「男ヨセフここにあり」

聖書箇所;マタイの福音書1:18~25/メッセージ題目;「男ヨセフここにあり」/讃美;聖歌77「みつかいのたたえ歌う」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」  人生というものは、つねに順風満帆というわけにはいかない。ときには大変な試練に会うこともある。私たちの中にも、いまこのとき、試練に苦しんでいらっしゃる方がおられるだろう。  イエスさまがお生まれになるときにも、試練、また不条理に苦しんだ人がいた。ヨセフであった。ヨセフが問題に立ち向かっていったからこそ、イエスさまは無事お生まれになられた。このことを私たちはよく考えるべきだろう。このヨセフの姿勢から、私たちは何を学ぶ必要があるだろうか? 今日の本文からともに見てみたい。  第一にヨセフは、大いに悩んだ。そして、さばくよりも思いやることを選んだ。  18節。まだいっしょにならないうちにマリアが妊娠した。当然ヨセフにとっては、どう考えればよいかわからないことであった。  先週私たちは、ルカの福音書のマリアに関するみことばから学んだ。ヨセフのいいなずけマリアは、御使いガブリエルの訪問によって、自分が聖霊によって身ごもるということを知った。  マリアの場合は、妊娠するにあたって直接奇跡のように教えてもらい、そのことを知り、受け入れることができた。しかしヨセフはと言うと、マリアにそのような奇跡が起きたことなど、知る由もなかった。  マリアが、ガブリエルの訪れから間を置かないうちにそのままそのことをヨセフに告げたのか、それとも、おなかがふくらんだり、「つわり」のようなことが起こったりしたのをヨセフが見てわかったのか、聖書は沈黙している。確実なのは、マリアが妊娠したことをヨセフが知ったということである。ヨセフとしてはいったいこのことを、どう理解すればよかったのだろうか? マリアが何と言おうとも、マリアはだれかほかの男の人と関係して妊娠したとしか考えられなかった。  婚約者であるヨセフは、ひとつの決断を迫られていた。それは、神の民らしく、律法に従ってマリアを石打ちの刑に引き出すことであった。旧約聖書レビ記20章10節にあるとおりである。ヨセフの苦悩はここに極まった。妊娠して未婚の母になった、その相手が自分でなかったとは……それゆえに、律法にしたがって石打ちにしなければならないとは……。  ヨセフのこの悩みは、御父の悩みに通じるものがないだろうか? ほんらい人は、神さまと完全な愛の交わりが持てる存在として創造された。しかし人は、罪によって神さまとの交わりが断たれ、神さまはそのきよさゆえに、人間に対し、罪にしたがって死のさばきを下さなければならなくなった。そうでなければ神さまはきよいお方ではないことになる。  しかし、神さまは愛なるお方ゆえに、私たちを死のさばきから救い出さなければならない。この苦悩を、私たちはわかっているだろうか? 私たちが罪を犯すものだが、罪を犯すとき、神さまの苦悩が見えているだろうか? もし、見えていないとすれば、私たちはあまりにも、神さまのきよいみこころが見えていないことになる。  しかし、神さまはさばきと愛を両立させる決断を下された。それがイエスさまの十字架である。ヨセフはこのとき、マリアのみごもっている人が、御父がこの地に送って救い主であることは知る由もなかったが、マリアの胎の中にある人を救うことは、すべての人を救うことにつながった。そう考えると、ヨセフの決断が人類を救ったことになるわけである。 このお方、イエスさまは、のちに、姦淫の罪を犯したことによって石打ちの刑に遭う定めだった女性を救ってくださったとき、さばきか、愛かを激しく問い、イエスさまを罠にかけようとした律法学者やパリサイ人の前で、地面の上にかがんで指でなにやら書いておられた、と聖書は語る。これは、愛とさばきのはざまで苦悩されるお姿ではないだろうか? しかし、やがてイエスさまは地から立ち上がり、あなたがたの間で罪のない者が石を投げなさい、という、だれにも反論できない解答をくださり、彼らを退散させられた。 イエスさまの苦悩は、やがて十字架という形で極限にいたりますが、しかし、その十字架は、信じる人をあらゆる罪の悩みから解き放った。しかし、そこに至るまで、御父もイエスさまも、どれほど苦悩されたことだろうか? ヨセフは、愛と義の間で苦悩された、三位一体なる神さまの悩みを味わった人であり、そういうことからすれば、私たちの従うべき模範のような人物である。私たちもこの世に生きているかぎり、神の愛を前面に出すか、神の義を前面に出すかで悩むことがある。使徒の働き15章の最後のほうに出てくる、マルコを巡ったパウロとバルナバの決裂など、まさにそういう例である。パウロは義をとって彼を退け、バルナバは愛によって彼を受け入れた。 神さまではなく、限界だらけの私たちは、義か愛、どちらかに傾いてしまいがちである。そのような私たちの行く先は、イエスさまの十字架である。十字架こそは、神の義と神の愛がともに実現するところである。私たちはともに十字架を見上げることによって、一致していくことができると確信していこう。    第二のポイント、ヨセフは、マリアを生かす道を選んだ。 19節。……ひそかに離縁する、ということ。こうすれば婚約者であるマリアを、姦通罪で訴える必要はなくなる。もちろん、死なすこともなくなる。 そのかわりマリアは、もう二度とヨセフのもとに戻ってこない。ヨセフは、マリアを永遠に手放すという決断をしたわけである。それでもヨセフは、マリアを生かすようにした。  この箇所でみことばは、ヨセフのことを「正しい人」と評価している。「正しい」とは、みことばに厳格に従うゆえに、愛すべき人を石打ちの刑に引き出すことではない。神さまの創られ、愛しておられる大事ないのちを思いやり、守ること、それが「正しい」ということである。  私たちは「正しい」ということを、厳格なこと、四角四面なことと思ったりしてはいないだろうか? 確かに、「正しい」ということにはそのような側面もあるが、それでは、さばくことはできるかもしれなくても、人を救うことはできない。物事に対して正しいか否かということを判断するにあたって、みことばという判断基準を私たちは時に用いるが、そのような時こそ、なおさら私たちの態度が問われる。私たちはみことばを、人をさばくために用いるのか? それとも、人を救うために用いるのか?  ここで、みことばを適用する際の私たちの姿勢が問われてくる。私たちがもしみことばを、人をさばくために用いるとするならば、それは神さまの喜ばれることなのか、よく考える必要がある。聖書の中でも、箴言やパウロの書簡には、訓戒にあたるみことばがたくさん書かれている。しかしそれらの訓戒を、相手を愛する思いもなくただ闇雲に、聖書にそう書かれているからという理由で人に適用していくならば、それは人をさばくことになってしまう。  たとえば、聖書の中に、働きたくない者は食べるな、という表現が出てくる。しかし聖書にそ 私たちは罪人なのに、そのくせ人をさばきたがる。自分は罪人なのにもかかわらず、人のことを罪人扱いしてやまない。しかしイエスさまは私たちにおっしゃった。ヨハネの福音書13章34節。……イエスさまが愛するように……それは愛する相手のために、十字架にかかって傷ついて死ぬほど、という意味である。文字通り、死ぬほど相手を愛すること、これが、イエスさまが私たちに望んでいらっしゃる愛である。  ヨセフだって、マリアを離縁しようと決断するまで悩んだが、その悩みは「死ぬほど悩んだ」と形容するのがふさわしいだろう。死ぬほど。これが、愛を実践する者の姿勢である。そこからヨセフとしては、精いっぱいの決断をすることができたと言える。  神さまは、私たちが人を愛する者になるようにと求めておられる。それでも私たちは、そう簡単に人を愛する者にはなれないだろう。相変わらず、愛するよりさばくことを選びやすい。それでも私たちは、愛することを目指すものとなりたい。  私のために十字架にかかって死んでくださった、それほどまでに私を愛してくださったイエスさま、このイエスさまの十字架を、いつも思い巡らそう。そして兄弟姉妹を愛する愛を、増し加えていただくように祈ろう。  第三のポイント。ヨセフは、御声を聴いて従うことを選んだ。    20節のみことば。「彼がこのことを思い巡らしていたところ、」いったんはマリアを離縁する決心をしたヨセフだったが、どうしてもこのことを考えずにはいられなかった。ヨセフが御使いの声を聴いたのは、まさにそのような時だった。20節と21節。  ヨセフは悩みのどん底にあった。しかしそのようなときに、神さまのみことばをヨセフは聴いた。御声を聴く。これは、私たちの歩みにとって、基礎の基礎である。それでは、私たちは、御声というものをどのように聞くのだろうか? 礼拝でもいい、毎日のディボーションでもいい、信仰書籍を読む時でもいい、ほかの兄弟姉妹と分かち合いをするときでもいい、私たちはヨセフのような劇的な形ではないかもしれなくても、神さまがみことばを語ってくださる機会の中に、毎日私たちは置かれている。そういう機会の中で、私たちはみことばが聴けるのである。  私たちは悩んでもいい。悩むことは罪ではない。ただし大事なのは、そのような中にあっても絶えず神さまのみことばに耳を傾ける姿勢ではないだろうか? 悩むことにとどまるのではなくて、みことばを聴く。これが私たちのあるべき姿ではないだろうか?  そしてヨセフは、みことばを聴いてどうしたか? みことばで語られたとおりを実行に移した。つまり、マリアを妻として迎えた。どれほど難しいことをしたのだろうか? いや、考えることもできないことだったはずである。何しろ自分の子どもではない子を宿した人を、妻として迎えるのである。みことばに聴いて従うとは、そういう、常識をも超越した神さまのみこころに、人を導くものである。 神さまの御声に聴き従うと、世の中を縛っている常識というものの枠にとらわれなくなる。発想も行動も自由になる。ヨセフはたしかに、本来楽しむべき新婚時代も、マリアと関係を持たずに過ごすしかなかった。しかし、かえって、救い主をこの世に送り出す重大な働きに自分が関わっていることに使命感を持ち、そのような、普通に考えれば相当に不自由な新婚生活を忍んだにちがいない。神さまに聴き従ったヨセフは、実は神さまによって、自由だったといえる。  私たちはどうだろうか?みことばに聴き従う生活を、心のどこかで不自由なものと捉えてはいないだろうか? しかし、イエスさまも宣言されたとおり、真理、みことばの真理は私たちを自由にする。  ヤコブの手紙には、行いのない信仰は死んだものだと書かれている。私たちは聖書のみことばを聴いて、そのまま聴きっぱなしにしてはいないだろうか? あるいは、みことばに従って生きることを、どこかで恐れてはいないだろうか? 私たちはそこから解放され、みことばに従って、神さまのみこころに従って生きる、真の自由を体験していく必要がある。  毎日のディボーションで示されるみことばも、それゆえ、その示されたみことばをいかにして行動に適用していくか、常に求めていこう。みことばを聴く者になろう。そして聴くだけにとどまらないで、行動に移していくものになろう。  最後に、マリアをさらしものに、あるいは石打ちにしなかったヨセフの思いやり、そして語られたみことばに従ったヨセフの信仰ある行動によって、イエスさまが無事この世にお生まれになったことを今一度覚えておこう。このクリスマスの備えのとき、私たちもヨセフのように、あえて自分の損になるようでも人に愛を示し、みことばを聴いて実践するものとなれるように。