「信仰による救いと癒やし、そして献身へ」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇8篇/主の祈り/讃美歌524「イエス君イエス君」/聖書;マルコの福音書10:46~52/メッセージ/聖歌150「わがめをひらきて」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「信仰による救いと癒やし、そして献身へ」 私は幼いときから、目にハンディキャップを抱えて生きてきました。目というものは自分の顔についていて、鏡でも見ないかぎり絶対に自分の目は見えないから、普段意識することはないのですが、ときどき友達などに目つきを指摘されるとき、そのショックは計り知れないものがありました。のちに私は目の手術をして、ある程度人並みの目つきを手に入れることができるようになりましたが、視力も悪いのまで治ったわけではなく、折に触れてそんな自分であることを思うとき、目が見えないことにかなりの気の重さを覚えていた幼い頃、若い頃の記憶が、今もなお鮮明によみがえります。 そんな私が救われた思いがしたのは、やはり、聖書のみことばをお読みしてでした。聖書の登場人物は、目が見えなかったばかりに物乞いをするしかなかった人でした。イエスさまの弟子たちはなんと口さがなかったことか、彼は目は見えないけれども、耳は聞こえていたにもかかわらず、彼の聞いている前で、イエスさまにいろいろ言うわけです。この人がこんなふうに生まれついたのは、この人の罪のせいですか、それとも、親の罪のせいですか。彼は好きで目が見えないわけではないのに、弟子たちはなんということを言うのかと、目の悪い私などは思います。しかし、イエスさまのおことばはふるっていました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」このみことばをいただいて、私は、そのように弱さを抱えた者だから、イエスさまは私に出会ってくださったのだと、信仰をもって受け取りました。そうなってから、私は劣等感から解放されました。 さて、今日のみことばですが、やはり目の見えない人がいやされ、目を開いていただく、という内容です。イエスさまとその一行がエリコにしばらく滞在し、エリコを出て道をぞろぞろと歩いて行ったとき、その道端に、目の見えない物乞いがいました。 この男性は、2つのハンディキャップを抱えていました。ひとつは、目が見えないという肉体的ハンディキャップ、もうひとつは、物乞いのようなことをして生きていかなければならないという社会的ハンディキャップでした。彼は、二重のハンディキャップの中で生きていました。 しかし彼は、そこからできるものなら抜け出したい、という思いを持っていました。そこにちょうど、イエスさまが通りかかりました。イエスさまならば私のことを癒やしてくださる、目が見えるようにしてくださる、そうなったら、もうこのような、物乞いのような悲惨な立場に身をやつす必要はなくなる……あらゆる回復をいただきます。 彼は、そこをイエスさまがお通りになると知るや、叫びつづけました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」彼はイエスさまというお方に対する、正しい理解がありました。ダビデの子。すなわち、ユダヤという宗教共同体の間で信じられていたとおりの、ダビデの子孫としてお生まれになるキリストとは、いま目の前をお通りになっているイエスさまであるということを、彼は声を大にして告白していました。 この民ユダヤ人は、救い主キリストを待望していました。しかし、そのキリストがナザレのイエスであることを公に告白するには、それだけ、イエスさまというお方に対して、霊的な目が開かれている必要がありました。その点、この男性はたしかに、肉体の目ではものを見ることはできませんでしたが、霊的にはすでに、イエスさまをキリストと告白できるほどに目が開かれていました。 イエスさまを主と告白できるように選ばれた人には共通点があります。それは、自分が弱いことを知り、しかしイエスさまというお方が、その弱さを強さに変えてくださる救い主、神さまだと信じる信仰に導かれている、ということです。はなから自分は強い、神さまなんて頼る必要などない、そのように考えてしまっていては、信仰を持つことはなかなか難しいことで、もっと言えば、神さまの恵みなくしては不可能なことです。 そのように、この目の見えない人は、イエスさまへの信仰が与えられていて、すでに心の目には、イエスさまが見えていました。そのようにイエスさまが見えるならば、あと彼のすることは、その信仰を働かせることです。すること、それは、力いっぱい、イエスさまの御名を呼び求め、あわれみを乞うことです。 この人は物乞いをしていました。ユダヤの宗教共同体の金銭的なあわれみにすがって生きる存在でした。しかし、そのような金銭的な施しが一時的なものでしかないことを、彼はよくわかっていました。もっと根本的な解決をくださるお方から、御力をいただきたい! 井戸から水を汲んで飲んでも渇くけれども、イエスさまのくださるいのちの真清水は、けっして渇くことがない。彼は、自分のほんとうに乞い求めるべきは、一時的な金銭ではない、イエスさまにある永遠のいのち、永遠の救いであることを悟り、それを全力で求めにきました。 しかし、イエスさまの取り巻きは、そんな彼のことを黙らせようとしました。自分たちは次のところに行くんだ。忙しいんだ。邪魔するな。そんな思いがあったことでしょう。イエスさまの取り巻きのこの言動は、最大限好意的に解釈するならば、それだけ、イエスさまが大事、イエスさまのことを独り占めしたい、という気持ちの表れなのでしょうが、しかしその思いを持つあまり、彼らには、人にあわれみを施す余裕が完全に抜け落ちていました。 ある教会のクリスマスでのできごとでしたが、その日信徒たちは、クリスマスの礼拝で大いに盛り上がり、あとは礼拝堂の下の階におりて、持ち寄りの食事を楽しむばかりになっていました。ところがそのとき、教会に、見知らぬ若いお母さんが幼い娘を連れてやってきていました。身なりもよごれていて、どうやらホームレスです。やがて信徒たちは礼拝を終えて下の階におりて食事会をはじめました。事情を察したある婦人の信徒がその親子に、食べ物を分けてあげて、それはよかったのですが、この親子が一緒にその食事の場にいることに対して、明らかにいやな表情を浮かべる人もいました。その人としては、せっかくのクリスマスの恵みが台無しだ、とでも思ったのでしょうか。 愛するということ、愛の奉仕を施すということは、このような、自分こそ恵まれたいという人間的な本能、自然な感情からすると、簡単ではありません。そう考えると、つい、自分たちだけで恵まれたいという、内輪で盛り上がるようなクリスチャンの歩みにも一理あると思えてしまいそうです。しかし、そういうときこそ、私たちは、私たちの主なるイエスさまはどのように人に接していらっしゃったかを、見て学ぶ必要があります。 まず、イエスさまは立ち止まられました。イエスさまが立ち止まるならば、取り巻きの一行も立ち止まるしかありません。イエスさまは彼らに、「あの人を呼んできなさい」とおっしゃいました。イエスさまはこのように、その人を御許に招く働きを、弟子たちにさせられました。まず、弟子たちが意識を変えて、この男性に対する認識を改める必要があった、ということです。そして、そのように認識を改めたうえで、イエスさまのお使いとして用いていただくのです。 私たちもイエスさまに用いていただく光栄に浴したいならば、まず、イエスさまのおこころをよく知る必要があります。自分勝手な考えで、自分の思い込みが優先した状態で、イエスさまに用いていただくことはできません。そのためにまず、イエスさまのみことばを聞きましょう。イエスさまが自分に何と命じていらっしゃるか、日々聖書のみことばを開き、お受け取りすることです。そのご命令に従順にお従いすることです。 果たして、その人は上着を脱ぎ捨て、イエスさまのもとに駆け寄りました。上着とは何でしょうか? 身を覆う財産です。上着というものは質に取ったら日没までに返さなければならない、と、出エジプト記の律法のみことばに記されているのは、それだけ上着というものが人にとって大事だからです。また、あなたを告訴して下着を取ろうとする者には上着も与えなさい、とイエスさまがおっしゃるのは、人を愛する神の愛の大きさを示すために、そのようにたとえでお語りになったのでした。上着はまさに、ひと財産です。 物乞いともなると、もはや上着くらいしか財産と呼べるものはありません。それを彼は脱ぎ捨てて、イエスさまのもとに駆け寄ったのです。これは彼の献身の表現です。イエスさま、私はあなたに出会うために、すべてを捨てます、捨てました……。 イエスさまはそんな彼を見て、彼が何を願っているか、もちろんご存じでした。それでもイエスさまはあえてお尋ねになります。「わたしに何をしてほしいのですか。」彼は言いました。「先生、目が見えるようにしてください。」 イエスさまは全能なる神さまであり、私たちのことを愛してくださっているお方です。ゆえに、私たちが何を必要としているか、すべてご存じです。しかし、イエスさまがいかに全知全能なるお方であるといっても、私たちがその必要を認識し、具体的に願わないことには、イエスさまは私たちのその願い、必要を満たすということはなさいません。私たちにとって神さまに祈ることがなぜ大事なのかは、これでわかります。ほしいものがあり、していただきたいことがあるならば、まずはそれを具体的に祈ることから始めましょう。主はみこころにかなうようにそのお祈りを導かれ、みこころにかなうお祈りであるかぎり、そのお祈りを聴き届けてくださいます。 彼は、その願いとは、目が見えるようになることだと言いました。しかし、神さまが絶対的なお方であるということは、目を見えるようにも、見えないままにもされるということです。すべては主のご主権にかかっています。彼にもそれはわかっていました。しかし彼はイエスさまに恵みとあわれみを求め、何とか見えるようにしてください、とすがりました。そしてイエスさまは……彼の目を開き、見えるようにしてくださいました! ここから教えられることはいくつもあります。イエスさまは、彼の祈り、目を見えるようにしていただきたいという願いを聞かれましたが、そのように目が見えるようになるということは、主のみこころです。 本来、神さまがおつくりになった世界は完璧でした。アダムとエバのむかし、エデンの園のむかし、病気も障がいも環境汚染もありませんでした。しかし、人は神さまに背を向け、罪を犯す道を選びました。それゆえこの世界には堕落が入り込み、人は病むようになってしまいました。障がいもその肉体に臨むようになってしまいました。そのように、肉体が病みに病んだ末に行きつくところは「死」です。神さまのご命令に背いたら人は必ず死ぬ、と警告されていたのに、人は不従順の選択をした以上、これは仕方のないことです。 この、目の見えない人が、イエスさまに願ったら目が見えるようにしていただいたというのは、そのように罪に病む人間も、主に立ち帰るならば癒やしていただける、その肉体のいやしの根本にある、罪の赦しにまで至らせていただける、ということを象徴しています。イエスさまはこの癒しのわざは何によるかというと、「あなたの信仰があなたを救いました」とおっしゃったとおり、イエスさまを救い主キリストと信じる彼の信仰によるのであると宣言されました。 このときイエスさまは、「さあ、行きなさい」とおっしゃっています。つまり、こうして癒やしをいただいたならば、あとは彼が見える目で景色を見渡しながら、どこに行くにも自由でした。ところが彼はどうしたでしょうか? そのように、イエスさまに与えていただいた自由を、イエスさまについていくという用い方をしました。 私たちはイエスさまを信じたならば、この上なく自由な存在としていただいています。自由といっても、「悪いことも含めて何をやってもいい」という自由ではありません。それは自由ではなく、なお悪いものの奴隷になっている状態です。ほんとうの自由とは、悪いものの支配から解放されている状態です。たとえ肉体に病気や障がいがあったとしても、そのことゆえに人生を悲観的にとらえることから解放されます。私たちのいのちは肉体もろとも、イエスさまがすでに十字架の上で贖ってくださったからです。私たちはそのように自由な存在とされましたが、その自由な立場で、私たちはどこに行ってもよいのです。 だが、この男の人は、イエスさまについていく道を選びました。自由の中からイエスさまのしもべになる道を選ぶ。なぜならば、それ以上の自由の喜びは味わえないと知っているから。これがほんとうの献身です。 私はかつて、大学卒業後の進路に、降ってわいたように「韓国の神学校行き」という道が示されたとき、いきなりの話に、どうしても不安な思いを拭うことができず、当時所属していたキャンパス・クルセードという宣教団体のスタッフの佐藤さんという方に、個人的にお話しして相談しました。すると佐藤さんは、このようなことをおっしゃったのでした。「献身するのがみこころではない、ということはないよ。なんでかっていえば、神さまは人に献身することを喜んでおられるからね。」私はこのおことばに背中を押される思いで、神学校ゆきの決心がついたものでした。そのおことばをいただいてから今年で27年になりますが、やはりこの献身の道を行くことは、神さまの大きな喜びであったことを、年を追うごとにますます実感しています。 これは直接献身の話ですが、私たちは直接献身にかぎらなくても、毎日神さまに時間をささげ、神さまに遣わされて、神さまに用いられる生き方をしているならば、それはたとえ牧師や宣教師のような肩書での働きではないとしても、神さまから与えられた自由を、神さまにお従いすることで、一見すると不自由、しかしそのじつかぎりなく自由に用いた生き方をしていることになります。どんな職業でもいいのです。人にはそれぞれ、神さまから与えられた賜物があり、その賜物を神さまのためにこそ用いるならば、だれであれ、献身の生き方をしていることになります。 この男性の場合、イエスさまへの献身の歩みをするには、イエスさまに目を開いていただく、すなわち、目が見えるようにしていただくだけで充分でした。私たちはどうでしょうか? イエスさまのへの献身の歩みはすばらしいと思いますでしょうか? 私は、すばらしい、ということを、身をもって体験しつづけていますし、その献身の歩みに充分に踏み出せない要素があるならば、この男性の場合のそれが目の見えないことであり、それが見えるようにしていただいて取り除かれたように、私も、まだ充分に献身できていない領域はわれながらありますし、それを取り除いていただいて、ますます、献身の喜びの歩みをさせていただきたいと願います。 私たちがもし、イエスさまにお従いしないままでいたならば、それは人生の損失というものです。私たちの従順、私たちの献身において、もし妨げとなっているものがあるならば、それは何であるか、しっかり認識させていただきましょう。そしてそれを取り除いてください、癒やしてください、と、主に祈りましょう。主は必ず、私たちをいやし、献身を妨げるあらゆるものを取り除き、献身の喜びに私たちを踏み出させてくださいます。