「イエスの母、十字架の前に立つ」

聖書箇所;ヨハネの福音書19:25~27/メッセージ題目;「イエスの母、十字架の前に立つ」 今日お配りした月報のほうに詳しく書きましたが、むかし同じ教会でともに働いた韓国人の婦人宣教師の先生が、おととい、天に召されました。私よりも20歳ほど年上の独身の方で、まだ働き人としての経験に乏しかった私のことを、いつも励ましてくださった方でした。しかし、何がいちばんお世話になったかといえば、妻を紹介してくださったことでした。 ともに働いていた頃のことで、忘れられないエピソードをお話しします。当時その韓国人教会には、日本人の大学生の男の子が来ていました。心痛むことですが、彼は幼いころ、お母さまを亡くしていました。ある日教会で、私が彼とその宣教師先生と3人で一緒に立ち話をしていたところ、別の韓国人の婦人がその話の輪に近づいてきて、彼に話しかけて言いました。「お母さんですか?」なるほど、年齢的にはちょうどそんな感じです。宣教師先生も男の子も、ちがいます、といいながら、まんざらでもない表情を浮かべていたのを、私は今でも覚えています。 あのとき私は、その韓国人の姉妹のことばに、勘違い以上の深い意味を見出したものでした。まことに教会という共同体は、新しいお母さんができる場所です。また、新しくお母さんと呼んでもらえる場所です。 今日はこの「母」ということを考えてみたいと思います。今日のみことばに登場するおもな人物は、イエスさまのほかに、マリアと、イエスさまの弟子です。イエスさまの弟子は、このヨハネの福音書の最後で明かされますが、福音書を記したヨハネのことです。 イエスさまの母となった人物は、歴史上ただ一人、マリアだけです。そういうこともあって、歴史的にキリスト教会はマリアという人物を特別視してきました。しかし、宗教改革の伝統を引き継ぐ私たちは、マリアを特別視することから脱し、マリアもまた、神の前にひとりの人であると見なしています。 それでもマリアは、私たちにとって学ぶべき模範であることに変わりはありません。最大の学ぶべきこと、それを知る鍵は、マルコの福音書3章31節から35節をお読みすれば見えてきます。おひらきいただきたいと思います。 みなさん、この箇所を読んで、どうしても引っかからないでしょうか? このみことばの締めくくりにイエスさまがおっしゃった、だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母、とおっしゃっています。 要するにイエスさまは、霊の家族は肉の家族に優先することを説いていらっしゃるわけですが、それにしても「だれでもイエスさまの母」という表現は、何のことだろうと思わないでしょうか? イエスさまの兄弟、ですとか、姉妹、ならまだわかるでしょう。 しかし、母、となるとどうでしょうか? 私たちがイエスさまの親になるとでもいうのでしょうか? 特に女性の方は、イエスさまを産むのだろうか、なんと畏れ多い! とお思いになりませんでしょうか? とんでもないことです。しかしイエスさまは、はっきりそうおっしゃったのでした。 もちろんこれは、イエスさまの霊的なお働きを肉の家族の論理でやめさせようとするマリアの間違いを正そうとされたという意図も含まれています。わたしの母ならば、神さまのみこころを行なってください、つまり、神の国を宣べ伝えるわたしの働きをやめさせようとしないでください、ということです。しかし、それ以上に私たちは「『だれでも』わたしの母です」とおっしゃっているこのみことばに注目する必要があります。 神のみこころを行う以上、「私たちが」イエスさまの母と見なしていただける、ということです。とは言いましても、いかにイエスさまにそう言っていただけるからと、「はい、私は神さまのみこころを行なっているから、イエスさまの母です」などと堂々と言える人など、まともな神経のクリスチャンならば恐らくひとりもいないと思います。 この難しいみことばを知るには、唯一、イエスさまの母であったマリアがどういう人であったかを、みことばから知る必要があります。イエスさまを産んだマリアのような特別な人からは何も学べない、ではないのです。神のみこころを行う者をイエスさまはご自身の母と呼んでくださるからには、私たちは母マリアから学ぶべきである、のです。 今日のメッセージは、十字架の前に立つマリアの姿と、いくつかのみことばを関連させながら語ってまいりたいと思います。 第一に、マリアは十字架の前に立つすべての人の代表選手です。 イエスさまにつき従っていた人たちの中で、十字架の前に立っていたことがはっきりみことばに記されている人は、多くはありません。弟子たちは逃げ去り、どうにか、ヨハネは十字架のそばにいた模様でした。しかし、この十字架の前にいた人たちの中で、女性たちのことがみことばに特記されています。イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリア。 ある牧師先生がこの場面のことを語られたとき、こんなことをおっしゃっていました。男は弱い! みんな逃げた! それに引き換え女性は強い! ほんとうにそうだと思います。教会の多くの部分を姉妹方に支えていただいているという事実を見るにつけ、しみじみそう思います。 婦人たちはイエスさまの十字架を見届けました。しかしその中でも、マリアはどうでしょうか? 彼女はイエスさまをみごもり、お腹を痛めて産んだ人です。それも、人口調査の旅の果てに、どこにも宿屋がなくて、馬小屋で産むという大きな苦しみを伴ってです。それから30年近く、育て、そしておそらくはヨセフが亡くなってからは、大工の家庭の大黒柱としてイエスさまに頼って生活しました。単なる関係ではないのです。親子です。 そんなマリアが、息子の傷つき果て、のろいを受けて死んでいく姿を、じっと見つめつづけたのです。私たちにそんなことが起こったならば、果たして耐えられるでしょうか? ルカの福音書2章34節と35節をご覧ください。マリアはこの預言を受けたとき、まちがいなく、まるで剣が心を刺し貫かれるようなショックを受けたはずです。この男の子によってあなたの家族は祝福されます、と言われたのではなく、人々の反対にあうしるしとして定められています、あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります……何ということを言われたのでしょうか。 シメオンのことばは続きました。「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」人々は十字架を前にして、まるで心が剣で切り刻まれるようになって、自分の罪が明らかにされ、痛みとともに悔い改めに導かれます。 マリアは、息子を十字架に送り出すことで、果てしない痛みを心に負いました。しかしそのことによって、人々はまことの悔い改めを体験し、神さまの民として回復されるという、みこころが成就したのでした。 マリアは、十字架を前にして、心は千々に切り裂かれていました。しかしそれは、母親として死にゆく息子の前に立つということ以上の意味がありました。自分もまた、神の前に立つ罪人として、心が切り刻まれ、罪が悔い改めに導かれるという、何にもまして貴い体験をしていたのでした。 映画『ジーザス』や『パッション』などを見ると、イエスさまの十字架の残酷さに、思わず私たちは目をそむけたくなります。しかし、私たちはイエスさまの十字架の残酷さそのものに関心を持つのではありません。イエスさまがかわいそうだから心が動かされるのではありません。 そのように十字架でイエスさまをずたずたにするほど私たちの罪はひどいもの、しかし、その罪をすべて赦してくださったことを、私たちはイエスさまの十字架を思い、感謝するのです。 私たちはマリアのごとく、イエスさまの十字架の前に立ちつづけることができますでしょうか? 今週の受難週、私たちはいつにもまして、イエスさまの十字架を思うものとなりたいものです。 第二のポイントです。マリアは、十字架によって新しい家族をつくっていただくクリスチャンの象徴です。 26節、27節をお読みしましょう。……イエスさまは、十字架に死なれるという御父のみこころを成し遂げられるという大きな使命がありました。しかし、家族を残していかなければなりませんでした。特に、寡婦のマリアをどうしなければならないか、という、大きな問題がありました。 イエスさまはこのマリアを、愛する弟子のヨハネに託されました。しかし私たちは思わないでしょうか? たしかイエスさまには、弟たちがいるはずではないか? その中でもヤコブとユダは、初代教会の指導者にもなったし、聖書のみことばも書いているではないか? 彼らがマリアのケアをすればよかったのではないか? しかし、ヨハネがマリアのケアをするということは、2つの理由から必要なことでした。 まず、主の兄弟たちは、イエスさまを信じていない人たちでした。彼らがイエスさまを信じていなかったことは、ヨハネの福音書の7章にはっきり書いてあります。 また、イエスさまから「わたしの兄弟姉妹、わたしの母」というおことばを引き出すきっかけになったのは、マリアと彼ら兄弟たちがともにイエスさまを連れ戻しに来たことからでしたが、ある牧師先生によれば、主の兄弟たちがマリアをそそのかして連れ戻しにやって来たと解釈できる、いけなかったのは兄弟たちだった、ということでした。 一方でマリアは、こうしてイエスさまの十字架の前に立つほどの信仰を持っていました。十字架の前にいたということは、私はイエスの母です、と言っていることであり、それは、私はイエスを信じています、と表明しているのと同じことです。 ここでマリアは、ほんとうの意味でイエスさまがおっしゃるところの「わたしの母」となることができたのでした。イエスさまはここでマリアに向かって「女の方」と言っていますが、この呼びかけのことばは、カナの婚礼の時にぶどう酒が切れて困ったことになったとき、イエスさまに助けてもらおうとしたマリアに向かい、イエスさまが呼びかけたおことばでもありました。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」 特に日本語の聖書でこの箇所をお読みすると、イエスさま、実(じつ)のお母さんに向かってなんてつれない言い方をなさるのか、という印象を受けるかもしれません。しかし、この「女の方」というおことばは聖書によっては「お母さん」と訳してもいて、まったく突き放した言い方をなさっているとはかぎらないとも言えます。 それでも、女性に対する尊称のようなこの呼びかけを用いておられても「お母さん」とはっきり呼びかけておられないのはたしかなことで、ここにマリアは、イエスさまとは肉親としてではなく、霊の家族として結びつけられる必要があったことが垣間見えます。 そして、イエスさまは十字架にかかられ、あのときマリアに語った「わたしの時」が、ついに実現しました。あのときの呼びかけと同じ呼びかけで、イエスさまはマリアに「女の方」と呼びかけました。イエスさまの時が実現した今、あなたは霊の家族に迎え入れられるのです……。 そうです。マリアはそういうわけで、イエスさまを信じない肉の家族ではなく、霊の家族に属して生活する必要があったのでした。その、迎え入れる家族に、イエスさまはヨハネを指名されました。自分自身が告白するとおり、ヨハネはイエスさまに愛された弟子です。イエスさまの愛を受けて、イエスさまの母親をケアするのに、ヨハネほど適切な人はいませんでした。肉の家族であるイエスさまの弟たちではなく、ヨハネがケアすることで、マリアは名実ともに神の家族、キリストのからだの一員となったのでした。 そして、ヨハネがマリアのケアをした、もっと大きな理由……それは、神さまご自身がそう願われた、ということです。 のちに主の兄弟たちは、イエスさまを信じて神の家族に加わり、長じて初代教会の指導者にまでなりました。しかし、そんな彼らが、だからということでマリアを改めて家族として受け入れたという記述は、聖書にありません。あるのは、ヨハネがマリアを母親のように受け入れて生活した、という記述だけです。 この記述はヨハネの福音書に書かれているわけですが、記述がほかならぬヨハネによる福音書に残されていることは、初代教会の人間関係を知る手掛かりとなります。それは、マリアをケアする責任をイエスさまから託されたヨハネ自身の偽らざる告白が、そこになされているということ、そして、福音書というものが初代教会の産物である以上、マリアをケアすることが、主の兄弟たちを含む初代教会の指導者たちに広く認められていたということ……というより、彼ら指導者たちも、ヨハネがマリアのケアをすることはイエスさまのみこころだと認めていたこと……そういうことがこの26節、27節のみことばから見えてきます。 十字架は私たちを、愛し合う家族にします。それが天のお父さまの願っていらっしゃることです。十字架によって私たちは天のお父さまを、お父さんと呼ばせていただく、同じ家族になります。マリアが肉の家族を超えて、霊の家族に入れられたように、私たちも霊の家族に入れられ、ともに成長するのです。 うちの教会も親子でクリスチャンという方が何家族かいらっしゃいますが、肉の家族であることで終わるのではなく、霊の家族が肉の家族にしていただいた存在として、ともに生活するものとなりたいものです。私たちクリスチャンの大前提は、霊の家族です。 イエスさまは、だれでも神のみこころを行うならその人はわたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母とおっしゃいました。唯一イエスさまの母であったマリアは、イエスさまの十字架の前にひとりの人として立ち、心が剣で刺し貫かれました。私たちもイエスさまの十字架の前に立つならば、心が刺し貫かれます。この受難週、特にイエスさまの十字架を思い、心からの悔い改めに導かれますようにお祈りします。 また、この悔い改めは一人で完結するものではありません。ともに神の家族とされている私たちが、ともに行うことです。私たちは、同じ神さまを父としてともに悔い改め、ともに罪赦されます。 そのようにして罪赦されたどうしが、愛し合い、仕え合い、神の国をこの地に宣べ伝えるのです。それがイエスさまの願っていらっしゃる、神のみこころを行うことであり、イエスさまはそのような私たちのことを喜んで、ご自身の家族と呼んでくださいます。 この受難週、十字架の前にともに進み出て、ともに主の家族とされていることを感謝してまいりたいと思います。では、お祈りします。