「聖書が存在する理由」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:30~31/メッセージ題目;「聖書が存在する理由」  本という本には、みな存在する目的があります。ミステリ小説は、読者に対するお説教ではなく、トリックと種明かしによって読者を面白がらせることにその存在する目的があります。自己啓発本は、読むことでより目的意識を持って仕事ができるようになること。詩集や画集は、情緒的に豊かになること。辞典(事典)は調べもの。教科書や参考書は勉強のため。マンガ本は気分転換のため。  そこで……私たちの手にしている聖書、この本は何のために存在するかを、今日は聖書自身の証言から確かめてみたいと思います。  まず、30節から見てみましょう。このみことばによれば、イエスさまはヨハネの福音書に記録されている以外にも、多くのわざを行われたということが明らかにされています。しかしそれらのみわざを、ヨハネはあえて記録しなかったということでした。  たしかに、弟子たちの前でということにかぎっても、イエスさまが行われたみわざのうち、このヨハネの福音書に記録されていないみわざはいろいろ存在します。 しかし、イエスさまの行われたみわざは、ヨハネの福音書どころか、四福音書、いや、旧新約聖書全体にも収録しきれるものではなかったと考えるのが自然ではないでしょうか? といいますのも、このヨハネの福音書の締めくくりに当たるみことば、21章25節には、このようにあるからです。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」  イエスさまのみわざは膨大です。それをみことばという形で人が読んで理解するには、聖霊なる神さまが聖書の書き手に働いて、イエスさまのみことばとみわざを取捨選択させられるしかありません。そうでないと、一生かけてもイエスさまのみわざを理解できないことになります。  そういうわけで、聖書はイエスさまのみわざすべてを収録した書物ではありません。しかし、イエスさまのみわざの記録が適切に編集された書物ではあります。私たちにとってみことばは、必要最小限の分量であると同時に、十分な分量です。それ以上の分量は必要なく、それ以下の分量では足りません。  聖書の終わり、ヨハネの黙示録の22章18節、19節に、このようなことが書かれています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」  なんともぞっとするみことばですが、要するに、みことばから足したり引いたりするような人は、天国の民、神の民としてふさわしくない、というわけです。言うまでもなくみことばは、私たちがこの地上を生きている間だけ必要なもので、この地上からいのちが取り去られたら、そもそもこうして聖書という本を手にする形でみことばを読むことなどないわけです。みことばを聞きたければ、神さまに直接お聞きすれば済む話ですし、地獄に落ちたら、みことばを聞いていのちを保つことなど一切かないません。 要は生きているかぎり、神さまが必要十分の分量で与えてくださった旧新約66巻のみことば全体を認め、読むことです。それでこそ私たちは神の民、神の子どもとして生きていくことができます。  では、このようにヨハネをはじめとした聖書の記者が、イエスさまのおことばとみわざを、聖書のみことばという形で編集するように聖霊なる神さまに促されたその目的は何でしょうか? それは31節に書いてあるとおりです。  31節をお読みします。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」  私たちはイエスさまのことを、キリストと告白しています。なぜならば、イエスさまは私たちにとって救い主、キリストであられるからです。しかし、聖書やキリスト教会がそのように呼んでいるからでしょうか、一般的にもイエスさまのことを、イエス・キリストと呼ぶのについてはどうでしょうか? もし、自分にとってイエスさまが救い主でもないのに、「イエス・キリスト」ですとか「キリスト」と呼んでいるならば、それは厳密に言えばおかしいことです。  ただし、この「イエス・キリスト」という呼び名、もしくは「キリスト」といえば「イエスさま」のことを当然指すものだという常識は、文明開化とともにキリスト教の文化が日本に入ってきて定着したものです。その背後には、長い時間をかけて培われてきた欧米のキリスト教会の歴史が存在し、欧米の文化ではふつうにイエスさまのことを「イエス・キリスト」ないしは「キリスト」とお呼びするので、日本もそれにならった、と言えましょう。  このように、イエスさまのことを「キリスト」であるという前提で受け取っているならば、クリスチャンでなくても、イエスさまは見るからに神々しい方と映るかもしれません。しかし、日本人にとっては神がかって見えれば何でも有難いと思えるように、イエスさまもあらゆるカミやホトケと同等の存在くらいにしか受け取られない、ということも有り得るわけです。  しかし聖書は、もちろん、そんなレベルでイエスさまのことを紹介しているわけではありません。そこで私たちは、聖書が書かれた目的、イエスはキリストであることを信じさせるために書かれた、ということについて、もう少しよく考える必要があります。  キリスト、救い主というお方はただひとりです。神のひとり子の神が、神を解き明かされ、このひとり子の神を通して、唯一の父なる神に至るのです。救い主の資格があるのは、神のひとり子イエスさまだけです。それが、イエスさまがキリストであるということです。  世の中の人たちは、慣習的にイエス・キリストと呼んでいます。それはもしかすると、イエスさまはのちのキリスト教の文化・文明のおおもとになった人物だからと、それ相応の敬意を込めて呼んでいるからかもしれません。しかし、イエスをキリストと「呼ぶかどうか」よりも、「信じるかどうか」が、私たち人間にとってはもっと大きな問題になります。  多くの日本人は「イエス・キリスト」と呼んでいても、実際に帰依している存在は、神社のカミだったり、ホトケとして祀られている先祖だったりします。そういう人が「キリスト」と呼んでも、実体はないことになります。しかし聖書を読み、「道であり、真理であり、いのちである」お方はただひとり、イエスさまだけだと知って、イエスさまを唯一の救い主と受け入れるなら、そのとき初めて人は、「イエスがキリストである」と信じることになるのです。  そうは言いましても、イエスさまをひとたびキリストと受け入れたら、それで終わりなのではありません。一生かけて信じつづける必要があります。イエスさまはひとたび受け入れれば、それで信仰が完成するわけではありません。少しでもうかうかしていると、この世の攻撃、あるいは懐柔にさらされ、私たちはいとも簡単に信仰を捨てる道を選んでしまいます。  イエスがキリストであると信じる。それは、つねにこの世のあらゆる罪のわなから救ってくださる救い主であることを信じつづけることを意味します。目に見えないお方とお交わりする上で必要なものは、信仰です。イエスさまが目に見えるお方だったら、信仰というものを働かせる必要などありません。 しかし、イエスさまは目に見えないゆえに、私たち人間の側で信仰を働かせるという行動が神さまから求められています。これは、行いによって救いを勝ち取る、ということではありません。私たちはみことばをお読みして、イエスさまが私たちのことを救ってくださったことを信じ受け入れました。しかし、そのように自分のことを救ってくださったイエスさまとの交わりを引きつづき持つには、こちらからイエスさまに近づく必要があります。 小さな子どもがお父さん、お母さんに守ってもらうために、駆け寄っていく、その厳しくも優しいことばを聞く、こういうことを「行い」と言ったらおかしいです。親としては、子どもに来てほしい。それだけ。信仰を働かせるとは、そのように親元に行くようなことです。自分のもとに来る子どもを親が守るように、神さまは、御許に来る神の子どもたちを守って、養ってくださいます。 さて、では、イエスさまを信じることはどのような意味があると、この31節のみことばは語っていますでしょうか?……そうです、「信じて、イエスの名によっていのちを得るため」とあります。聖書の存在する目的は、聖書を読む人が、イエスさまがキリスト、自分の救い主であると信じて、イエスさまの御名によっていのちを得るため、ということです。 イエスさまを信じるということは、一回こっきりで終わることではありません。信じつづける必要があるわけです。と申しますのも、人は何かの拍子に信仰をなくしてしまうことがあるからです。もちろん、主はおっしゃいました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」だから、いちどイエスさまを心に受け入れたら、イエスさまが出ていかれるということはありません。イエスさまご自身が、あなたを決して離れないとおっしゃっている以上、そうなのです。 しかし、肝心の受け入れた側の人間は、つねに移ろいやすい、弱い存在です。イエスさまがそばにいてくださる、ともにいてくださる、そんなことも忘れてしまうほど、落ち込んでしまうことなどしょっちゅうの、弱い存在です。なぜ、そうなるのでしょうか? それは、イエスさま以外のものを見てしまうからです。 イエスさまは大波の湖の上を歩いて、十二弟子の乗った舟へと近づかれました。すごいことでしたが、ペテロはイエスさまに近づきたい一心で、私のことをみそばに近づかせてください、湖の上を歩かせてください、と、イエスさまに申し出て、聞き入れられました。そしてペテロが湖に足を踏み出すと、あら不思議、ペテロも湖の上を歩いてしまいました。しかし……ペテロは湖面の波を見て、われに返ったのでしょうか、助けて! おぼれかかってしまいました。イエスさまはペテロを助け起こされ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑うのか」とお叱りになりました。 湖面を問題なく歩いていたペテロは、なぜおぼれかかったのでしょうか? イエスさまではなく、波を見たからです。ペテロがイエスさまを一心に見つめて歩いたならば、何の問題もありませんでした。おぼれたのは、湖面の波を見たからです。しかし、よく考えると、ペテロは常識的なことをしたのではないでしょうか? いったいだれが、湖の上を歩くというのでしょうか? 大きく波打ったら、こわがるのは当然のことではないでしょうか? しかし、そのような常識は、イエスさまを見させなくするもので、その結果私たちは、イエスさまのみわざを体験することができなくなります。ペテロは、イエスさまを見つめたのと同時に、イエスさまのみことばに対して信仰を働かせました。イエスさまのおっしゃるとおりと信じて、湖の上へと一歩を踏み出しました。 私たちもまた、全能なる創造主、イエスさまのみことばだけを信じて踏み出すならば、何の問題もありません。その信仰を砕くものは、多くの場合は人間的な常識です。 私たちが信仰を働かせるとき、それはキリストにある永遠のいのちをいただきつづけるということを意味します。十字架による罪の赦しは、あるいは信じられるかもしれません。いちおう、キリスト教はそのことを教えているということは、常識となっているからです。しかし、復活と永遠のいのちがいただけるということに関しては、それ相応のふさわしい信仰がないと信じ受け入れることはできません。 聖書ははっきりと、キリストが復活されたように私たちも復活すること、信じる私たちに永遠のいのちが与えられることを語っています。聖書のみことばは、そのいのちをいただいて私たちが永遠に神さまとともに生きるようにと、私たちのために書かれたものです。だから、私たちがもし、生きたい、生きる喜びを体験したい、と思うなら、聖書のみことばをつねに読むしかありません。 クリスチャンを名乗る人の中には、まるで覇気のない人、目が輝いていない人がいます。ほんとうに残念なことです。そういう人たちも聖書を読んで、自分に与えられた永遠のいのちの素晴らしさに目が開かれ、生き生きした人になれるようにと願うものですが、これまたなんとも残念なことに、そういう人は得てして、聖書に手を伸ばしたくはないものです。かくして、ずっと覇気がないままに、クリスチャンとは名ばかりの生き方をするしかなくなります。 私たちはこの信仰共同体の中に、ひとりでも、いや、ひとりも、そんな人を生み出さないようにしたいものです。私たちがもし聖書を読んでいるならば、どんなに聖書から教えられていのちの喜びを得ているか、ぜひ、交わりの中で、積極的に分かち合っていただきたいのです。以前うちの教会でよく行われていました、礼拝の中でのお証しをしたいという方は歓迎いたします。 それとも、いつもみことばから教えられて喜びをいただいてはいるものの、なにぶんこのコロナ下で交わりを持つこともままならない、とおっしゃいますでしょうか? ならば、せめて牧師に証しのメールなりお手紙なり送っていただければと思います。コピーして、みなさまにメール配信して分かち合います。 そのような分かち合いをとおして、みことばを読もうにも読む気が起こらないで苦しんでいる兄弟姉妹も、みことばの恵みに触れることができます。あるいは、すでにみことばを読む習慣が身に着きながらも、みことばを読む喜びがいまひとつ湧き上がってこない兄弟姉妹にも、新しい恵みが与えられて、ともに喜びます。普段からみことばをお読みして喜んでいる兄弟姉妹は、よりいっそう喜ぶことになります。 私たちが、救い主イエスさまにつながっていのちを得るために与えられた必要十分なみことば……私たちが手にしている聖書は、実に素晴らしいものです。今日も聖書のみことばからともに学び、いのちの喜びが得られたことに感謝しましょう。そして、これからも聖書を学びましょう。この1週間も、毎日聖書を開き、聖書に教えられたとおりの生き方を実践し、神さまのご栄光を顕しましょう。私たち、迷う者、弱い者を導き、励まし、力づける聖書のみことばを与えてくださっている神さま、イエスさまの御名を、心からほめたたえます。ハレルヤ!