アドナイ・イルエの神の子羊

聖書箇所;創世記22:1~24/メッセージ題目;アドナイ・イルエの神の子羊 私たちが聖書を読んでいると、ときに、感覚的によくわからなくなる記述に出会います。特に、神は愛なり、と語られているのに、なぜ神さまはこのようなことをお許しになるのだろうか、と、首をかしげてしまったりしないでしょうか。 しかし、それは得てして、私たち聖書を読む側の思い込みに問題があったりするものです。神は愛なり、というとき、私たちが思い描く「愛」というものが、聖書が語っている「愛」というものと一致していない、ということが、往々にしてあるわけです。 聖書を読んで感覚的に受け入れられなくなるとき、私たちのすることは、一回聖書を読んで拒否感を示したら、それきり読まなくなる、ということではありません。その箇所を一回こっきりではなく、何度でも聖書全体をお読みし、神さまのまことの愛とは何かを受け取ることです。聖書に語られていることが理解しにくいからと、あきらめないで、何度でも読み込んでいただきたいのです。 そこで本日の箇所です。本日の箇所も、なぜ神さまはこのようなことをお命じになるのだろうか、子どもをささげよだなんて! と、とまどったりしないでしょうか? そこで私たちは、この箇所のほんとうに語ろうとしていることを学び、神さまのみこころを受け取ってまいりたいと思います。 1節のみことばです。神さまがアブラハムに与えられたものは「試練」です。あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを、全焼のいけにえとしてささげなさい。」 このご命令を受けたとき、アブラハムはどのような思いだったことでしょうか。私の個人的なことですが、まだ下の娘が小さかったとき、2人でごっこ遊びをしていて、娘はこんなことを言うのでした。私はブタの丸焼きになるから、とどめを刺して! 娘は「ブヒー、ブヒー」なんて言うんです。そこに私が刃物を振り下ろす真似をします。しかし、娘はまだ「ブヒー、ブヒー」なんて言います。これでは丸焼きにはなれません。 しかし、私はもう、刃物を振り下ろす真似などできなくなり、「もうやめよう……」と言って、別の遊びを始めさせました。ごっこ遊びとはいえ、娘に手をかけているような気持ちでいっぱいになり、あまりにもつらかったのでした。 ただのごっこ遊びでさえそうなのです。ましてや、山へ連れていき、ほんとうに全焼のいけにえとしてささげよと命じられたアブラハムは、どんな気持ちになったことでしょうか。 神さまがおっしゃるとおり、アブラハムにとってイサクは、「愛しているひとり子」です。手になどかけられるものでしょうか。しかし、神さまのご命令は絶対です。 もう、お分かりだと思います。アブラハムとイサクの関係は、御父なる神さまと御子なるイエスさまの関係を示していました。アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして神さまにささげることは、父なる神さまが愛する御子イエスさまを十字架に死なせられることを示していました。 しかし、アブラハムの従順は、イサクをほふってそれで終わり、というレベルにとどまってはいませんでした。5節のみことばをお読みください。……アブラハムは、イサクとともに戻ってくると約束しました。イサクは、生きて帰ってくる。アブラハムはそう確信していたということです。これはどういう意味なのかは、のちほどお話ししているうちに明らかになってまいります。 6節をご覧ください。アブラハムは火と刃物を取りました。火はいけにえを焼き尽くすためのもの、刃物はいけにえをほふるためのものです。どちらも、いけにえのいのちをささげるために用いる道具です。そうです、イサクのいのちがアブラハムの手のうちにあることを、アブラハムが両手に持った火と刃物は雄弁に物語っています。 一方でイサクは、薪を背負っています。薪は言うまでもなく、木です。木を背負って山道を登るイサクの姿に、やはり何かを連想しないでしょうか? そうです。十字架を背負ってゴルゴタの丘をのぼるイエスさまのお姿です。まさしくイサクは、神さまがまことのいけにえとして十字架の上にて砕かれるイエスさまのお姿を、その十字架のできごとのはるか昔に表していたのでした。 ただし、イエスさまとイサクはちがうところもあります。イエスさまはご自身が十字架に掛かられ、いけにえとなられることの意味をよく理解していらっしゃいました。これに対してイサクは、まさか自分がいけにえとしてささげられようとは、思いもしていなかった模様です。7節と8節の会話をお読みしましょう。 まず7節で、イサクはここでようやく、なぜアブラハムがいけにえの羊を連れてこなかったのか疑問に思いました。しかしアブラハムは、その羊は神さまがその場で備えてくださると答えています。 アブラハムはこのように答えていますが、アブラハムは、当のイサクがいけにえとしてささげられるということに気づかれまいと、嘘をついたか、ごまかしたかしたのでしょうか? いいえ、そうではありません。アブラハムには、羊が備えられるという信仰はあったと見るべきです。 とはいっても、この時点でははっきり、アブラハムが神さまからそのように御声を聞いたという形跡はありません。2節をお読みください。しかし、それにつづいて神さまは、「……しかし、わたしは、その場に全焼のささげ物の羊を備えよう」とおっしゃってはいないわけです。 神さまがイサクの代わりに羊を備えてくださるということは、信仰をもって信じてはいました。実際に神さまは、アブラハムに対して具体的にそのことを約束してくださっていたわけではありません。しかしアブラハムは、約束の子イサクはきっと生きて帰る……必要なら神さまは、いけにえとしてささげる羊も備えてくださる……そのように、わずかな望みにかけながら、一歩、また一歩、歩みを進めていったのでした。 そしてアブラハムとイサクは、ついに神さまがお示しになった場所に着きました。神さまのご命令はあくまで、イサクを全焼のいけにえとしてささげるということです。アブラハムは祭壇を築いて薪を並べました。そしてイサクを縛って、祭壇の薪の上に横たえました。 イサクは、アブラハムのなすがままになっています。しかしイサクは、もう子どもではありませんでした。いけにえを焼き尽くせるほどの薪を背負って山を登れるほどの体格があったのですから、充分立派でした。しかしイサクは、アブラハムが命じるとおり、縛られるままになり、祭壇に横たえられるままになりました。そして、振り下ろされる刃物を待つのみとなりました。 これは、イサクの従順を表しています。神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださる。イサクはアブラハムのそのことばを信じていました。しかし、神さまが父アブラハムにお命じになったのなら、自分が全焼のいけにえになれとのご命令にもお従いしよう……まさしく、全き従順です。 そしてアブラハムもまた、いよいよ主に対する従順を果たそうとしました。刃物を取り、息子イサクをほふろうとしました。そのとき、御使いがアブラハムの手を止め、語りました。12節です。 アブラハムは、2つの理由で、神さまから与えられた試練に合格しました。ひとつは、神を恐れていた、ということ、もうひとつは、ひとり子さえも惜しむことがなかった、ということです。 アブラハム以来受け継がれてきた私たちの信仰は、神さまを恐れるということ、そしてそれと同時に、御父なる神さまが、惜しむことなくひとり子イエスさまを十字架につけてくださった、ということを信じることです。 では、アブラハムがこのように行動したことは、信仰ということとどのような関係があるでしょうか? ヘブル人への手紙11章17節から19節です。 メッセージの冒頭でも申しましたが、時に私たちにとって難解に思える聖書箇所は、聖書全体をよく読むことによって、その葛藤を解決することがふさわしい方法です。この、ヘブル人への手紙の箇所をお読みすることもそれにあたります。 このヘブル書の箇所は、創世記22章のアブラハムのエピソードに対する、またとない解き明かしです。まずこのみことばは、アブラハムはイサクを「ささげた」と評価しています。 しかし、形だけ見ると、アブラハムはイサクを全焼のいけにえにしたわけではありません。そればかりか、イサクのことを刃物でほふってさえいません。しかしヘブル書のみことば、つまり神さまのみこころから見たら、アブラハムはイサクを「ささげた」のです。それは、御使いが「もう充分だ」と、アブラハムがイサクに手をかけるのを許さなかったことからも明らかです。 さらに18節、19節も見てみましょう。神さまがアブラハムに、イサクをささげよ、とおっしゃったことは、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と神さまがアブラハムにおっしゃったことと矛盾するではないか、という印象を持たなかったでしょうか? しかし、そうではないならば、残る可能性はただひとつ、「アブラハムはイサクが復活することを信じていた」ということです。 しかし、イサクは死にませんでした。代わりに、そこに備えられた羊、「主の山に備えあり」、「アドナイ・イルエ」の羊がささげられたのでした。それでもヘブル書のみことばは、アブラハムがイサクのことを「死者の中から取り戻した」と評価しています。 ここに、イサクをとおして私たちは、イサクの二重の立場を垣間見ることになります。まず、イサクはイエスさまの象徴でした。アブラハムは、イサクをほふっていけにえとすることをみこころとして受け取っていました。しかし、それと同時に、イサクは死んだままではなく、復活して、そのイサクから約束の民、神の民を生まれさせてくださると信じていました。 イエスさまも、その死によって御父に対する宥めの供え物となられましたが、三日目に復活されました。御父はイエスさまを、死者の中から取り戻されたのでした。 それでもイサクとイエスさまとの間には、決定的な違いがあります。言うまでもないことですが、あえて申します。イサクは死ななかったのですが、イエスさまは死なれたのでした。イエスさまを十字架の上で死なせるしかなかった御父のみ思いは、いかばかりだったことでしょうか。 イエスさまは十字架の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、叫ばれました。何の罪のない神の御子が、私の、あなたの、私たちの罪をみな背負って、十字架の上で呪いを受けられました。そのように御子が叫ぼうとも、見捨てるしかなかった御父のみこころは、いかばかりだったことでしょうか。 もうひとつのイサクの姿、それは、備えられた羊によって全焼のいけにえとなるのを免れた姿ですが、何に似ているでしょうか? それは、まことの備えられた羊なるイエスさまによって焼き滅ぼすさばきの火を免れた、私たち信仰する者たちの姿です。 私たちは罪人です。私たちにふさわしいものは、焼き滅ぼす神の怒りの炎です。滅ぼされるべき者たちです。しかし、イエスさまは、私たちを愛して、この炎と燃えさかる御父の怒り、罪人を滅ぼさんとする怒りを、十字架の上に釘づけにされた両手で受け止めて、私たちを御怒りからかくまってくださいました。 イサクが、備えられた羊によって無事に帰ってくることができたのは、私たちがさばかれる代わりに、イエスさまがそのさばきを身代わりとなって受けてくださった、それゆえに私たちがいのちを得させていただいた、そのことを象徴しています。 最後に、本日学びましたアブラハムのイサク奉献について、新約聖書のまた違った角度の評価からも学んでみたいと思います。ヤコブの手紙2章21節から24節をお読みしましょう。 アブラハムが信仰の人であったということは、実際にイサクをささげるほどに神の御声に聞き従うことで証明された、というわけです。そうです、信仰は行いという形で実を結んでこそしかるべきであるわけです。 たしかに、イエスさまを信じさえすれば私たちは救われるのであって、救われて永遠のいのちを得るためには、それ以上のことをする必要はありません。 しかし、今度はその信仰を、神に救われた者としてふさわしい行いへと実を結ぶべく、神さまに拠り頼む方向へと生かしていく必要があります。 面倒なことはしなくていい、やりたくないことはしなくていい、なぜならもう、信じているのだから……このように安易に考えることが許されるのならば、聖書のみことばがここまで分厚い必要はありません。私たち人間は、そこまで単純な存在として創造されているわけではありません。 偉大な神さまのみこころにお従いすることは、どんなに素晴らしいことか、そのことをみことばは、時にはモデルを示しながら、時には反面教師を登場させながら、私たちに教えてくれています。 アブラハムの場合は、イサクをささげるということを実践することで、信仰とは御父が御子をいけにえとされたことを信じることであると、私たち主の民に教えてくれています。そこから私たちも、いずれの日に取り戻させていただくという信仰をもって、わずかでも自分の持つものをささげる実践をさせていただくというわけです。 本日は主の晩さんを執り行います。備えられた羊なるイエスさまのみからだにあずかり、血潮にあずからせていただいているという事実を、いまいちどこの共同体が確かに受け取らせていただく時間です。 この大事な時間に備え、一週間私たちは祈ってきたことと思います。それでも私たちは、主の御前にふさわしくないことをしてしまったかもしれません。悔い改め、それでも主のみからだと血潮にあずかるものとならせていただいていることに感謝し、主の晩さんに臨みたいと思います。しばらく祈りましょう。