扱いされる人というのはいろいろいたわけです。律法学者、パリサイ人たちはそのような者たちを片っ端から罪人扱いし、そうすることで共同体をきよく保とうとしました。しかし、そのように共同体から切り捨てられるということは、目に見える神の民に属せなくなるということで、それは彼らにとって、死ぬことも同然でした。 イエスさまはそのように、共同体から罪人扱いされている人と一緒に過ごされました。一緒にごちそうを食べ、一緒にワインを飲み、笑い合いました。神の民の共同体であるはずのイスラエルからは除かれていた彼らは、ほかならぬイスラエルの神であられるイエスさまと出会い、交わり、だれよりも確実な回復をいただいたのです。 ヨハネの黙示録3章20節に、イエスさまのおことばが書かれています。このおことばによれば、イエスさまはどのようなお方でしょうか? お読みします。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」 取税人や罪人は、喜んで自分の心の扉を開けました。イエスさまが、「いっしょに交わろう! あなたと友だちになりたいんだ!」と言ってくださったからです。「はい、喜んで!」彼らは心の扉を開けて、イエスさまを迎え入れました。そのような彼らとイエスさまは飲んで、食べて、親しく交わってくださいました。 イエスさまは神であられるのに、へりくだって、人の視線に降りてくださるお方です。その人が罪人であろうが何だろうが、嫌ったりせず、むしろ「友だちになりたいんだ!」と、近づいてくださるお方です。私たち罪人はイエスさまと、一生の友情を分かち合いつつ、成長させていただく存在です。 イエスさまとの交わりを楽しみにしましょう。聖書を開いてお祈りする時間はイエスさまとのデートの時間です。デートだったら時の過ぎるのも忘れるでしょう。このスイートな時間を心から味わい楽しんでいただきたいのです。 第三のポイントにまいります。イエスさまは、罪人をいやすお方です。 11節のみことばです。「これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、『なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか』と言った。」取税人や罪人を受け入れ、交わりを持たれるイエスさまのことを、パリサイ人は批判しました。みことばを教える教師ともあろう者が、このような輩(やから)と交わりを持つとは何事か。……このようなことを言うパリサイ人は、間違っても罪人たちといっしょに食事をしたりなどしませんでした。 しかしイエスさまは、このようなことを言うパリサイ人に反論されました。12節です。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。』」彼らはいやされる必要のある病人なのですよ、彼らのことを放っておくつもりですか! それが愛のみことばを説く者のすることですか! わたしはだれが何と言おうとも、この病人たちをいやして立ち上がらせます! さて、このイエスさまのみことばには、一種の皮肉が込められています。あなたがたは人を罪に定めているところを見ると、どうやらいやされる必要のない丈夫な人のようですね。そうおっしゃっているかのようです。しかし、イエスさまによっていやしていただかなくてよい人などどこにいるのでしょうか? 人はみな罪人であり、罪という名の病によって病んでしまっている人たちです。イエスさまと食事をともにした取税人や罪人たちは、自分が罪人であり、したがって自分は赦され、いやされなければならないことをよくわかっていました。だが、パリサイ人にはその自覚がありませんでした。自分のことを神と人の前に正しいと思ってはばかるところがありませんでした。神さまにいやしていただかなくとも、自分は充分に丈夫だとうぬぼれているようです。 イエスさまは、このように宗教的に正しいとうぬぼれて、弱者を踏みにじる人たちの味方ではありません。むしろ、罪人、罪に病んだ人たちの味方です。イエスさまはそのような罪人のお医者さんであると自ら宣言されました。 言うまでもないことで、お医者さんになるのはとても難しいことです。いっぱい勉強しなければなりません。人の体や病気のことなら何でも知っていなければなりません。そしてそれ以上に、病気が治りたいと願う患者さんの味方になって、患者さんと二人三脚で治療に取り組むような愛にあふれたお医者さんである必要があるでしょう。どんなに頭がよくて腕がたしかでも、患者さんを利得の手段としか見なさないで、検査漬け、薬漬けにするようなお医者さんでは困ります。 イエスさまは何でもご存知の神さまです。私たち罪人のことを何でも知っておられます。私たちがどんな罪人で、どんな罪の中にいるかも、みーんな知っておられます。しかし、だからといって、お前はこんな罪を犯しただろう、だめな奴だ、などと、その罪にしたがっておさばきになることは「ありません」。 かえって、私たちの罪の性質が取り除かれてきよいキリストの似姿に変えられるように、とことんまで私たちにつきあって、私たちをいやし、きよめてくださるのです。 ところで、私たちはお互いの顔を見てみましょう。お互いもまた、いやされなければならない罪人です。神の民、クリスチャンにしては整っていない部分が垣間見えることもあるでしょう。しかし、それでがっかりしてはいけません。みんな、イエスさまというお医者さんにいやしていただく罪人、病人です。あの十二弟子にしたって、完全に整ってからイエスさまの弟子となったわけではありません。問題行動や問題発言がたくさんありました。言うなれば彼ら十二弟子もまた、病人の集団でした。しかし、イエスさまが根気よくいやしてくださり、整えてくださって、初代教会の礎となる使徒となって用いられたのでした。 だから私たちもお互いをさばいたりしてはいけません。それではパリサイ人と同じです。さばいたり批判したり、人の陰口をたたいたりするくらいならば、むしろ自分自身の罪深さにまず目を留めて悔い改めるべきです。それから、だれにも言わないでその人のために祈るべきです。悪口や陰口というものはしばしば、「祈りの課題」という形を借りて教会の中に蔓延します。私たちがパリサイ人にならないためにも、気をつけなければなりません。むしろ自分こそがいやされるべき罪人であると自覚し、また、兄弟姉妹もまたいやされるべき存在として、そのいやしをとりなして祈る者とならせていただきましょう。  まとめたいと思います。私たちはイエスさまにいやしていただくことではじめて健やかになれる、罪に病んで傷ついた存在です。イエスさまは、そんな私たちのことを弟子として招いてくださいました。私たちは生涯イエスさまに弟子としてお従いし、鍛えられることによって、この罪の病、傷をいやしていただけます。イエスさまは、私たちが罪の中で孤独になることがないように、いつでも私たちと交わってくださいます。その交わりの中で、私たちはいやしていただくのです。  私は取税人のような罪人ではない、と言って、その救いの御手、いやしの御手を拒んではいないでしょうか? 私たちに必要なのは、「私は罪人のかしらです」という、真剣な告白であり、いやされたいと真剣にイエスさまのみもとに行くことです。イエスさまは私たちをいやして健やかにする交わりに招いてくださり、私たちはその交わりの中でいやされます。今日も、そしてこれからも、いやし主なるイエスさまに自分を差し出し、ともに健やかになり、ともに罪人の姿からキリストの似姿に変えられて、主のご栄光を顕す者として用いられてまいりましょう。  では、お祈りいたします。 聖歌261/献金 讃美歌391(お手元に献金を聖別してください)/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り

「祈りの向こうにある祝福」

招詞 詩篇126篇/祈り/使徒信条/交読 詩篇51篇/主の祈り/讃美歌338/聖書朗読 申命記3章23節~28節 メッセージ題:「祈りの向こうにある祝福」 もし、うちにある日、こんな招待状が届いたとします。東京の方にある、ネズミさんの遊園地です。「おめでとうございます! あなたはこのたび、当園の、特別ディナーショーの特等席に当選しました。ご家族みなさまでお越しください。」封筒には、家族4人分の入場券、ディナーショーのお食事券、遊園地の隣のホテルの宿泊券、水戸から東京までの往復のバスの切符が入っていて、何月何日という日付も印刷してあります。もちろん休日で、学校も教会もありません。ああ、キャンペーンに応募してよかった! ところが、子どもたちがこう言ったとしたらどうでしょうか。「行きたくない! めんどくさい! うちでカップ麺食べて、テレビ見てる!」何度説得しても、言うことを聞いてくれません。そして当日……チケットはよそにやって、うちではテレビにカップ麺……。想像するだけでもいやな世界です。でも、私たちはけっこう、同じことをしているのです。神さまにお祈りするとき。神さまは私たちに、もっともっと、すばらしいものをくださろうとしてるのに、私たちの側で、ちっちゃなちっちゃなことしか祈らない、祈ろうとしない……これでいいのか、ということです。 その点、むかしの人のお祈りは豪快でした。ジョージ・ミューラー、彼は5万回もお祈りが応えられたといいます。でも、それはむかしの、特別な人だけのことでしょうか? いいえ、現代の日本の私たちも、お祈りは立派に応えられます。ようは、私たちがみこころにかなうお祈りを、いつでも、大胆にささげているかどうかです。 ただし、私たちはしばしば、祈っているはずのことが叶えられそうになくて、戸惑うことがあります。なんで! こんなに一生懸命祈っているのに! まちがいなくみこころなのに! みことばも与えられているのに! お祈りが応えられないことほど、つらいことはありません。私にも何度もそういうことがありました。そんなとき、いやー、お祈りが応えられなかったのは、それはみこころじゃなかったんだよ、ってなれるほど、私は悟りきっているわけではありません。だれだってそうだと思います。 そんなとき、私たちの祈りを超えた神さまのみこころに気づくことができたとすれば、どんなに素晴らしいことでしょうか。もちろん、それは簡単なことではありません。現実に苦しみの中にいるとすれば、なおさらのことです。それでも……神さまがその苦しみの中でもさらに大きなみこころを示され、平安を与えてくださるとすれば……。 いま、私たちはだれもが、コロナウイルスの災厄を取り去ってくださいと祈っています。たしかに茨城は、緊急事態宣言は解除となりました。しかし、だからといって、コロナの脅威まで去ったわけではありません。このようなとき、神さまは私たちの祈りを超える、どのようなみこころをお持ちなのかと思わされます。今日の本文をもとに、そのあたりのことをともに考えてまいりたいと思います。 先週、ギデオンの祈りについて私たちは学びました。そのとき、神さまを試みる罪についても触れました。モーセとイスラエルの民との間に起こったできごとです。出エジプトの途上、荒野において、イスラエルは叫びました。「水をくれ! 神さまはわれわれを死なせるつもりか!」そのとき、神さまはモーセに命じ、岩から水を湧き出させる奇蹟を起こされました。これは神さまのあわれみによることでした。しかし同時に、この水の湧き出た場所は、「マサ」と名づけられました。「神さまを試みた」という意味です。不名誉な名前です。そして、それだけでなく、「メリバ」とも名づけられました。「神さまと争った」という意味です。やはり不名誉です。悪い意味での記念です。 これに懲りて、イスラエルはもう、神さまを試みて、神さまと争うような真似はやめるべきでした。それなのに、イスラエルはまた、神さまに反抗しました。今度も水です。もうひとつの「メリバ」が起こったのです。 詳しくは民数記20章のみことばをお読みいただきたいと思いますが、そのときその地には、水がありませんでした。またもやイスラエルは、前にメリバで不平を鳴らしたのと同じようなことを言って、モーセに迫りました。水がない! 死ぬ! モーセとアロンよ、あなたがたが荒野にわれわれを導いたのは、われわれを死なせるためか! 進退窮まったモーセとアロンは、神さまの前に出て、神さまのお告げを聞きます。杖を取れ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。 しかしこのときモーセとアロンは、身勝手な民に対する怒りのあまり、前後不覚に陥っていました。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセはそう言って手を挙げ、彼の杖で岩を二度打ちました。すると岩から、豊かな水がわき出ました。 だが、このことは、神さまのあわれみのみわざであった一方で、モーセにとっては一生の不覚ともいえることでした。主はおっしゃいました。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 みなさん、これをお読みになって、神さまはあんまりなお方だ、とお思いになりますでしょうか? 悪いのはイスラエルだ! モーセが何をしたんだ! そう思いますか? しかし、よくお読みください。モーセは、神さまに従順でありさえすればよかっただけのことです。なにもせずに、単に、岩に「水を出せ」と、ことばで命じれば、水は出たのです。それが神さまの方法でした。それなのにモーセは、岩に命じる前に民に向かって、われわれが水を出さなければならないのか、と宣告し、怒りを言い表しています。そればかりか、杖で岩を打ちました。一度で水が出ないので、もう一度、合計二度。しかし、モーセのこの言動は、イスラエルを戒めること以上に、神さまに対する不信仰と不従順を民の前に堂々と示すという点で、大きな問題がありました。神さまが、「わたしが聖であることをあなたは現さなかった」とお叱りになったとおりです。 どういうことかといいますと、出エジプトの旅程の間中、反抗と反逆を重ねるイスラエルの民に、モーセはほとほと疲れ果てていました。折しも、姉のミリアムが亡くなったばかりで、悲しみと虚無感も抱いていたことでしょう。もしかすると、カナン入城を前にしてミリアムのいのちを取り去った神さまのみこころをはかりかねて、ちょっとした不信仰に陥っていたかもしれません。そこへもってきて、この水騒動です。お水を飲めないで苦しいのは、モーセも同じです。モーセの中で何かがぶち切れたとしても、おかしくありませんでした。 しかし残念ですが、モーセのこの怒りは、新約聖書・ヤコブの手紙に書いてあるとおりの、人の怒り、神の義を実現しない怒りです。モーセが神の御前から去り、イスラエルの会衆の前に行くと、相変わらず、不平不満を顔に表した連中ばかりです。モーセに見えているのは、きよい神さまではありません。罪深い人間の罪深い顔、顔、顔……。モーセは、自分が何者かを見失いました。神のしもべとしてこの民を導く、ゆえに神と人の前に謙遜であろうとすることよりも、こんなかたくなな連中のリーダーに祭り上げられていることに、なかば怒りのようなものを覚えていました。しかしそれ以上に、こんな民のことをそれでも、ご自身の民として、ご自分のひとみのように守って愛してくださる神さまのみこころを、すっかり見失っていました。神さまはこの民をあわれんでいました。水をもって潤してあげよう、そのようにみこころに決めておられました。だがモーセにはあわれみのかけらもなく、神さまのみこころに不従順にも、岩にことばで命じず、怒りに任せて民に語り、岩を二度も打ちました。 たしかにそれで、水は湧き出ました。しかしそれは、モーセが神さまの言うとおりにしたからでしょうか。そうではありません。神さまが民をあわれんでくださったからです。それで、たとえモーセが不従順の言動に出ても、水を飲ませてくださったのです。その代わりモーセは、神さまのきついお仕置きを受けることになりました。 とはいえ神さまは、モーセの霊的権威、リーダーシップまで剥奪されたわけではありませんでした。モーセが岩を打てば水がわき出た、このできごとによって、民はあらためて、神さまがこのような権限をモーセにお与えになったことを恐れ、今まで以上に、民はモーセに従うようになったはずです。 <後半につづく> モーセにはビジョンがありました。乳と蜜の流れる地、カナンにイスラエルの民を導き入れる、ということです。そのビジョンがあったからこそ、いつ果てるとも知れない苦難の荒野生活も、耐え抜くことができたわけです。だが神さまは、イスラエルのリーダーという役割は残される一方で、カナンに導く働きまではモーセに残してはおかれなかったのでした。 モーセは、この二度目のメリバのことを、どんなに悔い改めたことでしょう。だが神さまは、みこころを変えられることはありませんでした。そこで、さきほどお読みした、申命記のみことばです。24節、モーセは、偉大なる神さまの、その偉大なる御業によって特別に選ばれた神のしもべというアイデンティティがありました。自分に対する主の特別なみこころ、使命を受け取っていたのです。それがあったからこそ、出エジプトの旅程にて、どんなに苦しくても耐え抜き、頑迷なイスラエルの民を導きつづけることができたのでした。まことに、神さまとの出会い、そして神さまからの召命は、人を支えます。 しかし、ときに神さまは、その神の人のあり方に限界を加えられます。モーセはカナンに入れてくださいと切望しました。しかし、神さまはその祈りを聞き入れてはくださいませんでした。もう、二度と祈るなとさえおっしゃいました。 26節を見てみますと、「主はあなたがたのゆえに私に激しく怒り」とあります。これはもちろん、イスラエルの不平不満がモーセの怒りを引き起こし、結果として神さまを怒らせた、という意味もあります。しかしほかにも解釈できます。それは、神の怒りを引き起こすイスラエルの民の全体の代表として、モーセが神のその怒りを一身に受けた、ということです。 その結果モーセに下されたのが、民もろとも、カナンの地に入れていただけなかった、という、神さまのお取り扱いでした。 そもそも、出エジプトを果たしたイスラエルの第一世代で、カナン入城を果たせたのは、ヨシュアとカレブだけでした。それ以外はみな、荒野に斃(たお)れました。みんな、不信仰のゆえだったとユダ書5節のみことばは語ります。その不信仰の民の中に、モーセも含まれるのです。かわいそうな気もしますが、それはしかたのないことだったのです。 民のために祈るということは、民と無関係の立場に自分を置いて、高みの見物のように、上から目線で祈ることではありません。自分もその一人として、民と同じ立場になって、祈るのです。民の罪、民の痛み、民の苦しみ……みんな自分の身に背負って、祈るのです。いいえ、というよりも、みんな自分のことだから、祈るのです。わかりますか? モーセは確かに、神さまと顔と顔を合わせて語る特別な神の人でした。アロンと言えど、モーセのような特別な立場にはなれませんでした。そんなモーセでも、神さまのさだめられた限界からは自由ではありえなくて、荒野でいのちが取り去られる一人とされました。 考えてみましょう。ただでさえ特別だったモーセが、それ以上に、不信仰に対する懲らしめ、カナンに入らせていただけないというお仕置きを、お祈り一つで撤回していただくほど特別な存在だったならば、いったい、人の救いはどこにあるのでしょうか? 神さまはモーセだけをえこひいきなさって、あとの民は罪にしたがってさばかれるのだとすれば、いったいだれが救われるというのでしょうか? しかし、神さまは公平なお方です。不信仰の罪にふさわしいお取り扱いをなさるという点では、モーセにしても、民にしても、同じことでした。 ではそれなら、モーセは「さばきを受けた」わけでしょうか? そうではありません。モーセはピスガの頂において、神さまから何を見せられるのでしょうか? カナンです。しかし、神さまのみこころは、モーセをこの目の前に広がるカナンの地に入れることではなく、ヨシュアによってイスラエルを導かせ、カナンに入れることでした。こうして、イスラエルがカナンに入城するという、神さまのビジョンは果たされるのでした。みこころはなるのです。ただ、みこころがなることに、モーセが用いられないだけです。 しかし、そんなモーセはどこに行くのでしょうか? 天国です! カナンだって乳と蜜の流れる素晴らしい場所ですが、天国ははっきり言って、カナンとは比べ物にならないほどすばらしい場所です。モーセ、よくやった、あなたはわたしと民に対し、よい忠実なしもべだった、ごくろうさま、あなたの働きはこれで終わりだ、わたしはあとのことを、忠実なしもべヨシュアに任せよう、さあ、ゆっくり休むがよい。 しかし、民を40年にわたって荒野にて導いたモーセの歩みは、死んでバトンタッチして、それで終わりのむなしいものではありませんでした、その40年の歩みは、出エジプト記から申命記まで、実に120章以上にもわたって記録された膨大なもので、その記録を読むとき、私たちはこの民のように頑なにならず、信仰によって神さまに従順になるように、ということを、立体的に、具体的に学ぶのです。そうです、モーセの歩みはのちの世代のためのものです。モーセの生涯はヨシュアにバトンタッチすることで果てましたが、さらには、モーセ以降のすべての信仰者のため、そう、私たちのための生涯です。神さまはモーセによって、どれほど多くの神の民を生かし、養ってくださったことでしょうか! 私たちは主のみこころがなることを願うでしょう。そして、主のみこころが成し遂げられたとします。しかしそのとき、私たちは、自分の思っていたとおりに事が運ばなくて、不平不満を言ったりしたくなるようなことはないでしょうか? イエスさまについて、ひとつだけつけ加えたいと思います。十字架とは、イエスさまにとっても、あまりに耐えがたいことでした。イエスさまは血の汗を流して、この杯を私から過ぎ去らせてください、と、何度も天のお父さまにお祈りされました。……しかし、考えていただきたいのです。もしあのとき、イエスさまの祈りを天のお父さまがお聞きになったとしたら、どうなったでしょうか。もちろん、天のお父さまにできないことはないので、そのお祈りをお聞きになることもおできになるお方です。しかし、そうなったら……だれひとり救われる人はいません。イエスさまが私たち人間の罪という罪を、ことごとく十字架で負ってくださるという御父のみこころを成し遂げてくださったゆえに、イエスさまを信じるすべての人は救われ、神の国、神のご支配、神のご栄光は実現したのです。私たちも救われ、永遠のいのちをいただき、天国に入れていただくことができたのです。こんなことを被造物なる人間が言う資格などありませんが、イエスさまのお祈りを御父が聞かれなかったゆえに、すばらしいみわざが実現したのでした。 私たちもいろいろなことを祈ります。しかし、神さまのみこころは、私たちのお祈りの向こうにあるものです。それはどんな形を取るにしても、すべては祝福です。神さまが私たちのことを愛してくださっているからです。もしかすると私たちの連ねる祈りのことばは、あまりにちっぽけなものにすぎないのかもしれません。ゆうゆうと大きなみこころにゆだねたっていいのではないでしょうか? 神さまは私たちがいま思い描いているよりも、はるかに大きなお方で、はるかに私たちのことを気にかけてくださっているお方です。 祈りましょう。私たちはいま、何を祈っていますでしょうか? 私たちを心配してくださり、私たちにとっていちばんよいもので満たしてくださる神さまにゆだねましょう。 祈祷/聖歌462/献金 讃美歌391/祈祷/頌栄 讃美歌541/祝祷/後奏

「祈りとは『主を試みる』ことではない」

招詞 詩篇125篇/祈り(各自でお祈りください)/使徒信条/讃美 讃美歌515/主の祈り/聖書朗読 士師記6章36節~40節/ メッセージ題目 「祈りとは『主を試みる』ことではない」 しかしそれなら、私たちはいついかなるときも、奇蹟を求めてはいけないのでしょうか?……本日お読みしたみことばは奇蹟に関する箇所ですが、聖書全体の中でも異彩を放っています。イスラエルの士師ギデオンは、ミディアンやアマレクの連合軍と戦うにあたって、なんと2度にわたって、奇蹟を求めています。それも、自分の言うとおりに奇蹟を起こしてほしい、というものです。そして、神さまはギデオンの祈ったとおりにみわざを成してくださいました。 でも、私たちはほかの聖書の個所で、あなたの神である主を試みてはならない、というみことばも知っています。そんな私たちは、当惑しないでしょうか? 神さまはなぜ、ご自身を試すような、ギデオンの言うことを聞かれたのでしょうか? 今日の箇所から、果たしてギデオンのささげた祈りは、神を試みるというものであったのか、ということを学び、その上でこの学んだことを私たちに適用し、新型コロナウイルス流行という、今置かれている状況においていかに祈りをささげるべきか、ともに探ってまいりたいと思います。 まずは、神さまを試すことは許されない、ということから学びましょう。ギデオンは神さまから選ばれたイスラエルの士師、さばきつかさですから、当然、律法のみことばが何を語っているか知っていました。その律法のみことばは、神を試みることを厳格に禁じています。律法のみことば、申命記6章16節には何と書いてありますでしょうか?「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」 マサとは、「試みる」という意味です。出エジプトの途上、荒野の中にあったイスラエルの民は、飲み水を欲しがって神とモーセに不平を鳴らしました。民がこうして不平を鳴らしたは、このような苛酷な荒野の生活の中にあっても神さまが絶対的に守ってくださるということを信じない、不信仰のゆえでした。主は私たちの中におられるのか、おられないのか……イスラエルは今や、神さまを試みて、大胆不敵にも神さまに挑戦する態度を示していました。神さまはそのような民に譲歩し、モーセを用いて、岩から水を湧き出させるようにしてくださいました。しかし、この水の湧き出た土地の名前は、メリバ、争い(つまり神さまと争う)、という意味の地名とともに、マサ、試み、と名づけられ、民が主を試みる不信仰を犯したことが悪い意味での記念となってしまいました。 時は下り、この申命記6章16節のみことばをイエスさまが用いて、サタンの誘惑を退けるというできごとがありました。マタイの福音書の4章、5節から7節です。お読みします。……もし、この神殿の屋上から飛び降りて、しかもみことばの約束どおり、天使たちに守られて傷一つ負わなかったならば、人々は拍手喝采して、このお方こそメシアだ、と迎え入れたことでしょう。しかしイエスさまは、もしそのようなことをするならば、それはみことばに書かれているとおり、神を試みることである、と拒絶されたのでした。 いえ、サタンは、詩篇91篇のみことばを用いているではないですか。そのみことばに従順になれば、それは神のみことばに従順になることであり、神さまの護りをいただけたのではなかったでしょうか。しかし、そうではありませんでした。イエスさまは、それ以前に、神を試みてはならない、というみことばこそ絶対であると、サタンの誘惑をはねつけられたのでした。なぜそれが、神を試みることになるのでしょうか? そして、それのどこがいけないのでしょうか? それは、従順を実践する対象、という問題になります。 イエスさまは、御父の栄光を顕すことを何よりも願っておられたお方です。しかし、神殿の屋上から身を投げるなら、もし仮に、仮にです、みことばどおり、御使いによって守られたとしても、神の御子キリストの栄光、すなわち御父の栄光が顕れることにはなりません。なぜかというと、御父に従順になることではなく、サタンに従順になることだからです。現れるのは、サタンの栄光です。 サタンの栄光を顕すこと。それは、神の名を利用して、自分のしたいように生きることです。ときには、みことばさえも好き勝手に利用します。それは、神に仕えているのではありません。サタンに仕えているのです。 神を試みることが問題になるのは、そういうときです。みことばに照らしても、明らかにみこころではない。わがうちにおられる御霊なる主は平安を与えていらっしゃらない。しかし、大丈夫だとばかりに押し切る、ときにはその自分の欲を押し通すためにみことばさえも利用する、そのような自分に祝福が与えられるようにと自分勝手な祈りをささげる、それがみこころだとばかりに人々を扇動する……。 よく考えましょう。そのような態度で祈ったとして、その祈りのとおりに事がかなったとします。もちろんそれは、結果としては神さまのみこころどおりになったと言えましょうが、果たしてそれを神さまの祝福と言い切ることができるでしょうか? 神の栄光ではなく、人の栄光が顕れる結果にしかならないならば、それは罪としか言いようがありません。これが、神を試みてはならないケースです。では、ギデオンの祈りもそのようなものだったのでしょうか? ギデオンはもともと、ミディアンを恐れてこそこそ隠れていた人でした。しかし、主はギデオンを選んで勇士としてくださいました。主の使いがギデオンに現れ、主は、ギデオンの供え物を、火をもって受け入れる奇蹟を見せてくださいました。勇士となったギデオンは、父親の礼拝していたバアルの祭壇とアシェラの像を壊すように主に導かれました。ただ、やはり彼にはまだ恐れがあり、それを白昼堂々行うことはせず、夜目に隠れて行いました。そのようなギデオンも主の霊によってだんだんと士師として整えられ、彼につく軍団が増えていきました。そのとき、今日お読みしたとおり、ギデオンはちょっと変わった祈りをささげたのでした。 もしあなたが言われたとおり、私の手によってイスラエルを救おうとされるのでしたら、羊の毛にだけ露がおり、土が乾いているようにしてください。すると、そのようになりました。羊の毛を搾ると、鉢が水でいっぱいになったというから、この奇蹟は相当なものです。 しかし、ギデオンはなおも祈りました。39節です。……すると、神さまはやはり、ギデオンの祈りを聴かれたのでした。なーんだ、神さまを試みてもいいのか、神さまはこんな無茶な祈りも聞いてくださるじゃないか……そう考えるのは早とちりです。ここでは、「なぜ」神さまはこんな、一見すると無茶な祈りを聞いてくださったのか、考えてみたいと思います。 神さまがギデオンによってイスラエルを救うことはみこころでした。それは、直接主の使いがギデオンに現れ、6章14節と16節にあるように、主がギデオンによってイスラエルをミディアンからお救いになることが告げられているとおりです。 このようにギデオンは、主が自分のことを選んでおられるという主のみこころを受け取っていました。しかし、ギデオンの側にはまだ確信がありませんでした。恐れもありました。ギデオンが整えられていなかったのです。このとき主は、ギデオンの言うとおりに奇蹟をお示しになることによってギデオンを整えることをよしとされました。 ギデオンは確かに恐れの中にありました。しかし彼は、主が全能であることにかけたのでした。主が全能であるかぎり、この臆病な私のこともつくりかえ、勇士として大きく用いてくださる……ギデオンは、自分の無茶な要求は神さまを怒らせるかもしれない、という恐れも一方ではありました。しかし、それにもかかわらず、大胆に神さまに要求したのは、神さまを信じる信仰、また、全能なる神さまへの大きな信頼があったからでした。 ゆえに、ギデオンの、一見すると神を試しているような祈りは、不信仰のようでいて、実は大いなる信仰に裏打ちされたものだったのです。 信仰をもってみこころにかなう祈りをささげるには、ギデオンのように、主との明確な出会いが必要です。もちろん、何年何月何日、という正確な日付まで覚えている必要はありません。要は「いま、主に出会っている確信がある」かどうかです。 主がイエスさまの十字架と復活を信じる信仰を与えてくださり、私を新しく生まれさせてくださったことにより、みこころにかなう祈りはどんな祈りでも聞いてくださる……この信仰をもって主の御前に進み出るのです。 私たちはときに、祈っている内容が「主を試す」ことになっていないだろうか、と恐れることはないでしょうか。しかし、安心していただきたいのです。聖書には、なんと主ご自身が、主の民に「わたしを試してみよ」と語られる箇所があります。旧約聖書のいちばん最後、マラキ書の3章、8節から10節をお読みしましょう。 これは、多くの教会で導入されている、「什一献金」の根拠とされているみことばです。しかしこれは、収入の十分の一を形式的に、宗教的にささげればそれでよし、ということではありません。ここでは、「なぜ」主を試してみよということになるのか、それを見てみましょう。 それは、主が民を祝福することを願っておられる、ということです。しかし民は、主に従順に従うことをせず、本来は主のものとしてささげられるべき十分の一のささげものを自分のものにするなど、自分かって、自分中心に生きていました。 神さまはしかし、この民が立ち帰るように耐え忍ばれ、ご自身の祝福の交わりを分かち合うように道を開いていらっしゃいます。十分の一のささげものをもってわたしに従順になってみなさい。試してみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。わたしはあなたがたをあふれるばかりに祝福しよう。 そうです。主は、ご自身の民を祝福してくださることによって、ご栄光をお受けになります。ご自身の民を祝福されることは、みこころの中のみこころなのです。問題はそのことを、肝心の主の民がわかっていないで、不信仰と不従順を繰り返している、ということです。そのような神の民に向けて、あなたを祝福するかどうか、わたしを試してみなさい! 主はこのようにおっしゃいます。 この生き方は、マサのできごとで戒めとなった「主を試みること」とはまるで違うことをご理解いただけると思います。ギデオンにとっては、主に選ばれ、主に用いられることがみこころである以上、主に求めたとおりのしるしは起こされたのです。また、マラキの言ったとおりの祝福を、主に求める者は受けるのです。 以上のことから、私たちはこのご時世においていかに祈るべきかを考えましょう。 私たちが神さまに求める祈りは、どのような動機でなされているのでしょうか。自分の欲望のために神を利用するのか、神さまのご栄光を求めて祈るのか。マサのできごとをはじめ、出エジプトの途上で神さまに不平を鳴らしたイスラエルの民の「祈り」は、自分の欲望のための祈りでした。神さまはそんな人間を憐れんで、祈りを聞いてくださることもありますが、しかし人間の側が、「神を試みる」罪を犯したことには変わりはありません。 しかし、イエスさまを信じる信仰が与えられ、主のみこころが何であるかを御霊によって悟らされるべく、日々へりくだって主の御前に進み出る者たちの祈りは、そうではありません。神さまがこの世界を「なぜ」祝福し、「なぜ」癒そうとしていらっしゃるか、知っています。私たちはそれが「みこころだから」ということを知っています。そのみこころを握って祈るのです。神さま、あなたさまは私たちを祝福することがみこころではないですか! 私たちを癒されることがみこころではないですか! そのみわざを私たち神の民に施してくださることによって、あなたさまはご栄光をお受けになるのではないですか! 私たちを癒してください! そう信じて主のみわざを求めて祈ることは、罪ではありません。そればかりか、主のご命令です。 コロナウイルスという災厄が取り去られることは、私たちにとって悲願でしょう。では、なぜ悲願なのですか? 神さま抜きの楽な生活を味わえるようになるためですか? もしそれが願いならば、私たちの祈りは、自分の欲望に神さまを用いる、神さまを試みることにほかなりません。 そうではなくて、神さまのみこころは回復にある、いやしにある、祝福にある……私たちはそのように、主がみわざを行われ、御名があがめられることを願って、祈るのです。 ゆえに、コロナウイルスから、あらゆる病気や事故から、人間関係の葛藤から、サバクトビバッタから、山火事から、大地震から、放射能から、マイクロプラスチックから、主がこの世界を救い出してくださることはみこころであり、そこに全能の御手を伸べてくださることを信じて、祈るのです。目的は、神さまがみわざを行なってくださることにより、神さまの御名があがめられるためです。 私たちはギデオンの祈りを、無茶だとか、途方もないなどと言って片づけてはなりません。祈りとはそもそも、すべてが無茶なものです。人間業では不可能なことが叶えられるようにと、本気で願うことだからです。しかし、私たちの祈る対象は全能なる神さまです。私たち神の民を祝福するというみこころのゆえに、みこころにかなってどんなことでも成し遂げてくださいます。信じますか? そのようにみわざを主が成し遂げて、私たちを祝福してくださるとき、そこには主のご栄光が顕れ、私たちは主の御名をほめたたえ、主にすべてのご栄光をお帰しするのです。祈りをもって、主にすべてのご栄光をお帰しする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、ともに祈りましょう。 聖歌511/献金 讃美歌391(お手元に献金をご用意ください)/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン」 」

「あなたの民」のために祈れ

招詞 詩篇124篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇48篇/主の祈り/讃美 讃美歌501 聖書箇所 出エジプト記32:7~14 メッセージ 「あなたの民」のために祈れ 私たちは祈ります。自分のためばかりではなく、家族のためだったり、親族のためだったり、職場や学校のためだったり、さらには国や民族のために祈ります。みなさん、国や民族のために祈っていますか? 韓国の兄弟姉妹は、ほぼ例外なく、祈祷会において国や民族、つまり韓国と韓国人のために必ず祈ります。私たちがほんとうに日本という国を愛しているならば、日本という国と、日本の民族のことを覚えて祈ってしかるべきです。まさしく、内村鑑三が「ふたつのJ」、つまり、ジーザスとジャパンを愛すると言ったとおりです。 もう、あまり口にしたくありませんが、コロナウイルス流行による緊急事態宣言はまだまだ解除される見通しが立っていません。このようなとき、私たちにできることは祈ることです。「祈ることしかできない」のではありません、「祈ることができる」のです。わかりますか? ここ、間違えてはいけません。 先週から、「祈り」について学んでいます。先週はダビデの態度から、いざというときに祈る者となるためには普段から祈る必要があることを学びました。今日は、とりなしの祈りについて学びます。この日本、そして世界がこの災厄から救われるために、私たちのすることは、この世界のためにとりなしの祈りをすることです。では、私たちは、なぜとりなしの祈りをしなくてはならないのでしょうか? 本日はこの「なぜ」ということを、みことばから学んでみたいと思います。 今日の箇所は、モーセが、シナイ山に登って神さまと顔と顔を合わせて交わりを持ち、何週間にもわたって、イスラエルの民をいかに導くべきかの手ほどきを受けていたそのとき、山のふもとでは目も当てられないような事態が展開していたそのとき、モーセが神さまと交わした対話です。イスラエルの民の導き手だったモーセがいなくなり、もうそれが6週間になろうとして、民は目に見える形で神を求めはじめました。 折しもシナイ山のふもとでは、モーセの兄のアロンがモーセの代理として民を導いていました。民はアロンに詰め寄りました。それで、アロンのしたことは何だったのでしょうか? 民から金の装飾品を集め、それを溶かして子牛の像をつくりました。そして、それを民に見せ、「これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と宣言したのでした。民は喜び、その像の前で乱痴気騒ぎのお祭りを始めました。 これは、神さまご自身の御手によって導かれた民として、いちばんしてはならないことでした。それは、みなさんが子どものお父さん、お母さんならわかることでしょう。うちにも子どもがいますが、もしうちの子が、私がしばらく家を留守にしている間に、粘土で人形を作って、「お父さん!」なんて呼びかけでもしていたら、なんて、考えただけで悲しくなります。イスラエルの民は、それと同じようなことをしたのです。 神さまの御怒りが燃え上がりました。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。下りて行け。神さまはこの民をどうなさろうというのでしょうか。わたしに任せよ。わたしはこの民に怒り、この民を絶ち滅ぼす。あなたを大いなる国民(くにたみ)としよう。 神さまの御怒りはもっともです。イスラエルの民を選び、エジプトの圧政から解放された神さまのご栄光を、そのような牛の偶像と取り代えるなど言語道断です。これほどまでに神の民にふさわしくない者どものことなど、神さまは滅ぼしてしまわれて当然でした。 神さまはつづけて、なんとお語りになったでしょうか。モーセから大いなる民を起こすとおっしゃいました。モーセは、現実に神さまの御前に立って、神さまと語り合えるほど、神さまに選ばれるにふさわしい存在とされていました。堕落してしまったイスラエルとは大違いです。神さまのおっしゃることは、ごもっともと言えましょう。 しかし、モーセは神さまのこのみことばを聞いて、はい、そのとおりです、イスラエルをさばいてください、みこころどおり、私から大いなる神の民を興してください、とは言いませんでした。むしろ、神さまのこのおことばを聞いて、どうかイスラエルを赦し、御怒りを収めてくださいと嘆願しました。 なぜモーセはそのように祈ったのでしょうか? 本文を読んでみますと、3つの理由がわかります。ひとつは、このイスラエルの民は神さまがエジプトから導き出された、神さまの民であるということ、そして、もし神さまがイスラエルをここで滅ぼされたならば、神さまとその民の敵は、神さまを嘲るであろうということ、そして、神さまがイスラエルを導き出されたのは、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された新しい地に入れてくださるためだというわけです。 まず、神さまがこのイスラエルの民を導き出されたのは、イスラエルがほかならぬ、神さまご自身の民だということから見てまいりましょう。神さまはご自身の民を特別に扱われます。民を愛されます。しかしそれは、民がほかのどの民族よりも正しい行いをしているからではありません。理由はただひとつ、イスラエルは神さまの子どもだからです。 大事なのは「関係」です。親は、自分の子どもであるならば、その子がいい子であろうと悪い子であろうと、変わらずに愛情をかけます。親として育っていないと、ときにその愛情のかけ方はへたくそかもしれませんが、それでも、子どもを愛する思いに変わりはありません。いわんや天のお父さまは、どれほど正しく愛情をかけてくださることでしょうか。それもこれも、イスラエルは神さまの子どもだからです。神さまの子どもという「関係」に入れられているからです。 しかし、今やその「関係」は、風前の灯火になっていました。神さまに問題があったのではありません。子どもの側から、神さまがお父さんであることを拒否し、別のものをお父さんだと言い出したのです。神さまは、彼らの選択に任せようとされました。そうかい、わたしとの愛の関係が切れたならば、あなたはどうなるかわかっているね。 しかし、ここでモーセがとりなしました。……いいえ、この民はいまこうしてあなたさまを捨てたかのように振る舞っていますが、あなたさまの民であることに変わりはありません。モーセは、彼らの「振る舞い」以前の、彼らと神さまとの「関係」にかけて、神さまに訴え出たのでした。 これが、とりなして祈る者の姿勢です。いま世界を見てみますと、なんと多くの人がその道を外していることでしょうか。そのためになんと、多くの不義と不正が横行していることでしょうか。神さまのお気持ちを考えてみましょう。こんな世界などすぐにでも滅ぼされたって、私たちは何の文句も言えないのではないでしょうか。しかし、人が滅ぼされず、神さまのあわれみによって保たれるためには、神さま、この民はあなたさまのものです、と、とりなす者たちの存在が必要です。私たちこそ、そのとりなす者となりたいものです。私たちが神さまのあわれみによって救っていただき、神さまの子どもにしていただいたように、この世界の人々がひとりでも救われ、神さまの子どもとして回復されるように、私たちは愛をもって人をおつくりになった神さまのあわれみにすがり、祈る必要があります。 ふたつめにまいりましょう。神さま、このままあなたさまがイスラエルを滅ぼされたら、あなたさまがイスラエルをエジプトから導き出されたのは、イスラエルを荒野で滅ぼされるためだったなどと、敵どものあざけりの的となってしまいます……。 神さまはそのご主権のままに、人を生かし、また、人を滅ぼされます。それに異議を唱えることはだれにもできません。しかしそれでもモーセは、主が敵どもの嘲りにあわれてはならないから、民を滅ぼさないでいただきたいと申し上げたのでした。 モーセの祈りの焦点は、主のご栄光に当てられていました。主の栄光が顕されるように、私たちの生きる目的は、その一点であるべきですし、私たちは生活すべてを通して、主の栄光を顕すべく召されています。その生き方ができるように、私たちは日々祈るものです。 主のご栄光が顕れるようにということにはもうひとつの側面があります。それは、主に敵対する者が主の御名をそしるがままにさせないことです。見てみましょう。この世界はなんと、主なる神さまの御名をそしる者たちに満ちていることでしょうか。聖書をそのまま、主のみことばとして受け入れ、お従いするような人たちのことを、やれ原理主義者だ何だと悪口を言い、まるでいけないことをしているかのようにそしります。そのような者たちは当然のこと、イエスさまをまことの神さまとして信じることをしません。イエスさまが単なる人であるとか、処女降誕も復活も作り話だなどと語ったりして、聖書の記述をちゃんと信じるクリスチャンたちを批判したり、笑いものにしたりします。しかしそれは、神さまを批判したり笑いものにしたりすることであり、神さまの栄光をいたく傷つける行為をしていることです。 彼らは神さまに敵対する言動しています。しかし、このような者たちの声が大きくなるならば、神さまに栄光をお帰ししないことが常識となり、もしかすると、私たちクリスチャンさえも、神さまの栄光を顕す生き方と関係のない生き方を選んでしまうかもしれません。そうなったとき喜ぶのは、神さまの敵だけです。 私たちの祈りは、神さまに敵対する者たちが神さまとその民を引き下げ、自分たちが正しいものであるかのように誇ることのないようにと、神さまのご介在を求める祈りであるべきです。 私たちはもちろん、そのような世界に対し、少しでも神さまに従順に従う生き方をすることで、神の栄光の小さなともしびを灯すでしょう。しかし、闇の勢力はあまりにも大きなものです。私たちはこの勢力に対して、あまりにも無力であることを謙遜に認める必要があります。しかし、無力さを悟ることは、神さまに祈ることの始まりとなります。何度でも申します。私たちは「祈ることしかできない」のではありません。「祈ることができる」のです。祈りにより、この世界の暗やみの勢力は押し流され、神さまの栄光は現れます。今こそ祈るときです。 三番目のモーセのとりなしの理由、それは、「主がエジプトから民を導き出されたのは、イスラエルの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地に入れてくださるためではないですか」ということです。 どういうことかというと……神さま、あなたさまの約束は変わらないはずではないですか、あなたさまは約束にしたがって、神の民を空の星のように増やしてくださる、そして、この増え広がる民が、主のさだめられた地を受け継ぐ、それがみこころではないですか、ということです。 神さまが民を選ばれたということは、神さまの約束があったからです。約束は、変わることのない神さまが結ばれた以上、変わることがない効力を持っています。 約束を破るのは、いつでも人間の側です。神さまがアブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださったその約束は確かなものなのに、人間の側は神さまがその全存在をかけて結んでくださった約束をいとも簡単に忘れ、罪を犯します。それなら、と、神さまはそのようにして約束をほごにした人間に、それ相応の報いをなさって当然でした。神さまがアブラハムと契約を結ばれたとき、いけにえの獣が真っ二つに切り裂かれてささげられたのは、この約束を守らなかったならば真っ二つに切り裂かれても構わない、という意味です。しかし神の民はいまこうして、神さまとの約束を軽んじました。それゆえ今、神の民は真っ二つに切り裂かれんとしていました。 しかし、ここでモーセは神さまにとりなしました。神さま、あなたさまが契約を結んでくださった民である以上、この民は永遠にあなたさまのものではないですか、あなたさまの約束にかけて、この民をなにとぞ救ってくださいますよう、伏してお願いいたします……。 人が神さまを信じて救われるということは、アブラハムが神さまを信じて救われ、神さまと契約を結んだように、永遠のむかしから定められていたことです。神さまがアブラハムに約束された「空の星」の中に、この私たちも含まれているのです。永遠の約束に含まれているということです。 それなのに私たちは、なんとその約束にふさわしくない生き方を平気で選ぶことでしょうか。そのために神さまの愛をいたく傷つけてしまうことでしょうか。 しかし、それにもかかわらず、私たちが滅ぼされないでいるのは、神さまがアブラハムと結んでくださった契約のゆえです。あなたも、のちの子孫も、みな神の民である。私たちはこの契約に含まれているので、変わらずに神の民にしていただいているのです。 私たちはこの世界を見るとき、いとも簡単に見限ってしまってはいないでしょうか? こんな神さまと関係ない生き方をしている世界のことなど知らないよ、などと。しかしそれでも、神さまはこの世界のためにとりなして祈ることを私たちに求めていらっしゃいます。なぜでしょうか。この世界の中には、神さまが選んでおられる民がいるかもしれないからです。 予定説、という神学の概念があります。神さまはすでに、救われている人を選んでいらっしゃる。私の学んだ神学校もその立場に立つので、私も基本的には予定説の立場に立っています。しかしそれは、どうせ救われている人が決まっているならば、伝道や宣教やとりなしの祈りを含め、この世界に対して何のアクションも起こさなくてよい、ということではありません。むしろその逆で、神さまがこの世界のうちにすでに救いに選んだ人を置いておられるのだから、あなたがた主の民は積極的に伝道し、宣教するのだ、と考えるのがふさわしいです。そうです、神の選びと救霊は全く矛盾しないばかりか、どちらがどちらを補うためにも必要なものです。 だとすると、この世界にはまだ私たちに見えていないだけで、神の民がたくさんいるということになりはしないでしょうか。その世界を滅ぼすことが、果たして神さまのみこころでしょうか。とんでもないことです。ここに、私たちがこの世界をおぼえてとりなす意味が出てまいります。この民のうちにもしかしたら神の民に選ばれた人がたくさんいるかもしれないと考えるならば、私たちのすることは、間違っても、この地に災厄がもたらされることを祈ることではないでしょう。この地が救われるように、回復されるように、平安が与えられるように、祈ってしかるべきです。 以上、モーセの3つのとりなしから、私たちの祈るべき内容について見てまいりましたが、最後に、モーセが「なぜ」、自分ひとりが生き残るよりも、イスラエルの民全体が救われることを神さまに祈り求めたか、その理由を考えましょう。 結論から先に申します。それは、モーセには、神の御子イエスさまの心があったからでした。実にモーセとは、イエスさまのみこころを、この出エジプトの時代において現す代表選手でした。 モーセは、山から降り、実際イスラエルの民が造って礼拝していた金の子牛を目撃しました。その存在は、主から離れたイスラエルの堕落そのものでした。怒りに燃えたモーセは、金の子牛を礼拝しないで主につくことを表明したレビ族によってイスラエルの多くの者を処刑しました。しかし、モーセがしたことはそれにとどまりませんでした。モーセはふたたびシナイ山に登り、主と対面しました。そしてモーセは、彼らの罪を赦してくださるように祈り、それがみこころにかなわないならば、自分のことをいのちの書から消し去ってほしい、つまり、滅ぼして地獄に落としても構いません、と祈ったのでした。 そのようなモーセにまず神さまがおっしゃったのは、7節にあるとおり、「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民」というおことばです。もはや神さまは、この民は主ご自身が連れ出された主の民とはおっしゃらなかったのです。モーセよ、あなたが責任を取りなさい、と、主はモーセに迫られたのでした。その結果モーセが選んだのは、とりなし手となることでした。 これは、十字架にお掛かりになって、人のすべての罪を引き受けられ、のろわれたものとなってくださった、イエスさまの姿そのものです。モーセは、自分が救われることよりも、堕落した民の代表として、主の御前に立つことを選びました。イエスさまはなおさらそうでした。ご自身を十字架につけるような者たちを即座に滅ぼしてしまわれて当然だったのに、すべての人を代表して十字架につかれ、御父の御前に、彼らをお赦しください、と、いのちをかけてとりなされました。 とりなすとはそういうことです。私たちがイエスさまの御名によってとりなして祈るということは、自分を安全圏に置くということではありません。この罪を犯している民のひとり、代表として、この平安がなくてうろたえている民のひとり、代表として、いのちをかけて主の御前に出ていくのです。 讃美 聖歌465/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷・後奏