十字架に向けての入城

聖書箇所;ヨハネの福音書12:12~19/メッセージ題目;十字架に向けての入城  先日まで行われていた大相撲秋場所は、正代(しょうだい)関が初優勝と大関昇進を決め、大きな話題となりました。さて、大相撲の本場所の優勝にはいろいろなセレモニーが伴いますが、残念ながら、昨今の事情でできなくなっているセレモニーがいろいろあります。優勝力士がオープンカーに乗ってのパレードなど、その最たるものでしょう。  紋付き袴、大銀杏の優勝力士は、沿道を埋め尽くす群衆に、満面の笑みをたたえて手を振ります。隣で優勝旗を持った、やはり大銀杏に紋付き袴の関取も、うれしそうです。なんとも晴れがましい姿! 私はむかしから大相撲が好きで、この優勝パレードの様子は何度となく見たものでしたが、見ているこちらまでうれしくなり、祝福したくなる気分になります。  さて、このオープンカーの祝賀パレード……そのオープンカーに乗った主人公が、オープンカーではなく、何の変哲もない軽トラックの荷台に乗って登場したら、どうしますか? でも、沿道の群衆が割れんばかりの歓声で迎えたとしたら、どうしますか? 今日はそんなお話です。  今日の箇所は、イエスさまのエルサレム入城のエピソードです。これは、前回のヨハネの福音書の学びの時扱いました、ベタニアの三きょうだいの家をイエスさまが訪問された、あのできごとの翌日のできごとです。そのとき、何があったでしょうか? マリアがイエスさまに、香油を注いだのでした。 売れば数百万にもなろうかという大変な宝物を、惜しげもなくイエスさまに注いだという……弟子たち、特に、イスカリオテのユダなどはこれを見て憤慨し、マリアを責めましたが、イエスさまはむしろ、これはご自身の葬りの日のためにマリアが行なったことだと、マリアのこの行動をほめてくださいました。 マリアが香油を注いだというこのことにより、いよいよイエスさまの死、十字架の死が備えられることになりました。今日の箇所は、その翌日のできごとで、イエスさまはベタニアからエルサレムに入城されます。 14節に、イエスさまはろばの子に乗られた、とあります。このろばは、荷物を載せるための子ろばです。まだ、だれも乗ったことのないろばです。この子ろばの持ち主は、主がお入用だから連れていきます、と弟子たちが言うと、喜んで、とばかりに子ろばを引き渡します。 かくして、イエスさまは子ろばにまたがって、エルサレムに入城されました。イエスさまがラザロをよみがえらせたことを知って、その話題で持ちきりになっていたエルサレムの住民たちは、沿道に群れを成して、メシアなる王を迎える態度で、なつめやしの枝を手にし、自分の上着や木の枝を道に敷いて、最大級の歓迎をしました。 そんなイエスさまがまたがっているのは、しかし、荷物用の子ろばです。しかし、王さまなら、立派な白馬にでもまたがったほうがよくないでしょうか? しかし、イエスさまが乗られたのは、荷物用の子ろばです。まさしく、オープンカーではなく、軽トラの荷台です! 15節を見てみますと、これは、旧約聖書みことばの成就であると書かれています。ゼカリヤ書9章9節で預言されていたとおりです。 ちょっと、ゼカリヤ書の9章9節を開いてみたいと思います。……イエスさまは、義なるお方として、勝利の凱旋をされることが強調されています。しかし、この神さまの絶対的なさばきによって人をさばき、罪に定めるのではありません。「柔和な者」とあります。そうです。イエスさまは柔和な方なのです。 イエスさまは、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいを友とされたお方でもいらっしゃいます。十二弟子にしても、厳しく鍛えられたばかりではなく、この世の徒弟制度のような関係ではない、友として接してくださいました。イエスさまは、このような罪だらけの私たちにとって、大上段(だいじょうだん)にさばくお方ではありません。むしろ、このような私たちを諦めることなく、どこまでも寄り添ってくださる、それこそ「友」、柔和なお方です。 そんなイエスさまに似合っていたのは、この世に堂々と君臨する「白馬」ではありません。庶民の視線に降りてきてくださる「子ろば」でした。群衆はそんなイエスさまの姿に、自分たちの味方となってくださる王さまという、かぎりない親しみを感じたにちがいありません。しかし何よりも、彼らのこの熱狂的な歓迎ぶりは、ゼカリヤ書9章9節の成就であり、かくして、みことばはほんとうだったということが明らかになったわけでした。 それにしても私たちは、もし、イエスさまが私たちのことを用いてくださるとするならば、自分のことを立派な「白馬」だと思いますか? それとも「子ろば」だと思いますか? いえいえ、私たちは「白馬」などと言いきれるものではないでしょう。せいぜい「子ろば」程度のものでしょう。しかし、「子ろば」であろうと、私たちはその背中にイエスさまをお乗せできるならば、立派に用いていただけるのです。主のご栄光を顕させていただけるのです。 むかし、榎本保郎という牧師がいらっしゃり、彼の物語は三浦綾子が小説にして週刊朝日に連載し、「ちいろば先生」というあだ名とともに有名になりましたが、取るに足りない子ろばのような存在、華やかなオープンカーではなくて軽トラのような存在でもイエスさまをお乗せできるならば栄誉極まりないことです。 榎本先生だけではありません。私の母教会、北本福音キリスト教会で30年にわたって牧会していらっしゃる小西直也先生は、この子ろばがイエスさまをお乗せしたという箇所に示され、自分のような者でも主をお乗せして用いていただけるならば、と、直接献身に踏み出されたと語っていらっしゃいます。 イエスさまが柔和な王さまでいらっしゃるのは、それが、私たちのように、罪を認めてへりくだる者、けっして威張らない、威張れない者の、王さまとなってくださるゆえです。この世の王さまなら、大金持ち、偉い人、そういう人の上に堂々と君臨したがるでしょう。しかしイエスさまはちがいます。私たちのような者たちの上に君臨するどころではありません、「仕えてくださる」お方です。その汚い足を洗ってくださるお方です。イエスさまはそんな王さまです。   しかし、イエスさまが王であられるのは、この世の者たちが王に立てたからそうなるのではありません。このとき、エルサレムの者たちは、イエスさまを王として迎えましたが、そんな彼らがイエスさまを王にしたのではありません。イエスさまを王に立ててくださったのは、父なる神さまです。どのようにして御父はイエスさまを王にお立てになるのでしょうか? イエスさまを十字架におつけになることによってです。  イエスさまがエルサレムに入城されたのは、いわば「王の戴冠式」、冠をかぶせられて王に立てられる、そのためのご入城といえましょう。では、イエスさまにかぶせられた冠は、どんな冠でしょうか? 茨の冠です。茨の冠のあとを待つものは、十字架でした。  イエスさまを大歓迎したはずのユダヤ人たちは、宗教指導者たちに焚きつけられ、イエスさまを裏切り、イエスさまのことを、十字架につけられるほどの極悪人と見なしました。十字架は、彼らユダヤ人にとっては、この上ない呪いを表す存在でした。 しかし、主に選ばれた者たち、私たちにとっては、この血なまぐさい存在、目をそむけたくなる存在が、どれほど麗しく、慕わしいことでしょうか? イエスさまは十字架の上で両手を広げ、御父が私たち罪人に怒涛の如く注がれる激しい御怒りから、私たちをかくまってくださいました。私たちは王なるキリストの打ち傷によって、いやされたのです。 イエスさまの十字架はまた、私たち人間のうちに平和をもたらす存在です。世の王たちは、臣民に平和を実現してこそ、よい王として認められます。イエスさまこそは、私たち人間のうちに平和を実現してくださるお方です。 その平和は、まず私たち人間が神さまと和解させていただく、つまり、神さまと平和な状態にしていただくところから始まります。その、父なる神さまとの平和を実現してくださるのは、イエスさまの十字架をおいてほかにありません。イエスさまの十字架によって平和を実現していただいた私たちは、同じイエスさまの十字架によって和解していただいたどうし、お互いの間に主にある平和を実現していくのです。こうして、キリストが王として統べ治める御国が、私たちの間に実現します。 ただ、このときイエスさまのことを「ホサナ!」主、わが救い、と大歓声でお迎えした群衆は、わずか数日後にはそんな自分たちが一致団結してイエスさまを十字架につけよなどと叫ぼうとは、思いもしなかったことでしょう。彼ら群衆がイエスさまを十字架につけさせるように、扇動した存在がありました。宗教指導者たちです。そんな彼らの苦々しいつぶやきが、19節に書かれています。 イエスさまはおっしゃいました。彼ら群衆が黙れば、石が叫ぶ、と。彼ら宗教指導者たちは、まるで石が叫び出すようなとんでもないことを、着々と進めていたわけでした。彼らはこのとき、群衆を見て、何を思ったでしょうか。律法に通じた彼らのことです。ゼカリヤ書9章9節のメシア預言を連想したにちがいありません。しかし、彼らはこのように、ゼカリヤ書のとおりにイエスさまが現れても、なお信じませんでした。かえって、よくもこのとおりになったな、と、怒りまくったわけです。 何とかたくななのでしょうか。しかし、主の真理に目がふさがれ、けっしてその覆いをイエスさまによって取り除けていただこうと思わない者は、どんなにみことばによってイエスさまが神の子であると示されても、受け入れることはありません。かえって、彼らのすることは、ますますイエスさまに敵対し、したがって神さまに敵対することです。 ただ、このようなパリサイ人に関する記述を、聖書が、これでもか、と書いているのは、なぜだとお考えでしょうか? それは、私たちが、イエスさまを信じることによって自分はもはや律法主義者じゃない、ばんざーい! それに引き換え、あの律法主義者どもはなっていない、などと、安心して、人を罪に定めるためでしょうか? いえ、それこそが、パリサイ人のすることなのです。おわかりでしょうか? パリサイ人に関する記述に聖書があれほど紙面を割いているのは、私たちもパリサイ人になりうる、もっと言えば、私たちもパリサイ人である、からです。 パリサイ人とはもともと、分離主義者、という意味です。世の中のけがれ、俗から分けられた生き方を目指す存在です。しかし、それが度を過ぎると、みことばを一字一句、文字どおりに守り行なわなければ認められない、という、極端な考えになります。その発想に立つならば、たやすく人を罪に定めるようになります。 でも、そのような生き方は、私たちもしばしば、してしまったりしてはいないでしょうか? 私はイエスさまの十字架を信じてきよい存在としていただいた。それなら私たちは、イエスさまの十字架を誇るべきなのに、私たち自身を誇るという、実に愚かなことをするのです。そればかりか、自分の目の梁を差し置いて、人の目のちりを取らせてもらおうとするのです。 聖書に書かれたパリサイ人、宗教指導者は、そういうわけで、自分と関係ない存在と考えてはいけません。いわば反面教師であり、自分の中にもそのようなダークサイドがあることを、謙遜に認める必要があります。 ともかく、ユダヤの宗教指導者たちは、この時点ではイエスさまを引き渡すための十分な策を練ることができずにいましたが、しかし、それであきらめたわけではありません。結局彼らは、最終的に、エルサレムの民衆を抱き込むことに成功しました。彼ら民衆は、イエスさまを王として迎えたはずだったのに、わずか数日後にはピラトに向かってイエスさまを十字架につけよと騒ぎました。暴動寸前になるところで、ピラトはイエスさまを十字架につけました。 それは、御父のみこころが成就したということでもありますが、だからといって、エルサレムの者たちの罪が減じられたということにはなりません。彼らエルサレムの住人たちは、どうなったのでしょうか?  彼らはのちに、ペテロの説教によって、心を刺されて悔い改めました。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのだ!」その一回の説教で、実に三千人もの人が主の弟子になったとみことばは語ります。大変な数です。それから日々、イエスさまを信じる人は増し加わり、宗教指導者たちに翻弄されたエルサレムの住民たちは回復しました。 このときこそエルサレムの民は、イエスさまを王としてお迎えしたことのほんとうの意味を知ったのでした。イエスさまはローマ帝国の支配から解放する王ではなかった。十字架によって成し遂げてくださった神の平和により、私たちを統べ治めてくださる王さまであった。イエスさまの十字架を受け入れるならば、私たちも神との平和を得させていただける。それまでは、律法を守り行うことで神さまに認められようとしたユダヤ人たちは、ようやくほんとうの意味で救いを得ることができたのでした。 エルサレム入城……それは、柔和な王としての入城で、十字架におかかりになることで、私たちを王として統べ治めてくださるための入城でした。 私たちのうちに王として入城されたイエスさまは、その十字架によって私たちを統べ治めてくださいます。私たちのすることは、十字架をもって私たちに仕えてくださったイエスさまの、その御力をいただいて、主と、人々を愛し、お仕えすることです。 今日私たちは、主の晩さんをもって主の十字架をしのびます。私たちが主の晩さんにあずかるとき、罪人のこの私に寄り添うように、子ろばに乗って私のもとに訪ねてきてくださったイエスさまとひとつとされていることを心から感謝し、イエスさまの十字架の犠牲をしのぶ者となりましょう。