御父の約束が叶えられる祈り

聖書箇所:使徒の働き1章1節~14節 メッセージ題目:御父の約束が叶えられる祈り  本日から毎月第1主日を基準に、「使徒の働き」の学びをいたします。使徒の働きはもともとの聖書では「使徒行伝」と呼んでいました。聖書の訳によっては「使徒言行録」という題名もついています。イエスさまに任命された使徒たちは、イエスさまが語られたように神の国を宣べ伝え、イエスさまが行われたようにしるしを行なって、神が私たち人間のうちに生きて働いておられることを証ししました。その記録がこの「使徒の働き」という書、使徒行伝、使徒言行録というわけです。  まず、今日の聖書箇所、1節から14節までをじっくり見てまいりましょう。1節と2節、これは、使徒の働きの著者が「テオフィロ」という人物にこの書をささげている、いわゆる「献呈辞」にあたるものです。実は、旧新約聖書66巻の中で、献呈辞の形式を取ったことばで始まっている書は、「ルカの福音書」と「使徒の働き」だけです。そしてその献呈先は、どちらも「テオフィロ」です。ルカの福音書がルカという名前の医師によって書かれたように、使徒の働きも同じルカが書いています。この献呈辞に出てくる「前の書」とは、ルカの福音書のことです。この「テオフィロ」はどういう人物だったか、諸説あります。実在の人物だったともいわれていますが、詳しいことはわかっていません。 しかし、こういう学説もあり、それは無視できないと考えます。「テオ」とは「神」、「フィロ」とは「愛」という意味です。「フィロ」の動詞形である「フィレオー」は、神の愛で愛する「アガパオー」には及ばないものの、愛する、という意味で、復活されたイエスさまに対してペテロが告白したことば「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」の「愛する」が、この「フィレオー」です。そのように見ると、この「テオフィロ」という人が、実在した特定の人物であったにせよ、そうでなかったにせよ、この「使徒の働き」という書は、「神を愛する人」に献呈された書である、と言えるわけです。 私たちは、イエスさまが私たちになさったように、神さまのために実際にいのちを捨てて神さまを愛するなど、とてもできないかもしれません。しかしそれでも、私たちが神さまを愛していることは、神さまがご存じで、神さまは私たちのその愛を認めてくださっています。その信仰をいただいているから、私たちは恐れないで、神の御前に徹底して生きることができるのです。神さまを愛させてくださる、神さまの愛と恵みに感謝しましょう。 その、神を愛する私たち神の民にこのみことばをささげたのは、確かにルカではあります。しかし、聖書のほんとうの著者は、神さまです。神さまが私たちに、わたしのいのちを得よ、まことのいのちを得よ、永遠のいのちを得よと、私たちを大事に思って「献呈」してくださったのだとするならば、なんともったいないことでしょうか。神であるイエスさまがしもべとなって仕えてくださった、それはみことばを語って、私たちを生かしてくださることによってでした。私たちが神さまのためにすることは、もったいなくも私たちを大事に思って、神さまが私たちにささげてくださった、このみことばを読むこと、読んで、永遠のいのちに生きることです。それが、神さまに仕えることです。 3節、神のみことばがささげられたといえば、神のみことばが人となったイエスさまは、そのいのちをささげてくださいました。そういう意味でも私たちはもったいない恵みをいただいています。しかし、イエスさまは復活されました。いま私たちがお読みしているみことばは、イエスさまが復活されたことを体験した証人たちの証言です。 しかし、そのことを伝えさえすれば、人は「証人」になれるわけではありません。イエスさまが父なる神さまとその御国を宣べ伝えるお働きをするにあたっては、どうしても必要なお方がいらっしゃいました。そのお方が、人がみことばを宣べ伝える人になるために、つまり、キリストの証人となるために必要なのです。 4節と5節。イエスさまは聖霊によって、父なる神さまとその御国を宣べ伝えられました。そのように、宣べ伝える人になるには、聖霊なる神さまが注がれ、満たされ、遣わされる必要があります。聖霊の注ぎ、満たし、派遣を体験し、確信していないならば、その人はどんなに聖書の知識があっても、どんなに善行に富んでいても、キリストの証人になることはできないのです。 父なる神さまは人に、聖霊のバプテスマを約束してくださいました。イエスさまの証人になるには、罪深い肉がキリストとともに十字架にくぎづけになり、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているという、その生きた告白が内側から湧き出るほどの信仰をいただく必要があります。その信仰をもつことを可能にするのは、私たちの努力や修練ではありません。聖霊さまを求めることです。 イエスさまがこのとき、あなたがたはそこを離れてはいけません、とお語りになった場所、エルサレムとはどんな場所でしょうか? イエスさまが十字架にくぎづけにされて死なれ、そしてよみがえられた場所です。およそ人にとって信仰というものは、十字架につけられ、復活されたイエスさまに始まります。まずそこにおいて、父の約束を待ちなさい、とおっしゃるのです。その約束とは、間もなく、聖霊のバプテスマを受ける、ということです。 主が命じられた場所にともにとどまり、御父の約束を信じ、その約束の成る時を待ち望む。そのために彼らが取る行動はひとつ、ともに集まって祈り、その約束を成し遂げてくださいと祈ることでした。 しかし、使徒たちにはすぐには、イエスさまのおっしゃることが理解できていませんでした。6節。彼らはなお、イスラエルがローマの圧政から独立し、目に見える独立国家となることに関心がありました。それはその当時のユダヤ人ならみなそう考えていたと言えることでしょう。 しかし、7節です。イエスさまは使徒たちのそのことばを、頭ごなしに否定はなさいません。イエスさまは、イスラエルがやがて国として再興されることは、御父のご計画のうちにあることを明らかにされました。しかし、その時がいつなのかということは、御父がご主権をもってお決めになることであって、あなたがた人のあずかり知るところではない、とおっしゃいます。 人は時に、神さまのみこころと関係なく、自分なりの解釈で物事を理解しようとしたり、予測したりします。だから、私たちはいついかなる時も、先入観や思い込み、人間的な願望も含め、自分の考えを下に降ろし、神さまとそのみことばに自分を明け渡し、みことばに示されたみこころに合わせていく必要があります。それでこそ、私たちは主のご主権がその人生に顕される、ふさわしい歩みをすることができます。 8節のみことばです。父なる神さまの権威は、目に見えるイスラエルが、それこそこのときの使徒たちが期待したように、人間的な主権国家として立てられること以上に、まことのイスラエルなる神の国が、働き人に聖霊が注がれ、聖霊が満たされ、そして彼らが遣わされ、神の子イエスさまが十字架につけられ、ゆえにそれが指導者から大衆に至るまでに目撃された、エルサレムに始まり、そこからユダヤ、サマリア、ひいては世界の果てまで、イエスさまが神の御子、救い主、王の王であると証言する証人となる、そのことにおいてあらわされます。 父なる神さまは権威をもって、イエスさまを王としてお立てになりました。イエスさまが王として、主として統べ治められ、宣教のわざによって救われた者たちも、イエスさまとともに統べ治める王となる。このことにこそ、父なる神さまの権威があらわされます。いかなる意味であれイスラエルが再興されることは、権威をもってすべての上に臨まれる御父のみこころにかなっていることです。しかし、それ以上に御父の権威があらわされることは、私たちが宣教のわざによって救われ、御国の民となり、救われたすべての民が御父の権威のもとにひれ伏すことです。 そのわざは、繰り返しになりますが、聖霊なる神さまが御父と御子から送られ、主導されることによって成し遂げられます。宣教の主人公は、有名だったり、話術が巧みだったり、知識が豊富だったり、何やらオーラが漂っていたりする働き人ではありません。聖霊なる神さまです。私たちは聖霊なる神さまに用いていただく器にすぎません。 ちょっと注意すべきことを付け加えますが、私たちはよく、有名な牧師のような働き人を指して、「主に大きく用いられている聖霊の器」などという言い方をします。いい呼び方ですし、働きの主人公が聖霊なる神さまであるということからすれば、それは確かにそうなのですが、注意が必要です。この言い方は下手をすると、「聖霊に強く臨んでいただく資格のある偉大な人物」というニュアンスを帯びかねません。それでは、その人物の栄光が現れるのであって、三位一体なる神の栄光が現れていることにはなりません。崇高なことばも、単に人をほめる動機で濫用していないか、気をつける必要があります。 ともかく、宣教の主人公である聖霊に用いられることは、すなわちそれは、神との交わりの中で神さまご自身とそのご栄光を人々の前に顕すことであり、およそ人間にとって最高の生き方です。ただしこの生き方は、ひとりでするものではなく、聖霊によってイエスさまを主と告白し、その告白をもってキリストのひとつからだとされた、教会という共同体のなすわざです。 イエスさまはこの、最後の約束をお語りになるや、たちまち天の雲の中に引き上げられ、見えなくなりました。天への栄光の凱旋です。しかし、使徒たちはそのイエスさまの挙げられた天を見つめてばかりはいられませんでした。彼らが心に留めるべきは、この地上にて栄光をもって生きられたイエスさまが、同じ姿でまた、この地上に戻ってくる、再臨です。再びイエスさまが来られるまで、彼らは、イエスさまがこの地上においてせよと命じられた、宣教の働き、言い換えれば、主のご栄光を表す働きを、最後の最後まで、いのちのバトンをつなぎながら、世界中にて展開する必要がありました。 もちろん、ここにいます私たちも、信仰の先輩たちからその、宣教というバトン、神の栄光を顕すというバトンを引き継ぎ、次の人にバトンを渡す役割をいただいています。宣教は、聖書に示された救いの原理を論理的に説明する「福音提示」をすることにかぎりません。もちろん、それは大事ですし、それを教わっていなければ、人はイエスさまを信じることはできません。しかし、福音を伝えようという私たちが、聖霊の交わりに生きていない、ということは、往々にしてあることです。そういう人にとっての伝道というものは、人から立派なクリスチャンとして認められたい、という、実は肉的、宗教的な野心から出ていたりしないでしょうか。表では立派なことを口にしていても、心の中、人の目につかないところでは、不従順、不信仰をやめないでいる、それは、聖霊の交わりに生きていないということです。 しかし、聖霊の交わりに生きるならば、私たちは喜んでみこころに従いますし、従えないでいるために葛藤する悩みをもし持っているならば、主に切に祈り、その弱い領域にご介在いただいて、みわざが現わされます。そこから私たちは、たとえ宣教師のように上手に福音提示ができなかったとしても、その、聖霊が主人公として生きてくださる人生を通して、キリストの証人として立派に用いていただけるのです。 彼らはその、聖霊に生きていただく、働いていただく、その生き方に献身することがみこころと知るとすぐ、ともに集まり、心を一つにして、御父の約束である聖霊のバプテスマを切望して、祈りはじめました。場所は「泊まっていた屋上の部屋」です。ここはもしかしたら、ほどなくして聖霊のバプテスマを体験することになる、マルコの実家の部屋かもしれませんし、イエスさまが使徒たちと最後の晩餐の時間を持たれた、二階の大広間かもしれません。いずれにしましても、あるいはそうでなかったとしても、彼らがいたところは「奥まった部屋」でした。祈るならば偽善者の真似をしないで、人目につかないところで祈りなさい、という、イエスさまのみことばに従順になったためともいえるでしょうが、彼らにはまだ聖霊が注がれていなかったので、大胆に人前に出る力がありませんでした。ともかく、祈りは人目につかないひそかなものでしたが、しかし、聖霊に飢え渇いての熱い祈りとなり、そう祈るように、主は彼らをお導きになりました。 私たちが求めるべきは、聖霊です。私たちの信仰生活が、どこかで頑張りすぎていなかったか? どこかで疲れていなかったか? どこかで退屈になっていなかったか? どこかで形だけのものになっていなかったか? どこかで神さまよりも人を意識していなかったか? どこかで神さまに対して間違ったとらえ方をしていなかったか? それは、聖霊の交わりを充分に求めないまま、というより、聖霊に明け渡す生き方をしないまま、宗教的な生活をすることに汲々としていたからではないでしょうか? この時間は、一緒に集まって聖霊さまを求める、聖霊さまに私たちを明け渡す、またとないチャンスです。今こそ祈りましょう。共同体全体がキリストの似姿に変えられ、私たちの行く先々で主の栄光を顕す、キリストの証人として用いられるものとなりますように。

万軍の主の御名によって

聖書箇所:サムエル記第一17章41節~58節 メッセージ題目:万軍の主の御名によって  今日は今年最後の礼拝となりました。みなさまにとりまして、今年はどんな年になりましたでしょうか? 私はこの年の終盤になって、ダビデのデビューにまつわる箇所からみことばをお取り次ぎしながら、主によって備えられた主の器はいかにあるべきかを教えられました。  私たちもいろいろな戦いを体験しています。家庭であれ、職場であれ、学校であれ、地域社会であれ、自分の思いどおりにするにはあまりに難しい課題にぶち当たったりすることがしばしばあるものです。人間関係かもしれません。新しい技術を取得することかもしれません。あるいは、自分自身の健康という問題であったりするかもしれません。  しかし、私たちは、自分にとっての戦いというものの本質を見失ってはなりません。みことばは語ります。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペ6:12)してみますと、私たちの闘う相手は、人でもなく、ましてや自分でもなく、悪魔、また悪霊であることがわかります。  私たちはときに、例えば職場などで、面倒くさい人、やたら威張る人、いやな気分にさせる人を「敵」と見なしたりはしないでしょうか? しかし、みことばによれば、そういう人たちはどんなに、私たちにしてみれば、不敬虔、不従順、不信仰なように見えたり、感じられたりしたとしても、「敵」ではないのです。「敵」は、その背後に働いて、私たちを攻撃するサタン、そしてその手下である悪霊どもです。  そういうことからも、だれかのことをさばいたり、悪口を言ったりするということは、私たちクリスチャンには似合いません。その人が悪いのではなく、その人を操るサタンならびに悪霊どもこそが悪いと見なし、そういう、悪い感情を抱かせてしまう人々に対する、そのマイナスの感情は、手放してまいりたいものです。  そこで、私たちの敵がサタンであるということはわかりましたが、それではどのように戦うものなのか・・・・・・今日の箇所は、そのことを私たちに教えてくれています。これを、5W1Hで解いて考えてみましょう。  まずはhowです。大前提として、ダビデは「万軍の主の御名によって」ゴリヤテに立ち向かっています。ダビデはたしかに戦場にいましたが、もとはといえばそれは、戦うためではありません。お父さんのお使いで、兵隊に食べ物の差し入れをして、従軍しているお兄さんたちの安否を知って、お父さんのもとに便りを持ち帰るためでした。だから、着ているものにしても、簡素な服装でしかありません。  しかし、ダビデはいざ戦うとなったら、それで充分でした。彼は羊飼いの服装、それこそ、労働のための簡素な服装でも、クマやライオンのような猛獣が羊の群れに襲いかかろうものなら、それに飛びかかり、やっつけていました。素手で打ち殺せたというから大したものです。要するに、私たちが想像するような、よろいかぶとに盾と剣を帯びた古代の兵士のような格好などしなくても、充分に戦えたのです。彼にとって武器などは、羊飼いとして持ち歩いていた石投げで充分でした。  しかし、彼は丸腰ではありませんでした。彼には、何よりもすごいものがありました。それは「万軍の主の御名」です。これはどういうことでしょうか? 人間の大軍団など到底太刀打ちできない、全知全能なる、父なる神さま、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神さまの三位一体の神さまが、天の大軍勢を率いて、ダビデをとおしてゴリヤテとその背後にある神に敵対する勢力に立ち向かい、戦ってくださる、ということなのです。これほどの力、無限の力をいただいているわけですから、ただ見栄を飾る以上のものではないサウルの武具など、全く必要ありません。  では、who、だれが戦うかを見てみましょう。昨日、新たな宣教の場所に旅立ってゆかれた金先生が繰り返しおっしゃっていたことを、思い出していただきたいのです。私たちクリスチャンは、実はすごい存在であるのだと。私たちのうちにイエスさまがおられるということは、第三の天にいますイエスさまが、ご自身天に至るはしごとして私たちとつながり、天におられると同時に、私たちのうちにおられるのだと。だから私たちは絶えず、天の御力と祝福をいただいているのだと。 そして、イエスさまがうちにおられる以上、聖霊なる神さまがうちにともにおられ、父なる神さまがうちにともにおられるのだと。三位一体の神さまがうちにおられるのです。いやはや、私たちはどれほどすごい存在なのですか! このお方が、ダビデをとおして戦われ、勝利してくださったように、私たちをとおして戦ってくださるのです。当然、私たちは勝ちます。「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。」(黙17:14)ときに、負けた、と思えるようなときでも、主が戦ってくださるかぎり、私たちは勝利しているのです。 しかし、万軍の主の御名によって戦うと、私たちが口にするとき、問われるのはその動機です。私たちはもしかして、どこかで、自分のために、名誉ですとか高い地位ですとか、豊かで安定した暮らしですとか、そういったことのために、主の力を「動員」するかのような態度でいたりはしないでしょうか? それは大間違いです。そういうことに「霊的」な力を借りようとする生き方は、「宗教」にすぎません。私たちキリスト者の生き方はそういうものでは決してありません。主が主体であり、私たちは主に用いていただくのです。 神さまがサムエルを遣わされ、ダビデに油が注がれて以来、主の霊がダビデに激しく下るようになりました。それは、ダビデの主人がか弱い少年である自分自身ではなく、世界の何よりもお強いお方、主が生きてくださるという生き方です。パウロのことばのとおりです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラ2:20)しかしそれは、自分の古い人がキリストとともに十字架につけられて、もう死んでいる、生きているのは復活のキリストのいのちである、ということです。 ゆえに、私たちの戦いは目に見えるものが相手ではありません。目に見えるものの背後にうごめく悪しき存在、目に見えるものを操る悪しき存在、そういう邪悪な存在と戦うべく召されています。この戦いは主の戦いです。主が戦ってくださいます。主の戦いに、私たちは用いていただくのです。 その戦うダビデ、彼は神の霊の臨む、神の人です。そのダビデはなぜ戦うのでしょうか? Whyを問います。それは、ゴリヤテによってイスラエルに浴びせられた、その恥辱をイスラエルから取り除くためです(17:26)。 ダビデが問題にしたのは、イスラエルがゴリヤテを前にして、情けなくも震え上がっているからではありません。ゴリヤテがそのようなイスラエルのことを、ペリシテの神々の名により呪い、馬鹿にすること、それによってイスラエルの神が、あたかもペリシテの神々よりずっと弱く、また情けないもののように扱われていること、それを問題にしたのでした。 感情というものは、たしかに聖書のみことばという事実、そしてそれが事実にして真理であるという信仰に伴って生じるものであり、感情に振り回されることは信仰生活とは言えません。しかし、聖霊の臨む人、ゆえに神との交わりをつねに喜ぶ人には、ひとつの感情が伴います。それは、神さまが無視されること、神さまが馬鹿にされることには、耐えがたい怒りの感情を抱く、ということです。 ヤコブの手紙1章20節で戒められているとおり、「人の怒りは神の義を実現」しません。私たちにとっての怒りというものは多くの場合、みこころにかなわない肉的な感情の現れに過ぎないものです。しかし、それは、私たちの中から湧き上がる怒りの感情を何でもかんでも否定すべきだ、ということではありません。パウロにしても、アテネの町が偶像でいっぱいなことに怒りを覚え、その感情はパウロを福音宣教へと促しました。これは、持つべき怒りでした。  私たちが怒るとき、その怒りが正当か不当かは、聖霊なる神さまが教えてくださいます。アテネにおけるパウロの怒りは正当でしたが、神さまがニネベに悔い改めのみわざを起こされたことに対する預言者ヨナの怒りは不当でした。私たちの抱く怒りが主にあって正当か不当か、それは、聖書を読めば客観的にわかることです。 普段から祈りつつ聖書をまんべんなく読むことを心がけていれば、私たちは聖霊に導かれ、いざ、心に怒りを覚えるとき、それが主にある聖なる怒りであるならば、感情は高ぶっていても、心の奥底には不思議と平安があるものです。  そしてダビデは、神の御名をそしるゴリヤテに激しい怒りを燃やしましたが、その怒りはみこころにかなった正当なものであったゆえ、ダビデの心には不思議な平安、落ち着きがありました。普段、猛獣を狙って石を撃つように、ゴリヤテの急所という的を外さずに石を撃ち込みました。  私たちは怒ることも多いものです。何かあると、かっとなって、声を荒らげたくなったり、暴言を吐いたりしたくなる誘惑にさらされるものです。しかし、その怒りは果たして主から来る、正当なものなのでしょうか? 怒る私たちの心に、ほんとうに平安はあるのでしょうか?  逆に、明らかに主の御名が無視されるような状況を見聞きするとき、私たちの心はどうなっているでしょうか? 先週、私たち教会は、クリスマス礼拝をおささげする、素晴らしい時間となりましたが、そんな教会のことなど見向きもしないで、人々はクリスマスセールに行ったり、パーティーをしたり、デートをしたりします。昨今はクリスマスマーケットなんてものもブームになっています。でも、教会には行きません。そんなふうに、てこでもイエスさまに目を向けさせまいと日本人を操るサタンの存在とその働きに私たちはもっと怒り、この霊的な妨げをとどめてくださいと、もっと祈るべきではなかったでしょうか?  こういうことには怒っていいですし、怒るべきです。切なる祈りはそこから出てきます。何が起ころうとも平然としているならばそもそも、いっしょうけんめい祈る理由がありません。怒るべきときに怒ってこそ私たちはキリスト者です。主の御名がけがされることに対する怒りから主に叫び求める、その祈りをもって、私たちは悪しき霊的存在と戦うのです。そしてもちろん、主が十字架と復活をもってすでに勝利してくださったゆえ、私たちはこの戦いに勝利します。アーメン!  あとの3つにまいりましょう。「where」、彼はいきなり、戦場に放り込まれました。しかし、主の戦いをすることにおいては、羊の牧場だろうと、戦場だろうと、彼には同じことでした。任された羊のために猛獣と戦うことと、神の民なるイスラエル、ひいてはその主なる神の御名のためにゴリヤテと戦うことは、ダビデには同じことでした。いずれも、「神の栄光を現す場」という点で同じでした。  私たちの人生も、いろんな場面を経験しています。自宅、職場、行き帰りの車、買い物先、その他諸々、しかし、どこにおいても言えることは、私たちはどこにいても、「神の栄光を現す」戦いに置かれている、ということです。  そんな、無茶な、と思いますか? しかし、ほんとうのプロフェッショナルは、つねにどんなときも、自分がその立場に置かれていることを前提にあらゆる振る舞いをします。テレビや映画に出演するようなスターのプライベートがさらされてスキャンダルになることがやたら人の関心を引くのは、スターたるもの、いつ、どんなときも、スターとして振る舞ってほしいという人々の要求に応えることそのものが仕事であり、生き方であるからです。だから、スキャンダルがなくて高い人気を誇るスターはほんとうにすごいプロ意識を持っていることになります。  私たちはテレビに出ないかもしれませんが、スターです。神の栄光を輝かせる世の光であり、暗い世界を明るく照らす星だから、文字どおりスターです。そんな私たちが、世の光として主の光を輝かせないで済ませていい場所など、世界のどこにもありません。そもそも私たちの生活は、神さまの前に丸裸です。つねに神さまを恐れる前提で生きているならば、人前でつねに神の栄光を現すよい振る舞いをすることなど、まったく難しくないことになります。  ただ、こんなことを言っている私も、実はついこの間まで、そんなの理想論だ、と、心のどこかで思って、言いたくてもなかなか口に出せないでいました。しかし、このたび、金先生ご夫妻がいらっしゃり、ひと月にわたってお交わりをしたことをとおして、私の考えは完全に変わりました。どこを取っても主の光を輝かせる、そういう生き方はほんとうにできるのか! 驚きはやがて、確信に変わりました。私もまだまだですが、少しでも、つねに世の光として輝く生き方を実践していけるように祈っていこうと願うゆえんです。  サタンは、私たちの光を輝かないように妨げます。世的な生き方を諦めるな、肉的な生き方はいいぞ、霊的な生き方はダサいぞ、ささやきつづけて洗脳しにかかります。しかし「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハ1:5)サタンはイエスさまにすでに、完全に敗北しているのです。だが、まだ負けていないかのように私たちをだます力はまだ残っています。いや、それどころか、サタンの方がイエスさまより強いという、偽りをまだまだ私たちに吹き込み、そのとおりだとばかりに私たちに振る舞わせる力さえまだ持っています。サタンを侮ってはなりません。イエスさまが完全に勝利してくださったことを、つねに宣言する必要があります。  「when」それは、神の時です。エッサイにとっては、ダビデをおつかいにやった時でしかありませんでした。しかし神の霊はダビデを奮い立たせ、おつかいの時を、戦いの時に変えられました。ダビデはこのとき、「いや、私は単に届け物をして、兄たちの安否を父に伝えるために来ただけですから・・・・・・」とは言いませんでした。ゴリヤテに戦って勝利したらどうなるかを兵士たちに聞いて回り、ついにはサウルに、闘わせてくださいと直訴しました。  神との交わりに生きる人は、神の導きを自分の事情や感情よりも優先させます。ヨハネの黙示録21章8節に、「臆病な人は、火と硫黄の燃える池」に投げ込まれる、つまり、地獄で永遠に滅びる、という意味のことが語られていて、ああ、私はクリスチャンのくせに、臆病だから、地獄に落ちるのかしら、と思ったりしていないでしょうか?  もしそうならば、今日この瞬間から考えを変えましょう。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊とを与えてくださいました。」(Ⅱテモテ1:7)聖霊に満たされるとは、イエスさまに満たされ、父なる神さまに満たされることです。ものすごい力に満たされ、かぎりない愛に満たされ、それでいて品性に満ちた慎みが伴います。何かを怖がっているならば、それは古い人です。それはイエスさまとともに十字架につけられました。いまや力と愛と慎みの霊なるイエス・キリストの御霊なる聖霊さまが、私のうちに生きています。このことをつねに、確信をもって宣言するならば、恐れは逃げ去ります。大いなる力をもって人を愛せるようになり、しかしそれでいて、暑苦しいような押しつけがましさとは無縁の、魅力的な人になれます。それでこそ神の人です。  こういう人は大胆です。神の導きとあらば、自分のこだわりや常識にとらわれないで動けるようになります。しかしそれは傍若無人ということではなく、つねに周りの徳を立てながらの言動として実を結びます。まさに離れ業、それこそ「神業」です。ともかく、私たちは聖霊が臨む時、力を受けて、必ずその証し人となり(使1:8)、あらゆる戦いに勝利を体験します。その「時」に従って生きるために、つねに御霊の満たしの中で生きるものとしていただきましょう。  最後に結論、「what」、それは「主の戦い」です(47)。私たちは主の栄光を現す生き方をするために、あらゆる努力を傾けるのです。ただし、それは、私たちが自分自身をキリストに明け渡すところからすべては始まります。主の戦いは自分の頑張りでできるものではありません。自分の頑張りに主の御力の助けをいただこうとしてもいけません。主に明け渡し、主が私を用いて戦ってくださる、この境地に至れるように、祈っていただきたいのです。  私たちは何において戦っていますでしょうか? 私たちの目の前に立ち塞がっているものはなんでしょうか? その背後にあるサタンの存在を、私たちは見極め、主がそのサタンと戦い、勝利してくださるにおいて、私たちは自分を明け渡しているでしょうか? ダビデにできていたように、それこそ、ダビデが主とひとつになっていたように、私たちも主とひとつにしていただくならば、主が私たちを用いて、その悪しき存在に勝利してくださいます。

信仰の成長

聖書箇所:ヨハネの福音書4章43節~54節 メッセージ題目:信仰の成長  私たちはクリスチャンです。そんな私たちは、あなたたちクリスチャンとはどういう人ですか? と聞かれたら、イエスさまを信じる人です、と答えるでしょう。しかし、だとすると、私たちは「イエスさまを信じる」とはどういうことなのか、ちゃんとわかったうえで「信じている」のでしょうか?  たとえば、むかし開催されたような、大きな会場を借り切っての伝道集会、あのような集会では最後になると、「イエスさまを信じたい方は前に出てきてください!」と招かれ、前に出ていって、イエスさまを主と信じ受け入れる祈りを導いていただくわけです。 しかし、あれだけたくさんの人が信仰を持ったはずなのに、その後、日本の教会は何か大きな変化が起こったでしょうか? いや、それ以前に、そのような集会を境に、その信じ受け入れたはずの人の生活は根本から変わったでしょうか? もちろん、お救いになったかどうかは神さまの領域であって、人がとやかく言うべきことではありません。しかし、そのときイエスさまを信じ受け入れたという人々が、それ以降、キリストを主と信じ従う生き方ができていたならば、その後日本の教会はどれほどよい方向に変化していただろうか、と考えると、少し残念な思いがします。 私たちは、イエスさまを信じていることが、その生き方、その存在の旗印と言えるでしょう。しかし、それならば、その「信じている」ことの中身が問われていくことになります。来週はクリスマスです。私たちの礼拝にも、まだイエスさまとともに歩む歩みをしていると言えない方々がいらっしゃることを考えましょう。そのような方々も、イエスさまを主と信じ従う生き方をしていただきたいと、私たちは願いませんでしょうか? その備えという意味でも、今日、みことばに耳を傾けてまいりましょう。 今日の本文のテーマを要約いたしますと、それは「信仰の成長」です。イエスさまにすがった王室の役人が、イエスさまと対話を交わしている間の、そのわずかな時間に、どのように信仰が成長していったか、私たちは見ることができます。ともに見てまいります。 43節、イエスさまはサマリアのスカルを去って、ガリラヤに行かれました。イエスさまの故郷です。そのガリラヤはどういう場所かというと、続く43節にあるとおりです。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」。イエスさまご自身がそうおっしゃいました。 それは、彼らが不信仰であったからです。彼らは、幼い日からのイエスさまを知っていました。そんなイエスさまが神の国をお語りになることに、いまひとつぴんときていませんでした。あいつは大工の息子じゃないか。あいつの家族も知ってるぞ。そんなのが、あんなことが言えるのかい。 要するに、故郷の人たちはイエスさまのことを神の子と信じることができなかったのでした。しかし、それでもガリラヤの人たちはイエスさまを歓迎しました。それは45節にあるとおりです。エルサレムで祭りがあり、彼らもその祭りに参加していたとき、イエスさまが祭りの間にエルサレムで行われたことを見ていたからです。 イエスさまがお語りになったことでは、イエスさまを神の子、主と信じず、しかし、しるしには関心がある。これは、イエスさまに対する信仰の初歩の段階です。論より証拠、ということばがありますが、多くの人はどうも、何か奇跡を見ることによってはじめて、そこに神さまが働いていることをようやく信じるのではないでしょうか。そういう人にとっては、福音書の多くの紙幅を割いて書かれているイエスさまのメッセージは、ありがたい教え、難しい教え、くらいのものにしかなりません。 イエスさまのもとには多くの群衆がついていきました。驚くべきみわざを見て、体験することができるからです。こんにちのあらゆるテーマパークのアトラクション、映像コンテンツも真っ青の体験です。しかし、それを体験するだけして、普段の生活に戻ったらまたもとどおりになってしまうならば、それはイエスさまのみわざを、単なる「ショー」のレベルでしか消化していないことになります。 イエスさまに対する信仰を働かせるということは、そういう幼稚なレベルでとどまることではありません。もし、そんなレベルのものが信仰と言うに値するならば、もし仮に、イエスさまの行なっておられるみわざが、私たち人間の目に、それが神のみわざだと認められないならば、別にイエスさまのことを信じなくてもいいことになります。しかし、そういうレベルのものを、果たして信仰と呼んでいいのでしょうか?  そのような中で、イエスさまのもとを訪ねてきた王室の役人を見てみると、イエスさまに対する信仰を働かせるとはどういうことかを学ぶことができます。王室の役人はイエスさまがいらしたと聞いて、イエスさまのもとにやってまいりました。  シチュエーションがよく似たお話が、マタイの福音書の8章や、ルカの福音書の7章に登場します。すると、このヨハネの福音書に登場する王室の役人は、実はその百人隊長のことだったのか、と思えてきます。しかし、その両者は、イエスさまに対する信仰の働かせ方をイエスさまがどう評価したかという点において、決定的な違いがあります。そのお話までこのメッセージに引用するとかなり複雑になるので、今日はそうしません。興味のある方はマタイ8章、ルカ7章をあとでお読みいただきたいですが、今日はそれらと対照させず、このヨハネ4章の本文のみでまいります。  王室の役人は、イエスさまのもとにやってきました。彼の息子が重い病気にかかっていました。イエスさま、下ってきて息子をいやしてください。  まず彼は、イエスさまのところに行きました。そして、イエスさまに直接、自分のところにいらしてくださいとお願いしました。イエスさまを癒やし主と信じての大胆な行動です。ヘブル人への手紙4章16節に、「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。いやいや、神さまに近づくなど畏れ多い、と思うのではなく、神さま、イエスさま、助けてください、と、大胆に御座に近づく、この信仰をイエスさまは喜んでくださいます。  王室の役人もその信仰でイエスさまに近づきました。しかし、それでもイエスさまは、その信仰の「質(しつ)」を問題にされました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」イエスさまのお返事は、切実な願いをしてくる彼の前に、なんとも素っ気ないと思われるでしょうか? しかし、考えていただきたいのです。もし仮に、イエスさまが彼の信仰の質を取り扱われることなく、そのまま、わかりました、と、行ってお癒しになった、子どもは治った、めでたしめでたし、それで終わってしまったならば、この役人はその程度にしかイエスさまを信じていなかったことになり、彼の信仰はそれ以上成長が見込めないものになりかねなかったわけです。  ですからイエスさまは、祈り求める者の信仰の質を問題にされます。あなたは、わたしがわざを行えば信じるのですか? わざを行わないことが父のみこころゆえ、わざを行わなかったとしたら、あなたは信じないのですか? それは、わたしがすべての主権者なる神であることを、ほんとうに信じていることになるのですか?  そうです。イエスさまは私たちの願うようにみわざを行われようと行われまいと、主です。主権者です。癒し主です。私たちはまず、イエスさまとはそういうお方なのだと認めなければなりません。  役人はこのイエスさまのおことばを聞きました。すると役人は、49節のように言いました。「子どもが死なないうちに」と言っています。この子どもはすぐにも死ぬかもしれない病にかかっていました。そんな人を前にして、いや、あなたは死ぬことを受け入れて死になさい、とおっしゃるようなお方では決してない、イエスさま、あなたはいのちの主です、役人の信仰はここではっきりしました。 イエスさまはいのちの主であると認める、しるしと不思議を行われるから信じるのではない、ゆえに、私の愛する息子のいのちもあなたの御手のうちにあるから、子どもを癒やすのはあなたのご主権による、そして、あなたの御心にかなっている・・・・・・役人の信仰は、イエスさまへの理解が伴っていました。見たら信じるという、幼稚なレベルではもはやありません。  その、彼の信仰をお確かめになったイエスさまは、彼にチャレンジを与えられます。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」これは、イエスさまは下っていかない、と宣言されたということ、しかし、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、と宣言されたということです。これは、彼の願った方法にはよらなくても、彼の願いどおりに、いのちの主なる主権者として、そして愛なるお方として、イエスさまは彼の息子をお癒しになる、ということです。  私たちは、イエスさまは癒やし主です、と信じ告白します。しかし、その信仰の中身というものが、問題にされはしないでしょうか? あの、アラムのナアマン将軍は、自分のツァラアトはエリシャに出てきてもらって、患部の上で何やら手を動かしてもらえば治る、と思っていたのに、ヨルダン川に7回からだを浸せ、とは、と、おかんむりになりましたが、それにナアマンがこだわったら、神さまは確実にナアマンを癒やされる方法を示しておられるのに、ナアマンは治らないことになってしまいます。  同じことで、神さまのみこころが示されているならば、それを信じることです。信じているならば、ああ、神さま、おっしゃるとおりです、と、そのとおりにからだが動いてしかるべきです。この役人の場合も、イエスさまがおっしゃるとおりにここでイエスさまと別れ、家に向かいました。イエスさまは神として、そのおことばをもって息子をいやしてくださった、その信仰は、せっかくのイエスさまと別れて家に帰るという行動に結びついたのです。「いやです! どうしても家に来てほしいんです!」とすがりつくことが、彼のすべきこと、イエスさまのお喜びになる信仰ではなかったのです。イエスさまのおっしゃるとおりに行動する、その結果、彼の息子は癒やされました。  私たちはしばしば、イエスさまに対する信仰というものを誤解しています。目の前に何か問題があったらそれを解決してくださいとか、必要があったらそれをくださいとか、求めるものは何でもくださる、それが信仰だと思っているでしょう。 たしかに「求めなさい、そうすれば与えられます」とか、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と、イエスさまはおっしゃっています。しかし、結構私たちは、そのみことばを表面的にしか理解していないのではないでしょうか? どうせ求めても与えられないかも、と、どこかで投げやりになり、真剣に求めるということができていないのではないでしょうか? それでは与えられるものも与えられません。それにその姿勢は、イエスさまが「与えられます」と約束してくださっている、そのみことばに対する信仰を充分に働かせていないことになります。  私たちはたしかに、イエスさまがご覧になったら,不信仰としか言えなかったり、信仰はあっても幼稚なレベルにとどまっているようなものだったりする、そういうときもあります。 しかしイエスさまは、そんな私たちの姿そのままに、私たちを受け入れ、私たちと語り合ってくださいます。役人はイエスさまと語り合っているうちに、イエスさまを信じることとはイエスさまの主権を受け入れること、イエスさまのみことばのとおりに行動することという理解が伴いました。 でも、役人は律法主義的に、無理やり信じたのではありません。イエスさまの優しいおことば、決然としたおことばを語られるその姿に、そうだ、信じて一歩踏み出そう、イエスさまは絶対、みわざを行なってくださる、と、力強く歩み出したのでした。その信仰の成長は、イエスさまとの対話をとおしてなされたものです。 イエスさまはおっしゃいます。あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる人たちは幸いです。もちろん私たちは、この肉眼でイエスさまのお姿を見ることはできません。しかし、それだけではなく、イエスさまが目に見えるように御業を行なってくだされば信じる、というレベルにとどまらず、いつ、どんなときでも、イエスさまを主として生きる生き方ができるようにしていただきたいと願うものです。それでも私たちは、いざというときには目に見えるしるしのようなものに頼りたくなり、そうでなければイエスさまなど知らないような生き方をしてしまいがちな、そんなものかもしれません。 それでもイエスさまは、私たちにつきあってくださいます。私たちと語り合いたい、信仰を育ててあげたいと、私たちがみもとに近づくのを待っていてくださいます。いま、イエスさまのもとに、祈りをもって進み出てまいりましょう。イエスさまが私たちと語り合ってくださるならば、私たちは成長します。その成長する喜びを、体験させていただきましょう。

賛美の祝福

聖書箇所:サムエル記第一16章14節~23節 メッセージ題目:賛美の祝福  前にも申しました。私が学生時代、キャンパス・クルセードという宣教団体の学生メンバーとして活動していたとき、早稲田大学を借りて行われた木曜集会で、スタッフの佐藤さんという方がおっしゃいました。「みんな、なんで僕たちは、神さまのことを賛美するんだと思う?」学生たちからいろいろ答えが返ってきます。「神さまは素晴らしいお方だから」「神さまは素晴らしいみわざをなさったから」「神さまは僕たちのことを愛してくださっているから」ひとしきり学生たちの答えを聞いて、佐藤さんはおっしゃいます。「うん、そうだね。みんな、そのとおりだよね。でもね・・・・・・僕たちが神さまを賛美するのは・・・・・・それは、神さまだからです。」  私は佐藤さんのこのことばに衝撃を受けました。そうです、私たちは気分がよければ賛美し、気分が乗らなかったら賛美しない、そんなものではないでしょうか。しかし、神さまがほめたたえられるべき神さまであることは、本来、人間の感情と一切関係のないことです。人がどうあれ、神さまは神さまですし、ほめたたえられるべきお方です。  だから、賛美というものは、神を神とするところにすべてははじまります。自分が気持ちいいからとか、誤解を恐れず言えば「恵まれるから」とか、そういう理由で神さまを賛美するのではないのです。神が私の神だから、だから、神を賛美する、そういうことなのです。  思えば、佐藤さんからあのメッセージを聞いた頃、都会に住むクリスチャンの若者たちは、やたらと「リバイバル」ということばを口にしていました。有明コロシアムに行ったり、甲子園球場に行ったりして、大きな声で手を振り上げて賛美をしていると、これだけ大声で、いっしょうけんめい賛美しているならば、今にも神さまは、この日本にリバイバルを起こしてくださるにちがいない・・・・・・私はそう確信して、声を枯らして歌いました。たぶん、周りの若者たちも、同じ気持ちだったと思います。  しかし、その後30年近く経って、およそリバイバルと呼べそうなものを、神さまは日本に起こされることはなさらなかったのでした。そうこうしているうちにリバイバルを求める機運は冷え切り、教会もクリスチャンの数も縮小する一方・・・・・・クリスチャンたちはなおも、なぜ日本は教会が成長しないのか、と、自らに問いつづけています。  しかし、私は自分自身がリバイバルを求め、大声で賛美を歌っていた者として、言わせていただきますと、日本のクリスチャンは果たして、神を神とする生き方を歩んできていたのだろうか、と、自らに問い直し、悔い改める必要があるはずと思います。自分が気持ちいいからリバイバルを求めていただけではなかったか? いじけたマイノリティが一発逆転を狙ってリバイバルを求めていただけ、要するに、霊的とはとても言えない、肉に属する欲望でリバイバルを求めていただけではなかったのか?  これは日本の教会に限らず言うべきこと、およそクリスチャンたるもの、すべからく、神を神とする生き方をすべきです。単なる感情の高まりで神を礼拝し、賛美するだけならば、それは、自分のイメージという偶像に仕えているだけなのかもしれません。  そこで私たちは、いざ賛美するにあたり、聖書に登場するモデルから学びたいと思います。 聖書における賛美のモデルと言えば、だれがなんと言おうとダビデでしょう。なんといっても、聖書における賛美といえば詩篇ですが、その全部で150篇ある詩篇の、実に73篇、ほぼ半分は、ダビデによるものとそれぞれの題名に書かれています。まさにダビデは、賛美の歌い手の中の歌い手であり、私たちはこのダビデをモデルにすることで、神の前によりふさわしい賛美をおささげできるようになると信じます。  さあ、そこで今日学びますみことばは、賛美のささげ手としてのダビデが公式デビューを果たすという箇所です。ともに見てみましょう。先週のメッセージ中にした予告では、ダビデとゴリヤテの対決から今日は学ぶ予定であったと申しましたが、ダビデの油注ぎについての学びと、その対決との間にこの箇所は位置しているので、まずは順番として、今日はこの箇所から学びたいと思います。  まず、ダビデに油が注がれたのは、すでに油注がれて王として立てられていたサウルが、およそ神の民たるイスラエルの王としてふさわしくない、不信仰の振る舞い、不従順の振る舞いを繰り返し、サムエルはもとより、神さまのみこころまでも損なうという結果となったからです。サウルが王として合格していれば、ダビデに油注ぎが回される必要もなかったわけです。しかし実際は、サウルが油注ぎによって受けていた王としての聖別は、ダビデが受けることとなりました。すると結果として、サウルが神から受けていた聖別は、もはや臨まないことになるわけです。  その結果、サウルには何が起こったのでしょうか? 悪霊が臨む、という、およそ神の民の王としてこれ以上なくふさわしくないこと、呪いとしか言えないことが起こるようになったのでした。サウルは狂い、恐れに取り憑かれるようになりました。  しかし、これはサウルひとりの問題ではありません。サウルの家来たちも、このように悪霊に取り憑かれた王に仕えるなど、たいへんなことです。そして、サウルがこのような霊的状態にあるということは、ひいては、イスラエルの国と民族全体の霊的環境に関わることになってしまいます。  家来は一計を案じました。サウルのもとに、音楽をもって癒やしをもたらす人を侍らせよう、竪琴を弾いて、その楽の音(がくのね)にて王を落ち着かせよう、というわけです。果たして、それは王の心にかない、王は家来たちを遣わそうとしました。  琴、という楽器は、実に不思議です。この楽器の奏でる音楽に私たちは癒やされます。弦を1本1本弾いても、複数の弦をいっぺんにストロークしても、とにかく気持ちのいいものです。ハープ、お琴、クラシックギター・・・・・・サウルの当時の楽器といえば、タンバリンのような打楽器だったり、角笛のような吹き鳴らす楽器もあったりしますが、それらは音が大きすぎて、「癒やす」のにはあんまり向きません。やはり、荒ぶる心を癒やすのは、繊細な音を紡ぐ、ハープのような弦楽器です。  さて、家来の心に、これはふさわしいという人物が思い浮かびました。それは18節にあるとおりです。ダビデはこの頃、まだ年端もいかない羊飼いの少年で、実際にサウルの軍隊に従軍して戦士として戦っていたわけではありませんが、上3人の兄はサウルの兵隊であり、ダビデは戦士の家門としても、サウルの前に出るに恥じるところはありません。 それにダビデは、のちにサウルの前にはっきり言いますが、ライオンや熊を素手で相手にして打ち殺すほどの、恐るべき戦闘能力を持っていて、それは隠そうにも隠せなかったはずです。 ここ数ヶ月、連日のように、日本のあちこちに熊が出た、熊が人を襲った、という、ぞっとしないニュースが報道されていますが、人は何か武器を持っていても、熊を相手に闘うなど容易なことではありません。いわんや、熊を素手で打ち殺すなど、とんでもない戦闘能力です。現代の日本は、のどから手が出るほど、こんな人がほしくありませんか? しかし、普通に考えて、いかに昔の人が現代人より屈強だったとしても、熊に素手で勝つなどまずあり得ません。いったい、ダビデはなぜ、こんなに強かったのでしょうか? それは、ダビデには神の霊が臨んでいたからでした。羊を守るために猛獣に立ち向かい、いのちを賭けて闘い、しかもこれをやっつける、イスラエルの王たる者は、イスラエルの民のことを偶像礼拝の敵国の侵略から守るために、軍隊に立ち向かい、やっつける。まさに、イスラエルの王としてふさわしくあるための聖霊の油注ぎは、すでにこのときに臨んでいたのでした。 この、聖霊のきよい御力によって、ダビデは竪琴を奏でたのでした。彼は羊を飼うべく野にあるとき、その広々とした空の下、竪琴を手にして、この大自然を創造したもう神さまをほめたたえる歌を吟じたことでしょう。実際、詩篇23篇、神を羊飼い、自らをその牧場の羊になぞらえたあの美しい詩は、ダビデが羊飼いであったゆえに生まれた歌です。 その、聖霊の油注ぎに満ちた音楽は、サウルのもとにて仕える者の耳にとまりました。折しもサウルは、悪霊につかれてどうにもならなくなり、霊的な助けをとても必要としていたことは、家来たちの目にも明らかでした。そこに現れたのがダビデだったわけですが、これは、ダビデが王宮に入り、サウルに顔を、そしてそれ以上に、その持てる霊的能力を覚えてもらうために、必要なプロセスでした。 そしてダビデは、おびえるサウルの前で琴を弾きました。聖霊の油注ぎに満ちた音楽です。言うなれば、創造主なる神の麗しさを、音楽をもってほめたたえる、賛美です。この音楽を耳にすることによって、サウルから悪霊は離れ去りました。 ダビデのこの演奏は、いくつもの意味を持っています。その中で今日は、3つの側面からダビデの音楽の意味を見て、私たちにとってふさわしい賛美のあり方を考えてみます。 第一に、ふさわしい賛美とは、仕えることです。 ダビデは、サウルの前に出て行きました。なんと、あのしがない羊飼いの八男坊が、ついにサウルの前に出たのです。しかし、ダビデのしたことは、まずこのときにおいては、熊やライオンを素手で打ち殺した、その勇猛さをもって、サウルの兵隊になることではありませんでした。サウルはダビデが勇士であり、戦士の出であることを家来から聞いていましたが、サウルはそういう理由でダビデを召したのではありません。ただ、音楽を奏でてもらうためでした。 しかし、このように、サウルに竪琴の演奏者として引き立てられたダビデのことを考えてみましょう。ダビデは、いや、私は戦えます、ぜひ私を演奏者ではなく、兵隊にしてください、とは言いませんでした。  またダビデは、王の前に自分の演奏技術を見せてやる、とばかりに、派手な演奏をしたわけでもありません。王の前に仕える姿勢で、慎ましく、竪琴を弾いたのみです。  ここに、私たちが礼拝に臨むにあたって、賛美をいかにささげるかを知るヒントが隠されています。そう、私たちにとっての賛美とは、「仕える」ことです。使徒ペテロをして「王である祭司」と言わしめているとおり、私たちクリスチャンは「王」なのです。ということは、私たちひとりひとりはほかの兄弟姉妹に対し、「王」として遇する必要があります。「王」が礼拝という形で神の前に出ているならば、私たちはその「王」の礼拝をアシストするのです。そのアシストする働きを、私たちは賛美を持って行うのです。  私は礼拝の司会に立つことが多く、その分、讃美歌や聖歌の導きをする機会も多くなるわけですが、そのとき心がけるべきことは、この賛美の主たるささげ手は、どこまでも会衆のみなさまである、ということです。だから、まるで歌手がその技術を誇るように朗々と歌い、会衆を置いてけぼりにしてしまう、ということは、してはならないことです。むしろ、会衆のみなさまがいかに、もっともふさわしい形で賛美ができるか、よく準備します。その準備はすでに選曲の段階から始まっていて、伴奏者にとっての演奏の得手、不得手も考慮した上で選びます。特に、メッセージのあとの聖歌は、メッセージの内容を大きく外さないもの、それでいて、みんなにとって歌いにくくないものを選ぶように心がけます。  こういう努力を、会衆のみなさまも、お互いを自分より勝った存在、言うなれば「王」と遇する姿勢で実践していただきたいのです。だとすると、ことさらに小さな声で賛美するのも徳を立てませんし、自分ばかりが目立つように大声で賛美するのも、仕える姿勢とは言えません。互いを神の前に立て上げること、そのことを、賛美をともにおささげすることによって、実践していただきたいのです。 二番目に、ふさわしい賛美とは、癒やすことです。  詩篇22篇3節のみことばは、以前の訳の聖書では、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とあります。そうです。私たちが賛美をおささげするところに、主がともに住まってくださるのです。  賛美のうちに住まわれる主は、癒やし主です。だから、主の御名をほめたたえるとき、そこに癒やしが起こされるのは当然のことなのです。賛美のうちに住まわれる主が、賛美の歌をもって主をほめたたえる私たちのことを、癒やしてくださるのです。  私たちは、自分が賛美を歌うことによって癒やしを体験するものです。しかし、忘れてはいけないこと、それは、私たちが賛美の歌を人の耳に聴かせることにより、主がその聴く人に癒やしのみわざを起こしてくださる、ということです。  私たちが、礼拝というものをこうして、会衆がともに集うということをもっておささげすることに意味があるのは、私たちひとり人が歌うその賛美の歌が、ほかの兄弟姉妹の耳に届き、その兄弟姉妹が主の癒やしを体験する、というみわざが起こされることにあります。そうです、この点においても、私たちは「仕える」者となります。賛美の歌をもって兄弟姉妹を癒やす、そのことで私たちは「仕える」のです。私たちが身を低くして、謙遜な態度と姿勢でお仕えするとき、そこに主は働いてくださり、私たちの歌声をとおして、心傷つく方々を癒やしてくださるのです。 そして第三に、ふさわしい賛美とは、霊的に闘うことです。賛美、それは、自分が気持ちよくて歌うものではないことは、さきほども申し上げました。自分が気持ちいいということは、厳しいことを言えば、自分に酔っている、ということ、それは、一見すると神をほめたたえているようで、実は、自分の肉を満足させることにしかなりません。 ダビデは、自分の音楽の気持ちよさに酔いしれるために、サウルの前で竪琴を弾いたのではありません。サウルに取り憑いた悪霊を去らせるために、祈りを込めて、真剣に奏でました。それは文字どおり、戦いです。ダビデは神の霊の臨む神の人として、サウルに取り憑いた悪霊どもに負けるわけにはいきませんでした。しかし、その戦いは武力、または暴力にはよりません。賛美という、静かにして美しい音楽、これで戦ったのです。 みなさま、賛美とは戦いであると、意識して歌ったことはありますでしょうか? もちろん、「ひかりの高地に」ですとか「たちあがれいざ」ですとか「すすめ主イエスの兵士らよ」ですとか、そういう、いかにも霊的戦いの歌を歌うのは、霊的な「戦意高揚」には役に立ちます。しかし、およそ賛美というものはみな、悪魔および悪霊どもとの戦いの武器といえるものです。私たちは御霊に満たされて神をほめたたえる歌を歌うとき、悪魔、悪霊は、私たちから逃げ去ります。 物騒な物言いとなるのは承知の上で申しますが、礼拝という場は戦場です。悪霊どもは、私たちが神さまとそのみことばに心を向かわせないようにするためには、手段を選びません。室温が暑すぎる、寒すぎる、なんて気になるかもしれません。あっ、また武井牧師が変なことを言った、なんて、いつまでも気になって、それ以上、ことばが耳に入ってこなくなるかもしれません。ハエやカメムシが飛んでくるかもしれません。眠くてたまらなくなるかもしれません。スマホのスイッチを切り忘れて、鳴ってしまい、つい、そっちに気を取られるかもしれません。私が申し上げたいことは、悪魔はどんな方法を用いてでも、神さまに私たちの意識が集中しないように働いている、ということです。 そんな私たちが、どんな妨げに会おうとも、心から神さまに意識を向けて礼拝するようになるために、賛美という現場において悪魔、悪霊どもと戦い、勝利を体験する必要があります。だからみなさま、真剣に歌ってください。祈りを込めて歌ってください。よりよい歌の声をおささげするために、普段から声を鍛えることだってしていただきたいのです。すべては、戦いに勝利するためです。 今日はこうして、サウルの前に竪琴を弾いたダビデをモデルに、私たちにとっての賛美の祝福とは何かを学びました。賛美とは仕えること、人を癒やすこと、戦うことであると学びました。これからはそう意識して、ダビデにならった、素晴らしい賛美のささげ手として用いられていく、そのような私たちとなることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

ともに生きる私たち

聖書箇所:詩篇133篇1節~3節 メッセージ題目:ともに生きる私たち  私は2014年7月に当教会に牧師として就任して以来、一貫して「ともに」ということを語ってまいりました。教会は牧師とか役員とか、だれか特定の人の頑張りで保たせるべきものではない。みんながイエスさまの弟子に召されている以上、みんなでともに立て上げる、教会とは、そういうものではないか・・・・・・。  私は学生時代から聖書を読み、そして、キャンプですとか、学生時代に経験した宣教団体ですとか、韓国の教会や神学校の生活、そういったことをとおして、聖書に書かれているこの「ともに」という麗しい姿は、決して理想論、絵に描いた餅などではない、ここに実際にあるではないか、そうだ、こういう麗しい教会を、やがて自分は日本に立てる働きをしていかなくては・・・・・・私はずっと、そう願って、そしてここまでまいりました。  うちは小さな群れ、そう、イエスさまの十二弟子とどっこいどっこいの数ですが、イエスさまがあの12人、ユダを除いたら11人から、世界の福音化という壮大な御業を行われたように、主は私たちという共同体から、必ず大きな御業を起こしてくださると、信じて祈ってまいりましょう。アーメンでしょうか?  さあ、そこで私たちは、では、生い立ちも性格もみんなちがう私たちが、イエスさまを信じ、バプテスマを受けた、という、ただそのことにゆえに、この水戸第一聖書バプテスト教会という群れに集められているというならば、私たちはどのようにして、私たちが「ひとつ」であること、「ともに」生きる存在とされていることを味わい、感謝しようか? となるべきでしょう。 今日は、主の晩餐をともに囲む、麗しい主の日です。あらためて、私たちを一つにしてくださり、ともに生きる喜びに生かしてくださっている神さまをほめたたえつつ、主の晩餐に臨むにあたり、ひとつのみことばから学んでみたいと思います。 まず、表題からまいりましょう。都上りの歌、です。都とはエルサレムであり、神の御名の置かれた大いなる都です。神の民はこの都にて、大いなる礼拝を神さまにおささげします。その大いなる礼拝をささげるために、高い山の上にある町、エルサレムへと、文字どおり「上る」のです。 礼拝をささげるために「上る」、その先には、神の民がともに礼拝をささげている現場があります。そこに行くならば、神のすべての民が平等に、同じ喜びをもって御前に進み出ます。そして、この詩を詠んでいるのはダビデ、偉大な王さまです。ダビデは、民の中でも自分だけは王だから特別だ、という、傲慢な態度で御前に進み出るようなことはしませんでした。逆にダビデは、神の民イスラエルを代表する王として、率先して御前に出て礼拝をささげ、民もその姿に倣うように、模範を示しています。 この時点では、壮麗なエルサレム神殿は建てられていませんでした。それは、ダビデがその神殿建造の働きをすることを、神さまがお許しにならなかったからです。しかしダビデの心には、やがてエルサレムに神殿が建造され、いよいよ大いなる礼拝がささげられるようにという、壮大なビジョンが常にありました。彼はその働きを息子ソロモンに託し、神殿はエルサレムに建つというビジョンを胸に、天国に旅立ちました。 都上りは今日でいえば、私たちがこうして、遠近各地よりこの、茨城町長岡の礼拝堂に集まるようではないでしょうか。みなさん、わくわくしていますか? ともに礼拝をおささげできること、ともにお交わりできることに、喜びと期待を抱きつつ、今日、ここまでいらっしゃいましたか? いやが上にも盛り上がるために、いいことをお教えします。運転しながら、お祈りするのです。また、賛美をするのです。聖句を暗唱するのです。それは、私たちがキリストを主とし、神の霊に満たされるという歩みを実践することでもあります。マナーのひどいドライバーに遭遇して、つい、口から「ナントカカントカ!」と、悪口のひとつも飛び出しそうになるでしょうか? それは、礼拝に向かう姿として、いかにもふさわしくなりません。御霊に満たされましょう。その上で、車でいらっしゃるときに、お祈りする、賛美する、聖句を暗唱するといったことは、極めて有効な手段です。複数でいらっしゃるときは、もちろん、主にある交わりをしっかり持ちましょう。 さあ、そのように期待しつつ、ともに御前に行けるのは、なぜなのでしょうか? 1節です。そう、兄弟たちがひとつになってともに生きることは、最高に幸せなこと、そして、最高に楽しいことだからです。 この詩を詠んだダビデにとって、兄弟という存在は、もともと楽しいとか、幸せとか言える対象ではありませんでした。前に学びましたサムエル記第一16章、サムエルが、サウルに代わる王を立てるために、神さまによってエッサイの家に導かれたときのこと。エッサイには子どもが8人いましたが、サムエルに面会させたのは最初、上の7人でした。末っ子のダビデはあのサムエルさまに会わせてもらえるという大事な晴れの場に、最初は同席させてもらうことも許されなかったわけです。これでは、兄弟のうちでどんな扱いを受けていたかも、推して知るべきです。実際、詳しくは来週学びますが、ペリシテとの戦争に従軍していた上3人の兄たちから、ダビデは邪険に扱われています。 しかし、そんなダビデは後に、勲功を挙げつづけることに嫉妬したサウルにいのちを狙われ、放浪の旅の末、アドラムの洞穴に避難しました。すると、そこに彼の兄弟たち、父の家の者たちが集まってきたのでした。このとき、聖書の表現をそのまま引用すると、「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来た」のでした。この群れは400人の大部隊になりました。 兄たちはもはや、ダビデのことを邪険に扱ったり、いたずらに恐れたり、などしませんでした。ともに生きることに活路を見いだしたのです。ダビデもこうして始まった兄たちとの生活に、ようやく、ほんとうの意味で兄弟がひとつになってともに生きることの実際を、実感しつつ体験できたわけです。 アドラムのこの生活は、ダビデが肉の兄弟にはじまり、弱さを抱えている人たち、しかし、だからこそ神に拠り頼むことを目指す人たちと、主にある兄弟として共同体を形づくる、そういう、イスラエルの国家形成、民族形成の原点となったのでした。 私たちのことを考えましょう。いったい私たちのだれが、神と人の前に「しみじみしている」でしょうか? どこもかしこも病んでいて、傷だらけ、いいところなんてぜんぜんない、それが私たちではないでしょうか? しかし、神さまはそんな私たちのことを選んでくださり、私たちが神さまを愛することを、このようにここに集め、兄弟姉妹としてくださった、お互いを愛することによって、守り行えるようにしてくださったのでした。目に見える兄弟を愛してこそ、私たちは目に見えない神を愛するのです。 私たちは病んでいるから、傷ついているから、時にお互いの愛しにくさが感じられて、受け入れにくくなることもあります。そんなとき、私たちのすることは、この私こそ病んでいる、しかし神さまは、こんな私を愛し、受け入れてくださった、だから私も、少しでも、周りのだれかのことを愛せるようにしてください、愛しにくいあの人のことを愛せるようにしてください、そのように心からお祈りすることです。また、お互いがその、主の弟子としてふさわしい生き方ができるように、お互いのために祈ることです。 さあ、その、兄弟がともに生きる祝福を、ダビデはどのように表現していますでしょうか? 2節です。貴い油。これは、聖霊さまを象徴しています。この油が注がれた人は、祭司として、また、王として、聖別されている人ということです。 ダビデもかつて、油注がれた経験があります。先ほども申しました、エッサイの家にサムエルが訪問したとき、サムエルは野に出て羊を飼っていたダビデを呼びにやらせ、彼の頭に油を注ぎました。そんな、油注ぎという体験をしたダビデは、ひげにしたたるまで、服にしたたるまで、たっぷり聖霊の油注がれた、祭司の中の祭司、アロンの祝福を連想しています。この油注ぎとは、兄弟がともに生きる幸せ、また楽しさだというのです。 実は、先ほどのアドラムの洞穴の話に戻りますと、ダビデはアドラムの洞穴に身を隠す前、サウルの一味から逃れて、ガテの王アキシュのもとに身を避けました。しかし、ガテといえば、あのゴリヤテの出身地です。よりにもよってそんなところに身を避けてしまったダビデは、なお具合の悪いことに、こいつはイスラエルのあの有名なダビデですよ、と、家来たちの手によって、アキシュ王の前に引き出されてしまいました。 すると、ダビデはここで、大芝居を打ちました。頭がおかしいふりをして、柱に傷をつけたり、自分のひげによだれを垂らしたりしました。そう、このときダビデは、ひげという男の象徴、人間の尊厳を示すものを、あろうことか、そんなプライドもかなぐり捨ててでも自分の身を守るために、よだれでべとべとにして汚したのです。ダビデはこのとき、どれほどの絶望に陥っていたことでしょうか。彼は孤独でした。神からも見捨てられたと思ったことでしょう。 そんな彼を癒やしたものが、アドラムにはじまる、まことのイスラエルの共同体、神の民であったわけです。アロンを聖別してまことの祭司に立てた聖霊の油は、主の民という共同体の中に、豊かに流れ、民を潤すのです。 私たちは何者でしょうか? 第一ペテロ2章9節の語るとおりです。私たちは聖霊により聖別され、聖霊の満たしと導きをつねにいただいて、みことばを守り行うべく召されている存在です。私たちはその生き方、語ることばと行いをもって、周りにいるどんな人々に対しても、私たちを召してくださった神さまの素晴らしさを人々に伝えるのです。私たち共同体が聖霊の油注ぎを受けるだけではありません。その油注ぎを、私たちは人々へと流す使命が与えられています。 もうひとつ、この「兄弟たちが一つになってともに生きる幸せ、楽しさ」は、「ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ」とあります。これは、少し解説します。 ヘルモンというのは山の名前で、ダビデが統治した時代において、イスラエル領の最北端に聳えていました。ヘルモン山は、現在でいえばレバノンとシリアの国境にあります。標高は海抜2800メートルを超え、イスラエルから北の方を見ると、その山は一年中雪に覆われていて、イスラエルを見下ろすかのようです。私はインターネットで検索し、イスラエルからのその景色を見てみましたが、白く巨大なその峰々、その雄壮さはものすごいものがあります。言ってみれば、国と民族に伸べられた主の祝福を象徴する山と言えるでしょう。日本にとっての富士、茨城にとっての筑波、いや、それ以上の、民族に対する祝福の象徴。 この雪解けが結ぶ露、そして湧き水が、最終的にはヨルダン川になり、神の民を潤します。ついでに言えば、あのイエスさまの「変貌山」のできごとは、その前におけるイエスさまのご一行の旅程から考えて、「変貌山」はこの「ヘルモン山」であっただろうと考えられています。イスラエルの最高峰、もっとも天に近い場所ですから、天から降りてきたモーセとエリヤにイエスさまが会われるには、たしかにふさわしい場所です。 そうだとすると、このヘルモン山ほど、神の祝福を民に流す象徴としてふさわしい場所はありません。この麗しいヘルモン、天に由来するいのちの真清水を受けて、民の共同体を潤す。その祝福、真清水に潤される祝福は、兄弟がともに住むことにはじまります。 さて、それがなぜヘルモンの露のようか。それは、主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからだ、ということです。 面白い表現だと思いませんか? とこしえのいのちの祝福を、「命じる」なんですよ? これは、「とこしえのいのちの祝福を人々に分け与えるように命じる」という意味もさることながら、「とこしえのいのちを受ける祝福を命じる」、そして「とこしえのいのちを生きる祝福を命じる」ということになります。 とこしえのいのち、永遠のいのちというものを、イエスさまはヨハネの福音書17章3節で定義していらっしゃいます。これはどういうことか、説明します。人間はみな、もともとが、神から離れた罪人です。しかし人間には、生まれつき「宗教心」とでもいうべきものが備わっています。神を求める心です。問題は、その宗教心すらも、自己中心の罪に汚染されていて、私たちはいかに神を求めても、そこには自己中心の願望が投影されてしまっていて、正しい形で神さまを知り、神さまと交わることができなくなってしまっています。 だから私たちは、聖書のみことばをお読みすることによって、イエスさまというお方を通じて、正しい形で神さまを知り、神さまと交わる必要があります。実に聖書のみことばは、父なる神さまがご自身を証しされた、誤りなき不変の真理です。私たち人間はいかに求めても、まことの神さまに到達することはできません。ただ、神さまの側からご自身を啓示してくださっている、そのみことばを知り、そして学ぶことによって、私たちは初めて神さまに出会い、永遠のいのちを生きつづけることができます。 永遠のいのちって何でしょうか? 永遠に、まことのいのちである神さまとともに生きる、ということです。その生き方は、そのまことの神さまを神として生きる、主にある兄弟姉妹との交わりを持ちつづけること、ここからはじまりますし、またそのことによって、その生き方を体験しつづけることができます。私たちのこの存在、そして、主とともに生きる、主にあって交わる、この生き方をもって、人々にまことのいのち、とこしえのいのちを指し示してまいりましょう。

サマリアの女とは私たちのこと

聖書箇所:ヨハネの福音書4章1節~26節 メッセージ題目:サマリアの女とは私たちのこと  イエスさまのおことばやみわざを記録した四つの福音書には、おもに5種類の人間が登場します。まず、イエスさまのご家族。ヨセフやマリア、弟たち。次に、十二弟子をはじめとした弟子たち。また、イエスさまに群れなしてついてきたり、かと思うとイエスを十字架につけろなんて叫んでみたりする、群衆。また、イエスさまに敵対する宗教指導者や権力者。そして忘れてはならないのは、イエスさまが直接、目を留めてくださる存在です。多くの場合それは一人で、しかも弱い立場にある人です。女性であったり、異邦人であったり、障害を持っていたり、悪霊に取りつかれていたり。  今日の箇所に登場するのも、女性、「サマリアの女」として知られている、ひとりの女性です。彼女はとても不幸な人でした。それについては、のちほど詳しくお話しします。  イエスさまとその弟子の共同体は、バプテスマのヨハネにもまさって、人々にバプテスマを授けるようになりました。それは、自分が衰えてもイエスさまが盛んになることを願った、ヨハネの願いどおりでしたから、その点で問題はありませんでした。しかし、それにパリサイ人が目をつけました。気に入らないやつの芽は早く摘んでしまおう、といったところです。イエスさまはいかに迫害を受けるさだめといっても、犬死にをすべきだったわけではありません。別の場所に逃れてでも、神の国の福音をお語りになるのが、イエスさまのなさるべきことでした。  それでイエスさまは、ユダヤから見てはるか北の、ガリラヤに身を避けることにされました。しかし、ユダヤからガリラヤに行くには、その途中にあるサマリアを通らなければなりませんでした。  前にも「善きサマリア人のたとえ」についてのメッセージでお話ししましたが、サマリアはもともと、歴史的な理由により、人種的にも、宗教的にも、イスラエル人と異邦人が混じり合ってしまった地域です。そんな彼らのことを、宗教的純粋さを保つことに努めてきたユダヤ人は見下げ、毛嫌いしました。サマリア人も、自分たちが彼らからそのように見られていることはよくわかっていて、ユダヤ人とつき合おうとはしませんでした。要するに、ユダヤ人とサマリア人は対立していたのです。  そんなサマリアをユダヤ人が通るのは、本来ならば嫌なことです。避けたいことです。しかし、イエスさまは弟子たちとともに、サマリアの道を進んでいかれました。  イエスさまとその一行は、スカルという町に着きました。そこには、イスラエルの元締めなる先祖ヤコブゆかりの、由緒正しい井戸、「ヤコブの井戸」があり、イエスさまはその井戸端に腰を下ろされました。時は第六時、今の時刻でいえば午後12時、日も高く、暑いさなかでした。  そこに、ひとりの女の人が、水を汲みにやってきました。もちろん彼女はサマリア人です。この女性が「サマリアの女」です。  午後12時のような日の高い、暑い時間には、水汲みになど行ったりしないものです。行くなら、もっと涼しい時間です。そういう時間に水を汲む女たちは集まり、井戸端会議に花を咲かせます。しかし、この女性はどうも、その井戸端会議に加われない事情があった模様です。スカルの町の女たちの、仲間外れになっていた模様です。  イエスさまはこの女性をご覧になり、声をおかけになりました。「わたしに水を飲ませてください。」弟子たちは食べ物を買いに町中へ行っていたので、そこにはイエスさまと、この女性がいるだけでした。この男性、イエスさまがユダヤ人であることは、女性にはわかりました。  女性は驚きました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人がサマリア人とつき合いをしなかった事情については、さきほどお話ししたとおりです。そして、この地域も含め、2000年前の世界では、男尊女卑は当たり前でした。だから、サマリア人なのに、女なのに、親しく語りかけてくれる、しかもこの手から水がほしいと言ってくれる、いったい、このユダヤ人の男の人は、どんな人なのだろう……。彼女は不思議に思いました。  イエスさまはおっしゃいます。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」  イエスさまはいきなり、かなり難解なことをおっしゃいます。なぞかけ、とでもいうようなおことばです。しかし、イエスさまのおっしゃりたかったことは、こういうことです。あなたこそが、水を必要としているのです。その生ける水を、わたしがあなたに与えます。  しかし、彼女はきょとんとしてしまいます。イエスさまにお答えします。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」  一応申しますと、この「主よ」は、「私の主なる神さま」と呼びかけているわけではありません。この時点では彼女には、イエスさまのことを「主なる神さま」と信じるだけの信仰はありません。深い霊的な真理を教えてくれているようなこのユダヤ人男性に対し、彼女なりに一定の尊敬を込めて「主よ」と呼びかけていると理解してください。  彼女はもちろん、イエスさまがこの井戸から汲んでくれて、私にその水をくれるもの、と理解するわけです。しかしイエスさまは、汲むための桶も何も持っていらっしゃらないから、あれ? となります。  そして彼女は、それともあなたは、自分のことを、この深くて由緒ある井戸をイスラエルにくれた、ヤコブよりも偉いとでもいうのか? と尋ねます。それは、彼女が自分のことを、私はこの井戸から飲むイスラエルのひとりだ、ヤコブの子孫だ、いったいあなたは何者ですか、と主張することです。  しかし、イエスさまははっきりおっしゃいます。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」  イエスさまのこのみことば「この水を飲む人はみな、また渇きます」というみことばは、2つの意味があります。ひとつは、私たちが目で見て、手でさわれる、あの、水、これはいったん飲めばもう渇かない、なんてことはなく、飲んでも飲んでも渇くから飲まなければならない。そのように、この世の目に見えるもの、物質的なものは、私たちにとってのほんとうの渇きというものを、潤し、満たすことはできない、ということです。  もうひとつは、自分の血筋や民族がイスラエルだというアイデンティティ、あるいはプライドが、自動的にその人の飢え渇きを潤し、満たしてくれるわけではない、ということです。ユダヤから何と見られようと、イスラエルの一員であることにそれでも誇りを見出していたサマリアの女は、その誇りだけでは満たされず、飢え渇いていたのでした。  イエスさまはおっしゃいます。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてくださいます。  私たちは飢え渇きを満たすために、言い換えれば、心のむなしさや不安をごまかすために、いろいろなものに手を出してきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。あるいは、私たちの生まれ、家族、育ってきた、あるいは住んでいる町や地域、職場、どこの学校を出たか、そういうことで自分を支えようとしてきたかもしれません。しかし、満たされたのでしょうか。……ただ、イエスさまだけが、私たちの飢え渇きを満たしてあげようと、私たちに近づいてきてくださるのです。  サマリアの女性は、イエスさまとの対話のうちに、このお方こそ、ほんとうの水、生ける水をくださる方だと気づきはじめました。彼女は訴えます。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」  もしかするとこの女性は、まだこの時点で、イエスさまのおっしゃることのほんとうの意味が分からず、目に見える井戸から汲み出すような目に見えて手でさわれる、口から飲む水を欲しがっていたのかもしれません。しかし、このときの彼女のことばの端々(はしばし)には、すでに彼女の凄まじい飢え渇きが見て取れます。  「私が渇くことのないように」と言っています。彼女は、渇いていては苦しい、渇いていてはいけない、ということをよくわかっていました。単なる本能的以上のものとして、彼女は心底渇いていたのでした。  「ここに汲みに来なくてもよいように」とも言っています。彼女はたしかに、このヤコブの井戸から水を汲んで飲むことで、イスラエルの一員としてのアイデンティティ、またプライドを保ってはいました。しかし実際のところ、彼女はどうだったか。女たちの井戸端会議にさえ混ぜてもらえず、さびしく一人で暑いさなか、水汲みをするような身でした。民族全体が神の共同体であるべきイスラエルの一員でいるようで、共同体の生活をしているとはとてもいえない、さびしいわが身を、とてもみじめに思っていたのでした。そんなみじめな思いをしてまでして、水汲みになんて来る必要がなくなったなら、どんなにか素晴らしいだろうか。  彼女はイエスさまに水を求めました。しかし、イエスさまは彼女の中にその生ける水が湧き上がるために、ひとつ、取り扱わなければならない問題を示されます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」女性は答えます。「私には夫はいません。」  するとなんと、イエスさまはこんなことをお告げになりました。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」  イエスさまは全知全能の神さまです。彼女は目の前にいる人が、単なるユダヤ人の男性ではなく、天地万物を創造された全知全能の神さまであること、したがって、この方の語ることばを神のことば、真理のみことばとして受け取る必要がありました。そのことを彼女が知るうえで、イエスさまのこのおことばは充分に強烈です。だれもが隠しておきたいような問題を、あまりにも堂々と明らかにしたわけです。  イエスさまは、単に彼女の隠しておきたい状況を言い当てただけではありません。彼女が、神の民として神によって満たすべき飢え渇きを、男をとっかえひっかえすることによって満たそうとした、その間違った満たし方では決して満たされません、と、明らかになさったのでした。  そうです。彼女が、女たちの井戸端会議に交じれなかった事情が、これでわかります。彼女はきっと、ふしだらとか、あばずれとか、陰口をたたかれたことでしょう。だれにも相手にされません。相手にするのは、彼女のことを利用して欲望を満たそうとする、男の風上にも置けないやつらぐらいでしょう。もちろん、そんな男どもが、彼女の心の奥底の飢え渇きを満たせるはずなど、金輪際ありません。  果たして、サマリアの女はイエスさまのおことばに、恐れを抱きました。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」  まず彼女は、自分の秘密を言い当てたこのユダヤ人男性は、預言の力があることを認めました。この人は少なくとも、預言者にちがいない。彼女が言う、先祖たちが礼拝した「この山」とは、ゲリジム山という山で、聖書には申命記に最初に出てきます。ゲリジム山は神を礼拝する場所として、サマリア人の聖地として、大切にされてきました。しかし、この驚くべき預言者につながるユダヤにとっての礼拝すべき場所は、エルサレムであることは常識である。ならば、われわれサマリア人が大切にするゲリジム山と、この神の霊の宿る人が大切にするエルサレム、いったいどちらが、神さまを礼拝すべき場所としてふさわしいのだろうか? こうして彼女の関心は、神ご自身と、神さまを礼拝するということ、言い換えれば、まことの神さまに出会い、お交わりすることへと移っていきました。  イエスさまはおっしゃいます。「女の人よ、わたしを信じなさい。」福音書における「女の人よ」ということばは、高貴な立場にある婦人への呼びかけのことばです。日本語では何と訳すべきでしょうか?「貴婦人よ」もなんか変ですし、ふさわしい訳語がないのでわかりにくいところですが、とにかくこれは、高貴な立場の婦人への呼びかけのことばです。  ですからイエスさまはこのサマリアの女に対し、最高の呼びかけをなさっていることになります。ひとからふしだらとか、あばずれとか呼ばれて当たり前のような彼女は、神の御子、王の王、主の主なるイエス・キリストの御目には、どこまでも高貴な婦人なのです。あなたはわたしにとって大事な人なのです、だから、神であるわたしのことばを信じてください。  イエスさまのおことばは続きます。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」イスラエルの血を引く彼らは、神の民であることを誇りとし、そのアイデンティティを、聖なる場所と定めたところにて礼拝することに求めていました。しかし、ほんらい神にあってひとつであるべきイスラエルは、ゲリジム山で礼拝すべきだ、いや、エルサレムこそが本来の礼拝すべき場所だ、と、分裂し、対立しました。それをイエスさまは、どちらが正しい礼拝の場所であると主張する時代は、神であるわたしが終わらせる、と宣言なさったわけです。  ただし、イエスさまはこうもおっしゃいます。「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」つまり、このみことばにおいてイエスさまは、エルサレムにて礼拝するユダヤ人のことを、サマリア人に優先させていらっしゃいます。しかしそれは、サマリア人がユダヤ人に劣っている、という意味では決してありません。そうではなく、救い主は必ず、世界の歴史においてただひとり、この世界に送り込まれるが、それはユダヤ人である、だからユダヤ人はそのことを知って、神の御名の置かれるエルサレムを大切にして礼拝しているのだ、ということを、イエスさまはお語りになっているのです。  イエスさまのおことばは続きます。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」  御霊と真理によって父を礼拝する。御霊は聖霊ともいい、神の霊、もっといえば、神ご自身です。神ご自身なる御霊が、私たち人間をそのご主権によってとらえ、私たちをきよめ、礼拝者につくり変えてくださいます。そして、真理とは、神のみことばによってわれわれ人間に明らかにされた、誤りなき神のみこころ、変わることのない神のみこころ、絶対の神のみこころです。私たちはこの真理を、聖書のみことばによって知ることができます。言い換えれば、聖書のみことばが真理そのものです。  神さまがその霊により私たちにそのみこころを示し、私たちは神の偉大さを知り、その偉大さに近づかせなくしている私たちの罪を悟り、それを悔い改めることをもって、私たちは父なる神を礼拝します。いまおささげしているプログラムとしての礼拝の時間はもちろんのこと、御霊の導きによって真理のみことばを神と人の前に守り行うことで、神と神とする生き方、イエスを主とする生き方をもって、霊的な礼拝を、日常生活において、いついかなるときもおささげするのです。  神さまは、そのようにまことに礼拝する人、みこころにかなう礼拝をする人を、何よりも求めていらっしゃいます。だから、私たちクリスチャン、神の民の本分は、なによりも「礼拝」なのであると理解すべきです。  彼女のことばは続きます。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」ここで、彼女がほんとうに飢え渇いていたものとは、実は、メシアなるキリストだったことが明らかになります。イエスさまとの対話は、彼女の飢え渇きを何によって満たすべきか、正確な方向に導いていきました。  そして、イエスさまは決定的なひとことをおっしゃいます。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」  おわかりでしょうか? イエスさまがサマリアの女に向かって「わたしに水を飲ませてください」とおっしゃったのは、単に旅の疲れで水がほしかったからではなかったのです。わたしは、メシアとしてあなたを救うことに飢え渇いているのです。さあ、わたしの救いを受け取って、わたしの渇きを癒やしてください。イエスさまがおっしゃりたかったのは、そういうことです。  イエスさまは十字架におかかりになることで、私たちが罪人であるがゆえに私たちに注がれるべき神の怒りを身代わりに受ける、宥めの供え物としてご自身をささげてくださいました。イエスさまはそのようにして十字架の上で刻一刻と死んでゆかれるとき、「わたしは渇く」とおっしゃいました。イエスさまが十字架の上で、みからだがからからに渇くほど、その尊い血潮を流されたのは、私たちが神の御霊という生ける水に潤され、罪と死から救われた者として、永遠に神とともに生きるためでした。私たちが救われ、生きることに、かくもイエスさまは飢え渇いておられたのです。  私たちはサマリアの女のように、ふしだらなあばずれではない、と思っているうちは、私たちにとってイエスさまの十字架はまだリアルなものとなっていません。もっといえば、そう思っているうちは、イエスさまの十字架などまだ必要ではないと思っているのです。しかしそれは、イエスさまを主とする生き方をしていることにはなりません。そんなクリスチャン生活は、主権者なる神を不遜にも、この罪人のために利用しているにすぎないのです。  私たちに必要なのは、私こそサマリアの女だ、と認めることです。男どもに依存しなかろうと、何かに依存してしまっている私たち。スマホでしょうか、夜ふかしでしょうか、お酒でしょうか、ジャンクフードでしょうか。しかし、イエスさまはそんな私たち、イエスさまというお方というものがありながら、イエスさまのことなどほったらかしにしてしまい、その結果飢え渇きをいつまでたっても満たせないで苦しみつづける私たちに、近づいてくださり、「わたしに水を飲ませてくれ!」と言ってくださいます。私たちがその御声に応え、イエスさまと交わりはじめるとき、イエスさまも私もともに潤され、満たされるという、驚くべきことが起こりはじめます。  そして教会とは、イエスさまの与える水に自分たちが潤される、また、イエスさまの与える水に人々を潤す、そんな生き方をともに目指すために、ともにみことばを学び、愛し合い、励まし合い、祈り合う共同体です。この交わりを大切にするとき、私たちはこの世の何者も与えることのできない喜びに満たされます。そのような私たちになりますように祈りましょう。

思い煩わないでください

聖書箇所;ピリピ人への手紙4章4節~7節   メッセージ題目;思い煩わないでください  もう、お亡くなりになった方ですが、小坂忠さんというゴスペルシンガーの方は、「勝利者」という曲を作詞作曲し、歌っておられました。発表は1997年ですから、もうゴスペルシンガーとしても押しも押されもせぬベテランとなっての作品です。この曲は日本テレビの「誰も知らない泣ける歌」という番組で2008年10月に紹介されていて、知る人ぞ知るよい曲なのですが、もちろんゴスペルソングです。  この曲の中で繰り返し歌われるフレーズは、私たちの胸を打ちます。「勝利者はいつも 苦しみ 悩みながら それでも前に向かう」。そうです。私たちはローマ人への手紙8章のみことばが語るとおり、イエスさまを信じる信仰を持たせていただいて、神さまによって圧倒的な勝利者とならせていただいています。しかし、それなら悩むことなど何もないのか? いいえ、悩みます。この曲を発表された頃の、当の小坂忠さんにしても、その前の年に、長年デュエットを組んできた相棒、岩渕まことさんが独立していかれるということを体験され、苦しみ、悩みの中にあったことがうかがい知れます。  そんな、悩む私たち。思い煩ってしまう私たち。それでも聖書のみことばは、何も思い煩わないでください、と語ります。悩んでしまう私たちは、それでもそのような主のみこころに従順であるために、どのような心構えで生きる必要がありますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  今日の箇所でパウロは、ピリピの聖徒たちに、3つの勧めをしています。この勧めは、「~なさい」と、命令形になっています。  第一にパウロは、いつも主にあって喜ぶことを命令しています。4節のみことばです。  ピリピ人への手紙が、別名喜びの手紙であることはもう何度も申し上げています。この短い手紙の中に、実に16回も「喜び」とか「喜ぶ」ということばが繰り返されています。この4節のみことばに至っては、短い中で2度も「喜びなさい」と繰り返し命令しています。  パウロはこれだけ「喜ぶ」ということを強調して、なおここで「喜びなさい」と命じています。そうです、「主にあって喜ぶ」ということは、それだけ大事なことです。しかし、私たちはただ喜んでいるわけではありません。「主にあって」喜ぶことが命じられています。「主にあって喜ぶ」ことと、普通に喜ぶこととは、いったいどこがどう違うのでしょうか?  まず、この「いつも喜びなさい」という命令は、聖書の外の箇所にも登場します。テサロニケ人への手紙第一5章16節から18節、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことにおいて感謝しなさい、よく知られたみことばです。  しかし、みことばは一方で、真逆とも思えるようなことを語ってもいます。ヤコブの手紙には4章9節には、こうあります。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。ものすごいことばですが、これもみことばである以上、主からのご命令です。このヤコブの手紙のみことばのほうは、どう考えればよろしいのでしょうか?  これはやはり、前後のみことばから、その意味を知るべきです。前の節の8節ではこう語っています。……神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の人たち。心を清めなさい。  私たちは、主に近づくことがまず命令されています。なぜでしょうか? 私たちが主にお近づきすることは、主が喜んでくださることだからです。しかし一方で、私たちは主の御顔を避けて生きたくてたまらない、罪深く自己中心な存在です。厳しく命令されなければ、もはや主に近づこうとすら考えないほど堕落してしまっています。  主の御顔を避けてしまいたいという欲望は、善悪の知識の木の実を食べて、主の御顔を避けて逃げたアダムとエバの時代からすでに、人類の間で始まっていました。罪人である私たちは、神さまから身を避けたくて、避けたくて、たまらない、神さまになんて近づきたくない、近づいたりするもんか、そんな罪深い、堕落した存在になってしまっています。だからこそ私たち罪人は、主に近づきなさいという命令のことばに、あえて、無理にでも耳を傾け、いのちを得る必要があるのです。  しかし、私たちがなんとか主に近づいていのちを得ようとしても、その歩みを妨害するものがあります。それは、私たちの内側に巣食っている罪です。私たちは主に近づくことよりも、罪の暮らしのほうをまだ魅力的と感じて、罪にふけることをやめたくないのです。それほど私たちは罪深い存在です。  もし、罪にふけることをやめないならば、私たちは罪の中で滅びてしまいます。早い話が、死んでしまいます。しかし、神さまは私たちに「生きよ、なぜ死のうとするのか」と、愛の手を伸べてくださっています。その延ばされた御手を私たちは握る必要があります。  そのためにも、私たちは何としてでも、自分のうちにある罪の性質を除き去らなければなりません。心をきよくするのです。それでこそ私たちは、神さまのきよい御手を握ることができます。しかし、心をきよくすることは、自分の努力でなんとかなるものではありません。これもやはり、主の御前に出て行って、聖霊の導きと助けをいただきながら、罪の暮らしから救っていただくしかないことです。どうしても、神さまの御前に行くしかありません。それ以外に方法はありません。  だからこそ、私たちは罪と闘って七転八倒する必要があるわけです。私たちがまだ、罪の暮らしを慕い求める、罪にふけるその思いを、徹底的に切り落としていただく必要があります。それを切り落とすことは一時的には悲しいかもしれませんが、いのちを得るためには、なんとしてでも切り落とさなければなりません。そうです、喜ぶといっても、悲しみに変えるべき喜びとは、主の忌み嫌われる罪にふける喜びのことを指しているのであって、主にあって喜ぶ喜びではありません。  それでは、主にあって喜ぶ喜びとはどのようなものでしょうか? 実は、イエスさまがその喜びの本質を語っておられる箇所が聖書にあります。ヨハネの福音書、16章19節から24節のみことばです。  イエスさまはここで、イエスさまの弟子たちである私たちが受ける喜びについて語っていらっしゃいます。まず、イエスさまの十字架を経験する私たちは悲しみますが、やがてイエスさまの復活を経験して、私たちは喜びます。復活されたイエスさまは、もはや死なれることがありません。私たちの喜びは永遠に続くのです。  そしてその私たちの喜びが満ち満ちたものとなるときは、私たちが復活のイエスさまの御名によって、すべてのものを持っておられる御父に祈り求め、主のご栄光のゆえに与えられるときです。間違えてはなりません。私たちは自分がほしければ何でも、イエスさまの御名によって求めていいわけではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、そういう意味のことではありません。主が、私たちに必要と見ておられると、主にあって確信するものを求めるべきです。  その祈りが的を外しては、せっかくの祈りの時間が無駄になってしまいます。そうならないためには、どうすればいいでしょうか? 普段からみことばをお読みし、そしてお祈りすることです。教会において主にある交わりを兄弟姉妹と保ちながら、自分に対する主のみこころがどこにあるのか、ということを、よく知っておくことです。みこころがよくわからなければ、みことばをとおし、祈りをとおし、交わりをとおして、とにかくよく求める必要があります。そうすれば私たちは、みこころが何かを知ることができるようになります。  では、私たちは何を求める必要があるでしょうか? つい私たちは、お金とか、物とか、仕事の成果とか、そういうものを求めたりしてはいないでしょうか? もちろん、それはそれで大事です。必要ではないわけではありません。あればあるに越したことはありません。しかし、私たちが何よりも求めるべきは、「キリストに似た者となる」ことです。  キリストに似た者となることは、とても難しいことです。こればかりは、主の恵みがなければ不可能です。主が私たちに恵みを施してくださり、私たちをキリストに似た者としてくださることを祈り求めてまいりたいものです。私たちがキリストに似た者に変えられるならば、私たちには、愛やへりくだりやいつくしみといったすばらしい性質が増し加わってまいります。  そして、その取り組みは、ひとりの力でできるものではありません。教会という共同体において「ともに」取り組んでいくべきことです。  ともかくも、イエスさまの復活に思いを巡らし、主との祈りとみことばをとおした交わりによって、主のみこころにかなうように私たちを変えていただく……私たちはそのようにして、主にあって喜ぶものとされるのです。ともに主にあって喜ぶ喜びを体験してまいりましょう。  第二の命令です。パウロは、あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい、と命令しています。  寛容、ということについてともに考えてみたいと思います。コリント人への手紙第一の13章は「愛の章」として有名ですが、パウロが愛というものの性質をこの章において片っ端から列挙する箇所で、いちばん最初に挙げた愛の性質は、「愛は寛容である」ということです。そして聖書には、「神は愛です」ということばがあるとおり、この「愛」とは神さまのご性質そのものです。とすると、このみことばは、「神さまは寛容である」、「イエスさまは寛容である」ということになります。  イエスさまは、たしかに寛容なお方です。私たちは、神さまの正しい基準に満ちているこの聖書という本を手にしているならば、ついこの聖書のみことばを、人を罪に定め、さばくために用いてしまいがちなものです。しかし、私たちがもしそうしているならば、ほんとうにみことばの基準によって人をさばくことができるのは、イエスさまおひとりであるということを、忘れてしまっている、ということになります。  そのようにして人を罪に定める私たちも、さばき主としての権威をお持ちでありながら、じつは寛容なイエスさまによって、その人をさばく自己中心の罪を見過ごしにしていただいていることを、忘れてはなりません。イエスさまの寛容さは、人のすべての罪という罪を十字架の上で身代わりになって負われたということに、窮極的に現れています。  イエスさまの十字架を思うならば、私たちは人に対して寛容にならずにはいられないのではないでしょうか。ピリピ教会の聖徒たちが寛容であったのは、まさしく、イエスさまの十字架によって罪を赦していただいたことを知っていたからです。  私たちが世に語るべきは、さばきでしょうか、それとも愛でしょうか? このみことばにもありますが、主は近いのです。このみことばが語られてから2000年間、いまだにイエスさまが再臨されていないなどといって、多寡をくくってはなりません。すぐにでもイエスさまは再臨されると考えるべきです。  そのことを知るならば私たちは、救い主イエスさまを伝えずにはいられないでしょう。しかし、それなら私たちは、どのようにしてイエスさまを伝えるのでしょうか? ここではパウロは、あなたがたの寛容な心がすべての人に知られるようにしなさい、と語っています。  ここでも私たちは、キリストに似た者となることが求められています。世の中は、愛が冷え切っています。またとても暗いです。そのような世に対し、イエスさまの愛を現す生き方をするならば、私たちは人々を、永遠の滅びから永遠のいのちへと導く働きに、用いられることになるのです。  イエスさまの寛容さを現せるのは、イエスさまを心に受け入れている私たちだけです。世の人々は私たちを見て、十字架の上で窮極の寛容さを現されたイエスさまに出会うのです。世の人々がこの上なく寛容なイエスさまに出会えるように、用いられる私たちとなりますようにお祈りいたします。  第三の命令です。パウロは、思い煩わずに願い事を主に知っていただきなさいと命令しています。今日、いちばん強調したいメッセージでもあります。  6節のみことばです。……まずパウロは、思い煩ってはならない、と語っています。そう、私たちは、どうしても思い煩ってしまう存在です。私たちは生身の人間ですし、私たちが渡っているこの世もまた生(なま)ものです。だから私たちは、あれこれ悩むことは避けられないものです。  そういうわけで私たちは、漫画家のみなみななみさんの本のタイトルではありませんが、「信じてたって悩んじゃう」存在です。それでも主は私たちに、「何も思い煩うな」と招いておられます。  その招きの前に自分を差し出してみると、自分は普段、ほんとうにいろいろなことを思い煩っていることに気づかされるのではないでしょうか? なんでこんなことを悩んでいるのだろう? この問題はまだまだ、自分にとっては大きいなあ。  それでは、私たち神の子どもたちは、思い煩う代わりに何をするように招かれているでしょうか? 「願い事を神に知っていただく」ようにです。  しかし、私たちはこんなことを考えてはいないでしょうか? 「神さまは全知全能のお方だから、私が何を願っているか、もうご存知だ。祈る前から何でも知っている。」  それはたしかにそうにはちがいありません。しかし、だったら私たちは祈らなくていいのでしょうか? 祈らないことの言い訳にしてもいいのでしょうか?  私たちは祈りをことばにすることによって、神さまが私たちひとりひとりに実は何を願っていらっしゃるかを、具体的に知ることができます。あまりに肉的な祈り、自己中心の祈りは、聖霊さまが取り除かれます。そして、ほんとうにみこころにかなった祈りへと整えられ、ますますその祈りを、確信をもってささげるようになります。  願い事を主に知っていただく、祈るという行動は、「あらゆる場合に」とあるとおり、いつでも、どんなときでもです。そして「感謝をもってささげる祈りと願いによって」ささげます。だから私たちは、実際にことばにして祈る必要があります。  できればこのお祈りは、黙ってではなく、声に出してお祈りするとよいです。声に出すことで、私たちは自分が何を祈っているかがはっきりわかるようになります。  そして「感謝をもって」、これが大前提です。どういう感謝でしょうか? それは、「主よ、私の祈りを聴いてかなえてくださるお方でいらっしゃいますこと、感謝です」という、主への信頼に満ちた感謝です。私たちが思い煩わずに祈るには、主は必ず祈りをかなえてくださる、信頼すべきお方だと確信する必要があります。  7節のみことばは、そのように祈る者への約束です。お読みします。……すべての理解を超えた神の平安、お分かりでしょうか? 人がどんなに考えても、論理的に理解しようとしても、及びもつかないような平安です。  だから、どんな平安か、というより、だれが与えてくださる平安か、ということが大事になります。イエスさまは語っていらっしゃいます。ヨハネの福音書14章26節と27節です。……助け主なる聖霊が私たちのもとに送られることと、イエスさまが窮極の平安を与えてくださることが並べて述べられています。そうです、肉体をとられたイエスさまはここにともにおられなくても、神ご自身であられる聖霊がイエスさまから送られて、私たちとともにおられ、神さまだけが与えることのできる窮極の平安を与えてくださる……私たちは、三位一体の神さまがともに歩んでくださるすばらしい存在です。このことを忘れてはなりません。  時に私たちを取り巻く問題というものは、とても大きく見えることがあります。しかし、私たちの周りの問題と、主ご自身と、いったいどちらが大きいでしょうか? 言うまでもないでしょう。  私たちが不安や心配で心が押しつぶされそうになっているときも、主はともにいてくださり、私たちのことを心配してくださっています。私たちは、いつもともにいてくださる主と、いつでもともに歩ませていただいている、素晴らしい存在です。  私たちが喜ぶことが求められているのは、復活のイエスさまがいつでもともにいてくださり、私たちの祈りを聴いてくださるからです。私たちがその寛容な心を人々に知らせることが求められているのは、十字架の上で窮極の寛容を示してくださったイエスさまがすぐそばに来ておられるからです。私たちが思い煩わずに願い事を主に知っていただくことが求められているのは、私たちとともに歩んでくださる聖霊が私たちに窮極の平安を与えてくださるからです。  私たちは時に、神さまを見失って不安に陥ったり、心から喜びを失ったり、寛容さをなくしたりします。しかし、そんな私たちだということに気がついても、ああ、私って駄目だなあ、などと思わないでください。神さまは私たちのことを決して見捨てず、忍耐をもって、キリストの似姿に変わるように導いてくださっています。「思い煩わないでください。祈ってください。」神さまの御手にすがり、今日も主にあって喜びつつ歩んでまいりましょう。

一致を目指して歩むために

聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1~3   メッセージ題目;一致を目指して歩むために  男子校で思春期を過ごした私にはいまひとつわからないことですが、女性の方は集団になると、けんかがつきものとか? たまに聞いて戸惑います。  では、これが、みなが主にあって仲良くなることをともに目指す共同体である「教会」ならばどうでしょうか? それなら、女性どうしのけんかに周りが手を焼くことなどないものでしょうか? しかし……今日の本文を見てみると、ピリピ教会では、ユウオディアという人と、シンティケという人の間で、何かあったらしい。ということがわかります。4節を見ると、「彼女たち」、そう、これは「姉妹たち」どうしのけんかです。なんともはや、女の戦いは教会という場でも繰り広げられていたのでありました。  あえて申しあげるまでもないことですが、一般的に教会という共同体は、どちらかというと女性が多く集まる場所です。それだけに、こういう「女の戦い」という問題は、下手をするとついて回ることにもなりかねないわけです。だから私たち教会は、この問題を賢く取り扱うことが必要です。そうするにはどうすればいいか、そのようにして私たちがなお愛し合う共同体として成長するには何が必要か、今日の本文から、ともに見てまいりたいと思います。  と申しましても、ピリピ人への手紙は、ほかの箇所にも言えることですが、これこれこういうケースにはこう対処しなさい、といった、具体的な説明のようなことを書いているわけではありません。私たちがこの書簡から読み取るべきは、むしろ、その場合場合に応じた「態度」を、神さまと人々の前でどう取るべきか、という、心構えのあり方ではないでしょうか。私たち教会を取り巻く状況は、時代によっても、地域によっても、一つとして同じものはありません。みことばから教えられていかに具体的に適用するかは、私たちにかかっています。  1節のみことばです。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めていますでしょうか? お読みします。  パウロはピリピ教会のメンバーのことを、私の愛し慕う兄弟たち、と呼んでいます。この「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられています。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけです。  主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることです。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っている、その愛を体感しているから、そのように兄弟姉妹を愛したい。これこそ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みです。私たちはともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっています。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越えます。  またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し慕っていると語っています。ただ愛するのではありません、慕っているのです。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということです。特別な関係です。主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはだれかのことを「慕う」ことができるようになります。  愛するということなら、主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることです。しかし、慕うということは、特別な関係へと導き入れられている者がすることです。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたいと思います。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるでしょうか? もし、そのような存在がいらっしゃるならば、それはとても素晴らしいことです。その関係を大事にしていただきたいのです。  その愛し慕えるほどになる関係は、意識してはぐくむものです。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだ、その姿をご覧ください。ヨナタンの心が、ゴリヤテを倒したダビデにしっかり結びついたとき、ヨナタンはダビデに対し、ほんとうの王になるべきはじぶんではなく、ダビデだ、と確信しました。そのように確信したしるしとして、王子を王子ならしめているとさえいえる力の象徴、王子の武器をダビデにあげて、君こそイスラエルのために戦う牧者だ、と、宣言しました。このできごとは、ヨナタンが、よろいかぶとを身につけて剣を振るって戦ったことなど皆無だったダビデに、正しい武器の戦い方を伝授するために手取り足取りヨナタンが教えてあげたことを彷彿とさせます。  そのように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたいものです。しかしもしかしたら、私たちには、そこまで愛し慕う対象はいない、と思うかもしれません。もしそうでしたら、どうかその対象を心から慕い求めていただきたいのです。異性ではなく、男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めてまいりましょう。先週ですが、私は牧会についてあることでアドバイスがほしくて、同い年で大学時代から付き合いがあり、牧師としては先輩にあたる、武安先生という方に電話しました。愛知県で牧会しているので、距離的にはとても遠いのですが、いざというときには電話のやり取りをする仲、これ、愛し慕う関係だなあ、と思います。  1節に戻ります。パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばにも、ほかのピリピ書のみことばでもよく用いているように、「喜び」ということばを用いています。ピリピ人への手紙が喜びの手紙なのは、それはピリピ教会こそが、パウロの喜びそのものだったからです。  先ほどから申していますが、私たちに愛し慕う対象がいたとします。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるでしょうか? ちょっとためらってはしまわないでしょうか? まあ、あんまりそういうふうに表現することは日本ではふつうしませんからね。しかし、パウロは心からそう言えたのです。  そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びでした。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じです。私にとりましても、うちの娘たちは目に入れても痛くないほどかわいい存在です。親ばかと言われようと平気です。そのとおり、いかにも私は親ばかです。これは、子どもを持つ親ならば、だれしもそう思うのが自然でしょう。子どもを持つ者は、御父がご自身の子どもたちである私たちに向けられた愛を、そして、ひとり子イエスさまに向けられた愛を、ほんの少しでも体験できる、という、素晴らしいポジションにおります。  定説として、パウロは結婚していなかったことになっています。ということは、子どももいなかったことになります。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注ぎました。それは、ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったからです。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いています。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことですが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わります。  そしてふつう親ならば、喜んで子育てをします。子育ても大変な労力を必要としますが、親ならばその労を惜しみません。それは、子どもの存在そのものが喜びだからです。パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げました。それは、主を愛していたからですし、主から自分に割り当てられた羊の群れがたまらなく愛おしかったからです。羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げました。  子育てをするとき、問題になる場合があるとしたら、それは、子どものためにならず、親のエゴを押しつけてしまうような場合でしょう。子どもを過度に甘やかすことも、がみがみと叱りすぎることも、元をただせば子どものためを思ってしていることなのか、それとも親の自己満足のためにしていることなのか、よく考えてみる必要があります。私も偉そうなことは言えません。私も子どものためを思って行動しているようで、ほんとうのところ、親である自分の虚栄心のために子どもを操ろうとしているのではないか、問われる思いになることが多くあります。まだまだ、子どもの存在そのもので喜びを満たすことを、私は学ぶ必要があります。  パウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまりません。「冠」と呼んでさえいます。  頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンです。HTマークなら阪神ファン。間違っても、阪神ファンはYGマークの帽子はかぶりませんし、逆もまたしかり。 冠だったらどうでしょうか? ここでいう冠は、お祝いの時にかぶる花の冠、あるいは、マラソンの勝者がかぶるような月桂冠。栄光あふれて冠をかぶります。彼らは間違っても、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはなりません。 逆に言えば、マラソンの敗者とか、お祝いにふさわしくない人は、そういう冠をかぶってはいけません。当たり前です。しかし考えてみましょう。私たちは果たして、冠をかぶらせていただくにふさわしい人など、いるものでしょうか? みんな罪人ではないですか。ふさわしくないったらありゃしないわけです。そんな、ふさわしくない私たちが本来かぶるべきは、「灰」です。しかし、神さまは、私たちのことを、イエスさまの十字架をもって救ってくださいました。神さまご自身が救ってくださり、きよめてくださった存在に似合うものは「灰」ではないと、神さまは私たちに、灰の代わりに冠をかぶらせてくださいました。  そして、ここでパウロは、ピリピ教会を「(私の)冠」と呼んでいます。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのでしょうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出しましたが、そもそも、われら終わりの日の勝者を「月桂冠」を与えられるスポーツ選手に例えたのは、パウロです。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお開きください。 ……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べています。何のために自制するのでしょうか? コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その指導者としてふさわしくあるように自制するのです。また、何を目標とするのでしょうか? 信徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標です。その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さないのです。これぞ、牧者のあるべき姿です。 そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけです。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいますが、その冠がどんなものか、イメージできますでしょうか? パウロは、教会の兄弟姉妹であるとはっきり語りました。  救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのです。 私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っていますでしょうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ合い、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」です。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのです。 パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めています。教会は、締まりも必要ですし、秩序も必要です。創造主もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられています。 さて、そこでパウロは、ピリピ教会がしっかりと主にあって立つために、ひとつの提言をしています。2節、3節のみことばです。 まず2節からまいりましょう。ユウオディアとシンティケは、さきほども申しましたが、このピリピ教会の女性の信徒でした。しかも、このようにわざわざパウロが名前を出すくらいですから、教会に少なからぬ影響力を及ぼす姉妹だったと推測されます。ピリピ教会はルーツからして、紫布商人ルディアが創立メンバーでしたから、女性の力が大きかったことは充分考えられます。 そして、その姉妹たちが、「主にあって同じ思いになってください」と言われています。何があったのでしょうか? そうです、どうやら彼女たちは仲たがいをしていたか、ひとつの教会にありながら別々に行動していたか、そういう行動をしていたことで、その不一致が教会によくない影響を及ぼしていたのでした。 これは、ありえることです。聖徒というものはそれぞれが神さまとの交わりを持ち、示されるみことばも、それをそれぞれの生活に適用する方式も、みな異なっています。それは当然のことです。 そうは言いましても、そのように自分に示されたみこころが絶対だとばかりに振る舞い、ほかの兄弟姉妹がそれに同意しなかったり、従わなかったりしなかったら機嫌を悪くしたり、ひどいときには仲間をつくって教会を分裂に追い込んだり……そうなったら、教会は教会として立ち行かなくなります。 教会を健全に保つには、教会の中心メンバーが一致している必要があります。ただ、それぞれの性格や価値観のちがいのせいで一致できないでいるならば、そのちがいばかりに目を留めていると、いつまでたっても一致することはできません。 パウロは何と語っていますでしょうか? 「主にあって同じ思いになってください」と語っています。彼らはいろいろ一致できない点があるとしても、ひとつ、窮極的に一致している部分があります。それは、同じ主につながっている、ということです。それぞれが主との強力な交わりを保ち、その主との交わりを保ちつつお互いに近づいていけば、必ず一致できるわけです。私たちもこのような一致を目指す必要があります。そのためにもまず、主との交わりをしっかり保つ必要があります。そうすれば一致します。 そうは言いましても、パウロ自身も分裂というものを体験していました。宣教チームにいたマルコの処遇を巡って、自分にとっては師匠のような存在であったバルナバと対立し、その結果、別々のチームを組んで、まったくちがった場所でそれぞれが宣教することになりました。しかしこれは、一見すると分裂のようでも、その結果、バルナバとパウロ、それぞれ充分に有能なリーダーが率いる宣教チームが、これまでの「二倍」働いたことになるので、結局、素晴しい働きとなりました。 しかし、ユウオディアとシンティケの不一致の場合は、パウロとバルナバのような生産的なチーム解散をなんら生み出すものではない、これを放っておいたらピリピ教会は弱体化する一方だと、パウロは判断しました。どうしてもしかたなく不一致に陥ってしまった場合は、主のご介入と回復といやしを求めるのみですが、まずは私たちが、主と強力に結びついて、互いを自分よりもまさった存在であると心から思わせていただいて、互いに一致していくべく努める必要があります。 3節には、特定の人物が匿名で登場します。この手紙を優先的に受け取って読めるポジションにあった、パウロなきあとのピリピ教会の中心人物でしょう。この人物にパウロは、ユウオディアとシンティケが主にあって正しい歩みができるように、助けてあげてほしい、と懇願しています。それは、クレメンスをはじめ、パウロの同労者たちとともに、福音を広めるために力を合わせて戦ってくれたからだ、というわけです。 みことばを宣べ伝える働きに献身するのは、実に素晴らしいことです。しかし、そのような熱心な働き人には、罠が待ち受けています。その宣教の働きの結果、例えば人が信仰告白に導かれてバプテスマを受けるとか、人が新たに働き人として献身するとか、そのような目に見える実を結んだ場合、それが自分の手柄のように思いこんでしまう、ということです。そうなった場合、自分の学んだ神学こそ素晴らしく、自分の身に着けている宣教のスキルこそ素晴らしいという、ともすればほかの働き人を認めない、独善的な考えに陥ってしまいます。 ユウオディアとシンティケも、宣教という働きのためにパウロと心をひとつにして戦い、多くの実を見ました。そんな大事な働き人だけに、くれぐれも主にあって一致することを忘れないでほしい……そのようにパウロは語っています。 私たちは、お互いが素晴らしい働き人です。ここでパウロが語っているユウオディアとシンティケは、いまここにいる私たち全員です。パウロが愛してやまないピリピ教会は、いまここにいる私たちです。私たちも主にあって一致することが求められています。 さて、あらためて1節に戻ります。パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのでしょうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのでした。 そうです、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまです。それほど私たちはイエスさまに愛され、慕われてています。イエスさまはいつも、私たちのことを思っていてくださいます。だからイエスさまは私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださいます。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださいます。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを飾るのです。その日を目指して、今日も進むのみです。 そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在です。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができるのです。なんと麗しいことでしょうか。 私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合うような気持ちで、今日も、そしてこれからも、私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、ともに歩んでまいりましょう。