「聖書が存在する理由」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:30~31/メッセージ題目;「聖書が存在する理由」  本という本には、みな存在する目的があります。ミステリ小説は、読者に対するお説教ではなく、トリックと種明かしによって読者を面白がらせることにその存在する目的があります。自己啓発本は、読むことでより目的意識を持って仕事ができるようになること。詩集や画集は、情緒的に豊かになること。辞典(事典)は調べもの。教科書や参考書は勉強のため。マンガ本は気分転換のため。  そこで……私たちの手にしている聖書、この本は何のために存在するかを、今日は聖書自身の証言から確かめてみたいと思います。  まず、30節から見てみましょう。このみことばによれば、イエスさまはヨハネの福音書に記録されている以外にも、多くのわざを行われたということが明らかにされています。しかしそれらのみわざを、ヨハネはあえて記録しなかったということでした。  たしかに、弟子たちの前でということにかぎっても、イエスさまが行われたみわざのうち、このヨハネの福音書に記録されていないみわざはいろいろ存在します。 しかし、イエスさまの行われたみわざは、ヨハネの福音書どころか、四福音書、いや、旧新約聖書全体にも収録しきれるものではなかったと考えるのが自然ではないでしょうか? といいますのも、このヨハネの福音書の締めくくりに当たるみことば、21章25節には、このようにあるからです。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」  イエスさまのみわざは膨大です。それをみことばという形で人が読んで理解するには、聖霊なる神さまが聖書の書き手に働いて、イエスさまのみことばとみわざを取捨選択させられるしかありません。そうでないと、一生かけてもイエスさまのみわざを理解できないことになります。  そういうわけで、聖書はイエスさまのみわざすべてを収録した書物ではありません。しかし、イエスさまのみわざの記録が適切に編集された書物ではあります。私たちにとってみことばは、必要最小限の分量であると同時に、十分な分量です。それ以上の分量は必要なく、それ以下の分量では足りません。  聖書の終わり、ヨハネの黙示録の22章18節、19節に、このようなことが書かれています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」  なんともぞっとするみことばですが、要するに、みことばから足したり引いたりするような人は、天国の民、神の民としてふさわしくない、というわけです。言うまでもなくみことばは、私たちがこの地上を生きている間だけ必要なもので、この地上からいのちが取り去られたら、そもそもこうして聖書という本を手にする形でみことばを読むことなどないわけです。みことばを聞きたければ、神さまに直接お聞きすれば済む話ですし、地獄に落ちたら、みことばを聞いていのちを保つことなど一切かないません。 要は生きているかぎり、神さまが必要十分の分量で与えてくださった旧新約66巻のみことば全体を認め、読むことです。それでこそ私たちは神の民、神の子どもとして生きていくことができます。  では、このようにヨハネをはじめとした聖書の記者が、イエスさまのおことばとみわざを、聖書のみことばという形で編集するように聖霊なる神さまに促されたその目的は何でしょうか? それは31節に書いてあるとおりです。  31節をお読みします。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」  私たちはイエスさまのことを、キリストと告白しています。なぜならば、イエスさまは私たちにとって救い主、キリストであられるからです。しかし、聖書やキリスト教会がそのように呼んでいるからでしょうか、一般的にもイエスさまのことを、イエス・キリストと呼ぶのについてはどうでしょうか? もし、自分にとってイエスさまが救い主でもないのに、「イエス・キリスト」ですとか「キリスト」と呼んでいるならば、それは厳密に言えばおかしいことです。  ただし、この「イエス・キリスト」という呼び名、もしくは「キリスト」といえば「イエスさま」のことを当然指すものだという常識は、文明開化とともにキリスト教の文化が日本に入ってきて定着したものです。その背後には、長い時間をかけて培われてきた欧米のキリスト教会の歴史が存在し、欧米の文化ではふつうにイエスさまのことを「イエス・キリスト」ないしは「キリスト」とお呼びするので、日本もそれにならった、と言えましょう。  このように、イエスさまのことを「キリスト」であるという前提で受け取っているならば、クリスチャンでなくても、イエスさまは見るからに神々しい方と映るかもしれません。しかし、日本人にとっては神がかって見えれば何でも有難いと思えるように、イエスさまもあらゆるカミやホトケと同等の存在くらいにしか受け取られない、ということも有り得るわけです。  しかし聖書は、もちろん、そんなレベルでイエスさまのことを紹介しているわけではありません。そこで私たちは、聖書が書かれた目的、イエスはキリストであることを信じさせるために書かれた、ということについて、もう少しよく考える必要があります。  キリスト、救い主というお方はただひとりです。神のひとり子の神が、神を解き明かされ、このひとり子の神を通して、唯一の父なる神に至るのです。救い主の資格があるのは、神のひとり子イエスさまだけです。それが、イエスさまがキリストであるということです。  世の中の人たちは、慣習的にイエス・キリストと呼んでいます。それはもしかすると、イエスさまはのちのキリスト教の文化・文明のおおもとになった人物だからと、それ相応の敬意を込めて呼んでいるからかもしれません。しかし、イエスをキリストと「呼ぶかどうか」よりも、「信じるかどうか」が、私たち人間にとってはもっと大きな問題になります。  多くの日本人は「イエス・キリスト」と呼んでいても、実際に帰依している存在は、神社のカミだったり、ホトケとして祀られている先祖だったりします。そういう人が「キリスト」と呼んでも、実体はないことになります。しかし聖書を読み、「道であり、真理であり、いのちである」お方はただひとり、イエスさまだけだと知って、イエスさまを唯一の救い主と受け入れるなら、そのとき初めて人は、「イエスがキリストである」と信じることになるのです。  そうは言いましても、イエスさまをひとたびキリストと受け入れたら、それで終わりなのではありません。一生かけて信じつづける必要があります。イエスさまはひとたび受け入れれば、それで信仰が完成するわけではありません。少しでもうかうかしていると、この世の攻撃、あるいは懐柔にさらされ、私たちはいとも簡単に信仰を捨てる道を選んでしまいます。  イエスがキリストであると信じる。それは、つねにこの世のあらゆる罪のわなから救ってくださる救い主であることを信じつづけることを意味します。目に見えないお方とお交わりする上で必要なものは、信仰です。イエスさまが目に見えるお方だったら、信仰というものを働かせる必要などありません。 しかし、イエスさまは目に見えないゆえに、私たち人間の側で信仰を働かせるという行動が神さまから求められています。これは、行いによって救いを勝ち取る、ということではありません。私たちはみことばをお読みして、イエスさまが私たちのことを救ってくださったことを信じ受け入れました。しかし、そのように自分のことを救ってくださったイエスさまとの交わりを引きつづき持つには、こちらからイエスさまに近づく必要があります。 小さな子どもがお父さん、お母さんに守ってもらうために、駆け寄っていく、その厳しくも優しいことばを聞く、こういうことを「行い」と言ったらおかしいです。親としては、子どもに来てほしい。それだけ。信仰を働かせるとは、そのように親元に行くようなことです。自分のもとに来る子どもを親が守るように、神さまは、御許に来る神の子どもたちを守って、養ってくださいます。 さて、では、イエスさまを信じることはどのような意味があると、この31節のみことばは語っていますでしょうか?……そうです、「信じて、イエスの名によっていのちを得るため」とあります。聖書の存在する目的は、聖書を読む人が、イエスさまがキリスト、自分の救い主であると信じて、イエスさまの御名によっていのちを得るため、ということです。 イエスさまを信じるということは、一回こっきりで終わることではありません。信じつづける必要があるわけです。と申しますのも、人は何かの拍子に信仰をなくしてしまうことがあるからです。もちろん、主はおっしゃいました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」だから、いちどイエスさまを心に受け入れたら、イエスさまが出ていかれるということはありません。イエスさまご自身が、あなたを決して離れないとおっしゃっている以上、そうなのです。 しかし、肝心の受け入れた側の人間は、つねに移ろいやすい、弱い存在です。イエスさまがそばにいてくださる、ともにいてくださる、そんなことも忘れてしまうほど、落ち込んでしまうことなどしょっちゅうの、弱い存在です。なぜ、そうなるのでしょうか? それは、イエスさま以外のものを見てしまうからです。 イエスさまは大波の湖の上を歩いて、十二弟子の乗った舟へと近づかれました。すごいことでしたが、ペテロはイエスさまに近づきたい一心で、私のことをみそばに近づかせてください、湖の上を歩かせてください、と、イエスさまに申し出て、聞き入れられました。そしてペテロが湖に足を踏み出すと、あら不思議、ペテロも湖の上を歩いてしまいました。しかし……ペテロは湖面の波を見て、われに返ったのでしょうか、助けて! おぼれかかってしまいました。イエスさまはペテロを助け起こされ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑うのか」とお叱りになりました。 湖面を問題なく歩いていたペテロは、なぜおぼれかかったのでしょうか? イエスさまではなく、波を見たからです。ペテロがイエスさまを一心に見つめて歩いたならば、何の問題もありませんでした。おぼれたのは、湖面の波を見たからです。しかし、よく考えると、ペテロは常識的なことをしたのではないでしょうか? いったいだれが、湖の上を歩くというのでしょうか? 大きく波打ったら、こわがるのは当然のことではないでしょうか? しかし、そのような常識は、イエスさまを見させなくするもので、その結果私たちは、イエスさまのみわざを体験することができなくなります。ペテロは、イエスさまを見つめたのと同時に、イエスさまのみことばに対して信仰を働かせました。イエスさまのおっしゃるとおりと信じて、湖の上へと一歩を踏み出しました。 私たちもまた、全能なる創造主、イエスさまのみことばだけを信じて踏み出すならば、何の問題もありません。その信仰を砕くものは、多くの場合は人間的な常識です。 私たちが信仰を働かせるとき、それはキリストにある永遠のいのちをいただきつづけるということを意味します。十字架による罪の赦しは、あるいは信じられるかもしれません。いちおう、キリスト教はそのことを教えているということは、常識となっているからです。しかし、復活と永遠のいのちがいただけるということに関しては、それ相応のふさわしい信仰がないと信じ受け入れることはできません。 聖書ははっきりと、キリストが復活されたように私たちも復活すること、信じる私たちに永遠のいのちが与えられることを語っています。聖書のみことばは、そのいのちをいただいて私たちが永遠に神さまとともに生きるようにと、私たちのために書かれたものです。だから、私たちがもし、生きたい、生きる喜びを体験したい、と思うなら、聖書のみことばをつねに読むしかありません。 クリスチャンを名乗る人の中には、まるで覇気のない人、目が輝いていない人がいます。ほんとうに残念なことです。そういう人たちも聖書を読んで、自分に与えられた永遠のいのちの素晴らしさに目が開かれ、生き生きした人になれるようにと願うものですが、これまたなんとも残念なことに、そういう人は得てして、聖書に手を伸ばしたくはないものです。かくして、ずっと覇気がないままに、クリスチャンとは名ばかりの生き方をするしかなくなります。 私たちはこの信仰共同体の中に、ひとりでも、いや、ひとりも、そんな人を生み出さないようにしたいものです。私たちがもし聖書を読んでいるならば、どんなに聖書から教えられていのちの喜びを得ているか、ぜひ、交わりの中で、積極的に分かち合っていただきたいのです。以前うちの教会でよく行われていました、礼拝の中でのお証しをしたいという方は歓迎いたします。 それとも、いつもみことばから教えられて喜びをいただいてはいるものの、なにぶんこのコロナ下で交わりを持つこともままならない、とおっしゃいますでしょうか? ならば、せめて牧師に証しのメールなりお手紙なり送っていただければと思います。コピーして、みなさまにメール配信して分かち合います。 そのような分かち合いをとおして、みことばを読もうにも読む気が起こらないで苦しんでいる兄弟姉妹も、みことばの恵みに触れることができます。あるいは、すでにみことばを読む習慣が身に着きながらも、みことばを読む喜びがいまひとつ湧き上がってこない兄弟姉妹にも、新しい恵みが与えられて、ともに喜びます。普段からみことばをお読みして喜んでいる兄弟姉妹は、よりいっそう喜ぶことになります。 私たちが、救い主イエスさまにつながっていのちを得るために与えられた必要十分なみことば……私たちが手にしている聖書は、実に素晴らしいものです。今日も聖書のみことばからともに学び、いのちの喜びが得られたことに感謝しましょう。そして、これからも聖書を学びましょう。この1週間も、毎日聖書を開き、聖書に教えられたとおりの生き方を実践し、神さまのご栄光を顕しましょう。私たち、迷う者、弱い者を導き、励まし、力づける聖書のみことばを与えてくださっている神さま、イエスさまの御名を、心からほめたたえます。ハレルヤ!

「不信仰から信仰へ」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:24~29/メッセージ題目;「不信仰から信仰へ」 うちの教会は長年、創造論という主義のもと、教会形成がなされてきました。私もそれに共感して、この教会に導かれてきたわけですが、創造のみわざを事実という前提で福音提示する創造論は、疑い深い部類の人に対しては、かなりのインパクトを及ぼすものだと思います。 しかしそれはあくまで、どこかで信じる心の準備ができている人の場合です。私は高校2年生のとき、創造論について書かれた本に夢中になり、修学旅行で、部屋で一緒になった友人たちに、その本から教えられたことを説いて聞かせたものaでした。すると、どうなったでしょうか。彼らに鼻で笑われました。「鰯の頭も信心だねえ」などと言ってのける友人までいました。そのとき私が悟ったことは、初めから疑いを捨てようとしない人には何を言っても無駄だ、ということです。 今日の箇所に登場するトマスの場合はどうでしょうか? ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』という小説の中で、このトマスの疑いを巡って、登場人物に、「トマスは信じたかったのだ」という意味のセリフを語らせ、トマスの疑いを語るこのみことばに対する深い含蓄を示していますが、それでも、トマスがイエスさまの復活を疑っていたという事実に変わりはありません。 しかしトマスは、それで終わりではありませんでした。イエスさまはそんな疑り深いトマスに顔と顔を合わせて会ってくださり、正しい信仰に導いてくださいました。私たちは、トマスを正しい信仰に導いてくださったイエスさまの愛とみこころから、何を学ぶことができるでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 第一に、復活のイエスさまに出会わないなら、人は疑いから抜けられません。 24節、25節をお読みしましょう。……トマスは何を言いたかったのでしょうか? あなたたちはイエスさまを見たと言っている、しかし私は、実際に触れてみるまでは信じない、と言っているわけです。 このトマスのことばからは、いろいろなことが見えてきます。まず見えてくるのは、トマスが信仰を働かせるよりも現実を優先させるタイプの人だった、ということです。よく、疑いを抱きたがる人をトマスになぞらえることが多いのも、まさにこのみことばが根拠になっています。 しかし、私たちならばどうでしょうか? 私たちは果たして、トマスのことを不信仰だなどと言えるでしょうか? 科学の発達は世の中を便利にした一方で、実証されないものは真実ではないと決めつけ、私たちの聖書信仰をきわめて空疎なものにしてしまいました。その風潮に多くのクリスチャンが毒されてしまっています。天地創造ばかりか、イエスさまのことさえもリアルにとらえられなくなっています。あの数々の奇蹟は事実ではないとか何とか。私たちがトマスを見るとき、それは私たちクリスチャン自身の姿を見ていることなのです。 また、先週学びましたとおり、復活のイエスさまは、教会という信徒の群れ、主の弟子の群れのただ中に現れてくださいます。トマスが復活のイエスさまに会えなかったのは、その弟子たちの群れの中に一緒にいなかったことも理由として挙げられます。 私たちが礼拝をおささげする日曜日のことを、主の日、主日(しゅじつ)とも申します。その日に礼拝をおささげするのは、なんといっても、イエスさまの復活された日であり、イエスさまのご復活を覚えるという意味があるからです。実に日曜日の礼拝は、復活のイエスさまに出会い、礼拝する日です。 トマスは、その最初の日曜日に復活のイエスさまに出会うことができませんでした。それもこれも、弟子たちの群れに一緒にとどまらなかったからです。私たちにとって日曜日の礼拝にしっかり出席することがなぜ大事かというと、そのことでともに復活のイエスさまにお会いし、イエスさまを礼拝できるからです。したがって日曜日に礼拝に集わないならば、イエスさまに出会う機会がそれだけ失われることになってしまうわけで、これは重大です。 とは言いましても、いま世の中はコロナ下で、礼拝堂のような同じ建物にともに集うことが物理的に無理な人のとても多い状況です。うちの教会の場合はメール配信という形で、ご家庭で礼拝できるように工夫しているわけですが、もし礼拝堂に来られなくてメールで礼拝、という形になった場合でも、忘れないでいただきたいことは、私たちは主の子どもどうし、たとえ場所は離れていても、ともに礼拝に集っている、ということです。日曜日にメールに向き合うことは、水戸第一聖書バプテスト教会の信徒たちとともに復活のイエスさまに出会っていることだと考えていただきたいのです。 ほかにも、トマスのことばからわかること……トマスはなんと言っているかというと、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れなければ……」と言っています。 言うまでもなくその釘の跡、槍の跡は、イエスさまが十字架にかかられたゆえにできたものです。ここからトマスは、イエスさまが十字架にかかって死なれたという事実に、非常に固執していることが見て取れます。 先生とも主ともお慕いしてきたイエスさまが十字架に手足が釘づけられ、脇腹に槍でとどめが刺されたなど、弟子たちとしては耐え難い事実でした。しかし彼ら弟子たちは、いつまでもイエスさまの十字架にこだわっていてはなりませんでした。なぜならば、イエスさまは復活されたからでした。 イエスさまの復活が心になかったならば、私たちはいつまでも、イエスさまの十字架の残酷さから目を離すことができません。イエスさまの十字架を心に留めることは大事なことにはちがいありません。イエスさまの十字架がなければ、私たちは罪を赦されることも、神さまの子どもになることもなかったからです。私たちを愛してくださるゆえに、イエスさまがどれほど十字架の上で傷つかれ、血潮を流されたか……それを心に留めるのは大事なことです。 しかし、それにとどまっているだけなら、私たちに何の希望があるでしょうか。イエスさまは復活されたのです。イエスさまが復活されたからこそ、イエスさまの十字架には意味があったとさえ言えます。私たちは十字架を信じるだけではありません、復活も信じ受け入れているゆえに、罪が死に、永遠のいのちに生かされているのです。 世の中は、イエスさまの十字架を知っています。十字架のアクセサリーをする人は多くいますが、十字架とはイエスさまがおかかりになったものだということは、みんな知っています。 しかし、イエスさまの復活となるとどうでしょうか? イエスさまが復活されたという最も大事なことを、単なる信仰上の問題と片づける記述に、私はしょっちゅう出会ってきました。『キリスト』なんていう子ども向きの伝記の本があるので気になって読んでみたら、十字架のことは書いていても、復活に関しては、弟子たちの間で復活の信仰が生まれたことがキリスト教のはじまりとなった、とか何とか、復活がまるで事実ではないように書いています。しかし、そんな信仰など意味があるのでしょうか? トマスは、疑り深い人であり、弟子たちの群れとともにいなかったために復活を目撃できなかった人であり、なおも十字架にこだわっていた人でした。そのいずれも、イエスさまの復活を見させなくする理由としては充分であり、その3つの要素がすべてそろったトマスは、もはやイエスさまの復活を信じるなど、とても不可能でした。 私たちもまた、不信仰に走らせるもの、復活を見させなくするものに生活が取り囲まれています。疑り深くあるようにというこの世の風潮に毒されること、復活をともに祝う教会の群れに距離を置いてしまうこと、聖書を読んでもイエスさまの十字架ばかりに目を向けて復活は二の次となってしまうこと……しかし、そもそも復活というものを目撃したことのない私たちは、いとも簡単にそのような不信仰に陥ってしまうものです。このような私たちを主が救ってくださるとしたら、それはどのようにしてでしょうか? 第二のポイントです。復活のイエスさまに出会えば、人は無条件に信じ受け入れます。 26節から28節をお読みしましょう。……イエスさまの復活を信じるということは、それこそ無条件になのです。 トマスは、鍵を閉めて閉じこもっていたはずのその家にイエスさまが現れてくださったという、その事実に圧倒されました。それだけではありません。イエスさまはトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」とお語りになりました。 イエスさまはなんと、あらかじめトマスと会ってお話しされたわけでもないのに、トマスがいちばんこだわっていたことに触れられ、言い当てられました。イエスさまにはすべてお見通しでした。そしてイエスさまはおっしゃいました。 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 なぜ、イエスさまの復活を信じない者ではなく、信じる者になりなさいとイエスさまはおっしゃったのでしょうか? それは、イエスさまの復活を信じない人は不幸だからです。喜びも楽しみも、うれしさもありません。そんな人になりたいとだれが思うでしょうか? しかしイエスさまは、ご自身についてくる弟子たちに、この世の何をもってしても奪い去ることのできない喜び、この世の何ものも与えることのできない喜びを与えてくださいます。どのようにしてでしょうか? ご自身の復活によってです。 復活を受け入れていないクリスチャンは、この世の中で最も哀れな存在です。この世で苦しむだけ苦しんで、イエスさまの復活にあずかることもわからないなんて、こんな不幸なことはありません。 あえてこの世の人たちが避けるような苦しい道をクリスチャンたちがあえて歩もうとするのは、その苦しみなど比較にならないほどの喜びを、イエスさまの復活にあずかることによって手に入れているからです。イエスさまの復活にあずかるならかぎりなく喜ぶだけではありません。この世において神の栄光を現すために、積極的に用いられていこう、一粒の種となろう、と、大いなる人生に踏み出す力が与えられます。 そうです。イエスさまに用いられるためには、イエスさまの復活を信じる信仰というものがどうしてもなくてはなりません。しかし、そのように用いられたいと願う原動力は、信仰を持っていることそのものという「事実」にあるというよりも、その信仰から出た「喜び」から来るものと言えます。 トマスはイエスさまを前にして、もはやイエスさまの傷跡に触れる必要を感じなくなっていました。十字架へのこだわりは、復活という事実の前に消し飛びました。気がつくとトマスは、「私の主、私の神よ」と告白していました。 さて、お気づきでしょうか。このときトマスは、単独でイエスさまに出会ったのではありませんでした。弟子たちの群れの中、交わりの中で、イエスさまに出会ったのでした。ここでも、イエスさまに出会うことは、神の子どもたちの群れ、弟子たちの群れ、教会の交わりの中で起こることだということがわかります。 私たちはときに、仕事ですとか病気ですとか、のっぴきならない事情で教会の礼拝を休むことがあります。そんなとき私たちは、心のどこかに責められるような思いをすることはないでしょうか? しかし、安心していただきたいのです。私たちはまた次の機会に、信徒の交わりの中に出ていって、復活のイエスさまに出会う体験をすることが許されています。それはまさに、復活の日にイエスさまにお会いできなかったトマスに、今度こそイエスさまにお会いできる機会を、イエスさまご自身がくださったようにです。 この箇所を読むと、イエスさまはまさに、トマスの不信仰を取り扱われるためということが最大の目的のようにして、弟子たちのただなかに現れてくださったように読み取れます。トマスのため。しかしこのトマスの信仰告白は、今なお怖れに震えて扉に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち全体を喜ばせ、励ますことにもなったのでした。 ひとりの人がふさわしい復活信仰に導かれ、生きた人となることをみんなで目撃する、このことは弟子たちの群れに、計り知れない喜びを与えたのではないでしょうか? イエスさまが弟子たちの群れのただなかでこの立ち帰りの御業を行われたのは、トマスひとりのためではありません。トマスを説得できかねて困っていた弟子たち、だんだんとイエスさまの復活の事実が薄らいでまたもや怖れにとりつかれかかっていた弟子たちのことも、同時に励ましてくださるためでした。 礼拝という時間は、自分ひとりだけが復活のイエスさまに出会って喜んでそれで終わり、の時間ではありません。ほかの兄弟姉妹が復活のイエスさまに出会って喜ぶその姿を見て、自分もまた喜ぶ時間です。そういうわけで日曜日の礼拝は、ひとりでささげてそれで終わりなのではありません。ともに復活にあずかり、ともに喜ぶ時間です。ともに喜んではじめて、私たちにとっての復活の喜びはわがものになります。 とにかく、イエスさまが復活されたという事実を前にして、人にはどんな理屈も必要なくなります。信じない人に対しては、ことばで説得しようとしてもむなしいです。その人が実際に復活のイエスさまに出会って、「私の主、私の神よ」と信仰告白できるように、祈る必要があります。教会の集まりとは、そのまことの復活信仰の告白へと人を導く場です。ぜひ、復活のイエスさまを知ってほしい人のことを、教会に連れてきていただきたいのです。 もちろん、コロナ下という現実を考えると、それはかなりハードルが高いことのように思えるでしょう。しかし、このような中でも、救いを求める人は起こされるものです。コロナ下という逆風のような状況の中でも救いを求めて教会に行こうという人が周りから起こされるように、祈ってみてはいかがでしょうか? お勧めします。 第三のポイントにまいります。復活のイエスさまに出会うことは、だれにでも門戸の開かれた幸いなことです。 イエスさまはおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人は幸いです。」 もし、イエスさまを実際に見なければ救われもせず、ましてや働き人の資格もないのだとするならば、イエスさまの十二弟子以外、だれがふさわしいというのでしょうか。しかし初代教会以降2000年にわたり、キリスト教会を形づくってきたのは、イエスさまに出会ったことのない人たちでした。みことばをお読みして、みことばに啓示されたイエスさまに出会ってイエスさまにお従いしたのであって、決して、イエスさまを肉眼で見たわけではありませんでした。 イエスさまはようやく信仰を持ち直したトマスに向かい「見ずに信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。このみことばがヨハネの福音書に記録された意味を考えましょう。ヨハネの福音書が教会で読まれるようになった時代、イエスさまはすでに昇天されて久しく、イエスさまのみことばや御業が正しく伝えられることが必要になっていました。 その中でイエスさまがおっしゃったみことば「見ずに信じる人たちは幸いです」というみことばを信徒たちが読む必要があったのはなぜでしょうか? それは、実際にイエスさまにあったことがないことで、ヨハネのような使徒たちに対して劣等感をいだくことがないようにという、主のご配慮があったからではないでしょうか? 考えてみましょう。私たち凡人は使徒というと、何やらすごい人のように思えるかもしれませんが、彼らは復活のイエスさまを肉眼で目撃することがなければ、イエスさまの復活を信じることなどできなかった人たちでした。しかし私たちは、肉眼で目にしなくてもイエスさまの復活を信じています。 復活が事実であると受け入れ、復活が生きる原動力となっています。まさに、見ずに信じる者は幸いなのです。そしてそれはどれほど幸いかと言えば、使徒を上回る幸いとすら言えます。使徒ですらできなかった「見ずに信じる」ことを、私たちはさせていただいているからです。 私たちをこのように復活信仰の中で選んでくださり、力づけてくださるイエスさまに、心から感謝しましょう。復活は、大いなる力を及ぼします。 このときイエスさまから大いなるお取り扱いを受けたトマスは、のちに遠くインドにまで宣教し、殉教したと伝えられます。 しかし、そのような素晴らしい働きをしたトマスにも、できなかったことがあります。それは、21世紀の日本の、茨城県の人たちに宣教することです。これは私たちにこそできることです。 イエスさまは私たちにこの貴い使命、やりがいに満ちた使命を与えるために、私たちをこの地に生まれさせ、育ててくださり、イエスさまの十字架のみならず復活を信じる信仰を与えてくださいました。使徒にさえできなかった働きを、私たちはイエスさまの十二使徒に始まる世々の聖徒の働きを受け継ぎつつ、今ここにともに展開しているのです。 私たちも本来は疑いに満ちた人でした。しかし復活のイエスさまは、そんな私たちに出会ってくださり、教会の交わりの中で、信仰の人、復活のイエスさまを証しする人へとつくり変えてくださいました。 私たちはイエスさまの復活の証人です。死ぬべきいのちから、絶望から救い出してくださった復活のイエスさまを、一人でも多くの人に宣べ伝えるのです。イエスさまは私たちのことを愛してくださっているので、その貴い使命を私たちにくださいました。今日もイエスさまの復活に感謝し、主に拠り頼みつつ、用いていただけるように身をささげてまいりましょう。

「マグダラのマリアに学ぶ愛の行い」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:1~18/メッセージ題目;「マグダラのマリアに学ぶ愛の行い」 聖書の記述の中には、並行して同じできごとを別々の角度から描いているものが時折出てまいりますが、その中でも最も頭を悩ますのは、「イエスさまの復活、からっぽの墓」の記事ではないかと思います。四つの福音書を読み比べてみると、あちこちが合わないように見えることに気づきます。 私は今回のメッセージの原稿を書くに先立って、あらためて、4つの福音書を読み合わせ、どう解釈するといちばん無理がないだろうかと考えぬきました。難しい作業でしたが、推理小説を読んで結論を導き出そうとする作業に似ていると考えると、やりがいも生まれてまいりました。しかし、結果はと言いますと……神さまは簡単には、この謎を解かせてくださいませんでした。 しかし、講談社現代新書から『聖書の名句・名言』という本を出していらっしゃる、千代崎秀雄先生という牧師先生は、このからっぽの墓の記述が一致しないことについて、こんなことを語っていらっしゃいます。もし証言がぴたりと一致していたら、そのほうが口裏を合わせたみたいで、かえって信頼できないではないか……一致していないからこそかえって信頼できるとも言える……それを思い出し、私は、千代崎先生にしてそうおっしゃるなら、安心していいのか、と思ったものでした。 それでも、ひとつだけ発見したことをお話ししたいと思います。それは……このからっぽのお墓を聖書が語るにあたって、どの福音書も、そこにマグダラのマリアという女性が訪ねて行った、ということをはっきり語っています。事件の鍵を握るヒロインならぬ、からっぽの墓の記述の鍵を握るヒロイン、それはマグダラのマリアです。 マグダラのマリアがイエスさまの復活の朝、日曜日の朝に、イエスさまのお墓に行ったということは、すべての福音書に書かれています。それほど、マグダラのマリアは聖書において、大事な存在だということです。 このヨハネの福音書に描かれたマグダラのマリアの姿からわかることは、彼女がイエスさまを求めて、ひたすら行動したということです。 ほかの福音書によれば、マリアは十二弟子とともにイエスさまについて行っていた人でした。そして、イエスさまが十字架にかけられ、死んでいかれたのをじっと見つめていました。それからも、アリマタヤのヨセフがご遺体を引き取ってお墓に運んだとき、マリアは、アリマタヤのヨセフについて行き、お墓にご遺体が納められたのをじっと見届けました。安息日が明けた日曜日の早朝、マリアは香料と香油を持ってお墓に来ました。 ほかの福音書を読めばわかりますが、マリアはひとりで来たわけではなく、ほかにもヤコブの母マリアやサロメのような女性たちもいっしょでしたが、ともかくマリアは来ました。このヨハネの福音書を読んでも、「私たちには」という言い方をしていて、マリアがひとりで行ったわけではないことがほのめかされています。しかし、ヨハネの福音書はあくまで、マグダラのマリアの名前だけを挙げています。それだけ、ヨハネの福音書は、マリアという人物にスポットが当てているわけです。 イエスさまが葬られた横穴式のお墓の入口には、巨大な石が転がしかけてあります。しかもその石には、ピラトの封印が施されています。勝手に開けるなら重罰を免れません。いえ、それ以前に、その墓の前には屈強な番兵たちが、だれも墓を開けることができないように番をしていました。イエスさまのご遺体に対面するなど、とんでもないことでした。 それでもマリアは、行かなくちゃ、何が何でも行かなくちゃ、と、明るくなるころを見計らってただちに行動に移しました。マリアは、あきらめなかったのでした。それはそれほど、イエスさまを愛していたからでした。ご遺体であっても、イエスさまと対面したくてたまらなかったのでした。マリアのこの態度は、ともにおられるイエスさま、インマヌエルの主を求める態度です。主がともにいてくださることに飢え渇く姿です。 果たして、お墓の石は転がしてあり、中はからっぽでした。マリアは、墓がからっぽであることを見て動揺し、弟子たちに知らせに行きました。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」しかしこの態度は、ヨハネの福音書を読むかぎり、マリアにはまだこの時点で、復活信仰がしっかり根づいていなかったことを明らかにしています。それでも、マリアは信仰が不完全ななりに行動しました。このことは賞賛されるべきことではないでしょうか? 正統の信仰告白は私たちにとって宝物より大事なもの、いのちにも等しいもので、聖書的な信仰告白をしていることは私たちを正統な教会に所属させる点でとても大事です。しかし、その信仰を持っていることに安心して、何も行動しないというのでいいのでしょうか? 私たちは、正統の信仰を持っているでしょう。常識的な判断も下せるでしょう。しかしそんな私たちは、復活に関するイエスさまのみことばも思い出さず、ひたすら行動したマリアがおっちょこちょいだとか、愚かだとか笑えるでしょうか? お墓に行っても無駄だから行くべきではない、とマリアが思ったならば、弟子たちに至るまで復活のイエスさまに出会う道は閉ざされたままでした。十字架から三日目によみがえられるという預言は、成就したかどうかわからなくなりさえしたかもしれません。 ともかく、マリアに充分な復活信仰がなかったことが、かえってペテロやヨハネといった弟子たちをお墓へと動員するきっかけをつくったわけです。しかし、むしろこう言うべきかもしれません。主がすべてを働かせて益としてくださるにあたり、マリアのこの愛の行動力を用いてくださった、と。マリアがほめられるべきなのは、からっぽのお墓という事実、すなわち、イエスさまの復活という事実を告げ知らせるのに主がお用いになるほどの、純粋にイエスさまを愛する思い、イエスさまを慕う思いがあったからです。 マリアは、イエスさまを愛していました。これほどまでにイエスさまを愛するのは、イエスさまに愛されたからです。鍵となるのはマルコの福音書とルカの福音書におけるマリアの紹介の記述、「イエスさまに七つの悪霊を追い出してもらった」という事実です。十二弟子と一緒にイエスさまにお従いしたのは、まさに、イエスさまに七つの悪霊を追い出していただいたことと深い関係があったことが、ルカの福音書の記述にほのめかされています。 「七つの悪霊」といえば、イエスさまはかつて、「七つの悪霊」という存在について語られたことがありました。けがれた霊が人から出ていったときに、その人の心が掃除してきちんと片づいていたようになっていると、自分より悪い七つの霊を引き連れて住みつき、その人の状態はさらに悪くなる……。このみことばから察するに、マグダラのマリアはただでさえ悪霊に取りつかれていたのが、さらに悪い悪霊どもが取りつき、もはや人間には手の施しようもないほど悪くなっていた、ということだったことが窺い知れます。 人間にたくさんの悪霊が取りつくとどうなるでしょうか。福音書には墓場に住む男の話が出てきますが、裸で、つないだ鎖を引きちぎるほどの怪力を発する凶暴さで、もはやその姿は人間ではありません。あるいは、泡を吹いて転げまわり、水の中だろうと火の中だろうとあたりかまわず飛び込みます。あるいは、倫理的にひどい状態になります。深酒に陥ったり、性的に底知れず乱れたりするのは、明らかに悪霊の影響です。 しかし、人は、そんな悪霊の支配を受けている自分は間違っている、そこから救われたい、という思いを、心のどこかで持っているものです。そんな人がイエスさまに出会い、いやしをいただいたならば、イエスさまを愛さずにはいられなくなるのではないでしょうか。 マグダラのマリアはイエスさまに出会って真人間になりました。もう、以前のような、それこそ悪魔に魅入られたような行動を人前で取ることはなくなりました。それでも人は相変わらず、彼女のことを札付き扱いしたかもしれません。暗い過去を引きずる人を、人は簡単には許さず、受け入れないでしょう。 しかしイエスさまはちがいました。マリアのことを愛してくださいました。人が忌み嫌うような、特に、ユダヤの宗教社会ではことさらに忌み嫌われるような、悪霊にたっぷり取りつかれてすっかりおかしくなったこの女に触れてくださり、悪霊を追い出して真人間にしてくださいました。 イエスさまはおっしゃいました。多く赦された者が多く愛するのだと。私たちはもちろんのこと、イエスさまを愛したい思いを持っていると思います。しかし多くの場合、私たちのイエスさまに向けた愛は貧弱です。それはなぜでしょうか。それは、イエスさまがかぎりなく愛してくださっているその愛を、私たちは充分に受け止めていないからです。つまり、その愛に感謝していないからです。 みなさまもご存じだと思いますが、「ありがとう」の反対のことばは「あたりまえ」です。私たちがこうして生きているのはあたりまえ。ご飯を食べて空気を吸って生きているのはあたりまえ。仕事をしてお金を稼ぎ、生活をするのはあたりまえ。 万事につけ「あたりまえ」と思うならば、どこに感謝する心が生まれるでしょうか。そんな人にとっての感謝なんて、所詮人前で自分をよく見せるためのポーズでしかありません。しかし、私たちがもし自分の罪を悟り、その罪ゆえに本来滅びなければならなかった者が、イエスさまの十字架を信じる信仰を与えられ、永遠のいのちを与えられたと知ったならば私たちにとっての「あたりまえ」は「ありがとう」に変わります。最大の「ありがとう」は、私を罪から救ってくださったイエスさまが、こんな罪深い私といつも一緒にいてくださることです。 私たちにとって悔い改めが必須なのは、自分自身がなんて罪深いのかと絶望に浸って自分をいじめる「マゾヒズム」のゆえではありません。その罪を完全に赦してくださったイエスさまと、さらに深い交わりを持ち、さらにイエスさまを愛するためです。もし、悔い改めがマゾヒズムのような自分いじめにとどまっているならば、イエスさまは見えているようで絶対に見えてきません。その罪をすべて赦してくださったイエスさまに完全に視点が移るとき、イエスさまを愛する思いが生まれ、それがイエスさまを愛するゆえの行いを生みます。 ヤコブの手紙を読んでみますと、自分には信仰があると口だけでいうことがどんなにむなしいか、行いで信仰を示しなさい、と語られています。これを表面的に読むならば、行いで認められようとするのはパウロが聖書で語ったメッセージである信仰義認と矛盾する、という結論になってしまいますが、その解釈は正しくありません。そうではなくて、イエスさまに愛されているからイエスさまを愛する行いをする、ただそれだけのことです。 信仰が深いということは、聖書の知識の量や教会生活の長さ、献金の額などで測られるものではありません。どれだけイエスさまに愛されているその愛を受けて、イエスさまを愛しているか、そこにかかっています。 イエスさまを愛するならば、イエスさまのご命令を守ります。そのご命令は、神を愛し、人を愛しなさいというご命令です。イエスさまがどれほど御父を愛しておられるか、そして、イエスさまはどれほど私たちを愛しておられるか、それを私たちは、日々みことばをお読みして、お祈りして、教えていただき、悟らせていただき、しみじみ感動させていただくのです。 そして、そんなマリアに、イエスさまは真っ先に出会ってくださいました。弟子たちにではなかったのです。弟子たちはイエスさまの墓の中に入っても、このみことばにあったように、マリアのことばを信じることまではしても、イエスさまの復活を理解しないままその場を去りました。マリアはそこを離れられず、さめざめと泣きました。イエスさまはそんなマリアに、泣かなくてよい、と現れてくださり、わたしの復活を告げ知らせなさい、と、新しい使命を与えてくださいました。 イエスさまに愛される分、私たちはイエスさまを愛します。そんな私たちに、イエスさまは復活のいのちをもって現れてくださり、私たちを生活の現場に遣わし、わたしの復活という福音を宣べ伝えなさいと、使命を与えてくださいます。この栄光に満ちた主の働きができるのも、私たちが日々、マリアのように、イエスさまに出会って涙をぬぐっていただくゆえです。 いくつか、思い巡らしましょう。私たちは愛が行動に結びつくほど、イエスさまを愛していますでしょうか? 十分な愛になっていないなら、何が問題でしょうか? 私たちはまた、イエスさまを見失って悲しんではいないでしょうか? イエスさまはそんな私たちに出会ってくださり、悲しみをぬぐい去ってくださると、信じてまいりましょう。8