「みことばという光で輝く」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇130篇/主の祈り/讃美;讃美歌75「ものみなこぞりて」/聖書朗読;詩篇119:105/メッセージ/讃美;聖歌541「とうだいははるか」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/栄光の讃美;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「みことばという光で輝く」 伝道用の小冊子として世界中で用いられている「四つの法則」。この巻末に、イエスさまを信じ受け入れた人は教会に行くべきであることが書かれている。その理由について、このように説明している。「薪は何本も一緒に燃やすといつまでも燃えるが、1本だけだとすぐに火が消えてしまう。クリスチャン生活もそれと同じである。」 クリスチャン生活はこのように、燃える炎に例えられる。私たちは熱くありたい。輝いていたい。そのためにも、この教会という共同体で、ともに燃やされ、輝くことが私たちに求められている。 そこで今日のみことば。有名な聖句だが、このみことばから、私たちクリスチャンにとって神のみことばとはどのようなものかを学んでみたい。 私の足、とある。私の足、というからには、その足は「自分自身」についている部分である。私の足は娘にはついていない。「私」の足、ということが大事である。「私が」暗闇の中で迷わないように、自分のために照らすものが「あなたのみことば」という「ともしび」である。ディボーション、聖書通読というものは、個人的にみことばに向き合う作業だが、これは、「私が」歩けるように、神さまのみことばによって暗闇を照らしていただくことである。 これに対して「道の光」だが、道というものはひとりで通るものではなく、みなで一緒に通るものである。このように、道が暗闇に閉ざされてみなが一斉に迷ってしまうことのないように、道は光に照らされている必要がある。その道を照らす光もまた「みことば」である。 道というものは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃった、イエスさまという道、十字架を通って父なる神さまのもとに行く道である。クリスチャンはみことばの光に照らされて、この同じ道、唯一の道なるイエスさまという道をともに行く。その意味で、みことばの光に照らされることは、個人的なことであるのとともに、教会という共同体のわざでもある。 そして、このイエスさまという道は人々の目にはふさがれている。それは、自己中心という罪、神を神と認めない罪の中にいて、目がふさがっているからである。それは暗闇の中にいることである。その暗闇を払うものが、神さまのみことばである。そして私たちは、この神さまのみことばに照らされて、自分の足で、一歩一歩前に進むのである。 このように、実は私たちの行く道がみことばという光に照らされていることを人々に知らせるには、言うまでもなく、私たちがまず、みことばという光に照らされている必要がある。その光に照らされて輝く生き方がどんなに素晴らしいか、人々に証しするのである。言ってみれば、光に照らされていないで迷う人、つまずく人を、光に照らすのである。 私たちはみことばの光に照らされる生活を、人に隠すものではないだろう。それは私たちのことを血潮をもってあがなってくださったイエスさまのことを恥じる生き方である。そういう人のことをイエスさまは、終わりの日に恥じるとおっしゃった。そうではなく、このみことばの光を輝かせる生活をすることが、私たちに求められている。 そして、足がみことばのともしびでともされているならば、私の足をともすともしびなるみことばの恵みを、クリスチャンがみなで持ち寄ることによって、みなは同じ道、キリストという道を行くことができる。みことばの恵みの分かち合いはそのために必要なものである。 そして、そのディボーションと分かち合いにとどまらず、この、みことばの光で照らされた道を、人に伝えるのである。すなわち、伝道である。具体的に言えば、毎日みことばから受ける恵みを人々の前であらわす、すなわち、その日に与えられたみことばを生活の中で、具体的に、現実的に、実践可能な範囲で、その日のうちに(あるいは近いうちに実践できるように計画を立てて)実践することで、イエスさまというこの上なく魅力的なお方にお従いする魅力ある生き方を人々の前であらわす生き方をすることで、人々が、私たちの生きる源であるイエスさまとそのみことばに心惹かれるようになるならば素晴らしい。主がそう導いてくださるように祈ろう。 自分はみことばの光に照らされているか? この教会の兄弟姉妹とともにみことばの光に照らされてに歩まないか? この世の迷っている人、みことばの光に照らされる必要のある人はだれか? ともにみことばの光に照らされ、輝こう。

「小犬の信仰」

聖書箇所;マルコの福音書7:24~30/メッセージ/讃美;聖歌631「罪にみてる世界」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、御子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「小犬の信仰」 むかし、私の実家は犬を飼っていた。犬種はパグ、あのブルドッグを小型にしたような犬で、名前は「ゴン太」と名づけた。とにかくよく食べた。ある日、家に戻ってみると、テーブルの上に置いてあった食べ物がみななくなっている。ふと下を見ると、おなかをパンパンにしたゴン太がよたよたと歩いて、ドテ、と横になり、ジョジョジョ、と失禁した。テーブルの上のものをみんなこの子が食べてしまった模様である。そんな犬なものだから、いけないのだが、食事をしているときに、つい食べ物を分けてよこしてやったりしたものだった。すると飛びつき、ゴクッ、と、あまりかまずに飲み込む。 そんな、犬。今日の箇所でイエスさまがお語りになったおことばにも、犬が出てくる。番犬だろうか? ペットだろうか? どうも、マルコの福音書の読者層にとっては、犬が家の中に同居して、飼い主の食卓からパン屑が落ちるのを食べることは、普通に想像できたことのようだった。みなさまの中にも、ペットを飼っていらっしゃる方がおられると思うが、仲間のようでいて同等の地位にはいない、そんなペットの立ち位置を考えながら、今日のみことばを味わってみよう。 24節。イエスさまはここまで、宗教指導者との問答で、彼らの聖書解釈の根本にあるゆがみを指摘された。その聖書信仰のむなしさを取り扱われ、父と母を敬えというみことばへの根本的な従順へと彼らを導かれた。洗わない手で食べることは、神さまへのそういった従順と何の関係もないことを指摘された。しかし、弟子たちにはそのことがまだよくわかっていなかったので、イエスさまは、人を汚すものは外から入るものではなく、中から出てくるものであると語られ、言外に、そのように自分のことを汚すものを生み出す自分自身をきよめていただく必要があることをお語りになった。 こういった議論は、かなり自分自身を消耗するものだったのだろうか? イエスさまが家に入ってだれにも知られたくないと思われたのはなぜか? イエスさまもおひとりになり、お休みになる時間が必要だったようである。私たちも休む時間が必要な時がある。今週の週報に書いたのもそのことに通じるが、私たちは主の御前に休むことによってはじめてほんとうの意味での休息を得て、次の働きに備えることができる。 しかし、周りの群衆は、イエスさまのことを放っておかなかった。イエスさまがそこにおられることを探し当て、われもわれもと迫ってきていたのである。イエスさまはそこを去って、ツロに行かれたが、このみこころについても私たちは考えさせられる。これはのちの日の、使徒たちが、ユダヤ人がイエスさまを受け入れなかったゆえに、異邦人のところに行ったというできごとをほうふつとさせる。この時点で使徒たちは、異邦人のところに行かず、まず優先してイスラエルの失われた羊たちのもとに行きなさいとイエスさまに遣わされている。救いの順序として優先するのは、まずはイスラエル、ユダヤ人であり、それから異邦人である。そういう背景を念頭において、イエスさまがツロに赴かれたということを考えてみよう。 ツロというのは、イエスさまがその時おられたガリラヤからさらに北西の方向、フェニキアという地域の、地中海沿岸の港町である。ガリラヤの人たちはツロの人たちと仲が良くなかった。ガリラヤの人たちはツロの人たちのことを、「悪名高い、私たちの最も苦々しい敵」と呼ぶほどだった。ツロは貿易で莫大な富を得ており、その力で、近接していた農業地域、ガリラヤのことを統制しようとしていた。ウクライナとロシアのことを見ても実感するが、近接する国どうしは支配・被支配の関係をめぐって険悪になることが多い。 イエスさまがわざわざこの地域に赴かれたその背景に、このような論争を繰り広げたとおり、きよめの洗いの儀式を制定することような宗教指導者たちのきよめに関する聖書解釈には問題があることをお示しになるため、ということがあった。「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないこと」と堅く戒められていたペテロが、異邦人のコルネリオを受け入れたのは、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」というみことばをきいたゆえ。イエスさまが異邦人の町ツロに赴かれたということは、律法によって異邦人への救いが限定されていた時代は、いよいよ終わりを告げようとしていたということである。 エペソ人への手紙2章1節と2節、11節と12節に、神の民から見た異邦人とはいかなる存在かということが書かれている。いま、21世紀の日本に暮らす私たちはほぼ、福音というものをユダヤ人から直接聞いて学んでいるわけではなく、イスラエルを除くすべての異邦人がどれほど悲惨な立場なのかということを実感できないでいるだろう。しかし、聖書のみことばから見ると、異邦人とはこのような悲惨な存在である。私たちもそのひとりとして、このツロに住む人たちに思いを馳せてみたい。 25節。イエスさまはツロの地方に赴かれたが、そこでイエスさまはおひとりでリトリートに集中されるわけにはいかなかった。イエスさまのうわさは、この地方までも伝わっていた。女の人がイエスさまのもとにやってきてひれ伏した。 女の人の幼い娘は汚れた霊に取りつかれていた。女性という存在は社会的に疎外されていた。さらに、このおやこはユダヤ人から見れば異邦人であった。さらに言えば、子どもは当時の社会で最も疎外された存在であった。もうひとつ推測できることだが、この女性は夫を伴わないでイエスさまのもとにやってきている。離別したか死別したか、寡婦だったという推測が成り立つ。母親も娘も何重もの意味で疎外されていた。しかし、そんな彼女も、イエスさまにおすがりした。 26節。この女性はギリシア人、シリア・フェニキアの生まれ。ユダヤの神の民の共同体とは、縁もゆかりもない人である。 そんな彼女は、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスさまに願った。母親は、イエスさまならば悪霊を追い出せるということを信じていた。このみことばに先行するマルコの福音書3章8節で、遠くツロからもイエスさまのみわざのうわさを聞いてやってきていた。この女性もまた、そのようなうわさを聞いていたと推測される。いや、もしかしたら、イエスさまがみわざを行われるのを直接見ていたかもしれない。イエスさまが通られるのを見て、いても立ってもいられなくなった。 27節。イエスさまはそんな女性に対して、このようにお語りになった。「まず子どもたちを満腹させなければなりません。」それに続いてこうもおっしゃっている。「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくない」もちろん、子どもというのもの小犬というのも比喩である。婦人よ、あなたは子どもたちがパンを食べている食卓の下をうろつく小犬なのですよ、というわけである。 愛玩犬を育てる文化が定着している21世紀の日本では、「小犬」というと、ついマルチーズとか、チワワとか、そんなかわいいイメージになるかもしれない。しかし、小犬の原語のギリシャ語「キュナリオン」は、かわいい愛玩犬というよりも、単に小さいものを指すだけのことばであり、実際、韓国語の聖書では、この「キュナリオン」を、愛玩犬または幼い犬という意味の「カンアジ」ということばではなく、単に「犬」という意味の「ケ」と訳している。だから、イエスさまが「小犬」と言ったからと、かわいいイメージでおっしゃっているわけではないと考えるべきである。「あなたは犬の立場です」、こう、イエスさまはおっしゃったわけである。 このように、女の人を犬扱いするイエスさまのおことばは、あまりにもつれないと言うべきなのか? しかし、私たちはこういう時、神の前にへりくだるべき自分の身分というものを考えるべきである。イエスさまは何も、「あなたには何の分け前もありません」とおっしゃったのではない。「まずは子どもたちにパンをあげなければなりません」と、恵みを施す順序を語っておられるわけである。 では、子どもたちとはだれか? 神の子、神の家族といえば、まずはイスラエルである。ガリラヤはもちろん、その宗教共同体の領域に入っていて、それまでイエスさまが相手をされていたガリラヤの民、そして彼らを統括する宗教指導者は、神の子どもたちである。彼らはまず、神のみことばというパンによって養われる必要があった。 しかし、そのパンとは、イエスさまが「これは天から下ってきたパンです」とおっしゃったように、もちろんみことばではあるが、宗教指導者たちが人間的に解き明かすみことばではない。神のみことばが受肉してこの世界に私たちとともに住まわれるお方、イエスさまご自身である。この、イエスさまといういのちのパンによって、神の民は最優先で養われる必要があった。 28節。この女性は「主よ」とイエスさまに呼びかけた。イエスさまがこの女性にとっての主であるという告白である。しかし、そのあとの告白が振るっていた。彼女は、自分が「食卓の下の小犬」であると、はっきり認めたのである。さらに、子どもたちのパン屑はいただきます……このように彼女は告白したのであった。 パン屑は、子どもたちがこぼさないで食べるならば、それは「パン屑」とは言わない。「パン」である。それが子どもの口に入らないでこぼれるから「屑」になるわけで、「パンくず」はもともと、ちゃんと「パン」なのである。だが、子どもが行儀が悪いと、つまり、「パン」の価値をわかっていないと、せっかくの食べ物を残したり、「こんなものいらないよ」と、ペットに投げたりする。 ユダヤ人は、いのちのパン、まことのパンであるイエスさまのことが必要なかった。まさにイエスさまを「パン屑」扱いして、床にこぼすような真似をしたのである。それでついには、イエスさまのことを十字架送りにした。しかし、この女性はわかっていた。このお方が神の民の国を離れ、ツロにまで来ておられても、やはりこのお方はすべての民を創造された創造主であり、自分も被造物のひとりとして、イエスさまというパンをいただく分け前にあずかることができる……。 イエスさまがもし、ユダヤの宗教指導者たちの信仰を集めていたならば、このように、異邦人の土地まで赴かれる必要はなかっただろう。だがこの異邦人の土地で、どこまでも悲惨な立場に置かれ、もはや神の恵みにすがる以外に方法のなかったこの女性に会われ、彼女のへりくだり、また信仰をご覧になった。 29節。「そこまで言うのでしたら」……イエスさまは私たちの告白する「ことば」をもって、私たちの信仰を認めてくださるお方である。だから、どんなことばで信仰告白をするかがとても大事である。 「家に帰りになさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエスさまは女性のこの信仰をよしとされて悪霊を追い出された。しかし、直接行って、娘の上に手を置かれたわけではなかったのである。それがイエスさまの方法だった。この女性は、イエスさまがこのようにおっしゃったみことばを即、信じ受け入れる必要があった。 30節。しかし、この女性はイエスさまのことばを信じ、家に帰った。すると彼女が信じ、行動したとおりの結果になっていた。まさに復活されたイエスさまが疑い深かったトマスに対して「見ないで信じる者は幸いです」とおっしゃったとおりである。 この女性の信仰は、今日私たちが持つ信仰の予表であり、また、私たちが持つべき信仰のモデルである。私たちは神さまの前にいろいろ言い訳をしていないだろうか? なぜ、素直にみことばを受け入れることをしないのだろうか? 私たちが信じたとおりに神さまがみわざをなしてくださるということを信じられないのだろうか? 私たちは信仰の共同体でありたい。私たちが毎日聖書を読むのは、そのとおりに神さまが、イエスさまが、今日この日も私たちを通して働いてくださるということを、私たちが信じ受け入れるためである。私たちはあまりにも常識というものに支配されて頑ななので、みことばのとおりになるということが信じられない。だから私たちは、みことばのとおりになるという信仰をまず与えていただき、その信仰を働かせて祈る必要がある。 私たちはほんらい、恵みを受ける資格などない存在だった。しかし、イエスさまは私たちに恵みの門を開いてくださった。イエスさまはまるでパン屑のように、罪人である私たちの地平にまで下りてきてくださったのである。私たちはワンちゃんのごとく、ありがたくイエスさまをいただき、イエスさまの御名によって、みこころにかなうことを祈っていこうではないか。聖書に書かれているとおりのことで、私たちが祈るのを渋っていることはないだろうか? 今日この時間、大胆にイエスさまに求めよう。イエスさまは聴き届けてくださる。

「外から入るもの、中から出るもの」

聖書朗読;マルコの福音書7:14~23/メッセージ/祈祷/讃美;聖歌273「きょうまでまもられ」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「外から入るもの、中から出るもの」  14節、15節を見よう。先週も学んだように、宗教指導者たちは、イエスさまの弟子たちがきよめの洗いをしないで食べ物を口にしたことに、相当な目くじらを立てた。しかし、イエスさまはここで、そのような洗わない手で食べ物を口にしようと、それが人を汚すわけではない、とおっしゃった。  それでは、口から出るものが人を汚すとは、どういうことだろうか? 宗教指導者たちが口から発したことばは、一見すると宗教的なきよめへと人を招いているようで、そのじつ、人をけがしているとイエスさまはおっしゃりたいのである。どういうことだろうか? 所詮は人間的な言い伝えにすぎないものを神さまと人の間に介在させ、きよい神さまとの交わりを人に持たせなくし、肉欲にまみれた宗教指導者のことばの奴隷にさせることで、人をけがす、というわけである。  ガラテヤ人への手紙5章1節を見てみよう。真にきよい神との交わりは自由をもたらすものである。何か人間的に縛られているならば、それは主のみこころにかなわない状態であり、そういう状態は、外見には宗教者として立派なように見えても、神さまの御目から見ればけがれていると見なされる。肉の夾雑物が入り込みすぎているからである。そういう、人間的な宗教により身に帯びたけがれを、私たちはイエスさまの十字架の血潮によって洗いきよめていただく必要がある。  しかし、17節、18節を見よう。弟子たちはこのイエスさまのおっしゃったことがわからなかった。それは、弟子たちもそれだけ、宗教界の強い影響からなお自由でなかったということを意味する。やはり、きよめの洗いをしないで食べ物を口にした、ということは、何かいけないことをしたのではないか、という思いから自由ではなかったのである。  宗教的慣習というもの、特に、私たちのからだと心を形づくる、食べ物にまつわる宗教的慣習は、かなり私たちのことを支配するものである。例えば私たちは、食膳のお祈りをして食べる。それはもちろん、食事を与えてくださった神さまとの交わりであり、これが宗教的に人を縛るものとして機能してはいけない。  イエスさまはすべての食べ物をきよいとされた。しかしそれなら、私たちは言わないだろうか? お酒はどうなる? タバコはどうなる? それを禁じている私たちは、宗教的な発想でしているのか? しかしこれは、宗教的なけがれとは別個のものと考えるべきだ。お酒の場合、いくつかの聖書箇所から、それを飲まないのがふさわしいという結論が導き出せる。間違った判断をしたり、放蕩に走ったりするのを防ぐという、案外実利的な理由である。タバコの場合は、私たちキリスト者のからだは神の神殿、聖霊の宮であるという信仰から、その健康を明らかに損なうものを口にしないのがふさわしい、と考えるからであって、宗教的にけがれるから、というのとは異なる。  ほかにも、飲み食いが制限されるケースがある。これはローマ人への手紙14章や、コリント人への手紙第一10章で戒められているケースで、何を飲み食いしても私たちには許されているというのが基本だが、その飲み食いによって人を不快な思いにさせたり、信仰が弱い人たちにとって彼らなりの偶像礼拝の文化を捨てきれない根拠にさせたりするなら、それはいけないことである。これもやはり、神の前にけがれる、からいけないのではなく、人につまずきを与える、すなわち、信仰から離れさせるからいけないのである。  20節から22節を見てみよう。イエスさまは、人から出てくる悪い考えが人をけがすとおっしゃった。それは21節から22節に列挙されたとおりであるが、なんと12種類も挙げられている。  ①淫らな行い、④姦淫、⑧好色……十戒の第七戒「姦淫してはならない」に違反。  ②盗み、⑤貪欲、⑨ねたみ……十戒の第十戒「隣人の家を欲してはならない」に違反。  ③殺人、⑩ののしり……十戒の第六戒「殺してはならない」に違反。  ⑥悪行、⑪高慢、⑫愚かさ……箴言のみことばほかみこころに対する違反。  ⑦欺き……十戒の第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」が適用できるみこころへの違反。  こういったことが自分をけがす。宗教指導者たちは、⑪高慢で、⑫みこころも悟らないで愚か、⑥民から搾取する悪行に手を染め、②神のものを盗み、⑤民から搾取することに飽くことなく、⑦民を欺いて民から搾取し、⑨まことの神の子なるイエスさまをねたみ、③イエスさまを殺そうとし(実際十字架にかけて殺した)、⑩イエスさまをののしり、①④⑧そんな彼らは霊的に姦淫した状態である。なんと、手を洗わなければけがれている、と主張した宗教指導者たちには、イエスさまがおっしゃったすべてが当てはまる。  しかし、こうして宗教指導者を糾弾するみことばが書かれているのは、それがほかならぬ、私たちへの警告であるからだ。私たちは心の中で姦淫を犯さなかっただろうか? 隣の芝生は青い、とばかりに、人のことをうらやんだりしなかっただろうか?「あんな奴にはいなくなってほしい」と心の中ででも思わなかっただろうか? 高慢ではなかっただろうか? 愚かではなかっただろうか? それなのに、「こんな自分のことも主は愛しておられる」とばかりに開き直り、なにもしないではいなかっただろうか? 嘘をついたりしなかっただろうか? そういったことを口にすることで、私たちはどれほど、自分をけがしてきたことだろうか?  そのけがれから自由になるには、イエスさまの十字架の前にひざまずくことである。私たちにはイエスさまの十字架が見えているだろうか?

「真の不従順とは何か」

聖書箇所;マルコの福音書7:1~13/メッセージ/讃美;聖歌151「たえなるいのちの」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「真の不従順とは何か」  今の小学生は知らないが、むかしから小学生といえば、例えば教室の花瓶を落として割った子がいたとき、みんなで歌を歌ってはやし立てたものだった。「あーららこららー いーけないんだーいけないんだー せーんせいにいってやろー」でも、花瓶を割った子はショックで青ざめているのである。そんなに、はやし立てて人を責めるのが愉快なのだろうか? まことに幼稚なことだが、イエスさまのあら捜しをするユダヤの宗教指導者たちも、似たような幼稚さを抱えていたと見るべきだろう。今日の箇所も、そういうくだりから始まっている。  1節のみことば。ユダヤの宗教指導者がエルサレムからはるばる、ガリラヤまでやってきた。ガリラヤ領主のヘロデでさえイエスさまのうわさを聞いて、イエスさまに会ってみたいと思っていたほどである。それほどの影響力をこの地域の社会に及ぼしていたイエスさまはどういう人物なのか、ユダヤの宗教界は調査する必要を覚えていた。自分たちの立場が危ないからである。しかし、彼らはどのようにしてイエスさまに問題人物の烙印を押そうとしたのか? もちろん、イエスさまやその弟子たちの言動をチェックするわけだが、問題はそのチェックする基準を、彼らがどこに置いていたかである。彼らは彼らなりの基準で、イエスさまの弟子が神に不従順であるかのように責めるわけだが、果たして弟子たちは不従順だったのだろうか?  2節。イエスさまの弟子たちが食事の前にきよめの洗いをしなかった。しないのを見とがめて、宗教指導者たちはその師であるイエスさまのことを責めている。まさしく彼らなりの「いーけないんだーいけないんだー」である。衛生観念がとても発達した民族である日本人がこの箇所を読むと、つい、弟子たちが悪い、と思ってしまわないだろうか? 私など最初、この箇所をよんだとき、弟子たちは手も洗わないで食べて「ばっちい」と思ったものだった。  しかし、そういうことではない。手を洗うのは「衛生」のためというよりも「宗教的儀式」としてだった。浅草の浅草寺では、一定の儀式にのっとった作法によって水で口をすすいで参拝するのだそうだが、そういったたぐいの宗教的なきよめのしきたりが、ユダヤの宗教社会においても金科玉条のように守られていたわけである。当時は水道から蛇口をひねって水を出していたわけではないから、汲んでためた水からすくって、腕からひじにかけて水を注いだということである。  ところが弟子たちは、そういうことをしなかった。なぜだろうか? それは、する必要がなかったからである。一見すると、聖書をベースにしているユダヤの宗教社会の伝統の中で培われてきた儀式を守っていないことは、神に対する不従順であるように見える。しかし、もしそれが神に対する不従順ならば、イエスさまご自身がそれをお咎めになり、弟子たちに水洗いの儀式を守らせられたはずである。ところが、イエスさまがそうなさった形跡はない。つまり、弟子たちが手を洗わなかったのは、神への不従順でもなんでもなく、守る必要がなかったからである。  しかし、イエスさまの時代の宗教社会においては、儀式を守ることが即、神への従順と見なされた。律法学者たちによる長年の聖書解釈の繰り返し、積み重ねは、やがて3節、4節にあるような、「宗教行為至上主義」ともいうような、神のみことばを守り行うこととは無関係な形へと変質した。そこから、5節にあるような宗教指導者の発言が出てくるわけである。  それでは、果たして彼ら宗教指導者たちの批判は正しかったのか? 6節と7節をご覧いただきたい。イエスさまは、「いいんです」と弁明されているわけではない。しかし、そのような宗教的言い伝えに固執させることこそ、神への不従順の罪を犯させること、すなわちそれ自体が、罪を犯していることそのものだと喝破された。それも、彼ら宗教指導者にとってよりどころであるべき聖書のみことば、絶対の基準である聖書のみことばを用いられたのだから、完璧な反論、批判である。  このイザヤ書のみことばのように、彼ら宗教指導者たちとその指導の下にあった民たちは、神を礼拝するにはしていた。しかし、それはむなしい礼拝だった。礼拝は神のことばをもってささげられるべきである。だが彼らは、神のみことばを人の命令にすり替えた。いったい、食事の前には手を洗わなければ神の御前にけがれている、と、聖書のどこに書いてあるだろうか? 嘘だと思うなら探してみてほしい。ないから。  その、一見すると神のみことばに由来するようでいて、そのじつ「人間」に由来する命令を守り行うならば、人は神に近づいて自由になることなどできないばかりか、宗教指導者という「人間」に縛られてその奴隷となり、霊的、精神的に不自由な存在となるしかなくなる。神さまはもちろん、人間がそうなることなど望んでいらっしゃらない。  イエスさまはこのような宗教指導者たちのことを激しく糾弾していらっしゃる。8節。彼らは宗教的なほどに宗教的だが、神の戒めに固執しているのとはちがう。むしろそうではなく、イエスさまに言わせれば、神の戒めを捨てた、というのである。だれよりももっとも宗教的、神に献身的に見える彼らは、皮肉なことに、神の戒めを捨てた者、すなわち、神を捨てた者であった。  それでは彼らはどのようにして、神の戒めを捨てたのだろうか? 9節。彼ら宗教指導者は、自分たちの言い伝えを保つために神の戒めを捨てた、とイエスさまは喝破された。つまり、彼らにとって大事だったのは、神の戒め、すなわち神のみことばではなく、自分たちなりの聖書解釈だったわけである。その聖書解釈も、あまりに人間的な解釈が入り込み、もはや原形をとどめていないものだった。  では、その聖書の語る「原形」とはどういうもので、それを彼ら宗教指導者たちはどのように、解釈を加えてないがしろにしたのだろうか? その例として、イエスさまは10節から12節のようにお語りになった。  ここで問題にされているのは、父または母、すなわち親に対して果たすべき義務、すなわち扶養する義務が人にあるようなときでも、その人が本来ならば親のために使うべき財産は、神にささげると約束したものゆえに使うことができない、とする場合である。  ささげ物ということばは、ギリシャ語で書かれたこの福音書において、わざわざヘブル語の「コルバン」と表記されている。特に、一般的な宗教でも行われているささげ物と区別して、特にイスラエルの神であるお方におささげするもの、という意味で、コルバンというヘブル語を使っているわけである。だから、「コルバン」をささげるというならば、まことの神さまがお受けになるべきささげ物としてささげるものである以上、ささげる人は、ささげるお相手である神さまのみこころがどこにあるのかを理解している必要がある。  宗教指導者たちは、神のそのみこころとは、親に対する扶養義務をないがしろにしてでもささげるべきものだ、と、民を教え導いている。しかし、神の子なるイエスさまは、それは全く神さまのみこころではない、とお語りになる。その根拠としてイエスさまは、モーセの十戒の第5戒、「あなたの父と母を敬え」を挙げられ、そしてもうひとつ、「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」という、出エジプト記21章17節、そしてレビ記20章9節と、律法の書に繰り返し語られた、極めて厳しい戒めを挙げられた。つまり、親をないがしろにすることをまかり通らせる宗教指導者たちが、どんなにみことばから外れているか、ということをイエスさまはおっしゃったわけである。  さて、宗教指導者たちがあまりに人間的な聖書解釈をすることに対して、イエスさまが、父母との関係に関する律法のことばを引用された意味も考えてみたい。モーセの十戒というものがみことば全体の基礎であることに異論を唱える人はいなかろう。十戒は、前半の4つの戒めが神との関係を説き、後半の6つの戒めが人との関係を説く。神と人との垂直な関係、人と人との水平の関係、その戒めが十戒である。この形は十字架ではないか。  そして、ここでイエスさまが挙げられた第5戒、これはある意味特別な戒めである。第5戒以降で扱われる対人関係の戒めのもっとも基礎になるものが、親との関係だからである。聖書は一貫して、親というものを、われら神の民の父であられる神さまの代理として教えている。親は愛なる神の代理として、子どもを愛によって保護し、育て、戒める。そういう意味では、この第5戒は神との関係を示す十戒の前半の4つの戒めにも含まれるともいえる。まさに、対神関係と対人関係を同時に取り扱うみことば、十字架の交わるところのようなみことば、それがこの第5戒である。  だから、親子関係をイエスさまが例に挙げられ、それを十戒の第5戒で取り扱われたということは、もっともらしく神のみこころを説いているつもりの宗教指導者たちは、神さまとの関係においても、人との関係においても、まったくなっていない、と語っておられるわけである。  それに加えて、イエスさまがお語りになった「父や母をののしる者は必ず殺されなければならない」という戒めまでもイエスさまはお語りになったが、これは、神さまとの関係を隠れ蓑にして父母に何もしないことは、父母をののしることと同じ罪、殺されるに値する罪であるというわけである。どういうことだろうか? 父母をののしるということは、父なる神さまとその子なる人々、という秩序の中で、神の権威の代理として親という存在をお立てになった神さまを冒瀆することである。  そのように、神さまの秩序を壊すという点では、親を扶養することが神のみこころなのにそのみこころに不従順になり、神にささげたから親には何もできない、と言ってのけることも同じである。たとえ、大声を出して悪口を親に投げつけなくても、そのように妙な宗教行為に走って親を扶養しないならば、やっていることは同じ、死に値する、というのが、イエスさまのおっしゃりたいことである。  昨年7月の安倍元首相の暗殺以来、連日マスコミをにぎわしている某宗教団体は、家族を顧みないで自分たちの信じる神に献身するように信者たちを導いている。もちろん、私たちキリスト教会も、異端ではなく、正統な信仰を持っていれば安全圏にいると安心していてはならない。親を大切にしないように教える教会はろくなものではない。それは、イエスさまが語っておられるとおりである。私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、子どもや若者に対し、親を大切にすることをしっかり教える群れでありたい。  イエスさまのみことばの結論部分に当たる13節。このような、対神関係と対人関係において最も大事なみことばに反することを教えているあなたがた宗教指導者たちは、一事が万事、あらゆる面でみこころにかなわないことを人々に強いている、というわけである。  ここまでみことばを読んできて、私たちは自分の信仰態度において、何を振り返る必要があるだろうか? 私たちが神さまに対して「従順」の実践と固く信じてきたものが、案外そうではなかったり、また逆に、もっとお従いすべきことをないがしろにしてきてはいなかったか……そういうことを考え直す必要がないだろうか? もちろん、そのように私たちを悔い改めに導くみことばはたくさん、聖書に記録されている。しかし、その根底にあるものは、「神の愛」である。神が愛であるゆえに、私たちは神を愛し、神のおつくりになり、そばに置かれた人を愛する。その愛が単に表面的なだけのものになり、規則さえ守っていればそれで充分と考えたり、規則を守れない人をさばいたりしていなかっただろうか?  私たちの教会にも、いろいろなしきたりがあろう。よその教会はもっと自由になやっているからと、それらのしきたりを無条件になくすべきだ、というのは乱暴な話である。そのしきたりをある程度大事にすることで保たれる秩序があることも確かである。  しかし、意味も考えずしきたりを機械的に守ることを大事にして、それを守れない人をさばくというのは、明らかにちがう。礼拝というものは来さえすればいいのではない。献金というものはお金をかごに入れさえすればいいというものではない。毎日の聖書通読やお祈りも、心を込めないお勤めのようにして持ちさえすればいいわけではない。  今日は、私たちの形式的になってしまっている歩みを振り返り、悔い改めるひとときを持とう。形を守るよりもみことばを学ぶことを大事にしよう。行うこと一つ一つが、神との交わりをもって行うものへと変えられるよう、祈ろう。

「主を仰ぎ見て輝く」

招詞;ヨハネの福音書1:1~5/祈祷/使徒信条/交読;詩篇121:1~8/主の祈り/讃美;讃美歌66「聖なる聖なる聖なるかな」/聖書箇所;詩篇34:5/メッセージ/讃美;聖歌418「あなたの罪あやまちは」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父・御子・御霊の」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 人は危険を感じたら、身を守る行動に出る。よく言われているのは、熊に出会ったら死んだふりをする……もっとも、あれは嘘らしい。そんなことをしたらいのちが危ないから、よい子のみなさんは真似をしないように。 そういうわけで人はいのちの危機に瀕したら、死に物狂いでいのちを守る。いのちを守るのに死に物狂いとはこれいかに? といった感じだが、とにかく人は死に物狂いで自分のいのちを守る。今日のみことばは、ダビデがとっさに取った行動、「死に物狂いでいのちを守った行動」がその背景にある。 今日のみことばは詩篇34篇5節である。週報のコラムにも少し書いたが、このみことばは私がバプテスマを受けた、埼玉県にある北本福音キリスト教会で使っていた「口語訳聖書」によれば「主を仰ぎ見て光を得よ」と訳されている。当時の主任牧師だった小田彰先生は書道をたしなむ方で、先生が「主を仰ぎ見て光を得よ 詩篇34篇5節」と揮毫された色紙が、わが家にあった。そのころ母は何かにつけて私のことを「みことばを用いて」叱り飛ばしたもので、そのときよく「主を仰ぎ見て光を得よ、でしょ!」などと言っていたので、正直、このみことばにいい想い出がなかった。 それが変わったのは、高校2年生になって松原湖バイブルキャンプに行き、「主を仰ぎ見ると……輝いた」と、新改訳聖書で訳されているのを知ってからだった。そうか、新改訳聖書ではこう訳すのか、説教がましくなくていいじゃん……。別に口語訳聖書を批判しているわけではなく、高校生だった当時の私が素直に感じたままを表現したまで。そのキャンプは歌って踊って、とにかくみんな輝いた。テーマソングからして「主を仰ぎ見ると 仰ぎ見ると 輝いた」なんて、手話つきで歌ったりして盛り上がったものである。 このみことば、詩篇34篇の書かれた背景は、表題を見ればわかる。まだ王位に就く前のダビデが、自分のいのちを守るためにとんでもない行動に出た、ということがあった。表題にアビメレク、とあるが、これは創世記にも登場する、異民族の王の称号。アブラハムやイサクはそのアビメレクを前にして、アビメレクは自分を殺すにちがいないと思って、妻を妹だと偽る言動に出るというしくじりをした。サムエル記第一では、その「アビメレク」とは「ガテの王アキシュ」であると書かれている。 サムエル記第一21章10節から15節を見よう。ダビデは、主君サウルにいのちをねらわれ、ガテの王アキシュのもとに落ち延びたと思ったら、アキシュの家来たちが、こいつはイスラエルのダビデです、とアキシュに告げ口し、ダビデは動揺してとんでもない行動に出た。ダビデのこの姿を見よ。そこらじゅう傷をつけまくったり、よだれを垂らしたり。ゴリアテに立ち向かった凛々しい紅顔の美少年が、よだれを垂らす醜態……はっきりいって想像したくない。だれが好きこのんで、こんな奇行に走るものだろうか? もちろん、ダビデのこの行為は演技である。熊を前にしての「死んだふり」のようなものだ。しかし、こんな狂気の行動に及ぶ以上、ダビデはどう弁解しようとも、狂っていた。だいいち、恥ずかしい。恥ずかしかろうが恥も外聞もなく、ダビデは死にものぐるいで恥ずかしい振る舞いをした。 それなら、ダビデは仕方がなく、このような狂気じみた行動に出たのだろうか? いや、そうではない。彼は本来、いるべきではないところにいたのである。のちにダビデは、サウルの手から落ち延びる日々が長引いて、再びアキシュのもとに身を寄せたが、ダビデがそこでしたことは、イスラエルを攻撃したふりをして身を守った、ということである。そうすることでアキシュは、ダビデがいつまでも自分の部下でありつづけるだろうと考えたわけだが、これはいかにも、未来のイスラエルの王としてふさわしくない行動をしたことになる。 ダビデをこのような行動に出させたのも、アキシュがイスラエルに敵対する存在であったからである。そのような、神の民に敵対する者のもとに身を寄せたことは、ダビデにとって間違いであり、それがひいては、ダビデを狂気に駆り立てたといえる。 ダビデがアキシュのところで見出したものは、サウルから逃れられたひとすじの光ではなく、暗闇だった。ダビデは狂気の沙汰という暗闇のなかから、ふたたびサウルのお尋ね者としてさまよう荒野へと追放された。 そんなダビデだったが、この詩篇の告白において、3節、さあ、一緒に主の御名をほめよう、一つになって御名をあがめよう、と呼びかけている。ダビデのお供の者たちは、ダビデのおかげで自分たちも恥を被るという、大変な目にあったわけだが、それでも彼らはダビデと運命をともにしていた。そんな彼らだったが、ダビデは彼らに対し、主をほめたたえようと呼びかけている。そのようにともに主をほめたたえる彼らは、主を仰ぎ見ると、輝いた、と語る。輝くだろう、ではない。もう輝いているのである。論より証拠だ、輝くわれらの姿を見よ。 ダビデもその一行も、アキシュの前で大恥をかいた。暗く落ち込むべきところである。だが、その暗く落ち込むとき、彼らは主を仰ぎ見て輝いた。神さまが味方である。そんな彼らを恥入らせるものは何もない。 私たちも恥をかく。恥を自分からかきたい、という人はあまりいないだろう。どうしたら恥をかかなくてすむようになるかが、私たちにとっての大きな関心事ではないだろうか。 恥ずかしいとはどういうことだろうか? 主の御顔が見えなくなり、落ち込んで暗くなる状態、つまり、主の光を受けて輝かせるべき顔が覆われているということである。主のご栄光を輝かせないで、暗い自分の顔を見せびらかすならば、やはりそれは「罪」のひとつのかたちと言えよう。恥もまた罪のあらわれ。 しかし、私たちが御顔を仰ぐならば、私たちの恥に暗くなった顔は、主の栄光に輝くのである。私たちも恥に巻き込まれることがあろう。それは人であるかぎり避けられない。私たちは罪人、不完全な存在、したがって恥ずかしい罪を犯してしまう。しかし私たちは、身を避けるべき存在、神さまによってその恥ずかしい顔が照らされ、輝く。私たちに恥をもたらす罪は、もはやイエスさまの十字架の上に、釘づけになっているではないか! 十字架におかかりになったイエスさまを見上げよう。裸でのろいを受ける死刑囚。こんな恥ずかしいお姿があるだろうか? しかし、ダビデがやむを得ず自分の身を守るために恥ずかしい行動に出たことと、イエスさまの十字架の恥はあまりに違う。イエスさまは私たちを罪の恥から救うために、ご自身が進んで十字架の恥を負われたのであった。十字架を仰ぎ見よ。もはや私たちが恥に悩む必要はない。十字架を見るとき、私たちは神の栄光に照らされて輝く。 しかし、私たちが輝くことを目指す一方で、私たちの生きる世界は恥と暗闇と混迷の中にある。ヒョンス・リムという牧師を覚えていらっしゃるだろうか? 長年北朝鮮を支援してきたが、金日成を批判したという罪名を着せられて、約3年にわたって北朝鮮の辺境の地にある刑務所で過ごされた韓国系カナダ人の牧師であり、数年前に釈放されたときには、日本でも大きなニュースになった。私は先日、この先生の著書を手に入れた。この本を読めば、暗闇とはどういうことなのかがたちどころにわかる。完全な情報統制、一切の政権批判、一切の独創的な活動が許されない社会、その中で飢えて死んでいこうと、政府は知らん顔。ぜひお読みいただきたいが、ひるがえって私たちはどうだろうか? 私たちは彼らよりもましな社会に生きていると、のうのうとしていられるだろうか? イエスさまはおっしゃった。あなたがたも悔い改めないならば、みな同じように滅びます。 私たちは、この世界が暗闇であることを認めるために、世相に無関心であってはならない。しかし、神さまの御顔よりもこの世の動き、うわさにばかり目を留めていては、私たちは暗くなるしかなかろう。 だからこそ私たちは、主を仰ぎ見て輝く必要がある。では、どうすれば私たちは主を仰ぎ見たことになるだろうか? それは、詩篇119篇105節にあるとおり、ともしび、光なるみことばを見ることである。私たちの世界が暗いのは、みな、光なるみことばを知らないからである。 今日みなさまに、みことばを通読するためのノートをお配りした。かくじのしゅうほうだなをごらんいただきたい。それは、ディボーションと聖書通読が掛け声だけに終わらないで、実際に取り組んでいただくためである。 また、とかく新聞やスマホやテレビに手を伸ばしがちな私たちが、世相を知ることにもましてみことばから学ぶためである。毎日、みことばという宝物の光に照らされることこそ、御顔を仰いで輝くことである。そうして輝きつつ、周りを輝かせる歩みに励んでいく、そのような私たちとなるように。 一年の初めに決心しよう。今年私たちはみことばの光に照らされるために、また、みことばの光によってこの世を照らすために、みことばを読もう。聖書を毎日読んで、みことばの光り輝く宝を見つけよう。