神の弱さは人よりも強いから

聖書箇所;ヨハネの福音書18:1~27/メッセージ題目;神の弱さは人よりも強いから  今月1か月間は、イエスさまの受難について、ヨハネの福音書18章、19章から学びます。この箇所、イエスさまの受難にまつわる学びは、もうみなさまの長いクリスチャン生活で、何度となく学んでこられたことと思います。そこで本日は、主題を決めてのメッセージとまいりたいと思います。題して「神の弱さは人よりも強いから」。  言うまでもないことですが、神さまはこの世のどんな存在よりも強いお方です。世界のすべてを創造され、世界のすべてを司っておられ、最後にはこの世界をすべておさばきになります。およそ神さまほど、「弱い」という形容詞が似合わない方はおられません。  また、神さまはすべての知恵の根源でいらっしゃいます。神さまは知恵と英知をもってこの世界を造られ、この世界を動かしていらっしゃいます。およそ神さまほど「愚か」という形容詞が似合わない方はおられません。  そのように神さまのことを理解している私たちですから、コリント人への手紙第一1章25節のみことばを読むと、なんというか、違和感を覚えないでしょうか?「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」。神さまが愚かとはどういうことでしょうか? また、神さまが弱いとはどういうことでしょうか?  この第一コリント1章の語ることは、十字架とは人の目には愚かに見える神の知恵である、ということです。また、神の弱さ、ということに関しては、第二コリント13章4節をお読みすると出てまいります。ここには、キリストは弱さのゆえに十字架につけられた、とあります。この地上を生きられた主は、人と同じ姿になられ、弱さを身にまとわれました。しかしそれは、まさしく、十字架という最高の強さ、力を、信じる人々に与えてくださるためでした。 このように、十字架を神の最高の知恵、最高の力と受け入れた者だけが、神さまのもとに行き、永遠のいのちをいただくことができるのです。私たちは、自分の暮らし向きを誇るべきではありません。誇るべきはイエスさまの十字架です。また私たちが知っているべきことは、イエスさま、すなわち、十字架につけられたお方のことだけです。十字架が神の力、神の知恵であるということは、十字架が私たちの力、私たちの知恵であるということです。 この前提で本日の箇所を読み解いていこうと思います。イエスさまは、十字架という神の力、神の知恵を成就されるにあたって、お祈りをされました。並行箇所を読んでみますと、それはただのお祈りではりません。 それは苦しみの果ての、汗が血のしずくのように流れ落ちた祈りです。イエスさまはできることならば、この杯が自分から過ぎ去るように、と祈られました。それは、責めと恥を受けることだからでしょうか? 極限の苦しみにさらされることだからでしょうか? それもあったでしょう。しかし、最大の理由は、御父から捨てられることだったのでした。 本来ならば私たちこそが捨てられるべきでした。捨てられるにふさわしい罪人だからです。しかし、そのすべての罪をイエスさまに背負わせられ、きよい御前からお捨てになることが、神の知恵でした。神の力でした。その力を前にして、イエスさまは無力だったと見るべきでしょうか? いいえ、十字架を背負うというまことの力を得られるように、祈りにおいて勝利するように、御使いが現れてイエスさまを力づけました。 さて、この祈りの場に伴われたペテロは、イエスさまのお別れのことばを聞いたとき、いいえ、私はあなたさまにお従いします、死ぬことも覚悟しています、と言いました。それははずみで言ったのではなく、本心にちがいありません。しかしイエスさまは、鶏が鳴く前にあなたは三度わたしのことを知らないと言います、と予告されました。三度言う、完全に知らない、と、人々の前で宣言するということです。 そんなペテロはどんな思いでイエスさまの祈る姿を見ていたことでしょうか。これまで見たこともなかった弱い姿、慟哭する姿、みこころにお従いしようと激しく葛藤する姿……ペテロはあまりに悲しくなりました。涙さえ流れてならなかったことでしょう。しかし、涙が流れつづけるなら、それはまぶたが重くなることを意味していました。心はイエスさまのために燃えようとも、肉体は弱かったのです。人の弱さが現れました。しかしイエスさまの十字架は、そのような弱さから人を贖い出す、神の力であったのでした。 しかしペテロは、いざイエスさまが逮捕されそうになったとき、蛮勇を振るって、その兵士の耳を切り落としにかかりました。言わば人の強さです。しかしイエスさまはペテロを戒められ、十字架を負われることを堂々と宣言されました。 人の強さはイエスさまに十字架を負わせなくさせるかのようでした。しかし、そうなったら、人が救われる道は永遠に閉ざされます。イエスさまは十字架を負わなければならなかったのでした。 かつてペテロは、イエスさまが十字架におかかりになると予告されたとき、そんなことがあってはなりませんとイエスさまを諌めました。しかしイエスさまは、ペテロに向かって、なんと、下がれ、サタン、と一喝されたのでした。 サタンは、人の強さを利用します。屈強な漁師だったペテロは、自分は強いと思っていたことでしょう。そんな強いペテロから見れば、自分の師匠であるイエスさまが人々から捨てられるなど、耐えられないことだったことでしょう。ペテロは、自分の強さでイエスさまを守ろうとでも考えたのでしょうか。しかしそれは、神さまのみこころを成り立たなくさせようという、悪魔の導きというもので、イエスさまはそれに対して、断固として「ノー」を突きつけられました。 イエスさまはこのようにペテロを一喝されてから、おっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」そうです、イエスさまがペテロをはじめ、弟子たちにお求めになった姿勢は、強くなることではありません。キリストのあとを従うために、弱くなることでした。 そんなペテロは、結局は鶏の声を聞くことになったのですが、その声を聞くに至るまで、3つの弱さを突きつけられました。 まず、ペテロは、嘘も方便とはいえ、嘘をつくことでしかイエスさまに近づけなかったという弱さを突きつけられました。 ペテロは、イエスさまについていきました。しかし、大祭司の中庭の門の外に立っていました。それを見かねた弟子が門番の女性に頼み、ペテロを中に入れさせました。しかし、門番の女性はペテロに尋ねました。「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。」そのときペテロは、ちがう、と言って、中に入りました。 ここで注目すべきことは、ペテロがイエスさまに近づこうとして、嘘をついた、ということです。いったい、イエスさまにお近づきするとはどうすることなのでしょうか。イエスさまのことを知らないという者のことを、イエスさまも知らないとおっしゃると、厳重に警告されていました。ペテロは一見すると、イエスさまのそばに近づいているようでしたが、イエスさまのことを知らないなどと嘘をついて近づいている時点で、もう、イエスさまが遠ざかるような行いをしていたのでした。 これがペテロの弱さであり、人の弱さです。いざというときに人は、妥協します。イエスさまにお従いします、裏切りません、と誓ったペテロのことばは本心からものでしょう。しかしペテロはいざとなると、イエスさまを知らないと言い、単なる興味本位を装って近づくという行動に出たのでした。 私たちもまた、いざというとき、いや、私は単なる教養のため、お勉強のためにキリスト教を学んでいるのだ、などとしらを切り、イエスさまにお従いしていることを否定したりはしないでしょうか? いや、自分はそうはならない、とおっしゃいますか?  しかし、イエスさまにならって多くのわざを行なったペテロが、イエスさまを見つめて水の上を歩くことさえしたペテロが、いえ、「あなたは生ける神の御子キリストです」という、百点満点の信仰告白をしたペテロが、嘘をついてイエスさまを否定したことの意味を、私たちはもっと自分のこととして考える必要があります。 いえ、私はキリストについていっていました、私は礼拝をきっちり守っていました、こんなことばをイエスさまの前で言おうとも、いざというときの言動で否定してしまう弱さ、それが私たちの中にあることを、私たちは素直に認めたいと思います。 ペテロの第二の弱さ、それは、わが師、わが主が、目の前で法廷に引き出され、なぶりものにされているという事実です。 ペテロの見ている前で、イエスさまは大祭司の尋問を受けていました。イエスさまのお答えに、嘘偽りがあろうはずがありません。しかし、大祭司の下役は、何の権限があってそんなことをするのか、答え方が悪い、と、縛られたままのイエスさまのお顔をぶちました。 そのような光景を見ていたペテロは、いのちを懸けてついて行っていたわが主、わが師匠が、ほかならぬ宗教指導者たちによって完膚なきまでに否定されるという、その有様を見つめつづけるしかありませんでした。 ペテロはもしかすると、ここでイエスさまが神の子としての権威を大いなる御業によって示され、このような目にあわせる宗教指導者どもをたちどころに滅ぼされることを夢見たかもしれません。しかし、何も起こりませんでした。イエスさまはただ、ほふられる羊がほふり場に連れて行かれるかのように、この者たちの暴力やあざけりに身をお委ねになるばかりの御姿を見るのみでした。 これは、神の弱さです。あたかもそれは、宗教指導者という人の強さ、というよりも、罪人という人の強さが、神の弱さを凌駕しているかのようです。ペテロはその姿を見て、その弱いお方を主と告白し、師としてお従いしていたという事実に、あらためて愕然としたのでした。 ペテロは少し前に、イエスさまをこのような目に合わせる者の耳を切り落とす刃傷沙汰に及ぶほど、イエスさまを守ろうという思いでいっぱいでした。まるでそれは、神の弱さを人の強さで守ろうとするようなものでした。 しかし、その剣をイエスさまに取り上げられ、なすすべもなくなったペテロは、今や、神の弱さの前に人の弱さをさらけ出している、きわめて無防備な状態にありました。不遜にも神の弱さに襲いかかる宗教指導者という罪人の強さは、いまや自分という罪人の弱さを呑み込もうとしていることを思い、ペテロは言いようもない恐怖に取りつかれていました。 しかしこの神の弱さは、罪人をさばきます。神に勝ったと豪語するような罪人は、最終的にイエスさまの十字架によって完膚なきまでに滅ぼされます。この宗教指導者どもも、イエスさまをさばいて有頂天になっていたかもしれませんが、彼らこそが究極のさばきにふさわしいものとされていたことに、彼らは気づいていませんでした。 ペテロも、いまここで目の前に繰り広げられるイエスさまの凄惨なお姿、すなわち神の弱さに、実は自分が弱くされるのではなく、この上なく強くされていることに気づくべきでした。しかしこのとき、ペテロはそれを知るにはあまりにも弱すぎました。イエスさまの弱さを受け入れられないほど、ペテロは弱かったのでした。イエスさまのみあとを従って自分の十字架を背負ってついていくなど、今のペテロにはとんでもないことでした。 私たちも、イエスさまが十字架を背負われるこの場面を見て、目をそむけたくなるかもしれません。自分もそうなってしまったらどうしよう、そう思いませんか? でも、その一方で、そんなことを思う弱い自分は救われないかもしれない、そんなことも思いませんか?  しかし、神さまは、十字架を背負う備えにまだ至っていないクリスチャンが、そのように十字架を背負う自己犠牲の生き方ができなかったとして、そのことでその人をおさばきになるようなお方ではありません。イエスさまは、人がそのように弱いことをご存じです。なぜならイエスさまご自身が、弱い人間としてこの世界を生きられたからです。弱い私たちに同情することがおできになる方です。 いま私たちは、イエスさまのみあとをお従いするなどとてもとても、と思うかもしれません。でも、そんな自分を正当化しないで、それでもイエスさまのみあとを従っていける人になれますように、と、ともにお祈りするなら、それでいいのです。 イエスさまが十字架を背負われるために人のさばきを受けられたように、私たちも人のさばきを受けるがごとき迫害に引き出されることを恐れているでしょうか?  いえ、恐れていいですし、恐れるのが当然です。しかし、その恐れる私たちのその罪を十字架で引き受けるために、あえてイエスさまが人々の前で弱い姿を取られたことを、私たちは忘れないでまいりたいものです。 まさしく、神の弱さゆえに、私たちは神さまにお従いする強さをいただくのです。私たちのために弱くなられたイエスさまは、復活してこの上なく強いお姿で、いま私たちとともに歩んでくださっています。イエスさまから力をいただきましょう。 ペテロの第三の弱さ、それは、鶏が鳴くことを知っていたのに、それに備えられなかったことです。 イエスさまははっきり、鶏が鳴く前に3度あなたはわたしを知らないと言います、と予告されました。ペテロはこの警告に、相当なショックを受けたのではないでしょうか。しかしその一方で、鶏が鳴くとはどういう意味だろうか、と思ったかもしれません。 果たしてペテロは、3度にわたってイエスさまを知らないと言いました。3度目のことばに至っては、ほかの福音書の並行箇所を読むと、嘘ならのろわれてもよいと誓って「知らない」と言った、とあります。 ペテロは、これまでのイエスさまとの3年間の生活を、すべて「嘘」と片づけんばかりの勢いだったのでした。このイエスさまとの生活が嘘ではなかったならば、私は呪われたってかまわない。このときペテロは、まさかその直後に鶏が鳴くなどと、考えてもいなかったのでした。ということは、イエスさまの警告を信じてはいなかったということです。 実は、鶏が鳴くとイエスさまが警告されたことには、意味がありました。マルコの福音書13章35節と36節をお読みしましょう。 ここに、何と書いてあるでしょうか。鶏が鳴く、と、はっきり書いてあります。これは、世の終わりにイエスさまが再臨されるという文脈で、イエスさまがお語りになったことです。だから、目を覚ましていなさい。あなたがただけではなく、すべての人が。 こうして見ると、イエスさまが「鶏が鳴く」とおっしゃったことばのとおりになったのは、もちろん、単なる偶然という問題ではありません。でも、だからといって超自然的な預言をされたということにとどまる問題でもありません。 イエスさまのお語りになったことばのとおりになる世の終わりに際して、ペテロが霊的に眠っていたように、主の弟子として歩んできたつもりの者たちも、霊的に眠ってしまい、眠っているところを再臨のイエスさまに見られてしまうという、厳しい警告の込められたできごとでした。 霊的に眠るとは、みことばがよもやそのとおりになるまいと多寡を括る不信仰を意味します。イエスさまが再臨されると語られる以上、私たちのすることは、イエスさまが再臨されると信じることです。イエスさまが再び来られることに備えての準備を、日々怠らずに行うことです。それがみことばを信じるということです。 しかし私たちは、心が燃えていても肉体が弱い者です。イエスさまの再臨に備えなければ! と心が燃えても、その燃える心はなんと一時的なものでしょうか。たいてい私たちは眠ってしまっているものです。 そのように霊的に眠る不信仰に、私たちは絶えず置かれていることを素直に、謙遜に認める必要があります。みことばをそのとおりに信じる信仰は、神さまの恵みによってはじめて与えられるものです。 いえ、私は創世記1章1節から黙示録22章21節まで、聖書全体を信じています、とおっしゃいますでしょうか? それは結構なことですが、みことばを信じているということは、行いがそのとおりになっているということで証明されるものです。残念ながら私たちは多くの場合、信じていると口で言うほどには行いが伴っていないものです。 私たちが、すぐにでもキリストが来られるというみことばを読んでいながら、そのみことばを意識することのあまりに少ない生活を見ると、やはり本心では信じていないという事実を突きつけられます。 私たちは、このような不信仰の者であることをまず認める必要があります。私たちは自分が思っているほど、信仰のある者ではありません。いざというときに眠ってしまう弱さを身にまとっています。だからこそ、いつも目を覚ましていさせてくださいと、主に祈りつづける必要があります。私たちにその信仰がいつも保たれ、いつも祈りつづける者となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 ペテロの弱さは、私たちの弱さです。人前でイエスさまを知らないと言いながらイエスさまについて行こうとしてしまう弱さ、イエスさまのあとをついて迫害を受けることを避けてしまう弱さ、再臨に結実するみことばを信じきれない弱さ……。…