二人の胎児

聖書箇所;ルカの福音書1:39~45 メッセージ題目;「二人の胎児」    妻が上の娘を妊娠したとき、産婦人科で体内の様子を超音波で撮影していただいた。すると驚いたことに、まだ妊娠がわかったばかりだというのに、もう赤ちゃんの姿がはっきり見えていた! やはり、お母さんのおなかの中にいるときから立派に人だ。それ以来、子どものためにとにかく祈ったし、のちに、まだ予定日まで3か月あるのに切迫早産となってしまったとき、この子が何としても無事にこの世に生まれてくるように、と、ありったけの力で祈ったものだった。  クリスマスとは、イエスさまがお生まれになったことをお祝いする日だが、ということは、救い主イエスさまが「赤ちゃん」であることに特にスポットが当たる。羊飼いや、東方の博士たちがイエスさまにまみえたことがクリスマスのできごととして語られるが、そのイエスさまはというと、「赤ちゃん」であった。人の中でもこの上なく無力な存在。しかし、わかる人にはこの赤ちゃんが救い主、神の子だとわかっていた。ゆえに、この赤ちゃんの前に惜しみなくひれ伏した。  さて、赤ちゃんだったということは、その前に、お母さんのおなかの中にいた、ということになる。神の子だからと、いきなり天から降りてきた、などということはない。お母さんが身ごもり、産みの苦しみをして生み出した、そのようにして生まれたのが、赤ちゃんのイエスさまだったのである。  今日は、イエスさまが身ごもったことを知ったマリアが、ただちにどのような行動をとり、その結果どうなったかをお話しして、それが私たちとどのような関係があるのかを考えてみたい。  39節、40節のみことば。マリアは、ザカリアの家に行ってエリサベツを訪ねた。なぜエリサベツのもとに行ったのだろうか? まず、エリサベツはマリアにとって親類であったから。しかしそれ以上に、エリサベツが高齢になって身ごもっていることを、御使いガブリエルが特別に知らせてくれたから。このことを特別にマリアに御使いが明かしたということは、エリサベツとその身ごもっている子どもとも、マリアの身ごもっている「イエス」と深い関係があることを教えられた、ということであり、まずこのことは、エリサベツにこそ報告すべきだとなったわけだった。  36節のみことばにあるように、エリサベツが不妊であったのが妊娠している、それも男の子を宿している、ということを、御使いがマリアに告げたのはなぜだろうか? それは、その男の子、バプテスマのヨハネもまた、奇蹟によって主が授けられたいのちである、ということを教えるためだった。そのとおり、ヨハネはその生きた目的が、のちに来られる方であるイエスさまを指し示す働きそのものとなった。  さて、マリアがいと小さきイエスさまを宿した状態でエリサベツのもとに来たとき、エリサベツの胎内には当然、ヨハネがいたわけである。そのとき、何が起こっただろうか? 41節。……そう、まだ生まれていないヨハネは躍ったのである。まだ生まれていなくても、人には感情も備わっているし、なによりも、主にまみえて喜ぶ霊性が備わっていることが、このみことばからもはっきりしている。うちの教会は毎年「小さないのちを守る会」に献金を送り、ニュースレターを掲示してこの会のためにお祈りしているが、それは、どんなプロセスで身ごもられた胎児であれ、胎児となった以上、生まれていなくてもすでに神のかたちである、したがってそのいのちは大事にしなければならないということを、私たちはみことばから示されているからである。  ただし、胎児という存在は、その胎児を身ごもる母親あっての存在であることが、つづく43節、44節のエリサベツのことばにほのめかされている。まず、エリサベツはマリアを迎えることで、マリアの姿を見ている。この喜びの知らせ、奇蹟のおとずれを告げ知らせたいという表情に満ちたマリアの姿である。そして、そんなマリアを迎えたということは、マリアをハグするなど、ボディタッチをしてもいるわけである。そのようにしてエリサベツはマリアの存在を、目で、そしてからだで感じた。その上、エリサベツはマリアのあいさつする声を聞いた。  こうしてエリサベツは、自分にとっての主であられるお方キリストの「母」が来たことを、全身で喜んだ。その喜びは、マリアのあいさつの声を聞いたときに最高潮に達する。胎の実であるヨハネが喜び躍り、ああ、マリアこそ主の母として選ばれた人だったのか! と、感動に満ち満ちたが、それは逆に言えば、母エリサベツが霊的にも感情的にも感動に満ち満ちたその喜びが胎内のヨハネに伝わり、ヨハネが感極まって躍り上がった、とも言えるのかもしれない。  続く45節も合わせてお読みする。これはだれのことかというと、マリアのことであり、エリサベツのことである。そんな、ありえないようなことが起こるなんて、しかし、神さまがそう導かれた以上は、必ず起こる、そういう人こそ幸いであるとエリサベツ自身告白するとおり、マリアも、そしてエリサベツも、イエスさま、そしてバプテスマのヨハネをこの世に送り出す主の器として選ばれるにふさわしく幸いであった。  エリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸いです」と告白した。その前提として必要なことは、「主によって語られたことは実現した」と信じる信仰である。エリサベツとマリアが「主によって必ず実現すると信じた」とおりにイエスさまはお生まれになった。それも、いと高き神の子として、永遠に神の国を治める王として。イエスさまがこのようなお方、神の御子キリストとしてお生まれになったことを受け入れることが、その「幸い」の第一歩である。そして、そのことを信じ受け入れるならば、イエスさまの十字架も復活も昇天も、そして、やがてこの世界に来られてさばきをなされ、救われた者に永遠の御国を与えられることも受け入れる必要がある。なぜなら、それらすべてが神のみことばである聖書に啓示されているからである。  そのように、聖書のみことばが事実であり、実現したことの記録である以上、胎内にイエスさまを宿したマリアに会って、胎内で踊ったヨハネのことを考えていただきたい。この2人の胎児、主はどれほど目を注いでいらっしゃっただろうか。詩篇139篇13節から16節を見ていただきたい。人は胎児の人権など取るに足りないかのように振る舞うが、主はそうではない。すでに主の器として召され、それにふさわしく成長させられているのである。  妻が昨年から取り組んできた「エステル祈祷運動」は、その働きの一環として、堕胎の合法化に反対する運動も展開している。その運動を垣間見て思ったことだが、声を上げられない弱いたましいのために力になることがどれほど大事なことか、ということである。マリアの夫になったヨセフは寛容かつ従順な人だったからイエスさまのいのちは守られたが、婚約中でもまだ一緒にならないうちに妊娠となったら、石打ちの目に遭うのが当時の社会だった。子どももろともいのちを失ってしまう。しかも、その子どもにはいっさいの主張が許されない。どれだけ理不尽だろうか?  イエスさまは、そのような危険と隣り合わせの「胎児」となられたのであった。イエスさまが人になられたということは、私たちと同じようになられたということだが、より正確に言えば、「弱い人と同じようになられた」ということであって、「強い人と同じようになられた」ということではない。  マタイの福音書25章31節から40節のみことばを見てみよう。この箇所は、弱い立場にある人とはイエスさまのお姿そのものだと考えるべきであると、私たちにチャレンジを突きつけている。そうやって周囲を見渡してみると、私たちのそばにはどれほど弱い立場の人が多いことだろうか? 私はこの教会に赴任して、はじめて児童養護施設や少年院といった場所に行き、社会のひずみを一身に受けてしまった子どもたちの姿を見せられてきた。そのような子どもたちのために働くことも教会の大事な働きであることを知ったのだが、それでもまだ、行き届いていない領域が多すぎて、もどかしいところである。せめて精一杯、目の前にいる、イエスさまの似姿とも言える人たちのために奉仕して、やがて来られるイエスさまの御前に恥ずかしくなく立てるようになりたいところ。  イエスさまが胎児だったことは、イエスさまがそののち救い主としてお生まれになることが、完全に母マリアにかかっていたほどに、イエスさまは弱いお立場におられたということである。それは、弱い人たちに寄りそうため。ヘブル人への手紙4章15節のみことばをお読みしよう。  私たちと同じようになるために、イエスさまはこの世界にお生まれになった。そのことに感謝するのがクリスマスの本来の祝い方であると、私は声を大にして申しあげたい。しかし、そのためには、自分がどんなに弱いか、自分がどんなに罪深いか、よく自覚する必要がある。  そのためにも、イエスさまを思おう。胎児……なんと小さな存在だろうか。見えないところのとても小さな弱い存在。それほどにへりくだられたイエスさまは、私たちの味方である。イエスさまは、自分はちっぽけ、弱い、そのように嘆く私たちと同じようになられた、私たちをどこまでもわかってくださるお方である。今日もイエスさまは私たちとともに歩んでくださる。感謝しよう。