「赤ちゃんの主イエス」

招詞;ヨハネの福音書3:16/祈祷/主の祈り/讃美;讃美歌112「諸人こぞりて」/聖書朗読;ルカの福音書2:11~12/メッセージ「赤ちゃんの主イエス」/讃美;讃美歌109「きよしこの夜」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」  私ども水戸第一聖書バプテスト教会の今年最大のニュース、それは、新しいいのちが贈られたことだった。ご覧いただきたい、あのかわいいお顔!  今日、クリスマスは、主イエス・キリストのお生まれをお祝いする日。そう、神の御子、王の王、主の主なるイエスさまは、赤ちゃんだった! まさに、あの子と同じ赤ちゃん。今日はこのことを考えよう。  むかしも今も、子どもという存在は大人に比べると軽い存在、小さな存在として扱われている。聖書の時代、2000年前のユダヤもそうだったし、現代の日本もそうである。いま私ども夫婦は、児童養護施設で勉強を教えるボランティアをしているが、生んだ親さえ顧みてくれない子どもの存在があることに心痛む。  イエスさまは、いきなり堂々とした王さまとして、人々の前に現れたのではない。最初は、おしめを替えてもらう赤ちゃんとしてこの世にお生まれになった。このお姿に私たちは、威厳に満ちた神のありかたをお捨てになったへりくだりを見るものである。  イエスさまが赤ちゃんとしてお生まれになったということから、私たちは2つのことを考えよう。 ①赤ちゃんを見るとき、私たちは幼子として神に召されていることを思い起こそう  聖書は基本的に私たちに、大人であるように勧めている。ただしそれは、物事の考え方においてということであって、悪いことにおいては幼子でありなさい、という。幼子はそもそも、悪事などできない。ここで言うのもはばかられる、悪いことをする赤ちゃんはいない。私たちはあまりにけがれている。イエスさまは、罪を知らない、けがれなき存在としてこの世に来られた。  イエスさまは、神の国を受け入れるにあたって幼子のようでありなさいとおっしゃった。神の国を受け入れるとは、この世をほんとうに治めておられるお方は神さまである、そう受け入れ、神さまのご主権に押した害する、ということである。大人びた人たちはそれを幼いとか、愚かだとか笑うだろうが、神さまはそのように、素直に神の国、すなわち、神さまが王さまとしてこの世界を統べ治めておられることを信じ受け入れるように、私たちのことを招いていらっしゃる。  赤ちゃんのけがれない姿、純真無垢な姿から私たちが学ぶことは、そのように、神の国を受け入れ、神さまに素直にお従いする姿勢を持つべきである、ということである。子どものように神の国を受け入れなさい、という、イエスさまのこの招きに、はい、神さま、私はあなたの子どもです、私はあなたの民です、とお応えする祝福があるように。それは、イエスさまを人生の救い主、王の王、主の主として受け入れ、お従いするところから始まる。 ②赤ちゃんを見るとき、神さまが私たちに備えておられる未来を思おう  イエスさまの伝記である福音書は4つあるが、そのうちの2つが、イエスさまの赤ちゃんの時代から描写している。それは、イエスさまが全くの人としてこの世界に育たれたことを表しているが、それと同時に、福音書を読む人たちが、神の子なる救い主イエスさまはこれからどのように育っていかれるのだろうか、と、イエスさまの未来を思い浮かべながらお読みするように読者を導いている。  赤ちゃんを見てみよう。赤ちゃんがにっこり笑うのを見るならば、だれもが心洗われすがすがしくなり、ほのぼのする。このメッセージのあとにみんなで歌う「きよしこの夜」の3番は、「みこの笑みに 恵みのみ代の あしたのひかり 輝けり 朗らかに」と歌う。赤ちゃんの主イエスの笑顔は、神さまがもたらしてくださる未来を示す。その未来とは、神さまがイエスさまによって、この世界を救ってくださる、素晴らしい未来である。  しかし、イエスさまを待っておられるのは、実際には過酷な未来だった。私たち人間を罪と死から救うために、十字架におかかりになるさだめが待っていた。それでも、赤ちゃんのイエスさまがもし、普通の赤ちゃんのように笑っておられたのだとするならば、それは何も知らない純真無垢な笑いではなく、わたしの存在によって人々が救われるということに、喜びを抱いておられたからだと言えないだろうか?   イエスさまはやがて十字架におかかりになったが、イエスさまの十字架を信じる私たちのことを救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださった。私たちは相変わらず罪びとだが、イエスさまはこのような私たちのことをしのんでくださり、なお愛してくださっている。イエスさまを救い主と受け入れるならば、イエスさまはいつまでも、私たちの心の中に住まってくださり、やがて私たちを、永遠の御住まい、天国に入れてくださる。  そのような、神さまがもたらしてくださる素晴らしい未来、人々を罪から救ってくださる未来を、それは、イエスさまが赤ちゃんだったときに、すでに始まっていた。私たちは赤ちゃんに目を留めて、そのような素晴らしい未来を見るものとならせていただきたいものである。ぜひ、あとで「きよしこの夜」を歌うとき、神さまが私たちに与えてくださる未来に目を留めるものとなろう。

「男ヨセフここにあり」

聖書箇所;マタイの福音書1:18~25/メッセージ題目;「男ヨセフここにあり」/讃美;聖歌77「みつかいのたたえ歌う」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」  人生というものは、つねに順風満帆というわけにはいかない。ときには大変な試練に会うこともある。私たちの中にも、いまこのとき、試練に苦しんでいらっしゃる方がおられるだろう。  イエスさまがお生まれになるときにも、試練、また不条理に苦しんだ人がいた。ヨセフであった。ヨセフが問題に立ち向かっていったからこそ、イエスさまは無事お生まれになられた。このことを私たちはよく考えるべきだろう。このヨセフの姿勢から、私たちは何を学ぶ必要があるだろうか? 今日の本文からともに見てみたい。  第一にヨセフは、大いに悩んだ。そして、さばくよりも思いやることを選んだ。  18節。まだいっしょにならないうちにマリアが妊娠した。当然ヨセフにとっては、どう考えればよいかわからないことであった。  先週私たちは、ルカの福音書のマリアに関するみことばから学んだ。ヨセフのいいなずけマリアは、御使いガブリエルの訪問によって、自分が聖霊によって身ごもるということを知った。  マリアの場合は、妊娠するにあたって直接奇跡のように教えてもらい、そのことを知り、受け入れることができた。しかしヨセフはと言うと、マリアにそのような奇跡が起きたことなど、知る由もなかった。  マリアが、ガブリエルの訪れから間を置かないうちにそのままそのことをヨセフに告げたのか、それとも、おなかがふくらんだり、「つわり」のようなことが起こったりしたのをヨセフが見てわかったのか、聖書は沈黙している。確実なのは、マリアが妊娠したことをヨセフが知ったということである。ヨセフとしてはいったいこのことを、どう理解すればよかったのだろうか? マリアが何と言おうとも、マリアはだれかほかの男の人と関係して妊娠したとしか考えられなかった。  婚約者であるヨセフは、ひとつの決断を迫られていた。それは、神の民らしく、律法に従ってマリアを石打ちの刑に引き出すことであった。旧約聖書レビ記20章10節にあるとおりである。ヨセフの苦悩はここに極まった。妊娠して未婚の母になった、その相手が自分でなかったとは……それゆえに、律法にしたがって石打ちにしなければならないとは……。  ヨセフのこの悩みは、御父の悩みに通じるものがないだろうか? ほんらい人は、神さまと完全な愛の交わりが持てる存在として創造された。しかし人は、罪によって神さまとの交わりが断たれ、神さまはそのきよさゆえに、人間に対し、罪にしたがって死のさばきを下さなければならなくなった。そうでなければ神さまはきよいお方ではないことになる。  しかし、神さまは愛なるお方ゆえに、私たちを死のさばきから救い出さなければならない。この苦悩を、私たちはわかっているだろうか? 私たちが罪を犯すものだが、罪を犯すとき、神さまの苦悩が見えているだろうか? もし、見えていないとすれば、私たちはあまりにも、神さまのきよいみこころが見えていないことになる。  しかし、神さまはさばきと愛を両立させる決断を下された。それがイエスさまの十字架である。ヨセフはこのとき、マリアのみごもっている人が、御父がこの地に送って救い主であることは知る由もなかったが、マリアの胎の中にある人を救うことは、すべての人を救うことにつながった。そう考えると、ヨセフの決断が人類を救ったことになるわけである。 このお方、イエスさまは、のちに、姦淫の罪を犯したことによって石打ちの刑に遭う定めだった女性を救ってくださったとき、さばきか、愛かを激しく問い、イエスさまを罠にかけようとした律法学者やパリサイ人の前で、地面の上にかがんで指でなにやら書いておられた、と聖書は語る。これは、愛とさばきのはざまで苦悩されるお姿ではないだろうか? しかし、やがてイエスさまは地から立ち上がり、あなたがたの間で罪のない者が石を投げなさい、という、だれにも反論できない解答をくださり、彼らを退散させられた。 イエスさまの苦悩は、やがて十字架という形で極限にいたりますが、しかし、その十字架は、信じる人をあらゆる罪の悩みから解き放った。しかし、そこに至るまで、御父もイエスさまも、どれほど苦悩されたことだろうか? ヨセフは、愛と義の間で苦悩された、三位一体なる神さまの悩みを味わった人であり、そういうことからすれば、私たちの従うべき模範のような人物である。私たちもこの世に生きているかぎり、神の愛を前面に出すか、神の義を前面に出すかで悩むことがある。使徒の働き15章の最後のほうに出てくる、マルコを巡ったパウロとバルナバの決裂など、まさにそういう例である。パウロは義をとって彼を退け、バルナバは愛によって彼を受け入れた。 神さまではなく、限界だらけの私たちは、義か愛、どちらかに傾いてしまいがちである。そのような私たちの行く先は、イエスさまの十字架である。十字架こそは、神の義と神の愛がともに実現するところである。私たちはともに十字架を見上げることによって、一致していくことができると確信していこう。    第二のポイント、ヨセフは、マリアを生かす道を選んだ。 19節。……ひそかに離縁する、ということ。こうすれば婚約者であるマリアを、姦通罪で訴える必要はなくなる。もちろん、死なすこともなくなる。 そのかわりマリアは、もう二度とヨセフのもとに戻ってこない。ヨセフは、マリアを永遠に手放すという決断をしたわけである。それでもヨセフは、マリアを生かすようにした。  この箇所でみことばは、ヨセフのことを「正しい人」と評価している。「正しい」とは、みことばに厳格に従うゆえに、愛すべき人を石打ちの刑に引き出すことではない。神さまの創られ、愛しておられる大事ないのちを思いやり、守ること、それが「正しい」ということである。  私たちは「正しい」ということを、厳格なこと、四角四面なことと思ったりしてはいないだろうか? 確かに、「正しい」ということにはそのような側面もあるが、それでは、さばくことはできるかもしれなくても、人を救うことはできない。物事に対して正しいか否かということを判断するにあたって、みことばという判断基準を私たちは時に用いるが、そのような時こそ、なおさら私たちの態度が問われる。私たちはみことばを、人をさばくために用いるのか? それとも、人を救うために用いるのか?  ここで、みことばを適用する際の私たちの姿勢が問われてくる。私たちがもしみことばを、人をさばくために用いるとするならば、それは神さまの喜ばれることなのか、よく考える必要がある。聖書の中でも、箴言やパウロの書簡には、訓戒にあたるみことばがたくさん書かれている。しかしそれらの訓戒を、相手を愛する思いもなくただ闇雲に、聖書にそう書かれているからという理由で人に適用していくならば、それは人をさばくことになってしまう。  たとえば、聖書の中に、働きたくない者は食べるな、という表現が出てくる。しかし聖書にそ 私たちは罪人なのに、そのくせ人をさばきたがる。自分は罪人なのにもかかわらず、人のことを罪人扱いしてやまない。しかしイエスさまは私たちにおっしゃった。ヨハネの福音書13章34節。……イエスさまが愛するように……それは愛する相手のために、十字架にかかって傷ついて死ぬほど、という意味である。文字通り、死ぬほど相手を愛すること、これが、イエスさまが私たちに望んでいらっしゃる愛である。  ヨセフだって、マリアを離縁しようと決断するまで悩んだが、その悩みは「死ぬほど悩んだ」と形容するのがふさわしいだろう。死ぬほど。これが、愛を実践する者の姿勢である。そこからヨセフとしては、精いっぱいの決断をすることができたと言える。  神さまは、私たちが人を愛する者になるようにと求めておられる。それでも私たちは、そう簡単に人を愛する者にはなれないだろう。相変わらず、愛するよりさばくことを選びやすい。それでも私たちは、愛することを目指すものとなりたい。  私のために十字架にかかって死んでくださった、それほどまでに私を愛してくださったイエスさま、このイエスさまの十字架を、いつも思い巡らそう。そして兄弟姉妹を愛する愛を、増し加えていただくように祈ろう。  第三のポイント。ヨセフは、御声を聴いて従うことを選んだ。    20節のみことば。「彼がこのことを思い巡らしていたところ、」いったんはマリアを離縁する決心をしたヨセフだったが、どうしてもこのことを考えずにはいられなかった。ヨセフが御使いの声を聴いたのは、まさにそのような時だった。20節と21節。  ヨセフは悩みのどん底にあった。しかしそのようなときに、神さまのみことばをヨセフは聴いた。御声を聴く。これは、私たちの歩みにとって、基礎の基礎である。それでは、私たちは、御声というものをどのように聞くのだろうか? 礼拝でもいい、毎日のディボーションでもいい、信仰書籍を読む時でもいい、ほかの兄弟姉妹と分かち合いをするときでもいい、私たちはヨセフのような劇的な形ではないかもしれなくても、神さまがみことばを語ってくださる機会の中に、毎日私たちは置かれている。そういう機会の中で、私たちはみことばが聴けるのである。  私たちは悩んでもいい。悩むことは罪ではない。ただし大事なのは、そのような中にあっても絶えず神さまのみことばに耳を傾ける姿勢ではないだろうか? 悩むことにとどまるのではなくて、みことばを聴く。これが私たちのあるべき姿ではないだろうか?  そしてヨセフは、みことばを聴いてどうしたか? みことばで語られたとおりを実行に移した。つまり、マリアを妻として迎えた。どれほど難しいことをしたのだろうか? いや、考えることもできないことだったはずである。何しろ自分の子どもではない子を宿した人を、妻として迎えるのである。みことばに聴いて従うとは、そういう、常識をも超越した神さまのみこころに、人を導くものである。 神さまの御声に聴き従うと、世の中を縛っている常識というものの枠にとらわれなくなる。発想も行動も自由になる。ヨセフはたしかに、本来楽しむべき新婚時代も、マリアと関係を持たずに過ごすしかなかった。しかし、かえって、救い主をこの世に送り出す重大な働きに自分が関わっていることに使命感を持ち、そのような、普通に考えれば相当に不自由な新婚生活を忍んだにちがいない。神さまに聴き従ったヨセフは、実は神さまによって、自由だったといえる。  私たちはどうだろうか?みことばに聴き従う生活を、心のどこかで不自由なものと捉えてはいないだろうか? しかし、イエスさまも宣言されたとおり、真理、みことばの真理は私たちを自由にする。  ヤコブの手紙には、行いのない信仰は死んだものだと書かれている。私たちは聖書のみことばを聴いて、そのまま聴きっぱなしにしてはいないだろうか? あるいは、みことばに従って生きることを、どこかで恐れてはいないだろうか? 私たちはそこから解放され、みことばに従って、神さまのみこころに従って生きる、真の自由を体験していく必要がある。  毎日のディボーションで示されるみことばも、それゆえ、その示されたみことばをいかにして行動に適用していくか、常に求めていこう。みことばを聴く者になろう。そして聴くだけにとどまらないで、行動に移していくものになろう。  最後に、マリアをさらしものに、あるいは石打ちにしなかったヨセフの思いやり、そして語られたみことばに従ったヨセフの信仰ある行動によって、イエスさまが無事この世にお生まれになったことを今一度覚えておこう。このクリスマスの備えのとき、私たちもヨセフのように、あえて自分の損になるようでも人に愛を示し、みことばを聴いて実践するものとなれるように。

「マリアとはどんな人だったか」

聖書の教えに人々が触れるとき、理解できない、となる事柄として、「イエスさまの復活」とならぶものに、「マリアの処女懐胎」があるであろう。これは実際、あるミッション・スクール出身の人から聞いた話だが、その学校の「聖書」の授業では、「イエスさまの処女懐胎も、復活も、信じたければ信じてもいいが、事実というわけではない」というふうに教えているという。そういう聖書教育を受けた子どもたちはいったいどのように育つのだろう、と、暗澹となるが、ミッション・スクールにしてそうなのだから、いわんやこの世の一般的なとらえ方においてはどうだろうか。  今日の箇所は、マリアは処女にして身ごもったと、はっきり語っている。このみことばをきちんと受け入れるとき、私たちは聖書のことばをすべて、誤りなき神のみことばとして受け入れることができる。とても大事な箇所である。  それでは本文の学びにまいりたい。神さまは主イエスの母としてマリアをお選びになった。マリアがどんな特別さを備えていたから主がお選びになったかは詮索できなかろう。神のみぞ知る、といったところ。ただし、このように神さまに選ばれたマリアはどんな人だったか、私たち信仰者にとってどんかモデルかを知るのは必要なことである。  マリアとはどんな人だったかということは、今日の本文の、御使いとのやり取りから知ることができる。マリアは御使いの取り次ぐ神のことばに対し、3つの反応を見せている。順に見ていって、私たちにとっての模範となるマリアの態度から学びたい。  第一にマリアは、みことばに驚き、考えた。  26節。不妊の人だったエリサベツに子どもが与えられたという大きなできごとのその6か月後、神の御使いガブリエルがマリアのところに来た。マリアはダビデの子孫であるヨセフと婚約していたが、あくまで婚約で、男性経験はなかった。婚前交渉、婚外交渉が当たり前になっているこの世の価値観からかけ離れているだろうか? しかし、これが本来あるべき姿。私たちはこの原則を大事にし、子どもたちにも教えたい。  28節。そんなマリアのもとに御使いが現れた。それだけでも驚くべきことだが、ガブリエルはマリアに、なんと告げたのだろうか?「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29節を見よう。マリアが戸惑ったのは、御使いの告げたことばに対してだった。マリアは、御使いがいきなり現れたことに驚いたともいえようが、御使いの語ったことばの意味はなんだろう、と、驚き、考えたわけである。  それはそうである。何がおめでとうなのだろう? どうして私は恵まれているのだろう? 主がともにおられるとは、どういうことだろう? わかるだけでも、3つも疑問が湧き上がっている。みことばとは、私たちをして驚かせるものである。人間世界ではふつう体験できない奇跡の記述。それがほんとうにあったのか! と受け止めるとき、聖書の登場人物がおぼえた驚きに近づける。  しかし、みことばとは、驚かせるものにとどまらず、考えさせるものである。マリアの場合を見てみると、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ、とある。マリアを驚かせたものは、その神のことばが、ほかならぬ、自分に語られたものだった、ということ。  そこでマリアは考えるしかなかった。私が、こんなふうに、おめでとうなんて言われる理由などあるかしら。私は恵まれているのかしら。いと高きお方である主が、私などと一緒におられるものかしら。  私たちに、この「頭」というものが与えられているのは、自分で考えることが主のみこころだから。神さまがみことばで驚きを与えてくださったら、私たちの側のあるべき反応は「考える」こと。その反応を主は喜んでくださり、もっとよくみことばがわかるように、知恵をくださる。  私たちはみことばに「驚いて」いるだろうか? みことばを座右に置く素晴らしさがいつの間にか当たり前になって、その書かれていることに「驚く」ことを忘れてしまってはいないだろうか? そして、私たちは、みことばを読むたびに「考えて」いるだろうか? もちろん、究極的に言ってしまえば、みことばの意味を悟らせてくださるのは聖霊なる神さまで、私たちの知恵によるのではないのだが、しかし、悟りに至るまでに私たちが自分の頭でみことばを思い巡らすことを、神さまはよしとしていらっしゃる。それでこそ、私たちは、じぶんにあたえられたみことばをじぶんのものとしていただくことができる。願わくは、みことばに驚き、みことばを考える恵みがつねに与えられるように。  第二にマリアは、みことばの意味を問うた。  30節。御使いはマリアの戸惑いを見て取った。そこでまず御使いが語ったことは、「恐れることはありません」ということばである。マリアには、この世の何ものにも比較できないほど確実な神のみことばが与えられるのに、恐れていてはならないでしょう、と、御使いはマリアを励まし、力づけている。恐れるな、ということばは、神から離れているゆえに不安になることおびただしい私たち人間に対する、神さまからのプレゼントである。  そしてガブリエルは、あなたは神から恵みを受けている、と語った。特別な選びの恵みを受けたというわけである。神さまのみこころによって「私が」選んでいただいた、これが私たちの信仰の神髄である。  31節。ガブリエルは、マリアが処女にして身ごもることを告げた。空前絶後の奇跡が起こるというわけである。しかも生まれるのは男の子で、その名前まで、なんとつけるべきかが告げられた。イエス、神は救いである、という名前。  32節。このイエスという子は、いと高き方の子、すなわち、神の子としてこの世にお生まれになり、住まわれる方というわけである。しかし、人とは無関係な、ただ高きにいますだけの存在ではなく、神である主によってダビデの王位、すなわち、永遠に神の民を統べ治める王の王としての地位を備えていらっしゃる、というわけである。  33節。ヤコブの家とは、創造主なる神の民。血筋によるのではなく、神を信じる信仰によって神さまと契約を結んだ民を「ヤコブの家」と呼んでいる。このお方は永遠に支配される。  以上のことは、ユダヤ人、わけてもダビデの子孫としてダビデにつながる立場から、偉大なる先祖ダビデを思うかんきょうにつねにあった自分自身、そして、同じくダビデを父祖とするヨセフに嫁ぐ者として、よくわかっていたことだろう。しかし、よりにもよって、自分からそのようなメシアが生まれようとは……。  マリアはこのみ告げの内容にも戸惑っただろう。しかし、34節にあるとおり、マリアは、正規の結婚に至っておらず、したがって男性経験もないのに、なぜ自分が妊娠するのが、と、とまどったわけである。  みことばが臨むのは、人間の常識でありえない、全能なる主のみこころを、人間にお示しになるためである。しかしそれは往々にして、人間の理解を超えるものである。さて、そのようなみこころが示されたら、私たちはどう反応すべきなのだろうか?  マリアを見よう。そんなことはありますまい、と反応したのではない。マリアはみことばを疑ったわけではない。  さきほど、知り合いの通っていたミッション・スクールの話をしたが、はじめに疑いありきで、神のみことばさえもそういう疑いの対象に含めて読む人がいるものであり、キリスト教会におけるその立場を「自由主義神学」というが、私たちは、その「自由主義神学」のような、神のみことばを疑いありきで読むことは、ふさわしくないという立場を堅持している。マリアは、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言っているが、神のみことばは嘘だと、言下に否定しているわけではないことを確認しておきたい。  だからといってマリアは、何も考えずに、はい、そのとおりです、と反応したのでもない。つまり、マリアはみことばを鵜呑みにしていない。みことばに対して、アーメン、そのとおりです、と受け入れる信仰は必要だが、それと、何も考えないで鵜呑みにすることとはちがう。  あまりにも理解できないことは、そのままにしなくていい。マリアは御使いに、あまりに意外なみことばが、なぜ起こるのか、と問うた。私たちの見習うべき姿勢である。あまりに高きにおられる聖なる神のみことばは、いかにこの世界に下られて語られるみことばであろうとも、みな理解できるべくもない。その意味はなんですか、とお尋ねすることが大事である。ここに、みことばを研究する意義が出てくる。  十二弟子もイエスさまにお尋ねした。すると、イエスさまは教えてくださった。使徒の働きに登場するべレアの信徒たちも、パウロの教えを鵜呑みにしないで、果たしてそのとおりか、毎日聖書を調べた、とある。その姿勢は私たち、聖書を学ぶべく召された者たちにとっての模範である。世の中の動きを知るには新聞やニュース番組を見るだろう。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。また、私たちは読書をする。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。仕事で必要な資料を調べる。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。そのように、「学」べく召されている私たちは、この世界に変わらずに神として君臨されるそのお方のご存在とみこころとみわざを、毎日、みことばに問い、みことばに学ぶのである。  みことばがわからないことを仕方がないと思っていないだろうか?「問う」姿勢を大事にしよう。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。神さまは必ず、みことばの深い意味を積極的に尋ね求める私たちに、ふさわしい形で教えてくださる。  第三にマリアは、みことばに謙遜な姿勢で従った。  いまお話ししたとおり、マリアはみことばの意味を問うたが、それに対して御使いは答えている。35節。たとえ処女であろうと身ごもるのは、神さまの力によるものだということである。それゆえ、あなたは身ごもり、生まれる子どもは聖なる者、神の子である。  36節。これはマリアを具体的に説得する事実である。マリアはもちろん、親類であるエリサベツが子どもを宿せない悩みを抱えていたことを知っていた。しかし、そのエリサベツが無事に身ごもっているという事実を知らされた。そして畳みかけるように37節。  マリアは説得された。38節、マリアのことばを見よ。まず、自分のことを、主のはしためと告白している。いちばん低い立場にある女性である。これは別の訳の聖書では「仕え女」であり、神に仕える立場にある、神に仕えてこそあるべき立場にある、ということ。  なにかと人からほめられたい、尊敬されたい、仕えられたいと思うのが、私たちではないだろうか? そんな私たちは、マリアのこのへりくだった姿勢にならうべきだ。  そして、おことばどおりこの身になりますように……これは大変な告白である。何よりも、未婚の母で生きるのが神のみこころなら、そうします、という、大変な決意の表明である。この従順の結果、婚約者のヨセフは去るかもしれない。お腹が大きくなったら、人々は私のことを石打ちの目に合わせるかもしれない……そんな可能性もあったわけだ。  しかし、ここでマリアが信仰を働かせることができたのは、神さまは、これほどのお方を誕生させてくださる以上、ぜったい、自分のことを守ってくださる、ということを、みこころとして受け取っていたからである。イエス・キリストは、どんな人間的な逆境が予想されようと、誕生するのが神のみこころである以上、必ず生まれる。したがって、みごもって産む私も守られる……。  このような絶対の従順を生む信仰は、キリストについてのみことばを聞くことから始まる。その聞く姿勢は、さきほども触れたとおり、わからないことをわからないままにせず、しっかり尋ねるところにも現れている。蒔かぬ種は生えぬ、というが、聞かぬみことばは信仰にならぬ、といったところだ。イエスさまのお祈りにあるように、永遠のいのちとは、唯一まことの神である御父と、御父が遣わされたイエス・キリストを知ることだが、永遠のいのちを自分のものにさせていただくために、神を知るには、みことばを読むしかない。みことば読むこと以上に、神を知り、永遠のいのちに生きる道はない。  私たちは、従順という祝福を受けるまで、みことばに聴くことをやめないでいるだろうか? どうかみことばを聴く、みことばに聴く私たちでありたい。そして、みことばに従う力をつねに謙遜に求める私たちでありたい。

「バプテスマへの導き」

聖書箇所;使徒の働き8:26~40/メッセージ題目;「バプテスマへの導き」/讃美;聖歌634「山ゆくも海ゆくも」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてととともにありますように。アーメン。」 私が初めて教会に行った日は、うちの兄がバプテスマを受けた日だったと記憶している。すでに兄は、私よりも1か月前から、母とともに教会に通っていた。教会に行ってすぐに信仰を持った兄に、牧師先生はすぐバプテスマを授けましょう、ということになった。バプテスマが執り行われたのは、ちょうど今日と同じくアドベントのときで、クリスマスの讃美を礼拝で歌ったのを強く記憶している。1987年の12月のことであるから、ちょうど35年前、もう35年も前になるが、そのとき、水の中に次々と決心者が沈められるのを見て、なんだかすごいことをするんだなあ、という、強烈な印象を持った。 今日は礼拝において、バプテスマが執り行われる。そこで今日は、バプテスマを執り行うことの意味を、聖書に記録されたバプテスマ執行の実例から学んでみたい。 まず、ピリポが荒野であるガザに宣教に赴いたのは、主の霊的な導きがあったからである。宣教とは、神さまを主と信じ告白する、キリストのからだのひと枝となる人を新たに立て上げることであり、ピリポはエルサレムにほど近いガザに居ながらにして、はるか遠くの国の民、エチオピアの高官に宣教するように導かれたわけであった。7章に記録されたステパノの殉教を機に教会はエルサレムから散らされたわけだが、次の8章でピリポはサマリアに宣教を展開し、さらにはエチオピアにまで至ったわけである。使徒の働き1章8節のみことばは早くも成就しかかったわけだが、これぞ全能なる聖霊さまのお働きである。 しかし、主のお導きというものは、人間の考えを超える。サマリアで宣教をして、それがある程度実を結んだところで、ピリポが導かれた先は荒野の道であった。そこに教会をつくるのであろうか。そうではなく、ピリポは、このエチオピアの宦官に会うためだけに、荒野の道に導かれたようだった。主の導きは、ひとりの人に注目させるということを、私たちは知る必要がある。私たちは今、この教会に集っているが、神さまは私たちのことを「群れ」とは見られない。ひとりひとりに注目してくださっている。ピリポをして、荒野の宦官に注目させてくださった主は、世界の果てのようなこの日本にいる私たち一人一人に注目してくださっている。 ピリポが御霊に導かれるままに宦官のいる馬車に走っていくと、果たして、宦官は聖書、それも、イザヤ書53章のみことばを読んでいた。宦官は礼拝者としてエルサレムに赴き、その帰りであった。すなわち、彼は異国の人でありながら、イスラエルの神である私たちの神さまを信じていたわけである。そしてその高い地位にある者らしく、極めて貴重な聖書の写本を所有し、それを朗読していた。 しかし、宦官は答えた。「導いてくれる人がなければ、どうしてわかるでしょうか。」宦官は確かに、神さまを恐れる人だった。それはエルサレムに巡礼に行くほどの行動となっていた。 しかし、宦官はみことばが理解できていなかった。とりわけ、イエスさまのことがわからなかった。いかに神さまを恐れているといっても、イエスさまの十字架が理解できていなければ充分ではない。 この宦官は謙遜だった。「導いてくれる人がいなければ、どうしてわかるでしょうか」というのは、自分はみことばの意味が分からない、ということを正直に認めた上に、自分は導きをしてくれる人を必要としている、と告白する、謙遜な姿勢の表れである。ここからわかることは、イエスさまに対する信仰は、はっきりそれと導いてくれる人が必要である、ということである。 宦官の読んでいたのはイザヤ書53章であった。ピリポは、このみことばが語る人物とは、イザヤ自身のことではなく、イエスさまのことだと解き明かし、そう彼に教えた。そうである。導いてくれる人がいなければ、私たちの救いを左右する大事なみことばも、わからなくなってしまうわけである。しかしこの宦官は幸いなことに、イザヤ書53章に始まり、聖書の啓示するイエスさまの福音を聞き、イエスさまに対する信仰を持つに至った。 このように、イエスさまに対する信仰を持つには、導いてくれる存在が必要なわけである。すなわち、教会の兄弟姉妹の存在が必要である。教会の中でもこの者が、特に牧師という立場でみなさまにみことばをお語りしているが、みことばを教える働きをするのは牧師や宣教師にかぎらない。だれもが毎日、みことばから教えられているわけで、そのみことばを互いに分かち合うとき、私たちは教え、教えられる、麗しい関係を体験するのである。 イエスさまは父なる神さまへのお祈りの中で、このようにおっしゃった。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」そう、聖書に教えられ、父なる神さまとイエスさまを知れば知るほど、私たちに与えられている永遠のいのちのすばらしさをさらに知るに至り、より一層、神さまに感謝するようになる。 この感謝にあふれた生活をするうえで、私たちはこの教会という共同体の中で、みことばが解き明かされ、その解き明かしが教えられるという体験が必須である。 かくして宦官は、みことばの解き明かしを受け、イエスさまの十字架をはっきり理解するように導かれた。すると宦官は、水のある場所を見つけ、バプテスマを受けさせていただきたい、と言った。宦官はこの教えを受けるプロセスで、イエスさまを主と信じ告白するように導かれた。そして、そのようにイエスさまを信じ告白した者は、バプテスマを受けるものであるということを受け入れていた。宦官は時を移さず、ピリポに頼んで、バプテスマを受けた。イエスさまの十字架がわかれば、バプテスマを受けよという主のみこころに従順になれる。逆に言えば、バプテスマというものは、みことばからしっかり、イエスさまの十字架に対する理解をしてこそ受けられるものである。 ピリポがこのように、宦官にバプテスマを授けると、聖霊さまはピリポを連れ去られた。それは、宦官の拠り頼むべき対象が、ピリポという人間ではなく、神さまご自身であるということを示している。 今日バプテスマを受けるのは、うちの娘でもあるが、今は親の監督下にあり、同時にここ水戸第一聖書バプテスト教会の牧師の監督下に置かれているわけだが、いつかは、進学なり就職なり結婚なりの理由で、ここから離れることにもなろう。そのとき私が主に問われることは、私が娘のことを、私との関係ではなく、主との関係の中で育ててきたか、ということである。主との関係の中で育っているならば、ここを離れても精神的に私に依存するという、ふさわしくない状態にはなく、とても好ましい。 それは私たちにとっても同じことで、私たちにとってこの教会は、それぞれが主との関係を深め、主の御前に徹底して生きる生き方を実践するうえで、必須の環境だが、私たちは牧師も含め、教会のだれかに依存するわけではない。私たちが主の弟子としてこの世において振る舞うにあたり、職場に牧師を連れて行くわけにはいかない。それぞれが神さまとの関係がしっかりできている必要がある。 教会とは、その生き方をするために、主の教えをいただく場である。私たちはこの共同体の中で、日々みことばから教えられる。それが、主にあって独立したクリスチャンとして私たちを成長させる原動力となり、私たちはそこから、共依存ではなく相互依存、主の栄光が成し遂げられるために、互いを必要とし、互いのために歩む麗しさを形づくる。 また、聖霊さまがピリポを宦官の前から別の場所に連れ去られたこの場面は、旧約聖書列王記第二の、神さまがエリヤのことをその弟子のエリシャの前から連れ去られたシーンをほうふつとさせるが、エリヤとエリシャの場合は、エリヤが去ったことを、エリシャが悲しんで着ていた服を引き裂いたりしているが、ピリポと宦官の場合は、宦官が喜んでいる。喜びに導けたということにおいて、この宣教は成功であった。 パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」とも、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」とも言っている。実に喜ぶこと、すなわち、主にあって喜ぶことは、私たちキリスト者の旗印である。バプテスマを受けて、身も心も主のものとなったことほど喜ばしいことはない。今日のバプテスマの恵みに、教会一同でともに感謝し、喜ぼう。 私たちがバプテスマを受けた時のことを想い出そう。それ以来いただきつづけてきた、数えきれない主の恵みに思いを巡らそう。