祈りは聞かれるから

聖書朗読;ヨハネの福音書11:38~45/メッセージ題目;祈りは聞かれるから  みなさんにお伺いしたいと思います。みなさんにとって、祈りとは何でしょうか?  今も心痛む、忘れられない想い出をお話しします。それは私が大学生のときのことで、ある人から別れ際に、こんなひと言を言われたのでした。「いいか、よく覚えておけ。祈りは、演技だ!」それまで私は彼のことをクリスチャンと思ってつき合い、つい今しがた、別れる前に彼の祝福を祈ったばかりでした。そして返ってきたことばがこれでした。「よく覚えておけ、祈りは、演技だ!」  私も若くて、どう言い返せばよいかわかりませんでしたし、それに彼は、ストレートに福音を受け入れるには、あまりにも傷が深い人でした。そういう状況で聞いたことばであることを割り引いても、そのとき聞いた「祈りは、演技だ!」ということばは、28年経った今も、ときどきに私の心の中で首をもたげてきます。  みなさんならば、大事にしている人から「祈りは、演技だ!」と吐き捨てるように言われたら、どう答えますか。ほんとうに、祈りとは演技にすぎないものなのですか。実を申しますと、私は今に至るまで、彼に対してその答えを言ったことはありません。振り返ってみると、私の人生は祈りが応えられたことの連続でしかなかったのですが、それを言ったところで、もし今もなお彼が考えを変えていなかったとしたら、彼はけっして私に起こされた祈りの応答など認めないでしょう。私がどう祈ろうと、それは演技なのでしょう。  彼がそう思うのは、しかたないのです。第一コリントに書かれているとおり、御霊のことは御霊によってわきまえる、とありますが、最初から御霊のわざなる祈りというものを疑ってかかるならば、祈りというものほどリアルなものはないこと、祈りは実に愛にあふれた神さまとのコミュニケーションであることを、わかるわけがなく、演技と見なす自分を正当化するばかりでしょう。なぜなら、不信仰であることをやめないことにより、御霊の導きが自分に臨むことを拒否しているからです。  でも私たちは、祈りというものを身近にした生活をしていますでしょうか? 早い話が、祈っていますでしょうか? あなたのしていることはしょせん演技です、などと言いがかりをつける人が現れたとしても、少なくとも私たちの心の中は平安でしょうか?  本日のみことばは、その真ん中の部分に、イエスさまが御父にお祈りすることばが出てまいります。まさしく、祈りです。しかしこの祈りは、兄弟ラザロを生き返らせてくださいとイエスさまにすがった、マルタとマリアの声なき声の祈りに応えられての祈りであると言えましょう。 本日の箇所から、私たちにとって祈りとは何か、受け入れていただける祈りとは何か、ということを、ともに学んでまいりたいと思います。 イエスさまは憤っておられました。アダムの堕落以来、人を悲しみに陥れる死というものがなお人の世界を支配している現実……イエスさまはこの、死というものへの怒りをいだいておられたのでした。 この怒りはまた、よみがえりであり、いのちであるイエスさまのご存在を見えなくさせてしまうほどの死の持つ力に対する怒りとも言えました。この怒りに私たちは共感できないでしょうか?  あれは私が大学生のときでしたが、芸能界のおしどり夫婦として知られていたあるカップルの、奥様が亡くなったときのことです。奥様はクリスチャンで、教会でご葬儀をした様子までワイドショーで報道されていました。私も知っていた教会だったので、ちょっと驚いたものでした。それはともかく、その教会でインタビューに応じていた旦那さんが、口元に笑みさえ浮かべながら、「妻はいま天国にいますから」と答えていらしたのが、とても印象的だったものでした。 しかし、ワイドショーのコメンテーターは、こんなことを言うのでした。「天国にいますから、なんておっしゃるそのおことばに、とても深い悲しみが感じられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。」私は旦那さんの平安に満ちた表情を見て、すこしも悲しみをこらえた様子が見えなかっただけに、このコメンテーターのコメントは的を外れていると思い、天国の福音をちゃんと伝えようとしないワイドショーのあり方に、怒りを覚えたものでした。しかし世の中とはそういうものです。永遠のいのちなるイエスさまがわからないものだから、天国よりも死のほうをよほど現実的に捉えてやまないのです。 それは、ここにいる人たちも同じでした。いのちなるイエスさまがここにおられるというのに、イエスさまが見えず、ラザロの死という現実の前に打ちのめされて、泣いていました。そして、一度は正しい復活信仰を持ったマルタさえも、揺れ動いてしまいました。   新約聖書のヤコブの手紙を読んでみますと、私たちが祈るとき、少しも疑わずに信じて願いなさい、疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようであり、そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりませんと書かれています。この箇所は明らかに、イエスさまの呼ぶ声にこたえると湖の上を歩けた、しかし波を見ると急に怖くなって、そのとたんおぼれかかった、ペテロのことを念頭に置いていると言えるでしょう。   湖の上など渡れるわけがない、これが常識です。しかし、イエスさまのみわざはときに常識を超える、なぜならばイエスさまは全能なる神さまだから……その信仰を働かせるとき、主が私たちのただ中にみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  マルタはついさきほど、イエスさまがラザロを実際によみがえらせてくださると信じ受け入れたばかりでした。しかし墓を前にすると、マルタのその信仰は揺れ動きました。死んで4日経った、そんな人は生きているはずなどないという現実的な考えに圧倒されました。その考えは、イエスさまが全能なる神さまであることを忘れさせてしまうのです。  この病気は治らない、この人間関係はもう修復できない、このあやまちからはもう立ち直れない……常識というものは私たちの実生活を支配しますが、それは何のためでしょうか? そのために私たちが絶望するしかなくなったならば、罪責感たっぷりになって自分を責めるしかなくなったならば、そんな常識など何の役に立つのでしょうか? しかし、こういうときに私たちは、祈ることができるのです。私たちにできないことを、全能なる神さまが必ずしてくださるという信仰を働かせるのです。  私たちはときに、常識という現実の前に圧倒されます。このときのマルタがそうだったようにです。しかし、イエスさまはマルタになんと語りかけられましたか? 40節です。主は、私たちが不信仰だからとおさばきになり、もう知りませんとお見捨てになることはけっしてありません。私たちの信仰が弱いことをご存じの上で、強い信仰へと成長させてくださいます。 要は、私たちがあきらめないことです。マルタは確かに揺れ動いていましたが、それでもイエスさまを呼び寄せるだけの信仰の行動はありました。イエスさまはマルタの信仰を表面的に評価することはなさらず、その奥底の心を汲んでマルタの信仰を一段と成長させてくださったのでした。 私たちも、心で信じたならばそれ相応の行動が伴ってしかるべきでしょう。しかし、信仰というものはいわば「内的衝動」とでも言うべきものであり、ほんとうに信じた人の中には、主のために何かせずにはいられないという衝動が大きくなり、行いという形で実を結ぶものです。 でも、このようなことを申しますと、自分は主のために何もできていない、と、落ち込む方がいらっしゃるかもしれない、と心配にもなります。しかし大丈夫です。問われる思いがあるならば、それは主がそれぞれの殻を破るように信仰を成長させてくださる前段階(ぜんだんかい)にあると考えるべきです。私たちは弱さを弱さとしたままで落ち込んでそれで終わりにするのではなく、弱さを強さに変えてくださる神さまに祈って、変えていただくのです。ここに、私たちは信仰を働かせるのです。 さて、それでは、イエスさまが祈りを聞いてくださるとはどういうことなのかを、41節、42節から考えてみましょう。お読みします。 ここでイエスさまは、御父がイエスさまの願いを聞いてくださったことを感謝しています。これこそが、祈りというものです。おわかりでしょうか? 祈りとは、イエスさまが御父に願うことです。 私たちはお祈りするとき、「イエスさまの御名によって祈ります」と言ってお祈りを締めくくります。これは、単なる決まり事とか、習慣のようなものではありません。お祈りはイエスさまの御名によって祈らなければ、御父に届かないのです。 人間は、神的な存在に対して祈ります。ギリシャ語で人間とは、アンスローポスといいますが、これは「上を見上げるもの」という意味で、人間とはみな宗教的な存在であることが暗示されています。だから人は祈ります。しかし問題は、「イエスさまの御名によって祈っているか」ということです。イエスさまの御名によって祈り、その結果として祈りが父なる神さまに届いているかということです。 もし私たちがイエスさまの御名によって祈るなら、その祈りの内容は、イエスさまが御父に祈る祈りと一致している必要があります。そうするとき、私たちの祈りははじめてかなえられるのです。私たちの肉的な欲望、願望が、いくら祈ってもかなえられないのは、それが、イエスさまが御父に祈るべき祈りの内容ではないからです。 そうだとすると、私たちの祈りは、なんと形式的なものに終わっていたり、自己中心だったりして、イエスさまの祈りに一致していないことが多いことでしょうか! それは単にことばを羅列しているだけで、神さまとのコミュニケーションという意味でのお祈りにはなっていないのです。もちろん、かなえられるはずもありません。 もっとも、みこころにかなうお祈りというものは、かなえられるかどうかで判定されるものではありません。イエスさまご自身がそうでした。ゲツセマネの園で苦悶の中で、この杯をわたしから取り除けてください、と御父に祈られたお祈りは、結果として十字架にかかられたということを見ると、かなえられたわけではありません。 しかし、このお祈りは、十字架という主のみこころが成るうえでどうしても必要なお祈りでした。イエスさまのこのお祈りは、かなえられなかったお祈りだったからといって、ふさわしくないお祈りだったのではありません。 私たちにしてもみこころにかなう祈りであると知ってもそれがかなえられないからと、失望してはなりません。祈りつづけることです。家族の救い、病気のいやし、教会の成熟、人格の成長……みな、みこころにかなっています。一朝一夕にかなえられなくても、祈りつづけることが大事です。 ともかく、祈りというものは、どんな祈りであっても、聖霊なる神さまの導きの中でささげるべきものです。聖霊の導きに敏感になるなら、私たちの祈りはイエスさまの祈りと一致した、的を外さないものへと整えられていきます。祈りが整えられるためには、まず祈ることです。そして祈りのうちに、私たちのすべてを、聖霊さまの導きに明け渡すことです。 御霊に満たされなさい、というみことばがあります。御霊は私たちクリスチャンを、いつでも満たしてきよめようとしてくださっているのです。みこころにかなうものへと整えようとしてくださっているのです。要は、私たちが御霊の導きに明け渡すかどうかです。御霊の導きに明け渡すならば、私たちの祈りは、イエスさまが御父に祈られる祈り、すなわち御父が聞き届けて栄光を顕してくださる祈りへと整えられます。 さきほど、若き日の私に向かって「祈りは演技だ」と言い放った人のことを言いましたが、これはもしかすると、耳に痛いことばとして受け取るべきなのかもしれません。思い返せば、私はなんと、形ばかりの、それこそ演技のような祈りをすることで済ましてきたことかと、悔い改めさせられるものです。そのような通り一遍のことばの羅列で祈ったような気分になっていたとき、聖霊なる神さまはどれほど悲しんでおられたことか、それを思い起こすなら、私はどれほど悔い改めなければならないことかと思います。 私たちの祈りは果たしてどうでしょうか? 私たちの祈るそのお祈りを、イエスさまがまったく同じことばで、父なる神さまに祈っておられる姿が想像できますでしょうか? 恥ずかしくならないでしょうか? はたして、私たちの祈りのことばはふさわしいでしょうか? しかし、イエスさまの御名で祈るにふさわしいお祈り、みこころにかなう祈りなら、イエスさまがそのとおりを御父に祈られ、御父は聞いてくださいます。ラザロをよみがえらせるのがみこころであったように、私たちにみわざを起こされるのがみこころなら、すなわち、そのみわざにより、私たちを通してご自身の栄光を顕してくださるのがみこころなら、必ず私たちの祈りは聞かれます、信じて、祈ってまいりたいものです。 さあ、イエスさまは祈られたあと、何とおっしゃったでしょうか。43節です。……この命令のことばに応えて、ラザロが出てきました。生き返ったのです! 特に44節の表現に注目しましょう。ラザロ、とは書いてありません。死んでいた人、という表現をしています。この表現は、ラザロが特にイエスさまに愛されていたからよみがえるということではなく、死んでいた人はだれもがイエスさまに引き出されるならばよみがえる、ということを暗示しています。イエスさまとはまさしく、死んでいた人をよみがえらせるいのちの主なるお方だということです。 私たちも、罪と罪過の中に死んでいた者でした。しかしあわれみ深いイエスさまは、罪からの報酬である死の中に閉じ込められていた私たち、まさしく、死んだ者が閉じ込められた墓の中にいたような私たちに、「出てきなさい!」と大声で呼びかけられ、死からいのちに移してくださいます。 もう私たちは死んではいません。永遠のいのちに生かしていただいています。しかしこのように贖っていただいた今、かつての自分の姿を考えてみましょう。私たちはどれほど死んでいたことでしょうか? どれほど神さまと断絶して、自分でも何をしているかわからないまま生きていたことでしょうか? しかしイエスさまは、そんな死につながれていた私たちのことを、「出てきなさい!」と、呼び出してくださったのです。 ラザロは最初、布に巻かれたままでした。この時点ではまだ、生き返った死体です。イエスさまはこの布をほどかせました。こうなるとラザロはもう、生き返った死体ではありません。生きているラザロです。 ラザロのその生きる姿は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを証しする姿そのものとなりました。このラザロを見てユダヤ人たちはイエスさまを信じましたし、のちに生き返ったラザロを一目見たいと、ユダヤ人たちがぞろぞろとやってくることにもなりました。 そうです、罪と死のただ中から「出てきなさい!」と呼び出された者は、いのちに生き生きしてしかるべきです。その姿は、いのちなるイエスさまを証しし、こんな素晴らしい生き方があるだろうか、なんと素晴しいのだろうか、と、人を惹きつけてやまないのです。 こんなふうに生きる祝福が約束されているのならば、私たちは用いていただくべく、祈らずにはいられなくなりませんでしょうか? 主よ、ここに私がおります、用いてください、と祈る祈りは、間違いなく、イエスさまが御父に祈られるにふさわしい祈りです。 私たちは、もはや不信仰ではいられません。形だけの祈りをささげて済ましてはいられません。死んでいた私たちに直接大声で「出てきなさい!」と呼びかけ、永遠のいのちを与えてくださったイエスさまの御声が、今も聞こえますか? もう一度信仰を働かせ、祈りましょう。 私たちが祈るのは、祈りは聞かれるからです。いまともに生きておられる神さまは、私たちを死からいのちに移してくださった贖い主です。このお方に、みこころにかなうお祈りをささげるならば、必ず聞かれます。不信仰を信仰に変えていただき、死からいのちに移していただいた恵みに感謝して、祈りましょう。

よみがえり、いのちなるイエスさま

聖書箇所;ヨハネの福音書11:17~37 メッセージ題目;よみがえり、いのちなるイエスさま  毎週金曜日の英語教室では、現在「自己紹介」というものをしています。マイネームイズだれだれ、ですとか、アイアム・エイト・イヤーズ・オールド、ですとか。自己紹介というものは、多くの場合初対面のときにするものですが、英語教室での自己紹介は初対面にかぎりません。この自己紹介の練習を何度も繰り返すことで、お互いがお互いのことをよく知ることができるようになります。  ヨハネの福音書を読んでみますと、イエスさまはいくつかの箇所で、わたしはなになにです、という自己紹介をなさっています。わたしはよき羊飼いです、とか、わたしは羊の門です、といった自己紹介です。このおことばを聞くと、イエスさまがどのようなお方であるかがあらためてわかります。  今日の箇所では、あの有名なみことば、「わたしはよみがえりです。いのちです」という、イエスさまの自己紹介が出てまいります。このみことばは、愛するラザロの死という悲しいできごとの中で語られたみことばです。  私たちもいろいろな悲しみの中に置かれています。その悲しみから救い出していただくために、いまこそ私たちはイエスさまの慰めのみことばに耳を傾ける必要があるのではないでしょうか?  本日の箇所は先週学びましたみことばの箇所の続きです。先週私たちは、神の時に従って行動されたゆえにマルタとマリアのもとにあえてすぐにはいかなかったイエスさまの行動から学びました。しかし時満ちて、イエスさまはユダヤへと向かわれました。そして本日の箇所、イエスさまがユダヤのベタニアに到着されてからのできごとです。  ベタニアは、エルサレムから距離にして15スタディオンほど離れていたとあります。これは3キロメートルにもならない距離であり、それはこの教会からだと、水戸駅どころか、ケーズデンキの水戸本店にまでも届きません。ほんとうにエルサレムの隣町です。まさに、イエスさまを石打ちにしようとしたユダヤ人たちが待ち構えているような場所です。そこを目がけて、イエスさまは入っていかれました。  ユダヤ人たちに殺される心配はなかったのでしょうか? 大丈夫です。先週も学びましたとおり、それをイエスさまは昼間の十二時間に例えられました。つまずくことのない時間、神さまのための働きが許されている時間ならば、彼ら悪の勢力は手出しができない、というわけです。  イエスさまが到着されたとき、ラザロは墓の中に入れられて4日が経っていました。ユダヤでは、死んで4日も経っているならもはやたましいは肉体を離れている、と信じられていました。絶望しかない状態です。  19節をご覧ください。マルタとマリアは、死んで4日してもなお、深い悲しみの中にいました。彼女たちを慰めるために、大勢のユダヤ人が来ていました。ここで、友達と書かず、「ユダヤ人」と書いてあることにも注目しましょう。まさに、直前の10章において、イエスさまを石打ちにしようとした者たちのことを、ヨハネの福音書は「ユダヤ人」と表現しているのです。ともすればイエスさまに敵対するような人たち、しかし、神の民としてだれよりも神の栄光を見るべき立場にあった人たち……マルタとマリアに付き添っていた人たちは、そういう人たちだったと言えましょう。  20節から、マルタとマリアの姉妹がようやく登場します。イエスさまを迎えに出たマルタ、家にとどまったマリア、この対照的な行動に出た2人を巡っては、かなり対照的な場面が展開します。これは、マルタとマリアの性格のちがいに起因すると言えそうです。  聖書を順番どおり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと読み進めますと、本日の箇所以前にもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカの福音書に登場しています。その箇所を読んでみますと、マルタとマリアの姉妹の性格のちがい、態度のちがいを知る手掛かりが得られます。ルカの福音書10章の38節から42節をお読みしましょう、新約聖書の136ページです。  わかることは、マルタはイエスさまの愛、といいますかご存在に応えて、何かせずにはいられなかった人ということです。とにかくよく働いています。しかし、ほかの人にとってイエスさまを大事にすることにまで思いが至らず、自分のしていること、奉仕こそがいちばん必要なことと思い込むあまり、不満が積み重なってしまったような弱さを持っていました。それゆえ彼女はイエスさまに叱られています。  マリアはどうでしょうか。とにかくイエスさまの足もとに座って、イエスさまのおっしゃることに耳を傾けました。マリアはまさしく、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる、というイエスさまの語られたみことばを実践した人でした。その結果、マルタがしているようにイエスさまを奉仕によってもてなすことはしなかったのですが、それをイエスさまはお咎めになることはありませんでした。かえって、マリアは必要なことを選んだのである、と評価していらっしゃいます。  これは、奉仕よりもみことばをお聴きする方が大事である、という意味ではありません。そうだとすると、教会におけるあらゆる奉仕は意味のないものになってしまいます。みことばをお聴きすることはもちろん大事ですが、それは奉仕と優劣をつけるべきことではありません。イエスさまが問題にされたのは、マリアが、主にあって必要なことと判断してイエスさまのもとに座って耳を傾けていることに、マルタがマリアの境界線を越えて介入しようとしたことです。マルタがもし、イエスさまにあって必要なのが奉仕と判断したならば、ただ奉仕に集中しさえすればよかっただけのことです。  この箇所からほかにもわかることは、マルタのことばは記録されているのに、マリアのことばは記録されていない、ということです。これは、マルタが能動的で、マリアが受動的であったことをほのめかしているとも言えます。マルタは能動的だからイエスさまに物申す行動に出て、マリアは受動的だから何も言わなかった、何か言ったとしてもここには記録されなかった、というわけです。  しかし、マルタは能動的な言動をする人だったぶん、その言動に直されるべき部分があるならば、それが明らかにされて、正されやすかった、という特徴も持っています。このたび、イエスさまをお迎えしに出ていったときもそうでした。一方でマリアも、その受動的な性格がよく表れた言動をイエスさまの前に取っています。ただ、その背後で展開する場面は、マルタを巡る場面のほうは静かで、マリアのほうは動的です。まずは、マルタのほうから見ていって、私たちも学んでまいりたいと思います。    21節、マルタがイエスさまを出迎えに行ったとき、何と言っていますでしょうか? まず切り出したのは、あなたはなぜここにいてくださらなかったのか、いてくださらなかったか、ラザロは死んでしまいました、という、恨みにも似たことばです。  恨んでいるから悪いのではありません。私たちも、神さまを恨みたくなることというのはあるものではないでしょうか? 豪雨に見舞われた地域の兄弟姉妹は、天を見上げてなんとおっしゃっているか、考えるだけで心が苦しくなります。いったい、なんとお声がけをしたらよいか、ほんとうにわかりません。 私たちもそれほどではないにせよ、何かあって、神さまを恨みたくなる気持ちになることがあったとしても、不思議はありません。それは不信仰のひとことで片づけるべきではないだろうと思います。ご覧ください。ダビデをはじめとした詩篇の詩人はどれほど、神さまに向かって赤裸々な訴えをしていることでしょうか。私たちも悲しいなら、心にあることを神さまに向かって吐き出す祈りをささげて構わないのです。  ただ、ここでマルタの信仰が取り扱われる糸口となることばを、マルタは語りはじめています。22節です。……マルタは、イエスさまがどのようなお方であるかよくわかっていました。全能なる神さまに求めることは何でもかなえられるお方。この方にすがるならば、今でも願いは聞いていただける。マルタはここで、最後の信仰を働かせようとしたのでした。  私たちもそうです。現実の絶望的な状況にのみ目を留めているならば、そこにはやはり、絶望しかありません。そこで私たちの目を、現実そのものから、現実を越えて司っておられる神さまへと転じるのです。そこから私たちのうちには信仰が育ち、神さまがみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  イエスさまはマルタのことばを聞いて、あなたの兄弟はよみがえります、と言ってくださいました。そうです、祈りと願いを聞いてくださったのです。だがマルタは、イエスさまのこのみことばを、半分しか理解していませんでした。マルタは、終わりの日のよみがえりを信じ、そのときにラザロがよみがえることを知っているとは告白しましたが、その告白は充分ではありませんでした。  ここでイエスさまは、きわめて本質的な自己紹介を交え、マルタが、そして私たちが、拠って立つべき信仰の対象としてのご自身のお姿をあらためて示してくださいました。読みましょう、25節と26節です。  ……イエスさまはここで、2つの自己紹介をしていらっしゃいます。第一に「よみがえり」、第二に「いのち」です。  まず、「よみがえり」です。イエスさまは「よみがえり」でいらっしゃるゆえに、イエスさまを「信じる者は死んでも生きるのです」。マルタの告白は、よみがえりを告白していた点では正解でした。しかしイエスさまは何をはっきりされたかというと、ほんとうのよみがえりをもたらすご存在はイエスさまご自身である、ということです。  終わりの日にはみなよみがえります。しかし、天国に行けるのは、罪からの救い主、イエスさまを受け入れた人だけです。人がもし罪があるならば、聖い神さまはどうやって私たち人間のことを受け入れてくださるでしょうか。私たち人間が救われるための道はただひとつ、イエスさまを受け入れることだけです。そうすれば、たとえ死んでもよみがえって永遠のいのちをいただくことができます。まさしく、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」とイエスさまがお語りになったとおりです。  一方で、イエスさまが「いのち」である、ということは、26節でイエスさまご自身が解き明かしてくださっているとおりです。この場合のいのちとは、イエスさまを信じることによって、この世界を生きながらすでに与えていただいている「永遠のいのち」です。「永遠に決して死ぬことがない」というのは、とりあえずは、肉体が死なないという意味ではないことは理解できます。だれでも人は肉体が死にますし、それに例外はないからです。 しかし、イエスさまを信じる人は、霊において生かされて、永遠に生きる存在としていただきます。その永遠のいのち、いのちなるイエスさまとともに生きるいのちは、天国から始まるのではなく、つまり死んだあとから始まるのではなく、この地上にてイエスさまを受け入れた瞬間から始まるのです。私たちはそれゆえに、いま現実に、決して死ぬことがない、永遠のいのちに生かされているのです。 しかしイエスさまは、この2つのことを同時にお示しになるため、ラザロをよみがえらされます。これを目(ま)の当たりにするとき、マルタもマリアも、そしてユダヤ人たちも、ひいては私たちも、イエスさまがよみがえりでありいのちである、したがって、イエスさまを信じる者は死んでも行き、生きていてイエスさまを信じる者は決して死ぬことがないことを受け入れるのです。 ここまでお語りになったイエスさまのみことばを聴いて、マルタはようやく、正しい信仰を持つことができるようになりました。そして、27節、立派な信仰告白をしています。イエスさまは単に友達ではない、全能なる神の御子である、このお方がラザロをよみがえらせてくださる……そう告白したのでした。   私たちはイエスさまに対して何と告白しますでしょうか? イエスさまは世に来られる神の子キリスト、そのように告白できるならば幸いです。私たちは多くの試練を体験します。そのような中で私たちの信仰がきよめられ、イエスさまに対する揺るがない信仰告白へと導かれ、まことのいのち、永遠のいのちを実際に体験しつつ生きるものへと日々変えられますように、主の御名によってお祈りいたします。   それでは次に、マリアのほうにまいりましょう。マリアは、マルタが呼びに来るまで家にとどまっていました。イエスさまを愛していたマリアがすぐにでもイエスさまのもとに駆けつけなかったのはどうしてだろう、そんなことも思います。しかし、マルタが呼びにいったら、マリアはすぐにイエスさまのもとに出ていきました。ユダヤ人たちもマリアにぞろぞろとついていきました。  イエスさまに出会うや、マリアはイエスさまの足もとにひれ伏しました。そして何と言ったでしょうか。32節です。  このことばは、マルタが言ったことばとそっくりそのまま同じです。しかしその後の展開は、大きく異なっています。マリアのことばはそこで終わり、あとは彼女はただ泣くだけです。そして、一緒にいたユダヤ人たちも泣いています。  イエスさまはこの様子に、霊に憤りを覚え、心を騒がせた、とあります。人を絶望と悲しみに陥れる死の勢力に怒りと悲しみを覚えられたのでした。  主が愛をもって創造された世界は、人間の堕落によって死が入りこみ、人は絶望と悲しみに陥るばかりとなりました。だがそれは、愛なる神さまにとってあまりにもつらいことでした。愛をもって創造された人間が永遠に生きることなく、死ぬ。どんなにおつらいことでしょうか。そしてそれを目にする人間も、その人がどうなったかわからない、それをご覧になる主も、どんなにおつらいことでしょうか。  しかし、イエスさまの霊の憤り、そして涙の意味は、ほかにも考えられはしないでしょうか?  ラザロがもちろん、イエスさまをまことの神さまとして信じていたことは疑いのないところです。それを信じていたならば、マリアにしてもユダヤ人たちにしても、もっと平安でいるべきだったことでしょう。なにしろ行った先は天国です。現実のこの世界よりもよほどすばらしい場所です。喜んだっていいくらいです。しかし、死の悲しみは彼らを圧倒しすぎるほどに圧倒していました。もはやマリアには、イエスさまがよみがえりでありいのちであることがわからなくなっていました。あれだけイエスさまのみことばを聴くことを奉仕することよりも大事にしていたマリアが、そういうこともわからなくなってしまっていたのでした。  イエスさまはこのことを目の当たりにして、涙を流されました。いのちの主なるイエスさまがここにいるのに、悲しみのあまり見えない……人よ、よみがえりであり、いのちであるわたしがここにいるのに、見えないとは! 立ち帰るなら永遠のいのちを与える神、わたしがここにいるというのに、見えないとは! 私たちには、イエスさまの悲しみがわかりますでしょうか?  人が死ぬこと、いのちをなくすことは、たしかに悲しいことです。だからこそ新型コロナウイルスに対するワクチンの開発が急がれているわけです。何があっても死んではならないからです。しかしそれでも、人は死にます。問題は、いのちを司っていらっしゃるイエスさまがここにいるならば、イエスさまが見えているかどうかです。見えていると思うなら、イエスさまがどのようなお方であるかがわかっているかどうかです。  マリアは純粋な信仰を持った人でしたが、マルタのようにしっかりした信仰告白に至る論理的な主とのコミュニケーションができなかった弱さがありました。それは私たちにも共通した弱さではないでしょうか? 状況ばかりが見えてしまって、いのちの主なるイエスさまの臨在がまったく見えなくなってしまう。しかしそれでも、イエスさまはこの悲しむ私たちとともに涙を流され、同時に、どうかわたしがいのちの主であることを信じてほしい、と、涙を流しておられるのです。  私たちは、よみがえりでありいのちであるイエスさまが見えていますでしょうか? イエスさまに愛されている私たちが、イエスさまのことがわからないために、イエスさまは涙を流してはいらっしゃらないでしょうか?  しばらく、静まって祈るひとときを持ちましょう。イエスさまが見えていないならば、今ここにおられるイエスさまを見ることができるように、心の目を開けていただきましょう。そして、いのちの主なるイエスさまとつながっている喜びをわがものとさせていただきましょう。

それでも「神は愛なり」と言うために

聖書本文;ヨハネの福音書11章1~16節 メッセージ題目;それでも「神は愛なり」と言うために  今日のメッセージに臨む私の心は、とてもつらいものがありました。日本は大雨に見舞われ、多くの方々が亡くなり、家々は破壊され、道路は寸断され、人々は避難所での生活を余儀なくされています。しかも東京にはこれまでにないほどのコロナウイルス感染者が現れ、いよいよ第二波がやってきたのか、と、戦々恐々とさせられています。  このような中にあって、人々はどんな気持ちでしょうか。私たちはそれでも、神は愛なり、と告白することができるでしょうか。いいえ、このときだからこそ、私たちは自分の中の告白をしっかり保つべきだと考えます。  コロナウイスルの流行がたけなわになってきたころ、保守バプテスト同盟で総会議長として奉仕する大友幸証先生が同盟役員会の席でおっしゃっていました。このようなとき人々は、クリスチャンが何を言うかに期待しているのではないだろうか……。ほんとうにそうだと思います。 いったいこのような中で、ほんとうの希望を語ることができる立場にある者が、語らないでどうしようというのかと思います。私たちこそが、愛なる神さまを語り伝えることにより、この世界にまことの慰めを提供することができるはずです。だからこそ私たちは、このようなときだからこそ、私たちのうちにある希望を確かに保つ必要があるはずです。  しかし、現実はとてもきびしいものです。テレビや新聞で連日報道される悲しいニュースを見るたび、私たちはいかにして自分の信仰を働かせるべきか、とても問われていることと思います。その信仰は、それでも神さまは私たちを愛してくださっている、神は愛なり、と、告白するところから始まります。 私たちの信仰は、移ろいやすい感情に根ざしたものであってはなりません。もちろん、悲しみに暮れる人たちに寄り添う務めも私たちにはあるので、感情というものを無視することはふさわしくありませんが、私たちはまず、感情に流される以前に、変わることのない神さまに対する信仰、そしてその信仰を告白するところから、すべてを始めてまいりたいものです。   そこで今日の本文から学びたいと思います。本日の箇所、ヨハネの福音書11章は、先週の箇所の続きです。イエスさまがエルサレムでの迫害をのがれ、ヨルダンの向こう側に行かれ、そこでみことばを語られ、多くの人がまことの信仰に立ち帰った、というのが、先週の箇所の締めくくりでした。  その流れから本日の箇所にまいりますと、イエスさまの一行は、ヨハネがバプテスマを授けていた場所から、ラザロの家まで行くように要請されていたことになります。実はこのどちらの地も、共通点がありました。それはどちらの地の名前も「ベタニア」という名前だった、ということです。 ベタニア、それは、悩みの家、貧しさの家、という意味です。まさにこの地名は、悩みの中で貧しくされた者たち、ヨハネからバプテスマを受けた者たちもそうですし、マリアとマルタとラザロの三きょうだいもそうですが、貧しさの悩みの中で神にすがる信仰が育てられた人たちの信仰を象徴しているようです。 貧しさが貧しさに終わらない秘訣、悩みが悩みに終わらない秘訣、それは、すべての富の源でいらっしゃるイエスさまに立ち帰ることです。その富は金銭的、物質的なものとはかぎりません。しかしイエスさまに出会うならば、この地において神さまを見上げる、主と交わるという、何にも代えがたい富、豊かさを得られるのは確かなことです。 私たちはこのことを、ほんとうの豊かさと認めていますでしょうか? ならば、貧しさを感じられてならないとき、悩みの中に置かれていると思えてならないとき、イエスさまを呼び求めることです。イエスさまはきっと、そんな私たちに出会ってくださいます。 だがときに、イエスさまを呼び求めても、イエスさまが来てくださっていることが感じられなくてならない、そういうことはあるものです。今日の本文のマルタとマリアの姉妹がまさにそうでした。彼女たちは、イエスさまにすぐにでも来てほしいと、イエスさまのもとに使いを送りました。だが、イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか? 4節です。 イエスさまのこのおことばは、何とおっしゃっていることになるのでしょうか? 「ラザロはよくなる! 心配しなくてもいい!」でしょうか? 「わたしが行って、ラザロの病気を治してあげよう!」でしょうか? いいえ、「ラザロは死ぬ!」と、はっきりおっしゃっているのです。 しかし、5節をご覧ください。イエスさまがこの三きょうだいに対し、どのように思っていらっしゃったかが書かれています。そう、愛しておられたのです。この関係をある人は、「イエスさまの友」ということで説明します。 しかしこの友だち関係は、イエスさまの側から友だちにしてくださったというべきでしょう。前にもお話ししましたが、私が大学院の面接試験を受けるときのこと、大学に着いたはいいが、どこに行ったらよいか迷っていたら、私のことを知っていた教授が私を見つけ、総長のお部屋まで連れて行ってくれて、「この友だちの面接をしていただきたいのですが……」と切り出してくださり、事なきを得て面接をしていただき、晴れて合格しました。 あのときの「友だち」ということばに、私は教授のとりなしを見る思いがいたしました。しかしこの「友だち」ということばは、目上の立場におられる教授が言うべきことばであり、間違っても私から、教授を「友だち」と呼ぶべきではありません。 イエスさまにしても、この上ないほど目上の存在といえましょう。しかしこのお方はへりくだって、この庶民の三きょうだいを友としてくださったのでした。彼らを愛しておられたのです。私たちもまた、イエスさまの弟子であるとともに、イエスさまの友としていただいていることをしっかり心に留めてまいりたいものです。 さて、イエスさまがほんとうに彼らを愛していたならば、それなら、すぐ駆けつけてしかるべきだと思うでしょう。だが6節をご覧ください。この使いのことばをお聞きになってもなお、イエスさまはそのおられた場所になお2日とどまられたのでした。 人は、神さまに期待して祈ります。自分の願っていることが願いどおりに叶えられるように、切なる期待を込めて祈ります。しかし、神さまのお答えは、人の願っているとおりではなかったりするものです。 イエスさまがなぜ2日もさらにその地にとどまられたか、その地にはまだまだ語るべき人がいたからだとか、行うべきみわざがあったからだとか、説明はいくらでもつけられるでしょう。しかしこの理由については、聖書は沈黙しています。わかっていることは、イエスさまはこのことをお聞きになってもなお、そこにさらに2日とどまられたという、その事実だけです。 しかし、イエスさまがこのように振る舞われた理由を考えるならば、ひとつだけ確実なことが言えます。それは、イエスさまが「神の時にしたがって」行動された、ということです。 聖書の原語であるギリシャ語では、「時」というものを表すことばは「カイロス」と「クロノス」の2つがあります。早い話が、カイロスが神の時を指すのに対して、クロノスは人の時を指します。私たち人間にとって時間というものは大事です。この時間をしっかり把握するために、人は時計を用い、この時計の動きに合わせてみな行動します。現にこの礼拝も、午前10時30分という時間に始まり、11時30分くらいを終わりにするのも、クロノス、人の時の基準にのっとっているわけです。 しかしカイロスはちがいます。これはときに、人には測れないような形で現れます。マリアとマルタは、一刻も早くイエスさまに駆けつけていただきたかったでしょう。しかしイエスさまが御父から受け取っておられたスケジュールは、人の思いとはちがうものでした。神の時にしたがって行動された結果、2日さらにその地にとどまられたというわけです。 しかしその次の7節をご覧ください。イエスさまは、三きょうだいの家に向かうためにユダヤに行こうと弟子たちにおっしゃいました。神の時が満ちたのです。しかし弟子たちは、恐れました。今度こそイエスさまは石打ちに遭われるのではないだろうか。どうか行かないでいただきたい。 実際、イエスさまが直接ユダヤに行かなくても、ラザロを治す方法などいくらでもあったのではないかと考えられるでしょう。実際、直接患者のところに行かないで、みことばひとつでその病んだ人を癒されたということを、イエスさまが何度もなさったということが、福音書には記録されています。今度もそのようになさったならば、石打ちに遭うかもしれないという危険を避けることはできようというものです。 しかし、イエスさまはここでも、神の時にしたがって歩まれることを宣言なさいました。9節、10節をお読みください。……のちにイエスさまが捕らえられ、裁判へと引いていかれるとき、イエスさまは彼らに向かって「今はあなたがたの時だ、暗やみの時だ」とおっしゃいました。神の子を十字架につけようとするサタンの勢力がいよいよ盛んになるとき、それが暗やみのとき、霊的な夜であり、そうなるまでは、いかに敵対する者たちがイエスさまの周りにうごめいていようとも、手出しなどできないのです。 これこそ「神の時」です。弟子たちはこのときも、「人の時」で物事を推し量ろうとして怖れていましたが、神の時は人の時に優先するので、怖れることはなかったのです。 さて、イエスさまは何をしに行かれるのでしょうか? 眠ったラザロを起こしに行くためだとおっしゃいました。しかし、眠った、ということばを、弟子たちは誤解していました。単なる睡眠だと思ったのです。睡眠ならば、助かるでしょう。このことばの裏には、睡眠ならば助かりましょう、何も出向いていって危険にさらすことはありますまい、という弟子たちの思いが隠れているといえます。 しかし、眠る、ということばは、聖書にもしばしば用例がありますが、死んでたましいはもう地上にない、という意味でもあります。だからこそ14節をご覧ください、イエスさまははっきりと、ラザロは死にました、とおっしゃいました。 さらに15節をご覧ください、イエスさまがその場に居合わせてラザロのことをすぐに病気から立ち直らせることをしなかったのは、あなたがた弟子たちのためによかったのだった、わたしはそれを喜んでいる、とさえおっしゃっています。それは、あなたがたが信じるためである……。 イエスさまの弟子にとっていちばん必要なもの、それは、イエスさまが神の時にしたがってみわざを行われるという信仰です。その信仰があなたがたの間で確かになるために、わたしは死の眠りについたラザロを起こす、すなわちよみがえらせる……これは、十字架について死なれるイエスさまが、墓からよみがえり、いのちの主の栄光を豊かに現されるその前触れであり、とても大事なみわざでした。 弟子たちはのちの日に、復活の主を宣べ伝えるべく派遣されます。そのためには、何を差し置いても、イエスさまのこのみわざを目撃する必要があったのでした。 するとこのことばを聞いたトマスが、何を思ったか、こんなことを口にしました。16節です。……これだけはっきり、今はみわざを行う昼の時であるとイエスさまがおっしゃったというのに、トマスはこれを殉教の時と勘違いしたのです。トマスはなおも、神の時を人の時ととらえることをやめてはいませんでした。 ときに私たちは、主のみことばを聴き、主のみこころが示されてもなお、それを充分に受け取れず、神さまはきっと私が思っているような最悪の状況を用意しておられるにちがいない、ならばいっそ、それを覚悟して臨もう、などと思い込んでしまうことがあるものです。しかしトマスは、ほかの弟子たちとともに何を見たでしょうか? イエスさまの死ではありません。イエスさまの栄光です。実にイエスさまのみわざは、私たちの先入観、思い込みを越えてあまりある形で現されます。私たちはつねに、その主のみわざに余裕をもって期待してまいりたいものです。 ただ、トマスのこのことばはのちの日に、神の時至って実現しました。十二弟子は、脱落したイスカリオテのユダと、ヨハネを除いては、みな殉教の死を遂げました。トマスもその中に含まれていました。主とともに死ぬのはこのときではありませんでしたが、やがて充分に整えられた者となったとき、トマスもまた、主のために死ぬという栄光に浴することができたのでした。これもまた人の時ではない、神の時が成るということです。 そこで私たちもまた、神の時というものを考えてみたいと思います。コロナウイルスの流行はいつ終息するのか、日本列島が大雨の苦しみから解放されるのはいつだろうか、そればかり思うならば、私たちは絶望的な気分にならないでしょうか? このようなとき、私たちはどうすれば、その絶望的な気分から解放されるのでしょうか? 天を見上げることです。イエスさまはいかに歩まれたのでしょうか? 神の栄光が顕されるため、立ち止まるときには立ち止まられ、進むべき時に進まれた、イエスさまの歩みに心を留めてまいりましょう。 神さまが働かれない領域、神さまが目を留めていらっしゃらない領域は、この世界のどこにも存在しません。今この日本にも、神さまは目を留めておられ、最善をなしてくださると信じ、どうかこのときこそ最善をなしてくださいと祈ることです。そして、神の時にゆだねることです。そうすれば私たちは、絶望から救われます。 イエスさまのもとに使いを送ったマルタとマリアの気持ちを考えてみましょう。そばにイエスさまがいらっしゃらなかったことを、どれほど恨めしく思ったことでしょうか。どれほど、イエスさまのみわざを待ち望んだことでしょうか。しかし、イエスさまに与えられた父なる神さまのみこころは、マルタとマリアの思ったとおりではありませんでした。しかしイエスさまがみこころを持って働かれると、そこには最高のみわざが現され、主のご栄光が豊かに現されたのでした。 私たちも今、同じ思いで主を待ち望むべきではないでしょうか? 恨みたくもなるでしょう。泣きたくもなるでしょう。私はこれまで、自分がどんなにひどい目にあっても、神さまを恨むようなことはしないできました。それが信仰者としての在り方だと固く信じてきたからです。しかし今度ばかりは、涙をもって天を見上げる兄弟姉妹の痛みがひしひしと伝わってくるような気がしてならなくなっています。 助けたい。しかし私たちもはやり病に痛んでいる。しかもこのはやり病のせいで、被災地にボランティアにも行けない。かつての大震災は痛みの中で人を束ねることにもつながりました。まさにその痛みの中で、人は「絆」ということばの尊さに気づかされました。 しかし今度はちがいます。コロナウイルスは「絆」そのものを持たせないまま、人をかぎりなく病ませます。大雨に痛む人を行って助けることもできない、こんなことはかつてありませんでした。 こんなとき私たちは、それでもラザロ、マルタ、マリアの三きょうだいを愛された同じ愛をもって、イエスさまが被災地の人たちを愛し、コロナにおびえる私たちを愛してくださっている、それゆえに、神の時をもってみわざを必ずなしてくださることを信じ、その神の時を待ち望む信仰を育てていただくべく、祈ってまいりたいものです。 私たちは、人間のちっぽけな器で神さまを推し量るような愚かなことをしてはなりません。神さまは、イエスさまは、私たちがいま考えているよりも、知っているよりも、はるかに大きなお方であり、はるかに知恵に富むお方でいらっしゃいます。このお方がそのときにしたがってみわざを行われるなら、それこそ「最善」と呼ぶべきことです。 今こそ言いましょう。「神は愛なり」。神さまのみこころは、人の思いをはるかに超えます。

イエスさまを信じるということ

導入讃美「たたえよ栄光の神」「イエスが愛したように」/祈祷/使徒信条/交読 詩篇67篇/主の祈り/讃美 讃美歌532/聖書箇所;ヨハネの福音書10章31節~42節/メッセージ題目;イエスさまを信じるということ  今年のテーマは「信仰によって歩もう」、この標語を掲げて、もう今年も後半に突入しました。なんといっても今年の前半は、3分の2以上もコロナウイルスのことで話題が持ちきりで、メッセージもかなりそのことを意識したものとなりました。  しかし考えてみれば、いえ、考えてみなくても、私たちにとって祈るべきことは、コロナに関することにとどまりません。平安のため、健康のため、安定のため……しかし私たちは、少しも疑わずに、信じて願うようにとみことばで命じられています。その、つねに信じて願う信仰は、その信仰の対象である、イエスさまがどのようなお方であるかをみことばから教えられ、それゆえに私たちはイエスさまとどのような関係に入れられているかを知ることに始まります。  先週、私たちは自分を義とするゆえに祈りが聞き入れられないパリサイ人を反面教師として学びました。今日の箇所も、ユダヤ人とありますが、イエスさまを責め立てるユダヤの宗教指導者の姿が描かれています。  この、イエスさまを迫害する宗教指導者たちとの対話をとおして、イエスさまはご自身がどのようなお方か、明らかにしていらっしゃいます。このイエスさまに対して信仰を働かせるとはどういうことか、学んでまいりましょう。本日も、3つのポイントからお話ししたいと思います。  第一のポイントです。イエスさまは、神のことばであられるゆえに、信じるべきお方です。  今日の箇所は、イエスさまがエルサレム神殿のソロモンの回廊という場所で、ユダヤの宗教指導者たちに取り囲まれて詰問される場面から続いています。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」  しかし、ユダヤ人たちがイエスさまにそう迫ったのはなぜでしょうか? イエスさまがもし、ご自身がキリストであると彼らにおっしゃったならば、彼らは信じるのでしょうか? 自分の罪が救われ、神の子どもとなるために、イエスさまを信じるのでしょうか? とんでもないことです。そうではないことは、あとにつづく会話からもはっきりしています。イエスさまは、すでにご自身がキリストだと話したのに、彼らユダヤ人たちは信じないとおっしゃいました。そうです、すでに語っておられるのです。  それならば、なぜ彼らは受け入れないのでしょうか? これもイエスさまがおっしゃっているとおりです。それは彼らが、イエスさまの羊ではないからだ、ということです。 イエスさまの羊である人は、イエスさまについていく人、イエスさまが永遠のいのちを与えてくださる人、御父がイエスさまに与えてくださっている人だと、イエスさまはおっしゃいました。ということは、このイエスさまを詰問する宗教指導者たちは、そのどれにも当てはまらない者たち、ということになります。  そしてイエスさまは、このはっきりした事実に加え、わたしと父とは一つです、とまでおっしゃいました。ユダヤ人たちはこのおことばを聞いて、イエスさまに対する殺意が燃え上がり、投げつけるために石を取りました。  そのような彼らに対し、イエスさまはおっしゃいます。32節です。……これは、どういうことでしょうか? イエスさまが行われた数々の奇蹟は、みな、父なる神さまとイエスさまが一つであることを示している、それを見て、それでもわたしのことを石打ちにする理由はなかろう、というわけです。このことについてはのちほど詳しく扱いますが、ともかく、イエスさまのみわざを見てきたならば、彼らはいやでも、そこに父なる神さまのご存在とみこころとみわざを認めざるを得ないはずです。それなのに彼らは、イエスさまのことを迫害しているのです。  彼らの言い分を聞いてみましょう。33節です。……イエスさまが行われたわざが「良いわざ」であることは、さしもの彼らも認めざるを得ませんでした。だが、彼らにとっては、イエスさまがいかに良いわざ、愛にあふれた奇蹟を行おうとも、関係ありませんでした。彼らは、イエスさまがご自身のことを、神であると言っていることが冒瀆であると問題にしているのです。  しかし、イエスさまがキリストであるということは、ほかでもなく、イエスさまが人であるのと同時に、神さまであるということを意味します。それを認めることができないとは、やはりイエスさまの羊の群れに属していない者たちということになります。あなたがキリストならばはっきりおっしゃってください、と詰め寄りながら、あなたは自分を神としているのだから冒瀆だ、などとは、彼らが何を考えていたかよくわかります。語るに落ちる、とは、このことです。ここまで傲慢ならば、何をどうしてもキリストを主と告白する、すなわちイエスさまを主と告白することなどできません。  だが、自分のことを神と名乗ることは、イエスさまに関しては、冒瀆に当たりません。そのことをイエスさまは、旧約聖書・詩篇82篇のみことばを引用して証明されます。  まずイエスさまは、このみことばを「律法」と呼んでおられます。つまり、彼ら宗教指導者にとってはいのちのように大切なものです。このみことばが何と語るかを示せば、いかに彼らでも受け入れざるを得ないわけです。  そのみことばは、何と語っているでしょうか。……わたしは言った。「おまえたちは神々だ」。この「わたし」とは神さまです。では「神々」とはだれでしょうか。神さまのみことばを託されながらも、そのとおりに守り行わず、弱い者を切り捨て、悪しき者の味方をする者のことです。 もちろん、この「詩篇」が第一にはイスラエル人、のちのユダヤ人の間で唱和されたことを考えると、この警告を受けた「おまえたち神々」とは、ユダヤ人です。まさに、このようにしてイエスさまを責め立てている者たち、みことばを託されているのに悪を行う宗教指導者たちのことと言えます。  さて、この訳は「神々」となっています。これは、日本のだいたいの聖書は「神々」と訳していますが、新改訳の以前の訳や、文語訳の聖書は、ずばり「神」と訳しています。日本語のイメージでは、「神」と「神々」では全く異なり、「おまえたちは神だ」となったら、どういうことだろうかと思いませんか?  しかし、詩篇の原語であるヘブル語によれば、「神」も「神々」も、どちらも同じ「エローヒーム」であり、「神」とも「神々」とも訳してもいいのです。よく、日本語の「神」は聖書の語る唯一なる創造主とはちがう存在だから「神」と呼ぶべきではなかろう、という議論があり、韓国語には唯一の創造主を表す「ハナニム」ということばが特別にあることをうらやましがるクリスチャンがいますが、考えてみれば私たちは、このお方を「神さま」と呼んだからと、正確な聖書信仰を持っていない、ということにはなりません。詩篇82篇、そしてそれを引用されたイエスさまのおことばを根拠にすると、「神」と「神々」の区別さえ、本来はなかった、あくまで文脈で理解し分けるべきものだということがわかります。しかもイエスさまはそれに加えて「聖書は廃棄されない」とさえおっしゃっています。あなたがたは廃棄されることのない聖書を根拠に生きている、その聖書は何と語っているか、正確に耳を傾けよ、それはユダヤ人にも、私たちにも語られている、主のみこころです。  その聖書は、驚くべきことに、神のことばを託された者たちを父なる神さまが、神々になぞらえていらっしゃると語ります。では、イエスさまはどうでしょうか? イエスさまは神のみことばを託されているどころではありません。このヨハネの福音書が冒頭から語っているとおり、神のみことばそのものです。イエスさまがここで、御父が聖なる者とし、世に遣わされた存在、それがご自身であると語っていらっしゃるとおりです。 したがってイエスさまは、父なる神さまから神と呼ばれるのに、これほどふさわしいお方はいらっしゃらない、ということになります。それを、みことばを託されていようとも、しょせん人間にすぎない者に、あなたは神ではないから神を名乗るなど冒瀆だ、などと言われる筋合いはありません。 私たちはイエスさまをどのようなお方と信じ受け入れていますでしょうか? もし私たちが、イエスさまのことを、肉体をとってこの世界にいらっしゃった神のみことばなるお方であると信じ受け入れているならば、私たちのみことばに向かう姿勢は変わるはずです。この聖書のことばは、イエスさまのご本質と、神のみことばであるという点で同じです。そう考えますと、私たちには恐れが生じないでしょうか? 私たちはその恐れをもってみことばをお読みしていますでしょうか? 日々、みことばをお読みする時間は、イエスさまに出会う時間です。単なるお勤めとか、人生の素養を増し加える時間とはちがいます。みことばをお読みするとき、それが私たちにとってイエスさまに出会い、イエスさまと深く交わる時間となりますように、その時間を毎日大切にする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。  では、第二のポイントにまいります。イエスさまは、神のみわざを行うゆえに、信じるべきお方です。  37節、38節をお読みしましょう。……イエスさまが、ご自身が神の御子であることを証ししたものは、イエスさまが行われた奇蹟、わざでした。マタイの福音書11章5節で、バプテスマのヨハネの弟子たちにイエスさまが語られたとおりのことを、イエスさまはなさっていました。そのわざはすべて、イエスさまがメシアとしてこの地に来られたことを証しするものでした。  これを主のわざとして受け入れ、それゆえにイエスさまを救い主として信じる人は幸いです。その人はイエスさまを信じる信仰によって、永遠のいのちをいただくことができるからです。実に、この奇蹟を受け入れるかどうかは、永遠のいのちをいただけるかどうかの分かれ目となります。  イエスさまは、すばらしいみことばをたくさん語られました。しかしそれは、単なる道徳的な教師のことばではありません。それは、ご自身が神である、父なる神とひとつであると語られるみことばでもありました。人によっては、こんなことはとても聞いていられない、という告白です。実際、イエスさまの十字架刑を決定づけたものは、まさにイエスさまが、大祭司の前でご自身が神の御子キリストであると告白されたことでした。その告白を聞いた大祭司らユダヤの指導者たちは、即座に死刑を言い渡し、そしてその死刑とは十字架だったのでした。ご自身が神であるということゆえにイエスさまは十字架に死なれたわけです。  それがユダヤの社会の不寛容さでした。このような社会において、その宗教的な構造ゆえに苦しまされていた庶民たちを救ったのは、この力あるみことばを証拠づける、数多くの奇蹟でした。この奇蹟は、人々をそれで惹きつけておいて、自分の配下に下った者を意のままに操り、搾取するような、悪魔に魅入られたような者たちのものとは根本的に異なっていました。まさに、この数々のわざは、神の国の到来を告げるに充分なものでした。  イエスさまを信じるということは、イエスさまがこの数々のわざを行われたということを信じる、ということです。時代が下り、あらゆることを科学的に説明しようという風潮になり、科学的に説明できないものは事実ではないと切り捨てる社会において、次第に人々は、イエスさまのみわざは神話にすぎないとばかりに、遠ざけるようになりました。しかしそのような人は、仮にクリスチャンを名乗っているとしたら、イエスさまの何を信じているというのでしょうか。 聖書のあらゆる記述は、科学の発達した現代にさえも説明できないことばかりです。ある人は聖書の記述と科学を調和させようとあらゆる努力をしたり、聖書の奇蹟を科学で説明しようとしたりします。それは科学という観点から見ればとても面白い取り組みには違いないのですが、その作業が、神さまの起こされたわざを奇蹟と受け入れることによって神さまを恐れ、神さまを信じ受け入れることにとって障害となってしまうならば問題です。  10年以上前、埼玉の実家に住んでいたときのことです。ある日私は父と一緒に、NHKの番組を見ていました。それはアメリカの科学番組で、出エジプト前夜に起こった十のわざわいをすべて科学的に説明するという内容でした。ご覧になったという方はいらっしゃいますか? 実によくできた番組でした。その説明はすべて、無理も矛盾もないように思えました。私はテレビを眺めていて、へえ、十の災害をこうまでみんな論理的に説明できてしまうなんて面白い! などと無邪気に感心していましたが、ノンクリスチャンである父が番組を見終わって、ぼそっと言いました。「こうまで説明しちゃ、奇蹟の意味がないよなあ。」  いったい私たちは、科学の力で弁護しなければ聖書が真実である、事実であると受け入れないのでしょうか? こんなことを事実として書いている聖書のことを人に伝えたら、私たちの信仰はどう思われるだろう? そんなことを考えて、福音を人に伝えることをためらってはいないでしょうか? いいえ、神さまが選んだ人ならば、聖書が現代科学の説明に合わないなどとは考えません。私たちがそうしたように、ちゃんとみことばを真理として受け入れます。  要は、及び腰にならないことです。「臆病者は神の国を継げない」という、私たちにとって恐ろしい警告のことばが聖書にありますが、私たち、ああ、自分は臆病だ、神さまはこんな私をとがめられる、とお思いでしょうか? 私たちにとって大事なのは、何よりも、聖書を真理として受け入れる点で臆病にならないことです。この聖書を事実、真実、真理として受け入れることにためらう恐れがあってはなりません。私たちはみことばを受け入れることにおいて、大胆になる必要があります。このみことばの語るとおり、奇蹟は起こった、今もなお主は祈りを聞いてくださり、奇蹟をもって応えてくださるお方である、そう信じて、みわざをもって祈りに応えてくださる主がともにいてくださることを信じつつ、日々の歩みをなしていくことです。  私たちはまだ、聖書に書かれているイエスさまのみわざ、父なる神さまのみわざが、信じきれていない、ということはないでしょうか? 私たちのうちに信仰が増し加わり、どんなわざも信じ受け入れ、そのわざをなしてくださったイエスさまに対する信仰をますます強い者にしていただくように祈りましょう。私たちの不信仰が信仰に変えられる、これは実に素晴らしいみわざです。日々の主とともに歩む歩みの中で、このみわざを味わい、主に感謝する歩みをなす私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。  最後に、第三のポイントです。イエスさまは、預言の成就そのもののゆえに、信じるべきお方です。  40節から42節をお読みしましょう。……ヨハネは、ヘロデの罪を告発したことが原因で逮捕され、ヘロデの妻へロディアによって無残な死を遂げました。このヨハネは、イエスさまの到来を告げる働きをしていましたが、ある人はこのヨハネがメシアではないかと考えていました。  しかし、メシアはイエスさまであって、ヨハネではありません。そもそも、生前のヨハネは、イエスさまを差し置いて自分がメシアとして人々に扱われることなど、考えることさえしませんでした。  イエスさまも、ヨハネの業績がすべて、ご自身の到来をもって成就することを証しされる必要がありました。ヨハネを信じていた人々が、そのまま、イエスさまを信じないままでいるようなことがあってはならないからです。もしそうなったら、彼らはキリストには出会えなかったということになります。そういうわけで、ヨハネのバプテスマしか知らなかった人たちは、イエスさまによってフォローされる必要がありました。イエスさまは彼らに奇蹟を行われ、イエスさまこそメシアであることを示してくださいました。  また、イエスさまがヨハネの後をご自身でフォローされたということは、もうひとつの意味があります。マタイの福音書11章13節で、イエスさまがヨハネについて評価していらっしゃるみことばから、そのヒントを得ることができます。お読みします。「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。」  つまり、イエスさまご自身は、ヨハネが最終的に示した旧約の預言を、究極的に成就されたお方である、ということです。そのとき信じた人たちは、イエスさまはヨハネが語ったとおりのお方だった、と言っていますが、それはつまり、イエスさまは旧約の預言の成就だった、ということになるわけです。  イエスさまがこのような、みことばの成就、わけても旧約のみことばの成就そのもののお方でいらっしゃるということに私たちが心を留めるなら、私たちの聖書の読み方は豊かにならないでしょうか? 私たちはホテルなどでよく、新約聖書の分冊を見ます。ないよりはある方がいいのでしょうが、新約聖書だけというのは、これは正確には「聖書」とはいいません。英語でもそれは「ニュー・テスタメント」であって、「ザ・バイブル」にはならないわけです。  千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていますが、推理小説を解決篇だけ読んでも面白くないでしょう、そこに至るまでの伏線をじっくり読むから、推理小説は面白いのです、旧約聖書もそれと同じで、解決篇に当たるイエスさまの登場までの伏線をじっくり読むということです……。  しかし、多くのクリスチャンにとって、旧約聖書はとっつきにくいことは否めません。難しい、というより、退屈、という印象を受けたりはしないでしょうか? そんな旧約聖書を生き生きとお読みする、ひとつのヒントをご提供します。それは、そこに書かれている記述から、イエスさまを発見することです。これは、イエスさまがどのようなお方であるかを新約聖書から学んでいるほど、発見しやすくなります。そして発見するたび、イエスさまというお方の豊かさに触れることになり、私たちの信仰はいやがうえにも深まります。みなさんも面倒くさがらないで、ぜひ旧約をお読みいただければと願います。イエスさまに秘められた豊かさをどんどん発見し、恵みを大いに体験していただきたいのです。  以上見てきたことから結論を下しますと、イエスさまを信じるということは、旧約そして新約に証しされたイエスさまのご存在、おことば……そしてみわざに至るまで、すべて事実、真実、真理と信じ受け入れることを意味します。イエスさまを信じることと聖書のみことばを受け入れることは、密接な関係があるどころではありません。同じことです。私たちが座右に聖書を置いてみことばとともに歩むとき、イエスさまがつねにともに歩んでくださり、私たちを恵んでくださる祝福をつねに体験する私たちとなりますように、そのために、みことばに絶えず親しむ私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 讃美 聖歌475/献金 讃美歌391/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り