「バプテスマへの導き」

聖書箇所;使徒の働き8:26~40/メッセージ題目;「バプテスマへの導き」/讃美;聖歌634「山ゆくも海ゆくも」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてととともにありますように。アーメン。」 私が初めて教会に行った日は、うちの兄がバプテスマを受けた日だったと記憶している。すでに兄は、私よりも1か月前から、母とともに教会に通っていた。教会に行ってすぐに信仰を持った兄に、牧師先生はすぐバプテスマを授けましょう、ということになった。バプテスマが執り行われたのは、ちょうど今日と同じくアドベントのときで、クリスマスの讃美を礼拝で歌ったのを強く記憶している。1987年の12月のことであるから、ちょうど35年前、もう35年も前になるが、そのとき、水の中に次々と決心者が沈められるのを見て、なんだかすごいことをするんだなあ、という、強烈な印象を持った。 今日は礼拝において、バプテスマが執り行われる。そこで今日は、バプテスマを執り行うことの意味を、聖書に記録されたバプテスマ執行の実例から学んでみたい。 まず、ピリポが荒野であるガザに宣教に赴いたのは、主の霊的な導きがあったからである。宣教とは、神さまを主と信じ告白する、キリストのからだのひと枝となる人を新たに立て上げることであり、ピリポはエルサレムにほど近いガザに居ながらにして、はるか遠くの国の民、エチオピアの高官に宣教するように導かれたわけであった。7章に記録されたステパノの殉教を機に教会はエルサレムから散らされたわけだが、次の8章でピリポはサマリアに宣教を展開し、さらにはエチオピアにまで至ったわけである。使徒の働き1章8節のみことばは早くも成就しかかったわけだが、これぞ全能なる聖霊さまのお働きである。 しかし、主のお導きというものは、人間の考えを超える。サマリアで宣教をして、それがある程度実を結んだところで、ピリポが導かれた先は荒野の道であった。そこに教会をつくるのであろうか。そうではなく、ピリポは、このエチオピアの宦官に会うためだけに、荒野の道に導かれたようだった。主の導きは、ひとりの人に注目させるということを、私たちは知る必要がある。私たちは今、この教会に集っているが、神さまは私たちのことを「群れ」とは見られない。ひとりひとりに注目してくださっている。ピリポをして、荒野の宦官に注目させてくださった主は、世界の果てのようなこの日本にいる私たち一人一人に注目してくださっている。 ピリポが御霊に導かれるままに宦官のいる馬車に走っていくと、果たして、宦官は聖書、それも、イザヤ書53章のみことばを読んでいた。宦官は礼拝者としてエルサレムに赴き、その帰りであった。すなわち、彼は異国の人でありながら、イスラエルの神である私たちの神さまを信じていたわけである。そしてその高い地位にある者らしく、極めて貴重な聖書の写本を所有し、それを朗読していた。 しかし、宦官は答えた。「導いてくれる人がなければ、どうしてわかるでしょうか。」宦官は確かに、神さまを恐れる人だった。それはエルサレムに巡礼に行くほどの行動となっていた。 しかし、宦官はみことばが理解できていなかった。とりわけ、イエスさまのことがわからなかった。いかに神さまを恐れているといっても、イエスさまの十字架が理解できていなければ充分ではない。 この宦官は謙遜だった。「導いてくれる人がいなければ、どうしてわかるでしょうか」というのは、自分はみことばの意味が分からない、ということを正直に認めた上に、自分は導きをしてくれる人を必要としている、と告白する、謙遜な姿勢の表れである。ここからわかることは、イエスさまに対する信仰は、はっきりそれと導いてくれる人が必要である、ということである。 宦官の読んでいたのはイザヤ書53章であった。ピリポは、このみことばが語る人物とは、イザヤ自身のことではなく、イエスさまのことだと解き明かし、そう彼に教えた。そうである。導いてくれる人がいなければ、私たちの救いを左右する大事なみことばも、わからなくなってしまうわけである。しかしこの宦官は幸いなことに、イザヤ書53章に始まり、聖書の啓示するイエスさまの福音を聞き、イエスさまに対する信仰を持つに至った。 このように、イエスさまに対する信仰を持つには、導いてくれる存在が必要なわけである。すなわち、教会の兄弟姉妹の存在が必要である。教会の中でもこの者が、特に牧師という立場でみなさまにみことばをお語りしているが、みことばを教える働きをするのは牧師や宣教師にかぎらない。だれもが毎日、みことばから教えられているわけで、そのみことばを互いに分かち合うとき、私たちは教え、教えられる、麗しい関係を体験するのである。 イエスさまは父なる神さまへのお祈りの中で、このようにおっしゃった。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」そう、聖書に教えられ、父なる神さまとイエスさまを知れば知るほど、私たちに与えられている永遠のいのちのすばらしさをさらに知るに至り、より一層、神さまに感謝するようになる。 この感謝にあふれた生活をするうえで、私たちはこの教会という共同体の中で、みことばが解き明かされ、その解き明かしが教えられるという体験が必須である。 かくして宦官は、みことばの解き明かしを受け、イエスさまの十字架をはっきり理解するように導かれた。すると宦官は、水のある場所を見つけ、バプテスマを受けさせていただきたい、と言った。宦官はこの教えを受けるプロセスで、イエスさまを主と信じ告白するように導かれた。そして、そのようにイエスさまを信じ告白した者は、バプテスマを受けるものであるということを受け入れていた。宦官は時を移さず、ピリポに頼んで、バプテスマを受けた。イエスさまの十字架がわかれば、バプテスマを受けよという主のみこころに従順になれる。逆に言えば、バプテスマというものは、みことばからしっかり、イエスさまの十字架に対する理解をしてこそ受けられるものである。 ピリポがこのように、宦官にバプテスマを授けると、聖霊さまはピリポを連れ去られた。それは、宦官の拠り頼むべき対象が、ピリポという人間ではなく、神さまご自身であるということを示している。 今日バプテスマを受けるのは、うちの娘でもあるが、今は親の監督下にあり、同時にここ水戸第一聖書バプテスト教会の牧師の監督下に置かれているわけだが、いつかは、進学なり就職なり結婚なりの理由で、ここから離れることにもなろう。そのとき私が主に問われることは、私が娘のことを、私との関係ではなく、主との関係の中で育ててきたか、ということである。主との関係の中で育っているならば、ここを離れても精神的に私に依存するという、ふさわしくない状態にはなく、とても好ましい。 それは私たちにとっても同じことで、私たちにとってこの教会は、それぞれが主との関係を深め、主の御前に徹底して生きる生き方を実践するうえで、必須の環境だが、私たちは牧師も含め、教会のだれかに依存するわけではない。私たちが主の弟子としてこの世において振る舞うにあたり、職場に牧師を連れて行くわけにはいかない。それぞれが神さまとの関係がしっかりできている必要がある。 教会とは、その生き方をするために、主の教えをいただく場である。私たちはこの共同体の中で、日々みことばから教えられる。それが、主にあって独立したクリスチャンとして私たちを成長させる原動力となり、私たちはそこから、共依存ではなく相互依存、主の栄光が成し遂げられるために、互いを必要とし、互いのために歩む麗しさを形づくる。 また、聖霊さまがピリポを宦官の前から別の場所に連れ去られたこの場面は、旧約聖書列王記第二の、神さまがエリヤのことをその弟子のエリシャの前から連れ去られたシーンをほうふつとさせるが、エリヤとエリシャの場合は、エリヤが去ったことを、エリシャが悲しんで着ていた服を引き裂いたりしているが、ピリポと宦官の場合は、宦官が喜んでいる。喜びに導けたということにおいて、この宣教は成功であった。 パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」とも、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」とも言っている。実に喜ぶこと、すなわち、主にあって喜ぶことは、私たちキリスト者の旗印である。バプテスマを受けて、身も心も主のものとなったことほど喜ばしいことはない。今日のバプテスマの恵みに、教会一同でともに感謝し、喜ぼう。 私たちがバプテスマを受けた時のことを想い出そう。それ以来いただきつづけてきた、数えきれない主の恵みに思いを巡らそう。