恵まれたマリア

聖書箇所;ルカの福音書1:26~38 メッセージ題目;恵まれたマリア    今日は、クリスマスに先駆けまして、マリアという人物にスポットを当てます。マリアは、イエスさまを身ごもり、出産するひととして神さまに選ばれた女性ですが、何といってもマリアは「処女懐胎をした」人でした。  「処女懐胎」……おそらく、多くの未信者にとってつまずきとなってしまうのが、聖その中のこの「処女懐胎」の記述ではないかと思います。こんなことはありえない! こんなことが書いてある聖書など、しょせん神話だ! 宗教書だ!   しかし、2000年にわたっていのちを懸けてキリスト教会を形づくってきた代々(よよ)の聖徒たちは、聖書を事実として受け入れ、すべてを懸けてそのみことばに従ってきた人たちです。そのきよい生き方、神さまと人の前に徹底した生き方は、聖書が正しいことを証ししています。当然それは、マリアの処女懐胎を事実と受け入れた上の話です。  人は自分の感性で聖書を読むようになってしまうと、はっきり聖書の宣言しているメッセージを正しく受け取ることができなくなります。創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された」というみことばを事実として受け入れると、あらゆる聖書のみことばを受け入れるようになり、その結果、さばきや地獄まで肯定しなければならなくなる、人をさばくだなんて、それでは、神が愛だなんて嘘ではないか……このように解釈してしまうのは、読み手がそもそも「神の愛」というものを正しく受け取っていないためですが、聖書を読むときの基本は、「先入観なしに読む」ということです。  マリアの処女懐胎についてもこれと同じことが言えます。もし、マリアの処女懐胎を「ありえない」からと排除して、否定してかかって読んでしまうならば、聖書のどんな箇所も否定してよいことになってしまいます。それとも、ある部分は肯定して、ある部分は否定してもいいのでしょうか? もしそうならば、その基準はどこにあるというのでしょうか? それは、しょせん人間である自分自信が聖書を判断する基準になってしまっているということになるわけです。とにかくいちばんいいのは、先入観なしに聖書を読むこと、つまり、マリヤの処女懐胎にしても、「神さまの起こしてくださった奇蹟として実際に起こったこと」として受け取って聖書を読むことが必要になります。  さあ、そのように聖書を読む準備ができましたら、さっそく本文に入りたいと思います。26節です。……先週の礼拝で、バプテスマのヨハネの親となったザカリヤとエリサベツのことを学びました。エリサベツは身ごもり、5か月の間引きこもりました。そして、その次の月、エリサベツが妊娠して6か月目になったこのとき、以前ザカリヤに受胎告知をした御使いガブリエルが、こんどはガリラヤのナザレに住むひとりの処女のところに来ました。27節です。  このナザレの娘マリアは、12歳くらいだったと考えられます。12歳にしてすでに結婚相手が決められていました。日本の学年でいえば、小学6年か中学1年くらいです。私たちの常識では、結婚はおろか、まだまだ恋愛に踏み出すのも早い年頃です。しかしマリアには、その齢にしてすでにヨセフという許嫁がいました。もっとも婚約中といっても、マリアとヨセフは当然のこととして、純潔を保っていました。  さて、その婚約相手のヨセフですが、「ダビデの家系」とあります。これはとても大事なことです。それは、救い主キリストは、イスラエル王ダビデの子孫から生まれることが、旧約の昔から預言されていたからです。しかし、ダビデの血統が王族だったのははるか昔のことで、その子孫であるヨセフは、今は一庶民になっていました。日本も、家系図を紐解くと、清和源氏とか、桓武平氏にさかのぼる人は結構いますが、貴族のような生活をしていない人がほとんどなのと同じです。ヨセフもまた、先祖がダビデであるという事実の中に生きてはいたものの、だからといってその事実は、現実の生活の豊かさを保証するものでは決してなく、一庶民としてエルサレムから遠く離れたガリラヤのナザレに暮らすのみでした。  その、庶民の男の許嫁になった少女マリア……彼女には何が起こったのでしょうか?28節です。……御使いガブリエルはまず、マリアに「おめでとう」と告げて、祝福しました。おめでとう……素晴らしいことばです。受験に合格しておめでとう、結婚しておめでとう、赤ちゃんが生まれておめでとう……祝福されるほうだけではなく、祝福するほうも喜びに満ちることばです。  実際、ギリシヤ語の原語で、この「おめでとう」と訳されたことばは「カイレ」といいますが、これは喜びの伴ったあいさつを意味します。御使いガブリエルは喜んでいます。そしてこの喜びはもちろん、なによりも、天のお父さまなる神さまの喜びです。おめでとう、恵まれた方。そうです、天のお父さまは喜びをもってマリアを恵んでおられます。それにつづくことば、主があなたとともにおられます、そうです、主は喜びをもって、ともにいてくださるのです。  しかし、当のマリアはどうだったでしょうか? 29節です。神が喜ばれ、御使いも喜んでいるこのとき、当のマリアは喜ぶどころではありませんでした。いやむしろ、ひどくとまどいました。考え込みました。  これは、私たちの信仰生活にはよくあることです。私たちは聖書を読むことをとおして神のみことばに接するとき、しばしば、受け入れがたいみことばや、難解なみことばに出会うことがあります。そういうとき、私たちはひどくとまどい、考え込んでしまうものです。これまで自分の信じていた常識と大きくかけ離れたみことばの語りかけをいただくときなど、特にそうです。しかし、そういう悩みに陥った場合、方法があります。それは、続けてみことばに耳を傾けることです。  幸いマリヤは、続けてみことばを聴く用意ができていました。「出てって!」などと言うことはありませんでした。御使いガブリエルはことばを続けます。30節です。  ガブリエルはまず、突然の語りかけに怖れていたマリアにやさしく、「こわがることはない」と語りかけます。そうです。私たちのことを愛してくださっている主の語りかけは、恐いはずがありません。聖書を読んでいるときにひどくとまどうような語りかけがあったとしても、怖がらないで、主の愛を確かめていただきたいのです。  では、なぜ怖がる必要がないのでしょうか?……あなたは神から恵みを受けたのです。……みこころを地上に実現してくださる器として、神さまはマリアを特別に選んでくださいました。特別な選び。そう、ほかのだれでもない、自分に与えられた選び。しかし、マリアは、何か人よりも素晴らしかったからとか、人よりも秀でていたから選ばれたわけではありません。神さまの一方的な恵みの選び、この選びはまさに「恵み」です。主が特別に恵んでおられるならば、何を恐がる必要があるでしょうか?  私たちも、救い主イエスさまに出会わせていただいているということは、「恵まれている」ということです。何か素晴らしいから選ばれたわけではなく、ただ神さまの一方的なあわれみによって、この罪人である自分が「選んで」いただいたのです。私たちも神さまに、その愛をもって「選んでいただいて」いる以上、恐れることは何もありません。  しかし、ガブリエルは驚くべきことをマリアに告げます。31節です。ありえないことが起こります。そればかりではありません。男の子。生まれる子どもの性別が告げられています。今から2000年前に、胎児の性別を判別する技術など、あるわけがありません。神さまが創造主の主権によって超自然的に知らせてくださったというわけです。さらに、どんな名前をつけるべきかも知らされています。  先週のメッセージでも扱いました、バプテスマのヨハネのケースも同じです。そのときも親になるザカリヤには、胎児の性別とともに、名前をヨハネとつけるべきことがガブリエルによって知らされました。そのヨハネに「主はいつくしみ深い」という意味が込められているように、イエスという名前にも、意味が込められています。「主は救いである」という意味です。その名のとおり、イエスさまはその身をもって主の救いを実現されたお方でありましたが、御使いをとおして神さまがマリアに告げられたことは、これほどまでに徹底していました。  ガブリエルのことばは続きます。32節と33節です。大いなる者。この「大いなる」は原語で「メガス」といいますが、これは、神としての偉大さ、また、神の救いのみわざにおいて重要な役割を果たす意味での偉大さを表しています。この男の子は、偉大なる救い主となる、と預言しているのです。  いと高き方。天のお父さまです。その御名を口にすることも許されていないほど偉大なるお方の、子と呼ばれる、何という栄光に満ちた存在でしょうか。  また、御父はイエスさまに、父ダビデの王位をお与えになると語っています。これはどういうことでしょうか? これは、かつて神さまがダビデ王と結ばれた契約の成就です。サムエル記第二、7章の12節から16節をお読みしましょう。  ……このみことばが与えられたゆえに、ダビデは神殿の建築を、自分ではなく、後継ぎとなる王に託すことがみこころと受け取りました。そう、この預言は、ソロモン以降連綿と続くダビデ王朝のことを、直接的には意味しています。しかし、14節のみことばにあるとおり、ソロモンは晩年、主から心が離れてしまう罪を犯し、その結果、息子レハブアム王の代になって王国が分裂する懲らしめが下されました。その後も王たちの偶像礼拝の罪により、イスラエルが領土を失い、のちにユダも領土を失い、王統は途絶えました。  しかしこのダビデに与えられた預言は、もうひとつの、さらに重要な意味を持っていました。とこしえまでも堅く立つ御国を立てる王をダビデの子孫の中から起こされる、という約束は、時至って、イエスさまのお誕生によって成就するのでした。  ダビデは、この王なる救い主の存在を知っていたのでしょうか? もちろん知っていました。イエスさまが語っておられます。ルカの福音書20章41節から44節をご覧ください。……ダビデの末として生まれる救い主は、そういうわけで、世のはじめからおられる神の御子であられたのです。こうして、ダビデに語られたみことばは成就し、神の御子なる救い主キリストはダビデの子孫として地上に生まれることになりました。  さて、ルカの福音書1章に戻りまして、33節の「ヤコブの家」についても見てみましょう。ヤコブとは旧約聖書の創世記に登場するヤコブのことで、のちにヤコブは神から「イスラエル」という名前を賜っています。したがって「ヤコブの家」とは「イスラエル」という意味になります。  では、何が人を「イスラエル」ならしめるのでしょうか? それは神さまと契約を結び、神の子どもとされているという点にあります。イエスさまを信じる信仰を神から与えていただいた、ということによって、私たちは異邦人であってもイスラエルに接ぎ木され、その民としていただけます。ヨハネの福音書1章12節と13節にあるとおりです。  そのようにして、イエスさまを主と告白する者たちを、とこしえに統べ治めてくださるお方……このお方がお生まれになるということでした。  しかし、マリアはどう反応すればよかったでしょうか? 34節です。……この告白は、マリヤが未婚であり、純潔である、したがって子を宿す可能性はまったくありえないことを示しています。生まれてくる子どもが約束の救い主である、ということを喜ぶ以前に、ありえないことにとまどうしかなかったのでした。  ガブリエルはそのようなマリアに語ります。35節です。救い主イエス・キリストがマリアの胎に宿るのは、聖霊なる神のみわざによることを告げています。これは人間のわざによるものではなく、神が直接なしてくださることであるわけです。ゆえに生まれるお方は聖なるお方であり、神の子です。  ガブリエルのことばは続きます。36節と37節です。マリアが全能の主のわざにより身ごもることは、不妊の人であったエリサベツが身ごもったことによって、充分あり得ることではないか、というわけです。マリアは、親類のエリサベツが、不妊の人であり、それに年を取って、すでに子どもを産める可能性がまったくなかったことをよく知っていました。  それが妊娠して、もう五か月だというのです。それは、神にとって不可能なことは一つもないからだというわけです。マリアはこの事実の前に、すべてを受け入れる決心をしました。38節です。その語ったことばのとおり、つまり、主のみこころのとおりに、自分の身に実現するように……マリアはそう告白したのでした。 しかし、マタイの福音書1章のヨセフの記述と合わせてよく考えてみてください。ヨセフはいったい、マリアが聖霊によりみごもり、救い主キリストを産むことなど、信じることができるでしょうか? マリアは衆人環視の中、石打ちに遭うしかありません。ヨセフはそうならないように、ひそかにマリアのことを離縁しようと心に決めていました。いのちを失うか、ヨセフと生き別れになるか……神の子を宿すということは、そのような定めになることを意味していました。 だがマリアは、すべてを主にゆだねました。人間的に行動して、すべてをご破算にする愚を犯すことは、決してしませんでした。私たちの救い主イエスさまがこの地上に生まれてくださり、私たちに神の国を伝えてくださり、私たちの罪のために十字架にかかってくださった、その背後には、マリアの完全な献身、完全な信仰があったことを、クリスマスを前にしたこのとき、私たちはもう一度思い起こしたいものです。 ガブリエルがマリアのことを「恵まれた方」と呼んだのはなぜでしょうか? 神の子の母として選ばれたこと、それももちろん「恵まれている」理由ではありますが、何といっても、これほどまでの信仰告白を主の御前にささげ、実際に、それこそすべてをゆだねることができた信仰の歩みをなすことができたからではないでしょうか? このマリアの姿は、私たちの模範です。 私たちの生きる世の中は、混迷と矛盾、不条理に満ちています。そのような世の中に生きる私たちは、聖書の説く基準と世の中の説く基準のはざまで揺れ動き、葛藤することもあるでしょう。しかし私たちは、マリアの姿をともに模範にしたいものです。どんな苦難が襲いかかることが予想されようとも、主に委ねきり、主のみわざが現れるのを忍耐して待ち望む、そういう歩みをともにしてまいりたいものです。 もちろん、この歩みはひとりで孤独にできるものではありません。世の波風は時にとてもきびしいものです。私たち主のからだなる教会の友はともに助け合い、一緒に、主に委ねてみわざを待ち望むことをしてまいりましょう。主はそのような私たちを、恵まれた者たち、と呼んで祝福してくださいます。信じてまいりましょう。