「小犬の信仰」

聖書箇所;マルコの福音書7:24~30/メッセージ/讃美;聖歌631「罪にみてる世界」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、御子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「小犬の信仰」 むかし、私の実家は犬を飼っていた。犬種はパグ、あのブルドッグを小型にしたような犬で、名前は「ゴン太」と名づけた。とにかくよく食べた。ある日、家に戻ってみると、テーブルの上に置いてあった食べ物がみななくなっている。ふと下を見ると、おなかをパンパンにしたゴン太がよたよたと歩いて、ドテ、と横になり、ジョジョジョ、と失禁した。テーブルの上のものをみんなこの子が食べてしまった模様である。そんな犬なものだから、いけないのだが、食事をしているときに、つい食べ物を分けてよこしてやったりしたものだった。すると飛びつき、ゴクッ、と、あまりかまずに飲み込む。 そんな、犬。今日の箇所でイエスさまがお語りになったおことばにも、犬が出てくる。番犬だろうか? ペットだろうか? どうも、マルコの福音書の読者層にとっては、犬が家の中に同居して、飼い主の食卓からパン屑が落ちるのを食べることは、普通に想像できたことのようだった。みなさまの中にも、ペットを飼っていらっしゃる方がおられると思うが、仲間のようでいて同等の地位にはいない、そんなペットの立ち位置を考えながら、今日のみことばを味わってみよう。 24節。イエスさまはここまで、宗教指導者との問答で、彼らの聖書解釈の根本にあるゆがみを指摘された。その聖書信仰のむなしさを取り扱われ、父と母を敬えというみことばへの根本的な従順へと彼らを導かれた。洗わない手で食べることは、神さまへのそういった従順と何の関係もないことを指摘された。しかし、弟子たちにはそのことがまだよくわかっていなかったので、イエスさまは、人を汚すものは外から入るものではなく、中から出てくるものであると語られ、言外に、そのように自分のことを汚すものを生み出す自分自身をきよめていただく必要があることをお語りになった。 こういった議論は、かなり自分自身を消耗するものだったのだろうか? イエスさまが家に入ってだれにも知られたくないと思われたのはなぜか? イエスさまもおひとりになり、お休みになる時間が必要だったようである。私たちも休む時間が必要な時がある。今週の週報に書いたのもそのことに通じるが、私たちは主の御前に休むことによってはじめてほんとうの意味での休息を得て、次の働きに備えることができる。 しかし、周りの群衆は、イエスさまのことを放っておかなかった。イエスさまがそこにおられることを探し当て、われもわれもと迫ってきていたのである。イエスさまはそこを去って、ツロに行かれたが、このみこころについても私たちは考えさせられる。これはのちの日の、使徒たちが、ユダヤ人がイエスさまを受け入れなかったゆえに、異邦人のところに行ったというできごとをほうふつとさせる。この時点で使徒たちは、異邦人のところに行かず、まず優先してイスラエルの失われた羊たちのもとに行きなさいとイエスさまに遣わされている。救いの順序として優先するのは、まずはイスラエル、ユダヤ人であり、それから異邦人である。そういう背景を念頭において、イエスさまがツロに赴かれたということを考えてみよう。 ツロというのは、イエスさまがその時おられたガリラヤからさらに北西の方向、フェニキアという地域の、地中海沿岸の港町である。ガリラヤの人たちはツロの人たちと仲が良くなかった。ガリラヤの人たちはツロの人たちのことを、「悪名高い、私たちの最も苦々しい敵」と呼ぶほどだった。ツロは貿易で莫大な富を得ており、その力で、近接していた農業地域、ガリラヤのことを統制しようとしていた。ウクライナとロシアのことを見ても実感するが、近接する国どうしは支配・被支配の関係をめぐって険悪になることが多い。 イエスさまがわざわざこの地域に赴かれたその背景に、このような論争を繰り広げたとおり、きよめの洗いの儀式を制定することような宗教指導者たちのきよめに関する聖書解釈には問題があることをお示しになるため、ということがあった。「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないこと」と堅く戒められていたペテロが、異邦人のコルネリオを受け入れたのは、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」というみことばをきいたゆえ。イエスさまが異邦人の町ツロに赴かれたということは、律法によって異邦人への救いが限定されていた時代は、いよいよ終わりを告げようとしていたということである。 エペソ人への手紙2章1節と2節、11節と12節に、神の民から見た異邦人とはいかなる存在かということが書かれている。いま、21世紀の日本に暮らす私たちはほぼ、福音というものをユダヤ人から直接聞いて学んでいるわけではなく、イスラエルを除くすべての異邦人がどれほど悲惨な立場なのかということを実感できないでいるだろう。しかし、聖書のみことばから見ると、異邦人とはこのような悲惨な存在である。私たちもそのひとりとして、このツロに住む人たちに思いを馳せてみたい。 25節。イエスさまはツロの地方に赴かれたが、そこでイエスさまはおひとりでリトリートに集中されるわけにはいかなかった。イエスさまのうわさは、この地方までも伝わっていた。女の人がイエスさまのもとにやってきてひれ伏した。 女の人の幼い娘は汚れた霊に取りつかれていた。女性という存在は社会的に疎外されていた。さらに、このおやこはユダヤ人から見れば異邦人であった。さらに言えば、子どもは当時の社会で最も疎外された存在であった。もうひとつ推測できることだが、この女性は夫を伴わないでイエスさまのもとにやってきている。離別したか死別したか、寡婦だったという推測が成り立つ。母親も娘も何重もの意味で疎外されていた。しかし、そんな彼女も、イエスさまにおすがりした。 26節。この女性はギリシア人、シリア・フェニキアの生まれ。ユダヤの神の民の共同体とは、縁もゆかりもない人である。 そんな彼女は、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスさまに願った。母親は、イエスさまならば悪霊を追い出せるということを信じていた。このみことばに先行するマルコの福音書3章8節で、遠くツロからもイエスさまのみわざのうわさを聞いてやってきていた。この女性もまた、そのようなうわさを聞いていたと推測される。いや、もしかしたら、イエスさまがみわざを行われるのを直接見ていたかもしれない。イエスさまが通られるのを見て、いても立ってもいられなくなった。 27節。イエスさまはそんな女性に対して、このようにお語りになった。「まず子どもたちを満腹させなければなりません。」それに続いてこうもおっしゃっている。「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくない」もちろん、子どもというのもの小犬というのも比喩である。婦人よ、あなたは子どもたちがパンを食べている食卓の下をうろつく小犬なのですよ、というわけである。 愛玩犬を育てる文化が定着している21世紀の日本では、「小犬」というと、ついマルチーズとか、チワワとか、そんなかわいいイメージになるかもしれない。しかし、小犬の原語のギリシャ語「キュナリオン」は、かわいい愛玩犬というよりも、単に小さいものを指すだけのことばであり、実際、韓国語の聖書では、この「キュナリオン」を、愛玩犬または幼い犬という意味の「カンアジ」ということばではなく、単に「犬」という意味の「ケ」と訳している。だから、イエスさまが「小犬」と言ったからと、かわいいイメージでおっしゃっているわけではないと考えるべきである。「あなたは犬の立場です」、こう、イエスさまはおっしゃったわけである。 このように、女の人を犬扱いするイエスさまのおことばは、あまりにもつれないと言うべきなのか? しかし、私たちはこういう時、神の前にへりくだるべき自分の身分というものを考えるべきである。イエスさまは何も、「あなたには何の分け前もありません」とおっしゃったのではない。「まずは子どもたちにパンをあげなければなりません」と、恵みを施す順序を語っておられるわけである。 では、子どもたちとはだれか? 神の子、神の家族といえば、まずはイスラエルである。ガリラヤはもちろん、その宗教共同体の領域に入っていて、それまでイエスさまが相手をされていたガリラヤの民、そして彼らを統括する宗教指導者は、神の子どもたちである。彼らはまず、神のみことばというパンによって養われる必要があった。 しかし、そのパンとは、イエスさまが「これは天から下ってきたパンです」とおっしゃったように、もちろんみことばではあるが、宗教指導者たちが人間的に解き明かすみことばではない。神のみことばが受肉してこの世界に私たちとともに住まわれるお方、イエスさまご自身である。この、イエスさまといういのちのパンによって、神の民は最優先で養われる必要があった。 28節。この女性は「主よ」とイエスさまに呼びかけた。イエスさまがこの女性にとっての主であるという告白である。しかし、そのあとの告白が振るっていた。彼女は、自分が「食卓の下の小犬」であると、はっきり認めたのである。さらに、子どもたちのパン屑はいただきます……このように彼女は告白したのであった。 パン屑は、子どもたちがこぼさないで食べるならば、それは「パン屑」とは言わない。「パン」である。それが子どもの口に入らないでこぼれるから「屑」になるわけで、「パンくず」はもともと、ちゃんと「パン」なのである。だが、子どもが行儀が悪いと、つまり、「パン」の価値をわかっていないと、せっかくの食べ物を残したり、「こんなものいらないよ」と、ペットに投げたりする。 ユダヤ人は、いのちのパン、まことのパンであるイエスさまのことが必要なかった。まさにイエスさまを「パン屑」扱いして、床にこぼすような真似をしたのである。それでついには、イエスさまのことを十字架送りにした。しかし、この女性はわかっていた。このお方が神の民の国を離れ、ツロにまで来ておられても、やはりこのお方はすべての民を創造された創造主であり、自分も被造物のひとりとして、イエスさまというパンをいただく分け前にあずかることができる……。 イエスさまがもし、ユダヤの宗教指導者たちの信仰を集めていたならば、このように、異邦人の土地まで赴かれる必要はなかっただろう。だがこの異邦人の土地で、どこまでも悲惨な立場に置かれ、もはや神の恵みにすがる以外に方法のなかったこの女性に会われ、彼女のへりくだり、また信仰をご覧になった。 29節。「そこまで言うのでしたら」……イエスさまは私たちの告白する「ことば」をもって、私たちの信仰を認めてくださるお方である。だから、どんなことばで信仰告白をするかがとても大事である。 「家に帰りになさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエスさまは女性のこの信仰をよしとされて悪霊を追い出された。しかし、直接行って、娘の上に手を置かれたわけではなかったのである。それがイエスさまの方法だった。この女性は、イエスさまがこのようにおっしゃったみことばを即、信じ受け入れる必要があった。 30節。しかし、この女性はイエスさまのことばを信じ、家に帰った。すると彼女が信じ、行動したとおりの結果になっていた。まさに復活されたイエスさまが疑い深かったトマスに対して「見ないで信じる者は幸いです」とおっしゃったとおりである。 この女性の信仰は、今日私たちが持つ信仰の予表であり、また、私たちが持つべき信仰のモデルである。私たちは神さまの前にいろいろ言い訳をしていないだろうか? なぜ、素直にみことばを受け入れることをしないのだろうか? 私たちが信じたとおりに神さまがみわざをなしてくださるということを信じられないのだろうか? 私たちは信仰の共同体でありたい。私たちが毎日聖書を読むのは、そのとおりに神さまが、イエスさまが、今日この日も私たちを通して働いてくださるということを、私たちが信じ受け入れるためである。私たちはあまりにも常識というものに支配されて頑ななので、みことばのとおりになるということが信じられない。だから私たちは、みことばのとおりになるという信仰をまず与えていただき、その信仰を働かせて祈る必要がある。 私たちはほんらい、恵みを受ける資格などない存在だった。しかし、イエスさまは私たちに恵みの門を開いてくださった。イエスさまはまるでパン屑のように、罪人である私たちの地平にまで下りてきてくださったのである。私たちはワンちゃんのごとく、ありがたくイエスさまをいただき、イエスさまの御名によって、みこころにかなうことを祈っていこうではないか。聖書に書かれているとおりのことで、私たちが祈るのを渋っていることはないだろうか? 今日この時間、大胆にイエスさまに求めよう。イエスさまは聴き届けてくださる。