聖書箇所;ピリピ人への手紙4:1~3
メッセージ題目;一致を目指して歩むために
男子校で思春期を過ごした私にはいまひとつわからないことですが、女性の方は集団になると、けんかがつきものとか? たまに聞いて戸惑います。
では、これが、みなが主にあって仲良くなることをともに目指す共同体である「教会」ならばどうでしょうか? それなら、女性どうしのけんかに周りが手を焼くことなどないものでしょうか? しかし……今日の本文を見てみると、ピリピ教会では、ユウオディアという人と、シンティケという人の間で、何かあったらしい。ということがわかります。4節を見ると、「彼女たち」、そう、これは「姉妹たち」どうしのけんかです。なんともはや、女の戦いは教会という場でも繰り広げられていたのでありました。
あえて申しあげるまでもないことですが、一般的に教会という共同体は、どちらかというと女性が多く集まる場所です。それだけに、こういう「女の戦い」という問題は、下手をするとついて回ることにもなりかねないわけです。だから私たち教会は、この問題を賢く取り扱うことが必要です。そうするにはどうすればいいか、そのようにして私たちがなお愛し合う共同体として成長するには何が必要か、今日の本文から、ともに見てまいりたいと思います。
と申しましても、ピリピ人への手紙は、ほかの箇所にも言えることですが、これこれこういうケースにはこう対処しなさい、といった、具体的な説明のようなことを書いているわけではありません。私たちがこの書簡から読み取るべきは、むしろ、その場合場合に応じた「態度」を、神さまと人々の前でどう取るべきか、という、心構えのあり方ではないでしょうか。私たち教会を取り巻く状況は、時代によっても、地域によっても、一つとして同じものはありません。みことばから教えられていかに具体的に適用するかは、私たちにかかっています。
1節のみことばです。パウロはここで、ピリピ教会の兄弟姉妹のことをどのように呼び、また、どのようなことを勧めていますでしょうか? お読みします。
パウロはピリピ教会のメンバーのことを、私の愛し慕う兄弟たち、と呼んでいます。この「愛」は、主の愛を現す「アガペー」から来ることばが用いられています。主が愛しておられるように、私はあなたがたを愛します、と語っているわけです。
主が愛されるように、教会の兄弟姉妹を愛する。このことは、主の愛を知る者だけができることです。主がどのように自分のことを愛してくださっているか知っている、その愛を体感しているから、そのように兄弟姉妹を愛したい。これこそ、私たちクリスチャンの歩むべき歩みです。私たちはともに主に愛されているどうし、主の愛がどんなにすばらしいか、わかっています。その愛をもって互いに愛し合う……この愛は、民族や言語や国境を越えます。
またパウロは、ただ愛するだけではない、愛し慕っていると語っています。ただ愛するのではありません、慕っているのです。慕うということは、そばにいたくてたまらない、ということです。特別な関係です。主が、ただ愛するにとどまらず、「慕う」関係へと導き入れてくださってはじめて、クリスチャンはだれかのことを「慕う」ことができるようになります。
愛するということなら、主の愛の与えられたどうしならばだれでもできることです。しかし、慕うということは、特別な関係へと導き入れられている者がすることです。そこで私たちは、自分の身の周りの人間関係を考えてみたいと思います。私たちには主にあって「愛し慕っている」といえる存在が、いったいどれくらいいるでしょうか? もし、そのような存在がいらっしゃるならば、それはとても素晴らしいことです。その関係を大事にしていただきたいのです。
その愛し慕えるほどになる関係は、意識してはぐくむものです。ダビデがヨナタンとの友情をはぐくんだ、その姿をご覧ください。ヨナタンの心が、ゴリヤテを倒したダビデにしっかり結びついたとき、ヨナタンはダビデに対し、ほんとうの王になるべきはじぶんではなく、ダビデだ、と確信しました。そのように確信したしるしとして、王子を王子ならしめているとさえいえる力の象徴、王子の武器をダビデにあげて、君こそイスラエルのために戦う牧者だ、と、宣言しました。このできごとは、ヨナタンが、よろいかぶとを身につけて剣を振るって戦ったことなど皆無だったダビデに、正しい武器の戦い方を伝授するために手取り足取りヨナタンが教えてあげたことを彷彿とさせます。
そのように、私たちも大事な人との慕い慕われる交わりをとおして、主にある愛をはぐくんでいきたいものです。しかしもしかしたら、私たちには、そこまで愛し慕う対象はいない、と思うかもしれません。もしそうでしたら、どうかその対象を心から慕い求めていただきたいのです。異性ではなく、男性は男性の、女性は女性の、それぞれ慕う対象を祈り求めてまいりましょう。先週ですが、私は牧会についてあることでアドバイスがほしくて、同い年で大学時代から付き合いがあり、牧師としては先輩にあたる、武安先生という方に電話しました。愛知県で牧会しているので、距離的にはとても遠いのですが、いざというときには電話のやり取りをする仲、これ、愛し慕う関係だなあ、と思います。
1節に戻ります。パウロは、ピリピ教会のメンバーを指すことばにも、ほかのピリピ書のみことばでもよく用いているように、「喜び」ということばを用いています。ピリピ人への手紙が喜びの手紙なのは、それはピリピ教会こそが、パウロの喜びそのものだったからです。
先ほどから申していますが、私たちに愛し慕う対象がいたとします。しかし、その人に、「あなたは私の喜びです!」と言えるでしょうか? ちょっとためらってはしまわないでしょうか? まあ、あんまりそういうふうに表現することは日本ではふつうしませんからね。しかし、パウロは心からそう言えたのです。
そう、パウロにとって、ピリピ教会は存在そのものが喜びでした。これはちょうど、親にとって子どもが、目に入れても痛くない、存在そのものが素晴らしいのと同じです。私にとりましても、うちの娘たちは目に入れても痛くないほどかわいい存在です。親ばかと言われようと平気です。そのとおり、いかにも私は親ばかです。これは、子どもを持つ親ならば、だれしもそう思うのが自然でしょう。子どもを持つ者は、御父がご自身の子どもたちである私たちに向けられた愛を、そして、ひとり子イエスさまに向けられた愛を、ほんの少しでも体験できる、という、素晴らしいポジションにおります。
定説として、パウロは結婚していなかったことになっています。ということは、子どももいなかったことになります。しかしパウロは、実の親が子どもに注ぐのと同じように、心からの愛情をピリピ教会に注ぎました。それは、ピリピ教会の存在そのものが、パウロにとって限りなく愛おしかったからです。パウロはしばしば、自分が信仰に導き、訓練した信徒について「産んだ」という表現を用いています。産む、ということは、出産を経験された婦人の方ならどなたもご存知のとおり、とても大変なことですが、いざ生まれると、その苦しみは途方もない喜びに変わります。
そしてふつう親ならば、喜んで子育てをします。子育ても大変な労力を必要としますが、親ならばその労を惜しみません。それは、子どもの存在そのものが喜びだからです。パウロも迫害を逃れつつ労苦して人を信仰告白に導き、どんな迫害にも耐えられるだけの信仰を持つように鍛え上げました。それは、主を愛していたからですし、主から自分に割り当てられた羊の群れがたまらなく愛おしかったからです。羊は弱いままでいてはならない、蛇のさとさと鳩の素直さを身に着けさせ、狼の群れにも勝てるようにと、羊の群れをこの上なく強力に育て上げました。
子育てをするとき、問題になる場合があるとしたら、それは、子どものためにならず、親のエゴを押しつけてしまうような場合でしょう。子どもを過度に甘やかすことも、がみがみと叱りすぎることも、元をただせば子どものためを思ってしていることなのか、それとも親の自己満足のためにしていることなのか、よく考えてみる必要があります。私も偉そうなことは言えません。私も子どものためを思って行動しているようで、ほんとうのところ、親である自分の虚栄心のために子どもを操ろうとしているのではないか、問われる思いになることが多くあります。まだまだ、子どもの存在そのもので喜びを満たすことを、私は学ぶ必要があります。
パウロはこのピリピ教会を、ただ愛し慕い、喜ぶにとどまりません。「冠」と呼んでさえいます。
頭にかぶるものは、その人が何者であるかを象徴します。プロ野球のチームの帽子ならば、そのチームのファンであることを誇りにしている人という意味合いを持ちます。YGマークの帽子をかぶれば、その人は巨人ファンです。HTマークなら阪神ファン。間違っても、阪神ファンはYGマークの帽子はかぶりませんし、逆もまたしかり。
冠だったらどうでしょうか? ここでいう冠は、お祝いの時にかぶる花の冠、あるいは、マラソンの勝者がかぶるような月桂冠。栄光あふれて冠をかぶります。彼らは間違っても、晴れの舞台で庶民のかぶるような帽子をかぶってはなりません。
逆に言えば、マラソンの敗者とか、お祝いにふさわしくない人は、そういう冠をかぶってはいけません。当たり前です。しかし考えてみましょう。私たちは果たして、冠をかぶらせていただくにふさわしい人など、いるものでしょうか? みんな罪人ではないですか。ふさわしくないったらありゃしないわけです。そんな、ふさわしくない私たちが本来かぶるべきは、「灰」です。しかし、神さまは、私たちのことを、イエスさまの十字架をもって救ってくださいました。神さまご自身が救ってくださり、きよめてくださった存在に似合うものは「灰」ではないと、神さまは私たちに、灰の代わりに冠をかぶらせてくださいました。
そして、ここでパウロは、ピリピ教会を「(私の)冠」と呼んでいます。なぜパウロは彼らのことを「冠」と呼んだのでしょうか? いま、マラソンの勝者に与えられる「月桂冠」のことを例に出しましたが、そもそも、われら終わりの日の勝者を「月桂冠」を与えられるスポーツ選手に例えたのは、パウロです。コリント人へ第一の手紙、9章の24節から27節をお開きください。
……パウロは、朽ちない冠を受けるためにあらゆる自制をし、目標の定まった闘いをすると述べています。何のために自制するのでしょうか? コリント教会やピリピ教会のような教会を形成するために、その指導者としてふさわしくあるように自制するのです。また、何を目標とするのでしょうか? 信徒を整えて奉仕の働きをさせ、教会全体をキリストの満ち満ちた身たけにまで成長させる、ことばを変えれば、キリストの似姿へと成長させるという目標です。その教会の成長という目標のために、あらゆる闘いも辞さないのです。これぞ、牧者のあるべき姿です。
そのようにしてこの世の闘いを闘いおおせて受けるわが勝利の冠、それが、あなたがた教会だというわけです。私たちは終わりの日に勝利の冠を受けるということをみことばから学んでいますが、その冠がどんなものか、イメージできますでしょうか? パウロは、教会の兄弟姉妹であるとはっきり語りました。
救い主キリストを宣べ伝えて人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちの素晴らしさを生涯体験すべく訓練する。そのようにして、天国の民、キリストの似姿とされた人たちの存在、それが、世の終わりに永遠に王とされる者にとっての、朽ちることのない栄光なのです。
私たちはお互いのことを「冠」と信じて教会生活を送っていますでしょうか? お互いがお互いにみことばの恵みを語り、成長させられ合い、ともにキリストの似姿へと変えられていくならば、この教会の兄弟姉妹こそ、私たちを王ならしめ、勝利者ならしめる「冠」です。お互いがお互いにとって、とても大事な存在なのです。
パウロは、以上述べてきたように、ピリピ教会の信徒たちは何よりも大事な存在だからこそ、「主にあって堅く立ってください」と勧めています。教会は、締まりも必要ですし、秩序も必要です。創造主もキリストも認めたがらないこの世にあって、キリストが生きておられること、信じ受け入れるべきお方であることをしっかりと証しする使命が教会に与えられています。
さて、そこでパウロは、ピリピ教会がしっかりと主にあって立つために、ひとつの提言をしています。2節、3節のみことばです。
まず2節からまいりましょう。ユウオディアとシンティケは、さきほども申しましたが、このピリピ教会の女性の信徒でした。しかも、このようにわざわざパウロが名前を出すくらいですから、教会に少なからぬ影響力を及ぼす姉妹だったと推測されます。ピリピ教会はルーツからして、紫布商人ルディアが創立メンバーでしたから、女性の力が大きかったことは充分考えられます。
そして、その姉妹たちが、「主にあって同じ思いになってください」と言われています。何があったのでしょうか? そうです、どうやら彼女たちは仲たがいをしていたか、ひとつの教会にありながら別々に行動していたか、そういう行動をしていたことで、その不一致が教会によくない影響を及ぼしていたのでした。
これは、ありえることです。聖徒というものはそれぞれが神さまとの交わりを持ち、示されるみことばも、それをそれぞれの生活に適用する方式も、みな異なっています。それは当然のことです。
そうは言いましても、そのように自分に示されたみこころが絶対だとばかりに振る舞い、ほかの兄弟姉妹がそれに同意しなかったり、従わなかったりしなかったら機嫌を悪くしたり、ひどいときには仲間をつくって教会を分裂に追い込んだり……そうなったら、教会は教会として立ち行かなくなります。
教会を健全に保つには、教会の中心メンバーが一致している必要があります。ただ、それぞれの性格や価値観のちがいのせいで一致できないでいるならば、そのちがいばかりに目を留めていると、いつまでたっても一致することはできません。
パウロは何と語っていますでしょうか? 「主にあって同じ思いになってください」と語っています。彼らはいろいろ一致できない点があるとしても、ひとつ、窮極的に一致している部分があります。それは、同じ主につながっている、ということです。それぞれが主との強力な交わりを保ち、その主との交わりを保ちつつお互いに近づいていけば、必ず一致できるわけです。私たちもこのような一致を目指す必要があります。そのためにもまず、主との交わりをしっかり保つ必要があります。そうすれば一致します。
そうは言いましても、パウロ自身も分裂というものを体験していました。宣教チームにいたマルコの処遇を巡って、自分にとっては師匠のような存在であったバルナバと対立し、その結果、別々のチームを組んで、まったくちがった場所でそれぞれが宣教することになりました。しかしこれは、一見すると分裂のようでも、その結果、バルナバとパウロ、それぞれ充分に有能なリーダーが率いる宣教チームが、これまでの「二倍」働いたことになるので、結局、素晴しい働きとなりました。
しかし、ユウオディアとシンティケの不一致の場合は、パウロとバルナバのような生産的なチーム解散をなんら生み出すものではない、これを放っておいたらピリピ教会は弱体化する一方だと、パウロは判断しました。どうしてもしかたなく不一致に陥ってしまった場合は、主のご介入と回復といやしを求めるのみですが、まずは私たちが、主と強力に結びついて、互いを自分よりもまさった存在であると心から思わせていただいて、互いに一致していくべく努める必要があります。
3節には、特定の人物が匿名で登場します。この手紙を優先的に受け取って読めるポジションにあった、パウロなきあとのピリピ教会の中心人物でしょう。この人物にパウロは、ユウオディアとシンティケが主にあって正しい歩みができるように、助けてあげてほしい、と懇願しています。それは、クレメンスをはじめ、パウロの同労者たちとともに、福音を広めるために力を合わせて戦ってくれたからだ、というわけです。
みことばを宣べ伝える働きに献身するのは、実に素晴らしいことです。しかし、そのような熱心な働き人には、罠が待ち受けています。その宣教の働きの結果、例えば人が信仰告白に導かれてバプテスマを受けるとか、人が新たに働き人として献身するとか、そのような目に見える実を結んだ場合、それが自分の手柄のように思いこんでしまう、ということです。そうなった場合、自分の学んだ神学こそ素晴らしく、自分の身に着けている宣教のスキルこそ素晴らしいという、ともすればほかの働き人を認めない、独善的な考えに陥ってしまいます。
ユウオディアとシンティケも、宣教という働きのためにパウロと心をひとつにして戦い、多くの実を見ました。そんな大事な働き人だけに、くれぐれも主にあって一致することを忘れないでほしい……そのようにパウロは語っています。
私たちは、お互いが素晴らしい働き人です。ここでパウロが語っているユウオディアとシンティケは、いまここにいる私たち全員です。パウロが愛してやまないピリピ教会は、いまここにいる私たちです。私たちも主にあって一致することが求められています。
さて、あらためて1節に戻ります。パウロはどんな思いをこめて、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と、ピリピ教会に呼び掛けたのでしょうか? それは、自身が告白したとおり、キリストが心のうちに生きておられるゆえに、キリストの心を持ってそう呼びかけたのでした。
そうです、私たちのことを「わたしの愛し慕う兄弟たち、わたしの喜び、冠よ」と呼んでくださるのは、イエスさまです。それほど私たちはイエスさまに愛され、慕われてています。イエスさまはいつも、私たちのことを思っていてくださいます。だからイエスさまは私たちのことを、ご自身のひとみのように守ってくださいます。そして、可愛い子には旅をさせよということわざのように、冒険の生涯を通して私たちを鍛え、キリストの似姿へと変えてくださいます。終わりの日には、私たちが王の王なるイエスさまを飾るのです。その日を目指して、今日も進むのみです。
そして私たちもまた、心のうちにキリストが生きている存在です。だからこそ私たちもお互いに対して心から、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ! と言うことができるのです。なんと麗しいことでしょうか。
私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そうお互いに呼びかけ合うような気持ちで、今日も、そしてこれからも、私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、ともに歩んでまいりましょう。